おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

言い訳もお粗末。

2016-04-28 00:19:25 | 世間世界
舛添知事、公用車で別荘通い 年に48回「全く問題ない」

 48回ということは、ほぼ毎週ということ。それも、名義は自分名義ではなく、別荘は、舛添氏の妻が代表を務める「舛添政治経済研究所」が所有。税金遁れ対策が見え見え。どこまで、人品卑しいのか。
 「全く問題ない」などとほざいてみせた。行きは公用車でも帰りが私的な時は使わない、と。が、空車で戻って来るにはガソリン代も人件費もかかる、のは当たり前。平然と居直ってみせるのが精一杯の強がりか。
 もう知事の座も危ないのではないか? 危機管理意識がまったくない御仁と見た。こんな程度の男が都知事の座に座っているのだから、まじめに働く都の多くの職員もたまったものじゃない、とまた同じことをつぶやく。

 一方で、前の前の、イシハラさんなんかはもっと好き勝手にしていた印象。都庁にもほとんど来ず、どこへ行っていたのか? 外遊もヨットも・・・。当時は腫れ物に触るようにイシハラ詣でのマスコミには意気地がなかった。そのときに比べて何と威勢のいいことよ。裏にアベの意向がちらつく?? まさかね。
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旭川。自然の美しさと人間の営みの重さと。(その2。)

2016-04-27 20:59:28 | つかのまの旅人

 集会を終えて、長年お世話になっていた方のお墓参りに行きました。今度は北東の方向へ、やはり一時間弱。
 「愛別」。ここは、120年程前、愛知から入植し開墾したところです。
 この方もそうした入植者の子孫の方です。昨年亡くなられたのも知らず、人づてにお聞きして、当時、弔電一つ送らずじまいだった無礼をお詫びがてら、この機会にということで。

 お線香をあげたあと、その方の息子さんや親戚の方とあれこれ。

 「今はこうして平らの土地だが、周りの山くらいの高さがあったんだ。」
 「この前、俺があぜ道を歩いていたら、でっかい熊がのそのそ歩いてきたんで、びっくりしたよ。」

 冬眠明けの熊がえさを求めて山里まで下りてくるらしい。

 「愛知からは親類縁者を引き連れて入植した。」
 「原野を開墾してといったって、大木を切り倒して、上のところは売って、下の根っこのところを燃料にした。」
 「3年は無税で、その後は税金を払う。無理ならまた別の土地に移るというような条件だった。」

 愛知には遠い親戚が健在のようだ。

 「アイヌの人たちが石狩川の水辺に住んでいて(土地を追われたために)取った鮭を分けてもらったり、鮭の取り方を教わったりした。」
 「子供たちが草鞋ばき(温暖の地から来たため、防寒対策が不十分だった)を見て、鮭の皮で作った靴をもらったりした。まるで自給自足の生活だった。」

 昨日のことのように入植当時の熾烈な生活を語ってくれました。

 「故郷を出るとき、お坊さんを連れてきて、お寺を建てた」と。

 話題がTPPのことになり、

 「TPPが入ってきたらこのあたりは全滅だよ。アメリカじゃ種蒔きも刈り入れもヘリコプターなんか使って大がかりなやり方じゃないか。たちうちできっこないよ。」
 「今このあたりでも農地集約事業が始まったけれど・・・」
 「キノコ栽培もダメになって、結局売り払って自分はそこで従業員として働いている。」

 「前は14世帯あったけれど、今は10世帯になって。独居老人の家が増えた。」
 「お燈明もそのままロウソクに火を点けては消し忘れなどで危ないので、電池式のを勧めているよ。」

 「子どもたちには跡を継がせられないな。結局、札幌とか東京へ行ってしまう。」
 「土地を売るといっても二束三文だしね。」
 「東京のような大きな消費地が近くにない。出荷するには日持ちのしないものはダメだし、コストもかかるし・・・。お米も今はダメだね。」

 「ま、俺たちの代までは何とか頑張るけれどさ。」

 夕方近くなって一段と風の寒さも身にしみてきました。

 「冬は10度、20度くらいかな、それでも部屋の中は東京よりも暖かいよ。」この20度とはマイナス20度ということ。

 やっと寒く長い冬を終えてそろそろ暖かくなる時節。

 「今度は2月に来なさいよ。地吹雪はすごいよ。」と言いながらそれでも明るく笑う。

  石狩川。

    

                       
                     雪解け水を湛え、勢いよく流れる水辺には、フキノトウ。

 「旭川空港」への帰り。ちょっと食事を、ということで以前来たことのあるお店に立ち寄って、 食事のかたわら、地元のお酒、「男山」と「国士無双」を冷やで飲んだ。酔いの回りがいつもより早かった。

 「旭川にある大工場と言っても、日本製紙の旭川工場くらいだから。」

    
                           仙台市付近(帰りの機内から)。

 ところで、今朝、こんな記事が。

 旭川市で23日、毒草のイヌサフランをギョウジャニンニクと間違えて食べたとみられる男性(75)が死亡したが、上川管内では毒草による食中毒が過去10年間で2件発生している。山菜採りのシーズンを前に、旭川市保健所は「食用と確実に判断できないものは食べないで」と注意を呼び掛けている。
 上川管内では、2006年5月に美瑛町で9人、12年5月に旭川市で5人が、いずれも庭にあった毒草のスイセンをニラと間違えて食べ、食中毒を起こしている。
 道立衛生研究所(札幌)によると、イヌサフランの葉はギョウジャニンニクに形が似ており、数枚食べただけで死ぬこともある。・・・

 お気をつけて。
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旭川。自然の美しさと人間の営みの重さと。(その1。)

