おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

たそがれのスカイツリー

2010-05-31 19:51:45 | つぶやき
 何だか落ち着かない天気が続きます。暑さ、寒さの変化が大きくて、体も心もついていけません。今日は少し晴れて気温も上昇中。でも、場所によってはにわか雨もありそうだ、とか。花粉症も普通なら5月の連休明けには落ち着き、薬も手放せるのに今年はそうもいかずにいる人も多いよです。梅雨入りの声も聞こえてきてもいい頃、明日から6月です。久々のスカイツリー。展望台も形が出来てきて、ますます頭上高くなっています。
 黄昏時。誰か彼か見分けが付かなくなる時分。政治の世界も入り乱れ、民主党も早黄昏時を迎えつつあるかのようで・・・。
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夕焼け空

2010-05-27 23:56:32 | つぶやき
 今日の午後、突然バケツをひっくり返したような大雨。新宿駅の改札口付近では途方に暮れた人々が空を眺めています。ホーム。ものすごい音で屋根をたたき、線路に激しい水しぶきを上げています。雨漏りでしょうか、ホームの一部が激しい水の流れに・・・。あわてて乗った電車、今度は人身事故でのろのろ運転。降り立った国立。雨の跡もくっきり、でも空には青空が広がっていました。
 そして夕暮れ時。新宿の高層ビルから眺めた夕日。雲の間から漏れる太陽の光が素敵でした。
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京王線・南大沢駅前のアウトレット!

2010-05-18 23:29:35 | つぶやき
 京王線に乗って「南大沢」まで。降りたってびっくり。何と華やかな駅前のコンコースか
アウトレットまであって、何とギリシャの神殿のような柱の張りぼてが。ペンキも何だか安っぽい感じでしたが・・・。けっこうはやっているのでしょうね。駅の南側も大きなテナントビルがあって、実に新興駅前という意気込みが?
 実は、このアウトレットの向こうに見えるのが、「首都大東京」かつての東京都立大学。イシハラさんの肝いりで新傾向の大学に変身!立派な建物が建っています。でも、目の前のアウトレットのまがいものさと何となくマッチしている、これじゃ、学ぶ学生もどう思われているか・・・。
 京王線沿線。多摩ニュータウンという壮大な開発に伴って延長開発されたとか。このあいだ亡くなった元都知事・鈴木さん肝いりの一大開発事業だった、このニュータウン。今では立て替えやら入居者の高齢化やら、何かと課題も多いようですが。
 もう一つ、始めてみてびっくりしたのが、サンリオ何とかのまがまがしい建物。南大沢よりちょっと手前の駅にあります。何ときらびやかな、というかセンスのない建物か、なんてファンの方には申し訳ないですが。あの建物の内外には、キティちゃんもさぞ大きく大胆に存在しているのでしょうね。
 いやはや、郊外の駅の近くには、驚くような雰囲気の施設がたくさん出来ているのですね。これじゃ、「よみうりランド」なんて問題外になっていくのも、納得!  
 そういえば、こんところ、このブログ、めっきり訪問者も減ってきてしまっている。この南大沢駅周辺のように、何とあっと引きつけるような企画と装いが、求められている感じです。
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久々の宮崎

