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絵本と児童文学

絵本と児童文学、子ども、保育、サッカーなどの情報を発信する

1年生になって

2007-06-03 14:45:49 | 子どもからの発見
 海は1年生になった。幼稚園とは異なる学校という文化に慣れつつあるようである。通学は7時50分に家を出て、近くのマンションに集合する。ランドセルに黄色いカバーをし、黄色い帽子をかぶる。日本の平均的入学当初の1年生である。
 一人で歩いている後ろ姿は、そろりそろりといった感じである。気持ちは何かをさぐっいるようで、初々しいといえばそう見えないこともないが、板につくぐらい慣れるのは2学期からなのだろう。
 1年生は3組あって、32人なので名前は覚えられないとのこと。ポケモンの○○をうまく描ける人がいる。2時間目と3時間目の間と給食の後に遊び時間がある、といって説明をしてくれた。遊びのことを説明するのは、幼稚園との違いを話したいということか。5月中旬ぐらいに、その辺のことが他人にしゃべられるぐらいなったようである。それまでは学校というシステムに慣れるまで、そうとう緊張していたのだろう。
 連休明けに前歯の乳歯が1本抜けて今生えてきている。6歳半なので遅いほうである。ちなみに乳歯が抜けるのは、下の歯からである。

 去年の2学期から幼稚園のサッカークラブに入っている。そのクラブのネットワークであるいくつかの幼稚園があつまっての試合が、2回あった。どうやら後半バックスで出ることが多いとのこと、リザーブの位置づきではないか、と推測している。たまに道路でサッカーやっている場合でも、得点を入れるサッカーごっこのようで、技術に対しての関心はないようだ。
 サッカーは、ボールが地面を這うことが多くてボールの空間認知が容易であり、全身運動でしかもボディバランスが必要なので幼いときから可能なスポーツである。その点野球やドッジボールは、ボールの空間認知力を必要とするので難しい。サッカーは、ボールに応じて様々に走り、ボールの足での操作は運動の基本的能力であるボディバランスを必要とする。
 さらにそのような体力要素だけではなく、全体状況を視野に入れることと自分が何をすればよいか、といった思考を必要とされる。幼児期から可能であり、重要なスポーツである。そんなスポーツを体験し好きになるだけでも意味がある。
 このところテレビでサッカーの試合を見るようになった。一緒に見たことがないので、どこに関心があるか分からないが、自分のチームカラーが赤のユニホームなので、同じ色のレッズを応援している。幼児期らしい動機であることに感心している。

 4月以降、わたしと接触する機会が少なくなった。会ったとき学校の様子を知りたいところだが、インタビューのようになるのでひかえている。
 文字を早く書いていたが、その後どうなったか知りたいが分からない。書くよりは、本を読むのはあまり気がすすまないようである。

 睡眠が自然の影響を受けやすいタイプである。5月中旬からは、5時半ごろ起きるようである。そのため20時頃には床につく。睡眠に影響をする体内リズムは個人差があるので、その特徴を親が理解しておくと本人が理解する中学生ぐらいまでは、健康維持に重要な意味を持つものである。
 それに声がよく変わるという特徴がある。親は気づくことはほとんどないと思われるが、感情の変化が声に現れる。基本の声はすんだ高音で、大きくたっぷり出す。今でもたまにそのような安定した声を出すときもあるが、幼稚園に入った以降は少なくなった。自分のペースでしゃべれられないコミュニケーションのときは、喉をつめたり高音で裏声のような声になるときもある。感情のむら、自己主張を通そうとする気持ちを反映しているように解釈をしている。
 声を聞き分けて、コミュニケーションの際に大人が落ち着いてゆったりする気持ちで対応してやる必要があると思うのだ。

