ギャラリー酔いどれ

売れない絵描きの世迷い言&作品紹介

暑中見舞い

2019-08-06 10:09:09 | Weblog
 画は  Gustav Klimt  グスタフ クリムト

 1862 ~ 1918 / オーストリア / 象徴主義           作


  「Beethovenfries_ Die_feindlichen_Gewalten 

  ベートーヴェン・フリーズ  敵対する力 1902」です。


☆晴れ。

広島原爆忌 です。  74年が経ちました   合掌


真実は いずれ 顕れる、

◆https://richardkoshimizu.exblog.jp/28502208/
richardkoshimizu's blog 2019年 08月 05日
911も 311も 真相が表に出るタイミングが やってきた模様です。


ニューヨーク市消防委員長、911事件の新たな捜査を要求。
事前に設置された爆発物が 3棟のWTCビルを崩壊させた 圧倒的な証拠がある

☆https://twitter.com/naoyafujiwara/status/1157997101021720576


トモダチ作戦の闇
福島事故当時、米空母ロナルドレーガンの乗組員だった人が また一人死亡。
白血病。

☆https://twitter.com/naoyafujiwara/status/1158004194164391947


WTC3棟は 爆発物と核兵器の併用で「制御倒壊」された。

ビン・ラディンの役割は、濡れ衣を被ること。

その証拠に、消防関係者、作業員に 大量の癌患者が 発生している。

911の粉塵を吸った人たちも 1万人近くが癌を発症している。

911の主犯は GWブッシュとイスラエル。


空母ロナルド・レーガンは、艦隊司令官と艦長の独断で、311直後、

東北沖に「救援」に 出向いてしまったため、

地震惹起のための海底核爆発で 高度に汚染した海域 に入ってしまい、

艦ごと被曝した。

4000名を超える乗組員の過半数が 既に癌など重篤な病気を患っているが、

おそらく、今後、全乗組員が発病する であろう。

911首謀者にとって、空母レーガンの汚染海域侵入は 「計算外」であった。


こんな無茶苦茶な、手抜かりだらけの「作戦」を、

テロリストが経営する大マスコミが 必死に隠蔽しているわけで、

そんな姑息な手口がいつまでも通用するわけがない。

もうそろそろ、真実が明るみに出る時期 なんでしょうね。

リチャード・コシミズでした。



*Commented by 芭蕉 at 2019-08-05


  明るみに  出てはまずいと  証拠隠滅


             売国司法も  逃げ支度



☆https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190804-00000098-kyodonews-soci
共同通信  8/4(日)
戦後憲法裁判の記録を 多数廃棄 自衛隊や基地問題、検証不能に


自衛隊に 一審札幌地裁で違憲判決が出た 長沼ナイキ訴訟や、

沖縄の米軍用地の強制使用を巡 る代理署名訴訟をはじめ、

合憲違憲などが争われた 戦後の重要な民事裁判の記録多数を

全国の裁判所が既に廃棄処分していたことが4日分かった。

代表的な憲法判例集に掲載された137件について

共同通信が調査した結果、廃棄は118件、保存は18件、不明1件だった。

判決文など 結論文書はおおむね残されていたが、

審理過程の文書が失われ、歴史的な憲法裁判の検証が 不可能になった。



Klimt、二枚目、



「Death_and_Life 死と生」です。



当ブログ 既報ですが、

◆http://www.yamamotomasaki.com/archives/2010
山本正樹  2015/08/08
<フクシマと ヒロシマ> 
 ~ 国民に本当の事を 知らせない という奇妙な符合 ~


より抜粋、

8月6日、8月9日は それぞれ 広島(ウラン型)、

長崎(プルトニウム型)に 原爆が投下された人類にとって、

特に日本人にとって 忘れてはならない日である。


<ところであなたは、日本の中枢は事前に

広島、小倉もしくは長崎に 原爆が投下されることを知っていた

という驚くべき史実が存在する ことをご存じだろうか。>

2011年8月6日には、NHKスペシャルで

原発投下~活かされなかった極秘情報~という番組が放送されたので、

この番組は見た方もいるのではないだろうか。

今でもインターネットでは見ることができるので、

是非、視聴していただきたい。 以下。

☆http://bww.jp/r/

黒い雨~活(い)かされなかった被爆者調査 ~ 8/6/2012 NHKスペシャル


また、この番組は、「黙殺された極秘情報 原爆投下」 松木秀文、夜久泰裕(NHK出版)