2010-05-17 20:18:37 | つぶやき
 十数年ぶりに宮崎の日向市に出かけました。お祝い事に出席のためです。今、宮崎は口蹄疫の猛威の中、畜産業が壊滅的状況になってしまっています。宮崎空港から特急にちりんで一路北へ向かいました。
 日向市駅に着くまでの約1時間。車窓からは日向灘が見え、明るい日差しに海が遠くまで光っていました。温室栽培も沿線一体に広がり、田植えも済んで稲が伸びて、大きな屋敷の庭にはたくさんの大きな鯉のぼりがひるがえり・・・。いたってのどかな田園風景が広がっています。
 でもよく目を凝らしながら外を眺めていると、牛舎らしき建物はありますが、牛の姿がまったくない。そんな建物をいくつか見かけました。速いスピードで走っている車窓からですから、しかと確認できたわけではありませんが、日向が着いてそのことを知人に話すと、ここから南の方が壊滅的だと聞きました。あれらが、その一部なのかと思います。
 駅のホームで売っている地元の新聞でも大きく扱っています。東京でのテレビや新聞からではなかなか分からない、深刻な事態が進行している・・・、義援金も集まってきているとか。
 生き物の生きているはずの姿がない、ちょっとショック。馬は平気なのでしょうか、乗馬クラブがあって、そこには馬の生き生きとした姿があっただけに。命あるもの、動くものが動かなくなってしまった、死んでしまうことほど切ないものはありません。
 しばらくすると、海側に一本の長い直線の軌道がずっと続きます。リニアモーターカーの実験線だった。山梨にその役割を移されて、そのまま放置?結構長く続きますが、太陽光のパネルが線路上に置かれてあったり(これは何かの実験なのでしょうが)、コンクリートも薄汚れたままで、雨風にさらされている様子でした。このまま、朽ちていくのでしょうか。撮りたかった写真ですが、高速で走る電車からでは無理でした。
 線路は単線で、駅によってはホームがすでに使われなくなって、線路も外され、小さなお花畑のようになっている駅の光景も目につきました。写真は、すでに使われなくなった線路と動かなくなって放置された気動車。
 帰り。空港の近くに、「宮崎特攻基地慰霊」の大きなモニュメントが見えました。宮崎空港は、かつての基地。ここから特攻隊が帰ることの出来ない突撃に出発したそうです。「鎮魂碑」というものでしょうか、ここにもまた若くして、命を捧げた人たちがいた・・・。生きとし生けるもの、それらが若くして命を終える、おおげさですが、人の命、生き物の命を感じた旅でした。
 大きな犠牲を払う代償として、何とか穏やかな平穏な暮らしを取り戻してほしい、とも。もともと「海幸山幸」の国土なはずですから。他人事ではなく、何か出来ることはないだろうか。 

使われなくなったホームとお花畑 
大淀川の流れ
ちょっとレトロな列車「海幸山幸」号
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つぶやきをいくつか

2010-05-15 23:36:40 | つぶやき
 おだやかな日差しです。そこで(関係ない?)ぼそぼそつぶやいてみます。
その一 「照り返し被害」という補償というか、被害を受けないようにする建築基準ではないのでしょうか?
 今の勤め場所。午後2時を回る頃になると、部屋が明るくなります。東隣の高層ビルのガラス窓に反射する西日。その明るさ、強烈さは、ひとたび目を向けたら、一瞬で目を焼かれるようです。仕事をしている時には、いちいち目を外に向けることもありませんが、いったん外出して戻るとき、訪問された方などぎらついた火の玉に一瞬ドキッ!
 以前の勤め先。ちょっと離れた東側は駐車場で、空も見えて開放感のある窓の外の景色でした。ある日、高さ100㍍もあるような高層マンションが建ちました。西側は、ほとんど窓ガラス。西日がもろに当たるので、さぞかし住民の方は大変だろうな、くらいに思っていました。
 秋口になって様子が一変、日が西に傾く頃になると、一気にこちらの部屋の奥まで明るくなりました。反射した西日のためです。目を向けると、焼けた太陽がくっきりと赤黄色に映っています。
 そんな経験をまた思い出しました。もう何㍍も離れた廊下側の壁も窓状に明るくなって、刻々と南に移りながら広がっていきます。ま、カーテンを閉めればいいのでしょうが、何でこちらがそうしなければならないの? 勿論相手はしっかりカーテンを閉めています。
 日照権のことは話題になりますが、照り返し被害というはないでしょうね。もしかしたらこのビル。西の窓に映る西日で、西側の方にも迷惑をかけているのかもしれません。
その二 あれ!校長先生たち、この時間から飲み屋に行くって、許されるのでしょうか?
 昨日、とある用事があって、ちょっと下町に出かけました。疲れて信号待ちをしていると、向こうから五人連れ。中年の男女。その中の女性、どこかで見た顔だと思っていると、この辺りじゃちょっと有名な公立校の校長先生のよう。午後6時前。日は西に傾いているとはいえ、まだまだ明るい日差し。
 勿論、勤務時間も終わっているのだから、別にどこに行こうと自由です。でも、まだ学校の方からはクラブ活動の声がしているし、けっこう先生方も残っているに違いない。受験勉強などで生徒も残っているし・・・。
 その中の一人がそのまま帰ろうとすると、「あれ、飲みに行かないんですか」と一声。そうして、男連中を引き連れるようにして、さっそうと通りを向こうに渡って行きました。
 先生たちは飲むのが大好き、とはいうものの、校長先生自ら飲み屋に誘う、とはなかなかいい度胸です。連れの男達は、見たところ、どうも教育庁の役人のようす。嬉嬉として付いていきました。
 そこではどんな話が出るのでしょうか、この時間から飲むのですから、さぞかし友好的なメンバーなのでしょう。学校の生徒や先生方にとってプラスになるならいいでしょうが。
その三 ケイタイっていつもいつも持ち歩いている必要はあるのでしょうか?
 ケイタイも財布もしっかり家に忘れて、出勤しました。気がついたときには、もう遅い!電車は乗れるし、昼飯はチケットだし、出かけるところもないし、ま、いいか。でも、職場の親睦会費の封筒が、回って来たのには参りました、スイマセン小銭がなくって。
 そんなことで何となく落ち着かず、やっと長い勤務時間が終わって帰ってきました。その車中で大事なことを思い出しました。今日は家人が外出するって言ってた!
 このまま帰っても、家には入れない、外の雲行きは怪しいし、夕飯も食えない、これは困った! 時間を見ると、もう家を出てしまったはず、その前に電話をしておけばよかったと思っても後の祭り。
 そこで、出先に寄ってカギを貰って帰るしかない、ちょっとみっともないな、ケイタイを忘れて電話もできないし(公衆電話もかけられない)しかたなくそこへ回り道しました。運良くちょうど着いたところ、あきれた顔をされながらもカギを預かり、ようやく家に着きました。
 ケイタイも気になっていましたから、何しろ一日中切ってあったのです。連絡がつかないなあ、とおしかりの、嫌みの伝言、着信でもあるのではないか。恐る恐る電源を入れて確認すると、まったくゼロ。何の電話も入っていなかった!ちょっと拍子抜けです。でもそんなものなんですね。よほどのことがない限り、必要はないような、と。
 家か職場かには、必ず私はいるのですから、いざとなったら、何とか連絡はつけられるもの。つけられなければ、それでけっこう、その程度の内容しかかかってこない、かけない、というのが、私にとってのケイタイの、正直なところのようです。
 暇に任せてメールを送ったり、着信記録をのべつまくなしにチェックしたりなどなど、たしかにケイタイに振り回されがちだったことを反省! でも、写真を撮る機能は、大事にしたいものです。
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高架工事が進む京成押上線