ポケモンやゲームのこと

2007-03-20 11:46:07 | 子どもからの発見
 海のポケモンへの興味は、生活に根づいて、頭の一部を常時占めるようになったようだ。ポケモンのキャラクターは膨大な数(100を超える)だが、それを一覧に描かれているポスターのようなもの(本人は新聞のようなものという。紙の大きさをさしているようだ)を、広げてはよく見入っている。持っているキャラクターグッズはまだ一桁だが、宝物のような扱いである。
 わたしが聞いてみたらポケモンのテレビは、バトルがよいという。木曜日の番組(わたしはこれをまだ見ていない)だけでなく、最近日曜日の「ポケモンサンデー」も見るようになった。その番組は幼稚園で友だちから聞いてきて、自分で12チャンネル(テレビ東京系)を選び7時半から1時間を見るようになった。
 そのためこれまで見ていた、「マジレンジャー」「ボウケンジャー」「「ゲキレンジャー」と続いてきた、テレビ朝日系のものは見なくなったようだ。

 この種の番組は、日本の子どもは通過しなければならないのが現実のようだ。
ある時期にフランス人の女性ジャーナリストと、何回も話す機会があった。その人は日本でも3冊ほど本を出版していた。その本をめぐって話すぐらいに、日本とフランス事情についても語り合っていた。
 ある場所で、その人の3歳ぐらいになった子どもに話しかけたことがある。日本の子どもにはすぐ通じる、テレビネタで接近した。するとフランス人の女性に、きっぱりと「やめてください」といわれた。コミュニケーションが不快に思ったのではなく、テレビネタのことであった。「日本の子ども向けのテレビ番組はひどいから見せていない」とのことであった。それから日本のテレビと子ども文化についての、話になったのだった。
 海を観察していたら、4歳児で入園して6月ごろから当時「マジレンジャー」を見るようになったが、3カ月ぐらいまでは番組を見てすぐわが家に来ると、その感情を引きずってか、荒っぽい言動になっていた。その後は頭を切り替えてかられるようになったようであった。
 この辺はのことは、テレビだけでなく幼稚園生活の険しさの洗礼を受けていることとも関係している要因もあるだろう。
 それに3歳過ぎで消えかかったと思った全能感といったものが、「マジレンジャー」によって復活したかのようにとらえている。ここでいう全能感というのは、何でも自分の思い通りに周りが動いてくれる、という感覚である。見方を変えれば自己中心性ともいえる。
 この感覚は、大人のいうことを受け入れなくなるので、一見元気な自己主張のようにも見える。ところがこの感覚ではその年齢の力を育てるために必要な知識と行動の仕方を受け入れなくなるため、自立的力が育ちにくくなるなるのである。

 わたしはこの種のものは苦痛でありながら時には見て、子どもにとっての文化のあり方を考えるようにしている。子どもを社会的文化的視点から見るようにしているので、避けて通れないことだ。
 ちなみにわたしは、テレビのこの種の番組やバラエティー、あるいはマンガを読むのは苦痛なので見ない。ここ20年ぐらいは、テレビのドラマもめったに見ない。マンガは幼いときからほとんど読んだ体験がないので、今読もうとしても時間がかかってだめだ。この嗜好性がよいというわけではなく、そのような人間もいるということである。

 さて「ポケモンサンデー」を、リサーチの意味で見た。わたしの立場からすると、ばかばかしいバラエティー番組への入門のよう見えた。わたしは、バラエティー番組をひとくくりに否定するつもりはないのだよ。
 番組は、大人がジョークをよそおってふざけたりからかったり、あるいは失敗して笑いを取る。いじめにもつながりそうなことをして笑う。見ているものが笑うのではなく、出演者どうしがそうしているのだ。そんなわけでストリー性はないようである。大人のバラエティー番組と同じつくりであるため、子どもにとってはそれへと視聴がつながっていくだろう。内容を練ってカネをかけて作っているとは思えないものだ。
 それに内容が商品のコマーシャルと渾然一体となっている。タカラトミー、あるいは小学館がスポンサーになっていた。
 こういった分析評価は、30分ぐらい見ただけなので表層的かもしれないが、記しておくことにする。

