世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

今後の小沢一郎(3) 20世紀の世界から脱却、縄文の魂に戻る政治哲学を

2013年10月23日 | 日記

 

官僚制
クリエーター情報なし
恒星社厚生閣


応援よろしくお願いします
人気ブログランキング

●今後の小沢一郎(3) 20世紀の世界から脱却、縄文の魂に戻る政治哲学を

 昨日のコラムは見出しを間違い、思わぬところで恥を書いた。“今後の小沢一郎”と見出しを書くべきところ、“小沢一郎の今後”と書いてしまった。後者の場合、幾分引退した後のことを書いている印象を含む。前後しただけと開き直るのも良くないと思い、先ずは訂正させていただく。

 何らかのアクシデントがない限り、3年近くは自民党政権の、好き勝手し放題の呪われた時間が過ぎることになる。それで国民は大丈夫なのかと問われれば、正直、まだ大丈夫だと答えることになる。なぜ大丈夫なのかと云うと、国民の側に、まだ痛みに耐えるだけの蓄えがマクロ的には存在するからだ。それが財務省など、霞が関官僚の感覚である。国民全体を並べての話だが、国民は生活が苦しいなどと口にしているが、マクロ的に観察する限り、1500~2000兆円の現預金を懐に抱え込んでいるのは事実だ。

 この国民の現預金を含む包括的な“生活収支”は、充分にプラスと云うのが、財務省の考えである。支出が収入を上回っても、手持ちの現預金の切り崩しで、国民のマクロ的生活資金は循環すると考えている。勿論、個別の人々の中には、現預金を持たない層もいるので、その人々は個別に苦境に立たされるが、総体的見方としては、財務省的図々しい胸算用は可能なのである。これだけ肥大化した消費社会を謳歌したのだから、遣り繰り上手な我が国民は、ほど好く現預金の切り崩しが起きないように、生活を見直すであろうし、それが不可能な場合には、嫌々だが現預金に手をつけるだろう。

 当然、蓄えがゼロの家庭は路頭に迷うに違いないが、国民全体から見れば、大した数ではない。それが、現在の財務省の考えだ。移民制度でも導入しない限り、消費者層は先細りと云うわけだから、内需に頼る経済構造は立ち行かないのは自明だ。生活費防衛に、買い控えが出ても、消費税であれば否応なく、最低限の国民の消費は計算出来るので、それを基礎として内需を考える方が賢明だ。

 その代わり、稼ぎ頭が必要なので、大企業を儲けさせる仕組みを作っておき、イザと云う場合には、政策面(法律改正)や行政裁量により、歳入の調整は行える。所得税を上げることは、政権存続の立場から、ガチンコ勝負になってしまい、“政治vs行政”のバトルに及ぶので、財務省の考えに同調する政治勢力であれば、敢えていがみ合う必要は皆無だ。故に消費税が一番、双方に不都合が生じない税となる。勿論、国民には痛みだが、弱者ぶっているに過ぎないのだから、痛みを多少与えても、死ぬ心配はない、と霞が関側は考えている。

 まぁこんな風に、財務省を中心とする官僚らが考えている可能性は非常に高い。霞が関は、自分らの離れに用意されている“すき焼き”の材料を差し出す気持などさらさらないのが現実だ。その為に、青春を擲って勉学に励み立身出世のエリートの道を選んだのである。今さら、キリギリスのように飽食と贅沢を謳歌した国民に、情けをかける謂われは何処にも存在しない。今や、ウッカリしたら、世界金融のマネーに国家が乗っ取られるようなグローバル経済と金融資本主義が世界の主流である。このシステムが行き詰まりを見せているのも事実だが、世界の既存勢力の殆どが、現在のシステムの存続が望ましいと思っている以上、日本だけで、この流れに逆らうなどもっての外である。まして、アメリカ様の望みでもあるわけだから、日本だけが逆張りするようなことは、厳に慎まなければならない。

 安倍自民党が、国家や地方の資産やインフラを民間に転売するような発言が増えているのは、口うるさい連中の口を封じるためには、公共性の強い資産やインフラを、市場原理主義のグローバルマネーに手渡してしまうことだ。麻生の水道システムの民営化などは、この流れの中で、当然のような発言なのである。橋下の公立学校の民営化構想なども、麻生の発言と同種のものである。連合が偉そうなことが言えなくなった背景には、小うるさいことばかり要求する官公労であれば、官公労の現業部分を民営化してしまえば、傘下の組合員が存在しなくなるので、八方丸くおさまると云う発想だ。

