おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

川井駅~「奥多摩むかし道」~滝のり沢バス停。その3。(「青梅街道」をゆく。第4日目。)

2018-05-31 21:14:42 | 青梅街道
                              渓谷巡りのための「案内標」。
     

 (11:23)この先、「新氷川トンネル」(1983年竣工)入口付近から左手の道に入ります。「今昔マップ」によると、明治中期以降、「青梅街道(旧道)」はこの道筋になっていたようです。
 江戸時代の「青梅街道」は「数馬の切り通し」から道筋ははっきりしません。峻厳な山間の道だったようですが。

「新氷川トンネル」。

 
                 「日向の馬頭さま」。 
 奥多摩は関東随一の急峻な地勢で道路問題は古くから住民の大きな負担となっていた。
 ここ、氷川と白丸は隣り合わせの集落でありながら地形が急峻で江戸時代中期までは、その往来は山上の根岩越えが主要道で、元禄時代に数馬の切り通しが開削されるまでひどい難儀を強いられていた。また、この氷川の七曲がりには、オオカミ落としの呼称のある多摩川まで逆落としに落ち込む岸壁があり、交通の難所で道路開削後も宝暦4年、嘉永2年を含め度々大がかりの道普請が行われている。
 この日向の馬頭観音は文化11年に建立されたものであるが、刻まれた銘等を見ると青梅をはじめ交通に関わり合いのある多くの人達により、供養されたものと思われる。
 当初は、現国道より10数㍍上部の旧道に建立されていたものであるが、現国道が昭和2年~4年に改修されたときに現在地より百㍍程青梅寄りの国道沿いに移築され、通行する人々の安全を見守っていたところである。
 今般、日向人道橋の工事に伴いこの地に移築したものである。
               平成8年12月4日 奥多摩町

左手に「奥多摩もえぎの湯」。

旧道の「氷川隧道(旧氷川トンネル)」を越えたあと、「新氷川トンネル」出口手前で右手の階段を上って行きます。
「川原キャンプ場」への吊り橋。

          (11:34)右手奥が奥多摩町の市街地。

坂道を左折し、青梅線の踏切を越えると、「奥多摩ビジターセンター」(11:40)。
右手が「奥多摩駅」。

国道沿いにある「奥多摩ビジターセンター」。ここで小休止。

   かつて登った山がズラリ。

 この日は「奥多摩100縁(円)商店街」を開催中。
 けっこう子供連れで賑わっています。

【西多摩郡奥多摩町】 おくたマルシェ 2018 Spring
2018年5月26日 9:00 から2018年5月27日 17:00 まで
HPより)

 昨年秋、同所で初めて開催された同マルシェは、行楽帰りの観光客など数多く立ち寄り、にぎわいを見せました。
 今回、奥多摩町観光協会、奥多摩で飲食店などを経営する未来計画工房、多摩地域で広域広報などの事業を行うグッドライフ多摩、JR東日本八王子支社による実行委員会が発足。西多摩地域の観光事業社などによる新しいプロジェクト「WILD TOKYOプロジェクト」がサポートし、規模を拡大して企画しました。
 当日は西多摩各地から13事業社が出店。奥多摩産クラフトビールやBBQ演出家によるローストポーク、久保田農園の季節のハーブや採れたて野菜の販売、林業家集団・東京チェンソーズによる木製品や焚火グッズの販売、手作りのカナディアンカヌーの展示などが行われます。
 奥多摩ゴスペルスパークルによるゴスペルライブ(26日、13時~13時30分・15時~15時30分)やDJイベント「国産レコードDJミックス・ショー!」(27日12時~17時)、青空左官ワークショップ「土としっくいの思い出手形」、アーティスト・MYMEさんによるライブペイント(26日)・ワークショップ(27日)も。
 また26日には奥多摩駅周辺で、40店以上の商店が100円商品を並べる「奥多摩町 100縁商店街」も開催され、地元の採れたて野菜や総菜、甘味、日用品などを販売。開催両日、立川駅から拝島、青梅、御嶽駅の3つの駅だけ停車し、奥多摩駅まで乗り換えなしで行ける春の臨時列車「青梅 奥多摩新緑号」も走ります。
 訪れたその日から、きっとあなたも奥多摩通! 出店者情報はHPで随時、お知らせします。ぜひお気軽にお立ち寄りください。

宿場時代の建物は見当たりませんが。

いよいよ「奥多摩むかし道」に向かいます。

 「奥多摩むかし道」は、旧青梅街道と呼ばれていた道で、氷川から 小河内に達するまでの道です。
 この街道は、小菅から大菩薩峠を越えて甲府に至る甲州裏街道で、 甲州街道より 8km ほど近道であったそうです。
 現在の青梅街道は、柳沢峠を越えて塩山 (甲州市)に至る道で明治 11 年に開通しました。
 昔、小河内の生活は、塩山との交易で支えられていました。大菩薩峠の無人小屋で物々交換をしていましたが、一度も間違いはなかっ たそうです。
 その後、小河内の物産は、氷川への厳しい山道(14km)を避け、歩きやすい五日市 (20km)に運ばれ、生活物資に変えられていました。 岫沢( くきざわ)から風張峠に出て、浅間尾根を通り、本宿に下りて五日市に向かう道を通りました。
 明治32年に、小河内と氷川間が、わりと平坦な山腹を通る道に改修され、道のりも 10km に短縮、交易ルートが氷川へと変わりました。以降、木炭の生産が飛躍的に増加しました。
 この後も氷川への道は、たびたび改修され生活の道となったのは大正から昭和初期に入ってからです。
 昭和 13 年、氷川~西久保間にム建設資材輸送専用として造られた道路が昭和 20 年に一般道として開放され、現在の国道411号線になりました。
                                (「奥多摩観光協会」パンフレットより)

むかし道の歴史
◇「奥多摩むかし道」は、奥多摩町氷川地区から小河内地区までの旧青梅街道を巡る歴史の道です。
◇青梅街道が最初に開拓されたのは慶長年間で、青梅と新宿を結ぶ道でした。当時、青梅の上成木周辺にて良質の白土(石灰)が多産され、江戸城の改築のために輸送されました。上成木が出発点のため、成木街道とも呼ばれました。
◇その後、青梅街道は多摩川に沿い西へと開拓され、小河内に達した後、大菩薩峠を越えて甲府に至ったため、江戸時代には甲州裏街道とも呼ばれました。甲州街道と比較すると2里(約8km)短く、多くの庶民に利用されました。尚、現在の青梅街道は明治11年に初めて開通した道で、鴨沢、丹波を経由し柳沢峠を越えて、甲州市の塩山を抜け甲府市に至るルートです。
◇この街道を通り、奥多摩から青梅へと、木炭、白箸、下駄材、山葵なども出荷されました。奥多摩氷川地区から青梅までは約5里の距離があり日帰りが困難であったため、氷川には馬方宿が営まれ繁盛しました。
◇旧青梅街道、つまり「むかし道」の路傍には、今でも石碑や塔、祠などが数多く見られ、いにしえの情景がうかがえます。また、そのルート自体は 現在においても各集落の人々にはなくてはならない生活道です。
(「奥多摩ビジターセンター」パンフレットより)

 「旧青梅街道」は、小河内ダムの建設によってダムサイト付近から沿道の村落とともに「奥多摩湖」に水没してしまいました。今回歩く「奥多摩むかし道」も途中、「西久保の切り返し」付近からの山道は旧道ではなさそうです。「今昔マップ」によると、旧道は多摩川左岸(西側)を遡上していたと思えます。

小河内ダム・奥多摩湖
 小河内ダム建設のために移転を余儀なくされた世帯は総数945世帯に及び、その大多数は旧小河内村の村民だった。昭和13年、ようやく小河内村との補償の合意がなされたが、小河内村長小澤市平氏は、『湖底のふるさと小河内村報告書』(昭和13年)のなかで、「千數百年の歴史の地先祖累代の郷土、一朝にして湖底に影も見ざるに至る。實に斷腸の思ひがある。けれども此の斷腸の思ひも、既に、東京市發展のため其の犠牲となることに覺悟したのである」と思いを述べている。
「旧小河内村」

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、川野村、原村、河内村、留浦村が合併し神奈川県西多摩郡小河内村が成立。
1893年(明治26年)4月1日 - 西多摩郡が南多摩郡、北多摩郡と共に神奈川県から東京府へ編入。
1931年(昭和6年)6月 - 小河内ダム建設計画発表。村の田畑が荒廃していく。
1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行(東京府廃止)。
1951年(昭和26年)9月 - 解村式挙行。
1955年(昭和30年)4月1日 - 小河内村は氷川町、古里村とともに合併し奥多摩町が発足。小河内村は消滅。
1957年(昭和32年)11月26日 小河内ダム竣工に伴い、多摩川沿いの旧小河内村集落の大部分が水没。

(以上、「Wikipedia」参照)

 戦前、小河内ダム建設のため水没する村から三多摩地域の代替地に移住した人々は、そこになかなか順応できず、戦後も窮乏や流転をくりかえしたといいます。
 1937年当時、作家石川達三はその様子を「日陰の村」という小説に描きました。

(12:02)「奥多摩むかし道」へ左折します。
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川井駅~「奥多摩むかし道」~滝のり沢バス停。その2。(「青梅街道」をゆく。第4日目。)

2018-05-29 20:24:36 | 青梅街道
                                    (10:18)「白丸ダム」。

「花折トンネル」手前を左に曲がると、「白丸ダム」。立ち寄ってみます。

このダムは東京都交通局の発電用のダムです。見下ろす。

白丸ダム
 高さ30.3mの重力式コンクリートダムで、東京都交通局の発電用ダムである。同局の水力発電所・多摩川第三発電所および白丸発電所に送水し、合計最大1万7,500kWの電力を発電する。ダム湖(人造湖)の名は白丸湖(しろまるこ)という。
 1963年(昭和38年)、東京都交通局が白丸狭窄地帯と呼ばれる多摩川断崖の谷に建設した。貯えた水は下流の御岳にある多摩川第三発電所に送水し、最大16,400kWの電力を発電させる。
 2001年(平成13)、「魚ののぼりやすい川づくり推進モデル事業」の一環として国土交通省によって魚道が新設された。魚道落差27m、魚道延長332m(トンネル区間125m)魚道幅2mという都内最大規模のもの。
 また、白丸ダム直下に白丸発電所が建設され、観光のための放流水を利用して1,100kWの電力を発電できるようにした。
 上流には小河内ダム(奥多摩湖)があり、その直下にも東京都交通局の多摩川第一発電所がある。白丸ダムが東京都交通局による発電用ダムであるのに対し、小河内ダムは上水道用水確保を主目的とした東京都水道局のダムである。(以上、「Wikipedia」参照)

案内板。東京湾の河口から79.2㎞の地点にあたる。

 資料館のおじさんと立ち話。ついでに「魚道」を見るならと案内されたのがここ。遙か下まで目がくらむようならせん階段。かなり躊躇。


「魚道」の解説板で済ませます。

 遡上する魚も大変そうです。ちなみに、白丸ダムを遡上する魚には、ヤマメ、アユ、ニジマス、ウグイ、イワナなどがいるそうです。

 (10:29)はるか眼下の白丸貯水池(白丸湖)にはカヌー・カヤックがけっこう水面に。エメラルドグリーンの湖面が映えています。


御岳ひぐらし日記」HPより。
 フェリーグライドインストラクターの工藤が、カヤックのこと、ツーリングのこと、御岳渓谷の日々の出来事、奥多摩の観光情報などを綴ります。

 奥多摩湖は知っているけれども白丸湖なんて知らないっていう人がほとんどでしょう。カヌーを漕いでいる人でも知らない人が多いですから。
 大きな地図では見つからないかもしれませんが、白丸湖は青梅線奥多摩駅のひとつ手前、白丸駅の直下にあります。
 白丸ダムという小さなダムで多摩川をせき止めて出来た貯水池なのです。縦に長いため、おおざっぱな地図では多摩川と見分けがつきません。
・・・
 「白丸湖」の特徴は、多摩川を堰き止めて出来た湖ですので縦に長く(1km弱)横幅は狭い(最も広い場所で100m位)ことです。
 上流は多摩川なので緩やかな流れの練習に最適です。最上流に氷川発電所の放水口があり、条件によっては強い流れを楽しむことが出来ます。
 湖水の綺麗さは東京にある湖とは思えないほど。上流にダム湖がある川としては異例なほど水が澄んでいます。ダム湖の底の冷たい水が流れ込むため、水温はとても低いです。夏でもサウナの水風呂よりちょっと冷たいぐらいです。

 ※「じゃらん」では「白丸湖カヤック体験ツアー 1日コースのプラン」を募集しています。

 しばらく国道歩きが続きます。「白丸駅入口」で右の坂道を進みます。踏切を越えて行きます。
(10:42)「白丸散策マップ」。

 目指すは、「数馬の切り通し」。駅入口の階段で小休止ながら、電車を待っている地元の方に確認。次の駅が終点の奥多摩。「けっこう歩きますよ。」と。

左、正面奥に尖った山。「天地山」。

川合玉堂さんの歌 名に負える天地岳は人知らず 奥多摩槍と言わば知らまし


(10:49)「十一面観音堂」の前を通ります。

 (10:53)車道から右の小道(旧道)に入ります。その先に岩を開削して街道を通した「数馬の切通し」があります。


                            




南側(出口)から。この先、道は途切れます。

 この地は江戸時代のはじめまで上部の山越が唯一の道でしたが元禄の頃に切り通しが開鑿され、その後の改修によって奥地との物流交流が可能になった。
 岩盤に火を焚いて水をかけツルハシと石鑿で切り開いたもので、向かい側に宝暦年間の供養碑が、下の国道脇に大正末期の隧道がある。

     

 その昔、奥多摩地方の交通は、東西関係には支障が多く南北につながる尾根筋交通を主としていました。このため、小河内方面及び多摩川南岸の住民は五日市方面と、日原から大丹波にわたる地帯は秩父方面との交通が重要でありました。元禄年間、この数馬の切通しの完成によって、初めて東部方面との関係が密接となりました。
 数馬峡は氷川~白丸間の交通の難所。初めゴンザス尾根の根岩( ネーヤ) 越えで行き来していた。
 江戸中期に関係の村々の出資で、白丸トンネルの上の硬い岩塊を砕いて切り通しを造り、峡谷沿いに街道の真上辺りを海沢に出る小道を造った。その後改良を重ね、ほぼ今の川沿いに通れる青梅街道になったのは大正末期といいます。

              

(11:06)再び元の道に戻って国道に出ます。眼下にはカヤックの姿。

 「白丸トンネル」を振り返る。上部に「数馬の切り通し」がある。断崖絶壁。また、現トンネルの右手には解説板にあった大正時代に開削された旧隧道(トンネル)があります。
 旧道が「切り通し」を抜けた後、どのルートをたどったのかよく分からない。

                       
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川井駅~「奥多摩むかし道」~滝のり沢バス停。その1。(「青梅街道」をゆく。第4日目。)

2018-05-28 22:54:41 | 青梅街道

                     5月26日(土)。晴れ時々曇り。(8:57)「川井」駅から再開。

しばらく進んで右手の道に入ります。

急坂を振り返ると、「奥多摩大橋」。

 集落の中を進みます。右手上には、「川井八雲神社」。

(9:07)その道もJR青梅線に近づくと、国道(青梅街道)に合流。

 しばらく国道を歩き、(9:31)古里駅の先で左手の道に入ります。


                   

その角に小さな「馬頭観音」。

車もほとんど通らない静かな道を進みます。

右手に石灯籠など三基。

趣のある建物。木工屋さんらしい。

 (9:36)その先に「釜の水」。湧水を大きな釜で溜めています。ひと頃前の集落の共同生活飲用水。現在は水道が完備しているので、飲み水としては使用していないようです。


「清見橋」。右手の沢には小さな滝。道沿いには「多摩川」に注ぐ沢筋が多くあり、切り立った崖状になっています。
 

 多摩川沿いの遊歩道が左手にありますが、右の坂を上って国道に出ます。


眼下に多摩川に架かる「寸庭橋」。

右手には青梅線。

(9:49)「将門」交差点。左は多摩川南岸道路。

 この地に「将門」? 崖の上には将門神社があるようです。
 そこで案内板にしたがって、右手の細い坂道を上っていきます。足元はしっかりしていますが、けっこう急坂。
振り返る。

 途中、右手に上がる道が参道のようです。しかし、そのまま進むと広い道に出ます。これがさきほど「釜の水」の道から続く旧道の一部?