 ところで海は、長男であり家族がこの種の文化に誘導していないので、自分で開拓している。兄のいる友達から仕入れてきているのだ。6歳を過ぎた年齢では、テレビゲームをしていて携帯ゲームで遊んでいる子どももいる。そのような子どもは友だちのなかで兄から仕入れた文化を披露しては、その分野では他の子どもより先んじるうらやましい存在であるのだ。
 海がこの手の文化を仕入れてくる子どもが家に遊びに来たときは、携帯のゲームを持ってきていた。友だちに披瀝するためではなく、家で30分と制限されているので親の目のないときにゲームをやるためであった。6歳でそのような工面の仕方を、覚えているのである。

 海は小学校に入ったらテレビゲームなどは避けて通れないから、どのように接近し生活に位置づいていくのか、今から興味深いのである。
 ゲームについては、ゲーム脳という概念でその弊害を主張した本が出版されて、それは根拠がないということになっている。ゲーム脳論を否定した反動のためか、現在はゲームに対して寛容な論調になっている。
 わたしはゲームが一過性のものでなく、依存性が強く子どもの生活への位置づき方によっては問題が小さくないと思っている。大人になっても長時間ゲームに依存した生活の人もいる。もっともこの種のことでは、ゲームだけの問題ではなく、パチンコ、ギャンブルなどの依存の問題もあるが。

 なおポケモンについて調べてみたら、そのキャラクターを扱っている会社で、急成長していることが分かった。ポケモンのキャラクターは、ゲーム、カード、アニメ・TV・映画、グッズ(フィギュア、ぬいぐるみ、フード)、雑誌・文具、本、CD・DVD・ビデオなどになっている。したがってこれらの分野は、メーカーが限定されていない。フィギュアが出てくるガチャガチャポンはバンダイであり、本は小学館といった具合である。
 アメリカでそうとう人気があるとニュースで聞くことがあるが、これも日本の外貨獲得の21世紀型の文化戦略に位置づくということになるのだろうか。


幼稚園を卒園する

2007-03-19 15:12:44 | 子どもからの発見
 今朝は5℃だったが、昼は日差しが暖かい。そのためか庭にモンシロチョウが初めて飛んできた。ヒヨドリが、キンカンを下に落としてはついばんでいる。とげのあるキンカンの木に対して、ヒヨドリは心得ているものだ、と自然界のことをまた知ることができた。

 海は17日に卒園をした。その週はインフルエンザにかかり休んだ日もあったが、当日は出席できた。終了証と精勤賞を披露したが、アルバムは見せるのを拒んだ。それは卒園を自分だけで抱え込みたいことのようにも思えた。
 卒園したので、
「もう幼稚園いけなくて寂しいね」
などと声をかけたら、
「ようちえんいくんだもん」
といった言葉が返ってきたので、卒園というのをどうとらえているのだろうと思った。
 その理由は、希望者は私服で幼稚園に遊びに行ってよいということで、今日は出かけた。卒園をさしたる感慨もなくとらえている意味が分かった。これは希望者だけのようで、預かり保育と関係があるのかな、と推測してみた。

 遊びをベースにした幼稚園から、勉強をする小学校へ入学するということは、大変なことなんだなと考えさせられている。

恐竜から『せいめいのれきし』へ

2007-03-16 15:20:29 | 子どもからの発見
 3月上旬のことである。かねてから時々『グリコえほん31』に載っている13の恐竜を見ては、名前を覚えようとしていた。大きな恐竜の図鑑があるが、『グリコ』の方があつかいやすく、種類も自分で把握できる範囲なのでよいようだ。恐竜の大きさにとくに関心があるようで、よく聞いてくる。
「頭からしっぽまでが道路幅ぐらい」とか「生垣ぐらい」といったように答える。
 まれにだが恐竜ごっこをする時があり、そのときはちょっと勘弁して欲しいような声を出す。
 ある時、
「きょうりゅってえどじだいまえなの」
と、なにやら昔というくくりの知識で聞いてきた。これをチャンスと思って、『せいめいのれき』(バートン文・絵 いしいももこ訳 64年 岩波書店)を読んだ。長くて難しい絵本なので、どのぐらい理解したか分からないが、じっと聞いていた。
 4幕2場の1万年前の、人類が文明を作る時代から5幕8場までのことが分量が多い(P52~P79)こともあり、そこが印象に残ったように読み取れた。何か未知のふしぎな世界があるということだけは、理解したようであった。今後も機会をつくって、読んでやったほうがよい絵本であることはたしかである。

