ギャラリー酔いどれ

売れない絵描きの世迷い言&作品紹介

盛夏のみぎりⅢ

2008-08-06 11:10:06 | Weblog
 画は歌川 國芳(1798~1861) 

 号は一勇齋 作


 「義士本望を達して仙国寺へ引取固の図」より


 「大星由良之助 力弥 その他の義士」です。



☆今日も良く晴れました、雲一つなし。

気温も上昇中。

さて、本日は慰霊の日です。

◆http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi
眞悟の時事通信 平成20年 8月 5日火曜日

◎原爆の投下と広島の石にある「文句」

八月になれば、原爆の犠牲者への追悼、そしてソビエト軍の
満州から朝鮮半島への雪崩れ込みと樺太・千島占領への悔しさ、
さらに十五日の全戦没者への慰霊の思いが続いてくる。
八月は暑さのなかで、お盆のご先祖をお迎えする風習とかさなり、
独特の思いが大気に流れてくるように思える。その思いとは、
生きるものの思いというより亡くなった方々の思いである。
 
そこで、原爆記念日を迎えるに当たり、
改めていつも思うことを記しておきたい。
私は、原爆の犠牲者を心から追悼する。しかし、
広島の原爆公園にある、「過ちは繰り返しませんから」
という追悼の文句はしらじらしい。
私は気にくわない。嫌いである。
えらそうなことを言うな、まるで貴方たちの生きた頃は馬鹿ばかりで
過ちを犯していましたが、私たちは賢く振る舞います
と言っているようではないか。

また、原爆を落としたのが日本人だったとでも言うのか。
この文章の主語は誰であろうか。落としたのはアメリカではないか。

その証拠に、アメリカでは、原爆を広島に落としたB29を
未だに大事に磨き上げて展示している。
そのB29の前に「アメリカ人は過ちは繰り返しません」
と書いているなら分かる。しかし、
落とされた広島に主語不明でこの文句を書いている感覚が分からない。
一体天下の公園に、誰がこの文句を書いたのであろうか。

敵をとるという思い。この思いを素直に懐き表明した上で、
恩讐の彼方に昇華させるという慰霊ではいけないのであろうか。

曾我兄弟また忠臣蔵の話、古来我が国では、
敵討ちは武士の美談であったではないか。
 
また、非戦闘員がいる住宅密集地に爆弾を投下したB29搭乗員を
処刑したことにより、戦犯として絞首刑に処せられた
岡田 資中将の裁判闘争記録である「明日への遺言」をみると、
アメリカ軍でも敵討ちは違法とはされていない。
岡田中将の戦犯裁判において、アメリカ軍の日本本土爆撃の
実態が明らかになってからのアメリカ軍の判事また検察官は、
岡田中将の命を救うために、B29搭乗員殺害は「処刑」ではなく
「敵討ち」だと彼が証言することを願っていた。

そこで、私が元兵士から聞いた原爆被災者の直接の声を思い出す。
原爆投下の直後、広島に入った部隊があった。その部隊の兵士は、
おびただしい被災者の死骸と生きているが道ばたにうずくまっている
人々の群れをみる。そのうずくまっている人々は、彼にこう言った。

「兵隊さん、敵をとってください、敵をとってください」
 敵をとって欲しい、これは被爆者の自然の願いであった。
この事実に目をつぶって追悼はない。

我が国を取り巻く国々は、みな核保有国である。とりわけ、
中国は我が国に向けて東風21という核弾頭ミサイルを実戦配備している。
北朝鮮も核をもっており「東京を火の海にする」と脅迫したことがあった。
そこで自問しよう。
核を落とすなら敵をとると思う日本人と、
落とされれば「過ちを繰り返した」と思う日本人と、
どちらが落としやすいであろうか。
 
決まっているではないか。落とされれば、
自分が悪かったから過ちを繰り返したと思う日本人には、
良心の躊躇なくしかも仕返しの恐怖もなく落とせる。
落とされた日本人自身が言っているように、
悪いのは日本人であり落とす側は悪くない正義だと言えるからである。
しかもこのような日本人が、敵を討ちに来る心配もない。
 
