おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

過度な期待を持った朝日が馬鹿を見た!という筋書き通りの展開。

2014-06-30 09:49:13 | 平和
集団的自衛権、1日にも閣議決定へ 自公が合意の見通し(朝日新聞) - goo ニュース

 このかん、朝日には(他のマスコミも一部いたが)何とかして公明党が「平和の党」という党是を貫いて欲しい、との記事が盛んに載った。所詮、自民党の補完勢力でしかない「公明党」。それを承知の上で、支持母体の「創価学会」(員)のこれまでの「平和」志向の姿勢を頼りにして、と気の毒なくらいのキャンペーンだった。
 しかし、結果は予想通り。もともと、自民党の「高村」提案の土台は、公明党幹部の発案だったとか。
 すぐには認められないと「大上段」に構えただけで、結局、型どおりの(これまで何度もそうしてきた、いつもの通りの)「ガス抜き」の会合は開いて、おしまい!

 
集団的自衛権 公明の容認方針 理屈の通らない変節だ

 見苦しい変節と言うほかない。
 公明党が集団的自衛権の行使容認へ方針転換した。「解釈改憲反対」の主張は取り下げる。安倍晋三政権のブレーキ役を任じてきたが、単なる政治的パフォーマンスだったのか。政府・自民党の言うがままに譲歩した。
 自衛隊が戦争に参加する道を開く作業に加担している。もはや「平和の党」とは呼べない。連立政権に残ることを優先し、つじつま合わせを重ねた結果だ。信頼回復は到底おぼつかないと覚悟すべきである。
 理解できないのは山口那津男代表の説明だ。「個別的自衛権に匹敵するような集団的自衛権」であれば許される余地があるという。いかにも苦し紛れだ。二つの「自衛権」には、自国が攻撃されているか否かという明確な一線がある。山口氏は「これまでの憲法9条の規範性は全く変わらない」と主張するが、無理がある。山口氏は昨年の参院選で集団的自衛権には「断固反対」と明言した。今年4月には解釈改憲を「憲法の精神にもとる」と批判した。
 「国民の理解が不可欠」と言ってきた山口氏は、あからさまな前言撤回をどう説明するのか。集団的自衛権行使の8事例には「現実味があるのか」と否定的だった。公明党が軟化したことで、政府・自民党は8事例すべてに対応できると解釈する構えだ。
 中東海域での機雷除去など、公明党が猛反対した集団安全保障による武力行使も、閣議決定はしないものの、国会答弁で認めようとする政府の動きが判明した。
 政府・自民党を勢いづかせてしまった。山口氏は集団的自衛権行使の要件を狭めたことで「歯止めが利いている」と言いたいようだが、実態は逆ではないか。
 党内も穏やかではない。きのう開かれた地方組織幹部への説明会では、出席者から懸念や慎重論が相次いだ。理念なき方針転換には党員も納得できまい。
 連立離脱を排除したのは、政権の中から福祉政策などの実現を目指す方が得策と考えたのだろう。
 だが、結果的に政府・自民党に足元を見られた。今後与党内で存在感を発揮しようにも、押し切られてしまうのは目に見えている。
 来月1日には自公両党が正式合意し、閣議決定を行う日程が有力だ。その前にもう一度立ち止まって考え直すべきだ。
 
 (2014年06月29日「北海道新聞」社説)

 まさにその通りだ、と思う社説。でも、彼らにはこうした「正論」は届かない。それに、「民主党」も分裂気味、他の野党の中にはより積極的な「集団自衛権」路線もいる。悲しいかな、本気で反対する野党はごく少数。こうして公明党の変節も忘れ去られていくに違いない。
 

 
余録:踏まれても どこまでもついて行く げたの雪…

毎日新聞 2014年03月03日 00時12分(最終更新 03月03日 00時13分)

 踏まれても どこまでもついて行く げたの雪。こんな永田町川柳がある。どんなに踏んづけられても、げたの歯の間にはさまった雪のようにしつこく離れない。ということだが、最後は解けてなくなってしまう、との怖いオチもついている▲自民党と連立を組んだ政党の与党・権力への執着とその末路を皮肉る秀句である。1990年代当時の社会党を例に取れば、連立を優先するあまり安保政策など根本的な党是を180度転換、結果的に野党第1党から弱小政党に転落した経緯がある▲今、この試練が公明党に訪れているように見える。集団的自衛権行使を憲法解釈変更で容認するかどうか。本来この問題に慎重な同党が、これを急がんとする安倍晋三首相との間でどう綱引きし、決着させるのか。政局の最大焦点になりつつある▲「げたの雪」として遠からず容認するだろう、との見立てもあれば、むしろ、公明党ペースで進むとの予測もある。山口那津男同党代表は「雪」ならぬ「公明党=げたの鼻緒」説を唱え強気である。自公連立の長年の実績、公明の集票力への自民の構造依存が背景にある▲要は、この問題が公明党にとってどのレベルの党是なのか、であろう。有力幹部の一人が「最後の一線。ここを譲れば社会党と同じ運命だ」と語るのを聞いたことがある。であるならば、事は重大だ。党の存亡をかけての判断となる▲どちらに転ぶにせよ、自公連立にとっては大きな節目になる。肝心なのは、国民世論に対し、オープンでわかりやすい論議を尽くすことである。国民をげたの雪扱いしたとたんに支持率は雪のごとく解けてゆくであろう。

 この記事も、今や、むなしい!

 「社会党」と根本的に違うのは、公明党は、手弁当で必死に選挙運動に駆け回る方々、確固たる「信心」「信仰心」「御利益心」(他者から見れば実に歪んだものだが)を持った方々に支えられているということ。だから、節を曲げたと言われようが、何と言われようが、まったく影響はない方々(聞く耳を持たない連中)なのだ。

 いざ「集団」自衛権が発動される場面でも自公(+α)で押し切る覚悟は出来ているはず。万が一、派遣された自衛隊員に、戦闘中の犠牲者が出たら、ますますいきり立つだろう。
 そして、その犠牲者を国を挙げて「靖国神社」に祀ろう、となったら・・・、その時、獄中で死んだ初代会長やとりわけ二代会長の精神を受け継ぎ、公明党と決別する学会員はいるのか? それとも、もうすでに牧口、戸田を葬り捨てる覚悟が出来てしまっているのだろうか?
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日本製紙引き込み線(北王子線)跡。その1。(JR東十条駅下車。その4。)

2014-06-29 09:15:13 | 鉄道遺跡

北王子線

 東京都北区田端信号場駅と同区の北王子駅(貨物駅)を結ぶ日本貨物鉄道(JR貨物)の鉄道路線(貨物線)。かつては、途中から貨物線の須賀線(すかせん)が分岐していた。

 今年3月、現役だった日本製紙(旧王子製紙・十條製紙)への引き込み線(北王子支線)が廃線になりました。
 赤羽駅南口方面から明治通りへ出るとき、この線の踏切を通過していく道路が早道でした。夜、一時停止の標識があるので、いったん停まって一応左右を確認し、踏切を越えて行く。昼間でも一度も貨物列車に遭遇したことはありませんでした。一回くらい通過を見届けたかったものです。
 いよいよ廃線が決まり、旧踏切も線路側の方が封鎖、一時停止しなくても進めますが、つい長年の癖でちょっと停止して、ああ、停まらなくていいのか、と進むこともたまにあります。


東北線 田端信号場~北王子間の列車運行終了について
 平成26年3月12日 日本貨物鉄道株式会社

 当社の第1種鉄道事業線区であります東北線 田端信号場~北王子間(通称「北王子支線」、以下同じ)につきましては、昭和62年4月の当社発足以降、主に、仙石線石巻港駅・東北線岩沼駅から北王子駅接続の日本製紙㈱専用線に納入する紙製品の輸送のため、列車を運行していました。
 しかし今般、お客様である日本製紙㈱様から、平成26年3月限りで北王子駅専用線での貨物取扱いを終了する意向が示されたことから、同線における貨物列車の運行を終了することとしました。
 なお「北王子支線」については、他の需要も見込めないことから、北王子駅を廃止し、同線の第1種鉄道事業についても、国土交通省に対し廃止を届け出る予定となっています。


 廃線後、この敷地をどう再活用するのか? 緑道公園風にしてくれればいいなと思います。
 そこで、廃線後のようすを探索しに行きました。最寄り駅はJR東十条駅。そこで下車し、王子、上中里までの行程です。


1970年頃のようす
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 右側・中央部全体が工場の敷地だった。東側はすでに王子5丁目団地等の建設が始まっている。西側が日本製紙物流部門として残り、北王子支線・「北王子駅」があった。

敷地の北のはずれ、王子5丁目団地西側のところにある「産業考古学探索路」案内。赤い←が案内板の位置。
 ただし、案内図は、上がほぼ南になっているので、南北の方角を正しくすると


 

 旧王子製紙株式会社十條工場
 明治維新直後に需要が高まった西洋史を日本国内で自給することを目的として、明治6年に抄紙会社が設立されました。
 旧王子製紙株式会社はこの会社の後身で、本社は現在のJR王子駅の前にありました。かつてこのあたりにあった「十條工場」は印刷局に葉書の用紙を供給するため明治43年に設立されたものです。・・・
 太平洋戦争後の財閥解体に伴い、この工場は十條製紙(現日本製紙)となり、その後、昭和51年に現在の公団住宅団地へと姿を変えました。


1880年代のようす(「同」より)。→に「抄紙部」とあり、これが上にある明治6年創設の「抄紙会社」のこと。現在のJR王子駅前に当たる。蛇行している川は、「石神井川」。








(「今昔マップ」より)
 ①「抄紙部分工場」時代 ②「王子製紙」時代 ③「十條製紙」時代 ④現在。左の↓。
注:↓は「甚兵衛堀」。



現在は、「日本製紙物流株式会社」と「エヌビー運輸株式会社」となっている。  

 なお、この「産業考古学探索路」や上の地図にもあるように、「抄紙部分工場・王子製紙十條工場」につながっていた水路が「甚兵衛堀」。この堀のことは、また別の機会に(「北本通り」沿いに「案内板」あり)。

案内板付近から見た敷地内。

敷地の北側のところから道路を望む。

西側に接する道は「桜田通り」。

  
 構内のようす。かつての車両がそのまま残っている。

フェンスにはこんな句が。「花咲けば十条倉庫の汽車ぽっぽ」。地元の人に密着していた証拠?