2010-05-14 23:41:17 | つぶやき
 ちょっと前の写真。京成押上線の八広、曳舟間(写真の左手が上り線)。この辺りに「向島駅」があって、そこから京成白髭線が分岐、玉の井の方面に向かっていました。左手の線路際の柱がその向島駅の跡? 右手からカーブして今の墨田特支と公園を横切って進んだわけです。
 写真付近も通る度にどんどん工事が行われています。曳舟駅も下りが仮ホームになったと思ったら、今度は上りの仮ホームの建設が進んでいます。線路が敷かれたり、外されたり、2本になったり、3本になったり・・・。東武亀戸線の高架橋付近でも仮線路が工事中。
 もうこの写真の辺りもずいぶん変わっています。そして、「向島駅」も歴史の彼方にきえていくのでしょう。
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初めての渋谷駅新南口から

2010-05-12 23:19:56 | つぶやき
 JR渋谷駅は、ハチ公前かかつてプラネタリウムがあった方の出口しか知らなかった私。始めて新南口から降りてみました。
 山手線ホームを降りて表示通りに進みます。何だかとてもとても長い!途中で歩く歩道があったり、階段があったりただただ南に向かって行く。途中ではホームに。ここは、埼京線、成田エクスプレスが発着する、まさにお上りさん気分でした。延々、やっとエスカレーターから外へ出ます。そこは、道玄坂方面とはうって変わって、ほとんど華やかさのない街並み。
 線路伝いに行くと、オフィスビルのそばには、昔ながらのしもた屋が並び、いかにも時代を感じさせる東横線のガード。並木橋には銭湯までありました。都営住宅やら大きな都バスの車庫やら空き地やら・・・、そしてやっと広いメインストリートに。ここまで来ると、ちょっと華やかさが取り戻された。
 目的地は、國學院大學。上り坂を行くと、渋谷駅の東南。確かに渋谷駅付近は、谷筋の底に当たっていることがよく分かります。「春の小川」の舞台であったところとは思えませんが。
 國學院。右手に神社が鎮座して「月次祭」の看板が出ている向こうに、鬱そうとした林の奥。通りすがりの職員が一礼していくのが由緒正しい礼儀なのでしょう。
 モダンな建物に囲まれて存在感のある神社でした。神道科に行き、卒業した、それまで無縁だった知人の息子は今どうしているのでしょうか。写真は、モニュメント。
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遅ればせながら初めての西武多摩川線