2016-04-26 22:40:55 | つかのまの旅人
  4月24日(日)。10年振りくらいに旭川に出かけました。お祝い事とお墓参りと。
 東京・羽田を出発するときは雨でしたが、旭川は初めのうちは雲が多い天気。が、夕方、帰る頃には雲一つない空模様。少し肌寒く感じましたが、お天気には恵まれました。
 飛行機からの画像。上の写真は、「十和田湖」。

その先は、「八甲田山系」。まだまだ雪に覆われています。

陸奥湾上空から青森方向。

その彼方には雪の岩木山。

    
   下北半島・大湊湾。                     函館・活火山の恵山(えさん)付近。

    
                              広大な大地。

 集会の開催まで時間があるというので、案内しますよ、と空港から向かいました。南東に進むこと、小一時間。「白金青い池」。

    
                      緑色の神秘的な池。

神秘的な魅力の青い池とその周辺
 青い池が青く見える理由
 上流の白金温泉地区で涌出している「白ひげの滝」などからアルミニウムを含んだ水が、美瑛川の河川水と混じることによりコロイドが生成されます。太陽光が水中のコロイド粒子と衝突し、波長の長い青い光が散乱するため、青く見えると言われています。


    
 けっこう観光客が訪れていました。水中には朽ちた太い樹木が横たわり、周囲には木立が。もともとは「十勝岳」の噴火対策で泥流対策のブロック堰堤を造成した結果、流れがせき止められて池になり、このような青い池になったようです。        
                

 その上流の「白ひげの滝」展望橋まで案内してもらいました。深くえぐれた谷筋。崖の上が温泉施設になっているのが残念! という感じ。

    


            
              雲の向こうには十勝岳が見えるはずでしたが。見えれば、絶景ですよ、と案内してくれた方。

 大自然の美しさを満喫して、集会の会場に向かいました。
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所詮、人品卑しい男。

2016-04-24 20:52:16 | 世間世界
都知事、スイートルームで「熊本地震の会議」 米出張中

 この男。昔からお金には汚いという評判。離婚騒動の時もそうだったらしい。自分のお金は惜しむが、他人のお金は惜しまず使う。知事室の連中も税金だから気にせず、卑しい知事の顔色をうかがい、「いいのよ、いいのよ」と。
 熊本地震対応で緊急の会議や指示、派遣が必要なら、出張を取りやめて精いっぱい人事を尽くせばいいではないか。
 ブロードウェー云々も思いつきでしかない。どうも築地の跡地を考えているようだが。
 この程度の男を上に仰ぐのだから、下も習えで、そのおこぼれを欲しがる議員さんや職員もいるんじゃ、こつこつ働いている一般職員はたまったものじゃありません。
 国会議員としては名をなさず、うまくせしめた都知事の座。しがみつくだけしがみつくに違いない。
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「さざなみ」。シャーロット・ランプリング、トム・コートネイ。

2016-04-23 20:54:36 | 素晴らしき映画

 久しぶりだね。お元気でしたか? 

 花粉症も何とかおさまったわよ。昨日まではマスクしてた。

 元気なことは何よりさ。さてとこの裏の方にあるはずだが。

 それよりもショック受けたわよ。貴方もご存じの彼女がさ、腫瘍が発見されたって。どうも手術も大変なところらしいの。神経に障って痛いらしい。

 そう、メールがあったのか。返信するのもどうやって送っていいやら。・・・

 人生、いろいろあるわねえ。この年になるとね。

 どうする? 映画見る気分じゃないかな。疲れているみたいだし。

 いえ、昨日は遅くまでテニスを見てて眠いだけよ。

 ここ、ここ。けっこう並んでいるね。女性客が圧倒的だ。レディースデイだからかな。

 今日が最終日みたいよ、それもあって混んでいるみたいね。

 主演の女性、僕らと同い年くらい。前に「スイミングプール」というのを見たことがあった。存在感のある女優だったよ。

 ふ~ん。2人で2200円、あら、2500円出したら、450円のおつり。
 

 銀座4丁目。「山野楽器」の裏手にある映画館。初めて入る映画館「シネスイッチ」で「さざなみ」。満席。

《あらすじ》

 老夫婦ジェフ(79歳)とケイト(70歳)。どちらもとっくに勤めを終え、郊外の自然豊かな土地で余生を楽しんでいる。
 結婚45周年を祝うパーティを土曜日に控えている。その週の月曜日、ジェフのもとに1通の手紙が届く。それは、1962年(50年前)にスイスの氷河に落ちて行方不明になったジェフの恋人の遺体がそのときのままで発見されたというものだった。
 それ以来、やめたはずの煙草を吸い始めたジェフはドイツ語の辞書を引きつつ、手紙を繰りながら、その恋人との山行の記憶を妻に語り始める。



 妻のケイトは寝ても覚めても、次第にこの世にすでに存在しない元恋人への嫉妬とともに夫への不信感を募らせていく。
 45年間の夫婦生活。が、自分たちには子どもはいないし、二人の思い出の写真もほとんどない。しかし、ジェフは細かな山行の記録、そして恋人が妊娠しているかのようにお腹をさする写真をスライドに残していた。それを目にしたケイト。



 土曜日、パーティが開かれる。妻への感謝の言葉を述べるジェフ。ラストで、二人の思い出の曲、プラターズの「煙が目にしみる(Smoke Gets In Your Eyes)」をバックに踊る二人。踊り終わる寸前にとったケイトの行動。・・・



