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絵本と児童文学

絵本と児童文学、子ども、保育、サッカーなどの情報を発信する

子どもたちの啓蟄

2008-02-26 16:15:47 | 子どもからの発見
 地域によって違うが、啓蟄(けいちつ)からが春だといわれている。啓蟄は、冬ごもりの虫がはいでる意味で、太陽暦で3月6日頃に当たるという。今年は5日である。わたしの住むところの季節にぴったりのようである。
 隣の子どもたち海とふきが、今朝6時30分に玄関ドアをドンドンとたたいた。半年振りの早朝の訪問である。睡眠が早寝早起きで、季節の影響を受けるタイプである。ずっと途絶えていた早朝訪問が、今日から再開された。まるで啓蟄と同じである。

■昨日海が友だちの兄弟をわが家のサンルーム部分に招きいれ、じっと庭をうかがった。ムクドリ、ヒヨドリとくるのを見て、「いいでしょう、ムクドリだよ」といった調子で、バードウオッチングである。メジロは室内の動きがあっても逃げないので、じっくり見られた。最初状況をつかめなかった友だちは、だんだん野鳥を見入るようになった。
 普段興味を示しているふうでもなかったが、ちゃんと他人に説明するほど心得ているのだった。それも自分が説明を受けたのを、まねしている言い回しであった。

■ふきは5歳半ぐらいから文字を読むようになったが、今は『さっちゃんのまほうの』(偕成社)くらいの長いもの(読み聞かせをすると20分ぐらい)も読みこなす。いわゆる拾い読みではなく、わかちがきごとに言葉あるいは文章として読んでいる。
 今朝は『さかなはさかな』を持ってきて、
「レオ・レオニだよ」
という。作家名をいうことにわたしは驚いて、
「どうしてレオ・レオニって知ってるの」
と思わず言ってしまった。すると
「ようちえんからかりてきてるのもレオ・レオニだよ」
といって家に取りに行って『ぼくのだ!わたしのよ!』をもってきた。
「レオ・レオニはえがうまいからわかる」
というではないか。『さかなはさかな』がクレヨンであり、『ぼくのだ!わたしのよ!』はコラージュで表現されており、普通は同一作家と気がつかないぐらいだ。どうしてわかるのだろう。
 どうやら担任ではない年配の先生と、絵本、草花、鳥について話しているとのことだ。


メロディーを作り始める

2008-01-28 19:05:46 | 子どもからの発見
 今朝はマイナス1℃で、霜柱も立っていました。冬の高い空に星が光り、半月が鮮やかでした。昼になったら8℃でしたが、日がささないので寒いです。
 テニスをやってからだが冷えたせいか、寒く感じたので薪ストーブをたいて庭を眺めていたら、野鳥が次々にやってきました。ムクドリがりんごやパンをついばんでいると、ヒヨドリが来て交代します。メジロが周辺で餌をついばんでいるとコゲラも来ます。寒いせいか次々にやってきて楽しませてくれます。

 ふきはピアノであそぶようになり、生活に位置づいてきています。聞いたことのある歌の探り弾きをするようになりました。わたしの持論では、ピアノの探り弾きをやることは教則本での学びと同じぐらい大事だと思っています。基本技術の応用力がつくのではないかと。
 ふきは探り弾きをするようになったと思ったら、どうやらメロディーを作り始めました。弾いては、それを自分で階名を書き記します。ドレミファソファミド・・・と、4小節のものです。それに和音をつけてやったら、そのまま両手で弾きました。今日は別なメロディーをいくつか弾いては、書いてほしいということでした。
 作るメロディーは、これまで教則本で学んだ範囲内のものですが、音楽を楽しむようになった証のようです。

ピアノがたのしそう

2008-01-16 18:21:27 | 子どもからの発見
 ふきがわが家に来るとピアノにすぐ向かう。自分から進んで気が向いた時には2、30分ぐらい弾く。
 教則本の曲以外も弾くようになった。「エリーゼのために」の出だしの部分を弾く。「ネコふんじゃった」も、だんだん長く弾くようになった。最近はCM(アフラック)を、鍵盤を探りながら弾いている。しかもそれに和音をつけるようになった。ドミソ、ソシレと自分で響きあう音を探し当てた。
 教則本では左右別な旋律を弾く曲(バッハのインベンションのようなもの)も出てきて、左右別々に弾けるようになってから合わせたら、つまずかずさらりと弾いた。
 教則本の曲はCDで聴いてから弾くと、CDのテンポが速いのが耳に残っているせいか、あわてて弾いくので曲の完成度としてはよくない。テンポを遅めに弾くことに慣れると、自分でも曲を味わっているようにさえ見える。
 どうやら和音を弾く曲になった時が壁だったようで、それがすんだらピアノがおもしろくなったようだ。

