名古屋市博物館で開催中の企画展『名古屋城を記録せよ』(副題:名古屋城百科『金城温古録』の誕生)を観にでかける。
休みあけということか、館内は静かで午後の一時間ほどをゆっくり見て廻った。名古屋市の企画だということなのだろう、観覧料金も300円と安くありがたい。
中心になる展示品は64巻の多くに上る『金城温古録』。
パンフには「尾張藩士の奥村得義(かつよし)とその養子・定(さだめ)が編集した名古屋城の百科事典」とある。たしかに、シンボルの鯱のデザイン画や、多くの平面図・立面図をはじめ、庭園の植栽から塀に空けた狭間の数まで、名古屋城について網羅的に記録した書物だというのが一目で理解できる。
1808年に起きた長崎のフェートン号事件を端に、異国からの挑発のリスクと国防の必要性を感じ始めた尾張徳川は、防衛施設としての名古屋城の正確な調査資料の編纂を目論んで、藩の下級武士である奥村得義等に藩命を下す。実力本位の抜擢登用だったということになる。世の中はこうしたかたちでも動き始めていたのだ。
細野要斎、水野正信、小寺玉晁といった朋友の協力を得て、録の前半部分が献納されたのは万延元年。ペリーの浦賀来航からすでに7年が経過している。
録を眺めてわかることは、まず細かいこと。「記録こそ武家の総て」だった江戸時代だから当然といえば当然だが、文字通り委細もらさず記載されているのは、一種記録魔的な奥村自身の性格のなせる業だったろう。残るのは献納された冊本だが、一部には朱の入ったメモも展示されており、その細かさがよくわかる。
奥村は書の実力も相当のものだ。参考とされる他の歴史書の複写なども、筆致をかえて書ききっている。平面図や立面図などの線引きの繊細なこと。きっと竹ヘラなどで直線を描いたのだろう。さらに、御殿襖絵のコピーなどからみると、描画も素人以上の技をもっていたようだ。
得義の残した編纂を引き継いだ養子・定が、後半部分の清書を完成させるのは、途中中断もあって、それから数十年、徳川幕府が滅んで35年後のことだった。
得義は和歌もよくしたようで、荒子観音の藤見物の折の歌として短冊が展示されている。
『来てみれば磯のあらこは名のみにて きよき海辺に藤浪そたつ』 徳義
黒船の攻撃は名古屋沖を狙うことはなかったわけだが、昭和20年の大空襲で灰燼と化した名古屋城が、僅かな期間で見事に再建できたのは、多分に、奥村の貴重な資料があってのこと。幕末期、尾張徳川の「先読み」は間違っていなかったというわけだ。
92代の内閣総理大臣に麻生太郎が決まった。「先が読める」といったのは前総理。麻生新総理にもしっかり「先読み」をお願いしたいものだ。
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