 なお、この絵本を訳した石井桃子は、100歳で健在である。


絵本をつくる

2007-03-09 21:42:51 | 子どもからの発見
 海(6歳4カ月)は、書く用具は様々使えるようになっている。鉛筆、色鉛筆、クレパス、マーカーペンなどである。色鉛筆、クレパス、マーカーペンは画材店から購入したいくつかの種類のものがある。たとえば本格的に絵を描くクレパス、太くてやわらかい色鉛筆など。
 4歳過ぎから何かを書くようになったが、5歳半ぐらいからはもっぱらマーカーペンの、「三菱のuni水性顔料マーカーPROCKEY」(黒、赤、青は詰め替え可)を使うようになった。子どもには太くて大きいもので、書く部分は鉛筆より少し太めぐらいになっているが、わたしから見て扱いやすいとは思えない。しかし色が鮮やかなのと筆圧を掛けなくても書けるという特長が、愛用するようになったと思われる。
 この用具で文字を書くので筆圧がかからない。鉛筆でもたまに書くが、それより早く書ける。連続して書けるということからか、文章表現にはよさそうである。ただし日本の文字の特徴である力を入れる、抜く、はねるなどといったことは、鉛筆を使って文字そのものを書く学習が必要となるだろう。今のところ筆順が不確かなので、それもである。
 紙はおおよそA3かB4が多いが、大きなものに描きたくてカレンダーの月替わりを待つこともある。

 さて1月からは室内にいることが多くなったこともあり、時には小1時間ぐらいテーブルに向かって書くようになった。ある時期は国旗を、絵本を見てアジア、アフリカ、といったカテゴリーごとに国旗を描いていた。それから動物、昆虫、鳥の図鑑を見て絵を描いて文字を記すことが多い。
 1月下旬のあるとき絵本を作って披露した。絵を3、4枚描いてホチキスでとめて、それを示してストリーを話した。3つ作ったが、あるものは「カブト君とコオロギがいました。運動会をしました。カブト君が勝ちました」といったストリーである。おおよそ2つ登場し何かをするといった具合である。
 それ以来絵本を作り、2月下旬からは文字を書いてそれを読むようになった。

 今日は星シリーズといって、3冊作った。4ページから8ページぐらいのもので、絵を描いて文章を書いたものだ。なぜかA5、A6ぐらい小さなものである。
 1冊の文章を紹介することにする。

  ほしがきれいにひかっている(これが表紙でタイトルである)
  あるよるのことでした ほしがきれいにひかりました
  やがてほしがしずんで たいようがのぼりはじめました

 これは絵と文章のページが別に描かれている。文章は、すばやく一気に書く。それが文章としての体裁をなしている要因と思われる。「やがて」の使い方に感心した。他に星シリーズは「ほしがでた」「ほしがきれい」というタイトルである。
 

ポケモンと図鑑-知ることの喜びをはぐくむもの

2007-02-28 13:57:40 | 子どもからの発見
 海(6歳4カ月)は、あるときからポケモンに関する絵本を見ては、キャラクターの名前を唱えるようになった。グッズもいくつか集めている。「ポケットモンスター」(東京テレビ系、木曜日19時)は、欠かさず見るテレビ番組に加わった。
 いつごろからポケモンを知ったか聞いたら、
「クリスマスのちょっとまえから」
と答えが返ってきた。
 これはわたしの観察からしても正確である。6歳でこのぐらい時間(期間)感覚を理解できるとは、これまでのわたしの認識よりは早いようだ。