かなり広くて長い構内ホーム。

すっかり雑草に覆われた線路。

構内引き込み線入口から北を望む。右が積み卸しホーム。

王子駅方向を望む。

踏切施設はまだそのまま。

 警告の看板などもすっかりさび付いたまま。
「線路内に物を投げ入れたり、柵に物を掛けないで下さい」

 
 振り返ると、・・・。

須賀線との分岐点。須賀線の跡は公園になっている。

須賀線は右にカーブしながら北本通りを越えて豊島5丁目団地方向に進んでいた。現在は、道路になっている。



合流方向を振り返る。右の公園がかつての須賀線跡。


1970年頃のようす(「同」より)。すでに「須賀線」は廃止になっている。○が分岐点。
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「失楽園」(古きよき映画シリーズ。その51。)

2014-06-28 23:00:41 | 素晴らしき映画
 1997年5月10日公開。

《スタッフ》

監督:森田芳光
制作総指揮:角川歴彦
脚本:筒井ともみ
音楽:大島ミチル
・・・

《キャスト》

久木祥一郎:役所広司
松原凛子:黒木瞳
衣川和記:寺尾聰
松原晴彦:柴俊夫
久木文枝:星野知子
知佳:木村佳乃
・・・
 出版社の敏腕編集者である久木祥一郎(役所広司は、突然、編集の第一線から閑職の調査室配属を命じられた。そんな久木の前に、友人・衣川(寺尾聡)が勤めるカルチャーセンターで書道の講師をしている松原凛子(黒木瞳)という美しい人妻が現れる。彼女は折り目正しく淑やかな女性だが、久木の強引でひたむきな恋の訴えに、やがて彼を受け入れた。そして、週末毎に逢瀬を重ねていくうちに、凛子はいつの間にか性の歓びの底知れない深みに捕われていく。
 二人の関係は次第にエスカレートしていき、凛子の養父が死んだ通夜の晩、久木にせがまれた凛子は、夫や母親の眼を逃れて喪服姿のままホテルで密会した。凛子は罪悪感にさいなまれるが、それはかえってふたりの気持ちを燃え上がらせる。
 やがて、久木は密かに都内にマンションを借り、凛子との愛の巣を作り上げた。
 凛子の夫・晴彦(柴俊夫)は興信所の調査で妻の不貞を知る。晴彦はあえて離婚しないことで凛子を苦しめようとし、一方、久木の妻・文枝(星野知子)は離婚してほしいと要求した。
 家庭や社会からの孤立が深まっていく中、二人だけの性と愛の充足は純度を増していく。
 そんな折、久木の会社に彼の行状を暴く告発文が送られてきた。久木は、それをきっかけに辞職を決意し、文枝との離婚も承諾する。凛子もまた晴彦や実母との縁を切って、久木のもとに走った。
 「至高の愛の瞬間のまま死ねたら」という凛子の願いに共感するようになった久木は、誰にも告げず、二人でこの世を去ろうと決意する。雪深い温泉宿へ向かった久木と凛子は、激しく求め合ったまま、互いに毒の入ったワインを口にした。
 後日発見されたふたりの心中死体は、局所が結合したままの愛の絶頂の瞬間の姿であった。







 原作の小説「失楽園」は 2014年(平成26年)4月30日に亡くなった渡辺淳一さんの作品。有島武郎と波多野秋子が軽井沢の別荘(浄月荘)で心中した事件を題材にした。
 小説やTVドラマが空前の話題作となってヒット。その映画化。「R15指定」。二人の性愛のシーンがかなりの評判に。

 が、今まで、この方の作品は、原作を読んだこともTVや映画化されたものも見たことがなかった。今回、遅ればせながら、上映当時大きな話題になった作品を鑑賞。
 作家としてかなりの地位を占め、他にも女優などとの艶聞で話題になっていた、くらいの印象。小説やエッセイの「売り」方が実に巧みな作家だなあ、といういささか冷めた感想を持っていたので(同じような意味では村上春樹も嫌いです)。

 あまりにも通俗的なストーリーの展開(原作を読んだことのない小生でも先が読める)、伏線も見事に決まる!のには驚きました。今や、そんな印象。
 もちろん、もともとの題材が「姦通罪」が存在していた戦前の心中事件を現代に移したわけですから、違和感があるのも当然。ただ、最後のシーンは衝撃的と言えば衝撃的。これがなかったら、「単なる」不倫の果ての「心中」もの。
 ただ、有島のときもそうであったように、女性の、心中への積極的な願望、働きかけ。それに応じ共に死出の旅に出る「男」の心。回想的に人生を反芻する雪のシーン、死ぬ二人の上に積もる雪、叙情的ではありました。


 きっかけは男の積極的なアプローチから始まった不倫劇が、いつしか攻守、所を変えて女性が積極的に全てをなげうっていく、そこに男の一貫した同意こそあれ、家族や仕事への執着や葛藤などは描かれない。
 たしか友人が大切なものとして「家族」「仕事」をあげたときの主人公の表情が印象的ではありました。愛する女のために、どの男もこだわる仕事も家庭も捨てること、人生そのものも未練なく捨ててしまえる。そういう男性像に女性ファンはしびれたのでしょうか?

 原作の小説の後半の多くは自殺現場調書の引用で占められている、らしい。それを一気呵成にはしょって映画化・映像化したのは、見事(2時間近くの作品に)です。
 自らの性的(情愛的な)願い(理想あるいは現実)を映し出す、それでいて、日本の伝統文学ジャンル「私」小説を乗り越えようとする、エンターテイメント作家の面目躍如たる部分を映像化することで、より確かなものにした感がします。もちろん映像化されることを企図したものであったようですが。

 80年の人生を通じて実に、個人的な葛藤をさしおいて、「憎くたらしい」男を演じ続け、たくさんの作品を残した渡辺淳一さんでした。

注:映像はすべて「YouTube」から借用しました。
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大賀ハス、ちょうど見頃。(千葉公園。その1。)

2014-06-26 20:20:40 | 世間世界
 25日。TVのニュースを見て、出かけきました。JR千葉駅から歩いて10分足らずのところにある「千葉公園」。集中豪雨の気配も濃厚な日でしたが。案の定、帰り際、猛烈な雨に。しばし、公園そばの「パークサイドホテル」の駐車場で雨宿り(そのとき、JR千葉駅構内が水浸しですごいことになっていたとは後から知りました)。

大賀蓮記念碑。

 「大賀蓮(オオガハス)」は、1951年(昭和26年)、東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)の落合遺跡で発掘された、今から2000年以上前の古代のハスの実から発芽・開花したハス「古代ハス」。
 検見川総合グランド一帯の発掘調査により、丸木舟とハスの果托などが発掘され、「縄文時代の船だまり」であったと推測され「落合遺跡」と呼ばれた。
 ハスの権威者であった大賀一郎博士が発掘品の中のハスの果托があることを知り、1951年(昭和26年)3月3日から地元の小・中学生や一般市民などのボランティアの協力を得てこの遺跡の発掘調査を行い、地下約6mの泥炭層からハスの実3粒のハスの実が発掘された。
 大賀博士は3粒のハスの実の発芽育成を、東京都府中市の自宅で試み、そのうちの1粒が育ち、翌年、1952年(昭和27年)7月18日にピンク色の大輪の花を咲かせ、「大賀ハス」と命名された。ハスの実は今から2000年前の弥生時代以前のものであると推定された。
 この「古代ハス」は、1954年(昭和29年)6月8日に「検見川の大賀蓮」として千葉県の天然記念物に指定された。また1993年(平成5年)4月29日には千葉市の花として制定され、現在千葉公園(中央区)ハス池で6月下旬から7月に開花が見られる。日本各地はもとより、世界各国へ根分けされ、友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っている。
 2012年になって、東京大学が、大賀ハスの生育されている施設などの売却を検討している事が判明、これに対し、千葉市民らが、大賀ハスが千葉市の市花となっており、シンボルキャラクターともなっていることなどを考慮し、存続を求めている。
(以上、「Wikipedia」参照)



ちょうど見頃という感じ。



平日、それも天候が不安定なせいか人の数は少ない。その代わり、じっくり見物できる。



マスコット(ゆるキャラ?)「ちはなちゃん」。大賀ハスにちなんでいる容姿。

中央にある大きな池(綿打池)の一部に「大賀蓮」池がある。



 ところで、この公園。戦時中は軍事施設の一部だったところ、ということです。

公園入口にあった説明板。

 「鉄道第一連隊演習所跡。」この公園から競輪場までの一帯が演習場。その関連遺跡として、架橋工事訓練、トンネル工事訓練などに用いたコンクリート製の建造物が残っています。
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男気を見せた(むろん仲間に対して)。その程度の御仁。

2014-06-25 00:02:57 | つぶやき
やじの音声分析 直後に別の男性の声も(NHKニュース&スポーツ) - goo ニュース

 鈴木某。おそらく自分の後、ヤジを飛ばした人間、実におっちょこちょいな男がいる。何となく目星は付く同僚。そこで、知っててかばうことで「男」を売ろうという魂胆、その程度の人間ではあります。マスコミなんかどうでもいい。確信犯の男です。
 尖閣に泳いで渡った男、こういうかたちでまたも格好をつけた(つけそこなった、と思いたいが・・・)。だから、反省の意志は毛頭ない。むしろ、腹の中では「いいこと言った」と支持者がいるんだ、くらいのおごり。