という本にもなっている。

広島と長崎の原爆について、私たちは、これまで突然 米軍の奇襲攻撃を受けた

のだと信じ込まされてきたが、テニアン島を拠点に作戦展開をする

米軍特殊航空部隊の原爆投下の動きを

日本軍の大本営情報部が事前に察知していたという事実
を、

NHK広島が1年間がかりの取材で明らかにしている。

8月6日の広島、8月9日の長崎の爆撃のいずれも 

日本の大本営は 米軍のコールサインを傍受しているにもかかわらず、

空襲警報すら出さず、おそらく、故意(終戦工作 のために)に傍観していた

と考えられるのである。

これでは、何も知らされずに ただ死んでいった一般国民を

この国の指導者は、生かすも殺すも自由な家畜 と見なしていた

と思われても仕方がない
 と思われる。


兎に角、国民の生命の安全よりも 国の担当者の事情や メンツ、

国体維持(天皇制 維持) を優先させた結果

無防備な市民の頭上を 悪魔たちの核爆弾が容赦なく襲った

ということは どうも間違いないようである。

そして、日本政府は <原子爆弾 災害調査 特別委員会> を原爆投下直後に組織し、

一番米国が欲しがるだろう 原発投下直後の 人体、環境への影響調査を

人命救助より優先し、731部隊の免責の取引材料 にしようとしたことまで

この本には書かれている。

政治というモノは残酷なものだ とは承知しているが、

まさに恐るべき 日本政府の動きである。

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さらに驚くべき事実を「江戸の歴史は 大正時代にねじ曲げられた」

という本がベストセラーになった 古川愛哲という作家、歴史資料収集家が、

原爆投下は 予告されていた ~ 帝国陸海軍の犯罪』」

という本の中で 指摘している。

古川氏は 長らく歴史資料を収集し、それを書籍にまとめることを生業

とする中で、自らの中に一つの疑念が生まれてきたと書いている。

それは、「第二次世界大戦において、なぜ日本国内では、

政治家や官僚、高級軍人の多くが 生き残ったのか」というものであった。

その疑念は、次第に「空襲や原爆投下を、一部の人間は事前に知っていた

のではないか」というものに変わっていく。

とりわけ原爆において、アメリカによる 事前の投下予告がなされた

のではないかと著者はいろいろな資料をあたり、突き詰めていく。

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二度にわたる原爆投下は、予告なしになされた とするのが定説だが、

私は疑問を持っていた。 なぜならば、

政治家や官僚、高級軍人の戦災死者が少なく、しかも、

原爆投下予告を 中国の広東で傍受した 1人の日本人兵士が存在したからだ。

この兵士、黒木雄司氏は 当時伍長、そして自らの体験を

書物として残していたのだが、歴史家は認めてこなかった。

ところが一本のドキュメンタリー映画が、この人物の証言を補強し、

あたかもパズルの最後の一片をはめ込むかのごとく整理してくれた。

それがまた、私の原爆投下と終戦工作に対する疑念を、

ますます深めることになったのだ」


古川氏に原爆投下と終戦工作に対する疑念を深めさせたドキュメンタリー映画は、

アメリカで制作された原爆死というタイトルの作品である。

1994年度の学生アカデミー賞のドキュメンタリー部門で

金メダルを獲得している。


この作品によると、長崎への原爆投下直後、それも当日(8月9日)、

連合軍の捕虜救出のために、米軍救出部隊が長崎に上陸したというのである。

しかも上陸の手引きを 日本海軍が秘かに行っていた
というのだから、驚きである。


この救出部隊の一人が 中心的な登場人物、実はこの映画の制作者の父親である。

この映画を観て大変な衝撃を受けた著者は、

真実を隠蔽してきた「この国の偽らざる姿の 本質」が浮かび上がるとして、

次のように書いている。

「思うに、この国は 強者が 弱者を盾にして利を貪り謳歌し、

失敗すると 強者が弱者を置き去りにして 逃げ打つ――

その歴史を繰り返してきたのではないか。

たとえば第二次世界大戦では、内地でも戦地でも これが繰り返されてきた
。」

(これには勝者によって美化されすぎた 明治維新の

下克上構造に原因がある。 後日、このことをレポートで解説したい。)