 将門神社の紹介
 天慶の乱(935年~940年)に敗れた平将門没後、その子となる将軍太郎良門が亡き父の像を刻んで祀ったことに始まりました。その後、多摩川流域を領した青梅の三田氏は、将門後胤を称し、三田弾正忠平次秀のときには、将門宮を再修して神剣を奉納した、といいます。
 明治維新後、将門神社は廃され、同村の熊野神社に合祀されました。そのため一時この場所は荒廃しましたが、昭和50年(1975)に地元住民の有志により総檜造りの社殿が再建されました。

 平将門に関しては、東京・大手町にある「将門塚」が有名です。
首塚の碑
 この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれた。住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教が徳治2年(1307年)、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗(じしゅう)芝崎道場に改宗したという。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。時宗における怨霊済度の好例である。
 首塚そのものは関東大震災によって損壊した。その後周辺跡地に大蔵省仮庁舎が建てられることとなり、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。昭和2年(1926年)に将門鎮魂碑が建立され、神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われる。この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本された。
 この地は東京駅に近く皇居の間近に位置するため、周辺にはオフィスビルが林立しているが、この一角だけは広い敷地ではないにもかかわらず鬱蒼とした木が茂っている。敷地内には蛙(ガマガエル)の置物が数多く石碑の周囲に置かれている。
 数十年にわたり地元のボランティア団体が浄財を元に周辺の清掃、整備を行っているが、その資金の預金先として、隣接する三菱UFJ銀行に「平将門」名義で口座が開かれていた。

エピソード
 ・・・古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。そのことを最も象徴的に表すのが、関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件である。
 結果、首塚はバブル景気後も残ることとなり、今日まで、その人気のない様に反し、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。
 隣接するビルは「塚を見下ろすことのないよう窓は設けていない」「塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っている」とされることがある。

蛙の置物
 首塚の境内には所狭しと多数の蛙の置物が奉納されている。将門の首が京都から飛んで帰ったことから、必ず「帰る(カエル)」にひっかけ、伝承で次の二つの利益があるとされている。
・左遷になった会社員が、元の会社に無事に戻ってこられるように、蛙を供える。
・誘拐されたり、行方不明になった子供が無事帰ってこられるように、蛙を供える。

評価の変遷
 関東一円では武芸に優れているばかりでなく、世に受け入れられない者の代弁に努めたという点で、その壮絶で悲劇的な死とも相まって、長い間将門は逸話や伝説として人々に語り継がれてきた。これは、将門が重い負担を強いられ続けた東国の人々の代弁者として捉えられたためだと考えられる。
 中世、将門塚(平将門を葬った墳墓)の周辺で天変地異が頻繁に起こり、これを将門の祟りと恐れた当時の民衆を静めるために時宗の遊行僧・真教(他阿)によって神と祀られ、延慶2年(1309年)には神田明神に合祀されることとなった。
 神田明神は戦国時代の太田道灌・北条氏綱等の武将が武運祈願のため崇敬するところとなり、さらに関ヶ原の戦いの際には徳川家康が戦勝祈祷を行った。このようなことから、江戸時代には江戸幕府により平将門を祭る神田明神は江戸総鎮守として重視された。
 また、将門の朝敵としての認識は江戸幕府三代将軍徳川家光の時代に、勅使として江戸に下向した大納言烏丸光広が幕府より将門の事績について聞かされ、「将門は朝敵に非ず」との奏上により除かれた。
 なお、神田明神は幕府によって江戸城の鬼門にあたる現在地に遷座されたと言われる。これは、徳川氏が朝廷に反逆した将門を将軍居城の鬼門に据えることにより、幕政に朝廷を関与させない決意の現われだという。神田明神の「かんだ」とは首を斬られて殺された将門の胴体、つまり「からだ」が変化したものという説がある。
 明治維新後は将門は朝廷に戈を向けた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われた。そして1874年(明治7年)には教部省の指示により神田明神の祭神から外され、将門神社に遷座されてしまう。
 第二次世界大戦終結後、皇室批判へのタブーがなくなると、朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい、新皇に即位して新たな時代を切り開いた英雄として扱われることが多くなった。そして、1976年(昭和51年)には将門を主人公としたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映されるに及んで、将門の祭神復帰への機運が高まり、ついに1984年(昭和59年)になって、平将門神は再度、神田明神に合祀されている。
 このように将門の評価は、古代の朝敵から、中世の崇敬対象へ、さらに明治時代の逆賊視、ついで戦後の英雄化と激しく揺れ動いた。・・・
(以上、「Wikipedia」参照)

(10:00)前方に「鳩ノ巣駅」が見えてきます。

 途中の路傍に馬頭観音や供養碑などがあり、旧道らしい趣き。


                           

 下り坂を進み、「鳩ノ巣駅」の西側の踏切を渡って、国道に合流(10:08)。
         

鳩ノ巣」という地名の由来
 現在のようなトラックや鉄道などの運搬手段が無かった時代。奥多摩の木材は多摩川を使って下流まで運びました。上流で伐採した木材は、この下の渓谷で集積され、さらに約1.5㎞下流の寸庭というところで、いかだに組んで六郷まで運びました。集積場となった水神の森に、2羽のハトが巣を作り、とても仲むつまじかったので、人々は鳩ノ巣と呼ぶようになりました。

 「奥多摩観光協会」のパンフレットには、以下のような記述。
 江戸期、ここには上流から一本流しで来る丸太の貯木場があり、飯場小屋があった。
 魚留滝(ナルタキ) の上の飯場に祭った水神社の森に、二羽の鳩が仲睦まじく巣を営んだ様子が人々の心を和ませ、いつしか鳩の巣の飯場と呼ぶようになり、これが地名になったという。
 魚留滝は江戸末期の大洪水で崩壊した。

 鋭く切り込まれた多摩川の渓谷が眼下に広がります。
  
上流。                                 下流。「はとのす荘」。
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久々の青梅街道。河辺駅~川井駅。その4。(「青梅街道」をゆく。第3日目。)

2018-05-21 21:16:43 | 青梅街道
                                多摩川の対岸。深い緑に囲まれた住宅。

(11:56)ここから「御嶽」駅まで多摩川沿いの渓谷歩きができます。
                              「御嶽渓谷遊歩道」入口。

               

(12:06)右手に「福島家住宅」。
 福島家は「過去帳」によると、中世に遡る系譜を持つ旧家で、江戸時代初期より多摩郡沢井下分の名主役を代々勤め、江戸中期から幕末には三田領二ヶ村技師組合の惣代に就任し、地域社会の中で指導的な地位を確立していた。
 この建物は同家所蔵の古文書などから推定して、第26代目重富の時代(18世紀中頃)に建築され、「当家中興之主」と伝えられる第27代家寛の時、現位置に曳き家・整備されたものと考えられている。
 桁行き9間、梁間4間半。入母屋造り、茅・杉皮葺き、平屋建て(一部に二階)で建築面積は200.69平方㍍。平面形式は喰い違い六つ間型で、ダイドコロ・ザシキ・カッテ・ナンド・ヘヤなどの日常のための生活空間と、トコノマ・オクノマ・ナカノマなどの接客空間からなる。
 当建造物は福島家がもっとも繁栄した当時に建立されたものと推定され、格式的な家構えで、江戸末期の整形六つ間型になる以前の喰い違い六つ間型の姿をよく残している。

 東京都教育委員会
                   

見事な藁葺き屋根。

杉玉が軒先に。はて? 

すぐお隣に「澤乃井」の幟と「福島屋酒店」。

(12:09)そしてすぐ隣が待望の「澤乃井・小澤酒造」。

                       

小澤酒造
 青梅市沢井に本社および工場を置く酒造会社。現在、東京にて伝統を守っている10軒の酒造業者の一つである。
 創業は明確ではないが、1702年(元禄15年)の古文書に記録があることから、これ以前に既に酒造業を営んでいた模様である。1966年(昭和41年)、酒蔵の見学を始める。1984年(昭和59年)、社員杜氏の育成を開始、後に、社員杜氏の第1号・田中充郎が誕生した。1992年(平成4年)、小澤順一郎、22代目当主を継承、「澤乃井」ブランドの日本酒を醸造販売する老舗酒造メーカーである。

「澤乃井」の由来
 現在地の沢井は、その昔、「澤井村」と呼ばれており、その地名に因んで命名された。「沢井」とは、豊かな名水が沢となって流れるところからつけられた地名。1967年(昭和42年)、見学者用の施設として「沢乃井園」を開設し、観光酒造としての第一歩踏み出す。さらに、豆腐・湯葉の料理やレストランを開き、高付加価値酒の拡販を強化し、1988年(平成元年)、「中小企業合理化モデル工場」に指定された。
(以上、「Wikipedia」参照)
 

 酒蔵見学は予約制だったので、通りの向かい側にある「澤乃井園」へ。渓谷を眺めながら休息。利き酒コーナーへ。


  「きき酒処メニュー」。軽くお猪口に一杯ずつ、いくつか。

                          

眼下を見下ろす。

                        

河原遊びをする家族連れ。

(12:51)しばらく堪能して出発。小澤酒造。

軽くほろ酔い気分で。御岳山方向。

沿道には食事処が点々。「ゆずの里・勝仙閣」。

(13:11)「御嶽駅」に到着。

駅前の「青梅街道」のようす。

先ほど右に分けた「青渭(あおい)通り」と再会。
                                        

木立越しの多摩川。

(13:33)見下ろすと「奥多摩フィッシングセンタ-」。

奥多摩フィッシングセンター
 梅の産地として有名な青梅市にある「奥多摩フィッシングセンター」は都内でも最大規模の渓流釣りを楽しめる場所として人気のスポットです。
多摩川の本流、上流部をそのまま利用したこの管理釣り場は、お子様から女性、初心者まで気軽にニジマス釣りを体験できます。
また、夏場などは川原遊びやバーベキューなどご家族でのんびりと1日を過ごすことのできるレジャースポットとなっています。
各釣り場は目的に応じて区画が分けられており、団体釣り場、ファミリー釣り場、一般エサ釣り場、ルアー・フライ釣り場と、ベテランから初心者まで幅広い層に対応した釣り場となっています。
 時期によってはヤマメやイワナの放流もありますので多彩な釣りが楽しめますね。
 そしてこの釣り場の1番の醍醐味はなんといっても魚のサイズが大きいこと。
 釣れる魚は標準サイズに混ざって一回り大きなものがヒットしてきます。
 川の流れの中で育った魚は筋肉質で大きく、引きもすさまじいです!
 是非、1度「奥多摩フィッシングセンター」で暑い夏の日の1日を満喫してみてくださいね!
HPより)

                      

「青梅市」とお別れ。振り返って望む。

                   右手高台に「青梅線」。

(13:40)「奥多摩町」となります。巨樹と清流の町」。

沿道はぐっと緑が濃くなった感じ。
 

 緩やかに上がった、峠のようなところにある古民家。


                    

そろそろ疲れてきました。

(13:58)左手が開けてきて橋が見えてきます。

                     
 橋の名は「奥多摩大橋」。1996年(平成8)に完成。長さ265m、幅12m。構造は専門用語でいうと「2径間複合斜張橋」というのだそうです。
                    

そろそろ「川井」駅。「大丹波川」に架かる「大正橋」のたもとにある「大橋供養塔」(左)と「庚申塔(欠損)」。


「たいしょうばし・TAISHO BASHI」。架橋当時は煉瓦造りだったようです。 
                                  「由来碑」。
 これによると、文化11年(1814)完成した橋は猿橋に似た構造の「刎ね橋」だったようです。橋の長さ7間(14.5m)幅員4尺(1.2m)の立派な木橋で、20年毎に架けかえられた、とのこと。地元でも有名な橋だった、と。下流には、当時の橋台が残っているそうです。
 その後、大正時代になって赤煉瓦のトラス橋に付け替えられ、さらに現在のコンクリート橋になりました。

かなり深い渓谷。上は青梅線の橋脚。

まだ陽は高いですが、今回はここまで。

(14:09)「川井駅」。

ホームからの「奥多摩大橋」。
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久々の青梅街道。河辺駅~川井駅。その3。(「青梅街道」をゆく。第3日目。)

2018-05-18 19:35:03 | 青梅街道
                              左手に「へそまん総本舗」。へそまんじゅうを購入。

