(最初の上司Nさんとともに)
1978年3月、高校を卒業した私は市内の15名程の社員のいる印刷会社に入社した。職種は営業。
営業職を選んだのは、人と話すのが苦手意識があり、営業の仕事を通して自分を変えたいという理由だった。将来のことは、何とかなるという単純に考えていた。
入社は、1978年3月2日。繁忙期の仕事が落ち着いた入社3ケ月後、当時主任だった社長の弟Nさんの下で働くことになった。初めて接する社会人。自分のモデルになった人物である。
入社して一年後、Nさんよりボランティアサークルに入るよう進められ、入会。20名程の会員がいた。そこでは10年余り在籍。
19歳の私が一番若く、最年長が28歳。お酒の飲み方から生き方なども学んだように思う。特に研修イベントの準備から案内状やイベントの企画立案、打ち上げまで、そのプロセスを通してさまざまなことを教えてもらった。そして苦手だった人と話すこともなくなり、逆に人と話すことが楽しくなった。そんな機会を与えてもらい、フォローしていただいたのもNさんである。
そして、人に対する気遣いや思いやりについても、教えてもらった。特に、会社での宴会や旅行の企画を任せられた。まだ若く仕事では任せていただけないものの、その他のことで下積みをして、力をつけさせるという方法で、かなりの経験ができ仕事に役立ったし、私の後輩たちにも同じように行事を通して、教育の機会とした。
ある日、Nさんが海外に行って学んでことを話してくれたことがあった。そんな話に憧れて、いつか自分もをいう気持ちが芽生えた。
それから3年後チャンスが巡ってきた、総理府が主管する「青年の船」への挑戦だ。厳しい試験があったため、Nさんは多くの団体の長(たとえば青年会議所理事長や、ロータリークラブの会長)などに推薦状を書いていただくよう手配していただいた。そのおかげもあり、試験に無事パス。50日間、オセアニア地域を旅した。そこから大きな自信や世界観ができたように思う。
それらの活動も気づいたら中心的な立場となり、土日は研修や行事の企画などで過ごした。仕事も必死に頑張った。忙しい時は朝5時から出勤したりと毎日忙しく過ごしており、みんなからは早く死ぬんじゃない・・とも言われた。
そしていつか気付いたら、支店や営業所をゼロから立ち上がるなどの功績で取締役となり給料は初任給の7倍に。入社36年目、どうしてもやりたいことがあると相談したところ、Nさんからは「頑張れよ」背中を押してくれた。
あれから4年。転職し、資格取得や研修参加など忙しい毎日。一方、地域づくり活動も高校卒業以降40年近く続けている。さまざまな仕事や2つの団体の活動を通して、人や組織への支援をしている。そんな私も今日で58歳。
私の目標は、人を育てる、組織を育てるための専門の会社をつくり事業をすること。いろんな理由はあるが、この思いに至ったのも最初の上司の出会いなのかも知れない。