2010-05-11 22:44:27 | 鉄道遺跡
 ずいぶんと昔(昭和40年代前半)、国鉄時代。中央線武蔵境駅から出ていた西武線を横目で眺めながら通ったものだ。
 今、高架工事もほぼ終わって、武蔵境駅も様変わり。西武多摩川線も同じように高架になって、線路や駅舎は立派になったが、車両は何だか古めかしいまま。「春」にちなんだラッピング車両が走っていたのが興味深かった。
 この線。多摩川河原で採取した川砂利を運搬する目的で、1910(明治43)年8月に設立された多摩鉄道によって開業した路線。また戦中は中島飛行機の工場への引き込み線があり、沿線工場への貨物輸送にも利用された。
 1917(大正6)年には、境(現・武蔵境) - 北多磨(現・白糸台)間、1919年に北多磨 - 常久(現・競艇場前)間、1922年に常久 - 是政間が開業した。
 1927(昭和2)年に(旧)西武鉄道に合併され、同社の多摩川線となった。1950年に電化され、1967(昭和42)年に貨物輸送を廃止した。
 その後、アメリカンスクール、多磨霊園、多摩川競艇場のアクセス路線として活用されてきた。近年には沿線の宅地化が進み、また東京外国語大学、警察大学校、警視庁警察学校が多磨駅に近い関東村跡地に建設されたことから、輸送需要が増えつつある。
多摩川線は路線名の変遷が激しい。旧西武鉄道に吸収されとき、路線名は多摩線と呼ばれる。その後、路線名は是政線と名称変更され、後に更に武蔵境線と変更、そして現在の多摩川線に変更されて今に至っている。
 ワンマン運転を実施していて、運転士がドアスイッチを操作してドアの開閉を行うので、駅到着後ドアが開くまで少し間があたったのには、ちょっとびっくり(あれ、開かないのかな、と一瞬思ってしまう)。途中の駅は、新小金井、白糸台、多磨(「多摩」ではない)、競艇場前、是政との単線折り返し運転。他の西武線とはつながっていない。
 また、駅名も変わっている。例えば、「競艇場前」駅は、多摩鉄道時代には「常久」駅として開業。「白糸台」は、当初は多摩鉄道の北多磨駅として開業。駅名は当時の所在地名の北多摩郡多磨村に因んでいた。その後、「白糸台」駅に改称。なお、ちなみに現「多磨」駅はかつては「多磨墓地」駅だった。
 2005(平成17)年)、「競艇場前」駅は、 エレベーター設置のため1番ホーム(旧 武蔵境方面ホーム)を廃止。この日より、1面1線化となった。写真は、そのホームと線路跡。
 ところで、文中にある「関東村」の跡地。東京外語大学と道路一つ離れた場所にフェンスで囲まれて、その一部がほんの少しだけ残っている(残してある)。こんもりとした林が続くが、その敷地内に入ることは出来ない。また、南側には、広大な「武蔵の森公園」があって、その向こうには、調布飛行場がある。
 この土地の歴史。1965年のオリンピック開催のために、当時代々木にあった米軍施設と住宅(通称ワシントンハイツ)は選手村として使用されることになった(現在の代々木公園とその周辺)。このため、米軍関連施設は、府中基地周辺と調布飛行場周辺に移転されることになった。「関東村」は、調布飛行場近辺地域に移転してきた米軍施設や住宅を総称して付けられた名称。現在残っている廃屋は、いずれも敷地内の奥に位置しているため、その詳細を把握することはできないとのこと。痕跡マニアとしては垂涎の場所である。
 また、調布飛行場は、かつては旧帝国陸軍の帝都防空部隊基地であった。敗戦後、米軍に接収され、昭和47年(1972年)に返還された後、民間航空会社の飛行基地として使用されている(現在は、セスナ機などが飛び立つ。新島行きの飛行機もここから出ている)。
 けっこう見所の多い沿線ですね。
調布飛行場
東京外語大学
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築地市場のたそがれ