 (11:01)温かい「へそまんじゅう」を食べながら進みます。「神代万年橋跡」解説板。

神代万年橋跡
 神代万年橋はいつ築かれたかは明らかではないが、北岸の村々(青梅村・日向和田村・二俣尾村)と南岸の村々(下村・日陰和田村等)を結ぶ重要な通路であった。また、万年橋とは一年中往来できる橋という意味と考えられている。
 文政3年(1820)に書かれた『武蔵名勝図会』には次のように記されている。
 「下村橋とも唱え、或は永久橋とも号せり。蜷多和田と二俣尾と領地の堺にあり。街道附きにて、玉川通路の橋なり。両岸より大木を投げ渡して、柱なく組み上げたり。長さ19間、橋3尺余。水際まで4丈許。下村、日陰和田、二俣尾、日向和田と4ヶ村普請なり。常に牛馬を通ぜず。ー中略ー御嶽山参詣のもの多くは青梅村へかかり、夫よりこの橋を越えて、下村、柚木、御嶽を行くを順路となす。」
 神代万年橋は奥多摩町梅沢万年橋、御嶽万年橋と共に江戸時代に多摩川に架けられていた万年橋のうち最下流に架けられた橋であるが、現在も川岸に橋台が残り往時が偲ばれる。

 この内容からすると、奇橋「猿橋」と同じ「刎ね橋」にも見えますが。この先の川井にある「大正橋」も同様な構造の橋だったようです。

※刎ね橋
 岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。 
               

地元の方でしょうか、親子連れが踏切を渡って、森の中に入っていきます。

ブリヂストンの保養所「ブリヂストン奥多摩園」。

奥多摩の山並みが遠くに。

(11:22)堂々としたログハウス。「カフェ・喫茶 らびっと」

(11:27)
桃の里の歌碑
 花を見てかへるといはぬ人はなし
 たもとを桃のにしきたちきて 逍遙院内府公
 春の日のひかりもそらにみちとせの
 名におふ桃のはなの下陰 桑門浄月
 立ちよりてあかぬ色香や花のなの
 ももたびちたび春あふとも 中原典則
 みちとせの春をふくみてこのさとに
 花のにしきのをりはへて見ゆ 青木維吉

                  

気温は高くなっていますが、爽やかな風が。

 今回、ひたすら「現青梅街道(国道411号線)」を歩いていますが、

  「石神前」駅から「二俣尾駅」付近まで、旧青梅街道は青梅線の北側を進んでいました。さらに「軍畑駅」駅付近では大きく北側にカーブして渓谷を渡っていたようです。(この項、「今昔マップ」さんの地図を参照しました。)現在もその一部は残っています。

(11:37)「桜橋の由来」。
 昔の街道は、三角山新道の段丘上に江戸往還の道(甲州裏街道)が、東西に貫くように伸びていますが、鎌倉街道と行き交う「奥澤」から東へ、西木戸の急坂を登り切ると開けた台地に出ます。ここが「桜橋」です。縄文の人々が暮らした遺跡があり、時代が下ると三田氏が後北条氏と一戦を交えた古戦場でもありました。
「桜橋」の名の起こりは「田の入り(屋号・谷合弘平さん宅)」の裏山から流れ出た小さな沢が、街道を横切り多摩川に落ち流れていますが、そこに小さな土橋が架かり橋際に大きな
えられています。後に、鉄道延線工事の際、沢は暗渠となり橋も桜もなくなりました。
 近くに住む市川善一さんから「家の古い屋号は『桜林』だった」と伺ったことがあります。桜の木々に囲まれた家があったのか、裏山全体が「桜の林」だったのかと思いを巡らしながら、調べてみると意外な事実がありました。
 慶長3年(1598)検地の記録に「さくらばし」が既にあり、さらに「さくら木」「さくら木道上」「さくら木のこし」ほか「桜」と名の付く小字名がたくさんありました。春ともなればこの一帯は、桜の花が咲き誇る自然豊かな里山だったのではと思われてなりません。
 新橋の完成によって交通の難所が取り除かれ、安全でしかも快適に通行できることは誠に喜ばしいことですが、反面その利便さと恩恵の陰にともすると歴史や出来事が忘れられがちです。「桜橋」の開通に寄せて昔日のことごとを御紹介しました。

平成22年1月吉日
青梅市自治会連合会第5支会(文:福島和夫氏)

          

この道が旧道? 

                         

(11:43)「鎧(よろい)橋」。この付近は古戦場だったようです。
 駅名の「軍畑」の由来は南北朝から戦国時代にかけて青梅一体を支配した三田氏と小田原の北条氏の合戦場所だったことから名づけられました。

新緑がまぶしい。

深い渓谷。

旧道は、大きく上流に迂回していました。

直線の道を進みます。

左手の坂道が旧鎌倉街道? (11:45)「軍畑駅入口」交差点。
      

軍畑駅付近の案内図。

 「青渭(あおい)通り」。
「青渭神社」への道。

 次の駅が「沢井」。今回の目的地、酒蔵「澤乃井」を目指して。
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久々の青梅街道。河辺駅~川井駅。その2。(「青梅街道」をゆく。第3日目。)

2018-05-17 21:36:48 | 青梅街道
                                沿道には立派な建物が続く。


                   


(9:57)右手に「旧稲葉家住宅」。

 
稲葉家は、江戸時代に青梅宿の町年寄を務めた家柄で、青梅でも有数の豪商でした。青梅街道に沿って、土蔵造り二階建ての主屋、棟割り長屋が並び、主屋の東側に井戸と、北側には土蔵があります。
 間口5間半、奥行き7間の土蔵造りの主屋の表部分は、店舗として商業活動に充てられ、奥の部分は生活の場となっていました。
 店舗部分は、間口いっぱいに土間を持つ前土間形式で、防火戸の収納部となる袖壁を左右にもつ一階部分と、土戸で守られた登り梁形式の二階部分からなっています。軒の低い登り梁形式から、江戸時代後期(18世紀後半)建築であると考えられています。
 また土蔵は明治19年(1886)頃の建築、棟割り長屋・門・井戸屋方はその後の建築と考えられます。

                    

 (10:00)その先、森下陣屋の跡地に建つ熊野神社付近は宿場特有の枡形になっています。写真の左手の坂を下ると、「金剛寺」。金剛寺は、青梅の地名の元になった平将門ゆかりの梅の木で有名。


                          
森下陣屋跡
 天正18年(1590)に家康が関東に入国してまもなく、八王子に代官所が設置され、初代の代官に大久保石見守長安が任命された。
 当地には、その出張所ともいうべき陣屋が青梅宿西端の森下に設けられ、大野善八郎尊長、鈴木孫右衛門らがその任にあたった。青梅陣屋の支配地域は、現在の八高線沿線から多摩川上流域にかけての三田領・加治領・高麗領・毛呂領にわたる範囲で、山の根2万5千石と称した。青梅(森下)陣屋は、延享元年(1744)頃に伊那平左衛門忠達の代で廃止された。
 陣屋の敷地面積は、6千3百平方㍍程度と推定されるが、現在は、陣屋の敷地の鎮守と伝えられる熊野神社が祀られている。
 江戸時代の青梅宿の成立と繁栄が偲ばれる貴重な旧跡である。

案内図。枡形がはっきりと分かります。

「青梅宿」を出て、一路、西へ。

(10:07)右手に「七兵衛公園」
                             実在した裏宿七兵衛の住居跡。入口の左に多数の石仏が。
裏宿七兵衛
 むかし、 青梅の町はずれの裏宿に七兵衛という百姓が住んでいた。ひるまは、ふつうに百姓をしていたが、夜になると盗賊に変身した。七兵衛はまれにみる俊足で、いち夜に十数里を走ることができた。あまり足が速いので、笠を胸にあてて走っても落ちず、1反に布をひいて走っても端が地につかないほどだったという。ぬすんだ銭は、貧しい人に分け与えた義賊だったという。
 だが、ついに捕らえられ、処刑された。笹ノ門でさらし首になったが、ある夜暴風雨になり、首は別当沢を流れて宗建寺の近くに着いた。そこで住職が手厚く葬った。
 その後、七兵衛の屋敷跡では、ふしぎなことが次々におこった。七兵衛の畑を耕したり家を建てたりすると、病人・事故・事業の失敗など、悪いことばかり続く。ついに、だれも住む人がいなくなって、長いこと空地になっていた。(現在は七兵衛公園になっている)
 また、青梅図書館のところも七兵衛の畑で、以前、郡役所が建てられたが、何回も悪いことがおこったので、敷地の一隅に地蔵堂が建てられた。
(「青梅資料館」HPより)

 このあたりが「裏宿町」。

「旧道」は多摩川に向かって下っていたようです。

                       

そこで、「天ヶ瀬通り」を下っていきますが、途中で道は途切れます。


再び国道に戻って、「神明橋通り」を進みます。

             のどかな通り。

 左手下に集落があるので、旧道はそこを過ぎていたと思いますが、そこへの道路(降り口)を見失い、そのまま。


                     

(10:32)「神明橋通り」から国道を横切り、斜めの道に。
                                     
土蔵造り。右手奥に「青梅線」。

青梅線と国道との間の静かな道。


しばらくして国道に復帰します。

(10:43)JR「日向和田」駅。「梅一路 心の里 吉野梅郷」。

 多摩川を越えた向こうに「吉野梅郷」があります。ずいぶん昔に来たことがあります。御岳山から日の出山を越えて・・・。見事な梅林が一面で、堪能した記憶が。

駅前の案内板。

 かつては日の出山から伸びる丘陵と多摩川との間の長さ4kmほどの地域に25,000本の梅が植えられていました。
 ところが、2009年4月に、植物防疫法の法令検疫対象のプラムポックスウイルスの感染が梅の木としては世界で初めて確認され、2014年4月4日から5月30日までの間に園内の梅1,266本を全て伐採することとなってしまいます。今後、梅を植樹するには、この伐採から3年間に付近で新たな感染が無いことが条件となっているようです。
 2015年、梅の里再生を目指し、NPO法人「青梅吉野梅郷梅の里未来プロジェクト」が設立されました。
 かつての全山梅林という景観を早く取り戻してもらいたいものです。

かつてのようす。

現在の公園マップ。 (HPより)
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久々の青梅街道。河辺駅~川井駅。その1。(「青梅街道」をゆく。第3日目。)

2018-05-16 22:00:49 | 青梅街道
                                (8:56)「道間公園」。旧道?
                       
 5月5日(土)。快晴。久々に「青梅街道」を歩きました。青梅を経て、「川井」駅まで。途中、「澤ノ井」で利き酒を楽しみつつ。のんびり。
 約26,000歩。もう少し進めたのですが、・・・。

 JR青梅線「河辺」駅を降りて、前回のところまで。この付近で「旧青梅街道」は大きく西北に曲がっていたようですが、その道筋は?
 ただ、少しは残っていて道標などもあるようです。

(9:01)「東青梅5北」交差点を斜めに進む。

                       

 (9:06)右手、分岐点の角にある自然石でできた「道標」。
 
                 「右 江戸道 左 はんのふ かわこゑみち」と刻まれてようですが、判読不能。

 途中、右手角に「六万部薬師堂」があります。

道は少し曲がりながら「東青梅駅」方向へ。

 現「青梅街道」に合流し、右へ。


                交差点を振り返る。

成木街道入口交差点」。

第3話 御用石灰と青梅街道
 甲州街道の裏街道として、首都東京の主要道路の一つである青梅街道。今では物流のほかに通勤、レジャーなどの車の往来が途絶えず、都心と多摩地域を結ぶ大動脈となっています。
 青梅街道が開かれ整備されたのは、江戸城大改修に伴なう城壁の漆喰に必要な石灰を、青梅の成木地区から輸送するためでした。約400年前の慶長11年(1606)、武蔵野の原野がほぼ一直線に江戸城へ向かって開かれ、江戸と青梅は青梅街道により結ばれたのです。
 青梅街道の前身は、石灰の産地である成木地区を抜ける峠道、成木街道と言われています。成木地区では江戸幕府が開かれる以前から石灰が製造されており、八王子城などの城壁にも使用されていたと言われています。このことが幕府の耳に入り、慶長11年の江戸城大改修に伴い石灰の幕府用達を命じられました。成木の石灰は「八王子白土焼」と命名され、厳重な警備のもと「御用石灰」として江戸へ輸送されました。
 ここに「成木往還と青梅街道」の歴史が始まったのです。
(この項、 HPより)

案内図。左から来て青梅線の線路を越えると、「青梅宿」。

            (9:18)



 (9:25)古い家並みが残っています。
 

                       


「鍛冶屋」さん。懐かしい響き。

街道筋らしい家並み。

                   

 青梅駅周辺(青梅街道沿い等)は、洋画の看板が店先などに掲げられています。懐かしい名画の数々。「哀愁」、「荒野の決闘」、「第三の男」・・・。
 

                      

「青梅宿」の通り。

                      

(9:33)「青梅赤塚不二夫会館」。

 青梅駅周辺商店街は、映画看板(特に昭和の雰囲気がある物)で街おこしする事をモットーとしており、昭和を代表する漫画家であり、青年時代(新潟市在住時代)に映画看板の仕事に従事した事がある赤塚不二夫(親族を含め赤塚不二夫と青梅市に縁は特にない。)に白羽の矢を立てて、2003年10月18日に開館した。建物は、元々土蔵造りの医院だった。
 館内は、赤塚作品のキャラクター(『おそ松くん』、『ひみつのアッコちゃん』、『天才バカボン』など)が数多く展示されており、ファンには垂涎の博物館となっている。また生前可愛がっていた猫の「菊千代」に関するレプリカ(ちなみに菊千代を祀った”バカ田神社”なる小さな神社もある)や漫画家を志すきっかけとなった映画『駅馬車』の看板が飾ってあった。(現在は外されている。)2008年(平成20年)8月2日に赤塚が死去した際には、臨時の記帳台が設けられ800人が記帳に訪れた。
 隣に昭和レトロ商品博物館、はす向かいに昭和幻燈館があり、三館共通券も発売されている。尚、三館とも横川秀利が館長を務めている。

以前撮った写真。

古風な店舗の隣に「シェーン」の看板。

中央、東西に通じる道が「旧青梅街道」。

「雪守横丁」。こういう路地裏があります。

「青梅赤塚不二夫シネマチックロード」。

昭和初期の看板建築と思われる建物が何棟か。

こちらは重厚な商家建築。

(9:50)ここから「旧青梅街道」は「青梅街道(国道411号線)」となります。
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初めての釧路。その3。

