おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「田浦梅の里」、「稲村ヶ崎」そして、・・・(じじばばがゆく。プチ旅編。)

2016-02-25 21:25:43 | じじばばがゆく

 「田浦」ってどこだか知らなかったわ。熱海の方かしらなんて。熱海なら温泉だから、このところ、あなたがえらくご執心な温泉に性懲りもなく、と思ったけど・・・。

 「品川」集合というのがよくわからなかった。どこに連れて行かれるか分からない。まったく予備知識のないままに、ってね。

 「横須賀線」か、久々だわ、この線に乗るの。

 あなたにそれほどしゃれた計画なんて立てられるわけないしね。どうせなんか魂胆があるんじゃないの、ろくでもない・・・。

 この年になって「花粉症」になったのかしら。何だか鼻水が出てきて、・・・。
 こんな毛に覆われたものなんか着てきたら、花粉を一手に引き受けるようなものじゃないかって、もっとすべすべしたものを着てこなくっちゃって。余計なお世話よ、ハハ、ハックション! 

 脱ごうかしら暖かくなってきたし、あら! これも毛糸仕立て。

 でも、いい天気に恵まれて良かったわ、明日は荒れ模様になるそうだし、・・・。

 「鎌倉」の先なのか、けっこう遠いのね。「逗子」で乗り換えて二つ目。あら、同じくらいの人たちが降りるわね。みんな、梅を見に行くのかしらね。

てな愚にも付かない会話をしているうちに、「田浦」駅に着いた、とさ。

 この人たちに付いていけばいいのね。ああ、いいお天気だこと! でも、お店一つないわね、この通り。せめて飲み物くらい、って持ってきておいてよかったわ。

 まさか、こんなところに、梅林があるなんて思いもしなかった。

 横須賀には父親が縁があったみたい。海軍の経理課なんかで勤めていた、って聞いたことがある。そう、上海にもいたって。あんまり話は聞いたことはなかったけれど。戦争の話はしたがらなかったし。・・・何か不思議なご縁かも。って、別に私たちのことじゃないわよ、誤解しないで。

 さてもうじきね。エッ、あの階段を上るの! けっこう急で長そうじゃない。トイレはお済ませですか、この先にトイレはありませんってさ、大丈夫? そんなことないよ、この時期は仮設でもなんでも必ず上にはトイレがあるって、そうね。

 なかなか着かないじゃないの、まだまだ先なの。よっこいしょ、よっこいしょ。でも、あのご夫婦、けっこう大変そうじゃない、二人とも杖付いて青息吐息。これが今生の見納めって感じね、あらイヤだ、他人ごとじゃないわよね。

 てんでに勝手なことを言いながらあえぎあえぎ上った、とさ。 

ふうー、やっと着いた。あらすごい、梅が一面に。

 ちょっとそこの四阿で休憩しましょうよ。お茶、飲む? そうそうバウムクーヘンがあるから食べましょう。いいお天気!

    

 この先にも展望台とかあるんだって、そろそろ行ってみようか。この梅林、手入れがずいぶんと行き届いている感じ。梅の実も収穫しているんだ。そういえば、来る途中のお店にも宣伝してたわね。

 梅って桜ほど華やかじゃないじゃない、写真に撮ってもあまりぱっとしないし、・・・。でも、枝振りがいいわよね。

    

 そうね、最近の桜はみんな「ソメイヨシノ」、あれは1本、1本に個性というのを感じない。パッと見、あでやかで華やかだけど。河津桜もいいけれど、赤がちょっと濃すぎて好きになれないわ。  

    

 桜はなんと言っても「吉野山の千本桜」か、たしかに一目千本というくらい、すごいらしい。一度行ってみたいけれど、シーズン中はなかなか無理そうじゃない、混んでて。


 まあ、芝生が広がって、海がきれいに見えてきたわ、青色がいい。ふーん、横浜から木更津まで一気に見渡せる。

 と言いながら、その先の「展望台」に上がって行った、とさ。

    
    
 さて、そろそろお腹もすいてこない? どうする? そう、鎌倉に出てからにしますか? 帰り道ものんびり、のんびり下っていきましょう。



 風もそれほど強くなくて助かったわ。えっ、口元に何か付いてるって。ちょっと取ってよ。
 甘いにおいがするって、それ、口に入れる人いないでしょ、口に。

 何だ、さっきのバームクーヘンか。

    

 ここの梅の木は何年なのかしら、木肌が白くなって・・・。古木の枝振りがやっぱり素敵だわ。人生も枯れれば枯れるほど、素敵にならなくちゃね。と思ってもそうはいかないのも人生だけど。

 「老醜」って言葉があるけれど、いやな言葉よね、たしかに美しく老いるって難しい。



 お肌の手入れだけじゃないわ、内面からにじみ出てくる何かって何かしら? 衰えたりといえども、華を失ってはだめだわね。

              

 こうやって、また急な階段を下り、住宅街を歩いて、田浦駅に行かなきゃならないのか。

 帰り道を間違えて、結局遅くなってしまった食事をとるために、横須賀線で「鎌倉」に向かった、とさ。
 
 あれ、もうとっくに2時過ぎているわ。お腹ペコペコ。

 ここでいいじゃない、ここで。お蕎麦屋さんに入って軽く飲みながらお蕎麦を食べれば、最高じゃない。

 あれ、見て。飾り雛って言うんじゃない、二つ下がっているわよ。縮緬って縫いにくいのよね、こんな風に作るのって大変そう。でも、かわいらしい。
 東北に行った時、新幹線のコンコースにいっぱいあった。どこの駅だったかしら。

 こっちも素敵な版画じゃない、地元の方の作品なのか、へぇー。一人ひとりの表情がユニークで面白そう。

 さて、これからどうする? 何だかんだで3時半近いけれど・・・。「江の電」に乗って海岸にでも行きますか?

 こうして「江ノ電」に乗った、とさ。

 「稲村ヶ崎」駅か。ここ、そういえば、前に来たことあったじゃない。何年か前の7月、みんなで。長谷寺で紫陽花見て、それからあそこのお店で食事して、そして江ノ島に行って・・・。覚えているでしょ。

 ああ、富士山が向こうに見えているわ。霞んでいるけれど、あんな風に見えるんだ。あれが江ノ島でしょ。



 えっ、日の入りを見たいって、夕陽を見るにはまだ時間がかかりそうよ、しょうがないなぁ。あそこに「レストラン」があるから、あそこに入りましょ。

 あれ! ほら、隣に「稲村ヶ崎温泉」って看板があるわ。温泉、温泉ってうるさいんだから、ちょうどいいじゃない、せっかくだから入って来たら、ここで待っているから。
 
 お茶しながら、またまた四方山話に花が咲いているうちに、いつしか夕暮れになった、とさ。
  
    

 江ノ島の向こうに陽が落ちていく。風は冷たいけれど・・・。見る見るうちに山の端に沈んでいくね。感動的だわ!

 自然っていいわね。清々しさが違うわ。こっちみたいに俗っぽくなくて。俗もまたよしだけれども・・・。

 
 「鎌倉駅」改札口まできたとたん、

 そうそう、鎌倉には素敵なホテルがあるわよ。泊まっていったら? ゆっくり飲んで食事でもして、・・・。

 そうして、

 今日は一日楽しかったわ、ありがとう、じゃあ、ねぇ! 「湘南新宿ライン」で帰るから、と手を振って帰っていった、とさ。

 後ろも振り向かずに。

 取り残された人間は、泊まることもせず、一人寂しく、「横須賀線」で品川まで戻ってきた、とさ。
   
   

※「写真」は2月19日(金)。「田浦梅の里」(JR横須賀線「田浦」駅下車)と「稲村ヶ崎公園」(江ノ電「稲村ヶ崎」駅下車)で撮影したものです。    
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「相模運輸倉庫専用線跡」その3。(JR横須賀線「田浦」駅下車。)

2016-02-23 21:10:28 | 鉄道遺跡
 再び、「吾妻橋」まで戻り、西側に進みます。こちらも見所、満載です。上の写真は、西側から「吾妻橋」方向を望んだもの。

 しばらくすると、線路が復活します。
     
                                      振り返って望む。
                                      工事中で、線路は撤去されるかも知れません。

 その先に珍しい十字交差跡が、二箇所。その一つ、東側のもの。

    
 これは「田浦駅」方向から進んできた線路と東西に延びる線路(さきほど探索していた線路跡)とが交わる地点になります。

港方向に進む線路は草むらの中に消えています。

 道路をはさんで、すぐ西側にあるもう一つ。
     

 地図では港方向に進む線路はかなり長く続いていて、「海上自衛隊横須賀造修補給所比与宇倉庫(米軍箱崎燃料基地)」へ向かっているようですが、この先は立ち入り禁止のため探求できず。

     

 この二つの線路跡を振り返ると、道路の反対側(南側)にはかつての踏切の名残があります。


 田浦駅方向から進んできた線路は道路の向こうで3本に分かれ、一つはさらに東の方へカーブして進み、あとは2本に分かれてそのまま港側に直進していったことが分かります。
 そこで、道路を渡って廃線跡探索。「堀硝子」と「曙機械」との間の空間に当たります。 

線路は左右に分かれて進む。田浦駅方向を望む。

草むらに残された線路と施設。

     

さきほどの交差点方向を望む。

 ではここで分岐して左に行く(進行方向から見ると右に行く)線路はどうなっているでしょうか? 一部線路が残されいます。

「田浦」駅方向を望む。

道路側を望む。

右手には、かつて大きなサボテンが植わっていたようです。

「防衛施設庁」銘のコンクリート杭。

 東西を結ぶ線路と「田浦」駅方向から来た線路とが一緒になる地点にはかつては「転轍機」があったようですが、今は撤去されていて、合流地点は定かではなくなっています。

    
 東西を結ぶ線路。                         左からの線路と合流する地点(道路右)。

 実は線路はこの先、西にある「比与宇トンネル」の中に続いていました。この付近でスイッチバックしていたようです。今では完全に自動車、歩行者用のトンネルになっていますが、かつては線路だったようで、トンネル内で資材の積み卸し格納などが行われたいたそうです。

「比与宇トンネル」。

比与宇トンネル 
 比与宇トンネルは、戦前まで田浦駅(JR)構内からの軍事用引込み線のトンネルだった。周囲一帯は弾薬庫とその施設で、弾薬の積み降ろしは、このトンネル内で行われた。列車の軌道はトンネル内でスイッチバックして方向転換して長浦港倉庫街の東側に向かった。

現在、トンネル内には線路の痕跡は見当たりません。
    

 トンネル内にあるコンクリートブロックでふさがれた半円形は、弾薬などの貯蔵施設だったと言われています。トンネル内には何カ所かこうしたところがあります。その奥には地下室が今でも存在しているのでしょうか?