 あえてすぐに言い出さずにいたのも、都議会の会議規則で「懲罰の動議は事犯があった日から起算して3日以内」とされていることを十分承知したうえでのこと。

 国会から地方議会まで今や敵なしの自民。そういう自民党にした選挙民も問題、ただ、そうさせた民主党。そこに今日の政治の退廃の根源がある、それに気づかぬふりの海江田には、もうつける薬はなさそう。

 公明も屈服させ、・・・こうして戦争に向けての翼賛会議会が現実のものとなりました。

 大手マスコミもますます迎合することでしょう。石原発言も、麻生発言も・・・、サッカー報道で瞬時に過去のものにするべく画策する、今朝の紙面が見物です。
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桜島。ボンタンアメ。かるかん。薩摩揚げ。・・・鹿児島あれこれ。(鹿児島。その8。)

2014-06-24 22:49:52 | 歴史・痕跡
 
 鹿児島あれこれ。

①桜島
 鹿児島・一泊二日のあわただしい旅。桜島はほとんど、見えず。街を歩くとこんなコーナーが随所に。

 少し前にかなり降灰があったようで、このように積み上げられていました。

②「鹿児島県里程元標」
 道路元標は、道路の路線の起点や終点、経過地を表示するための標識のことで、大正9年に設置された。明治期に設置されたものについては、里程元標と呼ばれている。


 正面に「鹿児島縣里程元標 鹿児島縣」裏面には「明治三十五年十月」と記されている。

 

③共研公園・鹿児島女子興業学校(現鹿児島女子高等学校)跡地
 昭和20年6月17日鹿児島を襲った大空襲で、鹿児島女子興業学校は焼失、寮生10名が犠牲になった。

慰霊碑。「雪に耐えて桜花麗し」。

門柱。

石畳の一部。


 博物館や美術館、まだまだ見所たくさんの市内中心部。さらに「桜島」「垂水」「鹿屋」・・・、自然はもとより、産業遺跡、戦争遺跡や鉄道遺跡など、今度はじっくりと見て回りたいものです。

 おしまいに、お土産シリーズで。

①「ボンタンアメ」
 鹿児島県鹿児島市にあるセイカ食品株式会社が製造・販売する飴菓子。
 キャラメルよりも柔らかく、甘さの奥にほんのりと香るボンタンの風味が特徴的。ボンタン飴・文旦飴とも表記。
 餅に水飴を練り込みボンタンの果汁(鹿児島・阿久根産のボンタンを使用)を添加した飴で、包み紙のオブラートごと食べられる。ただ、歯の裏や上あごにくっついてけっこうやっかいな代物(個人的には)。
 原材料はもち米で、佐賀・熊本産の「ひよくもち」を使用している。販売以来、九州全県を中心に日本全国の駄菓子屋、小売店、食品スーパー、コンビニ、キヨスクなどで売られている。
 いろいろな味の6箱入り(サツマイモ味、抹茶風味、ミルク味・・・)のもの。その一つがこれ。
口の中にほんのりショウガの香りが漂う。

 帰京後、知人にその一箱をあげたら、母親が大好きで、子供の頃、電車で出かけると、必ず駅のホームで買ってはよく食べさせられた、と懐かしそうでした。

②「かるかん」
 これもお土産に買ってきたが、日持ちがしないようなので、写真を撮るまもなく家族で食べてしまった。写真は「Wikipedia」から拝借。

 軽羹(かるかん)は、鹿児島県をはじめとする九州特産の和菓子。餡を包んだ「かるかんまんじゅう」が一般的。
 原料は、米粉、砂糖、山芋。これらの原料に水を加えて蒸し、弾力性のある白色のスポンジ様に仕上げたもの。
 薩摩藩で軽羹が成立した要因としては、原料の山芋が藩内のシラス台地で自生し、琉球や奄美群島で生産される砂糖も入手しやすかったことなどが挙げられる。
 一方で近世の砂糖は高級品であり、天明6年(1786年)に菓子類の値下げが発令された頃には、軽羹1箱は日本酒1斗と同程度の価格だった。
 島津斉彬が江戸から招聘した明石出身の菓子職人八島六兵衛によって安政元年(1854年)に軽羹が考案されたという説が一般的だったが、それ以前、貞享3年(1686年)から正徳5年(1715年)ごろにすでに薩摩藩で誕生したとみられる。
 八島六兵衛が出身地を店名として創業したのが、現在も続く菓子舗の明石屋である。
 今では、鹿児島県内だけでなく、宮崎や大分、さらに福岡の菓子舗でも製造販売されている。(以上「同」参照)

 この他に、鹿児島名産、土産品と言えば、「薩摩焼酎」に「薩摩揚げ」ですね。

③「薩摩揚げ」

 さつま揚げは、今から約140年前の弘化3年(1864年頃)、島津藩主斉彬公の時代に琉球を統治するようになり、中国福建省文化の流れを組む琉球文化との交流が盛んになりました。
 その為、食生活も影響を受け、ことに中国料理特有の脂っこい物が多く、その中に魚肉のすり身を澱粉と混ぜて油で揚げた「チキアギ」なるものがありました。それがなまって「ツケアゲ」になったと言われています。
 この「つけあげ」が串木野を中心に鹿児島県内で多く製造されるようになり、関東では「さつまあげ」、関西では「てんぷら」と呼ばれています。
HPより)

 魚肉のすり身に塩・砂糖などで味付けし、形を整えて油で揚げたもの。丸形・角形など形は様々である。ゴボウ、イカ、ゆで卵などの素材を包み込んだものもある。
 地元で多く取れる魚を材料とする事が多く、イワシ・サメ・カツオ・サバ・ホッケなど多様だが、ほとんどの場合2種以上の魚を混ぜて使う。魚のすり身のみで作られた物のほか、キクラゲ、紅しょうが、玉ねぎ、ネギなどの野菜を入れた物、じゃこ、イカ、タコ、エビなどの魚介類を入れた物、薬味を加えたものなどもある。
 そのまま、あるいは軽く焼いてショウガ醤油やからし醤油などを付けて食べる。おでん種、うどんの具、皿うどんの具、煮物の材料にも用いられる。
 その一つ。近所で買ってくる薩摩揚げよりも、いくぶん甘みが強いか。



 ところで、前日の夕飯は「豚とろ 鹿児島中央駅前店」の鹿児島ラーメン。まさにとろとろの叉焼、スープだか具だかわからないほど。少し味は濃いようで、って当然ですよね。それでも、「豚骨系」はけっこう年寄りの割には大好きで、今回もよかった!



 翌日の昼。午後発の鹿児島空港へのリムジンバスを待つ間、ビル地下の食堂街へ。


 蕎麦と揚げたての天ぷら。値段も手頃でおいしかった! 威勢のいい店員の包丁さばきを見ながらの食事。


 群馬の「富岡製糸場」が世界遺産(文化)に登録されました。来年は、官営八幡製鉄所(北九州市)などを含む「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」が世界文化遺産登録を目指すそうです。
 残念ながらまだ行きそびれている遺産ばかりですが。

 以上、鹿児島シリーズはおしまいです、
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山形屋。いづろ通り。天文館通り。(鹿児島。その7。)

2014-06-23 21:51:48 | 歴史・痕跡

 南日本銀行から少し行くと、「山形屋」。ひときわ目立つ装いのデパート。読みは、「やまがたや」ではなくて「やまかたや」。

 「山形屋」の始祖・初代源衛門は江戸中期元文3年(1738年)に出羽国山形に生まれる。宝暦元年(1751年)当時山形の経済を支えていた紅花仲買と呉服太物行商を興し、大阪・京都へ立ち回り、八面六臂の大活躍をしていた。源衛門が薩摩入りを決断したのは、薩摩藩主・島津重豪の商人誘致政策を機として薩摩入りをし、木屋町通り(のちの金生町)に店を構えた。呉服太物店を構え、山形屋と称する。

《沿革》
1916年(大正5年)ルネッサンス式鉄骨鉄筋コンクリート(地下1階~地上4階)の新店舗落成。
大正期:

1932年(昭和7年)新館(地下1階~地上7階、売場面積延べ10,403㎡)落成。
1945年(昭和20年)本社、空襲により被災。
1957年(昭和32年) 1階~4階 エスカレーター運転開始。
1963年(昭和38年) 新旧両本館4,971㎡の増築と内部、外装とも一新、新装工事完成。売場面積16,229㎡となる。
昭和期:

1972年(昭和47年) 全館増築完成・新装オープン。(売場面積22,292㎡となる)
1998年(平成10年) 山形屋1号館外壁工事竣工。ルネッサンス調のデザインに一新。
平成期:

(以上、「山形屋」HPより)