それに対して、敵をとりにくる日本人には落とせない。
何故なら落とせば自分も敵をとられて死ぬからである。
 
そもそも、精神的にも敵を討つ体勢があること。
核抑止力とはこういうことである。
相互確証破壊、つまり、やったら確実にやり返す、
だから双方とも核は使えない。きれいごとではなく、
これが核戦争が抑止されてきた前提である。

ということは、広島の公園にある、「過ちは繰り返しませんから」
という文句は、核抑止力を自ら放棄して、
日本人には核を落としやすいですよ、
と核保有国に発信していることになるではないか。
敗戦ぼけ!もほどほどにしてほしい。

まさに、あの文句自体が、この厳しい国際社会のなかで
我が国に再び惨禍を繰り返させる「過ち」である。
「過ちを繰り返させない」為に、あの文句を刻んだ石の撤去を望む。

ところで、以下は、知っておいてもよいエピソード。
数年前に、拉致被害者救出への協力を要請しに、
赤坂のアメリカ大使館を訪問した。そこで通された大きな客間には、
立派なクラシックな戦艦の模型が飾られていた。
側によってその船名を見ると「サスケハナ」と書かれてあった。
そして、「なーるほどなー」と感心した。
「サスケハナ」とは嘉永六年六月三日、
浦賀に臨戦態勢をとって侵入してきたぺりー提督率いる
アメリカ艦隊の旗艦である。
ペリーは、アメリカ大統領の我が国に「開国と通商」を迫る国書を持参してきた。
そして驚いて接触してきた幕府の役人に対し、
如何なる事態になってもこの国書を幕府に受領させる、
もし戦闘中に降伏するならばこの旗を掲げよと「白旗」を渡したのである。

当時の欧米諸国が、力で非西洋国を屈服させるときの常套手段である。
この屈辱が、我が国が独立自尊のために富国強兵路線を進むバネとなった。
従って、石原莞爾将軍は、昭和二十年の我が国敗戦後に始まった
東京裁判の証人にアメリカ軍から喚問されたときに、
「証人を喚問するならば、まずペリーを喚問すべきだ」
と発言したのである。
まさに、このペリーが乗船していた旗艦の模型をアメリカは、
今も駐日大使館の客間に飾っている。
アメリカ人とは、なかなか歴史を忘れず覚えているもんだと感心した。
そして、ひょっとしたら、広島に原爆を落とした
B29「エノラ・ゲイ」の模型もぶら下げているのではないかと
その部屋を見回した。無邪気な(情緒のない)アメリカ人ならやりかねない。
 
とは言え、やはり、このアメリカのように、
日本人もさりげなく歴史を忘れていないよ、と示すことも必要であろう。
我が国で言えば、ワシントンの駐米日本大使館の客間に、
原爆投下直後の広島の写真を掲げ、写真の下に
「兵隊さん、敵をとってください」
という被爆直後の被災者の声を書いておくのもよい。



何度も申し上げておりますが、

アメリカは日本の「死神」です。

強引な接触が始まってからロクなことがない。死屍累々。

いまだ居座り、恫喝を繰り返し、国富を毟り取っております。

洗脳から目を醒ましましょう。

奴らも悪業の報いで落ち目の三度傘、 潮時ですよ。

「自主独立の日本」を回復いたしましょう!

政権交替、政界大再編を! 売国奴を放逐しましょう。

◆http://www.amakiblog.com/archives/2008/08/05/#001055
2008年08月05日
混迷する政局を楽しむ方法

<略>

さてその政局である。

注目点はいろいろあるだろう。

しかし、私が最も注目するのは、創価学会名誉会長の国会喚問問題と
小泉改革一派の福田おろしの動きの二点である。

いずれも政局と直に結びつく問題だ。

5日の読売新聞が、国民新党の亀井静香代表代行が、
「(矢野元公明党委員長問題を)臨時国会で取り上げざるを得ない。
言論封殺の指摘があった以上、民主主義の観点から事情を聞く必要がある」
と述べたと報じている。