2010-05-10 20:47:43 | つぶやき
 築地の移転問題にからんでの記事。
 
 今春まとまった最新の総合決算によると、都内の築地、大田、足立の3市場で営業する水産卸売9社の08年度総売上高は、約5654億7000万円で、前年度を約4%下回った。経常利益は計約7億5000万円の赤字で、前年度(約26億6000万円の黒字)を大きく下回り、89年度以来、初の赤字となった。都は個別会社の業績などは明らかにしていない。
 築地市場の水産物取扱量は減少傾向にあり、9社の売上高も年々減っている。都や市場関係者は、赤字転落の要因として、老朽化した築地市場に大口取引を行う機能が乏しく、大手スーパーが取引を避けている現状などを指摘している。また、長引く不況も影響しているという。
 都では、「築地離れ」の事態打開の切り札として、江東区豊洲地区への移転を計画しているが、土壌汚染問題などを理由に都議会第1党の民主党などが反発。3月の都議会で移転の関連予算は可決されたものの、築地市場の再整備も検討することになり、事実上の凍結状態に陥っている。
 
 このように、都側の説明・主張を受けて、「築地離れは老朽化が原因。豊洲地区への移転によって事態を打開したいが、民主党が反対している・・・。」というようなトーンになっている。
 
 ところが、同じ記事の中では、
 小売側が市場を通さずに漁協などから直接仕入れる「市場外取引」も増加。農林水産省の推計では、89年度に74・6%だった全国の水産物の市場経由率は、06年度には62・1%に低下している。
 
 消費者の実感としては、市場離れが急速に進んだという方が自然。例えば、大手スパーや回転寿司チェーンなどはおそらく現地の漁協と(海外も含めて)直取引ではないだろうか。中間マージンを最小限にしようというのが、今の業界ではないだろうか。ある意味、仲買商人の出番はなくなりつつあるのがホントウではないか。いつまでも日本橋の魚市場の伝統を受け継いでなどと言っている場合ではない、と思う。
 同じ記事のまとめとして、

 渡辺達朗・専修大教授(流通政策論)は「機能不全に陥っている築地市場の改革には一刻の猶予もない」と強調する。一方で、「市場のあり方自体を考え直さなければ、新市場でも同じ問題が繰り返される」とも警告している。
 
 このあたりが、正論と思える。利権があるかどうか分からないが、少なくとも知事(官僚)のメンツがらみでは、もうどうにもならないのだ。
 たぶん、築地(ツキジ)は、生産・消費に伴う物流業界の発想の転換の中で、次第にたそがれていくのではないか。
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米軍海兵隊の存在価値

2010-05-09 21:25:03 | つぶやき
普天間問題 10日に関係閣僚協議、移設案を確認へ(朝日新聞) - goo ニュース
 「海兵隊」は、有事の際の即戦力としての位置づけとされている。けっして抑止力としての機能を持っているわけではない。有事とはすなわち、中国・台湾(海峡)、北朝鮮との軍事衝突を想定しているはず。しかし、韓国には海兵隊は置かれていないのも現実。なぜ日本、それも沖縄に置いておく必然性があるのか?
 ハトヤマさんが急に「抑止力」」云々と言い始めた。いかにも唐突!それを自民党では絶好の攻撃の材料にしている。
 ハトヤマさん。長年、政治活動に身を置いていて、今さら日米軍事(同盟)関係について、それほど無知とは思えない。どうも裏がありそうな感じが。変な意味できな臭い。
 それはアメリカと日本とののっぴきならない関係の中で、ハトヤマさんは、何かしっぽをつかまれたような・・・。我々庶民には知らされない、知ることが出来ない「政治・経済情勢」がありそうに思う。(このあたりをマスコミは突っ込んで取材してほしいのだが)
 この際、海兵隊の存在価値を徹底して洗い出し、産軍共同体体制でようやく保っているアメリカの経済社会のあり方、日本でも既得権益を手離すまいとする連中の存在など、洗いざらい浮き彫りにしていく姿勢が、マスコミからの的確な情報を取捨選択しながら判断していくことが、今の我々に必要なのではないか。
 参院選目当ての互いの党利党略では国民不在の政治、それによる政治不信は募るばかりである。
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はちまき姿のスカイツリー