いわゆる「ノブレス・オブリージュ」が息づくイギリスなどでは、

貴族階級出身者が就く 高級軍人の死亡率は 非常に高いにもかかわらず、

日本では、空襲や原爆投下において 政治家や官僚、高級軍人の死亡率が

異常に低いという 摩訶不思議な現象が生じている

ことを古川氏は指摘している。 そして、フクシマ原発事故についても、

それは繰り返されたと著者は書いている。

福島原発のメルトダウンが確実視されはじめた頃、

霞ヶ関ではあるリストが出回っていた。

それは、関東よりも西にあたる都市のホテルの空室状況、

ガソリンスタンドの営業状況などを詳細に記入したリストだった。

小生もこの話は永田町で仕事をする人間から当時聞いている。

彼はその時、地方統一選挙も延期の可能性がある

ともアドバイスしてくれたのであった。

「つまり、官僚たちが考えたことは、自らが西へ西へと逃げることであり、

組織を挙げて、ホテルの空室状況とガソリン不足の実態を、

把握しようとしたのである。そして事実、多くの職員が

名古屋、大阪などのホテルを予約し、家族を『退避』させたという。

この話を聞いたとき、私は 怒髪天を突く思い に駆られた。」


さらに著者は、政府と東京電力が 放射能被害の実態を隠し続けて

国民を欺いてきたことに関して、次のように書いている。

「震災後、政府は 放射線予測システムSPEEDI(スピーディ)の

情報公開の遅れを詫びているが、何のことはない、

実際は福島原発被災直後から、そのデータを知っていたのである。

事実、震災翌日、福島原発に向かう際に、菅直人首相は、

自分自身の生命や健康に影響が出ないことをSPEEDIにより確認

したうえで、現地に赴いたというではないか。

つまり、政府・高官はSPEEDIのデータを自らのために使いはするが、

国民に対しては隠蔽し続けたのである。

その結果、本来は被曝する必要がなかった約1万人が

放射能を浴びた
という ・・・・・・」


このように日本という国の本質は、装いが変わっていることに

騙されている人が あまりにも多いが、現在も中身は何も変わっていないのである。

また、原爆投下については、古川氏も言及している

第五航空情報連隊情報室に所属していた黒木雄司氏の

原発投下は予告されていた!」(光人社)も 興味深いものである。

以下、引用。

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~まえがき~

毎年八月六日、広島原爆忌の来るたびに、午前八時に下番して

すぐ寝ついた私を、午前八時三十二分に田中候補生が起こしに来て、

「班長殿、いま広島に原子爆弾が投下されたと ニューディリー放送が

放送しました。八時十五分に投下されたそうです」といったのを、

いつも思い出す。 (二五三頁) このニューディリー放送では

原爆に関連して、まず昭和二十年六月一日、スチムソン委員会が

全会一致で 日本に原子爆弾投下を米国大統領に勧告したこと(一五八頁)。

次に七月十五日、世界で初めての原子爆弾核爆発の実験成功のこと(二一四頁)。

さらに八月三日、原子爆弾第一号として八月六日 広島に投下することが決定し、

投下後どうなるか詳しい予告を 三日はもちろん、四日も五日も

毎日つづけて 朝と昼と晩の三回 延べ九回の予告放送をし、

長崎原爆投下も二日前から 同様に毎日三回ずつ 原爆投下とその影響などを

予告してきた。

この一連のニューディリー放送にもとづいて

第五航空情報連隊情報室長 芦田大尉は 第五航空情報連隊長に

六月一日以降そのつど、詳細に報告され、連隊長もさらに上部に上部にと

報告されていた模様だったが、どうも大本営まで報告が上申されていなかった

のではないだろうか。 どこかのところで握りつぶされたのだろう。

だれが握りつぶしたのか 腹が立ってならぬ。

(中略)

この記録は 私が現在の中華人民共和国南部の広東において、

昭和二十年三月十一日付で 野戦高射砲第五十五大隊第二中隊より転属し、

第五航空情報連隊情報室に勤務、情報室解散の昭和二十年八月二十一日までの

約五ヵ月間の日々を記録したものである。

したがって人物名、場所名などはすべて 実名実在のものである。

(中略)

私もようやく今年は数え年でいうと古稀となり、老の仲間に入ってゆくので、

惚けないうちにと書くこととした。書いているうちに先ほども書いたように、

原爆に関する報告をだれが握りつぶしたのか。

なぜもっと早く終戦に持ってゆけなかったか

ということをいろいろと考えさせられる。

とにかく人の殺し合いという戦争は 人類の史上には もうあってはならない。


                    平成四年七月   黒木雄司

                            (引用終わり)

以下 ご参照あれ!