 霞が関官僚の抵抗も、公共と言われる類がすべて民営化された時には、彼らの権益享受者の数も劇的に減少し、それこそ絵にかいたような、一握りのエリート集団が残されるのだろう。実はこのような現象は、既にアメリカでは起きつつある。債務上限問題で、オバマと議会が茶番を繰り返しているのも、この流れの中にあるのだろう。中国資金に、基幹産業の企業や米国の土地が買い占められているわけだし、公共財も民間の手に渡り、その企業の株式が他国資金に買われれば、アメリカと云う国は、最終的には手足を売り払ったダルマ状態になると云うことだ。覇権国家でさえ、この有様なのだから、我が国が国際金融の前に、民営化と云う美名のもとに差し出されたら、ダルマになるのはアメリカより先かもしれない。

 まだアメリカには軍事力や外交力があるので、強権発動で民営化した部分を買い戻すような行動も可能だが、我が国の場合、TPPに加盟することで、国内の強権発動能力を持たず、空洞化した国の見た目を取り繕うだけになるやもしれない。スッカラカンになった国家では、何の魅力もなくなるので、いずれハイエナのような国際金融勢力も、食い尽せば、いなくなると云う考えもないわけではない(笑)。50年も待てば、取られるものがなくなるかもしれない。

 さて、その辺はさておき、世界が上述したような“マネー”のパワーゲームに、米国政府さえ傅く流れが、金融に支配されたグローバル経済の実体である。EUはこの点を怖れて、ユーロ圏と云う囲い込みで逃げ切ろうとしている。中国も、金の保有を着々と増やし、ドルの信認が壊れる日のための準備に余念がない。国家や国民に富がそれ程なければ、“マネー”という怪物も涎を流さないと云うことだ。実は筆者は、小沢一郎に、このような点に関する観察眼を持って貰いたいと思っている。無論、小沢一郎が、そんな考えに至るとは思ってもいないが、その位の“政治哲学”を持たない限り、矮小化された政治の課題に翻弄され、虻蜂取らずになるようで仕方がない。

 たしかに、政治課題は驚くほど沢山ある。原発及びエネルギー政策、TPP、憲法解釈、憲法改正、財政問題と税体系、文化的生活を保証する権利、日米同盟の見直し、若い人々の雇用機会の問題、中露韓との外交防衛、ASEAN等アジア諸国との外交防衛等々なのだが、このように個別具体的法案や政策を擦り合わせて、野党共闘を組みと云う考えがあるようだが、あまりにも多岐にわたり、是々非々が繰り返され、四分五裂になるのは目に見えている。このような具体的政策等の擦り合わせで、「オリーブの木」のようなものは出来ないだろう。もっと包括的に俯瞰した哲学的な見識で、21世紀の日本の国家像を語る方がベターだと思う。

 小沢一郎自身が「3年後が、僕の最後の戦場」的な発言をしていたが、それで良いのだと思う。小沢一郎は最低でも“政権交代”と云う夢を見させたわけだから、それだけでも凄い政治家だと断言できる。既存勢力のオールキャストを相手に、一人闘っているのだから、それだけでも小沢一郎の価値が推し量れる。小沢一郎の感性と“政治哲学”との相性が良いとは思わないのだが、そのような見識を抜きにして、政治家人生の最後を、2大政党の議会制民主主義の構築に捧げるのも悪くはないが、失礼を承知で言えば、もう一つ殻を破き、達観した“政治哲学”を語って貰いたい。

 その方向性が、出来る事なら、本来の資本主義ではなくなった“金融資本主義”からの決別と、日本独自の内向きだが、日本らしい縄文的DNAのエッセンスを含む、100年後の日本像を国民に示して貰いたい。筆者の場合、内向き経済の方が、金融資本主義の経済に翻弄されるよりも、国家の資産や国民の現預金には優しい経済国家を成立させられると考えているが、そこまでを望むつもりはない。ただ、アメリカに追随して、アメリカ社会同様に、“マネー”の奴隷になるのは、御免蒙りたい。マネーの貪欲さは、マネーをマネジメントしている人間たちにも制御出来ない怪物であり、世界は何処かの時点で、“マネー”から脱却しないことには、人間でさえなくなる。(今後の小沢一郎4に続く)

生きるための経済学―“選択の自由”からの脱却 (NHKブックス)
クリエーター情報なし
日本放送出版協会


応援よろしくお願いします
人気ブログランキング


よろしくお願い

https://blogimg.goo.ne.jp/img/static/admin/top/bnr_blogmura_w108.gif