2010-05-08 20:22:12 | つぶやき
 ますます高くなるスカイツリー。いよいよ中間の展望台の工事が始まりました。地上約360㍍。見上げると、首が痛くなるほどの高さです。今日は、九州から久々に上京した知人と見てきました。知人は首をあげたまま、ついでに口をあけたまま見入っていました。
 周りに高い建物がないせいか、下からすっきりと見上げられます。展望台。2000名が収容できるほどのスペースのようです。でも、台風や地震のときなどは、どれくらい揺れるのでしょうか? ちょっと恐い気がします。早々に引き上げるとか・・・。
 東京タワーに比べると、きゃしゃな感じがしますが、構造的にもかなりの地震や大風に耐えられるような設計になっているそうですが。
 あんな高層で工事に携わっている人たちは、高さや揺れなど恐怖感を抱くことはないのでしょうか? 近頃は高所恐怖症気味で、足元不如意な私は想像しただけで・・・。さぞかし大変なことでしょう。
アサヒビール本社の窓に映るスカイツリー。右端に映っています。 
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久々の熊本

2010-05-07 20:24:06 | つぶやき
久々に熊本に行ってきました。もう20年以上も経ちますか。今回は市内の繁華街から少し離れたところ。熊本空港からそれほど時間もかからず目的地に着けました。市電が走っていて終点の駅名が「健軍町」。その向こうには大きなアーケードの商店があります。「健軍」という名称に興味を持ちました。
 そばには、第八師団の司令部(現・陸上自衛隊西部方面総監部)があります(かつての陸軍飛行場、戦後になって、旧熊本空港)。今も昔も、軍隊と関係があるのでしょう。明治新政府誕生直後の1872(明治5)年には、「陸軍幼年学校」が設置されたそうです。また、近くには、「三菱重工飛行機製作所」もありました。
 1950(昭和25)年、その跡地に2・3軒の商店ができました(健軍商店街の始まり)。1992年(平成4)年)には、今のようなアーチ型アーケード完成し、「ピアクレス」と呼称するようになったそうです。2009(平成21)には、この健軍商店街は「新・がんばる商店街77選」に選ばれた、とも、。
 もともとの駅名の由来は、周辺の地名にちなんでいて、古くは竹宮(たけみや)と称していましたが、後に健軍(たけみや)となり、明治時代以降、健軍(けんぐん)と呼称されるようになったそうです。
 まだまだけっこうな賑わいをみせているようですが、どこの商店街もそのようですが、近郊に出来た、大型駐車場を完備した、大型ショッピングモールに押され気味なようです。(青森でもその話を聞きました)ぜひ頑張って欲しいと思いました。
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旧水戸街道と国道6号線

2010-05-06 23:37:33 | 歴史・痕跡
 いっとき話題になった(事業再開で)水戸街道の新宿付近。亀有警察警察署前の交差点。上下線共にいつも渋滞になることが多い。そこで、中止になっていた拡幅工事が再開される方向になりました。少しは渋滞解消になりのでしょうか。この原因は、環七のせいもありますが、千葉と東京の境、江戸川に架かる橋にもありそうで、京成金町駅の南側からは立体交差にしましたが、なかなか渋滞解消にはつながらなかったようです。
 旧水戸街道。新宿の宿を出て江戸川から松戸に向かいます。途中で今の水戸街道に吸収されます。その先、消防署付近から北に細い路地になって旧水戸街道が少し残っています。少しくねった道。その道も再び国道6号線(水戸街道)に吸収されてなくなってしまいます。
 かつて、高架工事の前には、「旧水戸街道」という案内板があったのですが、いつしか無くなってしまいました。写真は、そのあたり。ハナミズキの花がきれいに咲いています。
 そうそう、水戸街道とJR金町駅と新小岩駅を結ぶ貨物線。まだ平面交差ですので、踏切があります。その名称は「新宿(にいじゅく)新道踏切」。たしかに今の水戸街道、全線開通したのは、かなり後。当時は、まだ「新道」扱いでだったのですね。こんなところにもそういういわれが残っているのですね。ちなみに今でも鉄道線路の踏切とか、高架橋には、思いがけないような古い地名(名称・呼称)が残っています。
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甘納豆と納豆と