2018-05-14 20:22:51 | つかのまの旅人
                                      夕日が美しい。
「春の像」。春夏秋冬の像があります。
           携帯写真なので実際以上に夕日が大きく見えます。

釧路空港へ戻るまでの時間。つかの間の市内見学。

「幣舞橋」。橋のたもと正面には大きな「花時計」。

幣舞橋(ぬさまいばし)
 釧路川に架かる橋。幣舞の名前はアイヌ語の「ヌサ・オ・マイ」(nusa-o-mai 幣場の・ある・ところ)が由来とされている。
 幣舞橋は、1889年(明治22年)に北海道内で最も長い木橋「愛北橋」(全長207m、幅3.6m)として架橋されたのが始まりである。それまで渡船により越えていた釧路川に、名古屋に本社を持つ商事会社「愛北物産」が自費で架橋し、有料で橋を運営した。ところが、1898年(明治31年)に橋は倒壊してしまう。
 1900年(明治33年)、官設となる木橋(全長203m、幅4.2m)が架けられ、地域の名称から「幣舞橋」と名づけられた。しかし、この橋も増水による上流からの流木や、冬場の結氷や流氷によって1909年(明治42年)に倒壊。同じ年に新たな木橋(全長203m、幅4.5m)が架けられたが、流木や流水によりおよそ6年で倒壊してしまった。1915年(大正4年)には幅員を拡げた新たな木橋(全長201m、幅7.2m)を架けた。
 1928年(昭和3年)、およそ4年の歳月をかけて永久橋(全長113m、幅18.3m)が完成。歩道と車道が分けられ、車道は片側2車線になった。優雅なアーチを描くヨーロッパ風のデザインと橋上に設置された四基の大理石によるオベリスクは、頑丈なだけでなく美しさも兼備しているとして高く評価され、豊平橋(札幌市)、旭橋(旭川市)と並んで「北海道三大名橋」と称された。
 1976年(昭和51年)、老朽化と渋滞緩和を目的に新たな橋が架橋された。設計は市民参加型で行われ、四基のオベリスクやアーチ型などは旧橋の面影を残しながら新たな試みを採用し、橋脚上には4人の彫刻家による作品「四季の像」が設置されている。
(以上、「Wikipedia」参照)

・春の像 舟越保武 作「若葉が萌えいずる雪解けの季節」
・夏の像 佐藤忠良 作「さわやかな風を受けて羽ばたく若々しさ」
・秋の像 柳原義達 作「迫りくる厳しい冬に立ち向かう精神と緊張感」
・冬の像 本郷新 作「寒さと冬をはねのけて春を待ち望む心」
(「国交省北海道開発局釧路開発建設局」HPより)

「冬の像」。

石川啄木の歌碑がある、というので「米町公園」へ。その途中には、
「啄木ゆかりの人 小奴」碑。

明治四十一年一月二十一日石川啄木、妻子をおいて単身釧路に来る
同年四月五日当地を去るまで釧路新聞社に勤め記者として健筆をふるえり

  あはれかの国のはてにて
  酒のみき
  かなしみの滓を啜るごとくに

当時の生活感情を啄木はこのようにうたう
当時しゃも寅料亭の名妓小奴を知り交情を深めり

  小奴といひし女の
  やはらかき
  耳朶なども忘れがたかり

  舞へといへば立ちて舞ひにき
  おのづから
  悪酒の酔ひにたふるるまでも

漂浪の身に小奴の面影は深く啄木の心をとらえ生涯忘れ難き人となれり
小奴もまた啄木の文才を高く評価し後年旅館近江屋の女将となり七十余年の生涯を終るまで啄木を慕い通せり
今、此処小奴ゆかりの跡にこの碑を刻み永く二人の追憶の記念とす

  昭和四十一年十一月
    朝日生命保険相互会社
                   

 以下、「青空文庫」より。
石川啄木と小奴 野口雨情
 石川啄木が歿なくなつてからいまだ二十年かそこらにしかならないのに、石川の伝記が往々誤り伝へられてゐるのは石川のためにも喜ばしいことではない、況や石川が存生中の知人は今なほ沢山あるにも拘はらず、その伝記がたまたま誤り伝へられてゐるのを考へると、百年とか二百年とかさきの人々の伝記なぞは随分信をおけない杜撰なものであるとも思へば思はれます。ですから一片の記録によつてその人の一生を速断するといふことは、考へてみれば早計なことではないでせうか。
 私の思ふには石川が最後に上京して朝日新聞在社時代の前後や、晩年の生活環境については石川の恩人であつた金田一京助氏が一番正確に知つてゐるはずで、同氏によつてその時代のことを書かれたものが、正確なものだと考へられるが、北海道時代、ことに釧路時代の石川のことについては全く知る人が少いやうに思ふのでそれをここで述べてみよう。
 石川の歌集を繙く人は、その作品の中に小奴といふ女性が歌はれてゐることを気づくであらう。
 小奴といふのは釧路の芸者で、石川とは相思の仲であつたともいへよう。私は小奴に逢つたのは石川が釧路を去つて約一年後であつた。その動機といふのは、大正天皇が皇太子のころ北海道へ行啓されたことがあつた。その時私は、東京有楽社のグラフイツクを代表して御一行に扈従して函館から、札幌、小樽、旭川、帯広と順々に釧路へ行つた。その時東京からの扈従記者は新聞では国民新聞の坂本氏、通信社では電報通信の小山氏、日本通信の吉田氏らであつた、その時の新聞班の係長はつい先ごろまで、千葉県や群馬県の県知事をしてゐた県忍氏で県氏はその当時北海道庁の事務官であつたため新聞班の係長に選定されたのである。
 そこで我等扈従こせう記者の一行が県氏の案内で釧路へ着くと、釧路第一の料理亭、○万楼で土地の官民の有志が我我のために歓迎会を開いてくれた。私も勿論その席に出席して招待を受けたのであつた。
 時は丁度灯ともしごろ、会場は○万楼の階上の大広間で支庁長始め、十数名の官民有志が出席して、釧路一流の芸妓も十数名酒間を斡旋した。その時私がふと思ひだしたのは、嘗て石川から聞いてゐた芸者小奴のことであつた。私はこの席に小奴がゐるかどうかを女中に尋ねてみると、女中のいふには
『支庁長さんの前にゐるのが小奴さんです。』
 見ると小奴は今支庁長の前で、徳利を上げて酌をしてゐるところである。齢としは二十二、三位、丸顔で色の浅黒い、あまり背の高くない、どつちかといへば豊艶な男好きのする女であつた。その中に小奴は順々に酌をしながら私の前に来た。そこで私は
『小奴とは君かい。』
と聞いてみた。すると
『ええ、わたしですが何故ですか。』
と不思議さうに私の顔をみる、私は
『君は石川啄木君を知つてゐるだらう。』
といふと小奴は
『石川さん?』と小声に云つて、ぽつと頻を染めながら伏目勝ちになつて
『どうしてそんなことをおききなさるのですか。』
『いいや、君のことは石川君からよく聞いてゐたものだから……』
『あら、あなたは東京のお方でせう、それにどうして石川さんを知つてらつしやるのですか。』
『私は、今は東京にゐるが一、二年前までは小樽や札幌にゐたからそんなことはよく知つてゐるよ。』
 実は私は札幌で石川を始めて知つて、それから小樽の小樽日報へ一緒に入社したのであつた。小奴は
『あなたのお名前は何とおつしやいますか。』
と、不安さうな瞳をみはつて尋ねるのであつた。
『私は野口といつて石川君とは札幌からの懇意だもの。』
『まあ、あなたが野口さんでしたか、それでは石川さんから始終あなたのお噂を聞いてゐました。それにしても今石川さんは何処どこにゐらつしやるのでせうか。』
 小奴は石川が釧路を去つてからの後は石川のくはしい消息は全く知らないらしかつた。
『いまは東京にゐるが、君はそれを知らないのか。』
『ええ、東京へ行つてゐるといふことはうすうす聞いてゐましたが、東京の何処にゐらつしやるのかその後音信がないので存じません。』といふ。
 さうしてゐる中に酒席は酣になつて、一同のかくし芸が始まる。小山氏の手品、坂本氏の詩吟等と主客共愉快になつて、大はしやぎにはしやいだ。私は小奴と石川のことを話し合つてゐたために、同行の某君は、けしからんけしからんといひながら傍へよつて来て、たうとう私と小奴との話をさへぎつてしまつた。そこで小奴はまた支庁長の方へ行つて三味線をひきだした。私も大分酔つて来て一行と共に出来ないかくし芸なぞしてはしやいだ。
 やがて宴会が終つて芸者連は帰つてしまつた。私達も旅館へ引きあげようとして階段を下りて来ると、女中が一通の手紙を私に渡した。封筒には唯、野口様と書いただけで誰からの手紙ともわからなかつたが、開けてみると鉛筆の走り書きで、
『石川さんのお話もお伺ひしたうございますから、お帰りに私の家によつて下さい、人力車でいらつしやればすぐでございます。  小奴』
とあるのでその手紙が小奴からであることがわかつた。そこで私は帰りに小奴の家に寄つてみた。家は○万楼から四五丁位の処でその辺は花柳街で、小奴の家は格子戸のはまつた、下が三畳に六畳の二間、二階も一間位はあつたらしい、小じんまりした家であつたやうに記憶してゐる。
 小奴は私の行くのを待つてゐたらしく直すぐに六畳の部屋に迎へて呉れた。壁には三味線が二梃ばかりかかつて本箱の上には稽古本が二冊位のつてゐた。左の方の柱に石川の書いた短冊が一枚かかつてゐた。短冊にかかれた歌の文句は忘れてしまつたが、歌の意味は、『小奴ほど人なつかしい女はない』といふやうなことであつた。全く小奴は人なつかしい温和しい女性でまた正直な女であつた。小奴は酒に酢のものを添へて料理を出して、心から私を歓迎してくれた。
 何でも小奴にはそのころ三つか四つぐらゐになる子供があつた。その子供の親は石川ではなく、小奴の前の旦那の子供であるといふことであつた。小奴の家庭は、小奴とその子供と箱屋と女中とをかねた五十ぐらゐの婆さんの三人暮しで、いふまでもなく小奴は自前の芸者として釧路でも姐さん株であつた。小奴の母親は幼少のころ亡くなつたが、父親は、そのころ、――実の父親か義理の父親であつたかよく記憶はしてはゐないが、――何れにしろ父親は釧路駅の従業員をしてゐて小奴とは別居して暮らしてゐた。小奴と逢つた翌日その父親にも停車場で逢つたが、決して裕福な暮しではなかつたやうである。
 小奴は私に石川のことについて次のやうなことを話して聞かせた。
『石川さんが釧路へ来て間もなく、社(釧路新報社のこと)の遠藤決水さん達と一緒に逢つたのが、初めてで、それから始終石川さんとお逢ひしてゐましたが、初めの中は料理屋の勘定なども無理な工夫をして支払つてゐましたし、私も出来るだけお金の工面もしましたが、たうとう行きづまつて、はてはお座敦に行けばお客達から『石川石川』といつてからかはれお座敷の数もだんだん減つてどうすることも出来ないやうになつてしまつたのです。それに石川さんにはお母さんも奥さんも子供さんまであつて、お金に困りつつ小樽にゐるといふことを遠藤決水さんから聞かせられて、私は第一奥さんにすまないと思ひましたのでそれからは、心にもない不実な仕打をするやうになりました。それとしらない石川さんはその後私を大変恨むやうになりました。そこへまた社の社長(釧路新報の社長白石義郎氏のこと)さんも石川さんに意見をするやうになつたので、それやこれやで石川さんは釧路をたつ気になつたのでせう。
 けれどもたつといつたとこで、一文の金の融通さへも出来ないまでに行きづまつてしまつた石川さんは、丁度その春の解氷期をまつて、岩手県の宮古浜へ材木を積んで行く帆前船に乗つて、大きな声ではいはれませんがこつそりと夜だちしてしまつたのです。
 さあ石川さんが夜だちをしたとなると勘定の滞つてゐる料理ややそばやが皆私の方へ催促をするので私はよくよく困つてしまひました。仕方がないから社の社長の白石さんを尋ねて何とかして下さいませんかと頼みましたが、白石さんはぷんぷん怒つてゐて、てんで取り合つてくれませんでした。尤も石川さんが夜だちをする二日ほど前に
『「これから郷里の岩手へ行つて金をこしらへて来る。」といつてゐましたが、そんなことはあてにならないとは思つてゐましたが、さうでもしてくれればいいがとせめてもの心頼みにもしてゐたのです。けれどもここをたつてからは一度の音信もありませんから、釧路のことも、私のことも、もう忘れてしまつたのだと思はれます。』
と話して小奴は泪をさへうかべてゐました。私は小奴が気の毒になつたので、
『私が東京へ帰つたら、石川に早速話して石川を慕つてゐる君の心をよく伝へるから。』と慰めの言葉を残して旅館に帰つて来た。
 その後東京へ帰つてから、東京朝日新聞社に石川を尋ねて小奴の話を伝へると、石川はきまり悪さうに笑ひにまぎらして何とも答へなかつた。同じその晩石川と銀座のそばやで一杯やりながら再び小奴のことを話しだすと石川も感慨無量の面もちでうなだれてしまつたので、もうそれ以上私は石川に小奴の話をする勇気がなくなつてしまつた。そしてその後幾度か石川には逢つてもついその話はせずにしまつた。
 それから余程経つた後であつた。小奴にそのうち石川と一緒に釧路へ君を尋ねるといふ葉書を出したことがあつたが、小奴からは何の返事もなく、石川も他界してしまつたので、時折歌集を繙く度に小奴の名の出てくるのをみると、釧路の夕を思ひ出しては芸者小奴は今、どうしてゐるかといふことを考へるのであつた。
     ○
 その後大正十年の春、私が奈良市へ講演に行つて四季亭へ泊つた時、どうした話のはずみだつたか四季亭の女中が、あなたを知つてゐる坂本さんといふ女の方が京都にをりますよと私にいふのである。その女中は何でも京都の生れであつたやうに思はれた。私は坂本といふ婦人はいくら考へても思ひ出せなかつたので女中にだんだん聞いてみると、その坂本といふ婦人こそ、釧路の芸者小奴であつた。小奴の本姓は坂本といふのであつた。
 その女中の話しによると、小奴の坂本はその当時京都のある呉服屋の支配人の妻君になつて京都に住んでゐたのであつた。釧路と京都とはどんな事情で小奴が今京都にゐるかは知らないが、不思議な感がしてならなかつた。
 大正十年といへば今から七八年前のことであるから、今も小奴は京都にゐるかも知れない。
 そのころ無名の詩人であつた石川、今の石川の名声と思ひ合はせて考へた時、小奴はたしかに感慨深いものがあるであらう。
 私も機会があつたら、もう一度小奴に会つて石川の話もしてみたいやうな気もするが単に京都とばかりでは、京都の何処どこにゐるのやら知るよしもなくそのままになつてしまつた。
     ○
 石川は人も知る如く、その一生は貧苦と戦つて来て、ちよつとの落付いた心もなく一生を終つてしまつたが、私の考へでは釧路時代が石川の一生を通じて一番呑気であつたやうに思はれる。それといふのも相手の小奴が石川の詩才に敬慕して出来るだけの真情を尽してくれたからである。かうした石川の半面を私が忌憚きたんなく発表することは、石川の人と作品を傷つける如く思ふ人があるかも知れないが私は決してさうとは思はない。
 妻子がありながら、しかも相愛の妻がありながら、しかもその妻子までも忘れて、流れの女と恋をすることの出来たゆとりのある心こそ詩人の心であつて、石川の作品が常に単純でしかも熱情ゆたかなのも、皆恋する事の出来る焔が絶えず心の底に燃えてゐたから、それがその作品に現れてきてゐるので、もし石川にかうした心の焔がなかつたならば、その作品は死灰の如くなつて、今日世人から尊重されるやうな作品は生れて来なかつたかも知れない。
 いはば石川の釧路時代は、石川の一生中一番興味ある時代で、そこに限りなき潤ひを私は石川の上に感ずるのである。
 このことを石川が地下で聞いたならば苦笑をもらすか、微笑をもらすか、石川のことであるから多分苦笑をもらし乍ら煙草を輪に吹いてだまつてゐるだらうとそれが私の目に見ゆるやうに感じられてくる。
底本:「定本 野口雨情 第六巻」未來社
   1986(昭和61)年9月25日第1版第1刷発行
底本の親本:「週間朝日」
   1929(昭和4)年12月8日