もし矢野元委員長の国会招致が実現すれば、公明党にとっては大きな痛手となる。

覚悟を決めている矢野元委員長の国会発言は見ものだ。
内容如何ではさらなる事態に発展するかもしれない。

創価学会と何の利害関係もない一般国民の立場からすれば
ぜひとも実現してもらいたい。

確かに「言論の自由」は民主主義の根幹だ。

政権政党の一翼をになってこの国を動かしてきた公明党、創価学会が、
「言論の自由」を犯すような事をしていたのなら看過できない。

昔から取りざたされては消えていく政教一致という違憲疑義の問題についても、
この際はっきりと白黒つけてもらいたい。

そのためには名誉会長の国会招致も必要になってくるだろう。

創価学会、公明党にとっては最大の危機である。

だからすべてに最優先してこの問題を回避しようとするだろう。

みどころは民主党、国民新党がどこまで本気で追及するかだ。

自民党がどこまで公明党、創価学会をかばうかだ。

公明党は政権政党であり続けなければならない。

政権政党である限り国会喚問をかわす事ができる。

政権を手放したとたん状況は厳しくなる。

だから、福田自民党で選挙が勝てそうもなければ福田おろしに走る。

それでも自民党が勝てないと判断すれば自民党を見限って
民主党との連立に向けて舵を切る。

矢野問題はまさに政局そのものに結びつく。だから目が話せない。

もう一つは小泉改革派の福田おろしの動きである。

私は8月1日のブログで福田改造内閣によって小泉政治は終焉したと書いた。

もはや誰もがそれを認めている。

しかしその事と小泉一派の悪あがきとは別だ。

面目をつぶされた小泉元首相とその一派が
このまま黙って引き下がるかかどうか。これが第二のみどころだ。

すでに様々な事が言われ始めた。いわく小泉がかんかんになって怒っている。
総裁選で小池百合子をたてて戦う。自民党を割って
小泉新党をつくってキャスティングボートを目指す、などなどである。

それはありうる話だ。福田改造内閣の支持率が上がらなければ、
そのチャンスはひろがる。

そして福田首相には思惑はずれだったろうが、支持率は大して上がらなかった。
今後は支持率が更に下がっていく危険さえある。

ここで重要な事はメディアが、福田おろしに加担している事だ。

福田改造内閣を官僚支配、規制強化、ばら撒きの復活であり、
増税内閣だとレッテルを貼っている。

たとえば5日の日経新聞は経済コラム「大機小機」のなかで、
「改革か、反改革か」という見出しの下に、
小泉改革、福田反改革と決めつけている。

あのときメディアは小泉改革を持ち上げて今日の日本の混迷を招く過ちを犯した。

メディアはそれを認めたくないのだ。

小泉一派もメディアも、「改革を後戻りさせるな」と叫んでいれば
国民が納得すると思っている。

国民もなめられたものだ。

しかし、それは違う。

改革か反改革かではない。本物の改革か偽物の改革かなのである。

そして小泉改革はまさしく偽の改革であった。
それもとんでもない偽物の改革であった。

そもそも改革の本丸は、官僚支配の打破と官僚の無駄を排除する事にあった。

ところがそれには殆ど有効な手を打つことなく、
規制緩和の下に新自由主義を徹底して日本を格差社会にしてしまった、
対米従属を徹底して日本を米国に売り渡してしまった。
これが小泉偽改革の正体であったのだ。

そしてその痛みが表面化、深刻化するのはむしろこれからだ。

だから、小泉再登場は容易ではない。

いくら「改革を後退させるな」と言って見たところで、
「お前らに言われたくないよ」となるのである。

メディアがいくら改革を進めろと言ったところで、今の政治では無理なのだ。

国民にとっては不幸な事だ。

しかし混乱を通じて新しい政治が生まれるのなら、
そこに一縷の望みを見つける事ができるかもしれない。

そう期待して思い切り政局の混迷を眺める他はない。

どうせ眺めるしかないのであれば、思い切り楽しめばいいのだ。
批評家になって勝手に批評していればいいのだ。

政局は間違いなく混沌としてくる。

間違いなく面白くなってくる。



「小泉新党」大歓迎ですな。

売国奴炙り出しの手間が省けるというものですw

全員殲滅、落選させることでしょうし、そうなる。

いくらお人好しのB層?でもさすがに懲りたのでは。

小泉・竹中一派の金の動きを洗うことでしょうな。

海外の口座をね。 カポネですよw