Klimt、三枚目、



「家族」です。



昭和天皇 の大罪、

◆https://satehate.exblog.jp/9381417/
さてはてメモ帳  2008-08-06
原爆ホロコースト:広島


より抜粋、


一九四五年 七月九日 広島

各地の放送局に 波長を合わせたラジオが一〇台以上も置かれていたが、

その部屋の中は天井に取り付けてある扇風機の低くうなる音の他は、

ほとんど音がしなかった。それぞれのラジオは、その前に坐っている人の

イヤフォンにしか音が伝わらないようにしてあった。

そこにいる人がやっていることは、日本の他の人間がしたら

死刑になるかもしれないことだった。

彼らはアメリカの放送を聞いていたのである。彼らはラジオのモニターであった。

二四時間ぶっ続けに、太平洋およびそれよりまだ向こうの地域の

放送を聞く仕事の、午前の班であった。

これは 畑元帥の第二総軍司令部の 通信部の一部 であった。

この部は 畑元帥の司令部の神経中枢であって、

西練兵場の近く、二葉山の麓にある元国民学校校舎の二階建ての長い建物の中にあった。

この通信部は 特設の通信線で東京の大本営陸軍部と 結ばれており、

また福岡、佐世保、長崎、鹿児島などの九州の軍事要点との間にも

他の通信線が通じていた。 地元では、呉軍港、宇品船舶司令部、および

広島城内の中国軍管区司令部とも結ばれていた。

この傍受室は この通信部の一番重要な施設で、

東京郊外にある 特種情報部だけが これに匹敵することができた。

この数週間、傍受室はいままでになく忙しくなったが、

それは有末中将の部下で すご腕のアメリカ事情専門家、大屋角造中佐

畑元帥の諜報主任将校として 広島に赴任してきてからのことであった。


畑元帥と大屋中佐は、刻々と変更される投下日時の把握に追われていた。

それで、大屋中佐は もう一つの傍受室 をつくるのである。

『昭和史の天皇』から引用する。

被爆の瞬間、軍の中枢である 第二総軍司令部参謀一課にいた

井本熊男高級参謀の談話である。 もちろん井本は負傷していない。

このとき、あけてあったドアから廊下へはじき飛ばされた橋本参謀と大屋参謀は、

そのまま無意識のうちに廊下の窓にかけてあったナワばしごで

建物の外に出て防空壕に向かったが、参謀室にまだ人がいたことに気づいて

引き返してきたのだった。その橋本氏の話にかえる。

「二人で歩きながら、直撃弾をうけたにしても爆痕がない。

これはいったい何だろう、とわたしがいったら、大屋君が、

そういえば妙な新兵器の海外放送を聞いたが、それかもしれんという。

この海外放送は実は大本営にはないしょで、情報の大屋君が主として

女性の二世を二十人ほど集め、鯉城に近い浅野候の別邸に

傍受所を設けて、内外の動きを見ていたのだ。

当時、わたしたちが気にしていたのは、政府首脳が 軍の本土決戦のカゲで、

どうやら終戦工作をやっているらしい
 ということだ」

大屋中佐は 鯉城(広島城)の近くに 女性の二世を二十名ばかり集めて、

ブロークン・イングリッシュを解読させていたのである。

彼は、この情報を 有末中将に伝え、有末中将は同部に所属する

皇弟・三笠宮崇仁(みかさのみやたかひと)中佐 に伝えていたのである。


テニアンから刻々と入る情報で、「八月六日八時十五分」の投下時刻を

正確に知ると、畑元帥と大屋中佐は 大衆動員