 注:上記の碑文とこの文章では晩年の「小奴」のようすが異なっています。

啄木の恋人は?今も論争 76日滞在の釧路で     
                            (日経新聞2015/1/13付)
 明治期の歌人石川啄木(1886~1912年)が新聞記者として76日間を過ごした北海道釧路市で、当時の恋人は誰だったのか、今も論争が続いている。12日には文化施設「港文館」主催の啄木講座が開かれた。没後100年以上も経過し、何が人々の心を捉えているのか。
 「小奴だというのが通説だが、ふたりは芸妓(げいぎ)と客の関係にすぎず、恋人は梅川操だと思う」。講座で、講師役の釧路啄木会会長北畠立朴さん(73)は持論を展開した。
 恋人と目されるのは、芸妓の小奴と看護師の梅川。講座の女性参加者からは「妻一筋では」との第三の説も飛び出した。
 啄木は1908年1月に妻子を小樽に残し、釧路入り。滞在中、頻繁に料亭に通い、揚げ句に借金を踏み倒して上京。釧路では「女たらしだった」と伝えられている。
 啄木は「小奴といひし女の やはらかき 耳朶なども忘れがたかり」などと歌集「一握の砂」で小奴を詠んでおり、通説の有力な論拠だ。
 一方、梅川は啄木の小説「病院の窓」に登場する看護師のモデルとされ「『喰ひつきたい程可愛く思はれる』と梅川に寄せる思いが書かれている」(北畠氏)という。
 論争が続く理由について北畠氏は「啄木は恋多き男で、作品と恋は切り離せない」と指摘。参加した女性(66)は「啄木の歌は分かりやすく、身近な存在。週刊誌的な話題をしても、誰も傷つけない点もいい」と話す。
 別の女性は「未解明の点が多く、興味深い研究対象」と話す。ただ近年新資料の発見はなく、当面決着の見通しはない。
 啄木が釧路に着いた1月21日に開かれる行事「雪あかり」は今年も、啄木と小奴に扮(ふん)した男女が通説通り恋人を演じる。〔共同〕
(以上、「」HPより)

 「米町公園」にある石川啄木「歌碑」。
 
しらしらと氷かがやき
千鳥啼く 
釧路の海の冬の月かな


 啄木日記の明治41年(1908)1月21日に「・・・九時半釧路に着。停車場から十町ばかり、迎へに来た佐藤国司らと共に歩いて、幣舞橋というを渡った・・・」とあって、76日間の釧路生活が始まりました。啄木22才の時のことです。
 この歌は歌集「一握の砂」に収められた一首であり、歌碑は啄木生誕50周年を記念して昭和9年(1934)に建立されました。この知人岬の地は作家林芙美子の勧めにより選ばれたもので、釧路の啄木歌碑の中では最も古く、全国で6番目に立てられたものです。

 釧路市内には、26基の啄木歌碑などが各所に建てられているようです。


高浜虚子の句碑もあります。
                燈台は低く霧笛は峙てり

 明治・大正・昭和の日本俳句界に大きな足跡を遺した巨匠高浜虚子は、昭和8(1933)年8月23日この釧路を訪れた。
 碑句は知人岬付近から眺めた北の港の厳しさとこれを守る燈台、霧笛への虚子独特の感慨を詠ったものである。一連の中には
露領より帰りし船と鮪船
があり、ともに当時の釧路港の歴史、産業、風土、文化を今に伝えている。・・・


 「展望台」から望む。
釧路港。

                              



                釧路市内。街並み。

 漁港に立ち寄ります。一時の賑わいはなくなった、とのこと。


               

      

 こうして駆け足で市内見物。空港に向かいました。市内は車の数はそこそこありますが。歩く人の姿はほとんど見かけません。たまに、ジョギングしたらり散歩しているのはお年寄りが目立ちます。
 「20万都市から今は17万くらいですか。日本製紙の工場が頑張っているくらい。・・・」送ってくれた方の弁。

「たんちょう釧路空港」。
 
              求愛のポーズのようです。

 夕日に染まる空港。北の大地。



 「啄木ゆかりの地」巡りなどを兼ねて、またゆっくりと訪問したい、と。
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初めての釧路。その2。

2018-05-11 20:27:30 | つかのまの旅人
                                     「釧路市湿原展望台」。

 そこで、釧路湿原へ。

 自然がこの地に与えてくれた歴史的遺産「釧路湿原」は国内28番目の国立公園として昭和62年に指定されました。
 この展望台は湿原に群がる「谷地坊主」をモチーフとした、古風な西欧の城を思わせる建物で、昭和59年にオープン。屋上からは四季折々の湿原の変化を見ることができます。(「パンフレット」より)

展望台から。
 
                  

 見渡す限りの大草原。ただ、尾瀬ヶ原などのような湿原が広く点在しているようですが、意外と起伏があり、樹木に遮られてしまっています。
              

 館内は、展示館のようになっていて、幻の魚「イトウ」なども展示されています。写真がうまく撮れなかったので、「Wikipedia」から借用。

イトウ(伊富、伊富魚、伊当、𩹷 )
 サケ目サケ科イトウ属に分類される淡水魚。別名は糸のように細長い体系を持つ個体が多いことから名付けられたとされるイト、イド、チライ、オビラメなど。
 日本最大の淡水魚として知られており、体長は1mから大きいものでは1.5mに達する。記録上最大のものでは、1937年(昭和12年)に十勝川でおよそ2.1mのイトウが捕獲されたことがある。また体長1㍍に育つまで10年程度の時間が必要である旨、イトウ研究者からの発表もなされており、サケ科の魚としては長命である半面、成長速度が非常に遅いという特性があり、この点がイトウの希少性と相まって、個体数の減少に拍車をかけているものと考えられるため、早急な保護策の策定が急務であると考えられる。
 和名は「糸魚」の意味で、これはサケ類としては全長に比して体高が低く細長い体形である上に、サケとは違い早春に上流に遡上・産卵するため、初春から晩春にかけては生殖活動後の痩せ細った個体が多く見られるために、「糸のように細い魚」という印象が持たれたことによる。婚姻色はしばしば鮮やかな茜色で、大きな魚体を川面に反転する姿が目撃されることから、イトウのハネとして釣り師の格好の狙いの的になることがある。また春に遡上するイトウは、その魚体の大きさから、種川において容易に姿を見つけることができるため、特に遡上期における保護策の徹底が重要である。
 日本では北海道の一部(11水系)の河川・湖沼に、その他樺太や、南千島に生息している。現在、イトウの生息する南限は北海道の尻別川であるが、河川改修や森林の伐採・農地拡大等による汚泥の流入、ダムによる川の寸断などにより、尻別川での自然増殖はほぼ絶望視されている。
 かつては岩手県で1水系、青森県小川原湖のほか1水系にも生息していたが、絶滅した。北海道には広く分布していたが1960年代には9水系での生存が確認できなくなっていた。また、1980年代末には、24水系での生息報告が途絶えた。
 イトウは他のサケ類に見られるように降海性を持つ。急流性の河川は好まず勾配の緩い河川を好み生息し、稚魚の成育には氾濫原の様な水域が必須とされている。一部の個体は汽水域や沿岸域で生活するが、通常は夏季は上・中流域、冬季は下流域で生活する。降海後の海洋での生活史は十分に解明されていない。降海後の個体が沿岸でのサケ・マス漁で混獲されることもある。
 性成熟はメスで6-7歳約55cm、オスで4-6歳約45cmで迎える。他のサケ類と違い産卵後に死なず、一生のうちに何度も産卵を繰り返す(ただし、毎年産卵するわけではない)。北海道での産卵期は3月から5月であるが寒冷な地域では遅くなる。
 卵は鮮やかな朱色で、直径はおよそ6mm。受精後37-40日で孵化する。孵化後の稚魚の体長は1.5-1.7mm。稚魚の身体の側面には6-7個のパーマークがあり、体長が15cmほどになると消える。寿命は長く、15-20年以上生きる。
 当歳魚は岸寄りで流速の緩い場所に好んで生息し、主にカゲロウ類等の水棲昆虫を食べるが、陸生昆虫の水面落下個体はあまり食べない。1歳魚以降は流心に近い場所や、水面上に河畔樹木の枝が張り出した2m以上の水深のある淵などに移動する。また魚食性が表れ、共食いを含め他の魚を食べるようになる。但し、ヤマメやアメマスより動きの鈍いフクドジョウを多く食べているとする研究がある。大きな個体はカエルやヘビ、ネズミ、水鳥のヒナ等を食べることもあるほどの悪食さでも有名で、後述のように鹿を飲んだという伝説すらある。
                          

遊歩道を少し歩いてみます。
 釧路湿原国立公園は、わが国最大といわれる釧路湿原を中心にその周囲の湖沼を含み、釧路市・標茶町・釧路町・鶴居村にまたがる28,788ヘクタールの面積を有しています。
 ハンノキの木立を点在させたヨシの草原と蛇行する河川などがおりなす広大な水平景観、その中に見られる動植物のさまざまな営みと原自然の保存度の高さは、わが国では他に類例がない特異性をもっています。・・・


                       

 残念ながら直接湿原に触れあう機会がなかったので、HPより写真をお借りします。


 広大な湿原のとばっくちに立ち寄っただけです。
     



           

       

 もちろんこうしたところに立ち入ることはできません。遊歩道の先にある木道だけでも歩いてみたかった、と。ぜひ機会があれば訪ねてみたいと思います。

 「釧路湿原」は「ラムサール条約」によって保護されています。


                
ラムサール条約
 湿地の保存に関する国際条約。水鳥を食物連鎖の頂点とする湿地の生態系を守る目的で、1971年2月2日に制定され、1975年12月21日に発効した。1980年以降、定期的に締約国会議が開催されている。
 正式題名は特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約(英:Convention on Wetlands of International Importance Especially as Waterfowl Habitat)。
 「ラムサール条約」は、この条約が作成された地であるイランの都市ラムサールにちなむ通称である。

 車の中からの景色。一面に広がる湿原は金網でしっかりガードされ、保護されています。


                 

 一部では宅地化されて農場や建物などがあります。案内してくれた方に尋ねると、湿原をそうするためには水抜きで何年もかかり、その上に土盛りをしてさらに何年もかかってようやく利用できるようになるそうです。
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初めての釧路。その1。

2018-05-10 19:50:45 | つかのまの旅人
                                丹頂鶴自然公園。
 台湾から帰国して次の日曜日。釧路に出かけました。初夏の台湾から4月の東京に戻り、そしてまだ春浅い釧路へと日帰りの旅。
 しばらく音信不通だった方とお会いすることは出来ず、残念! でも、他の方々のお元気な姿に一安心。釧路空港に着いてからのひとときと帰りの便までの間のひととき。ちょっとばかり釧路の観光案内をしてもらいました。
「釧路市丹頂鶴自然公園」パンフレット。
 この公園は絶滅の危機にあるタンチョウを保護増殖するため、昭和33年(1958年)5羽のタンチョウが放され開園しました。
 10年後に自然ふ化、昭和45年(1970年)には人工ふ化に成功して以来、多くの増殖を手がけてきました。・・・現在、20羽のタンチョウが放飼されています。

餌場に近づくタンチョウ。

餌を食べにやってくるタンチョウ。それ以上にカラスが狙って横取り。しかし、タンチョウは鷹揚に構えています。 

 柵に囲まれていますが、園内は自然の湿原を保っています。
 

                    

 冬の季節では園外で自然に生活するタンチョウを身近に見ることができます。しかし、それも保護活動によるところが大きいようです。冬に入ると、大部分のタンチョウは給餌場に集まってきます。

 以下、HPより。

 開発で森は消失し湿原も荒廃してしまい、湿原の生物多様性も危機にさらされています。
日本野鳥の会では、タンチョウを湿原の生物多様性保護のシンボルとして、その保護活動に取り組んでいます。
タンチョウとは
 日本で最大級の野鳥