トンネルを抜けても自衛隊の施設がありますが、その先は「横浜ベイスターズ球場」があります。戦後、長浦港は捕鯨船の基地としても存在していました。大洋漁業などがあって、その跡地が今はベイスターズの野球場となっているわけです。
 現在の「横浜DeNAベイスターズ」の前身は「大洋漁業(まるは)」の実業団チームで、プロ球団として「大洋ホエールズ」となりました。

横須賀側出口。

 この地域は、明治以来、戦前、戦中、戦後と数奇な運命をたどってきた地域です。戦争遺跡、鉄道遺跡なども豊富。じっくり探索し、近代史を知る絶好のところです。歴史的遺産として保存して欲しいし、また、解説板なども設置していただくことをぜひお願いしたい。
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「相模運輸倉庫専用線跡」その2。(JR横須賀線「田浦」駅下車。)

2016-02-22 21:31:05 | 鉄道遺跡
 横須賀側のトンネルを抜けた線路跡はどこに行くのか? もちろん駅構内には入れないので、ぐるっと回って「吾妻橋」のところを右に折れて川沿いに進むと、朽ちた鉄橋を発見! 地図上だとそのままカーブして港沿いの倉庫群へ行く線路です。

    
 田浦駅方向。                           港方向。
           どちらも草ぼうぼうで、当然、立ち入り禁止。架線は残っています。

「吾妻橋」。
                               この付近は、道路も整備され、橋も新しくなっています。

 この橋の港側にかつて川を越えていた鉄橋のコンクリート台が残されています。眼の下の川の水は澄み通っていました。

    
                                東側。
西側。こちら側は不明瞭です。

 橋の東側にも西側にも線路が続いています。東に向かって線路跡をたどってみます。

草むらの中に錆びた線路。

これも関連するものか? 

線路跡が復活します。

「この地域は港湾作業場所につき関係者以外の車両の通行を禁止します
                                          長浦港湾事務所」

そこから西側(「吾妻橋」側)を振り返る。

 立て札を越えた先にも線路は続きます。右奥は「横須賀港湾合同庁舎」。



合同庁舎前にも線路。
                                     ここまでくると意図的に残してあるようです。

 左の線路は道路の縁に。枕木も残っています。まさにモニュメント風です。
    

この先で線路は二手に分かれます。

    

正面に進む線路は土砂の山でふさがれてしまいます。
    その突き当たりの右手に「解説板」のような立て札がありましたが、向きが反対で内容を確認出来ず。

 左手にカーブして進む線路跡をたどってみます。砂利で覆われてしまいますが、ところどころに線路が見えます。
    

 しばらく進むと、また二手に分かれるようです。線路が4本になります。
    

 右の線路は、正面奥にある「海上自衛隊艦船補給処」に向かいます。

    

 この施設は「旧海軍軍需部・旧海軍水雷学校」の跡地にある施設のようです。

注:「軍需部
   砲弾、魚雷、機雷などの兵器類から軍艦で使う燃料、食糧、被服までいっさいの軍需物資を工場などから集めて保管し、軍艦や前線に送り出すところである。

  「海軍水雷学校(かいぐんすいらいがっこう)
   大日本帝国海軍の水雷術(魚雷・機雷・爆雷)指揮官・技官を養成する教育機関(軍学校)である。初級士官を養成する普通科(少尉対象、海軍砲術学校普通科と合わせて1年間必修)、水雷術専門士官を養成する高等科(大尉・少佐対象、半年-1年程度)、下士官を養成する予科を設置し、海軍将校として必要な雷撃術・水雷艇や駆逐艦の操艦術・機雷敷設および掃海術・対潜哨戒および掃討術の技能習得、魚雷・機雷・爆雷・防潜兵器・索敵兵器の開発研究などを教育する。また、海軍通信学校が開校するまでは、水雷学校で無線電信技術の習得と研究を推進した。(「Wikipedia」参照)

朽ちた転轍機が見えます。

 そこから線路は4本になり、まっすぐ「旧海軍軍需部(現海上自衛隊補給処)」に向かっていきます。
    

 草むらの中に鉄路が続きます。その先は「補給処」の門。両側は「相模運輸倉庫」。
     

振り返って望む。

 この先は、構内に入っていく線路跡はなさそう。ジロジロのぞき込むわけもいかないので、引き返します。さて、「自衛隊補給処」へのところで左に分岐した線路は道路沿いに南に向かいますが、こんもり茂った木々と舗装道路によってその痕跡は見当たりません。



その分岐点付近から「横須賀港湾合同庁舎」方向を望む。
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「相模運輸倉庫専用線跡」その1。(JR横須賀線「田浦」駅下車。)

2016-02-20 21:58:12 | 鉄道遺跡

JR横須賀線「田浦」駅は「田浦梅林」の最寄り駅として今の季節は少しばかりの賑わいぶり。梅林には南側(山側・国道16号線側)へ向かいますが、北側(海側・長浦港側)に向かうと、倉庫街に。その中に廃線跡が点々とあります。けっこうマニアには知られたところ。
 「田浦梅林」へ向かう人とは反対に駅の北口側へ。こちら側は人通りもなく、お店も一軒しか見当たりません。倉庫と自衛隊の施設が点在する地域。
 
相模運輸倉庫専用線
 田浦駅から長浦港方面へ「相模運輸倉庫」が保有する専用線が分岐しています。この路線は長浦港に張り巡らされており、一部は在日米軍の施設である田浦送油施設へ続いていました。かつては、その施設から発送されるジェット燃料や周囲の倉庫からの飼料輸送などを行っていましたが、1998年より使用されていません。
 現在、路線は撤去されないまま存置されている箇所もあったり、朽ち果ててしまったところ、道路拡幅、舗装工事等で完全撤去されたり、アスファルトに埋もれてしまった線路など、廃線マニアには探究心をそそる廃線跡です。
 ただし、「相模運輸倉庫」はもとより、自衛隊の施設だったり、国有地だったりして、立ち入り禁止区域も多く、また、軍事施設もあって、むやみやたりに立ち入ったり、写真を撮るのもはばかられる場所もあります。カメラを片手に興味深そうに歩き回ったり、やたら建物や基地内部を撮ったりしていると誰何されることもありそうな、・・・そんな廃線跡探訪です。

横須賀側。左が専用線トンネル。

すでに使用されていません。

逗子側を望む。

    

改札口を出たところにある案内図。下方に専用線の線路。

 田浦駅は駅の両側がトンネルになっていて、特に鎌倉側は車両の一部がトンネル内になってしまい、乗降できません。
鎌倉側。

 人もほとんど見かけない階段を下りてくるとお店が一軒。「夜城」。営業しているのどうか定かではありません。


 道路を渡ると、こんな「相模運輸倉庫」の案内板が掲示されています。
鉄道線路が表示され、たくさんの倉庫が点在しています。

 「相模運輸倉庫株式会社」は、そのHPによれば、
 主に東京湾各港(横須賀・横浜・川崎・東京・船橋・千葉)での港湾運送荷役事業を行う会社で、完成自動車の輸出船積作業および原糖輸入作業等や船舶代理店業務、ポーター業務なども行っているようです。

 また、「田浦」地区は戦前から、横須賀海軍とのつながりの中で、発展してきたようです。以下「横須賀市」HPによると、

 横須賀の海軍工廠は明治から大正にかけて規模を拡大し、大正12年に横須賀海軍軍需部が新しく設置された。庁舎は、はじめ湊町(現在の汐入町1丁目)にあったが、さらに規模を拡大するため、田ノ浦海岸が海軍により買い上げられ、湊町から移転することになった。当時、この地区は長浦の村民が住んでいたため、立ち退かされた村民は、現在の国道16号線をつくるために移転させられた村民とともに、国道よりも南側にあたる現在の安針塚駅近くに移り住んだ。
 こうして、村民から買収した海岸地区の建設工事がはじまり、昭和2年、軍需部本部・倉庫等ができ湊町からの移転が完了した。これと並行して、国道から軍需部正門までの道路(現在の田の浦プール沿いの道)も整備された。長浦は、昭和になって、軍需部の湊町からの移転と国道の開通という2つの出来事により、町の姿は大きく変わっていった。国道の開通により、田浦全町と横須賀が結ばれ、軍需部で働く人も多くなった。
 軍需部というのは、砲弾、魚雷、機雷などの兵器類から軍艦で使う燃料、食糧、被服までいっさいの軍需物資を工場などから集めて保管し、軍艦や前線に送り出すところである。横須賀海軍軍需部の本部は田の浦に置かれ、JR田浦駅の裏にある数多くの倉庫が長浦倉庫と呼ばれていた。長浦(倉庫13棟、その他10棟)・比与宇(倉庫12棟、その他2棟)・田ノ浦(倉庫24棟、その他32棟)、郷戸・狢・日向地区、吾妻山・箱崎(重油槽16)の本部地区のほか、久里浜倉庫・池子倉庫・久木倉庫・大船倉庫などに分かれていた。正門は現在の野球場入口付近にあり、裏門はJR田浦駅裏にあった。長浦から引込み線があり、連日、貨車が出入りしていた。戦前・戦時中、軍需部前駅(現在の安針塚駅)から軍需部など海軍関係の施設へ通う人々で行列が続いたという。
 しかし、戦争が激しさを増してくると軍需部付近(現在の長浦1丁目など)の民家は「建物疎開」で強制的立ち退きをさせられ、他の土地へ引っ越ししなければならなかった。また向かい側の山に防空壕が掘られ、倉庫と従業員の避難場所とされた。
戦後、軍需部等軍の施設は進駐してきた米軍が使うことになり閉鎖されたが、1年足らずで日本に返され、昭和21年には、東京湾倉庫(後に相模運輸倉庫)、その後、大洋漁業、横須賀メリヤス工場などの民間会社が旧海軍施設に進出し操業をはじめた。長浦は、軍港長浦から平和産業の会社などのある新しく活気のある町となったが、現在は、捕鯨禁止の影響をうけ大洋漁業が去り、その後横須賀メリヤス工場もなくなった。付近は海上自衛隊や米海軍に使用され、一部横浜ベイスターズ球場などになっている。

 上記の通り、 JR田浦駅北口・海岸地区一帯は、戦前、海軍により明治37年水雷術練習所の建物などがつくられ、さらに大正8年海軍工廠造兵部の長浦倉庫(のちの軍需部長浦倉庫)と海軍水雷学校の拡張工事の敷地となったところ。長浦湾の岸壁にそった倉庫地帯は、旧海軍軍需部の、主に兵器庫があったところで、いまでも軍需部当時の古い建物が多く残っています。
戦後、旧軍需部の倉庫群は、現在、相模運輸倉庫(株)などの倉庫会社や長浦港湾施設に使用され、また比与宇火薬庫は、現在も海上自衛隊が使用しています。
 廃線跡だけではなく、建物などの戦争遺跡が残された地域でもあるようです。

 こうした予備知識をもとにしての探索ですが、ちょっとの時間で、というわけにはいかないようです。

「相模運輸倉庫F号倉庫」。
 大正6年に旧海軍の倉庫として造られた。終戦直前には軍需部修理場として使われた。レンガ・コンクリート製だが、モルタル塗りのためわかりにくい。現在も倉庫として使用されている。

 この他にも、旧海軍当時の倉庫が残されています。

    

    



 そして、それぞれの倉庫に関連しての物資輸送の鉄道が敷設されていたわけです。

「相模運輸倉庫」。

 建物にしても廃線にしてもあえてこうして残しているのは、横須賀市の(あるいは市民の)戦争遺跡保存という考えがその根底にあるのかもしれません。
 一方で、日本中、至る所にあれだけの大空襲を行った米軍。中でも横須賀基地は明治以来の日本海軍の重要な拠点港。その猛攻撃のなかにあって、海軍関連の建物や線路を残したのは、日本の敗戦、その後の占領による有効支配という深謀遠慮が働いたのに違いありません。用意周到なアメリカの空襲作戦だったのでしょう。おかげで横須賀周辺にこのように戦争遺跡が数々残されていることに。
 もちろん、そのために、(横須賀は1年足らずで返還されたようでが)首都圏では立川基地、横田基地、池子などの横須賀周辺地域に長期間に亘る膨大な土地を占拠する米軍基地の存在(一部は、その後の自衛隊の基地化)という事態を生んだわけです。



1970年代のようす。左手トンネル先のJR横須賀線「田浦」駅から分かれてカーブを描いて北西に進む線路。



現在のようす。線路跡が緑に覆われていますが、地図上で跡をたどれます。倉庫も同じように多くあります。
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どちらの記事が、読者をごまかしているか? あるいは馬鹿な男に振り回されているか?

