お二人さまの老後

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遷都1300年の平城京跡を訪ねて

2011-01-19 16:06:33 | 日記・エッセイ・コラム

 9日はいよいよ本番の歴史探訪ツアーです。テーマは平城遷都から1300年を迎えた平城京跡とその時代の遺物を訪ねる旅。

 講師のH先生はじめ日帰り参加の14名を加え、総勢33名が貸し切りバスに乗り、9時半に京都駅を出発。奈良に向かいました。

 「奈良時代の政治史と権力者の変遷」「天皇家と藤原家の関係系図」「平城京の規模と宮殿配置図」などのわかりやすい資料を元にH先生が解説してくださり、今に残る奈良時代の貴重な遺物を見学していきました。

 まず、平城京遷都(710年)時の天皇で、持統天皇と大友の皇子との間に生まれた元明天皇の御陵を見学。賢い女性で遺言により丘で荼毘に付し、そこを陵墓としたそうです。

 続いてその娘・元正天皇陵も見学。

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  平城遷都の時代は藤原不比等が権力をにぎり、養老律令の制定などに力を発揮しましたが、その死後も、藤原家は天皇家と婚姻関係を結ぶことで権力の維持に努めたようで、元明天皇の子・文武天皇の后は藤原家から迎え、その子・聖武天皇の后も藤原不比等の娘・光明子(光明皇后)とのこと。

 聖武天皇は仏教によって国を治めようとし、国分寺建立の詔(741年)や大仏建立の詔(743年)を発した天皇です。

 つぎに向かったのはその東大寺の三月堂(法華堂)。これは天平12年(740年)から19年までの創建と考えられている東大寺最古の建物(国宝)だそうです。

 須弥壇と本尊の不空羂索観音などの仏像は修理のため、一部拝観できませんでしたが、梵天と帝釈天・日光菩薩・月光菩薩などは新しい礼堂の中に安置され、間近に拝観できました。

 「国宝の梵天と帝釈天は乾漆という麻の布に漆をしみ込ませ幾重にも重ねる手法で作られ、漆は蒸気を焚いて乾かした。当時、日本には漆がなく、金で作るよりお金も手間も掛かるので、以後、乾湿の手法では仏像は作られなくなった」とのお寺の方の解説があり、改めてその価値を再認識しながら見学しました。

 この後、大仏殿の脇を通って国宝の轉害門へ。これも「東大寺伽藍における天平時代の唯一の遺構」との説明書きがありました。

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 この後バスで新薬師寺へ。新薬師寺は光明皇后が聖武天皇の眼病平癒を願ってつくらせたもので、十二神将が天平時代の仏像(塑像)とのこと。

 十二神将は干支の守り神になっていて、自分の干支の神将にお賽銭を上げて守って下さるようにお祈りすると良いとのことです。私は自分より夫の干支・卯の神将にお賽銭を上げ、ローソクを灯し、健康を祈願しました。

 この後バスで移動し、左京二坊宮跡庭園へ。発掘により発見された当時の庭園跡で、有力者の邸宅か離宮の庭園だろうということでした。

 そこから歩いて、平城京跡が見渡せる奈良イトーヨーカドー(元そごうデパート)6階の展望台へ。ここは円形のガラス張りになっていて、広い平城京跡が見渡せます。

 事前にH先生が交渉してくださって、今は使用していないのですが、特別に認めていただいたとのこと。ここで手配のお弁当を頂き、昼食になりました。

 平城京跡は県道を作ろうとして遺跡が発見され、国が買い上げて史跡として保存されているようで、遷都1300年を記念して、朱雀門・遣唐使船・大極殿が復元されています。

 次に唐招提寺に向かいました。唐招提寺の金堂(国宝)は10年間に及ぶ平成の大修理を終え、美しい姿を現していました。

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 このあと、平城京跡の復元された朱雀門と遣唐使船、さらにバスで移動して大極殿を見学。 生駒下ろしの北風がピューピューと吹いていて寒く、毛皮の襟巻きが役立ちました。

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 最後に聖武天皇と光明皇后の娘で46代孝謙天皇 (48代称徳天皇)の御陵をバスの中から見学し、今回の歴史探訪ツアーは終了しました。

 京都に戻り、四条通りの「矢尾定」で「洛中御膳」を頂き、地下鉄で京都駅に出て、20時2分発ののぞみで帰路につきました。帰宅は23時過ぎになり、9日だけで歩いた歩数は2万歩に達しましたが、中身が充実していたせいか疲れは感じませんでした。

 講師のH先生や幹事のみなさんのご尽力に、ただ感謝・感謝の素晴らしい2日間でした。