世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

マスメディアの二分化 “朝日vs読売”大企業と新興企業の代理戦争か

2011年07月14日 | 日記
3.11 クライシス!
佐藤 優
マガジンハウス


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マスメディアの二分化 “朝日vs読売”大企業と新興企業の代理戦争か


面白くなってきた。菅が脱原発宣言をしたことも面白いが、“原発”を真ん中に挟んで、マスメディアが二分化されだしたのが非常に興味深い。読売新聞・日経・産経は当然のように“原発推進”の枠組みから抜け出せない旧守論調を青息吐息で語り続けている。相当に辛い立場だが、方向転換をするテクニックに欠けているか、死なば諸共と狂信的に思っているかの、どちらかだろう。 かたや朝日新聞は、テレビ朝日・アエラ・週刊朝日と全資本系列を動員して、“脱原発”に舵を切ったようである。菅直人の延命策かと揶揄しながらも、東京電力の“電力ナイナイ神話”を漸く真っ向から叩きだした。6月27日の拙コラムで 「“原発神話”がバレタから、今度は“電力ナイナイ神話”に変えました」 において糾弾しておいたが、合理的に考えてあり得ない“嘘”と云う事で、流石の朝日は論調を変えた可能性がある。

しかし、単純に朝日新聞が“脱原発”に舵を切ったと歓ぶのも早計だろう。あの腐れ新聞社のことである、腹に一物あると考えるのが当然だ。それでは、その“一物”は何なのだと云うことだが、簡単に判るくらいのなら、苦労はしない。まず考えられるのが、経産省の分裂だ。“原発推進派”に乗っ取られていた経産省で、生き残っていた“脱原発派”が逆襲しはじめた、と云う見方が可能だ。結果的に、経産省記者クラブの情報が、原発を挟み込んで、右左に別れてしまっていると云うことだ。

ただ、此処で注意すべきは、経産省内の“原発推進派”も“脱原発派”も、エネルギー政策に関与する霞が関の権益は経産省のものだ!と左右に別れながらも、権益の囲い込みと云う思惑では一致している事である。政局次第で、どちらにでも転びそうになったので、経産省自体が両天秤を決め込んだと考えるのが妥当だ。しかし、朝日と読売が経産省の思惑とは違う形で、世論を二分する闘いに一歩踏み出した可能性も捨てきれない。

もう一つ、異なる次元での観察も可能だ。それが、大企業と新興企業の攻防である。重厚長大な製造業と金融やIT関連企業群との闘いと云う側面も無視できない。この辺(企業はどちらに転ぼうとも利益を追求する集団であり、左右の区別に強い関心はない。保守でもリベラルでも、そこに利益の道筋が見えればOKなのだ)は一枚岩ではないので、理路整然とは説明不能だ。

新興企業の代表がソフトバンクであり、楽天だ。旧大企業群の代表が東京電力・経団連(米倉弘昌・住友化学)である。この闘いは、大きな政府と小さな政府の闘いであり、中央集権体制維持と地方主権の闘いであり、市場原理主義と旧主派の闘いである。ただ、これらの要因は単純明快に区別する事は困難で、時に利益相反な関係も現出するので、一概に二つの権力闘争が現出していると言い切ることは出来ない。

ただ、読み解くのが難しいマスメディアの混乱は非常に良いことであり、日本の盤石すぎた霞が関統治システムに“蟻の一穴”を開けることであり、ブレーク・スル―の突箱となる期待があるだけでも、悦ばしいことだ。

今回の不幸な原発事故を通して、我々は原発やエネルギーについて真剣に考えるチャンスを与えられた。独占企業の危うさを身に滲みて教えられた。独占企業が独善的に消費者を食い物にしている事実を如実に観察する事が出来た。当たり前だったことが、実は嘘八百だと云う真実を見せつけられた。小沢一郎の強制捜査問題でも、“正義の検察”が実は“不正義”の象徴的存在であり、裁判所の判事達は“不正義”の象徴・検察の下請け機関である事が、今真実になりかけている。

しかし、我々は考えなければならないだろう。現在、さも当然のように語られている“民主主義”や“三権分立”が如何にマヤカシに満ちたものなのか、国民の必至の観察眼なしには、腐敗以外のなにものでもないシステムである事を痛感した筈である。三権分立など、酷いもので議院内閣制においては、内閣総理大臣の権力は、キチガイに刃物状態になると、米国の大統領以上である事実を見せつけられている。

国民の観察眼と簡単に言ったが、今までのマスメディアに期待出来るものはなかった。しかし、その綻びは歩みこそ遅いのだが、ネットメディアや個人発信のブログ等々で、ボディー・ブロウのように効き目を現している。派手さはまったくないのだが、忘れた事に効いてくるようだ。検察糾弾デモも原発反対デモも、マスメディアの報道こそ殆どなかったが、明らかに現在の状況を呈する役割を果たしている。

今回は、石川知裕議員が佐藤優氏のアドバイスで必死の“ICレコーダ及び集音マイク”での隠し取りがあり、エネルギー問題では原発事故と云う不幸な出来事によって、我々は気づいたのだから、少々哀しいわけである。

しかし、朝日新聞が“脱原発”を声高に語り出した事実は大きい。様々な思惑が隠れてはいるとしても、小沢事件で行われてきた記者クラブ発信・金太郎飴報道と云うモノが、自分達のメディアとしての存在価値を貶めていたと云う事実に若干気づいた可能性はあるだろう。 それもこれも、原発事故のお陰とか、ICレコーダのお陰と云うのでは、あまりにも情けない。我々国民も情けない部分は大いにあるが、ジャーナリストとしてのマスメディアは、我々の罪の百倍罪深いのだろう。

今後のマスメディアのあり方については、あらためて目を擦りながらでも、市井の我々がウォッチングする必要性があるのだろう。 なんとも民主主義を日本に根付かすには、相当の苦労を国民は強いられそうだ。まぁ国民が、生活者としての自分だけに固執すれば、それはしつこい様だが最悪の国家体制を容認することであり、自業自得でもある。しかし、お上に頼る、政治家の所為にする、誰かに頼る生き方を好むのも、これもまた選択である。監視のない民主主義は、独裁体制よりも危険だ。独裁体制は、独裁者を抹殺すれば済む。しかし、システムを抹殺する事は、殆ど不可能なのだから。

虚像に囚われた政治家 小沢一郎の真実
平野 貞夫
講談社


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