■車椅子体験
わたしの授業のある科目で、介護実習の実技を2コマやっている。授業はそれを専攻の先生にお願いして、私も学生の立場になって一緒に実技をやる。2コマなので介護の基本の内容を、学生どうし介護をする立場とされる立場になって進行させる。
わたしは車椅子に乗る体験をした。視野に入る風景が変わり、いつも気づかない地面のちょっとした段差や傾斜が気になる。気になるだけではなく、それが小さなことではないことに気づく。押している人に委ねているので、動く早さや曲がるときのなど、相当な気遣いをされなければ、乗っていている者は不安になる。
わたしがかつて車椅子を押したとき、技術がなかったのとそれをもとにした気遣いのたりなさを思い起こしたのだった。もう車椅子を押す機会がないだろうか、と悔いた。
それにベビーカーを押すのも、この車椅子を押す技術を習得した方がよい。子どもにあった速さ、段差や曲がり角のときに、子どもの気持ちに配慮した動かし方は必要である。
人によっては、ベビーカーを先頭にさせて、道路状況によってはあたかも人ごみをかき分けるかのように押している人を見かける。荷物運びではないのだから、べビーカーの先頭も自分の体の一部ぐらいに考えた方がよさそうである。
これもわたしは自問して、過去を悔いたのだ。
車椅子やベビーカーを押すのは、力仕事ではなく同伴者としてのコミュニケーションなのである。人間に心地よい技術がともなって、それが可能になることを痛感したのだった。
■パソコンが障害者のコミュニカーションと知的生産の技術に
授業で、これまで聴覚障害者の学生と何人か出会った。口話法を少しでも出来る場合は面談も可能だが、手話だけの人の場合は筆談になる。しかしある学生とは、1回だけ会って筆談によるコミュニケーションをしたが、その後はすべてパソコンでのやり取りをした。
短い文章の添削をすることにして、3年ほどメールでのやり取りが続いた。その人の場合、文章の構成と助詞の使い方が改善されていった。
現在もたまに相談事のメールが入ることがあり、パソコンという機器によってコミュニケーションができる。それに知的生産の技術向上の力として、パソコンは欠かせないものになっている。
今年は授業に全盲の学生がいる。直接会ったときに会話もするが、パソコンがコミュニケーションの力になっている。パソコンによって点字を介さない学習を可能にしているという点で、全盲の人にとって画期的な知的生産の技術の力になっている。点字の場合は、他人を介するためタイムラグが生じ、しかも膨大な量なので図書館等の場所が必要で情報量も限られていた。
授業中の課題はその場の提出ではなく、パソコンで送られて来る。わたしの連絡はパソコンで送ると音声化されるので、文字によるコミュニケーションができる。
また、わたしがつくった15ページほどの資料は、点訳をすることなくパソコンで送った。彼はそれを音声化させながら聞いて学習するので、他の人を介さないで勉強が出来る。実習の場合の日誌等の記録も、パソコンで書いたものをプリントアウトしてそれを提出すればよいのである。
調べものをする場合では、パソコンの辞典(事典)や公的機関のHPを利用すると、音声化されたものに接触できる。かつてのように、大勢のボランティアによる点訳された膨大な量の点訳されたものと格闘する必要はないのである。
わたしの授業のある科目で、介護実習の実技を2コマやっている。授業はそれを専攻の先生にお願いして、私も学生の立場になって一緒に実技をやる。2コマなので介護の基本の内容を、学生どうし介護をする立場とされる立場になって進行させる。
わたしは車椅子に乗る体験をした。視野に入る風景が変わり、いつも気づかない地面のちょっとした段差や傾斜が気になる。気になるだけではなく、それが小さなことではないことに気づく。押している人に委ねているので、動く早さや曲がるときのなど、相当な気遣いをされなければ、乗っていている者は不安になる。
わたしがかつて車椅子を押したとき、技術がなかったのとそれをもとにした気遣いのたりなさを思い起こしたのだった。もう車椅子を押す機会がないだろうか、と悔いた。
それにベビーカーを押すのも、この車椅子を押す技術を習得した方がよい。子どもにあった速さ、段差や曲がり角のときに、子どもの気持ちに配慮した動かし方は必要である。
人によっては、ベビーカーを先頭にさせて、道路状況によってはあたかも人ごみをかき分けるかのように押している人を見かける。荷物運びではないのだから、べビーカーの先頭も自分の体の一部ぐらいに考えた方がよさそうである。
これもわたしは自問して、過去を悔いたのだ。
車椅子やベビーカーを押すのは、力仕事ではなく同伴者としてのコミュニケーションなのである。人間に心地よい技術がともなって、それが可能になることを痛感したのだった。
■パソコンが障害者のコミュニカーションと知的生産の技術に
授業で、これまで聴覚障害者の学生と何人か出会った。口話法を少しでも出来る場合は面談も可能だが、手話だけの人の場合は筆談になる。しかしある学生とは、1回だけ会って筆談によるコミュニケーションをしたが、その後はすべてパソコンでのやり取りをした。
短い文章の添削をすることにして、3年ほどメールでのやり取りが続いた。その人の場合、文章の構成と助詞の使い方が改善されていった。
現在もたまに相談事のメールが入ることがあり、パソコンという機器によってコミュニケーションができる。それに知的生産の技術向上の力として、パソコンは欠かせないものになっている。
今年は授業に全盲の学生がいる。直接会ったときに会話もするが、パソコンがコミュニケーションの力になっている。パソコンによって点字を介さない学習を可能にしているという点で、全盲の人にとって画期的な知的生産の技術の力になっている。点字の場合は、他人を介するためタイムラグが生じ、しかも膨大な量なので図書館等の場所が必要で情報量も限られていた。
授業中の課題はその場の提出ではなく、パソコンで送られて来る。わたしの連絡はパソコンで送ると音声化されるので、文字によるコミュニケーションができる。
また、わたしがつくった15ページほどの資料は、点訳をすることなくパソコンで送った。彼はそれを音声化させながら聞いて学習するので、他の人を介さないで勉強が出来る。実習の場合の日誌等の記録も、パソコンで書いたものをプリントアウトしてそれを提出すればよいのである。
調べものをする場合では、パソコンの辞典(事典)や公的機関のHPを利用すると、音声化されたものに接触できる。かつてのように、大勢のボランティアによる点訳された膨大な量の点訳されたものと格闘する必要はないのである。
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