 山形屋の創業は1751年(宝暦元年)、デパートメントストア化は明治時代中頃、近代的なデパート建築(清水組による施工)となったのは大正時代初期と古く、地方百貨店の先駆け的存在であり、神戸以西におけるデパート第1号である。
 商業面積は約33,000㎡、年間売上高は約500億円にも上り、地方百貨店としてはトップクラスの収益力を誇っている。
 1号館1階には山形屋バスセンター(鹿児島交通・三州自動車のバスターミナル)を併設し、鹿児島市内及び薩摩半島中南部を中心とした広域エリアから集客している。
 かつては、島津氏の勢力圏そのままに、熊本県人吉市や沖縄県那覇市(沖縄山形屋)にもグループ百貨店が存在した。
 現在、山形屋グループは、南九州地域(鹿児島・宮崎両県)において、上記のグループ百貨店をはじめ、スーパー部門子会社の山形屋ストア、山形屋ショッピングプラザなどの企業を展開している。
 電車通りに面した1号館は1999年に昭和初期のルネサンス調の外観に復元され、夜間には美しくライトアップされる。建物内部も曲線をもつ柱や梁などが復元されており、1号館1階は高い天井とシャンデリア、柱には大理石の化粧貼りが施されている。
 今では珍しくなった大食堂が健在である。山形屋子会社のベルグ(旧山形屋食堂)が1943年(昭和18年)7月に運営を開始し、1972年(昭和47年)から現在の7階で営業している。他の百貨店では複数の専門店から構成されるレストラン街に移行したところが多いが、山形屋では大食堂が盛況を維持し、視察に来た他店の関係者が驚くという。
 名物は1958年(昭和33年)から出している「焼きそば」で、揚げ麺に野菜たっぷりのあんかけをかけたものである。安価に設定されているものの、年間13万食が提供され、このメニューだけで大食堂の売り上げの半分を占める。屋上には遊園地もある。また、無料給茶機や個別空調を完備した休憩室も設けられている。
 店内放送のチャイム(山形屋グループ百貨店共通)として「アルプスの牧場」が使用されているが、これは国鉄の20系客車で使用されていたものと同じである。
 地域における商品力、ブランド力は昔から格段に強く、鹿児島市の中心繁華街である天文館地区においてガリバー的存在として君臨している。そのため、鹿児島市の商圏規模を考えれば共存できるはずの丸屋デパート(後の鹿児島三越・三越鹿児島店、現在のマルヤガーデンズ)や高島屋デパート(現在のTAKAPLA(当初は高島屋プラザ)で大阪に本社を置く同名の百貨店とは無関係)といった競合店は苦戦を強いられてきた。
 地元には山形屋を脅かす競合店が存在せず、また北部九州地域との交流も限定的であったため、文字通り「一人勝ち」の状況が続いてきた。
 しかし、新幹線や高速道路などの高速交通網の整備や、大規模小売店舗立地法の施行に伴う郊外大型商業施設の増加などの影響もあり、近年売上高は減少傾向にある。
 鹿児島中央駅ビルアミュプラザ鹿児島のオープンや、イオン鹿児島ショッピングセンター(現・イオンモール鹿児島)など郊外大型商業施設の相次ぐオープンに対抗するため、「We Love 天文館協議会」への参画や各種イベントの開催などにより、天文館地区における協力調和と地域活性化を図る姿勢を明確にしている。
(以上、「Wikipedia」より)

 まさに、「地元の雄」というような存在です。

尖塔が特徴的。大正期の建物にはあったが、戦災、復興期などを経て取り除かれた。それを平成になって復活させた。建物全体の印象として復古調の味のある建物。存在感がある。建物の内部もすばらしい、とのこと。





 いづろ通りから天文館通りに向かいました。

いづろの歴史~石灯籠(いづろ)通りの由来(「いづろ @ 天文館商店街ホームページ」より)

 石灯籠通りは天文館の松山通りから石灯籠交差点を通り、海岸まで突き抜ける通りである。藩政時代には、突きあたりの港の岸壁に石灯籠が一基立っており、錦江湾を航行する船の灯台の役目を果たしていた。これが石灯籠通りの由来といわれる。
石灯籠通りは現在はその面影はほとんど残っていないが幕末から明治、大正にかけて鹿児島城下で最も繁栄した通りでした。
 明治中期、石灯籠通りは新道松山通り共に、鹿児島市の有力店舗が集まり、鹿児島市の二大商店街を形成していた。
石灯籠通りは、大通りの繁華街で、明治屋呉服店など大店舗が多かった。このころ明治屋呉服店は座売りで山形屋より明治屋という気分であったようだ。
 また大正時代はじいさん、ばあさんたちの若いころは、人前で恥をかくことを、『こともあろうに、石灯籠通りで滑って転んだようだ』と言っていたらしい。石灯籠通りの海岸側は現在と比較にならない程、にぎやかな通りであった。
石灯籠通りが鹿児島で第一の殷賑を極めているのは呉服屋が多いからであると言われていた。

海岸に向かう通り「いづろ通り」昔賑わっていた頃の面影はない。

「電車通り」から「天文館通り」が繁華街の中心。

鹿児島名物の「ボンタンアメ」と軽羹などを製造販売している「薩摩蒸気屋」のお店と広告。市電もけっこう行き来している。


芝生を敷き詰めた軌道。

かつての市電のレリーフ。

アーケードの商店街が通りをはさんで続く。

  

 その商店街のはずれ近くに「天文館跡」のモニュメントがあります。
 

「天文館跡」碑。

説明文
 島津家25代重豪が、天文観測や研究のため、1779年にここに明時館を建て、藩内の暦はすべてこの明時館から配布し、薩摩暦とか鹿児島暦といわれました。
 明時館は別名天文館とも呼ばれ、現在の繁華街天文館の名は、ここから由来しています。この付近は当時、石垣をめぐらした武家屋敷や迎賓館にあたる御着屋、花岡屋敷などがありました。

碑文「天文館通りの由来」
 ここは安永8年(1779年)島津重豪のころ天文観測や研究をし、又薩摩暦などを造った明時館の跡であります。それでこの通りは天文館通りとよばれるようになりました。
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新波止石造護岸。遮断防波堤。砲台跡。イルカの遊泳。かごしま水族館。(鹿児島。その6。)

2014-06-22 20:10:57 | 歴史・痕跡

 市役所前の芝生公園を港の方へ向かっていくと、「かごしま水族館」。ここには興味深い遺構があります。
水族館案内。今回は、水族館見学ではなくて、・・・。

 
 かつてのようすとその後の港湾設備の整備の説明板。

新波止石造護岸。
 「かごしま水族館」敷地内にあり、かつては鹿児島港の防波堤として機能していた港湾土木遺構。元々は湾内にあった突堤。現在は、海側が埋め立てられ、水族館の敷地となっているが、遺構として保存されている。ここは、薩英戦争の時、薩摩藩の砲台が置かれたところ。

弘化3年(1846年)頃に築造された石造の防波堤。文久3年(1863年)の薩英戦争においては砲台11門を備え、主力砲台として英国艦隊と砲撃戦を行った。

薩英戦争

 文久3年7月2日(1863年8月15日) - 7月4日(8月17日)
 前年の文久2年に発生した、横浜港付近の武蔵国橘樹郡生麦村で薩摩藩の行列を乱したとされ、イギリス人4名のうち3名を薩摩藩士殺傷するという「生麦事件」の解決を迫るイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)と薩摩藩の間で戦われた鹿児島湾における戦闘。
 鹿児島では「まえんはまいっさ」(前の浜戦)と呼ばれる(城下町付近の海浜が前の浜と呼ばれていた)。薩英戦争後の交渉が、英国が薩摩藩に接近する契機となった。

 
砲台跡。

案内板。

「砲台跡」碑。対岸から望む。この運河ではイルカが遊泳している。正面に水族館との出入り水路。時折、イルカの姿が見える。

薩英戦争の絵図。

防波堤の船着き場。

明治天皇行幸記念碑。
 明治5年(1872年)、明治天皇が全国で初めて行幸したのが鹿児島。上陸に利用した新波止場にある記念碑。

向かい側は、桜島とを行き来する船の桟橋。

遮断防波堤。一丁台場と新波止護岸とを結ぶ防波堤。

正面奥が「一丁台場」。遠くには桜島。

 ところで、イルカの遊泳はなかなかうまく撮れません。
海面に飛び上がった瞬間、でも写ったのは、波紋だけ。
うーん!
遠すぎて!

 
足下には桜島からの火山灰が一面に。

鹿児島観光全図。


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南日本銀行。日本瓦斯。鹿児島中央高校。(鹿児島。その5。)

2014-06-21 23:56:27 | 歴史・痕跡

南日本銀行本店(旧鹿児島無尽鹿児島支店)。昭和12年(1937)建造。鉄筋コンクリート造/4階建(一部6階建)。国登録有形文化財。朝日通り交差点。

 下層部と上層部とが違和感のあるような造り。上の部分と下の部分とのバランスによって微妙な遠近感を生んでいるような印象。


日本瓦斯本社(日本水雷本社)昭和6年(1931)建造。鉄筋コンクリート造/3階建。日本ガス株式会社(日本瓦斯株式会社)は、鹿児島市をエリアとする都市ガス事業者。鹿児島中央駅に近く「ナポリ通り」沿い。

注「ナポリ通り」=鹿児島市とイタリアのナポリ市が姉妹都市になったことを記念して命名された通り。「鹿児島中央駅」から東方向に延びる大きな通り。なお、ナポリ市には「鹿児島通り」と命名された通りがあるらしい。

それほど大きな建物ではないが、縦柱線(ゴチック建築、尖塔のようなイメージ)を強調し、インパクトのある建物。

  


県立鹿児島中央高等学校(旧県立第一高等女学校)。昭和10年(1935)建造。鉄筋コンクリート造/3階建。設計:岩下松雄。
 玄関部分の円形がユニーク。玄関上部分の連続したアーチ窓、4階部分の真円状の造形などに特徴がある。
市内にある「鹿児島甲南高校」、「県立博物館」などにも同じような特徴があるそうだ。

上層階に特色を持つ。

正面玄関脇のライン。 

 少し前の時期に建てられた、東京都内の関東大震災復興校舎にも同じような意匠が感じられる。当時のモダン建築が鹿児島にも登場していた。
《参考》

① 旧東京都中央区立十思小学校
 ◎設計:東京市 ◎施工:鴻池組 ◎竣工:昭和3(1928)年12月30日 ◎構造:鉄筋コンクリート造り3階建。
❖東京都選定歴史的建造物