 ところでポケモンの絵本を没頭して見る時と他の図鑑などの時は、雰囲気が違う感じがする。ポケモンのときは、他を寄せ付けないよう熱中あるいは高揚ぶりとなる。国旗、動物や昆虫などの知識の本のときは、穏やかで楽しげである。
 ポケモンは、キャラクターを覚えることに際限なく、グッズの収集欲望をかき立てられる。欲望は強くなるが、達成感や満足感は得られない。得られないような仕組みにすることは商的には、市場を活性化させるために必要なことであるのだ。
 というわけでポケモン指向が高じれば、ゲーム、バーチャルリアリティーの世界、さてはキャラクターグッズなどにのめり込む傾向になるとわたしは考えている。この種の嗜好を否定するつもりはないが、こう断じれば、裏づけ(調査、実験等の)がないではないといわれる。
 かなり前の話だが、心理学の友人がフランスに留学したとき、かの国では日本のアニメはバイオレンス(暴力など)が多いと批判があり、放送中止になるケースがあると聞いた。心理学大国といってよいフランスでは、裏づけがどうのこうのということがないらしい。そういえば、タマゴッチはイタリア、イギリスなどのヨーロッパでは、発売と同時に大人気だったが、デジタル機器といえども生命を操作することはよくないとして、発売禁止になった。この辺は宗教という文化の違いもあるのだが。
 わたしは最近の凶悪事件の稚拙さと残酷さは、幼いときからの映像メディア(ゲーム等)の負の部分が反映されているのではないかと考えている。負の影響を受けやすい人がいるのではないかと。この考えも学問的には根拠がないと、簡単に葬られるだろう。それでは人間の意識に影響を及ぼす、そしてある社会現象を作るのではないか、くらいにしておこう。

 さて、国旗、動物や昆虫の図鑑は、知識が増えることが楽しげなので好感を持つ。さりとて大人の価値観でありがちな、勉強につながるよい知識と娯楽の悪い知識、という単純なよりわけをするつもりはない。
 どうも知識が体系的なものかそうでないかが、覚えることの満足感とさらなる知識欲につながるかどうかの、分かれ道のようである。知識の体系に欠かせないカテゴリーが重要な意味を持っている。
 哺乳類に人間があったとき、海はそうとう驚いた。哺乳類がさらにラクダなどを偶諦目といい、それにも馬やラクダといったいくつ種類(科)があることがおおよそ意識されている。海の利用している図鑑は、どうぶつ、こんちゅうといった分野(綱、類)に分かれて、次にグループ(目)、なかま(科)とカテゴリー化している。それぞれの生き物の大きさ、生息地域と場所の特徴などが記述されている。
 そのため馬のなかまというカテゴリーでも、大きさや生息しているところなど知りたがる。海(うみ)に魚類と、哺乳類である海獣がいることが分かったときも喜んだ。ペンギンが鳥であることも。そのことによって飛ばない鳥が他にいないか調べた。卵の大きさ比べにダチョウの卵があったことを思い出して、飛ばない鳥というカテゴリーでくくってみた。
 海を通して、知識の蓄積と総合化をしながら、知る喜びと知の発見をしていることを、目の当たりにしている。そんな子どもを見ることが、この上なくおもしろいのである。


時間の理解と規範のめばえ

2007-01-15 14:54:30 | 子どもからの発見
 今日のわが家の玄関の温度計は、0℃だった。この冬で一番寒い朝のようだった。

 日本は、時間に几帳面な文化である。電車は2、3分刻みで時刻どおり運行する。少し遅れようものなら、そのお詫びのアナウンスをたびたびする。私はそのアナウンスのほうが、気になるほうだ。
 授業も、時間通り始めるし、会議の開始もである。とくにその傾向が強くなっているように思っているが、日本全体の傾向なのだろうか。多少時間にゆるやかだと「ここは○○時間だから」といって、引け目を感じながらいう。世界中に、こんなに時間通り動く国はあるのだろうか。
 しかし社会的には、生活の24時間化と個別化が進んでいるため、社会規範としての時間(社会的リズム)はうすれ、「時刻文化」に変化しているようである。わたしは3つの授業がすべて1限目だが、起床できなくて出席するのが困難な学生が多いようだ。わたしが就寝中、あるは起床時間ぐらいに就寝する学生が多いと聞いている。