 タンチョウは日本の野鳥の中では最大級で、全長は1m40cm、つばさを拡げると2m40cmもあります。生息地は北海道東部に限られていて、本州などではほとんど見ることができません。日本では7種類のツルが観察されていますが、国内で繁殖するのはタンチョウ1種類です。
 巣は湿原のヨシ原の中で、ヨシを直径1mほどの大きさに積み上げて作ります。巣は卵を2個産み、雌雄が交代で温めて約1ヶ月でふ化します。ヒナはふ化するとすぐに歩くことができ、両親と一緒に湿原の中で餌を探しながら育ちます。子別れは翌年の冬が終わる頃です。
 大陸ではロシアや中国の東北部にも生息しています。大陸のタンチョウは渡りをし、冬は朝鮮半島や中国南部に移動しますが、現在の日本のタンチョウは渡りをしません。
 タンチョウは漢字で「丹頂」と書きます。「丹」は赤い、「頂」はてっぺんという意味で、頭のてっぺんが赤いためこの名前が付きました。頭の赤いところには羽がなく、ニワトリのとさかのようになっています。
 江戸時代までは北海道各地にたくさんいたようで、関東地方でも見られたようです。
 しかし明治時代になると乱獲され、さらに生息地である湿原の開発により激減してしまいました。そして全く見られなくなったため、大正時代には絶滅したと思われていました。
 しかし大正時代末期の1924年に、北海道東部の釧路湿原で十数羽が再発見されました。その後、1935年に天然記念物、1952年には特別天然記念物に指定され、国や自治体による保護施策が講じられるようになりました。当初は、ドジョウの放流やセリなどの植物の移植などが行われましたが、なかなか数が増えませんでした。
 1950年頃の猛吹雪の日、数羽のタンチョウが畑に置かれた冬の保存用トウモロコシを食べにきました。これをきっかけに給餌がうまくいき、各地で給餌活動が行われるようになったことで現在は千羽を超えるまで数が回復しています。
 千羽を超えたことは良い傾向ですが、しかし依然として北海道東部にだけの分布で、昔のように広く見られることはありません。生息地である湿原の面積は減少する一方で、残されている湿原も保護指定がなされていないところも多く、いつ開発されてもおかしくない現状です。
湿原の減少に加え、周辺の森林の多くも伐採されてしまいました。森が無くなると湧水が少なくなるので、川が冬になると凍ってしまいます。凍ってしまうと餌を採ることができないため、冬は人からの給餌に依存し生き延びている状況です。
 近年では道路に出てきて交通事故にタンチョウもいます。また列車や電線への衝突事故もあります。
数が増えてきているとはいえ、決して安心できる状態にではありません。
 日本野鳥の会では1987年に北海道阿寒郡鶴居村に「鶴居・伊藤タンチョウサンクチュアリ」を開設し職員を常駐させました。ここは故・伊藤良孝氏の所有地で、元々、伊藤氏が個人で給餌をしていた場所です。伊藤氏と協定を結ぶことで、サンクチュアリとなり、伊藤氏が亡くなられた後も、協定はご遺族に引き継いでいただき、サンチュアリは継続しています。
 サンクチュアリでは、伊藤氏の活動を引き継いだ冬期のタンチョウへの給餌活動のほか、生息する湿原の保全や調査、普及教育やボランティアの受け入れなど様々な活動を行っています。
 伊藤良孝氏は、鶴居村で酪農の傍ら1966年(昭和41年)よりタンチョウに給餌を始め、その後北海道の委嘱でタンチョウ給餌人(1968年~1996年)、タンチョウ監視人(1981年~2000年)を務め、タンチョウ保護を支えられました。
 サンクチュアリがオープンした1987年以降は、サンクチュアリのタンチョウ・レンジャーとして後進の指導、育成にもあたられ、タンチョウへの給餌の方法や採餌環境の整備など様々な知識が現在のレンジャーへ受け継がれています。
 1987年に北海道根室市でタンチョウが営巣する湿原約8haを買い上げ、民間としては初めての野鳥保護区を設置しました。その後も湿原を買い取るなどして保護区化を進めた結果、現在では21ヶ所、約2,600haをタンチョウの生息地として保護しており、そこにタンチョウ30つがいが生息しています。
 これらの野鳥保護区は当会のレンジャーが定期的に巡回し、タンチョウの生息状況や環境の変化、侵入者などの監視なども行っています。
 鶴居村の早瀬野鳥保護区温根内では、周辺の森林の開発により湿原に土砂が流れ込むことで、ヨシ原にハンノキが繁茂し、1994年以降、タンチョウが繁殖できない環境になってしまいました。1999年からハンノキを伐採し、ヨシ原を復元する事業を進めてきた結果、2002年から再び繁殖がはじまりました。・・・
 現在、タンチョウの生息数は千羽を超え、極めて危険な状態は脱しました。しかし冬の採食場所はまだ少なく、給餌に依存して越冬している状況は改善されていません。その原因のひとつは、明治時代以降の森林伐採で土地の保水力が不足し、湧水が減少してしまったことです。湧水が豊富に流れ込む川は厳冬期でも凍結しない水面が残り、タンチョウが餌をとれます。また湿原を乾燥化させて農地などにしたため、やはり冬に凍らない水面がほとんど無くなり、湿原でも餌を探せなくなっています。
 このため、現在では冬の採餌環境(冬期自然採食地)を増やしたり、復元する活動を進めています。2009年には、サンクチュアリ内に、冬も凍らない水路を作り、タンチョウが利用しやすいように樹木の間伐を行いました。すでに、最大20羽にもなるタンチョウが冬に利用しています。
 2010年には、鶴居村内の農家の協力を得て、樹木に覆われた水路を整備することで、タンチョウの自然採食地になるようにしました。今後も、畑の水路や採餌場所となる水辺を整備し、自然採食地を増やしていきます。
 現状では、冬の給餌を行わないと生息数は10分の1にまで減るといわれています。11月~3月までの冬期、餌不足を解消するため、サンクチュアリの給餌場で飼料用トウモロコシ(デントコーン)を給餌しています。サンクチュアリの給餌場は約13haの面積があり、タンチョウが来ない春~秋の間は、牧草の採草地として地元の酪農家に活用されています。採草地に使われていることで、管理コストをかけずに給餌場に適した草地環境を維持することができています。
・・・
 10月~3月の間は、鶴居・伊藤タンチョウサンクチュアリのネイチャーセンターを開館しており、どなたでも無料でお入りいただけます。センターではタンチョウの生態や保全状況など様々な情報をご提供しています。センターの利用案内はこちら。そのほか、フォトコンテストや写真展などを全国で開催したり、環境イベントにブース出展してタンチョウの現状について広く伝えています。また、タンチョウの生息する地域の子どもたちを対象に、タンチョウイラスト展を実施しています。
 タンチョウの繁殖環境や冬期自然採餌環境の保全、鶴居・伊藤タンチョウサンクチュアリの運営は、日本野鳥の会への会費や寄付を財源に進めています。タンチョウと湿原の生物多様性保護のため、どうぞご支援をお願いします。

タンチョウ(丹頂、Grus japonensis)種小名japonensisは「日本産の」の意。
 鳥綱ツル目ツル科ツル属に分類される鳥類。その美しさから、日本や中国では古来深く親しまれてきた鳥である。 折鶴、千円札、昔話などで身近なことから、鶴(タンチョウ)は日本を象徴する鳥になっている。
 全長102 - 147センチメートル。翼長64 - 67センチメートル。翼開長240センチメートル。体重4 - 10.5キログラム。全身の羽衣は白い。眼先から喉、頸部にかけての羽衣は黒い。頭頂には羽毛がなく、赤い皮膚が裸出する。タン(丹)は「赤い」の意で、頭頂に裸出した皮膚に由来する。・・・
 食性は雑食で、昆虫やその幼虫、エビ類・カニ類などの甲殻類、カタツムリ類・タニシ類などの貝類、ドジョウ類・コイ・ヤチウグイ・ヌマガレイなどの魚類、エゾアカガエルなどのカエル、アオジ・コヨシキリなどの鳥類の雛、ヤチネズミ類などの哺乳類、セリ・ハコベなどの葉、アシ・スゲ・フキなどの芽、スギナの茎、フトモモ・ミズナラなどの果実などを食べる。
  奈良時代以降は他種と区別されず単に「たづ・つる」とされ、主に「しらたづ・しろつる」といえば本種を差していたがソデグロヅルも含んでいたと推定されている。

若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさしてたづ鳴き渡る(山部赤人「万葉集」)

 アイヌ語では「サロルンカムイ」と呼ばれ、これは「葦原の神」の意がある。
 日本では1924年に釧路湿原で再発見されるまでは絶滅したと考えられていた。
 北海道での生息数は2012年における確認数は1,470羽で生息数は1,500羽以上と推定されている。
 江戸時代には、江戸近郊の三河島村(現在の荒川区荒川近辺)にタンチョウの飛来地があり、手厚く保護されていた。
                            広重「蓑輪金杉三河島」。
タンチョウは毎年10月から3月にかけて見られたという。幕府は一帯を竹矢来で囲み、「鳥見名主」、給餌係、野犬を見張る「犬番」を置いた。 給餌の際はささらを鳴らしてタンチョウを呼んだが、タンチョウが来ないときは荒川の向こうや西新井方面にまで探しに行ったという。タンチョウは午後6時頃から朝6時頃まではどこかへ飛び去るので、その間は矢来内に入ることを許された。 近郷の根岸、金杉あたりではタンチョウを驚かさないように凧揚げも禁止されていたという。こうした“鶴御飼附場”では将軍が鷹狩によって鶴を捕らえる行事も行われた。 
 東アジアにおいては古くから、タンチョウはその清楚な体色と気品のある体つきにより特に神聖視され、瑞鳥とされ、ひいては縁起のよい意匠として、文学や美術のモチーフに多用されてきた。 また、「皇太子の乗る車」を指して「鶴駕(かくが)」と呼ぶように、高貴の象徴ともされた。
 道教的世界観の中ではとくに仙人、仙道と結びつけられ、タンチョウ自体がたいへんな長寿であると考えられたほか、寿星老人が仙鶴に乗って飛来するとか、周の霊王の太子晋が仙人となって白鶴に乗って去ったといった説話が伝えられている。
 なお、古来の日本で「花」といえば梅を指したのと同じように、伝統的には、中国や日本で単に「鶴」と言えばタンチョウを指しているのが通常である。
 通俗的には、「亀は万年の齢を経、鶴は千代をや重ぬらん」と能曲『鶴亀』や地唄にも謡われるように、鶴と亀はいずれも長寿のシンボルとされ、往々にしてセットで描かれてきたほか、また花鳥画以来の伝統として松竹梅などとあわせて描かれることも多い。花札の役札「松に鶴」などもこうした流れのものであるということができる。
 アイヌ民族の間にはタンチョウの舞をモチーフにした舞踊なども伝えられている。
 1964年(昭和39年)、北海道の道鳥に指定されている。 日本航空のシンボルマークはいわゆる「鶴丸」。
      家紋としての「鶴丸」。
(以上、「Wikipedia」参照)

              

解説板。

 身近に見ることが出来ました。大型でなかなか見応えのあるツルでした。

 今日から16日までの7日間が「愛鳥週間」(バードウィーク)です。

帰りがけに、柵の向こうになにやら?

奇妙な球状の植物がぎっしり、頭を連ねています。何ですかと聞くと、「谷地坊主(ヤチボウズ)ですよ。」


 そう言われてみると、けっこうあちこちに群生しています。頭を覆うように枯れ草がたっぷり。己と比べてそのたくましさに敬服。ただし、季節的には春、まだ浅しで枯れ草の塊のようになっています。そこで、

釧路湿原の魅力3 ヤチボウズ・ヤチマナコ
 ヤチは谷地、湿原を意味し、マナコは眼のことで、漢字を当てれば谷地眼。ヤチボウズは谷地坊主と書く。谷地を歩いていると必ずこの異形の存在に出会う。楽しいトレッキングは、一気にミステリーゾーンに迷い込む。ヤチマナコとは、要するに水が溜まった落ち窪みのことで、例えば夕日に赤く照らされた水面などは夕闇の中で赤い眼がギロリと見開いているように見えないこともない? ところで、ただの水溜まりと侮ってはいけない。底なし沼というほどではないが、マンホールほどの大きさの穴の深さが3〜4メートルにも達するという。
 一方、ヤチボウズだが、その名のとおり高さ1メートルほどの坊主頭が草原に点々と並ぶさまはかなりシュールである。実は丸坊主ではなく、長髪もいればモヒカン頭もいる。これはスゲの根っこが未分解物とともに成長を重ね、さらに冬の凍上現象が加わって長い歳月をかけて盛り上がってできたものらしい。 湿原ならではの水のいたずらでできた、マナコとボウズの凹凸コンビ。不気味ではあるが、ちょっとユーモラスでもある。

 

(以上、HPより)

 「谷地坊主」をもう少し詳しく説明したもの。
 川の流域や沢地に、カブスゲやヒラギシスゲといったスゲ類の植物が盛り上がって株をつくります。これがヤチボウズです。
葉は秋に枯れて倒れます。枯れた葉は気温が高いと微生物などに分解されてなくなることが多いのですが、低温過湿の湿原では微生物の活動が活発ではなく、枯れた状態で残ります。
 冬には凍結作用で株ごと持ち上げられ、春には雪解け水が根元を満たして株周囲の土を侵食し、枯草の間から新しい葉や茎が生育してきます。
これを繰り返し、40~50cmの高さに盛り上がります。形がちょうど坊主頭のように見えるので、ヤチ(谷地)すなわち湿地の坊主、ヤチボウズと呼ばれるようになりました。
(この項、HPより)
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初めての台湾。その5

2018-05-08 23:03:28 | つかのまの旅人
                      珠玉の作品が多数、一同に。


        

     

    

つかの間の見学でした。

 最終日は関係者のビルに立ち寄ってお世話になった御礼と帰国の挨拶。
 
 遠くに見える高層ビルは「台北101」。

台北101(タイペイいちまるいち、中国語: 臺北101)
 台北市信義区にある超高層ビル。地上101階建てで、名前はこれに由来する。高さは509.2mで、地下は5階まである。
 7年間の工期を経て、2004年に世界一の超高層建築物として竣工した。設計は李祖原建築事務所、施工は熊谷組を中心としたJVにより行われた。総工費は約600億元。
 2004年12月31日、出入口でオープンを祝う式典が催され、当時の馬英九台北市長と陳水扁中華民国総統も出席してのテープカットが行われた。また、2005年12月31日の大晦日にはこのビルのある市政府で、カウントダウンイベントが行われ、台北101から電飾と共に2分強の間、「節」などから大量の花火が打ち上げられた。(注:この「大晦日の花火打ち上げ」は現在も行われているようです。)
 毎年5月(開催当初は6月)には、このビルの1階から展望デッキのある91階までの2046段の階段を駆け上がる「台北101國際登高賽」レースが開催されている。
 509.2メートルという高さは2007年7月にブルジュ・ハリーファに抜かれるまでは、完成建築物としては世界一高いものだった。全面ガラス張りの近代的建築ながら、輪郭は伝統的な宝塔と竹の節がイメージされている。また、環境設計や安全を踏まえ設計された。例えば、この外面のガラスは8トントラックが乗っても耐え得るほどの強靱さをほこり、さらに、紫外線や熱量を2/3カットする性能を持ち併せ、内部が暖まるのを防ぎ冷暖房を効きやすくしている。
 杭は8本の巨大な柱で、支持層(岩盤)の下30メートルまでしっかり打ち込まれている。風による振動を緩和するために、巨大なTMD(チューンドマスダンパー)が建物上部に設置されている。
 27階から90階にかけて、逆台形をした8階分を一節として、8つの「節」が縦に連なる。24階から27階にかけて、中華圏の昔の貨幣(通貨)をイメージしたオブジェが各方位に設置されている。
 中華圏において8は縁起の良い数字であることから多用されている。