2016-02-18 00:08:30 | 世間世界
時事通信の記事

 自民党の丸山和也参院議員が17日の参院憲法審査会の質疑で、オバマ米大統領に関して「米国は黒人が大統領になっている。黒人の血を引くね。これは奴隷ですよ。まさか米国の建国の時代に、黒人奴隷が大統領になると考えもしなかった」と述べた。人種差別と受け取られかねない発言で、批判を招きそうだ。
 丸山氏はこの後、記者会見を開いて「誤解を与えるような発言をしたことを大変申し訳なく思う」と陳謝した。 
 丸山氏は質疑の中で「例えば日本が米国の51番目の州になるということについて、憲法上どのような問題があるのか」と提起。「米国なら人口比に応じて下院議員の数が決まる。そうすると恐らく『日本州』は最大の下院議員を持つ。日本州出身(者)が米大統領になる可能性が出てくる」などと主張した上で、「奴隷」をめぐる発言に及んだ。
 丸山氏はこの後の会見で、「私の意図するところと違う発言をしてしまったと認識している。議事録を精査し、削除および修正したい」と述べた。ただ、どの部分を削除するかは明らかにしなかった。(2016/02/17-18:48)

産経ニュースの記事

「米国の51番目の州になれば日本人が大統領に」 自民・丸山氏が“珍説”披露、参院憲法審査会
 自民党の丸山和也法務部会長は17日の参院憲法審査会で、「日本が米国の51番目の州になれば、『日本州』出身者が大統領になる可能性が出てくる。世界の中心で行動できる日本になりうる」と“珍説”を披露し、日本が米国の州になることも1つの選択肢だとの考えを示した。
 審査会は「二院制の在り方」をテーマに参考人質疑を行ったが、意見陳述を認められた丸山氏は「日本が51番目の州になることについて憲法上の問題はあるのか」と切り出し、オバマ大統領を引き合いに「建国当初に黒人が大統領になるなんて考えられなかったが、それだけダイナミックな変革をしていく国だ」と述べた。
 終了後、記者団に「51番目の州」の真意を問われ、「それくらいの発想を持たないと、日本の根本的な改造は難しいという意味で、ヒントとして申し上げた」と説明。「日本の世界戦略における『国盗り合戦』みたいなものだ」と自説の正しさを強調した。
 ただ、その後、国会内で記者会見し、審査会での発言について「議事録を精査した上で削除、修正したい。誤解を与えた発言について、大変申し訳ない」と謝罪した

 ご覧の通り、「産経」は「誤解を与えた発言」の内容を明確にしていません。記事の流れからすると、「日本がアメリカの51番目の州になる」という「珍説」を指しているかのような作り方です。丸山自身、謝罪はしても、どの部分が誤解を与えたのかは明らかにしていないことをいいことにして。

 もっとも弁護士・丸山の発言は以前から(TV出演の頃から)ハチャメチャではあったので、別に驚きはしませんが。

 「アメリカの51番目の州になることについて(日本国)憲法上、問題があるのか、ないのか」とも参考人に質問した。「(米国の州になれば)集団的自衛権、安保条約はまったく問題にならない。拉致問題すら起こっていない。」(「朝日新聞」)

 この後、やばいと見るや、どの部分かを明らかにせず、発言を全部撤回するという呆れかえった男。こういう脳天気な男が自民党の法務部会長として大きな顔をしているんだから、付ける薬がありません。どうしようもないですね。 

 ま、日本(国)が安保にしても、経済にしてもすっかりアメリカのいいなりになっている現状(まさに属国の状態)を日本はアメリカの51番目の州だよね、と冗談とも本気ともいえない発言することは巷ではよくあるが、それにしても・・・。

※ 「産経新聞」では、「時事通信」の配信内容ととほぼ同じ内容の記事となっている。
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新町宿から藤塚一里塚まで。その1。(旧中山道をゆく。第7日目。)

2016-02-17 21:02:05 | 旧中山道

 中山道歩きも、もう第7日目。新町から倉賀野、高崎へ。さらに板鼻へと進みます。前の2回はそれぞれほぼ半日の行動だったので、今回は少し家を早めに出て何とか5~6時間くらいは、と。

 2月6日(土)。天気予報ではあまりよくない、とのことでしたが、朝方の予報で群馬は「」マーク。2月は来週、再来週と予定が込んでしまうので、思い切って出かけました。
 次第に道のりもはかどってくる感じ。これならあと3回、4月までには「軽井沢」まで行けそうかな、なんて「甘い」思惑もあってのこと。

 それでもまだまだ寒さが、ともたもたしてて在来線(高崎線)で上野から乗って、結局、「新町駅」着がすでに9時30分過ぎ。これではあまり距離が稼げません。コンビニでおにぎりなどを買って、さ、出発!

中山道に復帰し、すぐ右手の駐車場のところに「旅籠 高瀬屋」跡碑。

    

小林一茶宿泊の高瀬屋跡
 江戸後期の俳人小林一茶は、たびたび江戸としなのを往来していました。『七番日記』の文化7年(1810)5月11日に次のような記述があります。
 「前日の雨で烏川が川留となり、やむを得ず高瀬屋五兵衛に泊まる。旅の疲れでぐっすり寝込んでいると、夜の五更(午前4時)頃に起こす者があり、目を覚ますと専福寺の提灯を持った数人の者がいた。新町宿東端の神流川岸にあった木造の灯籠が度々の洪水で流失するので、石造りの灯籠を建てるため寄附をお願いされる。懐が乏しいので寄付は免じてくれと一度は断ったが、少ない所持銭より12文を寄進することになった」

 手枕や 小言いうても 来る蛍
 とぶ蛍 うはの空呼 したりけり
 山伏が 気に喰ぬやら 行蛍 

 その時に一茶がこれらの句を詠みました。  

 石碑の碑文はこのくだりが「七番日記」の原文そのままに刻んであります。

  ・・・さながら罪ありて閻王の前に蹲るもかくあらんと思ふ十二文きしんす

   手枕や古語といふても来る蛍

  迹へ帰らんとすれば、神奈川の橋なく前へ進んと思へば烏川舟なし
  ただ篭鳥の空を覗ふばかり也

   とぶ蛍うはの空呼したりけり
   山伏の気に喰はぬやら行蛍

その先の左手の大きなおうちのところには「小林本陣」跡。

解説板。 

 新町宿が宿場として最も栄えたのは、文化・文政期から天保期(1804~44)にかけての頃です。小林本陣は久保本陣・三俣副本陣と共に参勤交代の定宿でした。諸藩が届けた印鑑綴りには、金沢藩や甲府藩などの印影が保存されています。
 延享2年(1745)の「落合図」が保存され、当時の田畑や道筋が各々色分けされて記されています。元禄4年(1691)の検地水帳には所有者と地割が詳しく記され、落合新町の様子を知ることが出来ます。
 
 ここであらためて新町宿(しんまちしゅく)とは、
中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて11番目の宿場。
 現在の群馬県高崎市新町にあたる。はじめ本庄宿と倉賀野宿との間は、烏川北岸の玉村を経由するルートだったが、慶安4年(1651年)に落合新町、承応2年(1653年)に笛木新町(いずれも烏川南岸)に伝馬役が命ぜられ、ルートが変更された。これに伴い、中山道で最も遅く新町宿が成立した。これにより67宿となったが、東海道と重複する草津宿、大津宿を加えて中山道六十九次(または木曽街道六十九次)と呼ばれた。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、新町宿の宿内家数は407軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠43軒で宿内人口は1,473人であった。

               (歌川広重)

(以上、「Wikipedia」参照)

 余談ですが、中山道にも恵那に「歌川広重美術館」があるそうです。

 右手に「温井川」の土手が見えてくると「新町宿」のはずれ。

(10:00)温井川に架かる「弁天橋」の手前に「スリーデイマーチ発祥の地」碑。

 スリーデイマーチとは、埼玉県東松山市で行われる「歩け歩け大会」のこと。日本では最大規模で、全国各地で行われるようになったウォーキング大会のはしりとなったイベント。例年、11月上旬、3日間でのべ10万人の参加者たちが比企丘陵を歩きます。
 1978(昭和53)年に群馬県多野郡新町(現高崎市)で第1回日本スリーデーマーチが開催されたことを記念する碑です。1980(昭和55)年から宿泊施設や交通の便の関係から埼玉県東松山市に開催地が変更になりました。

温井河畔からは周囲の眺めがいいようですが、今日は霞んでいて、今一つ。
                                                   北から西へ赤城、榛名、浅間、妙義と見えるそうです。

橋を渡ると、藤岡市へ。

旧道は右の細い道を進みます。    

梅の花もちらほら。 

 右手に庚申塔などの石碑がずらっと並ぶ「伊勢嶋神社」を過ぎると、長い白壁が続き、その奥には土蔵が並ぶ、大きな屋敷が現れる。国の登録有形文化財の「川端家住宅」(10:08)。
     

振り返って望む。

中山道は関越自動車道をくぐっていきます。トンネルの向こうは「烏川」の土手。

その手前に木製の道しるべ。この先、随所に立てられています。「倉賀野宿まで4.4㎞」。

(10:17)旧中山道はこの先あたりからほんの一部を残してなくなってしまいます。烏川沿いにサイクリング・ロードがあるので、景色が広がる道を進むことになります。土手の左手、県道沿いには三菱鉛筆の工場。


 河川敷は野球場やサッカーグランドがいくつもあり、土曜なので小学生など球技に興ずる歓声が聞こえてきます。その土手下に木々が生えている一角が見えます。「中山道お伊勢の森」と呼ばれているようです。

    

 「中山道」は初め「お伊勢の森」の北側を通っていましたが、寛保2年(1742)の大洪水以後、川の浸蝕による、文化年間に森の南側を通るようになったそうです。
 広重の「中山道新町宿」はこのあたりを描いたものらしい。
 ということは、その辺りに中山道が通っていたということに? たしかにこんな立派な土手の上を通っていたはずはありえません。しかし、土手下も整備され、唯一この森だけがかつての姿を伝えるのみ。旧道がそのまま残っているわけもなく、・・・。結局、眺めのいい土手上のサイクリング・ロードを歩くことに。

 

                             
 菜の花が一本咲いています。季節になると一面菜の花畑に。              「利根川合流地点から7㎞」表示。

 この土手道。これまでの方々もサイクリング・ロードを歩かず、右の土手下(烏川河川敷)か、左の土手下の小道(県道脇)、さらに県道沿いに歩くケースがあるようです。いずれも、この先、右手のこんもりした森の辺りで左に折れ、土手下の住宅地を歩く道に「旧道」が残っている、というのは共通しているようです。



(10:32)住宅地の一角。小道が交差する。

道の真ん中に下水溝。    

それなりにおうちが集まっているので、旧道らしい感じもするが・・・。

突き当たりを右折します。

生け垣の中に、古びてかすれた「中山道」案内板。

 再び、烏川の土手に上がります。その右手前に蔵造りのおうち。さらに左には「旧中山道」の表示。 

    
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新町宿から藤塚一里塚まで。その2。(旧中山道をゆく。第7日目。)

2016-02-16 21:48:18 | 旧中山道
 土手に上がります。かつての中山道は「烏川」をこのあたりで「舟渡し」によって向こう岸に渡っていたのでしょうか?



