感動ブームも結構だ。
しかし、毎日毎日、あっちでもこっちでも感動の洪水
のなかにいたら、やがて人はそこから脱却しようと
するだろう。
という話だが、
果たして、どうだろう。
果たして、そこから脱却した後の空白の時間に、どれだけ
の人が耐え得るだろう。
それは、なかなか現実として、厳しいものだ。
その空虚さに、抗することができる者は、どれほど
いるのだろう。
問題は、なんで、こんなにも感動が洪水しているのだろう。
新聞でも、テレビでも、ラジオでも、映画でも、スポーツでも、
et cetera。
どうして、こんなにも、感動が流布しているのだろう。
世界中で、感動がまき散らされている。
食傷ぎみであっても、感動が、次から次へと朝な夕なに、
わたしたちの頭上に、まき散らされている。
日常の多くの時間を感動で埋めつくさなければ、と。
脅迫的な衝動に突き動かされている。
感動に多くの時間と、金と、精神力と、体力を消耗して
いる。
つまり、人生を消耗している。
感動を売って、生活をしている者がいるかと思えば、
その感動を買うために、散財している。
時に、おたくとなって、感動に魅入られた人生と化
し、時には、追っかけとして、空虚な人生を埋めよう
と、狂乱している。
感動という洪水に、生活も人生も精神も押し流されている。
感動という麻薬に中毒している。
感動という牢獄に収監されている。
感動という名で,誰もが収奪されている。
時代は、愚かなる選良等によって、どこに流されている
のか、慮ることさえ、誰もできなくなってしまって
いるのではないか。
多くの者が、感動の洪水に、心のどこかで、辟易しながらも
安逸の生活の心地よさから、抜け出すには、体も心も緩み
きってしまった。
ところで、
安上がりでもなんでもいい。泣ける、笑える、感動できる。
それでいいのだ。
むしろ、泣けない、笑えない、感動できないというほうが
さみしい。
素直に感動している人にケチをつけているより、元をとった
ほうがいいのである。
という話もあるのだが、
わたしたちの現況が、TPP(環太平洋経済連携協定)という名
の現代版「三国同盟」の時代に向かおうとしているのでは
ないか?
感動という名の麻薬中毒が蔓延している。
感動が蔓延した社会、マトリックスに取り込まれて、もう
われわれの日常がどこに向かっているか、考える気なんて
ひとかけらも残っていない。
素直に感動している人にケチをつけているより、元をとった
ほうがいいのである。
なんて言って、すむ状況なのだろうか?