ビルの屋上からの展望。あいにくの雨空。

      

 こうして四泊五日の旅も終了。羽田に午後6時過ぎに到着しました。偏西風に乗って3時間弱。機内食で一口蕎麦が出たので、久々の日本食。

 機会があったら、また行ってみたいと思います。

                   空港ロビーにて。

台湾のお金。 

お土産。

「パイナップルケーキ」。

そして「金魚ちゃんティーパック」。
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初めての台湾。その4。

2018-05-07 21:08:52 | つかのまの旅人
                                 「翠玉白菜(すいぎょくはくさい)」(清)。
                
 翠玉白菜の大きさは高さ18.7センチメートル×幅9.1センチメートル×厚さ5.07センチメートル。
 原石は、半分が白、半分が緑の翡翠(ヒスイ)輝石で、原産地は雲南からミャンマーだと推測される。原石には空洞などの欠陥箇所もあるが、この彫刻ではそれが白菜の茎や葉の形にうまく活かされている。上部の緑色で白菜の色を再現しているが、これは人工着色ではなく、石に元から付いていた色を生かしたものである。このように原料本来の形のみならず、色目の分布をも生かした玉器工芸は「俏色(しょうしょく)」といい、硬玉が中国に普及する清朝中期以降に流行した。清代に本作と類似した作品が数例あるが、そのなかでも翠玉白菜は、新鮮な葉の息吹まで感じさせる瑞々しい造形や、白と緑の対比や緑の濃淡差によって小品とは思えないほどの深い奥行き感をもち、俏色のなかでも最も完成された作品の一つと言える。
葉の上にはバッタとキリギリスが彫刻されており、これは多産の象徴と考えられている。しかし、このキリギリスは学名Gampsocleis gratiosaと呼ばれるものであり、「螽斯篇」(『詩経』の一篇)の「螽斯」の意味とは異なる。この虫は、鳴くことが得意とされており、清の康熙帝の時代から、宮廷で宴会の雰囲気を盛り上げるために用いられていた。したがって、イナゴと同じように子孫繁栄を象徴しているとは解釈できない(『翠玉白菜上の昆蟲研究』洪章夫)。白い白菜の方は純潔の象徴とする説が有力であり、このように解釈すると後述の瑾妃の寝宮から発見されたという史実と整合性が取りやすい。
 現在は木製の台に斜めに立て掛けられて展示されている。しかし、本来は盆景の一部として、四枚の花弁を象った琺瑯の小さな植木鉢の上に、四角い木製の支持具によってまっすぐ立った姿であった。ところが、1925年に故宮博物院が開館する際、当時の展示担当者はこのような組み合わせでは白菜の特質を壊してしまうと考え、また直立する白菜の姿にも違和感を感じたため、簡易な木製の台をわざわざ新規に作らせて現在のような鑑賞形態となった。この琺瑯鉢と支持具は長らく行方不明だったが、21世紀になって再発見され、現在は翠玉白菜の隣に展示されている。・・・
 この彫刻の作者は伝わっていない。
 (以上、「Wikipedia」参照)

 
        肉形石(にくがたいし)
 国立故宮博物院で最も人気のある文物の一つです。素材は玉髄類の碧玉で、石が形成される過程でいくつもの層が重なり色合いのある縞模様が生まれました。自然原石のままの肉部分と無数の穴を開け染色された上部の皮部分との自然と人工の絶妙な組み合わせが見事です。
 冷たく硬い石を柔らかくとろけるような「東坡肉(トンポーロウ、豚の角煮)」に変えてしまうという工匠の巧みな思いつきです。北宋の文学者、蘇軾は黄州に左遷されていた時に「豚肉頌」の中で「肉が煮えるのを自然に任せるのだ。煮上がった時、それは自ずと輝き出す... ... ああ満腹で満ち足りている」と詠みました。また別の宋人は「芭蕉の葉に包んで蒸し、火が通ったら酒をふりかける。黄金色の照りといい、箸がふるえる柔らかさ」と豚肉を調理する詩を残しています。
 「肉形石」は中国人の玉文化だけでなく、食文化の特色をも表しています。「この世の美しい物が、私を食いしん坊にしたのだ。」と蘇軾が言うのも無理はありません。
 どうです?この石を見るとお腹がすいてきませんか?
HPより)

 この肉形石は、もとは紫禁城の「養心殿」に陳列されていた。「養心殿」は、雍正帝(1678年―1735年)以降の皇帝の執務室であるとともに寝室である。1924年(民国13年)に清朝最後の皇帝の溥儀が紫禁城を追われた翌1925年、故宮に遺された文物を点検する清室善後委員会のメンバーが、この肉形石を見て、あまりに豚肉にそっくりなため、「豚肉の化石」と目録に記したというほどのエピソードが残る。
(この項「Wikipedi」より)

 二つともすごい緻密な造形美です。感動! いくら見ていても飽きません。

「パンフレット」表紙。

館内を現地のガイドさんの日本語による案内で回ります。

「璧」。
 璧(へき)は古代中国で祭祀用あるいは威信を表すものとして使われた玉器。形状は円盤状で、中心に円孔を持つ。表面に彫刻が施される場合もある。

 精緻な作品群。

           

  「象牙透彫雲龍文套球」。
 象牙細工。わずか直径12センチほどの球の表層には精巧な9匹の龍の彫刻が彫られ、その中には透かし彫りの幾何学文様が施された24層の球体があり、各層自由に回転させることができる。

中国では宝石を「玉」と称しています。

「翡翠」製。
                      
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初めての台湾。その3。

2018-05-05 20:49:57 | つかのまの旅人
                 衣料品チェーンストア「しまむら(日本思夢樂)」の開店広告。台湾には40店舗以上、展開しているとのこと。

「振り込み詐欺」の注意喚起の宣伝も。「防詐騙」。
           台湾でも社会問題になっているようです。
 
 「北投」地区には温泉があります。そこで昼食。張学良が幽閉されていたところのようです。どんどん山道を上っていきます。


 

張 学良(ちょう がくりょう、1901年6月3日 - 2001年10月14日)
 中華民国の軍人・政治家。張作霖の長男。字は漢卿。軍人時代の最終階級は国民革命軍一級上将。
 1901年、張学良は当時満州地方(現地名:遼寧省台安県)の馬賊であった張作霖の長男として台安県桑樹林子郷にて出生。
 満州の奉天軍閥、父・作霖と共に大日本帝国に協力的であった。当時、奉天軍閥には2つの派閥があった、一つは楊宇霆ら馬賊時代からの側近からなる派閥であり、もう一つは張学良、郭松齢ら東三省講武学堂を卒業した若手の派閥である。そんな中、張作霖の親日的態度に不満を持った郭松齢が反旗を翻すと、説得に赴き、郭が捕らわれてもなお寛大な処置を求めていた。やがて郭松齢が楊宇霆によって処刑され、その死体が晒されたと知ると、楊を激しく憎む。彼の軍も張作霖直轄軍に加わり張学良は名実共に張作霖に次ぐ実力者となった。
 1928年6月4日、父・作霖が関東軍の河本大作による張作霖爆殺事件により死亡すると、張学良は側近達の支持を取り付け奉天軍閥を掌握し、亡父の支配地域・満州を継承した。 当時、蒋介石率いる北伐軍が北京に駐留し奉天軍閥との間に緊張が走っていたが、易幟(青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明すること)することを条件に満州への軍事・政治への不干渉を認めさせ、独立状態を保つことに成功する。
 1929年1月には、以前より対立していた楊宇霆ら旧臣たちを反逆者として処刑し権力と地位を不動のものとし、富国強兵策を採り軍事、金融、教育などの近代化を進めた。彼は次第に自信を深め、同年7月にはソビエト連邦が保持していた中東鉄路を接収したことをきっかけに武力衝突を起こし大敗した(中ソ紛争)が、国民党系軍閥らの争いに介入して勢力を伸張し河北省を制圧、蒋介石に次ぐ実力者と目されるようになった。
 1931年満州事変が勃発した時、彼は北平にいたが、日本軍侵攻の報告を受けると日本軍への不抵抗を指示した。これは国共内戦のため対日戦に兵を割く余裕が無かったことと、日本が全面戦争に踏み切るとは予期していなかった為である。ところが、日本は満州全域を占領したため、抗戦を主張した汪兆銘は張を批判し、張は「不抵抗将軍」と内外で蔑まれた。
 1936年共産党と「抗日救国協定」を結んだ。12月12日、張学良と楊虎城は西安事件を起こして蒋介石を拘束し、第二次国共合作を認めさせた。
 1936年12月25日に反逆罪により逮捕され南京に連行、宋子文公館に幽閉された。西安事件は蒋介石暗殺の危険性があった重大事件であり、国民党は張を軍法会議にかける事に異議はなく、傅斯年などは張を極刑に処すべしと主張していた。
 1945年に第二次世界大戦に日本が敗北した後の国共内戦において、国民政府は中国共産党との内戦に敗れ、1949年に台湾島に逃れたが、この際に張も台湾に移され50年以上も軟禁され続けた。蒋介石の死後、次第に行動の自由が許されるようになる。
 1980年代後半には、李登輝によって戒厳令が解かれた中華民国の民主化を象徴する形で対外メディアとの接触が許され、事実上軟禁状態が解かれた形となった。
 1990年にはNHKの取材を受けたが「西安事件の真相についてとは証言はできない」とする態度を崩さなかった。日本については「私は一生を日本によって台無しにされました」、「日本ははっきりと中国に謝罪すべきだ」と述べ、靖国神社問題については、「日本はなぜ東條のような人を靖国神社に祀っているのか。靖国神社に祀られる人は英雄である。戦犯を祀るのは彼らを英雄と認めたからなのか」と批判している。一方で「中国が日本より遅れているのは事実だから、中国を兄とは見なくても弟分と見て、その物資を用いるために力を貸してくれればよかった。しかし昔の日本は、中国を力で併合することしか頭になかった」と主張している。同時に青年期にアヘン中毒であったとも語り、「父を殺され故郷を踏みにじられた怒りにより、禁断症状の苦しみを克服できた」と振返っている。
 張学良は中華人民共和国から余生を送るよう丁重に招請されるが、これを拒絶した。その後、1991年に釈放され、アメリカのハワイ州ホノルル市へ移住した。1994年の陸鏗のインタビューに対して、張は「(西安事件に関して)私がすべての責任を負っています。しかしまったく後悔はしていない」と断言している。そのままホノルル市に隠棲し、2001年に死去。100歳没。

西安事件
 1936年(民国25年)12月12日に中華民国西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石拉致監禁事件。中国では西安事変と呼ばれる。事件収束に至る真相の詳細はいまだ不明だが、この事件によって、その後の共同抗日と国共合作が促されたとされる。


                      

「小帥禅園・台北北投張学良軟禁旧居」。
 小帥禅園は1920年代に建てられ、元々「新高旅社」と呼ばれて北投の温泉区でも名高かった。また、第二次世界大戦のとき、日本軍に神風特攻隊が出陣前の接待所として使われていたのです。1960年代、中国東北出身の若い将軍張学良と婦人趙一荻氏が一時期ここで軟禁されていた。・・・

一般的な中国料理よりもあっさりいています。

そこからの眺め。

風光明媚な土地です。

昼食後、「故宮博物院」の見学に赴きます。


「国立故宮博物院」。
 フランスのルーブル、アメリカのメトロポリタン、ロシアのエルミタージュと並んで世界四大博物館のひとつに数えられています。故宮博物院には、およそ70万点近くの収蔵品があると言われていますが、常時展示している品は、6000~8000点。特に有名な宝物数百点を除いては、3~6カ月おきに、展示品を入れ替えているため、すべてを見て回るには、10年以上はかかると言われています。
 コレクションは、玉器は8000年前のものから、5500年前の新石器時代の翡翠の彫り物、4400年前の陶器、3300年前の青銅器・象形文字、2200年前の秦の始皇帝の時代、さらに隋、唐、宋、元、明、清の歴代宮廷の収蔵文物を継承し、その内容も数も極めて豊富です。中国芸術文化の集大成!
 中華民国は、建国13年目に清朝を退位した溥儀皇帝を紫禁城から追放し、1925年10月10日、紫禁城を故宮博物院として正式に設立させました。この時から、歴代皇室と宮廷が所蔵していた世にも稀なる貴重な文物は、中華文化遺産として永く後世に伝えられることとなり、鑑賞できるようになりました。
 また、南京に設立された中央博物院籌備処の文物は、1937年11月、戦火を逃れるため水路により西の重慶へ移され、1939年には昆明、楽山にそれぞれ運ばれた後、四川省南渓の李荘に安置されました。が、1945年8月、日本が降伏すると、奥地に移されていた中華文物は、再び全てが南京へ運ばれました。
 1948年の秋、国共内戦の結果、蒋介石率いる国民党中央政府は、故宮博物院および中央博物院籌備処の優れた文物を台湾へ移すことを決定。同年末、第1陣の文物が南京を出発し、海路により基隆に到着、翌年には第2、第3陣の文物も合わせ、全部で2972箱が台湾に運ばれました。しかし、これでも北京から台湾まで南遷した文物は全体の22%に過ぎませんでした。しかし、そのうち852箱の中央博物院所蔵の文物は、そのほとんどが逸品で占められています。
 2016年12月から、館内で写真撮影がOK! ただしフラッシュの使用は禁止。
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初めての台湾。その2。