2010-05-05 22:29:53 | つぶやき
 昨日の朝は、納豆ご飯でした。けっこう大好物でして、毎日とは言いませんが、一週間で2,3日は朝ご飯に。別にいっときはやった、健康ブームにあやかってとは、無関係。卵ご飯が苦手なモノでして・・・。
 いつでしたか、「発掘!あるある大事典」という番組で、納豆の摂取はダイエットに効果があると紹介されたとたん、消費者が納豆を買い求めて、店頭から無くなったことがありましたね。でも、そのときのデータは捏造だったことが後に判明した。(あの番組は、それ以外にも罪作りな番組でしたね。司会者の何とかというコメディアンが、全く反省の色がなかったのも、何となくいいかげんな感じがしました。)
 実は、私、「納豆」と名の付く、「甘納豆」も大好きでして、けっこう食べます。
 墨田区の南部には私の知っている限りでは2軒、製造販売している店があります。一軒は錦糸町駅の北口を出て錦糸公園に向かう途中にある店。もう一つは、三つ目通り、都営浅草線・本所吾妻橋から南に向かって、本所消防署の近くにある店。どちらもおいしい甘納豆を売っています。色とりどり、大きさも様々で、ホントウにふかふかして、それでいて豆の雰囲気や香りをうまく出しています。
 アズキ、エンドウマメ、ソラマメ、クロマメ、ウグイスマメ・・・、中でもおいしいのは、サツマイモの輪切り。香ばしくて食感があって・・・、でもちょっと高いのが残念です。そうそう、ハスの実などもあるようです。
 ところで、甘納豆と発酵食品である「納豆」とどういう関連があるのでしょうか。
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、1857年(安政4年)に和菓子屋の老舗「榮太樓」が発案したそうで、当初は浜名納豆に似せて甘名納糖と名づけられ、第二次世界大戦後に簡略化されて甘納豆と呼ばれるようになった、とのこと。北海道や山梨県には甘納豆を赤飯に入れる風習があったり、室町時代に甲斐国(山梨県)南部の人たちが移住した青森県の一部でもこの風習が残っているそうです。
 浜名納豆とは、別名「塩辛納豆」と呼ばれていた。そこで、「塩」の代わりに砂糖漬けにして乾燥させたので、「甘」納「糖」(豆)とネーミングしたのでしょう。
 現在では、「納豆」といえば納豆菌を発酵させたいわゆる糸引納豆を指しますが、糸引納豆が登場したのは中世以降のことであり、正確には「納豆」とは麹菌を使って発酵させたのち乾燥・熟成させたもの、いわゆる塩辛納豆のこと。塩辛納豆は、中国では今なお豆豉(トウチ)と呼ばれ、中華料理の重要な調味料です。日本では奈良時代頃には醤(ひしお)の一種として伝来したのではないかとされ、平安時代には「納豆」という名でも呼ばれるようになった。
 室町時代頃になると、日本独自の食品として糸引納豆が登場し、やがて製法の簡単さなどから塩辛納豆よりも広く作られ、日常食として消費されるようになるとともに、「納豆」という言葉もまず糸引納豆を意味するように変化していきました。
 同じ頃、北宋・南宋に渡航した僧たちが塩辛納豆を持ち帰り、再度国内に紹介し、寺院内でも盛んに生産したことから、これらは寺納豆とも呼ばれるようになりました。こうした伝統を持つものが今でも京都の大徳寺(大徳寺納豆)、天竜寺、一休寺や浜松の大福寺などで作り続けられており、名物として親しまれています。
 以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

