Ruby の会

シニアライフ~能楽・ボランティア・旅行・食べ歩き・演劇などを綴っています

映画 と ランチ と 謡の申し合わせ

2019-10-01 | 映画・テレビ・演劇・芸能

  「ふるこはんフェス」の翌日は映画の日。 義理人情で生きる昔気質のヤクザが、経営不振に陥った高校の再建を図る姿を描く「任侠学園」。社会奉仕に目のない組長(西田敏行)は次から次へと厄介事を引き受けてしまい、ナンバー2の日村(西島秀俊)はいつも振り回されてばかり。学校には嫌な思い出しかない日村だが、子分たちを連れて仕方なく学園へ向かう。そこで彼らを待ち受けていたのは、無気力・無関心な高校生と事なかれ主義の先生たち、自分の子どものことしか考えぬ父兄だった。何と言っても学園ドラマは楽しい。彼らが次第に夢を見つけて行く姿は清々しい。挿入歌として西田敏行が歌う「また逢う日まで」が心にしみた。演奏は東京スカパラダイスオーケストラだ。 

         

 映画の前にランチをとったのだが、この日は久しぶりに「四六時中」。以前一人でもよく入った店だ。おひつご飯が美味しい。

 👇 姫さんは「かき揚げおひつ・小温そば」。お蕎麦はもちろん、つゆの出汁が格別に美味しかったそうだ。

 👇 私が注文した「帆立のバター醤油おひつご飯」。

 👇 最後に出汁をかけて雑炊にしたところ。 会計はシネマ割引きで5%引き、が、この日からの増税10%はしっかり加算されていた。

  映画の後、「サンマルク」でコーヒーを。いつもはもっとゆっくりするが、この日は夜、もう一つ行くところがあり、さよならをする。 

 早めの夕食後、赤祖父の米島さん宅へ。5日(土)の「三派能楽大会」の素謡(無本)「藤戸」の申し合わせがあった。私は、まだ完璧に暗記ができていない。2度通し稽古をした。後、4日で覚えないと…。 


ふるこはんフェス ’19~その2

2019-10-01 | イベント

  高岡市の「市民と市政」9月号で「ふるこはんフェス」の紹介記事を見て、面白そうだな~と思っていた。ようこ姫さんからお誘いがあった時、すぐ「行くよ」と答えた。今年で2回目、新しい行事らしい。

 チラシには、” 地元の人たちから親しみを込めて「ふるこはん」と呼ばれる高岡市伏木にある勝興寺。真宗王国・富山を代表する寺院であり、地元の人に支えられてきた、地域の宝もの。そんな勝興寺の20年余りに渡る「平成の大修理」も終盤となり、かつての壮麗な姿を取り戻しつつあります。よみがえった勝興寺に多くの人に訪れてほしい、もっと地域に開かれたお寺にしたい、そんな思いから生まれた「ふるこはんフェス」。多くの人で賑わった昨年に引き続き、今年も第2回「ふるこはんフェス」を開催します!”

 勝興寺の起こりは、1471年、蓮如上人が越中砺波郡蟹谷庄土山(南砺市土山)に創建した土山御坊(どやまごぼう)で、蓮如の四男蓮誓が置かれたそうだ。土山では今でも地元の人たちが御坊を祀っておられ数年前に「退公連の会」の旅行で訪ねたことがある。その後、蟹谷庄高木場(南砺市高窪)へ移転したり、火災に合ったりして、佐渡にあった順徳天皇の御願寺「勝興寺」を再興、寺号を相続したそう

だ。1519年には安養寺村(小矢部市末友)に移転し、蓮誓の次男実玄が安養寺城を建てた。

 戦国時代は、瑞泉寺と並んで越中一向一揆の中心勢力として猛威を振るったが、1581年、5代顕幸の時に焼き討ちされた。1584年、佐々成政が古国府城の土地を越中一向一揆に寄進し、顕幸が移ったこの地が現在の勝興である佐々成政が富山の役で敗退した後も、加賀藩前田氏の庇護を受けて境内が整備された。(以上ウイッキなどより)

 👇は、「ふるこはんフェス」のポスター。イベント内容は、音楽法要、僧侶DJ、坊主Cafe&Bar、ワークショップ、勝興寺見学ツアー、コンサート、フード&クラフトマーケット、などとある。 

  👇 「こいのぼり食堂」 

 その隣の洋品店。上着にバッグなど。

  👇 境内にはテントのお見えがいっぱい。ここは雑貨屋。

  夏の海辺のような白いテーブルと椅子が並べてあり、そこに座ってから揚げやポテトチップス、コーヒーを飲みながら夕涼みの気分。ほとんどが若者や若い親子連れ。ときどき老夫婦や家族連れも…。法要から流れてきた人たちもいるし、まだ本堂でお参りしている人もいるのだろう。三々五々でまさにお祭り。そこで珍しい方に会った。元の職場で一緒だった先輩で、伏木のお生まれだそうだ。この日は日中は「万葉歴史館」の講座を聴き、その後勝興寺のイベントに参加したそうだ。自分で車を運転し、杖をついて歩いて来られた。もうすぐ米寿と言われるがお元気そのもの。

 帰り道、伏木測候所のライトアップを見せたいと、姫さん。ここで毎日、毎夜の気象観測をしておられる。中に入ると説明をしてくださるようだったが、時間も遅く疲れて断念。この地は、家持の時代の国府跡とも言われている。

  👇 はるか彼方海の向こうに「新湊大橋」が見えた。