おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR渋川駅~津久田駅。その3。「白井宿その3」。白井町の道しるべ。土蔵造り。(利根川を歩く。第8回目。)

2021-11-26 18:45:58 | 利根川を歩く

                          マンホールの絵柄。

                   「大井戸」。

名の通り、町並みの8ヶ所の井戸の中で一番大きい井戸で、多くの来訪者も利用している。明治元年 (1868)頃、頼母子講により掘る。      

中央の流れに沿って桜並木。お花見シーズンには賑わいそう。

かつての屋号が掲げられています。  「萬屋」。 

 種々の商家が軒を連ねていた。 

          「炭屋」。   

下之坂。      

「和泉屋」。

        「白井宿 歴史資料館」になっています(閉館中)。         

北向地蔵尊石堂。

「中之町」(「白井中宿」バス停。)

延命水の井戸。

「白井町の道しるべ」。

                  左は「庚申塔」。

                 

日光・江戸道(南面)、ゑちご・くさ津道(西面)、奴満多道(北面)。

解説板。

城下町白井に通じる「中の坂」を下りきった水路のかたわらに、高さ170センチメートル、幅38センチメートルの道しるべが建っています。道しるべとしては大きく文字も達筆で堂々としています。嘉永2年(1849)の建立です。

  道しるべにしたがって、町を北へ進むと沼田城下へ、中の坂を上がると草津道、南に進めば渡屋(とや)の渡しから八崎を経て、日光道・江戸道に通じています。

  往時の白井町は、三国街道から外れていたものの、かつては白井城の城下町であり、江戸時代には市場町へと変貌(へんぼう)発展し、多くの人々が集まり旅人も通っていました。白井町が地方の核心都市として栄えたことは、現在も残る城下町の景観や町割(まちわり)などで知ることができます。

(この項、「」HPより)

「草津道」。「中之坂」へ。武者返しの石が。

「草津道」は、名湯・「草津温泉」への道。

醤油屋カフェ。

土蔵造りの家並み。

        「薬種」。

特色ある町並み―土蔵造りの家並み―

町の起源は室町時代、白井城の城下町である。沼田へ4里8丁、中之条へ5里、前橋へ4里8丁、渋川へ2里と交通の要衝の利点を活かした市場町への更正は、もっとも当を得た生き残り策といえよう。取り扱われた品名は、馬草・薪・材木をはじめ、麻・繭糸・木綿・煙草・塩・茶・水油・米麦・豆のほか、ひな市など時季のものと多岐にわたり、その商圏は3郡24ヶ村に及んでいたという。

元禄13(1700)年時点で酒造りが5軒あった。主に露天商であるが、経済の発展とともに大通りに面した家並みが構成され、他村では宿と呼ぶ者もいたほど賑わったが、3度にわたる(江戸中期・文久2・明治31)大火で家並みの大半が焼失し、武者返しの遺構もほとんどなくなってしまった。

いまの町並みの中で、土蔵造りの家並みが残っているのは豊嶋屋と薬種屋の2軒である。豊嶋屋は江戸時代を通しての豪商で、24文の私鋳銭を通用させていた。酒造・質屋も営み、幕末時には生糸で横浜貿易にも参画している。また打ちこわしにも遭い、梲(うだつ)付き長屋門(延享2・1745年頃建造)も傷められ、その傷跡が今も残っている。 天保8(1837)年建造の3階建て土蔵は現存し、薬種屋の土蔵も豊嶋屋の長屋門と同じ頃のものと思われ、市の日には土蔵の下屋の真ん中の戸を開けて補気竜勢円などの家伝薬を販売した。      

上之町の井戸。

白井町の町並みでは中ほどの位置で、明治2年(1869)頃、水不足解消のため、町内寄り合いの結果、井戸無尽の方法で掘り、今でも使用している。

このように各所にある井戸は今も現役で、つるべをたぐる太い綱も真っ白で新品のようです。

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