《原題》

45years

《スタッフ》

監督 アンドリュー・ヘイ
原作 デビッド・コンスタンティン
脚本 アンドリュー・ヘイ
撮影 ロル・クローリーマン

《キャスト》

シャーロット・ランプリング=ケイト・マーサー
トム・コートネイ=ジェフ・マーサー
ジェラルディン・ジェームズ=リナ
ドリー・ウェルズ=サリー
 ・・・

 ふー。さて飯でも食うか。

 ここにしようよ、中華料理がいいわ。点心が食べたいから。

 45年間の夫婦生活って何だったんだろう。ま、単純に「女の嫉妬は、げに恐ろしきかな」、てな感じって言っちゃあ、身も蓋もないけど。

 う~ん、何とも言えないけど、一気に見させてくれたわね。

 だって、まともに一人で出歩けない老人がスイスになんか行けるはずがないじゃない、それでも旅行会社まで行って確認するし、それは別の人物なのに、夫の行動にますます疑いを持つ。

 男の過去への執着ぶりも並大抵ではないわよ。図書館から地球温暖化の本まで借りてきて。発見されたいきさつが知りたかったのね。

 映画の原作はそういうことに近い事実をもとにしているらしい。

 夫婦がお互いに持っている秘密なんて、最後までしまっておくものよね。

 となるはずが、その微妙な心の均衡が意図せずに突き崩されてしまったときに、さてどうなるか、って。

 いずれ遺品整理のときにばれるけれど、そのときは死人に口なしでおしまい。でも、ショックはショックだわ。

 その手紙が届いて動揺する夫。新婚の頃を懐かしみ、ダンスをしてその勢いでベッドに入るんだけれど、男は役たたずじまい。



 そうりゃそうよ、年を考えれば当たり前よ。期待する方が無理よ。

 そうじゃなくて、やはり恋人のことが忘れられなくて、それでますます妻は疑心暗鬼になっていく。

 そんなの考えすぎ。女はとっくに諦めているわよ。さっぱりしたものよ。

 でも、突然、夫が行動的になるのをいぶかしむ妻の表情はすごい迫力だった。

 スイス時計の店をのぞいて、一瞬買う気になっても、結局買わなかったわよね。

 車のラジオから流れてきた曲を聞いて、すぐにスイッチを切っちゃうし。 

 ラストはどう考えたらいいのかしらね。

 観客の思いに委ねられているのだろうけれど。

 結局、二人はそのまま夫婦生活を続けると思うわ。今更って感じがするし。

 でも、深いわだかまりは残しつつってことかな。 

 さざ波が大波になってしまった、取り返しが付かない。

 う~ん。さざ波がかき乱されて大波になったけれど、また穏やかな水面に戻っていくんじゃないかな。

 でも、邦題の「さざなみ」はみごとよね。「45周年」じゃ面白くないもの。

 車の運転が日本と同じで安心して見ていられた。英語もきれいで聞きやすい英語で、何とか・・・。

 イギリスの自然っていいわよね、いつも霧がかかっていて、もやっとしている。そんな雰囲気にぴったりの映画だったわ。

 運河に舟がさざ波を立てて通り過ぎる、そのあとはまた静かな流れになる。暗示的な手法かな。

 ダンスのシーンでも、二人の姿を他のカップルが踊りながら隠すと、その後はケイトの表情や手の位置が微妙に変化している

 ラストソングの「煙が目にしみる」は実は失恋の歌なんだ。恋の炎ってわけさ。

 煙草の煙が目にしみる、というわけではないのね。

 ところで、こっちも期待に応えられるように、せめて腹筋でも鍛えておくかな。

 私が上でもいいけれど、腹筋弱いのよね。・・・何、ばかなこと言わせるの。 

(画像は、「YouTube」予告編より)
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blogもそうなっているような・・・。

2016-04-21 22:04:23 | 世間世界
【熊本地震】紗栄子「500万円寄付」に批判の声…歪んだ不謹慎狩り

 政治的、歴史的評価の分かれる事柄などについて異論、反論があるのは当然で、そこでのやりとりはそれなりに有意義ですが、嘲笑したり、書いた内容を「狂気」扱いされ、すさまじい罵倒などを浴びされる、そんな経験を何度かしたことがあります。
 そのたびに削除しますが、ついこの前も以前に投稿した読書紹介の内容に対して理不尽で感情的なコメントがありました。即、削除しました。
 まだこのblogはましな方かもしれません。政治的発言、特にアベ批判など政権批判には直対応する方が多くいるようです。「嫌韓・中・露」であったり、「反韓・中・露」などの立場はそれぞれの心情でもあるので、とやかく言いませんが、すぐそこから感情的なレッテル張りをするのは、いかがなものか?
 特に政治的中立を声高に叫び、反政府的言動、最近では「反原発」「反安保法制」の立場を表明するとただちによってたかって感情的な攻撃を行う。・・・異端(者)は認めない、という論法の恐ろしさは、もう充分教訓化してきたはずですが。

 このblogのように何の影響力もない個人的なものであってもそうなのですから、有名人、社会的に影響力のある(と思われる)blogやHPでの発言を即座に誹謗・否定・嘲笑する、・・・ぎすぎすした世の中になっています。

 特に「不謹慎」だという言葉を用いての攻撃は、昭和天皇死去の時にもありました。遠い将来ではない頃に、またまたそういうことが、あのとき以上に(ネット社会の中で)行われるのではないか。そんな危惧を感じます。
 明治天皇の時、夏目漱石は世間に蔓延していた自粛ムードを強烈に批判しました。

 はてさて、どうしたものか!
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他人事ではない。

2016-04-18 22:32:03 | 世間世界
阿蘇の生乳、1日6トン「泣く泣く廃棄」 水確保できず

 昨日、久々に新幹線「新神戸」駅へ、そこから三木市に向かいました。20年前の阪神淡路大震災のその爪痕があちこちに残る頃以来でした。当時は道路もままならず、渋滞もあって、行きも帰りもけっこう時間がかかった印象がありました。
 が、今回は、六甲山系を貫く8㎞のトンネルを通り、思ったよりも早く目的地に着きました。トンネル以外にも道路が整備され、渋滞もなく、スムーズ。
 迎えに来てくれた方に聞くと、震災後、南北を通じる道路が整備された、と。大震災当時は東西の道路、線路が寸断され、ライフラインが機能しなかったことを受けての道路整備です、とのこと。東西南北に通じるまさに非常時の生命線確保が大きな課題となったようです。
 今回、九州のど真ん中、東西南北の生命線が寸断されてしまってはどうしようもありません。