②旧台東区立小島小学校


 他にもまだまだ貴重な建造物があります。残念ながら見に行けませんでしたが。

・鹿児島県立博物館考古資料館(興業館)
鹿児島市城山町1-1 明治16年(1882)
石造/2階建
国登録有形文化財

・旧鹿児島刑務所正門
鹿児島市永吉町13-9 明治41年(1908)
石造門柱
国登録有形文化財
 
・鹿児島銀行別館(第百四十七銀行本店)
鹿児島市金生町6-6 大正7年(1918)
鉄筋コンクリート造/2階建
国登録有形文化財

・鹿児島工業高等学校大煙突
鹿児島市草牟田二丁目57-1 大正9年(1920)
煉瓦造煙突
国登録有形文化財

・岩崎邸
鹿児島市春日町 大正期
鉄筋コンクリート造/4階建
国登録有形文化財

・鹿児島県立博物館(鹿児島県立図書館)
鹿児島市城山町1-1 昭和2年(1927)
鉄筋コンクリート造/3階建

・県立鹿児島甲南高等学校(第二鹿児島中学校)
鹿児島市上之園町23-1 昭和5年(1930)
鉄筋コンクリート造/3階建

・鹿児島県教育会館
鹿児島市山下町4-18 昭和6年(1931)
鉄筋コンクリート造/3階建 

などなど。
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鹿児島市中央公民館。鹿児島市役所。(鹿児島。その4。)

2014-06-20 23:37:08 | 歴史・痕跡

 「西郷銅像」の撮影ポイントとしてある敷地の一角には「中央公民館」の建物があります。隣の「宝山ホール」のモダンなつくりと比べて、どっきとするほどレトロな雰囲気の建物です。見逃せない建物の一つ。

正面。

 1927年(昭和2年)10月に開館。片岡安の建築で市中心部に位置する交通の便の良さもあり、修築を経て現在もイベント、講演会等に利用されている。国登録有形文化財。

1924年8月 - 昭和天皇の成婚記念事業として起工。
1927年10月 - 鹿児島市公会堂として開館。
1945年6月17日 - 鹿児島大空襲により一部が損壊。
1949年 - 鹿児島市中央公民館に改称。
1973年4月 - 鹿児島市公民館条例施行、市全域の社会教育施設及び中央地域の地域公民館と位置づけられる。

 鹿児島市立美術館・西郷隆盛像から国道10号をはさんで東南側、国道58号沿いに位置し、すぐ隣に「鹿児島県文化センター(宝山ホール)」があり、国道58号をはさんで中央公園がある。

 片岡安は、辰野金吾と共同で設計事務所を営み、数々の近代建築を建てた人物。辰野金吾が手がけた有名な建築物には、日本銀行本店や東京駅があります。
 片岡は、大阪中之島公会堂も設計しています。この事務所による設計の建物で、九州地区でほぼ当時のまま現存しているものを二つ訪問しています。

北九州市・旧「百三十銀行」八幡支店。

福岡市・旧「日本生命保険株式会社九州支店。


 鹿児島市にもこうして残っているわけです。

 同じ事務所の設計による「東京駅丸の内口駅舎」などもそうですが、赤煉瓦造り(風)にその特徴がありますが。この建物は鉄筋コンクリート造り3階建て。


 多くの他の都市中心部では、戦前のものが取り壊されて建て直される中、また、鹿児島市内には戦災で多くの建物が焼失、被害を受けた割には、まだまだ随所に趣深い戦前の建物が残り、現役で活躍中です。その、ほんの一部を訪ねました。

鹿児島市役所
昭和12年(1937)建造。鉄筋コンクリート造/3階建。設計監理:大蔵省営繕管財局工務部。 国登録有形文化財。

圧倒的な存在感。



正面玄関。

二階への階段。

市役所から海側に延びる緑地帯から。

はるかかなたに市役所を望む。

 この緑地帯は、かつての運河跡? 
その脇にあった古い街並み。

華やかな「天文館通り商店街」とはかなり趣の異なる商店が並んでいそうな路地。黒田金物店と「名山町商店街」。

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薩摩義士碑。鶴丸城趾。篤姫像。アコウ。(鹿児島。その3。)

2014-06-19 23:31:55 | 歴史・痕跡
 
「西郷隆盛終焉の地」から鹿児島本線の踏切を渡り、しばらく歩いて城山の山裾を下ると、鶴丸城趾に出ます。

「城山」の麓にある「薩摩義士の碑」。

「神になった薩摩藩士」説明板。

 江戸幕府は,1753(宝暦3)年に薩摩藩に木曽川治水工事の御手伝普請を命じました。薩摩藩は,平田靱負を総奉行に任じ,藩士・足軽以下約千人を派遣しました。工事は約1年3か月で完成しましたが,大榑川洗堰工事などの難工事などのため,約40万両の経費がかかり藩財政は大きな打撃を受けました。また工事中の自害・病死等の犠牲者も薩摩藩関係者だけで80余名にのぼりました。工事検分終了直後,平田靱負は大牧村役館において自刃したと伝えられています。・・・

 と鹿児島市のHPではこのように記されていますが、なかなかの難工事で犠牲者も大勢だったようで、いまだに語り継がれている、とのこと。

 宝暦治水事件

 江戸時代中期に幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業(宝暦治水)に絡み、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老平田靱負が自害した事件。
 宝暦治水とは、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事。濃尾平野の治水対策で、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事。三川分流治水ともいう。
 木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流・分流を繰り返す地形であることや、小領の分立する美濃国では各領主の利害が対立し、統一的な治水対策を採ることが難しかったことから、しばしば洪水が多発していた。また、美濃国側では尾張藩の御囲堤より3尺(91cm)以上低い堤しか作ってはいけなかったとする伝承もある。
 1735年(享保20年)、美濃郡の代官である井沢惣兵衛が三川の調査の上で分流工事を立案したが、その時は幕府の許可が下りなかった。しかし、1753年(宝暦3年)12月28日、第九代将軍徳川家重は薩摩藩主島津重年に御手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた。
 この普請は幕府の指揮監督の下、薩摩藩が資金を準備し、人足の動員や資材の手配をする形態であった。また地元の村方を救済するため、町人請負を基本的に禁止して、村請により地元に金が落ちる方針を取った。
翌1754年(宝暦4年)1月16日薩摩藩は家老の平田靱負に総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。
 幕府が工事を命じた目的は、薩摩藩の財政弱体化であった。
 ただ、宝暦治水自体はあくまでも幕府による工事のお手伝い普請という名目で、幕府側の総責任者は勘定奉行・一色政、監督者として水行奉行・高木新兵衛が命じられている。高木は自家の家臣のみでは手に余ると判断し、急遽治水に長けた内藤十左衛門を雇っている。
 当時、既に66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送る。
 同年1月29日には総奉行平田靱負、1月30日には副奉行伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。
 同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行う。砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入る。工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い着工した。
 1754年(宝暦4年)4月14日。薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。以後合わせて61名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。
 また、この工事中には幕府側からも、現場の責任者が地元の庄屋とのもめ事や、幕府側上部の思惑に翻弄されるなどして、内藤十左衛門ら2名が自害している。さらに、人柱として1名が殺害された。
 これらの犠牲者数は、寺の過去帳、位牌・墓碑などに記録されたものだが、幕府は寺に薩摩藩の死者を葬ることを禁じたため、実際にはさらに多数にのぼっていた可能性があるという。
 幕府側は工事への嫌がらせだけでなく、食事も重労働にも拘らず一汁一菜と規制し、さらに蓑、草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示した。 ただし経費節減の観点から普請役人への応接を行う村方に一汁一菜のお触れを出すことは当時は普通のことであった。
 1754年(宝暦4年)8月には薩摩工事方に赤痢が流行し、粗末な食事と過酷な労働で体力が弱っていた者が多く、157名が病に倒れ32名が病死した。
 1755年(宝暦5年)5月22日工事が完了して幕府の見方を終え、同年5月24日に総奉行平田靱負はその旨を書面にして国許に報告した。その翌日5月25日早朝美濃大牧の本小屋で平田は割腹自殺した。辞世の句は
「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」
であった。
 薩摩藩が最終的に要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)。大坂の商人からは22万298両を借入。返済は領内の税から充てられることとなり、特に奄美群島のサトウキビは収入源として重視され、住民へのサトウキビ栽培の強要と収奪を行った。現地では薩摩藩への怨嗟から「黒糖地獄」と呼ばれた。
 この工事は一定の成果を上げ、治水効果は木曽三川の下流地域300か村に及んだ。ただし長良川上流域においては逆に洪水が増加するという問題を残した。これは完成した堤が長良川河床への土砂の堆積を促したためと指摘されている。薩摩藩では治水事業が終了したあとも現地に代官を派遣したが後に彼らは尾張藩に組み込まれている。その後、近代土木技術を用いた本格的な治水工事は、明治初期に「お雇い外国人」ヨハニス・デ・レーケの指導による木曽三川分流工事によって初めて行われた。
 1900年(明治33年)の分流工事完成時に、「宝暦治水碑」が千本松原南端に建てられている。1938年(昭和13年)には、平田靱負ら85名の薩摩藩士殉職者を、「祭神」として顕彰するために『治水神社』(所在地:岐阜県海津市海津町油島(旧海津郡海津町))が建立された。
 岐阜県海津市と鹿児島県霧島市は、これが縁で友好提携を結んでいる。なお鹿児島県と岐阜県は、これが縁で県教育委員会同士の交流研修として、お互いの県に小中高校教員を転任させている。2007年(平成19年)より岐阜県では他県への教職員派遣を止める事にしたが、鹿児島県のみ継続している。鹿児島県で発生した平成5年8月豪雨の際は岐阜県より復旧支援の土木専門職員が派遣され支援に当たった。
(以上、「Wikipedia」より)