 さて海は6歳頃から規範意識を持つようになったので、時間との関係でみることにする。幼稚園で時間のことは、時計を読むことと行動の指示は、年長では日常的に使っているらしい。時計の時間を聞く、あるいは6時に帰るようにいわれたら、今何時と気にするようになったのは9月頃(5歳10カ月)からのようだった。これは園での運動会の取り組みとも関係がありそうだ。時間というより、基準にそって行動することが要求されたから自分の気持ではなく必要とする条件で行動する意識が強くなったのでは、推測している。
 また、時間に対する意識は、市で鳴らすチャイムが動機付けになったようだ。それが時間の合図ということが分かり、夏休みの頃チャイムがなると、「なんじなの」と聞いた。チャイムといえば、夏は5時で10月から4時になったときは、夕方の感じが違ったせいか何日間か戸惑いも持ったようだ。
 わたしのこれまでの経験からしたら、時計の時間を意識して行動するのは早い。この年齢では、時間を子ども自身が気にしないで行動できる条件を与えたほうがよい、と考えているからである。
 しかしおおよそ時計を読めるようだ。幼稚園でバスや預かり保育のことがあり、それらの運営を、子どもに時間を示してそれにそって行動することが多いのだろう。家庭では、テレビの見る番組を何曜日の何時からと記憶している生活をしている。たとえば21時に動物に関する番組予告スポットがあると、「わあー、ねてるからびでおとって」というぐらい、時間と自分の生活を結び付けられるようになっている。
  
 曜日の理解は、2学期から園のサッカー教室に入って、それが木曜日なので意識するようになった。それ以前から土日が休みであり、月曜日から園が始まることは理解していた。
 予定と日程については、明日については5歳ごろから分かったようだ。あさってが分かるには、それからやや期間が必要であった。
 今朝は「しあさってってなんようび」と聞いた。「木曜日だよ」というと「サッカーのひだ」と反応した。サッカーへの期待感が強いからだろう。
 冬休みになってから幼稚園が始まるのを10日から、と言っていたが、たまたま「あさってから幼稚園が始まるね」といったら驚いて「わぁーぼやぼやしているばあいじゃない」と言って、じきに幼稚園が始まる意識になった。 
 3学期ということも分かり、4月から小学校入学も間近のように話題に出るようになった。小学校の運動会を見たり健康診断にいったりしたこともあるが、ランドセルや机なども話題になっているのだろう。
 ところで妹ふきが3年保育からで、自分が2年保育からなので3年保育のふきは年長になれないと思っていた。6歳過ぎからそのことが自分の体験だけでなく仕組みとして理解したようだった。
 過去のことについてどのような認識をしているかというと、最近ポケモン収集をし始めているので、「ポケモンはクリスマスごろからすきになったの」ときいたら、「それよりすこしまえ」という答えが返ってきた。過去のことを時期とあわせて記憶するようになってきている。

 時刻に終われる生活でなく、時間が自分の気持ちだけで左右できない行動のよりどころ他人との共同といった規範意識と結びつくといいのだがと考えてみた。現在、過去、未来といった時間空間を、どのような過程を通して認識していくか興味深いことである。  

文字を書いた

2007-01-13 21:14:43 | 子どもからの発見
■ ともがきにもっていく

 ふきは、折り紙で花をおったら、
「これよううちえんの ともがき にもっていく」
といった。友達なのに友垣とは、いったいどういうことなんだと思ったら、気づいたことがあった。
 唱歌である故郷の、2番の歌詞に「ともがき」とあるのでした。故郷を何度も歌い友垣を友達と説明されたのを覚えていたので、使ってみたのだろう。
 如何にいます父母
 つつがなしやともがき
 雨に風につけても
 思いいずる故郷