 確実に予想されている東海地方を襲うであろう大震災の備えはどうでしょうか? 
 東北、長野、新潟、熊本と大地震が発生し、いよいよ空白地域が少なくなり、今度は関東か、東海地方かという感じ。

 「備えあれば憂いなし」、とはいうものの・・・。「頼りは米軍のオスプレイ」まして、「なんで今回? 」と。オスプレイ受け入れのための深謀遠慮ではどうにもなりません。アベさんが目論む「非常事態条項」の適用の予行演習では、もっとたまったもんじゃありません。
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またしても身内からの危機感。自らの危機感か。

2016-04-11 20:29:17 | 平和
安倍首相 17日ワイドナショー出演へ 松ちゃんツッコミ期待

 このかんの松本氏の政治的(無知な)発言を聞く限り、ミヤネ屋の時と同じく、ごますり、どっこいしょに終始するに違いない。気に入った番組を使って選挙運動をする、ある意味に露骨なやり方。台本通り、松本なりの皮肉を交えながら、適当なところで相づちを打つ、という見え透いた猿芝居。それにコロッと参ってしまうなら、いよいよ世も末ですね。
 しかし、かなりの危機感を持っている、焦っているのも事実のようだ。身内から援護射撃で何とか命脈を保とうとするせこさが国民にも見抜かれるようです。

 自民党関係者は「補選の情勢は厳しく、首相周辺は相当焦っている。夏の参院選の前哨戦と位置付けており、負けられない戦い。首相がメディアに露出し、政府の姿勢を訴える狙いだ」と指摘する。
 中でも、「保育園落ちた」というブログの投稿をめぐり、首相が衆院予算委員会で「匿名なので本当かどうか確かめようがない」と答弁し抗議活動が広がり、永田町関係者は「政府の対応に批判が高まり、女性票や無党派層の支持離れが懸念される。バラエティーで待機児童対策などを分かりやすく伝え、挽回したいのだろう」と思惑を解説。番組は日曜午前の放送で、平日昼のワイドショーを見ない子育て中の共働き夫婦や若い世代にアピールする好機となる。

 「松本の鋭い突っ込みが期待され、首相VS松本の白熱した議論に注目が集まりそうだ。」と、番組宣伝にひたすら熱心な提灯持ち記事。他のマスコミもこの番組の宣伝にこぞって一役買うに違いない。はてさて、・・・。
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身内からも危機感。

2016-04-10 18:41:53 | 平和
「甘利問題」URや建設会社を強制捜査 自民、国会審議や補選への影響必至

 12日に北海道と京都で衆院補選が公示される。その直前の捜査の手。
 自民党議員の心中は穏やかではない。補選の結果で7月10日、衆参同時選挙に持ち込む腹づもりのアベ坊ちゃん。そんな目論見よりも自らの選挙が最大の関心事の議員。アベの思い通りにいけばいいが、外れれば、落ちるのは自分。たまったもんじゃない!
 ついに御用新聞の産経が以下のような主張。くせ球を投げてきた。ここにもあるが、出張尋問という手段だってあるではないか、と。何とか被害を最小限にとどめたい、そんな主流派の目論見がありあり。アベの首をとることだって辞さないかも知れない。

 春本番と共に、政争の季節がめぐってきたか。

「口利き」強制捜査 甘利氏は自ら説明尽くせ
 道路新設工事をめぐる土地のトラブルで甘利明前経済再生担当相の関与が指摘された「口利き」問題は、東京地検特捜部があっせん利得処罰法違反容疑で関係先を強制捜査する事態となった。
 甘利氏はこの問題で、依頼を受けた建設会社から提供された資金を元秘書が適切に処理していなかったことなどを理由に、1月に閣僚を辞任した。
 だが疑惑の全体像はわからないままだ。立法府としても自浄機能を求められながら、果たせずにいた。捜査当局がさきに解明に動き、任意で元秘書の事情聴取も行った。これを重く受け止めなければならない。
 国会招致要求を拒み、甘利氏をかばってきた自民党の責任は大きい。甘利氏は今からでも進んで説明責任を果たすべきだ。
 この土地トラブルでは、千葉県内の建設会社と都市再生機構(UR)との補償交渉に甘利氏の事務所が関与し、少なくても計600万円が提供されていた。
 甘利氏は元秘書による口利きを否定したが、建設会社側は口利きと認識していた。
一方、URは甘利氏の辞任後、元秘書との10回を超える面談内容を公表した。補償交渉に絡み、元秘書が「少しイロをつけて」「甘利事務所の顔を立てて」などと、URに増額を示唆する発言をしていたこともわかっている。
 甘利事務所は先月、「あっせん利得処罰法に当たるような事実はない」とのコメントを出した。だが事態の展開によって、説明は説得力に欠けるものとなった。
 自発的な説明がないなかで、野党側が関係者の証人喚問や参考人招致を求めてきたのは当然といえる。自民党は甘利氏の体調不良などを理由に応じてこなかったが、このまま頬かぶりをして、やり過ごすつもりだろうか。出張尋問などによって、甘利氏から説明を求めることも可能だろう。
 政治家の「口利き」は、政治がカネによって動かされているという国民の強い不信を招く。だから放置できないのだ。
 とりわけ、安倍晋三政権の重要閣僚として、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の交渉にあたった甘利氏が疑惑を持たれ、きちんと払拭できずにいるのは異常事態といえる。
 任命責任を認めてきた首相は疑惑解明へ具体的に動くべきだ。