 なるほど、なるほど。

本丸跡に建つ鹿児島県歴史資料センター「黎明館」。月曜のため、休館日でした。

遠くに「篤姫」像。



 当時のニュース記事

 篤姫銅像が鹿児島に完成 誕生日に除幕式

 薩摩藩の出身で、幕末の徳川将軍家を支えた天璋院篤姫の銅像が、10代の一時期を送った鹿児島市の鶴丸城跡にある歴史資料センター「黎明館」に完成。篤姫誕生日の19日、市などの実行委員会が除幕式を開いた。
 像は台座を含め高さ約3・1メートルで、鹿児島市の彫刻家中村晋也さん(84)が、篤姫40歳前後の写真を参考に制作。
 除幕式で徳川宗家第18代当主の徳川恒孝さん(70)は「篤姫は早くに江戸に嫁ぎ鹿児島に戻ることはなかった。鹿児島に素晴らしい像ができてうれしい」と感慨深げに話した。
(2010/12/19 17:21 【共同通信】)


 天璋院篤姫は、2008年のNHK大河ドラマで一躍有名になった(主演の篤姫役は、宮あおい)江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、江戸幕府第13代将軍徳川家定の御台所となった人物。

 篤姫は天保6年(1835)12月19日、今和泉家第5代当主忠剛の第4子として現在の鹿児島市に生まれました。
 幼少の頃の篤姫は一子(かつこ)と名付けられ、大変利発で活発な子だったと言われています。約19年間を鹿児島で過ごし、指宿の別邸にも度々訪れたと言われている一子は、家のすぐ前に広がる海岸でよく兄(忠冬)と遊んでいました。
 ある日のこと、海岸で漁師とのすれ違いから危険と判断した一子はその漁師に向かって石を投げました。そのことを知った父(忠剛)は、兄(忠冬)にその勇気が持てなかったことを責め、『一子が男の子だったら』と悔しがっていたというエピソードが小説には語られています。(「天璋院篤姫」宮尾登美子:著)このように一子は幼少の頃から人並み外れた感性と器量の持ち主だったと言えます。
 そんな一子が18歳のときに転機が訪れます。当時、第13代将軍徳川家定は二人の妻を公家から迎えましたが、二人とも長生きせず家定自身も病気がちだったことから、家定の母である本寿院は、広大院(十一代将軍家斉の妻として徳川家に仕えた島津家出身の茂姫)にあやかりたいと、将軍を支えられるしっかりとした夫人を求め、嘉永3年(1850)、島津家に将軍夫人の候補を求めました。島津家には適齢期の娘がおらず、今和泉家の忠剛の子である一子に白羽の矢がたったのです。
 嘉永6年(1853)、名を篤姫と改め島津家第28代当主斉彬の実子として、鹿児島を立ち、近衛家の養女を経たのち、安政3年(1856)12月18日に家定と結婚しました。しかし、一年半後の安政5年(1858)7月に家定が35歳で亡くなったため、天璋院と号し、その後、前将軍の妻として大奥を仕切りました。
 幕末の動乱期には実家の島津家は将軍の敵となりましたが、新政府に徳川本家の存続を働きかけるなど、徳川家のために尽くしました。明治16年(1883)11月20日に49歳で亡くなりましたが、徳川家第16代当主家達(いえさと)を育てあげたのも天璋院といわれ、現在でも徳川家に大切にされています 。



HPより)

逸話として

 篤姫は嘉永7年(1854年)11月、島津重豪の十男で八戸藩主となっていた南部信順の強い勧めにより、斉彬とともに大石寺(現在の日蓮正宗総本山、静岡県富士宮市)に帰依し、同塔中遠信坊の再々興に貢献した。家定の死後の万延元年(1860年)には51日間にわたって、大石寺第51代法主・日英上人に1日3回4時間の唱題祈念を行わせている。ただし、墓所となっている寛永寺は天台宗の寺院である。(この項、「Wikipedia」より)

石垣。隆盛がつくった「私学校」石垣には西南戦争当時の弾痕の跡があるらしいが、この石垣の不揃いに破壊された穴もそれなのであろうか?

 城址は明治維新後、第七高等学校造士館の校地として使用され、さらに戦後は、鹿児島県立大学医学部、国立鹿児島大学医学部基礎教室を経て、現在は本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡に鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っている。


蓮の花が咲いていた。




アコウ(榕、赤榕、赤秀、雀榕)

 クワ科の半常緑高木。
 樹高は約10 - 20m。樹皮はきめ細かい。幹は分岐が多く、枝や幹から多数の気根を垂らし、岩や露頭などに張り付く。新芽は成長につれ色が赤などに変化し美しい。葉は互生し、やや細長い楕円形でなめらかでつやはあまりなく、やや大ぶりで約10 - 15cm程である。年に数回、新芽を出す前に短期間落葉する。ただし、その時期は一定ではなく、同じ個体でも枝ごとに時期が異なる場合もある。
 5月頃、イチジクに似た形状の小型の隠頭花序を、幹や枝から直接出た短い柄に付ける(幹生花)。果実は熟すと食用になる。
 アコウの種子は鳥類によって散布されるが、その種子がアカギやヤシなどの樹木の上に運ばれ発芽して着生し、成長すると気根で親樹を覆い尽くし、枯らしてしまうこともある。そのため絞め殺しの木とも呼ばれる。これは樹高の高い熱帯雨林などで素早く光の当たる環境(樹冠)を獲得するための特性である。琉球諸島では、他の植物が生育しにくい石灰岩地の岩場や露頭に、気根を利用して着生し生育している。
 日本では、紀伊半島及び山口県、四国南部、九州、南西諸島などの温暖な地方に自生する。日本国外では台湾や中国南部、東南アジアなどに分布している。
 主な低地に生育し、琉球諸島では石灰岩地にも生育する。
 防風樹、防潮樹、街路樹として利用される。沖縄県や鹿児島県奄美群島では、屋敷林にも利用される。日本では国の天然記念物に指定されている巨樹、古木も多い。
 また、ガジュマルに比べると耐寒性が高いという特性を活かし、観葉植物としても用いられる。(以上「Wikipedia」参照)

 たぶん初めて見た木でした。それにしても「絞め殺しの木」とは何とも恐ろしや。
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甲突川。歴史ロード。○に十。石橋。(鹿児島。その2。)

2014-06-18 23:59:26 | 歴史・痕跡

 市内中心部を流れる「甲突川」。その左岸には鹿児島の「歴史」をしのぶ遊歩道があります。
「歴史ロード”維新ふるさとの道”」。

「英国留学生」の説明板。遊歩道を歩きながら、「歴史」を学ぶという趣向。

 鹿児島市は、第二次大戦で壊滅的な被害を受けたところでもあります。

本市における戦災の状況~1.空襲等の概況~
※「鹿児島市戦災復興誌」より抜粋

 昭和20(1945)年3月から本土への空襲は本格化したが、沖縄への米軍上陸以降、次の上陸地点として鹿児島県は終戦まで単なる補給地、背後地、内地ではなくなり「戦場」と化した。
 鹿児島市が直接の攻撃目標となったのは、昭和20(1945)年3月18日から8月6日の計8回の空襲であるが、北部九州ほか、九州全域への攻撃のため、鹿児島市は米軍機の通過地点に当たり、機影を見ない日はほとんどないという状況であった。
 また、特攻機が鹿児島から飛び立っており、特攻基地は鹿児島にしかなかったので、米軍の鹿児島に対する攻撃は他の地方都市と比較にならない激しさであった。
 これら前後8回にわたる空襲によって、市内は焼け野原と化し、鹿児島市が受けた被害は、実に死者3,329人、負傷者4,633人、行方不明35人、その他10万7,388人、合計11万5,385人に達した。
 その総数は昭和20(1945)年初期の疎開後の人口17万5,000人に対し66%であった。
 建物の罹災戸数は、全焼2万497戸、半焼169戸、全壊655戸、半壊640戸、計2万1,961戸で、全戸数3万8,760戸に対し57%であった。
 全市は文字どおり灰燼に帰し、市街地の約93%、327万坪(1,079万平方メートル)を焼失した。・・・

HPより)

戦災復興記念碑。モニュメント。

<大型建造物だけが残る焼け跡の市街地中心部>(平岡正三郎氏撮影)より 

 そうしたかつての面影は表面上は消え(通りすがりの観光客には)、近代都市にすっかり生まれ変わった鹿児島市街となっていました。市内に残る文化的遺産の多くは「明治維新」あるいは「藩主・島津公一族」に関するものが目に付きます。
 戦争遺跡となると、特攻基地のあった鹿屋あるいは知覧となります。日にちに余裕があればぜひとも行かなければならない場所ですので、次回に期することにしました。
甲突川。

鹿児島城下町絵図。

  
かつての「小路名」などの由来碑。

「薩摩暦と明時館(天文館)」。天文観測による藩独自の暦の制作の由来が記されています。
 鹿児島市内一の繁華街「天文館」通り。変わった名前ですが、どうしてそう呼ばれるのか、この解説を見るまでまったく知りませんでした。お恥ずかしい!
時を刻む語らい広場。
二つ家と呼ばれる住居形態。

  

こういう腰掛けにも歴史もの「郷中教育」のようすが描かれている(我が家の近所の公園のものには、子供の遊び歌などが描かれている)。

維新ふるさと館脇の橋。薩摩藩(島津家)の紋。島津氏の家紋は「丸に十の字」。
 この「十字」は、いったい何を意味するのだろう? いろいろな説があるようですが、「十字を切る」という形の呪符からきたとする説が正しい、らしいです。ちなみに鹿児島市のマークも島津様の紋所が取り入れてあります。


旧五大石橋の一つ「高麗橋」説明板。1993(平成5)年の集中豪雨で流された他の橋と共に、「鹿児島駅」近くの祇園之洲地区にある「石橋公園」に移設保存されているそうです。

 甲突川五石橋

 甲突川にかつて架かっていた石橋群。上流から玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋の順。1993年8月6日の鹿児島大水害により5石橋のうち新上橋と武之橋の2橋が流失し、玉江橋、西田橋、高麗橋の3橋がその後石橋記念公園に移設保存されている。