 この歌は、朝の連続ドラマ「純情きらり」のある場面で聞いてから覚えて、よく歌うようになった。気持ちをこめて、2番まではいまだに時々歌っている。
 
 故郷は「尋常小学唱歌」(6) 文部省 大正5年
 高野辰之作詞 岡野貞一作曲

 小学唱歌は、戦前の国定教科書の子どもの歌であるが、作詞作曲を伏せられている。戦後両人のものであることが明らかになり、唱歌の作品は多い。

■ 文字を書いた

 3歳8カ月のふきが、文字を書いた。A4大の50音表を見ながら、最初に書いたのは家族の名前だった。不完全であるが一人でじっとやって書き上げた。
 兄の海が読んで文字をすらすら書くので、その影響で覚えてしまったのだ。2ヵ月ぐらい前から、文字と称して右下がりの斜め横の1センチほどの線をたくさん書いていた。それが形の弁別力がともなったからだろう、1月ぐらい前から読める字が出始め、一気に書けるようになった。そういえばこの頃、人の服装の襟を出すように言ったり、普段と違った靴を履くと気づいていうことが多くなったようだ。
 今年は常連のメジロが庭に来ているので、野鳥用のミカンをやる体験をした。メジロが来ると、室内から「メジロさん、メジロさん」と話しかけている。紙に
「たべてね いつもあげるから」
と書いて、庭を見るガラス戸の外に貼り付けた。家族の名前の次に書いたのである。
 海は、4歳の頃はこの世に文字があることが知らなかったことからすると、環境の影響は大きい。兄の真似をして見よう見まねで覚えてしまう。かな文字が言葉を表記するのではなく、表音文字のため獲得しやすいということを確認した思いでもある。

最近のごっこ遊び

2007-01-10 05:07:01 | 子どもからの発見
 海はごっこ遊びが好きなタイプで、6歳を過ぎた今もやっている。この3、4カ月は動物になって物語を作って進行させていくことをする。
 最近では、動物になりその習性も取り入れて進行させる。まず紙に名前と動物の役を書く。これをセロハンテープで掲示することが多い。
 新しい動物の場合は、体の大きさや生息場所や餌や夜行性かどうかまで、いわば習性を調べおおよそその条件にそって役割を演じる。妹のふきが3歳半過ぎごろから理解力と関係を持つ力がついたので、もう一人の大人と3人でよくやっている。
 習性どおりやったり擬人化し現実の生活になったりしながらやる。時折泣き声はどんなものか、といったことにも関心が向くことがある。
 構想を思いついては、他人に「○○っていって」と指示することも多い。それに周りが合わせるのは、結構大変そうである。

 5歳過ぎではおうちごっこが多かったし、ある時期にはテレビのレンジャーものをやったときもある。それにごっこに必要なものを紙で作ることに大部分を費やし、それで終わることもあった。ごっこのが連続性を持って継続するには、片付けなくてもよい空間があることが、重要のようである。このように年齢によって、遊ぶ内容や関係の持ち方が変わる。
 今はサッカーなど外遊びや本を読んでもらう時間が増えたので、相対的に少なくなったが、知識と言葉が増えたこと、コミュニケーション力がついたことなどで、なかなか緻密なごっこになってきている。

人間っていいなの替え歌

2006-12-27 10:28:12 | 子どもからの発見
 ひなまつりの替え歌は昔からいくつか歌い継がれている。これは女の子向けの歌と察して、それを照れる男の子が作った節がある内容である。
 先日海は、人間っていいなの替え歌を仕入れてきた。小学生兄のいる友だちからは、家族だけの生活では思いつかないようなものを持ち込むのである。こうやって子どもの世間に触れていくのだな、と思うのである。

 くまのこみていた かくれんぼ
 ・・・・・
 いいないいな にんげんっていいな
 (その後は以下のようである)

 くさったごはんに きたないおふろ
 こどものかえりをまたない おやじ
 ぼくもかえる おういがないよ
 でんでんでんぐりかえって ほねおれた ぼき

 なかなか傑作である。おやじは仕事で帰りが遅い、という解説付きである。
 替え歌は、その歌をうたいこなしてバリエーションとして作られる。しかもたいがいは、逸脱を見事に表現するものだ。わたしは替え歌のなかでも現代の世相をついているな、と感心したのだった。
 ところでこの替え歌は、全国的に普及しているのだろうか。