 まさに「産経」お得意で持ち味の「正論」ですね。 
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碓氷峠。その1。「坂本宿」~「覗(のぞき)」まで。(旧中山道をゆく。第10日目)

2016-04-09 11:18:11 | 旧中山道

 3月31日(木)。穏やかな日差しのもと、「碓氷峠」越えに出かけました。在来線を乗り継いで「横川」駅に着いたのが午前9時15分。前回、「アプトの道」を歩いたついでに「坂本」宿を通ったので、タクシーでもいれば坂本宿の「上木戸」まで乗って、との目算が見事はずれ、結局、「坂本」宿まで歩くことに。
 その分、前回撮り損ねたところを写真におさめることが出来てそれはそれでよかった!

    
      「横川」駅から「碓氷峠鉄道文化村」まで伸びる線路(廃線)。

 「文化村」の中では電気機関車が走っています。「横川駅」がかつての賑わっていた時代を彷彿とさせます。

宿内のようす。静かなたたずまい。正面が「刎石山」。

(10:19)「旧18号」が右にカーブするところで正面の道へ。

今度は右の道へ。「安政遠足(注:今で言うマラソン)」の看板が目印。


(10:30)「タンク」脇の崖沿いに進み、右にある朽ちた階段を上ると、「旧18号」と合流します。道路の向こうに東屋風の建物。そこから山道を登っていくことになります。

    

 ここから「碓氷峠」の見晴らし茶屋まで。約3時間半。1名、中年の女性が早足で追い抜いていきました(実に健脚、マラソンの練習? )が、声を掛ける暇もなく、・・・。それ以外、誰にも会わず、でした。
 東海道の「鈴鹿峠」のときとほぼ同じ状況。途中でくたばったらどうしよう、熊に出会ったら、・・・。鳥のさえずりと木々のふれあう音と、妙義山などの周囲の山の景色と、心地よい風が頼りの山道です。

堂峰番所」跡。

 堂峰の見晴しのよい場所(坂本宿に向かって左側)の石垣の上に番所を構え、中山道をはさんで定附同心の住宅が二軒あった。関門は両方の谷がせまっている場所をさらに掘り切って道幅だけとした場所に設置された。現在でも門の土台石やその地形が石垣と共に残されている。
  

 「安政遠足」の立て札。「ゴールまで8㎞」

「刎石山」の名の如くがれきの続く急な坂。
                                         写真を撮る間のなくどんどん登る。

右手、目の下にはゴルフ場が広がる。

しばらく行くと、「柱状節理」の解説板。

 火成岩の冷却固結するとき、亀裂を生じ自然に四角または六角の柱状に割れたものである。

刎石坂」。

 刎石坂には多くの石造物があって、碓氷峠で一番の難所である。むかし芭蕉句碑もここにあったが、いまは坂本宿の上木戸に移されている。南無阿弥陀仏の碑、大日尊、馬頭観世音がある。ここを下った曲がり角に刎石溶岩の節理がよくわかる場所がある。

上り地蔵下り地蔵」。

 十返舎一九が「たび人の身をこにはたくなんじょみち、石のうすいのとうげなりとて」と・・・
 その険阻な道は刎石坂である。刎石坂を登りつめたところに、この板碑のような地蔵があって旅人の安全を見つめていると ともに、幼児のすこやかな成長を見守っている。

けっこうきつい上り坂。

(11:12) 回り込んだところが「覗(のぞき)」。坂本宿が眼下に一望できる。目の下に旧18号が一直線に。その道沿いに整然と並ぶ町並み。逆光気味なのと木々が生い茂っていて、坂本宿をうまく撮れません。

    

 坂本宿を見下ろせる場所で、山梨の老木がある。一茶は「坂本や袂の下の夕ひばり」と詠んだ。 

すばらしい景観にしばし休憩。
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碓氷峠。その2。「覗」~「座頭ころがし」まで。(旧中山道をゆく。第10日目。)

2016-04-08 21:39:46 | 旧中山道

(11:21)しばらく休んで出発。左手に「風穴」。

 刎石溶岩のさけめから水蒸気で湿った風が吹き出している孔が数か所ある。「刎石山」は、火山でした。お椀型なのも納得です。瓦礫が道にごろごろ転がっています。

静かな山道をのんびりと上って行きます。

 その先で、後ろから足音がしてきたのでびっくりして振り向くと、女性が後ろから近づいてきます。
 さっき坂本宿の「デイリーヤマザキ」に立ち寄ったら、一人先に行きましたよ、と言っていたので・・・、と。この方、「西松井田」駅から歩いてきたのだ、とも。さすが健脚のようで、山道にも慣れているようすで、さっと追い越して行きました。
 これ以降、誰にも会わずに黙々と歩きます。
 右手奥の方に「弘法の井戸」という標識がありましたが、何だか荒れ果てていたので、立ち寄らずにそのまま通り過ぎました。
 ここで、道に迷います。落ち葉がびっしり敷き詰められた杉林の中にあちこち踏み跡(のようなもの)があります。南側の、日差しが差す奥には墓石のようなものも建っていて、そっちの方へ進んでしまいました。かなり下ってこれはおかしいと再び「弘法の井戸」付近まで戻り、ようやくそこで本来の道に出会いました。
 平らになった道を進んで行くと、かつて4軒の茶屋があった広いところへ出てきます。

(11:39)    

刎石茶屋跡
 ここに四軒の茶屋があった。現在でも石垣や墓が残っている。

四軒茶屋跡
 刎石山の頂上で昔こゝに四軒の茶屋があった屋敷跡である。今でも石垣が残っている。(力餅、わらび餅などが名物であった。)