 それに兄(海)と一緒のときは、背伸びしていると思えるぐらいしゃべったり活発に行動するが、一人のときはいたって静かでおとなしい。絵を描いたり本を読んだりすることが多いし、こつこつと何かをやるタイプのようである。


オペレッタを再現

2007-12-20 17:07:28 | 子どもからの発見
 ふきは(5歳7カ月)15日に「ゆうぎかい」をやった。受け入れられないだろうと思いつつも、
「何をしたか知りたいんで、やってほしいな・・・」
といったら、「いいよ」という返事でやり始めた。最初はまじめな面持ちで視線を合わせず歌い始めた。
 わたしはふきがやりやすいようにと思って、すぐ歌に合わせて体をゆすったりして反応した。だんだん軌道に乗り大きな声で堂々と演じるようになった。
 ピアノの伴奏も口ずさみ、他の登場者すべての歌とせりふのやり取りを踊りもつけてやった。
 年中組という年齢なのですなおにやってくれたと思う。物おじしない性格ということでもあろうか。それにしてもすべてを覚えていたことと、音程も安定して歌っていたのに、この年齢でもけっこうできるものだと、再認識をした。

 ところで兄(小1)がいるため、手探りで物事を獲得するのではなく、刺激を受けてまねをして早めにできるようになるものだ。たとえばひらがなの読みは、拾い読みではなく言葉としてつなげてすらすら読んでしまう。
 兄といる普段の生活は背伸びをしているようでもある。独りのときは年齢相応に幼くなる。ひとりになり年齢相応の姿をさらけ出せる時間と空間を作ってやった方がよいと考えた。

行動範囲が広がる

2007-12-19 16:54:23 | 子どもからの発見
 わが家の庭の木はほぼ落葉し、落ち葉掃きの作業はなくなりました。7月上旬に植木屋が刈り込みするまでメジロとシジュウカラが巣をつくっていたので、それがくっきりと残されています。小さいのを、見事につくっていたことが分かりました。
 寒さと共に最近庭に来る鳥は、メジロとシジュウカラです。頻繁に来ていたスズメとヒヨドリの姿が近頃見られません。
 池の魚たちは水草の下に潜んで姿を見せなく、冬眠のような状態です。ホテイアオイは例年かれてしまうはずが、今年はまだ健在です。

 海は学校から帰ったら宿題を済ませてからあそぶ、といったことが定着しているようです。毎日のように国語と算数のドリルがあります。漢字はすでにかなりの量を覚えています。
 11月頃から学校の友達と遊ぶようになりました。家の通りなど近くには友達がいないので、気軽にあそぶわけには行きません。距離的には遠くはないのだが、別なエリアだと気分的には近くはないのです。
 母親と友達の家を訪ねて行ったり、親が介在していましたが、最近は約束してきて自分で行ったり呼んだりするようになりました。
 わたしから見れば、兄や地域でもまれてないタイプの子どもと交わっているようです。
 遊び場に行くのではなく家の近くでサッカーをやってみたり、ごっこ遊びをしたりといったようです。だんだん友だち同士の世界が出来てくるので、わが家に来ることも少なくなるでしょう。
 そのこともあってか、ケータイのゲームやテレビゲームへの接近もありません。もっぱらポケモンにとどまっています。
 わたしはケータイゲームとテレビゲームにどのように接近していくか、興味深いものがあります。


児童期の顔に

2007-11-06 18:24:19 | 子どもからの発見
 1年生でも毎日宿題がある。詳しくはわからないが、国語の書きと読みや計算のようだ。先日は「音」という字を書いていた。立と日が合わさっていると説明していた。「入」と「人」は似ているけど違う、といったことも話題になった。そして食料品のカタログを見て、知っている文字を探していた。「秋」には「火」があるといった、部位を区別してみたりしている。
 2学期のこの時期に「音」と書いていることに驚いた。しかし1年生で80の漢字の学習をするのだから、このような進行になるのだと納得しなければならない。
毎日出る宿題を、みんなやるのだろうか。朝7時50分に出て、15時30分ぐらいに帰るのは大変だな、と現代の子どもの学校時間と学習量には考えさせられている。

 海はもうじき7歳になるが、2学期からは顔と行動様式に変わったようだ。顔は、目が幼児期のおっとりさが影を潜め、ものを見極めようとするようなものになったように思える。形が、少し面長にもなったようである。歯も2本目が生え変わった。表情にあどけなさがなくなり、複雑さを備えてきたし、勉強をしている顔にもなったように思える。
 行動様式もばあさんのひざに座ることがなくなり、学校の授業の科目など説明をしたりするようになっている。
 幼児期から児童期へと転換期にあるようだ。

