Ruby の会

シニアライフ~能楽・ボランティア・旅行・食べ歩き・演劇などを綴っています

素謡「実盛」

2016-07-10 | 能楽

 7/3(日)、親しい方の通夜に参列した。故人は、私の元の職場の大先輩であり、いろいろお世話になった方。また、奥さまとも何度か一緒に勤務したので、多くのことを教えていただいた。子どもの年齢が近かったせいもあり、何度か一緒にスキーに行ったこともあった。

 入院されたと聞いてはいたが、急だったので知らせを聞いた者は皆驚いた。最近お見かけしたのに…と言う人も何人もいた。故人はクラシック音楽がとてもお好きだったので、通夜式の前には、ヴァイオリニスト巌本真理さん演奏のヴァイオリン協奏曲が流れた。
 通夜の後には、所属しておられた謡曲の会の会員さん達が謡を奉納された。姫さんと私にも声がかかり、習っていない曲ではあったが、本を持って行った。

 曲は、「実盛」の最初の部分。ワキとワキヅレ(僧と従僧)が、説法をする場面。

 「極楽浄土は遠く離れた所にあるが、念仏を唱える者は漏らさず救いとって下さるという。思えば、易い道なのだ…。」
 ♪ 独りなお佛の御名を尋ね見ん。佛の御名を尋ね見ん。おのおの帰る法(のり)の場(にわ)。知るも知らぬも心引く 誓いの綱にもるべきや 知る人も。知らぬ人をも渡さばや 彼の国へ行く法の舟 浮かむも安き道とかや 浮かむも安き道とかや。 ♪

 その説法の場へ、一人の老人(シテ)が聴聞にやってきた。「ありがたや、今日もお説法の座に紫雲がたなびいておる。鐘の音や念仏の声が聞こえてくる。老いの身ゆえ歩いてゆくのも難儀じゃが、せめてここからでも拝もうの。南無阿弥陀仏…。」 ・・・ と物語は続くのだが。

 ↑ の ♪~♪ に記したように短い部分だが、習っていない謡なので印を見ながら歌うのに精いっぱい。ただ、途中で何度か涙がこみ上げ声が途切れてしまった。故人の元気で活躍しておられた姿、退職後お能の帰りに車に乗せてもらった時のこと、お宅を訪ねた時に玄関でお話したこと…いろいろ思い出され悲しかった。

 さて、「実盛」とは、源実盛、またの名は「斎藤別当実盛」のこと(以下ネットから)。

  斎藤実盛は、寿永2年(1183)、木曾(源)義仲と平家との戦いで平家方について戦い、加賀の国篠原の地で討ち死にしました。この時代は戦いに臨んで名乗りをするのが習いでしたが、実盛は名乗りをせずに奮戦したといいます。「木曾殿は御覧じ知るべし」、首はだいじにお目にかけよと、独り武者のままで戦い、身を投げ出すように木曾方の勇士手塚太郎光盛と組み打ち、討死しました。

 義仲はその首を見て実盛の首であると直感します。しかしそれならば白髪首のはずであるのに、鬢髪は黒く、髭も黒い。首実検に呼ばれた樋口次郎兼光は首を見るなり「あなむざんやな」とうめきました。「老い故によき敵と思われないのは悔しい、最後の戦いでは鬢も髭も黒く染めて出陣したい」と実盛が言っていたことを樋口はよく覚えていたのでした。

 このように実盛が平家方でありながら、木曾義仲に心を寄せこの戦いを最後と覚悟していたのには訳がありました。ひとつには坂東武者でありながら平家に仕えなければならなかった時代のわが身の不運を嘆く気持ちです。もうひとつは平家追討の名乗りをあげた木曾義仲にならば、勝ち戦をさせてやりたいという気持ちです。
 実は、義仲の父義賢が同じ源氏の甥義平(頼朝の兄)に殺された時に、まだ2歳であった幼い義仲をかくまって、木曾の中原兼遠(義仲の養父)に送り届けたのが実盛でした。義仲は実盛の首を前にして、自分に今があるのはみな実盛のはからいによるもので、実盛は自分の「七箇日の養父」でもあったと言ってさめざめと泣き、その首を手厚く供養することを命じたといいます。

 小松市 多太神社に実盛の鎧や兜などが奉納されているそうだが、尼御前SAに芭蕉の句碑がある。
 ↓は、昨年娘夫婦と京都へドライブした時の写真。

                                むざんやな 兜の下の きりぎりす      芭蕉