大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

豊臣大坂城 大名屋敷跡

2019年03月23日 | 史跡
3月17日から右眼網膜前に張った膜の除去手術のため入院。
手術は18日に無事終了、本日退院しました。

時々、TVの字幕が見えにくいことがあり、国立大阪医療センターのかかりつけのK先生に相談、手術となりました。
入院中のTVニュースが、「豊臣大坂城時代の大名屋敷発見」、併せて現地説明会が23日であることを伝えていました。
丁度退院の日となり、その足で大阪府警の西隣の現地説明会場(大坂城三の丸の一角)へ。
(写真下南東角から撮影)

今回の発掘は上段(徳川期の地面・写真上のクレーンの手前)、中段(豊臣期の地面・今回の屋敷跡・写真上中程の溝の奥)、下段(大坂の陣の浪人陣屋跡・写真上手前)で行われ、中段の屋敷周辺からは、「さ竹内」と墨書きされた木簡や佐竹氏の家紋瓦(扇に月丸紋・写真下右)が出土したことから豊臣政権六大将の一人である佐竹義宣屋敷跡であることが判明。

場所は、大阪城の西側・二の丸の玄関口の一等地で、敷地規模は、東西約150m・南北約100mで屋敷は約100坪(東西約20m・南北約15m)の入り母屋造の豪壮な書院造の奥御殿であったようです。
屋敷跡(写真下中程左)の隣接東側には、台所と思われる建物(写真中程右)も併せて発掘。

また、屋敷の南側下段部分からは六つの掘立小屋(陣屋)を発掘、そのうちの一つからは火縄銃の未成形の玉が多く見つかり大坂の陣の際の銃弾工房(写真上手前区画①)があった、とのことでした。

豊臣大坂城の初めての大名屋敷の発見であり、これほど大きかったことに驚くと共に豊臣政権の力を示すものです。




コメント (2)
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