 現在はもう少し上流にある「柳瀬橋」を渡って行きます。

    

川の中州に棒杭のようなものが点々と立っています。



 1880年代のようす。当時の橋(明治になってから架橋された)は旧中山道に架かっていた。
 これ以降、大がかりな堤防整備などが行われている。



 ほぼ同じ所の1970年代のようす。現在の「柳瀬橋」は上の図よりも250メートルほど上流に位置する。

                                     (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

(10:53)上流を望む。鉄橋は高崎線。

「柳瀬橋」を渡ると、再び「高崎市」へ。
    

 上の古地図でも分かるように、旧道はもう少し「烏川」の下流付近を通っていたので、その道に出るため、橋を渡ってすぐ土手を右に折れ、土手上をしばらく進み、土手から左の道に入ります。

土手上から対岸(新町宿側)を望む。

(10:56)土手の階段を下りて旧道に進むと、「旧中山道」の表示。
                                          「Old Nakasendo」とあります。

旧道は、岩鼻町交差点方向に進みます。

旧街道沿いらしいおうちも。

交差点を渡ります。向こう側に「旧中山道」の表示。

おなじみの道しるべ。

(11:07)すぐに左手の道に進みますが、ほんのわずかで先ほどの道に合流します。

    

合流点から見た道を振り返る。

「←倉賀野宿1.3㎞、→新町宿3.9㎞」

 広いほぼ直線道路を西に向かいます。
    
(11:18)「高崎線」の上下線を跨線橋で越えて行きます。

けっこう広い道。振り返って望む。

 「東京マツシマ」という会社のところを左に。

    

ここもすぐに右に曲がって、合流。

そこに「慰霊碑」のような大きな碑。碑面、確認出来ず。

(11:34)しばらく進むと、「追分の閻魔堂」。

 ここが「中山道」を京からやって来ると「江戸(中山道)」と「日光(例幣使街道)」へと分かれる地点。
左奥の道が「例幣使街道」。

「解説板」。

高崎市指定史跡 例幣使街道の常夜灯及び道しるべ
 江戸時代、日光東照宮には毎年4月に朝廷からの使いが派遣されていた。これを日光例幣使と言う。例幣使は、京都を出発し中山道を下り上野国倉賀野で玉村への道をとり、下野国桧木で壬生道、同国今市で日光道中に入った。例幣使道(街道)は、一般的に倉賀野から桧木までとされる。
 この辻には、常夜灯と道しるべ及び閻魔堂がある。
 常夜灯の基台には、四面にわたり各地の問屋・旅館・著名人312名の寄進者の名が刻まれており、この中には相撲関係者も見られ、長く大関をつとめた雷電為右衛門や鬼面山与五衛門など38名も含まれている。
 勧化簿という資料によれば、上野国那波郡五科(玉村村)の高橋光賢という人が、若き頃の生活を反省し、常夜灯建設を思い立ち、自己の財産を投げ出し、その不足分を多くの人から寄進を仰いで建立したとある。
 常夜灯
正面「日光道」右側面「中山道」左側面「常夜燈」
裏面「文化十一年甲戌(1818)正月十四日 
              高橋佳年女書」
総高 373㌢ 台石高 67㌢
灯籠高 305㌢ 灯籠屋根幅 105㌢

 道しるべ
正面「従是 右 江戸道 左日光道」
裏面「南無阿弥陀仏 亀涌書」
総高 172.8㌢ 台石高 8.8㌢
石柱幅 一辺33.7㌢

 平成8年3月  高崎市教育委員会

             
   「常夜灯」。                          「道しるべ」。

例幣使街道と倉賀野常夜燈」。
 中山道は、倉賀野宿東、下の木戸を出ると日光例幣使街道と分かれる。そこには、道しるべ、常夜燈、閻魔堂がある。
 ・・・(中略)
 日光例幣使街道は13宿中、上州5宿(玉村・五科・芝・木崎・太田)野州8宿となっている。正保4年(1647)に第1回の日光例幣使の派遣があって以来、慶応3年(1867)の最後の例幣使派遣まで、221年間、一回の中止もなく継続された。また、この常夜燈は、県内では王者の風格をもっており、文化10年(1814)に建てられ、道標の役割を果たしていた。

 高崎市 高崎観光協会

お堂の裏手には「馬頭観音」「庚申塔」などが。

ここから「倉賀野宿」となります。
                      右が「中山道」、左が「例幣使街道」。
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新町宿から藤塚一里塚まで。その3。(旧中山道をゆく。第7日目。)

2016-02-15 20:53:10 | 旧中山道

 昨日、今日と春の嵐。だんだんと春が近づいてくる時節。このところ連続でお葬式があったりして、ばたばた。
 間があきましたが、「中山道」歩きの続きを。

 倉賀野宿の中心部に入っていきます。格調高く大きな古いおうちが目に付きます。上の写真は、「吉野家 叶家」。

 続いて「大山家(大山小児科)」。どちらも見上げるほどの立派な造り。
         

                                通りのようす。

「矢島家」。

「勘定奉行 小栗上野介忠順公と埋蔵金ゆかりの地」碑。「倉賀野資料館」とあるが、どうも私的なものらしい。

 ところで、小栗上野介と徳川埋蔵金。いっときはTVでも扱っていたが、今は下火? 隠したところは赤城山山中、とか。この碑では倉賀野の地も関係するようです。

 そこで「Wikipedia」を参照して。

埋蔵金伝説

 1868年4月に江戸城が無血開城となった際、当時財政難に喘いでいた明治新政府は幕府御用金を資金源として期待していた。ところが城内の金蔵は空であったため、幕府が隠匿したと判断した新政府軍による御用金探しが始まった。
 探索の手は大政奉還当時勘定奉行であった小栗忠順にも及んだ。小栗は奉行職を辞任した後、上野国(群馬県)群馬郡権田村に隠遁していた。彼が幕府の財政責任者であったということから「小栗が幕府の金を持って逃げた」といった流言が飛び、更には「利根川を遡って来た船から誰かが何かを赤城山中へ運び込むのを見た」と証言する者まで現れた。加えて小栗が江戸城開城に伴う幕府側の処分者の中で唯一命に関わる刑罰(斬首)となったことも重なり、「幕府の隠し金が赤城山に埋められていることは事実である」と信じた人々が赤城山の各所で発掘を試みた。

 その後、埋蔵金研究者達により赤城山に眠る徳川埋蔵金は以下のようなものであると定義された。

 ・幕府の将来を憂慮した大老井伊直弼により莫大な金を赤城山麓に埋蔵することが企画された。
 ・井伊直弼が横死した後、軍学者であった林梁によって埋蔵が実施された。
 ・埋蔵された額はおよそ360万 - 400万両。この額の根拠は、勝海舟の日記に「軍用金として360万両有るが、これは常備兵を養う為の金で使うわけにいかない。」との記述が元と思われる。
 ・埋蔵に際しては中国の兵法の1つである「八門遁甲」が施され、各所に偽計が張り巡らされている。
 ・山中にある双永寺は埋蔵時、見張り所とされていた。
 ・小栗忠順は機を見て埋蔵金を掘り返し、幕府再興を画策する役を負っていた。

 物的証拠もいくつか挙げられているようです。
 ・大義兵法秘図書「たいぎへいほうのひずしょ」 (明治24年 児玉惣兵衛宏則なる人物が書き残したとされる)
 ・意味不明な文字や絵図が刻まれた3枚の銅版 (双永寺の床下から出たとされる)
  ・・・

 赤城山での発掘が次々と失敗に終わって行く中、これを見た一部の人々は赤城山を本当の埋蔵場所を隠すための囮だと考えるようになり、「真の埋蔵場所」を求めて持論を展開するうちに各地で埋蔵金伝説が誕生した。以下にその一部を記す。
・日光山内(東照宮、二荒山神社など、それぞれの論により詳細な場所は異なる)
・男体山、中禅寺湖、明智平(いずれも奥日光)
・榛名山、妙義山(赤城山を加えて上毛三山と言われる)
・備前楯山(足尾銅山の坑道)
・上野東照宮、久能山東照宮、日吉東照宮、世良田東照宮など各地の東照宮

 都市伝説上ではあるが、童謡「かごめかごめ」の歌詞中に埋蔵金の在り処を示すとされているものがある。

 実際には、徳川埋蔵金は多くの発掘プロジェクトが各地で行なわれているが、そのほとんどが全く成果を出しておらず、埋蔵金自体も発見されていない。

マスメディアによる推理・発掘

 ・TBSのテレビ番組『ギミア・ぶれいく』で、糸井重里を中心としたプロジェクトチームを結成。自称超能力者の助けを借りるなどして埋蔵箇所を「源次郎の井戸」と推定し、大型重機を使用した大掛かりな発掘を試みた。江戸時代以降に掘られたと見られる穴や遺物を多数発見したが、埋蔵金に直接繋がるような発見は無く、プロジェクトチームも解散した。糸井はのちにこの番組について「世界唯一の土木番組」だったと自嘲している。
 ・2008年にもこの番組の後継番組『バラエティーニュース キミハ・ブレイク』が同様の発掘企画をした。
 ・TBSのテレビ番組『日立 世界・ふしぎ発見!』で「埋蔵金伝説の赤城山とは世良田東照宮に作られた擬似赤城山である」という推理が紹介された。
 ・テレビ朝日のテレビ特番『水曜特バン! 徳川埋蔵金大発掘』で群馬県内の別の場所が掘られた。TBSのプロジェクトと同時期に行われ、埋蔵金研究者の八重野充弘が企画・出演した。
 ・日本テレビの『TVムック謎学の旅』においても「かごめかごめ」の説を元に別の場所を予想し、金属探知機による調査が行われた。


 ただの「夢物語」といったら、身も蓋もないですが・・・。最近でも世界でもナチスの隠した財宝が発見されたとかのニュースが話題になりました。こうして「埋蔵金」があることを確信し、今でも粘り強く探している方々の存在はやはり「貴重」ですね。

「丁子屋 房右衛門」。


倉賀野宿(くらがのしゅく)
 中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸・日本橋から数えて12番目の宿場。日光へ向かう日光例幣使街道が分岐している。
 5世紀頃、この地域には浅間山古墳などの大古墳が築造されました。鎌倉時代には武蔵児玉党の子孫が倉賀野氏を名のり、南北朝の頃には倉賀野城を築城、戦国期になって上杉、武田、北条氏の勢力争いに巻き込まれ、天正18年(1590)に倉賀野乗は落城して廃城となった、そうです。
 江戸時代に入り、中山道が整備されると、倉賀野宿となりました。また、烏川には倉賀野河岸が整備され、江戸と信越方面を結ぶ物資輸送の中継地であったことから、宿場は参勤交代や旅人、船頭、人足、町人などで大変賑わいました。長さ11町38間(約1.2km)で、上町、中町、下町があり、中町が中心地。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、倉賀野宿の宿内家数は297軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠32軒で宿内人口は2,032人。明治に入っても明治16年(1883)に鉄道が敷設されるまでは、東京や信越方面を結ぶ水運の川岸舟場として栄え、料理屋や遊郭などもあり、賑わった、ということです。
         