2018-05-02 20:45:32 | つかのまの旅人
                  赤煉瓦が映える「中華民国(國)総(總)統府」。

 日本統治時代の1919年に完成した建物(設計:長野宇平治)で、台湾総督府として利用されていた。
第二次世界大戦末期のアメリカ軍による空襲によって内部が全焼し、中にいた職員の多くが死傷、建物も大きく破損した。世界大戦終結後に台湾へ進駐した中華民国政府が接収し、修復を行ったため1948年に元に戻った。その後蒋介石総統生誕60周年を記念し「介寿館(介寿とは蒋介石の長寿を祝うという意味)」と名を改めた。
 翌1949年、国民党が国共内戦の際、中国より追われる形で台湾に中華民国の首都機能を移転。以降、中華民国の総統府として利用されるようになった。現在、文化資産保存法により国定古蹟として登録されている。
 上空からの写真では日本の「日」に見える。
(以上、「Wikipedia」より)
注:長野宇平治
 辰野金吾の弟子として知られ、数々の銀行建築を残しました。「日本銀行本店本館」(1896/明治29年)が現存し、国の重文として登録されています。

 この建物は、もと「台湾総督府(日清戦争の結果、清国から割譲された台湾を統治するために設置された日本の出先官庁)」の建物。
 台湾総督府は、明治28年(1895年)4月17日に調印された下関条約によって、台湾及び澎湖列島は日本へ割譲され、日本は台湾を領有することとなった。同年6月17日、台北において始政式が行われ、台湾総督府による台湾統治が正式に開始された。
 ただし台湾総督は内閣総理大臣の、さらにのちには内務大臣や拓務大臣などの指揮監督を受けることになっており、宮中席次でも朝鮮総督が第6位なのに対して台湾総督は親任官として第11位と、陸海軍大将や枢密顧問官よりも地位が低かった。
初代総督は樺山資紀で当初は陸海軍の将官が総督を務めた。児玉源太郎総督の下で明治31年(1898年)に民政長官に就任した後藤新平は、土地改革を行いつつ、電気水道供給施設・交通施設情報施設などを整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業を育成することにより台湾の近代化を推進し、一方で統治に対する叛逆者には取り締まりをするという「飴と鞭」の政策を有効に用いることで統治体制を確立した。
 昭和20年(1945年)10月25日の中国側への降伏調印式において事実上その職権を停止。以後業務を台湾地区日本官兵善後連絡部へ引き継いだ。昭和24年(1949年)6月1日に新憲法に基づく国家行政組織法が施行され、これにより台湾総督府は法制上も消滅した。
 初期の台湾統治は、現地居住民の抵抗運動を抑圧する必要性から、軍事力を前面に打ち出した強硬な姿勢で行われた。この頃の総督には行政権と司法権、そして台湾駐屯の陸海軍の指揮権はもとより、六三法によって特別立法権までもが付与されており、この統治四権を一手に握る総督の権限は絶大なものだった。
こうした事情から、この時代の総督に任命された樺山資紀・桂太郎・乃木希典・児玉源太郎・佐久間左馬太・安東貞美・明石元二郎の7名はいずれも現役の大将または中将で、初代総督の樺山を除いてそのすべてが陸軍出身者で占められている。
 そうした中で、第4代総督の児玉の頃から変化があらわれはじめる。長期にわたり総督として腰を据え、体系的な政策を必要に応じて展開、いわゆる「飴と鞭」の硬軟を使い分ける方針で台湾を包括的に支配することに成果を上げ、統治に安定がもたらされたのである。第6代総督の安東と第7代総督の明石は特に現地居住民の権益を保護する政策を実施したことで知られる。総督在任のまま死去した明石は、その任期こそ1年5か月にも満たない短いものだったが、遺言により台湾に墓地が築かれた唯一の総督でもある。
 その明石が総督のとき、総督の下にあった台湾軍の指揮権を台湾軍司令官に移譲したため、以後台湾では文官でも総督になることが可能になった。
 台湾の統治方式が抗日運動の鎮圧から経済の構築による社会の安定に転換したのがこの時期にあたる。
 二・二六事件は陸軍の青年将校が起したものだったが、事件後の綱紀粛正の名のもとに海軍からも大将2名を予備役に編入することになった。この貧乏くじを引いたのが連合艦隊司令長官を退任したばかりの小林躋造海軍大将で、その処遇のために彼を台湾総督にしたのは当時の新聞が「異例中の異例人事」と評するほどの驚愕人事だった。
 小林は在任4年半の間に現地人の皇民化政策を推進したが、ちょうどこの頃に海軍の南進策が国策として固まったことから、次の台湾総督も海軍出身者をということになり、長谷川清海軍大将がこれに決まった。この長谷川もそろそろ予備役に編入されておかしくない年齢だったが、台湾の軍事拠点化を推進するという建前もあって現役のまま総督に就任、ここに武官総督が復活することになった。
 太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった昭和19年(1944年)暮、人材の不足や台湾決戦を想定して指揮系統を一本化するという名目のもと、第10方面軍司令官の安藤利吉陸軍大将に台湾総督を「兼任」させられると、前期総督と同等の強大な権限を持つに至った。一方で台湾人にも帝国議会の選挙権や被選挙権が与えられるなど、日本人との台湾人の関係対等化も進んだものの、翌年の終戦によって、台湾総督府も閉鎖機関に指定され、解体されることになり、昭和20年(1945年)10月25日、台北公会堂で安藤は陳儀中華民国台湾省行政長官との間に降伏文書を交わし、半世紀にわたった台湾総督府の歴史に幕を引いた。
(以上、「同」参照)

 翌日、翌々日とお祝いの行事が続き、台湾の方々とも親しく交流できました。
 23日にはじめて台北市内を案内してもらいました。

「総統府」前の大通り。

「台北賓館」。
 日本統治時代の明治32年(1899年)に起工し、明治34年(1901年)に完成した。もともとは台湾総督の官邸として建てられた。設計は当初福田東吾と野村一郎が担当し、後に森山松之助も設計に携わった。
建物はバロック風の二階建てで、庭園は日本風である。
 日本統治時代においては、台湾総督の暮らす住居と執務の場である官邸であった。また、迎賓館としても使用していたため、内装は豪華絢爛で、皇太子時代の昭和天皇をはじめ、数々の要人が宿泊した。
 もっとも、住居としての使い勝手は、必ずしも良くなかったことから、この官邸を使用することは次第になくなり、田健治郎(第8代台湾総督)の時に、総督の日常生活を行う住居として数寄屋造りの別館が新設され、総督の公邸として使用された。
 第二次世界大戦の終結後、建物は中華民国に引き渡され、以降迎賓館として使われるようになった。
 日華平和条約はこの台北賓館で1952年4月28日に調印された。(「同」)

「景福門」。

 

「中正紀念堂」。
 初代総統である蒋介石の顕彰施設。
 中国の伝統的な宮殿陵墓式が採用されている。中正紀念堂の「中正」とは蒋介石の本名である。
 蒋介石生誕90年に当たる1976年10月31日に起工式が催され、1980年3月31日に完成した。蒋介石逝去5周忌の4月4日に併せて落成式が盛大に行われ、海外の3000名余りの華僑・華人が参加し、翌4月5日に一般公開された。
 民進党政権下での「台湾正名運動」の影響で、2007年には「台湾民主紀念館」に改名され、入り口の門に書かれた「大中至正」の文字が「自由広場」に架け替えられ、儀仗隊交代式が中止していた時期がある。国民党が政権復帰した2009年に、再び元の「中正紀念堂」に戻る(ただし、「自由広場」はそのままである)。

蒋介石座像と儀仗隊。
                                    微動だにしない儀仗隊。
中国大陸を望んでいる。

 敷地面積は25万平方メートルに上り、日本統治時代の山砲隊、歩兵第一連隊の軍用地跡地である。敷地中には本堂のほかに国家戯劇院や国家音楽庁、公園広場、休息所や回廊、庭園、池(光華池・雲漢池)なども併設されている。本堂を始めとするこれらの施設は市民達の憩いの場となっている他、公園広場は政治的な集会の場として使用されることも多く、特に1987年の戒厳令解除後には学生運動やストライキの集合地点としてしばしば使用された。


                               

 敷地の東側に位置する紀念本堂の面積は約1万5千m2で、建物の高さは70mにも及び、西にある中国大陸を臨むように設計されている。本堂正面には高さ30メートルの大中至正門と他2つの門があり、その内部はメインフロアと地階に分けられている。メインフロアの奥には巨大な蒋介石の銅像が設置されており、銅像の上部には蒋介石の基本政治理念であった「倫理、民主、科学」という三民主義の本質が、像の土台には蒋介石の言葉がそれぞれ記されている。日中は像の両脇で儀仗隊が警護しており、1時間ごとに交代の儀式が行われる。なお、フロアの天井の最上部には国章である「青天白日」の徽章が描かれている。
 午前6時30分に儀仗隊が中正紀念堂に進駐し、午前9時より警護及び毎時交代儀式が行われている。儀仗隊交代式は台湾観光の名物となっている。なお、儀仗隊の交代儀式は、水曜日は午前10時から午後6時まで、それ以外の日は午前10時から午後4時まで、1時間ごとに行われている。
 蒋介石を追悼する場であると同時に、中国文化・精神と中華民国の思想(イデオロギー)を示す場でもあるため、建物の各部分が様々なテーマに基づいて設計されている。

左右にスローガン。 

「青天白日」の徽章。

 1時間毎に行われる儀仗隊の交代儀式は台湾観光の名物らしい。
 

 交代終了、まるでろう人形のような気配には驚き。
 



                     

北側から。

通りは南国の趣き。

    

 そのあと、「国家文創礼品館(原台湾手工業推広中心)」で民芸品を見学しながらお土産を。通りに出るとなにやら抗議? 集会が。
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初めての台湾。その1。

2018-05-01 21:08:04 | つかのまの旅人
                                  4月20日 台北(臺北)松山空港(機場)。

台北市内案内図。

 久々の外国。お祝い事があって、初めての台湾。行事が続いて市内見物は一日半のみ。時差が1時間なので、アメリカの時とはだいぶ楽です。天気も日本の同じ時期に比べて蒸し暑いですが、それでも体調はよし。
 最終日には雨に降られましたが、薄曇りの中での台湾です。
 漢字圏なので会話は無理ですが、看板や標識は何とか分かりそう。旧字体なのがちょっと大変。
 日本語表記に漢字、ひらがな、カタカナと三種類あるのは、実に恵まれている、と実感。何しろ外来語をカタカナで表示できるのはいいです。「ブリヂストンタイヤ」「ファミリーマート」などはそれぞれ「普利司通輪胎」、「大家」(これはうまい表現! )「セブンイレブン」は日本と同じロゴで表示。
 漢字でも「歯」が「牙」だったりして。余談ですが、バスから通りを眺めていると、けっこう「歯医者(牙醫診所)」が目に付きます。「植牙」はインプラントでしょうか? 地元の方に聞くと、歯並びなどにはけっこう気にしていて、小さい頃から矯正歯科に通わせるそうです。
 そういえば楊枝も歯間ブラシのようなものになっています。

 質屋(金貸し)は「當舗」といい、店には大きく「當」という漢字が出ています。そういう店がけっこうたくさん。日本の質屋と違う所は、両替として利用されている所もあるということで、台湾を観光される方などは「當」で両替される方もいるようです。
 汽車(ちー・ちゃー)屋さんが多いのにも驚き。車の整備からタイヤ販売などいたるところに店を構えています。バイクも大型ではなく、かつてのホンダのカブを大きくしたバイク(二人乗り)がたくさん。それも三人乗りして車の中を縫って走っています。交差点では何重にも列をなして停まり、信号が変わると、一斉にスタートする光景は日本ではほとんど目にしなくなっています。


 その分、自転車はあまり見かけません。けっこう上り下りの多い町のせいかもしれません。ところどころに「レンタル自転車」でしょうか。同じ自転車が何台も置いてあります。
            

「行天宮」。
 台湾の台北市中山区に位置する関帝廟。多いときで1日に2万人以上が訪れるとされる、台北地域でも人気の高い寺院・観光地のひとつである。
 1949年に基隆炭鉱の所有者であった黄欉(こうそう、1911年-1970年、行天宮では「玄空師父」と呼ぶ)によって、台北市九台街(現在の林森北路)にて建てられた。当時は規模が小さかったが、この地に国民中学が建設されることとなり1968年に現在地に移転した。
 黄欉は福建省泉州出身の所謂外省人であり、当宮は本来、閭山派正一教という道教の一派がルーツであるとされるが、既に彼が居た時代の福建省では仏教や儒教などと習合した「福建道教」に変化しており、更に第二次世界大戦や国共内戦を経た台湾に至って、「台湾道教」とも呼ばれる独特の多様性を持つ民族宗教に発展した。祀られているのは関羽(關雲長)、呂洞賓、張単(張單)、王善、岳飛の「五恩主」である。
宗旨は「広推行道徳教化」「不偏於功利取向」「不帯有商業色彩」「不迷信人間偶像」。
(以上「Wikipedia」より)



                   昼食会場「圓山大飯店」。


 台湾台北市に位置する中国建築が特徴のホテル。剣潭公園に隣接し、台湾神宮の跡地に建設されており、台北のランドマークになっている。
 日本統治時代、剣潭山に建立されていた台湾神宮の跡地を利用して建設された。建設に際しては龍の彫刻を多用し、龍宮との異称を有す。また龍以外にも石獅、梅花をふんだんに用い、中国建築の特徴を前面に出した装飾となっている。
 またこのホテルでは地下道の存在も有名である。過去において円山大飯店が政治色が強いホテルであったため、蒋介石総統時代、長さ180mの地下道が建設された。1963年の改築の際には東西2本の地下道が設けられ、滑り台も設置された。地下道はホテルから剣潭公園と北安公園に連絡しているが、現在一般公開はされていない。
 開業当初は世界に冠たる中華民国一のホテルという方針で日本語はおろか英語によるサービスすらしようとしなかったが、現在は経済発展によるビジネス主義への転向と国内外の政情の変化により英語、日本語によるサービスを受けることが出来る。
(「同」より)

そこからの眺め。

                流れは「基隆河」。

 
「台湾ビール」に「紹興酒」、焼酎と飲み物も豊富。これから帰国するまでしっかり中華料理を堪能します。

ホテルに到着。「首都大飯店(キャピタルホテル)」。

 食事をそれぞれ異なるホテルなどで食べましたが、どこも禁煙なこと。ホテルのロビーも当然、禁煙。外のテントに喫煙所が指定されています。もちろん食事場所では禁煙。日本よりもはるかに禁煙が徹底しているのに感心します。
 
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