今宵も劇場でお会いしましょう!

おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

モンテカルロ・バレエ団 Aプロ 

2012年03月10日 17時36分49秒 | バレエ/ダンス

2012/03/06
モンテカルロ・バレエ団 Aプロ @東京文化会館
「シェエラザード」 振付:ジャン=クリストフ・マイヨー/音楽:ニコライ・A.リムスキー=コルサコフ
「ダフニスとクロエ」 振付:ジャン=クリストフ・マイヨー/音楽:モーリス・ラヴェル
「アルトロ・カント1」 振付:ジャン=クリストフ・マイヨー/音楽:クラウディオ・モンテヴェルディ

バレエに見る「めくるめく愛の饗宴」(シェラザード)だとか、「洗練された筆致で描く、愛と官能の神話的物語」(ダフニスとクロエ)だとか、「鋭い美意識に貫かれた緻密なダンス」(アルトロ・カント)とやらを観てまいりました。

って、そうかぁ~??
上記はいずれもチラシに書かれた煽り文句ですけど、これが本当にそうならば、私はバレエがつくづく解らない女なのね。
ってか、私の思う「官能」っていうのが、どうもちょっと違う気がする(笑)

これは大人が楽しむバレエだと思うので、小学生以下の子供にはとても見せられないようなセクシャルなシーンが満載でした。
が、「セクシャル」であることと「エロティック」であることは、同じようで微妙に違うよね?
官能的ならばエロティックのほうでなきゃ! とか私は思うんだけど。
だからやっぱ、私にとっては、そこにはロマンチシズムがあるかどうか?ってことで、まあだけど、「シェラザード」にしても「ダフニスとクロエ」にしても、舞台のあらすじからして官能的だかどうかは大いに疑わしい。
つまり、男女が絡むそのシーンが多いよね、ということなので、その部分をどう演出するかで随分と様子が変わる作品なんだろうな、と思いました。

それにしてもねぇ…、まあ良いんですけどね、そもそも私はバレエがよく解らないままに「ぼお~っと観ていたい」人なんで、踊りだとか演出に関してはどうこう言うつもりはありませんけど(言いたくても言えないし)、ましてや個々のダンサーさんたちへの評なども勿論書けませんけど、
あ、だからこんな感想記なんかを書くなよ! ってな話になるのかもしれないけど(笑)
ここまで、ただ「ぼぉ~っと観ていた」だけ、っていうのも珍しいかも。
もともとそういう姿勢で観たかったのだから、これはこれで良いんだけど、官能の舞台だなんて言うから少しは心揺れるものがあるかと期待していたら(笑)、そうでもなかったという、ただそれだけの話だったりしてね。
強いて言うならば、「ダフニスとクロエ」の舞台美術で、「あの巨大な男女の裸体画はそんなに見たくもなかったな~」とか、「オーケストラはやっぱり生で聞きたかった」とか、そんな感じかしら。

それで、この三つの作品の中でどれが一番良かったといえば、私は最後の「アルトロ・カント1」かな。
この作品は「両性具有がテーマに据えられている」とかで、パンツ姿の男女にスカートを穿いた男性が混じっていたりして、なかなかに珍しいものでした。
例によって四階席から観ていた私には、遠目だったので時々オペラグラスで「この人って、男なの?」と確認したほどに、スカート姿の男性は女性の動きで踊ります。
同じ振付でも、やっぱり男性の踊りと女性の踊りとは全然違うものなんですね。

だから、体つきは凄い筋肉質で、よく見れば男性そのものというダンサーでも、女性の踊りをすれば遠目ではどちらか判別しにくいほどに女性的です。
その男女が判別しがたく入り混じった群舞は、暗闇にロウソクの灯るような薄暗い舞台の上で効果的に浮かび上がり、どこか厳かな中にも倒錯的な美が感じられました。
これもね~、古典バレエを観たい人には向かないとは思うけど、まあ好き好きなんでしょうね~。
美意識は人それぞれに違いますから。
ましてや、それに性的なものが介在するならば、当然好みは分かれるだろうし。特に女性と男性では見方が全然違うのでしょうね。
だからこういうエンターテイメントでこういった題材を扱うのは難しいかもしれないな。とか、思ったり。

そういや、ミュージカルの世界ではゲイは度々登場するけど、両性具有で男女の性が交じり合ったような倒錯的な舞台があるのかどうかは知らないけれど、私は観たことがない。
それどころか、「官能的なミュージカル」っていうのもないよね?
って、べつに見たかないから、まあいいか(笑)


映画「Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」

2012年03月10日 14時12分06秒 | 映画

2012/03/06
◆映画「Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」

今年に入って、何故か私は「ダンスだけ」の舞台が無性に見たい!
ダンスは、自分にはほとんど技術の良し悪しとかが解らないだけに、子供のように無邪気な気持ちで観ていられるし、言葉で説明されないぶん情報量が少ないけれどその実とても表現力が豊かなので想像力が掻き立てられるしで、自由な気持ちでぼぉ~っとできるところが良いんですよね~。
まあ、私はダンスを見ている時に限らず、いつでも「ぼぉ~っとしてる」といえば、してるんですけど(笑)