(11:45)しばらく進んだ右手に「倉賀野古商家おもてなし館」。

 最近、つくられたようです。大きな座敷と湯茶の接待などもあって、ゆっくりできます。
 この建物は、かつては「大黒屋」の屋号で穀物商を営んでいた蔵造りの商家。中山道からの路地に並んで建つ土蔵のナマコ壁が続きます。明治後期に曳家をしたもので、明治6年(1873)の築造といわれています。



 そろそろお腹も空いてきたので、中にお邪魔してお茶をいただきながら、コンビニで買っておいたおにぎりを。



 さて、再開。すぐ先には「太鼓橋」。
    

 五貫堀に架かる太鼓橋は、その昔、現県道よりもかなり低いところにあり、板橋であったため、度々の大水で押し流されました。享和3年(1803)、当時としては珍しいアーチ橋に架け替えられました。
 その石は、倉賀野宿の繁栄を陰で支えた飯盛女が名前を刻んで寄進したと伝えられ、現在、名の刻まれた石は倉賀野神社の境内に保管されています。
 参勤交代の大名も日光例幣使も、そして、皇女和宮の行列も渡った太鼓橋です。

 解説板には「宝蔵橋」(正式な橋名)と刻んだ柱石の写真が載っています。橋の下に流れていた五貫堀(「倉賀野城」外堀)はすでに暗渠になっています。

 (12:12)左側にあるスーパー「ベイシアマート」の駐車場に「倉賀野本陣」の石碑と解説板があります。

     

倉賀野宿本陣跡
 倉賀野は江戸時代中山道の宿場として、公用の人馬・荷物の継立てと、公的旅行者への宿舎の提供が課せられていました。本陣はその宿の最上級の旅宿で、大名・久下などが休息・宿泊する場でした。倉賀野の本陣は1軒で、元和年間(1615~23)から一貫して勅使河原家がその任に当たってきました。
 往還(中山道)からやや奥まって北向きに建てられ、門構え、玄関・上段の間を備えた格式高い造りで、建坪は百坪(約330㎡)もある広大なものでした。

向かい側に古民家。空地には現代的な建物が建つのでしょうか? 

 倉賀野駅前交差点先に「倉賀野仲町山車倉」があり、その前に「中仙道 倉賀野宿 御傳馬人馬継立場跡」という石碑があります。「問屋場」があったところ。

    

そこから来た道を振り返って望む。まだ雪が残っています。

    
                             「脇本陣」だった須賀家。

 倉賀野宿の建物は、幕末・安政期の大火や旧中山道の拡幅工事などで明治に入って建てられた建物が多いようですが、かつての宿場町のようすをよく残した建物が残っています。

向かいの民家の前にはもう一軒の「脇本陣」だった跡碑。
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新町宿から藤塚一里塚まで。その4。(旧中山道をゆく。第7日目。)

2016-02-14 21:46:31 | 旧中山道

 (12:19)街道の右手には「高札場」が復元されています。
    

高札場・上町問屋場跡
 江戸時代を通じてこの辺りには高札場・上町の問屋場・二軒の脇本陣などがあり、倉賀野宿の中心街をなしていました。
 高札場は、問屋役兼年寄の須賀長太郎家(須賀長)の前にあり、高さ3.6m、屋根付きの大きなもので、幕府の禁令や高崎藩のお触れなどの高札が十数枚掲げられていました。
 問屋場は、宿場の重要施設で、幕府が定める公用の人馬及び物資・書状などの継ぎ送りを主要な業務とする一種の役所でした。
 倉賀野には三ヶ所の問屋場があり、各月の上旬は中町、中旬は上町、下旬は下町の閣問屋場が十日間ずつ務めました。
 上町の問屋場は、ここ須賀長の前に設けられ、毎月中旬の十日間、毎日問屋一人、年寄一人、帳付一人、書役二人、馬差一人以下二十人ほどが勤務していました。

                      

「高札場」の裏手に、一本の樅の木と解説板が。    

 安政3年(1855)3月、倉賀野宿が大火に見舞われ、一面、焼け野原になったが、ただ一軒焼けなかった。どこからか大天狗が現れ、楓の木から樅の木と飛び移って迫ってくる猛火を鎮めた、という。その楓と樅の古木は枯れ、現在の樅の木に植え替えられたそうです。(かなりの長文の解説文なので、要約)

宿場独特の間口が狭く、奥行きが長い敷地がそのまま今も。

ところどころにしっかりした古いおうちが。

しばらく進むと、安楽寺境内に異形板碑がいくつか。

    

 板碑は中世仏教で使われた供養塔のこと。板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものである。
 分布地域は主に関東であるが、日本全国に分布する。設立時期は、鎌倉時代~室町時代前期に集中している。分布地域も、鎌倉武士の本貫地とその所領に限られ、鎌倉武士の信仰に強く関連すると考えられている。現代の卒塔婆に繋がる。
 板碑は地域・時代等により形態や石材に多様性があり、地域間交流を知る考古資料として注目されている。(以上「Wikipedia」参照)

 ここの板碑は室町時代のもので、砂岩でできた将棋の駒形をしています。なお、「安楽寺」付近が倉賀野宿上の木戸(京側出入口)があった場所らしい、とのこと。

(12:30)少し先の「上町西交差点」に『一里塚』跡の解説板。
    
中山道の一里塚跡
 一里塚は、江戸幕府が慶長9年(1604)に江戸日本橋を起点として、東海道や中山道などの主要街道の一里ごとに、道の両側に築かせた道標です。
 ここにあった塚は日本橋から26番目のもので、規模は径が約15m、高さが約4.5mほどの小山で、頂上に榎木が植えられていました。そのため、「一里山」と呼ばれていました。
 明治になり道路改修が進むにつれて塚は次第に崩され消滅してしまいました。

 「一里山」という地域名は「東海道」でもおなじみでした。道路が広く整備された時に解説板が設置されたようです。
                    

 この先、右手には「松並木」が続きます。最近整備されたようで、若い松の木が植えられています。 
    

    
 (12:49)ドラッグストアや車屋さんが並ぶ街道を進むと、左手前方にこんもりした森が見えてきます。「浅間山古墳」です。の裏手を斜めにあぜ道を進むと古墳に登ることが出来るようですが、「ダイハツ」さんの駐車場から遠景をパチリ。

「浅間山(せんげんやま)古墳」。

 全長171.5mの前方後円墳。後円部の直径105.5m、高さ14.1m。前方部の長さ66.3m高さ5.5m(現状は畑地)。周囲の環濠部は現状、畑地や水田となっている。築造された年代はおよそ1,200~300年ほど前。4世紀末から5世紀初頭。地方豪族の墳墓と考えられている。群馬県内では2番目の大きさ。


1880年代のようす。○が「浅間山古墳」。上の街道が「中山道」。長い(杉)並木になっている。

この辺りで松並木も終わり。来た道を振り返る。

右手に「旧中山道」の標識。

左手には高崎駅名物「だるま弁当」の工場。 

(13:02)この先で旧道は広い道路から右の道に入って行きます。



 途中行き止まり。その先で再び右に入って行きます。路地裏のような道ですが、先達の案内ですとこれが旧道らしい。再び合流すると、そこに「旧中山道」という古びた矢印があります。

 ②

 ④ 

(13:06)分岐点から振り返って望む。  

「高崎宿」に向かいます。「→高崎宿 1.5㎞ ←倉賀野宿 1.8㎞」。

「国道17号(現中山道)」をくぐる。

(13:29)そこを越えて、次の交差点。「高崎宿まで0.5㎞」。

 (13:35)新幹線の高架橋をくぐり、「上信電鉄」の線路を越えると、「高崎宿」。
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新町宿から藤塚一里塚まで。その5。(旧中山道をゆく。第7日目。)

2016-02-13 21:19:28 | 旧中山道
 高崎宿は、城下町だったことで本陣や脇本陣もなかったようです。

高崎宿(たかさきしゅく)
 中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて13番目の宿場。また、高崎宿から三国街道が分岐しており、その起点の宿場。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、高崎宿の宿内家数は837軒、本陣および脇本陣は設けられておらず、旅籠のみ15軒が設けられ、宿内人口は3,235人であった。

      (歌川広重)

(以上、「Wikipedia」より)

 「三国街道」は「本町1丁目」交差点から「中山道」と分岐して北に向かう街道。
 ちなみに、日本橋から「現・中山道」として進んできていた「国道17号線」とも「君が代橋」東詰でお別れ。「国道17号線」は「三国街道」の一部を継承しつつ、新潟に向かいます。「旧中山道」は、その先、「国道18号線」とつかず離れずで進みます。

    
 広い通りを進みます。                      振り返って望む。特に宿場町らしい特徴はなし。

 高崎駅広場で小休止して、再開。

高崎駅西口からの中心街の一画「連雀町」。

連雀町の由来」碑。

 連雀町の由来は、行商人が各地から蘞著(れんじゃく・荷物を背負う道具で連尺とも書く)で荷物を背負って城下町に集まり、商いが行われた町を蘞著町と名付けられ、俗に連著町・連雀町と書かれるようになったと伝えられており、時の城主井伊直政が箕輪から高崎へ移城とともに高崎城大手町前に移し、旧名をそのまま変えず連雀町とした。
 ここは高崎城下の中央に位置し城主から特に優遇された町で、町割りを決めるとき、最初に連雀町の位置を決め、それから各町の地割りをした。
 さらにこの町の店は、清潔な品物を売買するよう城主からきめられていた。また一時この地に本陣がおかれ、ここを通過する諸大名が休憩したり宿泊をした。

 高崎の散歩道より 

 「連雀町」は、「掛川」「浜松」「岡崎」など、東海道中の城下町でもなじみの町名です。いずれも上のような共通の根拠があります。

村上鬼城俳句・英訳句。  念力の ゆるめば死ぬる 大暑かな

村上 鬼城 むらかみ きじょう(1865〜1938) 境涯句を詠み続けた高崎が生んだ近代俳句の巨星

痩馬の あはれ機嫌や 秋高し
いささかの 金ほしがりぬ 年の暮
麦飯に 何も申さじ 夏の月

 鬼城の句は、人生の悲惨事をなめつくして初めて得られるところに特徴があり、これを「境涯の句」と呼んで評価したのは、大須賀乙字という俳句評論家です。大正6年に出版された『鬼城句集』の序文で、「明治大正の御代に出でて、能く芭蕉に追随し一茶よりも句品の優った作者がある。実にわが村上鬼城である」と述べています。
 実際、鬼城俳句には人生について深く考えさせられる作品が多くあります。

