おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

皎月原。鵜縄沢端一里塚。岩村田宿。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目。)

2016-08-22 21:06:25 | 旧中山道

                 軽井沢・沓掛宿~岩村田宿 概念図


 

(「」HPより)

 けっこう車の行き交う県道に沿って南に向かいます。(14:47)途中、右手に草原があります。「皎月原」。

    

佐久市文化財 名勝 皎月原
 皎月原は旧中山道沿い、小田井宿と岩村田宿の中間、小田井宿よりの草原で、古くから指定地に関する古記録や伝説があって、中山道に於ける著名な名勝として知られている。伝説によれば用明天皇(586年)皎月という官女が、おとがめを受けて佐久郡の平尾へ流されてきた。いつも白馬を愛していた官女はある時、小田井の原へ馬を引き出して乗りまわしていた。ところが天の竜馬だった白馬は、空へかけ上がり、東西南北をかけまわった後、平尾山の頂上に立ちどまった。そこで官女は「吾は唯人ではない。白山大権現だ」と云って光を放って岩の中へ入ってしまった。その後女官は白山大権現と云うようになり、時々小田井の原へ来て馬の輪乗りをし、其跡には草が生えなかったので、其処を皎月の輪と呼ぶ様になったと伝えられている。
 只「村上家伝」の村上其国の伝記には全くの異説が載っている。

 平成2年10月1日 佐久市教育委員会

 広重の浮世絵の通り、かつては大草原だったようです。現在は、奥には歌碑やら解説板がある、こぢんまりとした草原。しかし、蚊やダニに喰われたら大変なので、そうそうにして引き返しました。
                 

来た道を振り返って望む。日差しが強い!

「岩村田」方向を望む。

 (15:02)左手のこんもりとした林のところに「鵜縄沢端一里塚」解説板。塚らしい雰囲気はなさそうです。

    

市文化財 鵜縄沢端一里塚
 この一里塚は慶長年間(1598~1614)中山道開通当初に設置されたものである。その後の道路改修によって街道からはづれてしまったが両塚の間の道路は中山道の旧い道筋を示すもので貴重なものである。

 平成2年3月31日 佐久市教育委員会

 この標識から少し林の中に入ったところに東塚が残っているそうです。しかし、足を踏み入れようにも・・・。


奥の小高い林の向こうに? 

 この付近の両側には、大規模なお店が並んでいます。
    
                                             「珈琲哲学」。
 
 しかし、目を東に転ずると、自然豊かな風景が。
    

リンゴ畑が広がっています。

 まだまだ青いリンゴと木の下には小さなリンゴが落ちています。
    

遠くには平尾山? この付近では山並みもはるか彼方。 
     

佐久平の一角。(15:16)「上信越自動車道」の上を行く。
    
        西方向。                                 東北方向。

            実りつつあるりんご。

(15:26)路傍の石仏群。

次第に「岩村田宿」に近づいてきます。

「住吉神社」。この辺りが「岩村田宿」入口。 

家紋入りの土蔵造り。

(15:33)右手には「善光寺道道標」。
    交通事故で破損し、再建されたもののようです。元の道標は「住吉神社」境内に。

  立派なお屋敷。

案内板には「↑清里 →諏訪 白樺湖」。ここは、「小海線」のエリアです。

門構えもなかなかのもの。

 左手には武田信玄ゆかりの「龍雲寺」。武田信玄の帰依が熱く、信濃路に出兵する際は必ず詣で戦勝祈願をした。境内には、信玄霊廟があり遺骨とその副葬品と伝えられるものが納められています。
                     

(15:40)「岩村田」交差点。

 今回は、ここまで。
 右に折れ、しばらく進むと小海線・「岩村田」駅になります。そこから一駅で新幹線「佐久平」駅。帰京するのは早くて便利ですが、あえて小海線で小諸まで出て、しなの鉄道で「軽井沢駅」まで戻りました。その理由は、次回。
コメント

小田井宿。筆塚。本陣。脇本陣。問屋場。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目。)

2016-08-20 15:56:10 | 旧中山道
小田井宿(おたいしゅく)
 中山道六十九次のうち江戸から数えて21番目の宿場。現在の長野県北佐久郡御代田町中心部にあたる。
 参勤交代などで大名が北国街道との分岐点でもあった追分宿で宿をとる際、小田井宿は姫君や側女たちの宿にあてられることが多く「姫の宿」とも呼ばれた。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、小田井宿の宿内家数は107軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒で宿内人口は319人であった。