 奥に石垣が見えます。

(11:44)「碓氷坂の関所跡」。
 晶泰2年(899)碓氷の坂に関所を設けたといわれる場所と思われる。

 左手に東屋があって休憩に最適なようですが、さっき道に迷った分、そのまま通過。明るい道筋。落ち葉と石を踏みながら。

尾根伝いの道。    

(12:03)しばらく進むと、両側がすっぱりと削れた道になります。人為的に切り取って崖状にしたようです。

    

掘り切り
 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで、北陸・信州軍を松井田城主大導寺駿河守が防戦しようとした場所で、道は狭く両側が掘り切られている。

 その先の南側が切り立った絶壁となります。

「南向馬頭観世音」。

 この切り通しを南に出た途端に南側が絶壁となる。
 昔、この付近は山賊が出たところと言われ、この険しい場所をすぎると、左手が岩場となり、そこにまた馬頭観世音が道端にある。

 寛政3年12月19日 坂本宿 施主七之助

「北向馬頭観世音」。

 馬頭観世音のあるところは、危険な場所である。
 一里塚の入口から下ると、ここに馬頭観世音が岩の上に立っている。

 観世音菩薩
 文化15年4月吉日  
 信州善光寺
 施主 内山庄左衛門 上田庄助
坂本世話人 三沢屋清助

木の間越しに望む「妙義山」。

一里塚
 座頭ころがしの坂を下ったところに、慶長以前の旧道(東山道)がある。ここから昔は登っていった。
 その途中に小山を切り開き「一里塚」がつくられている。

そこから来た道を振り返って望む。



 急な坂道となり、足下には小石、落ち葉もたくさん。うっかりすると、足をくじきそうな道筋。
(12:22)    

座頭ころがし(釜場)
 急な坂道となり、岩や小石がごろごろしている。それから赤土となり、湿っているので,すべりやすい所である。
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碓氷峠。その3。「座頭ころがし」~「子持山」まで。(旧中山道をゆく。第10日目。)

2016-04-07 23:43:33 | 旧中山道

 ところどころで「安政遠足」の立て札に導かれての歩き。



 ところで先達のレポートですと、この付近に廃車が捨てられているとか。が、気がつかずに通り過ぎてしまいました。それとも、すっかり片付けられたのか? 

(12:36)栗が原」。

 明治天皇御巡幸道路と中山道の別れる場所で、明治8年群馬県最初の「見回り方屯所」があった。これが交番の始まりである。

振り返って望む。穏やかな日差しの下。

遠くに「妙義山」が見え隠れしています。まだ群馬県。

この先が「山中茶屋」跡になります。

 そろそろ1時近く、さすがにお腹が空いてきました。どこか適当なところで休憩を、と思いながら歩きます。

入道くぼ」。

山中茶屋の入口に線刻の馬頭観音がある。これから、まごめ坂といって赤土のだらだら下りの道となる。
 鳥が鳴き、林の美しさが感じられる。

左手に石垣が残って、生活の跡がありあり。

(13:10)林の中の広い空間に出ました。ここが「山中茶屋」跡。作業小屋らしきものがあります。
山中茶屋」。

 山中茶屋は峠のまんなかにある茶屋で慶安年間(1648~)に峠町の人が川水をくみ上げるところに茶屋を開いた。
 寛文2年(1662)には13軒の立場茶屋ができ、寺もあって茶屋本陣には上段の間が二ヶ所あった。
 明治の頃小学校もできたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っている。

山中学校跡」。
 明治11年、明治天皇御巡幸の時、児童が25人いたので、25円の奨学金の下賜があった。供奉官から10円の寄付があった。

 ここまで来ると、今は廃墟と化して誰も住んでいませんが、コンクリート製の下水溝や広い道路など生活の臭いがしてきます。道端の石に腰掛けて休憩。人っ子一人通らないところです。
 と思いきや、メールが入っていました。下界とはまったく無縁の世界ではありません。その後には別の電話がかかってきました。実は、少しホッとした気分にもなりました。

(13:35)山中坂」。
 山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂が山中坂で、この坂は「飯食い坂」とも呼ばれ、坂本宿から登ってきた旅人は空腹ではとても駄目なので手前の山中茶屋で飯を喰って登った。
 山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。

 相変わらず静かで、鳥の囀りとどこからともな落ちる葉の音くらいです。足下はふかふかした枯れ葉が敷き詰められています。

崖の上に廃墟となった? 建物。

続いて、朽ち果てたバス。

さらにその奥には廃墟となった「別荘(保養所)」。

(13:46)一つ家跡」。
                 
 ここには老婆がいて、旅人を苦しめたと言われている。

来た道を振り返って望む。

陣馬が原」。
 太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、戦国時代,武田方と上杉方のうすい峠合戦記がある。
 笹沢から子持山の間は萱野原でここが古戦場といわれている。

「子持山」。
 万葉集第14 東歌中
       詠人不知

 兒持山若かへるでの
      もみづまで
 寝もと吾は思う
     汝はあどか思う
      (3494)           

 この歌にある「兒持山(児毛知山・子持山)」は、群馬・伊香保温泉近くの山で、こことは異なるようです。歌の意味は、

 子持山の若いかえでの葉が、(秋になって)紅葉するまで、(あなたと)寝ていたいと私は思うが、あなたはどう思う?