五月雨や 起き上がりたる 根無草
蟷螂の 頭まわして 居直りぬ

など、優れた写生力に加えて、冒しがたく凛とした気品が漂います。

浅間山の 煙出て見よ 今朝の月
雹晴れて 豁然とある 山河かな

 郷土色が豊かににじむ句も多彩に残したこともあり、郷土の人々に愛され、旧高崎市内には一五基の句碑が建立されています。
 また、鬼城は高崎はもとより、利根・沼田、藤岡、前橋、桐生、中之条など県内各地や愛知、大坂など県外の俳句結社などに直接・間接的に大きな影響を与えました。
 村上鬼城は慶応元年7月20日、鳥取藩士の小原平之進の長男として、江戸藩邸に生まれました。祖父小原平右衛門は大坂御蔵奉行を務め、家禄五百石を受けていましたが、その後三代養子が続いて禄を減らされ、父平之進の時には350石となりました。それでも立派な武士の家柄でした。しかし、明治維新後に父が県庁官吏の職を得て、前橋に移住。一年ほど後に高崎に居を移しました。
 鬼城は本名を荘太郎といいました。明治8年、11歳で母方村上源兵衛の養子となり、村上を名乗るようになりました。幼少時代の夢は軍人になることで、その目的に向かって勉強に励みましたが、19歳の時に耳疾を患い、あきらめて司法官を志します。
 24歳でスミと結婚し、二人の娘を授かったのも束の間、父を亡くすとすぐにスミも27歳の若さで病死します。耳の状態が悪化し悲嘆にくれる中で、司法官も断念した荘太郎は、法律の知識を生かし、高崎裁判所の代書人(現在の司法書士)となりました。
 「鬼城」という雅号の由来は、先祖の地・鳥取にある古城「鬼ヶ城」にちなんだもの。鬼城が俳句に熱中し始めたのは、代書人になった30歳の頃からです。日清戦争に従軍するため広島の大本営にいた正岡子規に手紙で俳句の教えを乞いました。
 子規の提唱する俳句の革新に共鳴した鬼城は、明治30年に『ホトトギス』が創刊されると、投句に専念しました。「詩歌というものが弱音を吐くために必要になってきて、何かと胸中のムシャクシャを言い表わそうとする」と、鬼城は述べています。32歳でハツと再婚し、二男八女の子宝に恵まれますが、生活は楽ではありませんでした。
 大正2年の春、ホトトギス派の重鎮である高浜虚子・内藤鳴雪を招き高崎で盛大に句会が開催されました。この句会で、脚光を浴びた鬼城は、作句に熱心に取り組み『ホトトギス』の雑詠欄に頭角を現していきます。
 大正5年、52歳のときに、耳の疾病の悪化から代書人の職を追われますが、法曹界に関係のある俳人数名の訴えで、約1年後に復職することができました。これ以降、地方の俳句雑誌からの選者依頼、指導を求めてくる人からの添削料など、俳句による収入を得るようになりました。大正6年に出版された『鬼城句集』は広く支持を得て、家計にも大きな恵みをもたらしました。ここには鬼城の代表作とされるもののほとんどが納められています。
 昭和2年、鬼城が64歳のとき、高崎鞘町の鬼城庵が全焼。虚子などの著名人をはじめとする俳人たちが、鬼城庵再建の具体策を進めて、翌年に高崎並榎町に新居が完成しました。当時はすそ野が広がる榛名山と向き合い、遠く浅間・妙義の峰も望める高台という環境で、鬼城はここで絵を描く楽しさに親しむようになりました。また「並榎村舎」と称して、俳句活動の拠点とし、後進の指導にあたりました。(現在は、村上鬼城記念館として公開されています)
 鬼城の主たる活動の場は、新聞『日本』・『ホトトギス』・『山鳩』等の紙誌ですが、中でもホトトギスでは巻頭18回を占め、巻頭作品だけでも205句という俳句が選ばれました。これらの作品の多くは「鬼城自画賛」として書と俳画に残されています。その抜群の造形力やバランス感覚は、近代俳画の最高峰を示すものとして、今日、改めて注目を浴びています。

    (HPより)」

    

 高崎は周辺の農村で生産される白絹の取り引きで賑わいました。その「絹市場」の雰囲気を今に伝える飲食を主とした「市場」が再現されています。

絹市場の由来
 高崎生絹大織売買所は通称「絹市場」と呼ばれ、田町絹市場(現在地)西隣に位置しました。明治27年田町に建築され、その後すぐ高崎商業会議所が設立、ここに同居する。
 高崎は周辺の農村で生産される白絹の取り引きが早くから行われ、五、十の日に市が立った。絹市場はこうした取り引きを一定の場所で構成に行う為にあり、又、多くの取引業者で半値委を見せ、「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと」と歌にも歌われたことを思い、絹市場の名称を残すことにした。

(14:37)本町3丁目の交差点を左折します。

黒い重厚な印象の土蔵造りのおうち。

こんな造りのお店も。

 「旧中山道」は、「本町1丁目」交差点で国道354号と離れてまっすぐ「赤坂通り」という細い道に入ります。この交差点が「三国街道」との分岐点。

             「赤坂通り」。

(14:52)左手に煉瓦造りの煙突。「岡醤油醸造」。

    

岡醤油醸造の事務所と煙突
 岡醤油は、天明7年(1787)に現みどり市大間々に創業した岡直三郎商店の支店として、明治30年(1897)開業しました。平成に入り、醤油の製造は岡直三郎商店に依頼していますが、事務所は創業当時の店舗がそのまま使用されています。
 中山道に面した店舗らしく、屋根の下部分には京風造りを代表する虫籠窓が残っています。揚げ戸や古いガラスを使用した戸などが見られ、明治時代を伝える数少ない建物なので、中山道を歩く人や、町めぐりの人たちが訪れ、テレビの旅番組や雑誌、新聞でも取り上げられたり、映画のロケ地としても何度も使われるなど、昔の良き時代を知る場所となっています。
 裏手に見えるレンガ造りの煙突は、昭和初期に修復された記録がありますが、現在も町のシンボルとして地元で愛されています。 

その向かい側にあるのが「山田文庫」。

 その先の「常盤町」を右折し、烏川方向に向かいます。「ボーリング」などの施設があるスポーツセンターを過ぎると、道が広くなります。
右手奥に三層? の建物は「常仙寺」。
 
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新町宿から藤塚一里塚まで。その6。(旧中山道をゆく。第7日目。)

2016-02-12 21:17:11 | 旧中山道
 (15:05)「君が代橋」を渡る手前の広場にあるのが「君が代橋」親柱。

君が代橋親柱
 君が代橋という名は、明治11年9月、明治天皇が北陸東海御行幸のとき、馬車で木橋を渡られたことを記念して命名されました。 
 この君が代橋親柱は、昭和6年に木橋から鉄橋に架け替えられたときのものですが、昭和53年より10年の歳月をかけて、三層構造のインターチェンジが建設され、君が代橋も新たに架け替えられた際、ここに移設されたものです。
 昭和62年3月 建設省高崎工事事務所

 自動車道が複雑に交差して、なかなか橋への道が分かりにくい。橋の向こうから自転車通学の高校生がやってきた、その道筋を確認して、何とか歩行者用の道を渡ることに。

    
                                        橋桁の向こうは「榛名山」。

    
 下流方向(高崎市街地)。                       上流方向(榛名山)。

(15:15)「烏川」を渡ってすぐに右折し、「国道406号線」へ。

 まもなく「下豊岡町西」の信号で、国道から離れて左に進みます。その角に追分の道標・石標「右 くさつ道」があったはずですが、見逃しました。けっこう辺りが寒くなってきました。先を急ぎます。 

 (15:30)この通りには高崎名物のだるまの製造工場をいくつか見かけます。
    

かなりの直線道路。けっこう長い!

上豊岡町交差点で「国道18号線」に合流する手前に、「茶屋本陣」。
 上豊岡の茶屋本陣は、中山道の高崎宿と板鼻宿との間に設けられ、大名の参勤交代や上級武士・公卿の喫茶や昼食等のために用いられた休憩施設です。宝暦7(1757)年には日光例弊使であった五條宰相菅原為成が、また文久元(1861)年には皇女和宮御下向の際に公卿などが客人として立ち寄ったことがわかっています。
 茶屋本陣の建物は、既にあった居住用の主屋(18世紀中頃築造)と接続する離れ座敷として19世紀の初めに増築されています。大名などが休息をとる「お座敷(オザシキ)」は8畳2室からなっており、北側の部屋は「上段の間(ジョウダンノマ)」、南側の部屋は「次の間(ツギノマ)」と呼ばれ、上段の間には違棚、床の間、書院が設けられています。


(以上、「」HPより)

(15:51)「国道18号線」と合流します。土手沿いに進みます。

振り返って望む。正面奥の道から来ました。

 本来、ここから土手に上がるのはなくて、まだ先の方で。ジグザク道をしばらく行って国道に合流し、「一里塚」の先でやっと土手に上がるのが正しい、らしいです。

左手、国道沿いの駐車スペースの先に「藤塚一里塚」。

    

(16:03)道路をはさんで右側にはお宮が。

説明板が不鮮明な箇所もあるので、「」HPより。

 一里塚というのは、慶長9(1604)年に江戸幕府2代将軍秀忠(ひでただ)の命令で主な街道が整備された時、街道一里(約4キロメートル)ごとに目印として築かれたものです。
 江戸時代、江戸(現在の東京)から京都までのルートには、海沿いの東海道と山沿いの中山道(なかせんどう)がありました。
 高崎市上豊岡町にある一里塚は中山道沿いに設置されたもので、、群馬県で唯一形の残っている一里塚です。塚の上には、樹齢400年と言われるムクノキが茂っています。
 この一里塚は江戸日本橋から28里にあたり、中山道で江戸からの距離は約112kmになります。
 なお、中山道は中仙道と記されることもありますが、正徳6(1716)年に幕府から、「海道に対する山道であるから、公文書では中仙道の文字はあやまりである」というお触れが出されたそうです。

土手の上からの一里塚。

草むらの中には祠が。

「碓氷川」の土手はまだまだ続きます。「←板鼻宿 2.5㎞ →高崎宿 3.6㎞」

  

 一里塚からその先を進んできて、携帯の電池が切れかかってきました。これ以上行っても「板鼻宿」にとうてい着けません。今回はここまでとします。
 しかし、「群馬八幡」駅まで戻るにはけっこうかかりそう。国道から駅に向かう途中にあったラーメン屋さんでビールを飲んで、ひと休み。

 「藤塚一里塚」付近のようす。



 1880年代のようす。



 ほぼ同じ場所の1970年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

(17:25)「群馬八幡」駅に着く頃には陽もすっかり落ちて、残照。「妙義山」が遠くにシルエットで。

 
 
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ぜひ線路跡を有効活用に。河川敷、森、鉄橋、・・・。魅力的です。 

2016-02-11 12:12:29 | 鉄道遺跡
「安比奈線」復活せず 西武鉄道、車両基地計画を中止

 南大塚駅から入間川河川敷まで続く「休止」路線。ようやく結論が出たようです。一度歩いたことがありますが、今後、どう活かすか? 線路や電柱なども完全撤去になっていくでしょう。今のうちに探索した方が宜しいのでは。

 出かけた時の記事と写真を数点紹介して、「安比奈線」のお別れに。

西武・安比奈線をたどる。西武新宿線・南大塚駅下車

(2014.11.15~掲載)