それで、二月の末から先週にかけて「テヅカ TeZukA」、映画「Pina」、モンテカルロバレエ団(Aプロ)と、そういうのを三作品、立て続けに観ましたけど…なかなか感想が書き出せなくて…。
で、その三作品は「バレエ/ダンス」でカテゴリーが一緒にできそうなので、この際ひとつの記事にしようかと思ったら、いくらなんでもこの三つを一緒くたに語ろうってゆーのはやっぱり無理がありました
それで観た順番は前後するのですが、映画のほうから書いていきたいと思います。
なんたって、「テヅカ」のほうは書きにくいから。

  

映画の「Pina」とモンテカルロ・バレエは3月6日に半休が取れたので同日に観たわけですが、
「Pina」を観ながら、「こういうダンス、最近どこかで観たような気がするなぁ…」なんて思いながら、ぼぉ~っと見ていたら、なんだ、つい何日前の森山未來くんが出演していた「テヅカ」のダンスがこんなだった。
な~んて、だから「テヅカ」の振付をしたシディ・ラルビ・シェルカウイ氏は ピナ・バウシュの流れも汲んでいた人じゃないか!ってんで、「あんた何ぼさっとしてるんだ? ちゃんと聞いてなさいよ!」ってな話だったのよね。

「Pina」は冒頭に出てきた「春の祭典」がまぁ~、凄かった! 
バレエは言葉の無い演劇のようだと思うけど、これは「言葉で説明できない」演劇のようでした。
この舞台を生でもっとじっくり観続けたなら、言葉で説明できない涙が零れてしまいそうです。
で、そのまま天才舞踏家ピナが手がけた舞台映像が続くのかと思いきや、彼女の舞踊団のダンサー達、つまりピナのお弟子さんたちのダンス・シーンが、彼らの言葉をはさみながら入れ替わり立ち代り次々と続きます。
彼らがピナから教えられたこととはどういうことだったのか? とか、ピナはこう言った、ああ言った、とかいう回想とか。それを肉体で表現し、または言葉で語るわけです。

ピナは言った。
「愛のために踊りなさい」と。
そして言葉で表現できないものを肉体で「語る」ピナの踊りの、その表現の行き着くところには「美と悲しみと孤独」があった。

と、まあその辺りの言葉はとても印象的でしたが、なんというか、私はそれを見ているうちに、だんだんと「イエス・キリストの十二使徒」だとか、「釈迦の十大弟子」とかを思い出しました。

師はかく語りき。
ピナの世界を何とかして伝えたい、継承していきたい、という弟子達の強い想いが感じられました。
だから、この映画はピナへのトリビュート作品とも言えるのだけど、映画としてはどうなんだろう…。
ピナの世界を直に感動するには、ピナが足りない。弟子達の中にピナのスピリットが生きているにせよ。
それに何よりも3Dにした意味があまり感じられなくて、フライヤーで「劇場を超える臨場感」などと期待を煽ってくれたほどには舞台の臨場感はなかったように思います。
なんというか、これはダンスの「ドキュメンタリー映画」だったので、映画そのものが物語として大きな流れの「ひとつの作品」ではないのね。つまりピナの舞台はともかくも、この映画自体は劇的ではなく記録的なものだから、映像的にも作品的にも「劇場を超える」とまでは私には思えませんでした。
だったらね~、ピナの舞台を延々とでも良いから、もっとがっつりと見せてくれほうが私は良かったんだけど。
何せ、言葉で語れないものを無言で「語る」天才舞踊家なのだから、ひたすらにそれを観れば言葉はいらないのでは??とか思うし。
結局この映画を観て良かったかどうか? ということならば、私は「観て良かった」とは思いますが、「もっとたくさんピナ自身の創った舞台で彼女の言葉にならぬ語りを見てみたい」と思ったので、ああ、そうか、それじゃあ、「だからやっぱり良かったんじゃん!」ってことになるのか(笑)

それにしても、ピナの踊りは古典的なバレエにあるような「お約束」のない、ダンスというよりは言わば抽象的な身体表現の世界だと思ったので、絵画ならば抽象画、音楽で言えば現代音楽を私は思い出しました。
そして、「もしも文筆家が、このピナ・バウシュの『言葉にできぬ語り』をあえて言葉にして表現したらどうなるのだろう?」などと、私などはつい思うのですが、もしそれを試みるとするならば、それは詩になるのか、俳句になるか、それとも小説にできるのか…。
いずれにしても、画期的な言葉の抽象作品となり、それはたぶん解らぬ人にはさっぱり解らぬ、およそ文学としては破綻したものになるかもしれません。
でももし、書き手の想い、それがむき出しの魂として表現できるならば、それもまた「言いたいことに何がなんだかさっぱり解らないが、言葉にならない何かを感じる」という作品になるのでしょうね。
うん、それはやっぱり、ほとんど世には出られない、アウトサイダー・アーティストの世界になるのかも?
だとしても、その「何か」の中に、「美と悲しみと孤独」な魂が宿るとすれば、すべての芸術がピナのようであれるかもしれません。

…とか。
そんなこんなで、フライヤーの裏に書かれた「各界からの賞賛の声」ほどには私は感動しなかったものの、色々といい刺激になった映画でした。