(14:18)「小田井宿入口」という標識。    

その裏手には「筆塚」。筆を供養して納めたもので、各地にあります。

バス停「小田井上宿」。ひなびた街並みが現れます。
   

(14:22)枡形跡にある解説板。

中山道 小田井宿
 小田井宿は天正年間(1573~92)に誕生し、慶長(1596~1615)以降、宿駅としての機能が整えられました。
 昭和に入って数度の工事で、道の中央を流れていた用水路も南側に寄せられましたが、東西の入口にあった枡形もわずかにその形を留め、上の駅・下の駅は茶屋など小商売が多く、中の駅にあった本陣・問屋・旅籠などが残り、当時の面影をしのばせてくれます。
 文久元年皇女和宮のご昼食休みに代表されるように、多くの姫君の休泊に利用され、「姫の宿」とも称されています。街道の繁栄期であった文化・文政期には、文政5年(1822)で、199戸・人口524人を数えていますが、他の時代には小さな規模のお伝馬に生きた宿場で会ったようです。町並みは寛延元年(1746)で7町23間(805米)ありました。和宮より拝領の人形が遺され、それにちなんで8月16日には小田井宿祭りが行われます。
 現在地は東の枡形です。

    
 宿内を望む。                               枡形を望む。


               安藤広重画。遠景に浅間山。もう少し南、宿外に位置する「皎月原」の景色を描いたようです。

宿の中央を流れていた用水は道路脇を水量も豊かに流れています。


「お休み処」。

                               「本陣」跡。
    

町指定史跡 中山道小田井宿 本陣跡(安川家住宅)
 安川家は江戸時代を通じて中山道小田井宿の本陣をつとめた。現在、その本陣の客室部を良工に残している。
 客室部は切妻造りで、その式台・広間・三の間・二の間・上段の間・入側などは、現形をよく留めており、安川家文書で宝暦6年(1756)に大規模改修が行われたと記されていることから、その際の建築と考えられる。また、湯殿と厠は幕末の文久元年(1861)の和宮降嫁の際に修築されたものであろう。
 厠は大用所・小用所ともに2畳の畳敷きとなっている。

 昭和53年6月1日 御代田町教育委員会

        

「高札場」跡。

 「上の問屋場跡」碑。本陣と同じく安井家が勤めました。
    

脇本陣跡。建物は残っていません。

旅籠屋風? 

バス停・待合所。宿場らしさ。

(14:29)「下の問屋場跡」碑。白壁が見事。 

「小田井宿」西の桝形付近。  

自販機が置かれてあるところが桝形跡? 

宿を出ても右手に旅籠屋風の建物。

振り返って望む。のどかな道筋。人に会うこともない。

畑の一角に「馬頭観音」「道祖神」など。

東方には「平尾富士」? 田園の道をたどる。

(14:44)しばらく進み、県道に合流します。 
コメント

笑坂。千ヶ滝湯川用水温水路。御代田の一里塚。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目。)

2016-08-19 22:10:52 | 旧中山道

 「笑坂」と名付けられた坂道を緩やかに下って行くと、「御代田(みよた)町」に入ります。その手前の左手には「千ヶ滝湯川用水温水路」。「中山道」をくぐって勢いよく水が流れていきます。

                    
 「温水路」とあるので、温泉のお湯でも流しているのか、と。しかし、この付近に温泉があったかしら? そこで、ネットで調べてみると大違い!

 もともとは慶安3年(1650年)に開削された約16里の農業用水で、現在のものは戦後、約21㎞にわたり改修したもの。
 千ヶ滝、湯川は浅間山の中腹を水源としており、雪解け水や湧水が中心で稲作には水温が低いため、水温上昇のために、全長934㍍、幅20㍍、深さ20㌢の浅いプールのような水路にしたそうです。その結果、水源で13.2度だった水がこの水路などで暖められ、水温は18.2度となり、稲作に適するようになり、耕地が広がった、という。