注:「かへるで」=かえで。蛙の手の形をしているところから。「もみづ」=もみじ。紅葉。

 山の名前に「子持ち」を懸け、寝ることで「子を持とう」ということで求婚している歌です。子持山付近での歌垣の世界の存在をうかがわせる歌です。

 「歌垣(うたがき)」とは、特定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う習俗。
 古代の日本では、常陸・筑波山などで歌垣の風習が存在したことが『万葉集』などにも明らかです。歌垣は未婚男女の求婚の場という意味合いもあり、若い男女が集会し、一緒に飲食をしながら互いに歌を掛け合いながら一対一の関係になって、恋愛に発展していきます。もちろん、その場限りの恋愛もありえます。
 語源は、「歌懸け」で、「歌(訴う)」の「懸け合い」に由来しています。
 古代の言霊(ことだま)信仰の観点から、ことば(うた)を掛け合うことにより、言葉の霊力の強弱が試され、男女間の求愛関係もその強弱を通じて決定されることとなります。そうした掛け合いの面白さ、駆け引きの苦心など、後代には和歌(贈答歌)や連句などの世界にもつながっていきます。
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碓氷峠。その4。「子持山」~「峠頂上」まで。(旧中山道をゆく。第10日目。)

2016-04-06 21:20:12 | 旧中山道
(13:52)いよいよ碓氷峠頂上に近づきます。「安政遠足」の表示がある、まっすぐ行く道道が和宮降嫁の時に開かれた、広くゆるやかな道。
 「旧中山道」は左の小道に入っていきます。案内表示があるので、迷うことはなさそう。しかし、この先どうなるかちょっと不安な道筋。

ゆるやかな下り坂。もちろん、人の気配はなし。熊は?

(14:02)「化粧水跡」。

 峠町へ登る人々がこの水で姿・形を直した水場である。

 右側の小川らしきものには水の流れている気配はありません。まだ冬枯れの雑木林、その下には枯れ枝と落ち葉。

人馬施行所跡」。そして「中山道」の標識。

 笹沢のほとりに、文政11年、江戸呉服屋の与兵衛が、安中藩から間口17間、奥行き20間を借りて、人馬が休む家をつくった。

 それだけの大きな敷地が確保できていたかどうかは、今の様子からはとても想像できません。
 その先で小さな沢を石伝いに渡ると、上り道になります。けっこうきつい(疲れた体には)上り坂が続きます。峠までの「胸突き八丁」、という感じで、一汗かきます。ようやく平坦になったところに「長坂道」という解説板。

 ところで、今、気がつきましたが、「碓氷峠」の行く先々にある解説板は、どうも、京から江戸へ向かう旅人への案内、という印象です。「座頭ころがし」「一里塚」・・・、「坂本宿」から上がってくると、そこを通り過ぎた後に、その解説板があるようです。 
 
(14:22)20分弱の登り道です。所々に残雪。
 
(14:31)長坂道」中仙道をしのぶ古い道である。


 ようやく広い林道に出ます。そこを右に曲がります(峠から下る場合は、この標識を左に曲がって坂本宿方向へ)。
 振り返ると、「松井田坂本宿」への標識と「中山道」という道しるべ。
                            

突き当たりの正面には「仁王門跡」。

 もとの神宮寺の入口にあり、元禄年間再建されたが、明治維新の時に廃棄された。仁王様は熊野神社の神楽殿に保存されている。

「中山道」の道しるべ。左の広い道が「安政遠足」の道。

その先に「思婦石」が建っています。

 群馬郡室田の国学者 関橋守の作で、安政4年(1857)の建立である。
 ありし代に
   かえりみしてふ
       碓氷山
 今も恋しき
    吾妻路のそら

「鼻曲山」への道標。若い頃登ったことがあり、下山後、たしか霧積温泉へ向かった、と。「鼻曲山」は、「浅間山」の東方にある山。頂上が曲がった鼻のような格好をしています。 

この先を下ると「水源」に。

その付近にはまだ残雪がびっしり。

(14:35)ようやく碓氷峠の頂上に着きました。日頃の不摂生がたたって、休み休みで約4時間かかりました。
 名物の「力餅」を売るお店が数軒並んでいます。そのひとつの「見晴亭」というお店に入りました。その名物をた食べずに、ビールを注文、お蕎麦を食べました。ここから旧軽井沢までの下り坂を歩くのはそっちに置いて、・・・。
           

 お店の人によると、今日はほとんどお客さんが来なかった、せっかくのいいお天気なのにねえ、と。
 そのうち、車から降りてどやどやと入ってきた家族連れ、ここの力餅が食べたくて来ました、と。

はるか遠くに見えるのは、高崎辺りだそうです。 
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碓氷峠。その5。「峠頂上」~「軽井沢」駅まで。(旧中山道をゆく。第10日目)

2016-04-05 18:43:14 | 旧中山道
 テラス越しに風景を眺めながら、のんびりと。そういえば、軽井沢から横川までの連絡バスの発車が16:10だったことに気がつきましたが、後の祭り、今から下っても間に合わない・・・。ま、いいか。でもちょっと急ごうか。
 右手には、「安政遠足」のゴール、熊野神社。社殿がちょうど群馬と長野にまたがっています。

(15:10)   茶店の敷地に「上信国境」線。
                              右が長野、左が群馬。

そこから群馬県側(上州側)を望む。

 さて、これから軽井沢宿までどの道を進むか迷うところですが、いずれにしても旧道はほとんどが道路整備、宅地再開発等のため失われてしまっていると考えると、谷間の旧道は整備されていないようだし、結局、多くは「遊歩道」を下ることになるようです。

旧中山道碓氷峠跡
 江戸時代五街道の一つ。江戸から上野、信濃、美濃を経て近江草津で東海道と合する。
 この谷間の道が五街道の一つ中山道で坂本宿を経て峠に至り、軽井沢宿への入り口になっていた。この道の険しさを旅人は
 「旅人の身を粉に砕く難所道
       石のうすいの峠なりとて」
 「苦しくも峠を越せば花の里
       みんな揃って身は軽井沢」 
と唄っていた。峠の頂上には道中安全の神、熊野権現が祀られている。
 現在の道(舗装路)は明治天皇御巡幸道で明治11年に改修された道である。

 軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会

谷間の道へ通じる標識。

 ともかくさっさと遊歩道を下りました。緩やかに曲がりながら林間を下る道。やがて吊り橋を過ぎると、別荘の建物が点在するところへ。

そのうち、県道に合流します。振り返って望む。

(15:50)峠から下ってくる県道を望む。

 合流した県道を進むと、橋に出ます。この橋が「二手橋」。軽井沢宿に泊まって江戸に向かう旅人と見送りにきた飯盛女とが東西二手に別れるところから名が付いたといいます。この先からが「軽井沢宿」ということに。
            

軽井沢宿(かるいさわしゅく)
 中山道六十九次のうち江戸から数えて十八番目の宿場。
 現在の長野県北佐久郡軽井沢町の軽井沢駅北側一帯。旧軽井沢と呼ばれるあたりが該当する。中山道有数の難所であった碓氷峠の西の入口にあたり、六十九次で最も栄えた宿場であった。本陣と脇本陣合わせて5軒、旅籠は最盛期には100軒近くあったとされ、数百人の飯盛女が働いていたという。宿場の東にある矢ヶ崎川にかかる二手橋は、旅人と飯盛女が別れを惜しんだ場所。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、軽井沢宿の宿内家数は119軒、うち本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠21軒で宿内人口は451人であった。
 明治時代以降は欧米人宣教師に避暑地として広く紹介され、それまで「かるいさわ」であった当地の名を英語などで発音しやすい「かるいざわ」と読むようになった。多くの外国人が滞在する街として変貌を遂げたため、現在宿場町の面影を残すものは少ない。
                                                          (以上、「Wikipedia」参照。)
                        歌川広重 画。

(16:00)「二手橋」を渡ると、右手にショー記念像と教会があります。
                 

 英国聖公会宣教師A・C・ショー師がキリスト教布教の途にあって軽井沢を知ったのは1885年(明治18年)である。師は翌年この地に暑さを避け、静思、休養、交親の場とし、構内に礼拝堂を建てて霊的よりどころとした。
 現在の礼拝堂は由緒あるこの地に在り、いまもなお天地創造を賛美し、清想、祈祷、聖書読修の場としてここを訪れるすべての人に開放されている。

 続いて右手には芭蕉句碑
     
                           芭蕉翁
             馬をさへ ながむる雪の あした哉

 松尾芭蕉(1644~1694)「野ざらし紀行」(甲子吟行)中の一句。前書きに「旅人をみる」とある。雪のふりしきる朝方、往来を眺めていると、多くの旅人がさまざまな風をして通って行く。人ばかりでない、駄馬などまでふだんとちがって面白い恰好で通っていくとの意。(飯野哲二編「芭蕉辞典」による)
 碑は、天保14年(1843年)当地の俳人 小林玉達によって、芭蕉翁150回忌に建てられたものである。

                                                                軽井沢町

 芭蕉句碑を過ぎると、いよいよ本格的な「軽井沢宿」へ。観光客がそぞろ歩きしている商店街(旧軽井沢)の入口にあるのが、宿の江戸方枡形の地にある、かつての茶店、現在は旅館になっている「御宿 つるや」。門前に「中山道 軽井沢宿」と記された石塔。

    

春休み中なのに、思いがけず閑散としています。

軽井沢写真館」。

 軽井沢の古き良き時代にタイムスリップしたような、レトロ調の記念写真はいかがでしょうか。 セピア写真の撮影をメインとしておりますが,ご希望によりカラー写真も承っておりますので、お気軽にご相談下さい。 野外での撮影は午前の開館時より、午後4時半くらいまで撮影可能ですが、 混雑状況、天候により変動致しますので事前にお尋ねくださいますよう宜しくお願い致します。

土屋写真館」。

 軽井沢の歴史が垣間見られる写真店です。 もとは小林一茶も泊まった軽井沢宿の旅籠でしたが、明治39年(1906)に写真館として創業。 軽井沢の昔の写真が手に入る店として有名です。 モノクロの写真が展示、多くの人が写真を見に訪れます。

(以上、二つのお店の紹介は、HPより)

「軽井沢観光会館」。

 旧軽井沢商店街の中央には明治44年(1911)に建てられた軽井沢郵便局があったが、建物は現在塩沢湖畔の軽井沢タリアセンに移築されて、跡地には外観を模した軽井沢観光会館が平成7年(1995)に建設された。
(「軽井沢観光協会公式HPより)

 
 すれ違う人々は圧倒的に外国人。なかでも中国人が目立ちます。

「京方枡形」跡。
 現在はローターリーになっていて、その面影はありません。旧中山道は、右手に進みます。左手は軽井沢駅方向。

観光案内板。今回はここまで。

 軽井沢駅まではけっこうな距離があります。着いたときは、バスの出発時刻をかなりオーバー。しかし、次の「横川」行き最終バスは18時過ぎ。
 もともと在来線の上野(都区内)~横川の往復切符(JR東日本「大人の休日倶楽部」会員で「3割」引)だったのです。軽井沢を午後6時過ぎに出たのでは帰宅が遅くなります。そこで、新幹線で「軽井沢」から「高崎」まで利用し、そこから在来線で帰ることにしました。余計な出費でしたが、思ったよりも早く帰宅できました。
 次回からの旧中山道歩き。しばらくは在来線のみでの利用しにくくなってきます。「軽井沢」以降は新幹線利用ということになりそうです。その点、「大人の休日倶楽部」は3割引なのでかなり助かりそうですが、・・・。

 次回は、さっきのロータリーからになります。
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