(引用注:八月三日~八月六日、義勇隊三万人、学徒隊一万五千人)を

原爆中心地近くに かけ、大阪から鹿児島までの将校たちを

八月六日午前八時 (これは九時に変更される)に

爆心地近くの陸軍の社交場・偕行社に集まれ

との司令官命令 を出すのである。

戦争終結に導くための スペクタル・ショーの演出 をやってみせるのである。


『エノラ・ゲイ』の続き を見ようではないか。

秘密が、第二総軍が隠し続けてきた秘密が 見えてくるのである。

一日のうちで 最も忙しいのは正午から夜の零時までの間であった。

その間、この部屋のラジオの半数が、沖縄、硫黄島、マリアナ諸島から

発せられる通信の傍受に向けられた。

モニターたちは、遠くはグアム島から発せられるアメリカ軍の命令の放送を

聞こうと耳を澄ました。 その命令は多くは暗号だったが、

そうでない生まのものもかなりあって、

すぐに役立つような情報が手に入ることがあった。

この傍受には軍のラジオ通信ばかりでなく、B29の通信兵が離陸直前に行なう

簡単なラジオの言葉も入った。

日本とマリアナ諸島との間には一時間の時差があるから--

広島のほうがテニアン島より一時間遅かった--

そのラジオのテストが 広島の時間で午後三時か四時頃行なわれるとすれば、

モニターはその夜 空襲のあることを知りえた。


モニターを傍受したテストの回数で、空襲にやってくる敵機の数を

おおよそつかむことができた。

モニターはその報告を上司に渡し、上司はそれを通信司令室へ送り、

そこから西日本全体の防空組織へ情報が流された。

それだけのことがわずか数分間でできた。  

爆撃機が日本の上空に接近すると、モニターは乗員同士の断片的な会話の交信

をキャッチし、上司はそれによって爆撃機が日本のどの地域を

攻撃するつもりかの見当をつけることができた。

そういう情報は 海上の艦船同士のラジオ通信の傍受記録と一緒に

タイプされ、あとで分析された。

畑元帥と大屋中佐はそれをもとにして、敵の兵力と意図とを 

驚くばかり正確に察知することができた


大屋中佐は 広島に来てからは、この仕事を自分がいかに重視しているか

をモニターたちに見せるために、定期的にこの傍受室に顔を出した。

畑元帥と大屋中佐が どれほどテニアン基地の情報を知りえる立場にあったかが、

この文章を読めば理解できる。

しかし、一つの謎が残る。

畑と大屋は 他の誰にも知られたくない 独自の情報網が必要ではなかったのか。

それで鯉城の近くに、わざわざ二世の女性を二十人ばかり使った

秘密の傍受室、そして、応答室をつくった。

そこで、テニアンにいる秘密室と 直接に原爆情報のやりとりをした。

二世の女性たちは、あるときから不自由な生活を強いられていたのではないのか。

どうしてか。 それは鯉城の近くに原爆が落ちたから 推測できるのである。

彼女たちは死んだはずである。

生き残った女性たちは沈黙を守るようにきびしく言われたであろう。

鯉城の近くにいた人々で生存者はほとんどいない。

原爆投下を知って、第二総軍の傍で傍受されなかったのは、

深い意味があったからだ。 証拠隠しである。

第二総軍から情報が流されていた と書かれているが、

原爆の情報は 中国軍管区に届いてはいない。


原爆の情報はすべて、畑と大屋の二人で 闇のうちに処理されたのである。

どうしてか?