 先人の知恵はたいしたものです。この付近の散策もなかなかのもののようです。

ここからは「中山道」の表示が道案内。

中山道から折れると、こんな木漏れ日の道。

左手に不動産会社の宣伝。浅間山の写真。

(12:47)右手を振り返っても浅間は見えず。

時折、車が通り過ぎるだけで、人っ子一人いない道。沿道には浅間山の巨大な噴火石でできたモニュメント。
                          

交差点には「中山道」の案内表示。
                                     ひたすら下って行きます。

傾斜はこんな感じ。自販機の並び方。

    
                                        振り返って望む。女子中学生2人ががひっしに自転車をこいで上って行きました。

住宅が増えてきます。??? ポストの郵便受け。

 (13:12)長い下り坂も飽きてきた頃、右手に説明柱。
        

右手奥に行ったところに「御代田の一里塚」。 

長野県史跡 御代田一里塚
 中山道、御代田の一里塚は、軽井沢町追分一里塚の次に位置するもので、これを経て中山道は小田井(おたい)宿へと至り、さらに佐久市鵜縄沢の一里塚、岩村田(いわむらた)宿へと向かう。
 中山道は、江戸幕府の置かれる前年の慶長7年(1602年)に整備され、寛永12年(1635年)に改修されるが、本一里塚はその改修以前に構築されたものである。
 本一里塚は、西塚で径13m、周囲40m、高さ5mを測る。隣接するのは東塚で径13m、周囲40m、高さ4.5mを測る。
 これらは現中山道より7m離れた畑中に位置するため、遺存状態もよく貴重である。
 ちなみに、国道18号線の北には北国街道に沿う一里塚「馬瀬口一里塚」が二基保存されており、町指定の史跡となっている。

 昭和39年8月20日 長野県教育委員会 指定

    
                                   西の塚。しだれ桜。
    
          東の塚。

「中山道」改修以前の一里塚で、路地を抜けて奥まった畑の中にあります。
               西を望む。

 「一里塚」案内表示の先を進むと、すぐに「しなの鉄道」の線路に突き当たりますが、地下道を通って向こう側に出ます。
    

来た道を振り返って望む。

 (13:27)すぐ右手には「しなの鉄道御代田」駅があります。旧道の角に「手打ち田舎そば処 なかや」というお店があったので、休憩。生ビールとお蕎麦を注文しましたが、お蕎麦はなかなかの美味。おやじさんともしばし歓談。

 「この先にはしばらく食べ物屋さんはないよ。焼き鳥屋はあるけれど。そう、ずっと下り坂だね。けっこう続くよ。立科くらいまでかな。追分に行くのは上りなんでけっこうしんどいね。・・・明日はお祭りで賑わうけど、それくらいだな、ここは。町ももっと宣伝をすればいいのにね。・・・」

(13:58)一杯飲んで元気回復。再開です。

 落ち着いた、古い家並みが続きます。相変わらず緩やかに下って行きます。
    

りっぱな塀が長くお屋敷。

(14:17)県道に合流する手前左には石の建造物。
                    「御嶽山大権現」、「八海山・・」、「三笠山・・」などと刻まれています。

 この先の県道を越えると、「小田井宿」となります。
コメント

「追分宿」桝形の茶屋。「分去れ(わかされ)」。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目。)

2016-08-18 21:36:19 | 旧中山道
 宿場は国道に合流しますが、その手前が「追分宿」の西の出口。桝形の茶屋が数軒ありました。そのうちの一軒、「つがるや」という古びた茶屋が残っています。

    

史跡 追分枡形の茶屋
 寛永12年徳川家光の代、諸大名の参勤交代の制度が実施され、ここを往来する諸侯のため、宿内には問屋、本陣、脇本陣を設置し、宿の西入口、この辺に枡形の道と土手(高さ約2.5㍍)を築いて宿内の警備取締りをした。
 今、その面影を見ることはできないが当時枡形の地域内にあって茶屋つがるや(枡形の茶屋)の建築にその昔をしのぶことができる。

 軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会

□の中に\線が入った桝形の記号と屋号。

(12:18) 左が「追分宿」、右が国道。

 (12:19)国道に合流するとその先には「分去れ(わかされ)」。「追分」という地名の発祥となった「中山道」と「北国街道」との分岐点になります。「大常夜燈」、「道標」、平賀源内の弟子の「森羅亭万象歌碑」などいくつもの石造物が立っています。

      

 一番手前に「道標」。「右 従是北国街道 左 従是中仙道」と刻まれています。

    

北国街道。追分から直江津まで約180㎞。

    

(地図は、「」HPより)