 「廃線」(西武としては「休止線」という扱いだが)探索として都心から近く、最寄り駅の「南大塚」(西武新宿線「本川越」の一つ手前)からはレールをたどり、迂回しながら歩いて、「安比奈」駅まで約1時間ほどで着けます。
 住宅地の生活感あふれる裏道沿い、田んぼや畑のあぜ道、農家の軒先、鬱蒼とした森の中、川原の荒野の中、と行く先々で変化に富んだ鉄道風景を堪能できます。
 特に、晩秋の枯れた世界。朽ちた鉄橋がいくつもあり、蔦に絡まれて電柱が立ちすくむ風景あり、TVの撮影現場跡あり、「まむし注意」多数あり、・・・など充分楽しめました。
 もちろん、がっちり柵があって、「立ち入り禁止」の看板が随所に立っているので、そこはほどほどに・・・。
 ただし、バスの便も悪く、タクシーか(行きは駅前から乗れるが、帰りはまずつかまらない)行き帰りとも歩かなければならない、ゆっくり探索していくと往復3時間くらいは必要かもしれない。
 そういう意味でも、「廃線」探索の面白さ・妙味が充分あるところです。

      

     
 
    

     

 森を抜け、道路を越えると、鉄橋。この森の道は、整備された遊歩道。しかし、「まむしに注意!」 の看板が随所に。

                     

 この道は、川越が主舞台となった2009年(平成21年)上期のNHKの連続テレビ小説『つばさ』の番組放送に合わせ、2009年(平成21年)4月から9月末日までロケ地が「遊歩道」として開放されたところのようだ。5年も経って、忘れ去れてしまったのか?  
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本庄宿から新町宿まで。その1。(旧中山道をゆく。第6日目。)

2016-02-07 21:13:10 | 旧中山道

 2月2日(火)。午後からの予定がなくなって、せっかくの晴れ間。11時少し前の上野発高崎行きに乗って「本庄」までやってきました。到着は12時20分過ぎ。車内で弁当を食べて、準備万端、のつもり。
 ところが、降り立ってみると、かなり風が冷たく吹く昼下がり。時々雲がお日様を遮り、体感的にはけっこう寒い! せめて3時間くらいは歩いて「新町宿」までは、と歩きはじめました。思ったよりも北風が強く、寒さにちょっとくじけそうに。

本庄宿

 中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて10番目の宿場。
武蔵国の北部国境付近に位置し、武蔵国最後の宿場。江戸より22里(約88km)。中山道の宿場の中で一番人口と建物が多い宿場で、利根川の水運の集積地としての経済効果もあった。江戸室町にも店を出していた戸谷半兵衛(中屋半兵衛)家は全国的に富豪として知られていた。
 市街地の北西端には、中山道と信州姫街道の追分がある。場所は、現在の千代田3丁目交叉点付近。追分はT字路状で、江戸側から見ると、左折すれば信州姫街道、右折してすぐ左折という枡形ルートで中山道京都方面、となっていた。
 元禄6年(1693年)頃では384軒ほどだったが、享保7年(1722年)には500軒となり、文化8年(1811年)には1072軒、文政5年(1822年)には1088軒、天保14年になると1212軒となった。
 中山道では本庄宿に次いで大宿なのが、近江国の高宮宿(64番目)、武蔵国の熊谷宿(8番目)、上野国の高崎宿(13番目)、美濃国の加納宿(53番目)となる。
 商家を中心に構成されていた宿内だが、寛永2年(1625年)に参勤交代が制度化され、この時、本庄宿に田村本陣などができた。しかし、宿泊人数が増え、本陣だけでは対応できなくなってきたため、明暦2年(1656年)頃には内田脇本陣ができた(寛政4年(1792年)には本陣に昇格している)。田村本陣は北本陣と言い、現在の中央1丁目6番付近にあった。
 本陣が2軒、脇本陣が2軒。一般の人々が宿泊する旅籠(はたご)も多く軒を並べた。たとえば、文化元年(1804年)には町並み全体の475軒に対し、77軒と多い。特に仲町の日野屋は上級であったと言われる。これらとは別に、飯盛旅籠屋もあり、天保13年(1842年)には54軒を数えている。
 本庄宿は、商人(あきんど)の町として発展していったため、店の種類が多い。
医師、殻屋、豆腐屋、米屋、酒屋、煙草屋、菓子屋、八百屋、古着屋、桶屋、建具屋、鍛冶屋、傘屋、研師、陰陽師、職人、大工、石工、髪結、畳屋、鋳掛屋、経師屋、薬種屋、魚屋、本屋、質屋、両替屋など。
 本庄宿の19世紀当時の風景を今に伝えるものとして、渓斎英泉作中山道六十九次の『支蘓路(きそろ)ノ駅本庄宿神流川渡場』があるが、その他にも幕府が作成した『中山道分間延絵図』である。これは寛政12年(1800年)から文化3年(1806年)にかけて作成された国内の各道中を集成した測量絵巻。縮尺は約1800分の1で、1982年に国の重要文化財に指定されている。この『中山道分間延絵図・本庄宿』の模写(レプリカ)は、本庄市立本庄歴史民俗資料館の2階に展示されている。
 本庄宿が中山道で最大の宿場町と成り得たのは、早い時期に城が廃城(本庄藩が廃藩)となったことで、城下町全体を宿場町としてそのまま利用できたことによる。文字通り、城下町(武家の領地)から宿場町(商人の町)へと方向転換していった町であり、幕府の政策意向による。結果として、大飢饉や天災が生じた時でも、諸藩が財政難から領民を救えなかったのに対し、本庄宿では豪商達が宿内民の救済処置に当たることができた。
 基が城下町であるため、道が入り組んで細かいことも特徴の一つであり、近年になって道路整備が行われるまで、複雑な町の造りが交通事故の多さに繋がっていた。
 本庄宿は、宿場町としては規模が大きかったため、何度か大きな火災被害を受けており(特に町の拡大が進んだ18世紀から)、近世当時の面影を残す建物は少ない(明治期の近代建築の方が目立つ)。本庄宿の蔵作りは街道沿いの正面ではなく、店先を一つ下がった部分に建設されている。これらは隣家の蔵と繋がり、蔵の帯とも言うべき家並みを作った。その理由は、火事になった時、防火帯の役目をはたしたからである。商家の資産を保管していた、こうした蔵々が火災の時に盾となった。これも近世当時の建物が少ない理由である。

      
               『支蘓路ノ驛 本庄宿 神流川渡場』天保6- 8年(1835-1837年)渓斎英泉 画

 宿より5.5キロ離れた神流川渡し場を題材としている。背景の山は上毛三山であり、右から赤城・榛名・妙義山である。土橋は初代戸谷半兵衛こと光盛が架けさせたものであり、長さ30間(約55メートル)、幅2間(約3.6メートル)。出水で橋が流された場合に備え、別に長さ5間5尺(10.6メートル)、幅7尺の渡し船も用意された。光盛は無賃渡しとする為に金100両を上納した。また、右手前(および向こう岸)の常夜燈は3代目戸谷半兵衛こと光寿が寄進したものである(在地豪商である戸谷半兵衛家の経済力と影響力がうかがえる浮世絵となっている)。
(「以上、「Wikipedia」参照)

 歴史のある街並みのようす。「本庄駅入口」で中山道に復帰。すぐそばの「りそな銀行」付近が「田村本陣」跡ということですが、特に標識はありません。
 
 しばらく進むと、「戸谷八商店」。「創業永禄3年」とあります。その前のおうちは「創業 元禄二年」とありました。「永禄3年」は西暦1560年、桶狭間の戦いがあった年。「元禄2年」は、1689年、芭蕉が「奥の細道」に出かけた年。その古さに驚きです。
           

(12:35)続いて「本庄仲町郵便局」。昭和9年建設のもの。

その脇には「中山道 本庄宿」の碑。

そして「ほんじょう かるた」。史跡にちなんだ「かるた」が要所、要所に。


「本庄市歴史民俗資料館」への曲がり角にある「蔵髪」さんのお店。

 古い蔵造りのお家をそのまま再利用。なかなか粋なお店つくり。

    

 その角を右に曲がって少し進み、右に入ったところにあるのが、「本庄市歴史民俗資料館」。そこに「田村本陣」の正門が移築されています。

    

本庄市指定文化財 田村本陣門
 この門は本庄宿の北本陣といわれた田村本陣の正門です。
 本陣とは宿場を往来する大名や幕府役人などの公用旅館のことです。田村本陣があったのは現在の中央1丁目6の杭域で寛永16年(1642)から宿泊記録が残されています。

 本庄市教育委員会

 その奥にあるのが「資料館」。明治16年(1883年)に旧本庄警察署として建設されたものを利用しています。 

   建物正面にはコリント式列柱を配したバルコニーがあって、当時のハイカラな印象を今も残しています。

「小倉山房石碑群」。

                                            

 「資料館」から出て、すぐに中山道に戻らずに右に行くと、小さな橋ですが、趣のある親柱が。
    

賀美橋 国登録有形文化財
 この橋は、大正15年に元小山川に架けられた鉄筋コンクリート桁橋です。従来の伊勢崎道の幅員は狭く、「寺坂」と呼ばれる急勾配の屈曲した道であったため、荷車や自動車等の増大する交通量に対応できませんでした。また、利根川には仮設の木橋が架けられているのみであったため、当時の基幹的な産業であった生糸・織物業関係者の通行に不都合が生じ、坂東大橋の架設に伴う伊勢崎新道の開設に際して架橋されたのがこの橋です。この橋は、近代的な意匠を凝らした装飾をもつ親柱やタイル張りの高欄など竣工時の様相を残す貴重な近代化遺産です。

 平成25年3月 本庄市教育委員会

「元小山川」の流れ。

 煉瓦造り倉庫。「本庄商業銀行」。1896年(明治29年)に建てられたもの。生糸産業全盛期に、本庄商業銀行が繭や生糸を担保にお金を貸していた、その倉庫となっていました。
 1976年(昭和51年)からは「ローヤル洋菓子店」の店舗兼工場として使われていましたが、平成23年からは本庄市の所有となりました。現在、修復工事中。

    

左手にあるお蕎麦屋さん。

 ちょっと横町を覗くと、蔵造りの建物が多く残っています。市ではそれを生かした街づくりを進めているようです。詳細な解説版が掲示されていましたが、内容は省略。

    
 ここは「本庄・宮本 蔵の街」です。旧小森商店(酒問屋)の跡地、建物を保存活用しました。

                     
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本庄宿から新町宿まで。その2。(旧中山道をゆく。第6日目。)

2016-02-06 20:24:39 | 旧中山道
 「本庄宿」は町としての奥行きが深く、まだまだ見どころはたくさんありそうですが(たぶん横町に入ったならよけいに)、機会があったらじっくりと見て回ることにして、先を急ぎます。

(13:15)「本庄宿」の西の出口にあるのが「金鑚神社」。その神社に沿って街道は右に曲がります。歩道には中山道の67の宿場名と絵図(ただし、絵図は、武蔵国のみ)のパネルがはめ込まれています。


来た道(「本庄宿」内)方向を振り返って望む。

宿場特有の桝形になっています。


1880年代のようす。○がこの付近。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 歩道を渡った道路の反対側にもあります。  
                                                               「67・草津宿」が最後に。

中山道は左に折れて進みます。遠く正面には山並み。

(15:36)右手が開けてくると、遠くには赤城山。

 道路沿いは、かつては田園地帯だったのでしょう、昔風の大きな家、屋敷が目立つ中、一戸建て建売住宅なども。
「上里町」に入ります。

(13:52) その先の左手に「浅間山古墳」。こんもりした丘になっています。
    

浅間山古墳 町指定文化財
 浅間山古墳古墳は、上里町東部から本庄市西部の本庄台地の先端部に広がる旭・小島古墳群を構成する1基です。墳形は、直径約36㍍、高さ約6㍍の円墳と考えられます。主体部は、角閃石安山岩を使用した胴張り両袖型積穴式石室です。石室の規模は、全長約9.48㍍、埋葬部にあたる玄室は長さ6.48㍍、奥壁幅22㍍、最大幅24㍍、天井高25㍍です。入口にあたる羨道は長さ約3㍍、幅1.2㍍、高さ1.8㍍です。