劇的な演出で、多くの広島市民に 死んでもらうためである。

スペクタクルが必要であった。

天変地異に比すべき出来事が 演出されなければならなかったのだ。

スティムソンは 天皇にそれを期待したのである。

天皇の特命を受けた畑は、大屋を 三笠宮と有末のもとから強引に呼び寄せ、

演出を担当させたのである。


原爆投下を 事前に多くの人々が 知っていたのである。

どうして第二総軍においておや、である。

あの東京ローズの放送も、畑と大屋の情報が 有末のもとへと伝わり、

甘く美しい声に乗って、テニアンの原爆機の担当者たちの胸を

強く打ったのである。



鬼塚英昭 原爆の秘密[国内篇] 第一章 原爆投下計画と第二総軍の設立 

p028-p031より

--

もう一つ重要なことがある。それは、第二総軍が

広島市民たちを爆心地近くに動員したことである。

原爆遺跡保存運動懇談会編『広島爆心地中島』(二〇〇六年)から引用する。

この本の中に、「長谷川氏の手記」というものが載っている。

学校関係者は、口を揃えて、〔動員された生徒が〕危険な作業に出る

ことを極力反対しました。しかし、軍関係者は、承知せず、

防災計画上、一日を争う急務だからと強く出動を要望しました。

会議は長時間にわたり平行線をたどったのであります。

出席の軍責任者の○○中将は、いらだち、左手の軍刀で床をたたき、

作戦遂行上、学徒出動は必要であると強調し、

議長(内政部長)に決断を迫りました。

議長は沈思黙考、双方の一致点を見出そうと苦慮され、やむなく出動する

ことに決定、空襲の際は早く避難できるようにと引率教師を増やし、

少数の集団として、終了時間は一般より 二時間位 早くする

ことでようやく妥結しました。

この中の「○○中将」についての解説があるので 記すことにする。

〔○○中将とは〕当時、広島の陸軍部隊には 三人の中将が配属されていた。

一人は船舶司令部(暁部隊)の佐伯文郎中将、

一人は編成中の赤穂部隊の河村参謀中将であり、

もう一人は広島の第五九軍司令官(元広島師管区司令官)であり、

中国軍管区司令官の藤井洋治中将であった
(『広島原爆戦災史』『広島師団史』)。


「軍責任者」とは藤井中将 に外ならない。

したがって最高責任者、司令官自身が前述の学徒動員実施要綱にもある

一、二年生への配慮も、学校関係者の「口を揃えての」反対をも無視したこと、

さらには秋吉威郎内政部長が 沈思,黙考苦慮した経過が明らかになった、

以上のことを裏づけるように、『広島県史(近代H)』の「原爆と敗戦」の項では、

「広島地区司令部の強い要請により、中国地方総監および広島県知事は

八月三日から連日 義勇隊約三万人、学徒隊一万五〇〇〇人の出動を命じた」

と記している。

この解説の中に、「広島地区司令部の強い要請により」とは、

藤井洋治中将の要請により、と理解される。

彼を最高責任者としているが、私は広島の軍を指揮した最高責任者は

畑元帥であった
と思っている。

畑元帥が藤井洋治中将に命じ、広島県知事を動かし、

「八月三日から連日 着勇隊三万人、学徒隊一万五〇〇〇人を出動させた」

ものと確信する。

どうして、八月三日から六日までなのか。

エノラ・ゲイは八月三日から六日にかけて、天気のよい日を見つつ、

出撃の秒読み体制に入り、八月三日すぎに「八月六日投下」と

正式決定をするのである。これは 偶然では決してありえない。

畑元帥と テニアン島のルメイ司令官、そしてグローブス将軍、

そのボスのスティムソン陸軍長官が、日本側に求めてやまなかった準備工作である。

だから、夏の朝、八時ごろから 子供たちが駆り出されて、

強制疎開という名の瓦運びなどを させられたのである。

八月六日朝、偕行社に行く準備をしていたであろう藤井洋治中将は

爆心地近くの宿舎で夫人とともに被爆死するのである

(一説には偕行社にて死んだと書いた本あり)。

藤井中将は予備役であったが、第二総軍創設の四月に畑元帥から

広島地管区司令官に迎えられ、六月に第五十九軍司令官中国軍管区司令官となる。

畑元帥の命令で 子供たちを爆心地へ連れ込んだ のである。

広島市長は、藤井中将ではなく、高野知事でもなく、畑元帥に 直接、

「溢れる軍人を なんとか 少なくしてくれ」と依頼している。

この事実は、かのとき畑元帥が 広島の最高指揮者であった

ことを示しているのである。


https://pds.exblog.jp/pds/1/200808/06/75/c0139575_012366.jpg
畑 元帥
畑 俊六(はた しゅんろく):1879年(明治12年)~ 1962年(昭和37年)
日本の陸軍軍人。 A級戦犯として起訴された
最終階級は 元帥陸軍大将。偕行社会長。
位階勲等は 従二位 勲一等功一級


☆鬼塚英昭 原爆の秘密 [国内篇] 第二章 

 原爆殺しの主犯を 追跡する  p101-104より 


https://pds.exblog.jp/pds/1/200808/06/75/c0139575_08675.jpg
昭和天皇は知っていた「国内遍」原爆の秘密




棄兵、棄民の 昭和天皇 ですから。

蓄財と保身の 権化、 明治簒奪政権の 悪の結実・精華、 ということ。




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