追分(おいわけ)
 道が二つに分かれる場所をさす言葉。
 もとは「牛馬を追い、分ける場所」を意味したが、そこから街道の分岐点も意味するようになり、甲州街道と青梅街道の分岐である新宿追分や、中山道と北国街道の分岐である信濃追分など、各地に地名として残っている。
 類義語・対義語としては、追分と同様に分岐点を意味する「ワカレ」(「分かれ(分れ)」「別れ」「岐れ」などと表記される)、道が合流する点という意味の「落合」「出合」があり、こちらも各地の地名としてその名を残す。

                                                                   (以上「Wikipedia」参照)

・内藤新宿 - 甲州街道から青梅街道の分岐(新宿追分)に設けられた宿場。
・本郷追分 - 中山道と日光御成街道の分岐。現在の東大農学部正門前。
・平尾追分 - 中山道と川越街道の分岐。現在の板橋郵便局前交差点。
・幸手宿 - 日光街道・奥州街道と日光御成街道の分岐(幸手追分)に儲けられた宿場。
・追分宿 - 中山道と北国街道(北国脇往還)の分岐(信濃追分)に設けられた宿場。
・日永追分 - 東海道と伊勢街道の分岐。現在の三重県四日市市。
・草津宿 - 東海道と中山道の分岐(草津追分)に設けられた宿場。
・髭茶屋追分 - 東海道と大津街道(伏見街道)の分岐。

 日本各地に「追分」という地名が残っていますが、上に掲げられた「追分」には行ったことがあります。「幸手宿(幸手追分)」、「日永追分」、「草津宿(草津追分)」などは印象深いところでしたが、ここ「追分の分去れ」が一番印象深いものになりました。

追分の分去れ
 北国街道と中山道の分岐点にあるのが「追分の分去れ」です。江戸から来た場合、右は北国街道の更科や越後方面、左は京都、吉野など関西へ向かう分岐点となりました。その昔、長旅の途中で親しくなった旅人同士が、別の行く先を前に別れを惜しみ、ともに袂を分けて旅を続けたといわれるのがその名の由来です。
 「分去れ」の三角地の頂点に小さな道祖神。その奥に延宝七年(1679)の道しるべ。中山道、北国街道を指し示し、まだ初期に使われた海道の文字が刻まれています。元は地蔵尊の台座であった四角のくり抜き石が、その次にある道しるべ。

「さらしなは右 みよし野ハ左にて 月と花とを 追分の宿」

 更科は月の名所、吉野は12年ほどの間皇居があったことから人々は御吉野と呼びます。桜の名所で、このあたりに咲く山桜を吉野桜といいます。台石には更に西面に妙義、江戸、日光など関東への道のり、南面には伊勢、京都その先に金毘羅への道程150里半が刻まれています。北面は善光寺、戸隠山、高田と北国街道沿いの土地、その先の金沢へと里程が記されています。

 この「分去れ」の三角地帯に立つ石塔、石仏を見てみましょう。三角の頂点には「北国街道道標」があります。正面には「東 二世安楽 追分町」、右側面は「従是北国街道」左側面は「従是中仙道」、そして裏面には「西于時延宝七己未年三月○日」と彫られ、ここにある石塔などでは最古のものと思われます。

 続いては、「世の中は ありのままにぞ霰ふるかしましとだに 心とめぬれば」と彫られる「森羅亭万象の歌碑」です。森羅亭万象は、江戸時代中期の博物学者・戯作者で有名な平賀源内の門人で狂歌師・桂木甫燦のことといわれています。

 その隣に手水鉢のような形の道しるべ石があります。正面には「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿」という風流な道案内の歌が彫られています。他の三面にはここから各地への里程が示されています。いくつかあげますと、「江戸江(へ)三八里」「御岳(木曽)江三三里半」など1番遠い所は「金毘羅(讃岐)江一五〇里半」でした。

 この道しるべ石の後ろには、よく目立つ常夜灯が立っています。中山道の常夜灯の中でも屈指のもので、寛政元年(1789)春に建立され、台石には「町内安全」「是より左伊勢」などと大きく彫られています。

 その横、北国街道に面してぽつんと立つ観音像は、郷土史家によると鳥羽天皇の天永年間(1110~12)に彫像された勢至観音菩薩で、これが確かなら追分の分去れの石仏中、最も大きく古い時代のものとなります。

 分去れの一番奥には、優美な姿でたつ観音立像があります。正面に「牛馬千匹飼」とあるように馬頭観音像で安永三年(1774)11月、役馬持連中が建立したものといわれています。背丈が高く、頭部顔面あたりが異国風です。