甲突川五石橋の現存時の位置図。×印は8.6水害で崩落・流出した石橋。また×印がない橋は石橋記念公園に移設保存されている。

石橋記念公園に保存されている高麗橋
(以上、「Wikipedia」参照)

現在の「高麗橋」。

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西郷隆盛。その誕生から終焉まで。(鹿児島。その1。)

2014-06-17 23:26:23 | 歴史・痕跡
 5年ぶりの鹿児島。新幹線が開通し、鹿児島中央駅も様変わり。といっても、鹿児島空港だったので、駅前を通ってみただけですが。改めてホテルから見た「鹿児島中央駅」。正面が新幹線ホーム。在来線とちょうどT字になっています。駅ビルの屋上には、観覧車。
 この鹿児島中央駅。かつては「武駅」、その後、「西鹿児島駅」と駅名が変わった。市電はかつてのまま。ずっと前に来たときは、たしか「西鹿児島駅」だったような・・・。

 来る機会もそれほどないので、一日泊まって半日「西郷」どんの世界を探索。
 
 鹿児島中央駅 ≫ 維新ふるさと館前 ≫ ザビエル公園前 ≫ 西郷銅像前 ≫ 薩摩義士碑前 ≫ 西郷洞窟前 ≫ 城山 ≫ 西郷洞窟前 ≫ 薩摩義士碑前 ≫ 南洲公園入口 ≫ 仙巌園(磯庭園)前 ≫ 石橋記念公園前 ≫ かごしま水族館前(桜島桟橋) ≫ ドルフィンポート前 ≫ 天文館 ≫ 鹿児島中央駅

 上が、「シティービュー」バスのコース。約1時間でぐるりと観光名所を一周。大人190円でバスの中から名所を眺める、という趣向。もちろん、そういう観光客はいないようで、一日乗り降り自由の乗車券(¥600)を買って乗る人がほとんど。

 そこで、小生もそれに乗ってぐるりと、というのもつまらないので、途中まで乗って行って、後は歩いて回ろうという算段。朝方の雨雲もなくなって、薄日が差すちょうどいい。中央駅前のバス停を9:30発。「西郷洞窟前」で下りてさっそく歩き出しました。
 いつものように駆け足の感じ。そして、帰宅してインターネットで後追いして、あそこもあったか、近くまで行ったのに残念! そんな思いがまたしてきました。
 同じ事を何回繰り返したら改まるんでしょう。
 
 西郷隆盛南州洞窟→隆盛終焉の地→鶴丸城址→黎明館→市役所→かごしま水族館→中央公民館→山形屋→天文館通り→鹿児島中央高校→高麗橋→共研公園→甲突川→中央駅

 約3時間くらいの行程でした。見落としもたくさん、脈絡があまりなそうな歩きぶり。はてさて・・・。意外な発見もありましたが。
 まずは、鹿児島中央駅前から。

「若き薩摩の群像」。どえらく大きいモニュメント。
 
 薩英戦争において西欧文明の偉大さを痛感させられた薩摩藩は鎖国の禁を犯し絵1865年藩士17名の留学生を英国に派遣しました。一行は・・・帰朝後には黎明日本の原動力となり各分野で不滅の業績を残しました。・・・

 ちなみに何となく知っていた名前は、森有礼。寺島宗則。五代友厚くらい。もちろん小生が知らないだけで他の人たちも立派な業績を成し遂げた人も多い。
 「尊皇攘夷」の旗頭であった薩摩藩は、この戦争をきっかけに「富国強兵」策に転じ、倒幕運動をいよいよ鮮明にしていった、らしい。我々郷土の先輩が「薩長土肥」による倒幕、さらに明治維新後の近代日本を担った、という強烈な郷土愛あふれるモニュメントではある。


 そこで、今回は隆盛さんをメインで。
「誕生地」。甲突川左岸。

 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。
 隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。
 西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。
 薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。
 その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。
 明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。(以上、「Wikipedia」参照)

「西郷隆盛君誕生之地」碑。脇には、明治22年に建立された由来碑が置かれている。裏に銘記された使命は「大山巌」をはじめ、明治元勲の名がずらり。


 これらの記念碑は石造りのかなり大きなもので、下を岩を積み重ねて盛り上げてある。少し上流には、「宿敵」大久保利通の誕生地の碑がある。

「無二の友を敵としても」との説明板。

 明治6年の政変で西郷らを失脚させた大久保利通は、内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施した。そして「富国強兵」「殖産興業」政策を推進した。
 大久保はプロイセン(ドイツ)を目標とした国家を目指していたといわれ、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている。
 明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発すると、直ちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させている。
 明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。その後、自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。
 明治11年(1878年)5月14日、紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)。享年49。

西郷洞窟。

「おはんらにやった命」との説明板。
 
 ―西南戦争 最後の司令部―
 1877年(明治10年)9月24日、西郷軍が立てこもる城山に「政府軍の総攻撃が始まり、死を決した西郷は夜明けを待って5日間過ごしたこの洞窟を出ました。・・・2月15日挙兵、熊本で政府軍と激しい攻防をくりかえすも近代兵器の前に敗退、7ヶ月にわたる大乱の最後を、西郷は故山城山で迎えたのです。・・・

 「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがままに 果てし君かな  勝 海舟」
 との歌が載せられている。

洞窟の裏山。

南国特有の深い緑に覆われた森が続く。

城山の展望台方向。

「敬天愛人」。「西郷洞窟」から少し下ったところ、鹿児島本線トンネル入口に掲げられたもの。隆盛の座右の銘。

右手側(「鹿児島駅」に向かう線路)のトンネル上部にある。

隆盛終焉の地。鹿児島本線沿線にある。
「南洲翁終焉之地」碑。

 「晋どん、もうここらでよか」

 城山洞窟を出てわずか300㍍、650歩でついに途は閉ざされた。
 ・・・西郷の死体が発見された時、政府軍の総司令 山県有朋中将は「翁はまことの天下あの豪傑だった。残念なのは翁をここまで追い込んだときの流れだ」と語った、という。

西郷銅像。中央公民館広場から。
スケールの大きさに驚くが、どこかの個人崇拝に徹する国のものに比べればおとなしいものだ。
 「身長 5.257㍍、5.7頭身」。平成19年、県立鹿児島工高の女子生徒4名が実測した結果だそうだ。

 しかし、さすが明治維新の立役者を生んだ土地柄。「おらが街」にはこんなたくさんの偉人が生まれ育った、とう誇りがあちこちに「記念碑」として存在します。通りすがりの小生には見落としばかり。

大山巌。

牛島満。

 「元帥」「大将」・・・、軍人さんの多いところです。島津家関係の石碑もたくさん。・・・
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堀切菖蒲園・花菖蒲。紫陽花。手打ち蕎麦・「人と木」。

2014-06-15 00:38:58 | 世間世界
 いつ来たか忘れるほど、久々の堀切菖蒲園。花菖蒲が満開だというので、晴れ間に出かけました。京成堀切菖蒲園駅下車。ぞろぞろ歩く人たちの後をついていきました。記憶では目的地までわかりにくい道筋だったような気がしましたが、安心。
 途中、かつて用水路跡が歩道となっていて、あじさいやら何やら彩り豊かな散歩道。
 園内も平日なのにひとひとひと。入園無料なのがいいか。
 こじんまりとそれでいてよく手入れされた園内。いろいろな名前の付いた「花菖蒲」が今を盛んに咲き誇っていました。
 しっとりと雨に濡れた花を愛でるイメージ。今どきの雨は、ゲリラ豪雨なので、そんな風情を楽しめるわけもありませんが。日盛りの中では菖蒲も何となく元気がなさそう。木々も適度にあってそれはそれでいいですが、日陰に乏しい。当たり前ですが、いくつもある、畦に囲まれた小さな田んぼの中に一面植わっているのですから、無いもの、ねだりというもの。
 それにしてもずいぶんとあでやかな花菖蒲が多いのには驚きました。さすが江戸菖蒲、という感じです。いろいろな時代の変遷を経て、ここまで守り育ててきた地元、地域、関係者に感謝です。

「堀切の花菖蒲」碑。

 数多くの江戸菖蒲(200種6000株)を鑑賞できる、らしい。

(以下、「Wikipedia」参照)
 江戸時代には「江戸百景」に数えられ、名所案内や紀行文、鈴木春信・歌川広重の浮世絵に登場する。
歌川広重 名所江戸百景「堀切の花菖蒲」
 戦前まで、この近辺には武蔵園・吉野園・観花園・小高園・堀切園などの菖蒲園があった。
 昭和34年(1959年)堀切園を東京都が購入、東京都立堀切菖蒲園として公開。昭和50年(1975年)葛飾区に移管され、現在に至る。

明治後期のようす(「今昔マップ」より)。
 ○が菖蒲園のあったところ。上にある園名が記されている。ただし、「戦前まで」とあるが、「今昔マップ」ではすでに昭和初期には上記の園名は見当たらない。
 まだ「荒川放水路(現荒川)」が開削される前で、↓に注目!東武線が荒川放水路によって西側に大きく線路変更される前の線路になっている(まだ上野に向かう京成線はできていない)。
 北西から南東、斜めに流れる水路は「旧綾瀬川」(後に、「荒川放水路」の一部になってしまう)。東側に流れる用水路は葛西用水・曳舟川。

現代(「同」より)。○が「堀切菖蒲園」。


全景。マンションを撮ったわけではありません。園内のちょっと高みの四阿から。

八つ橋。これにちなむ「かきつばた」は入口に鉢植えにあったものだけ。ここは、すべて「花菖蒲」の世界です。



 「伊勢物語」に、三河の国、八橋というところでかきつばたが咲いていたので、主人公に擬せられる「在原業平」が、「かきつばた」という五文字を句の上に置いて詠んだ歌(「折句」)があります。