ピアノの先生とイヌを飼う人

2007-10-30 20:39:26 | 子どもからの発見
 ふき(5歳6カ月)は、ピアノへの関心を持続している。ヤマハピアノ教室だが、1年でプライマリーのテキスト2を終了した。左手の音が加わるときが、ひとつのハードルのようである。それを通過して和音を伴った8章節の曲を弾けるようになった。
 指導内容とテキストは、さすが40年余りの歴史を経ているだけあって、よくできていると感心する。しかし3歳児から始める場合は、理解力としても無理があるようだ。親に少し音楽の心得があって自宅で援助すると、集団レッスンでものりきれるようだ。

 ふきの場合は3歳児入園まもなくから、わが家に来てはピアノに向かって幼稚園の先生のまねをして、歌いながら伴奏らしく両手で音を出していた。音はたまたま触った鍵盤の音なので演奏とは程遠いが、ふしぎとリズムをそれらしく弾くのであった。ピアノの音と合わないのに、歌は正確に歌っていた。
 2歳ごろから、歌の絵本を見ては歌ってほしいといい、歌にじっと耳を傾けることが多かった。その歌を覚えて自分でも歌う。
 ピアノ教室は、復習としてわが家で何回か弾いてレッスンに向かうようにしていて、今は楽しんでいる。今やっているロンドンばしは、メロデーを覚えたら伴奏の和音はすぐ覚えた。メロデーによって、和音を感じるようになってみたいである。ドミソ以外のソシレを「ちよっとさみしい」といっている。

 ところでばあさんを生徒に見立てて、ピアノ教室の先生のまねを一通りやっているようである。幼稚園の先生のまねも。
 そして「ふきはおおきくなったらげつようびがぴあののせんせいで、かようびとすいよいびともくようびときんようびは、いぬのおみせのひとになるの」といっている。これは曜日を覚えたことと、5歳ぐらいまでありがちな奔放な想像を披露しているのだろう。まだ幼児期ならではの、大人から見たら面白い発想を日々してくれて楽しい。
 ところでイヌが好きなので、イヌのぬいぐるみをいくつか集めているが、本物を飼いたくてたびたびせがまれる。ペットショップに止まってといったので立ち寄ったら、しばらく食い下がられた。
 散歩とか大変なんだからといった話をすると、先日は「ちずをかいてくれたらさんぽはできるから」といって真に迫った懇願であった。

 夕方5時過ぎに、近くのゴードン(アメリカ人)さんから声をかけられ、近所の友だちと仮装をして出かけた。ゴードンさん手作りのケーキをもらってきたようだ。

駆け足もままならない住宅街

2007-10-13 14:29:52 | 子どもからの発見
 海がかなりの距離を走ったとみえて、家に着いた時は息せきっていた。その表情には、冒険を終えたような満足感を漂わせていた。学校で運動会の取り組み中のせいか、駆け出したくなったのだろう。一緒だった歩いている妹らに対する優位の気持ちも、あるようだった。近くの林に出かけて帰ってきた時のことだった。
 駆けて来た海に対して、危険なのにだいじょうぶだったのだと思った。子どもの運動としてはそのぐらいのかけっこは日常茶飯事であってほしいというのと、その行動が安全とは限らない所にすんでいる現実である。つい「自転車とかにぶつからなくてよかったね」と言ってしまった。

 海の住まい取り巻く空間は、大都市の街から続いた住宅街である。住宅地になって、おそらく30年余りと思われる。徒歩15分ぐらい四方には、この地の歴史を刻んでいるだろう神社などはない。住宅地として開発したので、空間として必要な余裕の場所がない。
 バス通りから入ったところにあり、家の前の道は余り車が通らないので道路で遊ぶことは可能である。隣近所は、子どもが家を離れて住んでいるだろうた高齢者が住んでいるため、普段は静かだ。住宅街に人の声が聞こえるとすれば、海とふきが遊んでいるときだ。自転車に乗ったりサッカーをしたり道に蝋石で書いたりして遊ぶ。
 活動目的があるときは、近くにある3つの公園を使い分けてそこへ行く。林の空間が3つあるので、そこでわずかな四季の変化を感じることができる。先日はどんぐり拾いをしてきた。
 わたしから見れば、人間が住むというだけで作られた空間は窮屈とも思えるが、都市での暮らしでは致し方ない。駆けることも許されることではないのだから。道路での行動で危険なことは、車と自転車である。車よりは自転車が危険である。曲がり角を減速しないで走る人が多いのである。