 ここで納豆のさまざま。
・ひきわり納豆
砕いた大豆を発酵させることによって作られる納豆。秋田県で古くから作られていた手法で、納豆汁によく用いられる。普通の納豆より発酵が早く、消化が良いとされる。ひきわり納豆に対し、通常の割っていない大豆を使った納豆は「粒納豆」と呼ばれる。
・そぼろ納豆
茨城県特産。おぼろ納豆、しょぼろ納豆とも呼ぶ。納豆に刻んだ切り干し大根を混ぜ込み、醤油等の調味料で味をつけたもの。そのまま酒のつまみとして食べたり、ご飯にかけて食べたりする。
・干し納豆
茨城県特産。納豆を天日干しすることにより長期保存可能にしたもの。なお納豆を乾燥させても、納豆菌は死滅しない。食べ方としてはそのまま食べるほか、湯につけて戻す、お茶漬けにするなどがある。
・揚げ納豆
干し納豆に近いが、これは納豆を油で揚げ、粘り気を取り去ったもの。納豆独特の臭いも目立たない。揚げても納豆菌が死滅しないように、特別な製造技術が用いられている。そのまま酒のつまみとして食べる事が多い。しょうゆ・塩・梅・一味唐辛子などの味がつけられている。
・塩納豆
高知県の一部の地域の郷土料理。納豆に塩と糠をまぶして鉄鍋で炒る。伝統的な製法では、市販の納豆の代わりに蒸した大豆を籾殻の中に入れ、糸を引くようになったものを用いる。

「納豆発祥の地」はどこか。
・「納豆発祥の地」碑秋田県 - 横手市の金沢公園に「納豆発祥の地」の碑がある。また、秋田音頭に「桧山納豆」(能代市桧山地区)が秋田名物の一つとして謳われている。
・茨城県水戸市 - 明治以降、鉄道(水戸線)の開通に伴い、土産品として売られた(天狗納豆が発祥とされる)のをきっかけに、産地としてもっとも知られている。毎年3月10日(水戸の日)に「納豆早食い大会」が開催されている。
・熊本県 - 九州では例外的に古くから普及している。全国規模の納豆製造会社(丸美屋)がありスーパーマーケットで普通に売られていて、消費量も多い。

 生産量日本一は茨城県、消費量日本一は福島県である。消費量最下位は和歌山県である。

日本国外では、「世界の臭い食べ物」にもしばしば選出されていて、納豆が持つ臭いとねばねばした食感に対して、欧米人からは「かなり食べにくい」との声が聞かれるが、納豆を好む欧米人も多く、かつ増えつつあり、類似した発酵食品がほとんどないセルビア出身のドラガン・ストイコビッチのような熱烈な納豆ファンも生んでいます。
 日系アメリカ人移民の多いハワイ州やカリフォルニア州には豆腐製造業者があり、納豆を製造販売しています。

 以下の地域では、納豆と似た大豆発酵食品が製造されている。
・ヒマラヤ麓のネパールなど南アジア、中国雲南省からベトナムをはじめとする東南アジアにかけた地域。タイ・ラオスではトゥア・ナオという食品を作る。
・朝鮮半島:清麹醤。
・インドネシアなど東南アジア諸国:テンペ。大豆などをテンペ菌で発酵させる醗酵食品。
 以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
 写真の甘納豆は、京浜急行蒲田駅の北東多摩川堤通りにある「蒲田木村屋・谷口商店」のもの。創業は昭和2年だそうで、隠れた?名店としていつもお客さんが訪れています。私も近くに行ったときには寄ってみます。
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5月1日のスカイツリー

2010-05-04 19:31:24 | つぶやき
 5月1日。メーデー。現役時代には、よくメーデーに出かけました。以前は、代々木公園から青山通りを歩いて土橋まで、あの長い距離を延々と歩いたモノです。時々シュプレヒコールをあげながら、大半は同僚とおしゃべりをしながら・・・。どういうわけか晴れた日が多くて暑い日差しのもとで歩いた。そして、解散地点の新橋か銀座か上野まで移動して、のどを潤したものです。
 いつしか(「連合」と「労連」とかに、さまざま労働組合の上部団体が分裂して)さらに5月1日ではなくて4月の休日に移って、代々木公園には行かなくなって・・・、たまには日比谷公園から東京駅近くまでの短い距離を歩いたこともありましたが。
 そうしたかつての5月1日。春風に誘われて自転車で浅草まで出かけました。久々の昼下がりの土曜日でした。人手がいっぱい、歩道を走るのも歩行者に迷惑を掛けるほど。浅草から吾妻橋付近、賑やかな人通りでした。
 写真は、アサヒビール本社の壁に映るスカイツリー。右手に移っているのは、墨田区役所の建物です。隅田川沿いのテラスに座ってひとときの歓談に老ける若者や家族連れ、どこからから賑やかな太鼓の音まで聞こえてきました。現在、高さ364㍍。
金色に輝く壁に、映えています
駒形橋からのスカイツリー
 
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