ら衣 つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞ思ふ」

紫色、白色など淡い色が中心。背丈、花びらの色・かたち、枚数、大きさ、しだれ具合などによって、それぞれに風流な「命名札」があります。よく区別がつくな、というのがど素人の浅はかな感想。原産地は圧倒的に「江戸」と表示されています。





中には、けっこう存在感のある花も。

珍しく黄色の花。「雑種」とあったのが、何だか気の毒。

「十二単衣」などいくつかは希少品種とか。

石灯籠や懸崖の松などもあしらって風情を楽しむ趣。





萩のトンネルの間から。

中村汀女の句碑。「花菖蒲 輝く雨の 走るなり」

 園内には他にもいくつか歌碑や句碑がある。

ゆっくり見ても小一時間。本格的な写真を撮る方はたくさん、写生をしている方も何人か。近所の小学生が写生に来ていました。上手な子も。中にはチューリップみたいな絵になった子・・・。



駅までの道路沿い、あじさいが目を楽しませてくれる。

柏葉紫陽花。他の紫陽花と違って、葉が柏の葉のようになっています。

古い街並みも残っている。
 
 昼飯。手打ち蕎麦のお店が案内図にあったので、そこへ行ってみようと。堀切菖蒲園駅の北側。行ったり来たりしながら探し回ってやっと見つけた。「人と木」(ひととき?「休」?)。4年前に開業したらしい。相席だったが、見知らぬ同士、でも堀切菖蒲園が縁で話も弾みました。さすが下町、人と人とに溶け込める雰囲気を味わいました。

 新潟のお酒「真野鶴」とちょっとピリ辛の味噌に蕎麦の実がたっぷり入った蕎麦味噌。そして、鴨焼き・・・。ごまだれの蕎麦大盛り。それぞれけっこうなお味でした。

 久々に午前中のおでかけでした。


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永青文庫。和敬塾。蕉雨園。(有楽町線・江戸川橋駅下車。その4。)

2014-06-13 22:23:15 | 歴史・痕跡

永青文庫
 1950年(昭和25年)、第16代当主細川護立(1883年 - 1970年)によって設立された。護立は旧侯爵、貴族院議員で、国宝保存会会長などを務め、戦前・戦後の日本の文化財保護行政に多大な貢献をしている。「美術の殿様」と言われ、美術品収集家としても著名であった。
 文庫の所在地は細川家の屋敷跡(現在は敷地が分割されているが、新江戸川公園、永青文庫、和敬塾の敷地まで細川邸であった)であり、建物は昭和時代初期に細川家の事務所として建てられたものである。文庫名の「永青」は細川家の菩提寺である正伝永源院(建仁寺塔頭)の「永」と、細川藤孝の居城・青龍寺城の「青」から採られている。
 日本・東洋の古美術を中心とした美術館で、旧熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料や、16代当主細川護立の収集品などを収蔵し、展示、研究を行っている。理事長は18代当主の細川護煕(元首相)。
 なお、熊本県立美術館が「永青文庫展示室」を設け、永青文庫所蔵品の一部を年に数回入れ替えながら展示しているほか、 東京国際空港第2旅客ターミナル内にある「ディスカバリーミュージアム」でも所蔵品の一部が企画を替えながら展示されている。

黒き猫 菱田春草筆 1910年(熊本県立美術館に寄託)

収蔵品
 [国宝]
太刀 銘豊後国行平作(古今伝授の太刀)
短刀 無銘正宗(名物庖丁正宗)
短刀 銘則重(日本一則重)
刀 金象嵌銘光忠 光徳(花押)生駒讃岐守所持(生駒光忠)
柏木兎螺鈿鞍(かしわみみずく らでん くら)
時雨螺鈿鞍
金銀錯狩猟文鏡(中国・戦国時代)
金彩鳥獣雲文銅盤(中国・前漢~後漢時代)

 [重要文化財]
絵画絹本著色細川澄元像 狩野元信筆
紙本著色長谷雄草紙
紙本著色洋人奏楽図 六曲屏風(熊本県立美術館寄託)
紙本墨画芦雁図(伝宮本武蔵筆) 六曲屏風(熊本県立美術館寄託)
紙本墨画鵜図 宮本武蔵筆(熊本県立美術館寄託)
紙本墨画紅梅鳩図 宮本武蔵筆(熊本県立美術館寄託)
紙本著色落葉図 菱田春草筆 六曲屏風 1909年(熊本県立美術館寄託)
絹本著色黒き猫図 菱田春草筆 1910年(熊本県立美術館寄託)
髪 小林古径筆 絹本著色 1931年(熊本県立美術館寄託)
彫刻石造如来坐像(中国・唐)
石造菩薩半跏像(中国・北魏)
銅造如来坐像 台座に元嘉十四年五月一日韓謙造像の銘がある(中国・劉宋)
陶磁宋白地黒掻落牡丹文瓶(そう しろじくろかきおとし ぼたんもん へい)
唐三彩花文大盤
唐三彩花文盤
刀剣武具太刀 銘守家造
破扇散鐔 無銘林又七
春日野図鐔 銘城州伏見住金家
毘沙門天図鐔 銘城州伏見住金家
牟礼高松図鐔 銘利寿(花押)
白糸威褄取鎧 兜付(しろいとおどしつまどり よろい かぶとつき)

(以上「Wikipedia」参照)

奥に見えるのが、「永青文庫」の建物。


正面。


案内板。

 北側にある建物が、「和敬塾」。男子学生寮。

和敬塾本館(旧細川侯爵邸)

 細川家第16代細川護立侯により昭和11年(1936年)に建てられた、昭和初期の代表的華族邸宅です。
昭和30年(1955年)、旧細川侯爵邸の敷地約7000坪および邸宅を同家より購入し、敷地内に学生寮を建設しました。
和敬塾では、本館を塾生(寮生)の教養講座の活動の場として活用する一方、外部の有識者を招いてのシンポジウム・講演会を開催し、塾生の知育、徳育の場として積極的に活用をすすめながら、文化財として保存してまいります。なお、和敬塾本館では、不定期に一般公開を実施しております。
(以上「」HPより)



1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)中央部分が「旧細川邸」。南から「新江戸川公園」、「永青文庫」、「和敬塾」。「胸突坂」をはさんで南から「関口芭蕉庵」、「蕉雨園」。その東一帯が「椿山荘」。

ほぼ同じ場所の1880年代のようす(「同」より)。西側の○が「細川邸」、東側の○が「山縣邸」、↑が「芭蕉庵」。「胸突坂」がその西側。


蕉雨園
正面。

  椿山荘、野間記念館に隣接する6000坪の敷地に建つ元田中光顕邸(1897年築)。1919年、田中光顕はこの邸宅を渡辺治右衛門(渡辺銀行総裁)に譲り、その後、1932年に講談社創業者の野間清治が購入。現在は講談社の所有。
 非公開だが、茶会やドラマ(華麗なる一族、鹿男あをによし、どんど晴れ、富豪刑事など多数)の撮影などに使用されている。命名は、邸宅を訪れた諸橋轍次が詠んだ「芭蕉葉上孤村の雨 蟋蟀聲中驛路の塵」から「蕉」と「雨」の二文字をとり芭蕉庵と五月雨庵にちなみ、蕉雨園と名づけられた。

田中光顕
 天保14年(1843年)、土佐藩の家老深尾家々臣である浜田金治の長男として、土佐国高岡郡佐川村(現・高知県高岡郡佐川町)に生まれた。
 土佐藩士武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒して、土佐勤王党に参加した。しかし文久3年(1863年)、同党が八月十八日の政変を契機として弾圧されるや謹慎処分となり、翌元治元年(1864年)には同志を集めて脱藩。のち高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。
 薩長同盟の成立に貢献して、薩摩藩の黒田清隆が長州を訪ねた際に同行した。第二次長州征伐時では長州藩の軍艦丙寅丸に乗船して幕府軍と戦った。後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。
 慶応3年(1867年)、中岡が坂本龍馬と共に暗殺(近江屋事件)されると、その現場に駆けつけて重傷の中岡から経緯を聞く。中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の戦い時では高野山を占領して紀州藩を威嚇、戊辰戦争で活躍した。
 維新後は新政府に出仕。岩倉使節団で欧州を巡察。西南戦争では征討軍会計部長となり、1879年(明治12年)に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1898年(明治31年)、宮内大臣。約11年間にわたり、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。1907年(明治40年)、伯爵。1909年(明治42年)、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。
 政界引退後は、高杉晋作の漢詩集『東行遺稿』の出版、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。
 晩年は静岡県富士市富士川「古渓荘」(現野間農園)、同県静岡市清水区蒲原に「宝珠荘」(後に青山荘と改称)、神奈川県小田原市に南欧風の別荘(現在の小田原文学館)等を建てて隠棲した。昭和天皇に男子がなかなか出生しないことから、側室をもうけるべきだと主張。その選定を勝手に進めるなどして、天皇側近と対立した。また、昭和11年(1936年)の二・二六事件の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに浅野長勲と動いたが、叶わなかった。
1939年(昭和14年)3月28日、静岡県蒲原町の別荘にて97歳で没した。(以上「Wikipedia」より)

 明治から昭和初期にかけての政界の黒幕といった感じですか。

「胸突坂」を登り切った辺りから。左手が「蕉雨園」。

塀越しに見える母屋の豪壮な屋根の一角。

「胸突坂」脇に見える屋敷の一角。

 折があったら、見学してみたいところではあります。でも、お茶会などには全く無縁ですからそんな機会には・・・。しかし、この辺りは立派なお屋敷と文教地区。
 帰りは、「目白通り」を西に向かって歩き、「田中邸」「日本女子大」「学習院」と横目で見ながらJR山手線「目白駅」まで(約2㎞)。
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