 海は、夏休み頃から親と一緒に自転車で出かけるようになった。徐々に距離を伸ばし、最近は街まで出かけるようになった。本人は歩くより自転車に乗りたいので、満足である。近くに子どもがいないので、下校後友達と遊ぶことはない。子どもが自分で友達と行き来するのは、3年ぐらいからだろうか。

あそびが勉強になると

2007-09-17 17:35:21 | 子どもからの発見
 海は1年生です。マーカーペンで絵を描き文字を気軽に書いていたが、6月ごろ家ではほとんど書かなくなりました。これは書くことが遊びではなく勉強になったからではないか、と考えてみました。
 マーカーペンでは文字ですばやく文章を書いていたのが、学校では鉛筆で文字だけをゆっくり丁寧に書く指導を受けるようになったことと関係があると思われます。とくに筆順を矯正されたりして、言葉とは無関係に文字を書くことになって、気軽に書けなくなったのではないでしょうか。
 それに読むことは、索引をつかって自分で調べて読んでいたのだが、あまりやらなくなりました。身近なところの疑問も少なくなったようです。

 小学生になって、わたしから見れば最も変化したと思われることは、時間に敏感になり時間にそって行動するということです。6時に家に帰るとなっていると、時間を気にして活動途中でもやめてしまいます。
 これは時間割にそって、時間どおり授業が進行し、1日が終わるということが、体にそなわってきているようでもあります。時間が、今のところ秩序だった行動を作っているようです。今のところ自分を取り巻く環境で必要とされることですが、他律的であっても自分に取り込んでいくのでしょう。アナログ時計と時間の流れる感じが、いつごろから結びつくのでしょう。作業などを通して、時間の経過が分かるようになるということです。


ピアノを習う

2007-06-28 11:04:55 | 子どもからの発見
 妹のふきは、昨年の10月頃からヤマハピアノ教室に通っている。数人の気心の知れた親子でレッスンを受けている。4歳の子どもがどの程度ピアノを弾けるようになるのか、わたしは分からなかったが、ふきの場合は順調にこなしているようだ。
 もともと2歳頃から子どもの歌をうたってやると、じっと聞いて催促するぐらいであった。それに3歳過らか音程が定まって歌うようになった。いまでも正確に歌う。
 3年保育で入園したのだが、まもなく先生が弾くピアノを真似して歌いながら弾くようになった。弾くといっても、歌をうたいそれに合わせて両手で鍵盤をタッチして音はまったく異なるが、歌のリズムに合わせて弾く。音が違っていても歌は正確でリズムが歌にそっているので、不思議な感じで聞いた。幼稚園の先生の真似遊びだった。

 ふきは、骨格ががっちりしているタイプのせいか、指の鍵盤をタッチすることがしっかりしている。個人差があるだろうが、意外だった。
 次に理解力であるが、テキストは楽譜を鍵盤にする(楽譜を読む)ことを中心に、運指と音域(メロディーでもある)を工夫されたものである。低音部が、習い始めて6カ月余りという早い段階で使うようになっている。これが一つの壁のようで、乗り越えられずやめる場合もあるという。
 低音部を弾くようになってから、ピアノを弾きたいけど避けたいといった気持ちのようで、以前より気軽にピアノに向かわなくなった。いわゆる練習という構えになってきているようだ。
 それにト長調とヘ長調も取り入れる段階になった。5歳がすんだから何とかやれそうだが、難しそうである。固定ドで階名で歌わせている。

 また欠席すると手紙がしたためられることから推測するに、きめ細かなようだ。子どもが嫌がらないことはもちろん、レッスンの日を期待している。歌をうたうのが気に入っているようで、そこで覚えた歌をよくうたうようになった。ヤマハはピアノ教室を40年以上を経て、テキストや指導法などそうとう積み上げているのだろう。

 わたしがこれまで持っていた幼児期の音楽能力の発達に対しの考えを、再検討が必要ではないかと感じてきた。もっとも個人レッスンを中心にしたものと、幼稚園や保育園での音楽教育という条件の違いがあることを視野に入れなければならない。
 それにわたしが学生時代に幼児数人にピアノを教えた経験では、指のタッチが弱い子どもたちだったので、ピアノを3歳児からやるのには無理があるのではないか、と考えていた。ふきの場合はその問題はないし、楽譜の理解はどの程度かは別にして誤った音を出すと気づいて修正するし、この分だと探り弾きができるようになるのではないかと期待感をっているのだ。

*移動ドと記述したが、誤りであり固定ドに訂正する。―8月24日