回り込んだところから。

道をはさんだ目の前には「中仙道」の碑。

 その先の右手には「泪橋の由来」碑。
    

泪橋の由来
 此の地武蔵国賀美郡石神村浅間山地先仲山道に 泪橋なる橋ありき
 昔徳川幕府は大名諸役等通行の砌街道筋住民に伝馬なる苦役を課したり
 農繁のさ中に又酷寒風雪の日にも伝馬の人々此の橋に憩い家族を偲び身のはかなさを多嘆じてか泪しきりなり と
 
 「東海道」などの街道筋では「泪橋」といえば、刑場に送られる罪人との涙の別れの橋でしたが、この橋は意義の異なった橋です。

のどかな田園地帯を進む。振り返って望む。

(14:10)左手に「庚申塔」。 右手にも

(14:18)しばらく道なりに進み、「神保原1丁目」交差点で右に曲がります。曲がるとすぐ「17号線」にぶつかるので、そのまま交差点を渡って斜めに進みます。
    
  「国道17号線」。                        渡ったところから振り返って望む。

左手に小さな祠があり、参道の両側に庚申塔などの石碑群。

(14:31)その先の右手には「金久保神社」。

 金久保神社は、金窪城主斉藤盛光が大永5年(1525)に鎌倉八幡宮から城内に八幡宮を勧請したことに始まり、神流川合戦で金窪城落城ともに焼失したが、その後、村民によりこの場所に遷座したと伝えられています。拝殿には狩野派の絵師、祥雲斎俊信によって描かれた天井絵があり、中央に雲竜図が描かれ、そのまわりに66枚の花鳥図が描かれています。

その先に「金窪城址」碑。    

「三国道入口」碑。

(14:38)はるか右手に「赤城山」の裾野が広がっています。

「中山道解説板」。  

中山道 
 中山道は、江戸と京都を結ぶ街道で江戸時代以降五街道の一つとして整備が進められました。
 金窪村(元上里町大字金久保)は江戸から23里余。文政期(1818から)の家数は162軒、絵図では陽雲寺や八幡宮が見られます。新町宿への直路ができるまでは陽雲寺の東で北へ向きを変えて角淵(現群馬県玉村町)を経て倉賀野宿へ向かっていました。この道は三国街道とか伊香保街道と呼ばれていました。新町宿が設けられたのは中山道中最も遅い承応2年(1653)頃です。
 勅使河原村(元上里町大字勅使河原)家数は280軒。絵図では、武蔵国最後の一里塚が見えます。現在の街道はここで国道17号線と合流します。川のたもとには一般の高札と川高札が並んでいた事がわかります。左奥には神流川畔に建てられていた見透燈籠が移築されている大光寺がみえます。

 上里町教育委員会

その付近から振り返って望む。

(14:44)赤城山の雄大さについ見とれてしまいます。

「賀美小学校」の校庭の片隅にポツンと「二宮金次郎像」。

(14:48)そして「賀美村道路元標」が。
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本庄宿から新町宿まで。その3。(旧中山道をゆく。第6日目。)

2016-02-05 22:27:59 | 旧中山道

 先に進みます。屋根に小さな屋根のついた吹き出し口が目に付く家があります。おそらく養蚕を行っていたおうちなのでしょう。この付近も養蚕が盛んだった地域。かつてはこの辺りには桑畑が多くあったと思いますが、今は一本も見当たりません。



(14:52)「国道17号線」に出る右手前の祠の脇に「勅使河原一里塚跡」碑。日本橋から23里目。

そこから来た道を振り返る。

 国道に合流すると、いよいよ「神流川」を渡ります。
左奥の道が旧中山道。右が国道。東京方向を望む。

 橋の手前、左手に栄泉の浮世絵入りの解説板。
    

神流川古戦場と渡し場
 神流川合戦は、天正10年(1582)6月18・19日の両日にわたって、武蔵・上野国境の神流川を舞台としておこなわれた織田信長の武将厩橋城主滝川一益と鉢形城主北条氏邦・北条氏直との戦いです。別名金窪原の戦いとも云われ、金久保・毘沙吐周辺が神流川古戦場跡として伝えられています。
 また、ここには中山道神流川の渡し場がありました。その様子は渓斎栄泉によって描かれた「本庄宿神流川渡場」で見ることができます。そこに描かれている燈籠は、埼玉県側と群馬県側に一基ずつあって、「見透灯籠」と呼ばれていました。
 この見透燈籠は、文化12年(1815)本庄宿の戸谷半兵衛門が寄進したもので、正面には大窪詩仏による「常夜燈」、と桑原北林による「金比羅大権現」の文字が、右側面には「燈に背かざりせば闇路にも迷わせまじ行くも帰りも」と田口秋因の和歌が刻まれています。しかしせっかく建立されたこの燈籠も文政5年(1822)秋の洪水で倒れ、その後、安政4年(1857)に発見されて現在は大光寺へ移転されています。

 この解説板がある道を進むと、橋の右側にある歩道には行けないので、交差点を右に渡ります。
目の前には街道筋らしいおうち。

これが「見透灯籠」のモニュメント。    

見透灯籠のいわれ
 上武二州の国境を流れる神流川は、往古より荒れ川で出水毎に川瀬道筋を変えて旅人や伝馬、人足の悩みの種であった。
 文化12年(1815年)本庄宿の戸谷半兵衛が川の両岸に灯籠を建立し、夜になると灯を燈し、夜道を往来する旅人の標準とした。
 この常夜燈のモチーフとなった武州側の常夜燈は見透灯籠とも呼ばれ、大光寺に移築されている。
 
(15:06)橋の手前に「東京まで94㎞」ポスト。

    
 遠くに赤城山。                        榛名山。

 これで戸田橋で東京から埼玉へと渡ったについで、ここで、埼玉から群馬へと移ります。橋の上は吹きさらっしでけっこう寒く、東海道の時、風花が舞っていた「大井川」を越えた時を思い出しました。この橋の長さもほどほどありました。

「神流川」。新橋の架設が進んでいます。

 群馬県側の「見透灯籠」のモニュメント。
    

渡り切ったところで「群馬県・高崎市」入り。

「神流川橋」を渡ったところにも「東京まで94㎞」ポスト。

 この付近からは左手遠くに浅間山の雄姿が見えるはずですが、雲に隠れているのか、雲の白さにまぎれたのか、見えませんでした。


橋を渡ったすぐのところに「神流川古戦場跡」碑。

    

神流川合戦
 天正10年(1582)織田信長が本能寺に倒れた直後、関東管領瀧川一益は信長の仇を討たんと京へ志し、これに対し好機来たれりと北条氏は5万の大軍を神流川流域に進めた。瀧川一益は義を重んじ勇猛な西上州軍1万6千を率いて、石をも燃える盛夏の中、死闘を展開し、瀧川軍は戦死3760級の戦史に稀なる大激戦で「神流川合戦」と呼んでいる。後世、古戦場に石碑を建立し、首塚、胴塚も史跡として残され東音頭にもうたわれ、神流の清流も今も変わることなく清らかに流れている。

(15:20)旧道はその先で「国道17号線」から右に分かれて進みます。分岐点に大きな常夜燈。

    

 ここは、「新町宿」の入り口でもあります。この常夜燈はさっきの神流川の群馬側にあった、「見透灯篭」を実物大に復元したもの。前に道標が立ち、「従是 左江戸二十四里 右碓氷峠 十一里」と彫られています。



見通し灯籠(常夜灯) 注:ここでは「見透し」ではなく「見通し」となっています。
 江戸時代の末期、神流川が度々洪水を起こし、往還が流され瀬違いが出来て渡船場も変わり、白昼でも道筋が分からなくなり、多くの人が道に迷いました。そこで、灯籠を建て夜中の目印としていましたが、寛保年中(1741~43)の大洪水で流失してしまいました。助郷の人々が夜中の通行に困ったため、文化5年(1808)専福寺住職賢顕と宿役人が石灯籠を建てようと発願、旅人からも寄附を募り、常夜灯が石造りで再建されたのは同12年のことです。

(15:27) しばらく進むと右手に「八坂神社」。大きな解説板。
    

柳の茶屋
 新町宿東入口の右側に土蔵造りの八坂神社がある。横に幹の細い若柳が芽をふき、その下に「傘(からかさ)におしわけみたる柳かな」の芭蕉の句碑が立っている。高さ80㎝横50㎝ぐらいの雲母岩に印刻され、新町の俳人小渕湛水と笛木白水が寛政5年(1793)から天保5年(1834)の間に建てたといわれる。
 宿の東端に柳の大樹あり、往来する旅人たちは緑のあざやかさにみとれ、傍らの茶屋に休んで旅情を慰め、いつしか柳茶屋と呼ぶようになった。

 すぐ隣に「芭蕉句碑」。
    
 「諸国翁墳記」に「翁塚上州緑野郡新町宿小渕湛水・笛木白水建」「傘におしわけ見たる柳かな」とあります。
 「諸国翁墳記」は、諸国にある芭蕉句碑を記録したもので、滋賀県大津市の義仲寺(木曽義仲と芭蕉の墓がある)で出版されました。
 この句碑は寛政5年(1793)から天保5年(1834)の間に、近くに柳の大木があることから、「柳茶屋」と呼ばれた茶屋島田屋の側を選び、湛水と白水が建てたと思われます。

 注:この句は、元禄7年(1694)刊行の芭蕉と弟子たちの連句集『炭俵』所載の句。季語は「柳」で春。ここで詠んだ句ではなさそうです。

 (15:38)宿内に入ってしばらくした右手に高札場跡。

    

高札場
 高札場は、江戸幕府や諸藩が庶民を統治するための法令や禁令などを板札に墨書し、町辻・橋詰・街道の追分・渡船場など、人目につきやすい各地の主要な場所に設けました。
 新町宿では落合新町と並木新町の境に設置されました。キリシタン禁制は特に自重要で、その管理は厳重で木の柵を巡らし、石垣あるいは土盛りをし、妄りに近寄らせませんでした。管理責任者に町村役人を命じて、付近の清掃、火災の際の避難などにあたらせました。

街中に入って右手、「行在所公園」に栄泉の浮世絵。

(15:40)その奥にある建物が明治天皇の行在所。

解説板。

明治天皇新町行在所(あんざいしょ)
 明治天皇は、明治11年8月から12月にかけて、北陸・東海地域の御巡幸(視察)を行いました。その途中の9月2日に新町に宿泊された施設がこの行在所です。
 当時は木造瓦葺き平屋建ての本屋と付属家の2棟で、旧中山道に面して正門を設け、周囲は高さ9尺の総板塀で囲い、庭には数株の若松を植えてありました。
 昭和55年1月に新町の史跡文化財としての指定をうけました。 

 その斜め前にあるおうちも立派です。 

 陽も陰りはじめ、けっこう寒くなってきたので、今回はここまで。JR高崎線・新町駅から帰ってきました。

 ところで、こんな看板が「高崎名物 オランダコロッケ」さて? 
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