 中山道は分去れから国道18号線を斜めに横切って小田井宿へと続いています。国道を横断するとゆるやかな下り坂になりますが、その坂道は笑坂と呼ばれています。
 作家・後藤明生に『笑坂』という作品があります。土地の老人から笑坂の由来を聞いています。小田井宿方面から旅人がやって来ますと、追分宿の燈が見えるので思わず笑顔になることから笑坂と名づけられたというのです。追分宿から小田井宿までの1里半(約6キロメートル)は、農家なども見えず荒涼とした原野であったといいます。

                                                                (以上、「軽井沢観光ガイド」HPより)

「国道18号線」。「高崎まで55㎞」ポスト。

「分去れ」から国道を横断し、左手の旧道に入ります。
                                             横断には十分注意!

右手に「中山道69次資料館」。

 林の中に江戸から京都までの69次遊歩道が設けられていて、たどるとじきに「三条大橋」まで着ける、という面白い趣向。東海道・桑名宿にもこんな公園(もっと大規模でしたが)がありました。

    

 (12:27)そして最終地点の「三条大橋」。

「ここはコスモス街道」。
 兄弟の歌手狩人が昭和52年分去れから続く中山道を「コスモス街道」と歌い、「あずさ2号」に次ぐヒット曲となった。

 ♪右は越後へ行く北の道 左は木曽まで行く中仙道 続いているコスモスの道が

 (12:35)軽井沢高原野菜の産地。
    

 のどかな高原の道。「笑坂」。
 この付近から「小田井宿」の先までかなり長く、ゆっくりと下って行きます。京都から来ると、意外に足腰にこたえそうな一方的な上り坂となっています。しかし、この付近になると、もうじき「追分宿」。旅人の顔も自然と微笑んだのでしょう。

    

 すっきり晴れていれば、正面に蓼科、右後方には浅間、左後方には八ヶ岳と美しい山容が見えるはずですが、残念ながら雲に覆われて見えず。その分、暑さも感じず、歩きやすい。
コメント

「風立ちぬ」。「菜穂子」。脇本陣。旧本陣。信濃追分駅。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目。)

2016-08-17 23:24:39 | 旧中山道
堀辰雄
 明治37年(1904年)~昭和28年(1953年)。作家。代表作に『聖家族』『美しい村』『風立ちぬ』『菜穂子』『大和路・信濃路』など。
 室生犀星や芥川龍之介の知遇を得て、文学の道を進み始め、しばしば軽井沢、追分を訪れて、豊かな自然の中で読書や散策をしたり、作品の構想を練り、執筆し、数々の名作を生み出しました。
 昭和19年(1944年)からは疎開と療養を兼ねて追分に定住、昭和26年には「堀辰雄文学記念館」のある、この地に家を新築し、亡くなるまで1年10ヶ月療養の日々を過ごし、昭和28年5月、49歳の生涯を終えました。
 
「こういった凄さを何処かその底にもってゐる山だが、その浅間も、追分の供養塔などの立ち並んだ村はずれ―北国街道と中山道との分か去れ―に立って真白な花ざかりの蕎麦畑などの彼方に眺めやってゐると、いかにも穏やかで、親しみ深く、毎日見慣れてゐる私の裡にまでそこはかとない旅情を生ぜしめる」(「初秋の浅間」)

「それらの夏の日々、一面に薄の生ひ茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いてゐると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たへてゐたものだった」(「風立ちぬ」)

「『やっぱり菜穂子さんだ』思はず都築明は立ち上がりながら、ふり返った。すれちがふまでは菜穂子さんのやうでもあり、さうでもないやうにも思へたりして、彼は考へてゐたが、すれちがったとき急にもうどうしても菜穂子さんだといふ気がした」(「菜穂子」)

 洗練された文体、語り口の小説や随想が魅力的な作家です。福永武彦さんなどにも大きな影響を与えました。

ここにもヤマユリの花が。

  
      「記念館」の前にあるのが脇本陣だった「油屋旅館」。

 昔は「記念館」の並びにありましたが、ちょうど向かい側に移っています。平成24年からギャラリーと素泊まりの旅館になっています。
                 

 旧油屋旅館は、江戸時代に中山道追分宿で脇本陣をつとめた旅館でした。昭和になってからは堀辰雄・立原道造・加藤周一などの文士・知識人たちが執筆に利用し、多くの作品の舞台にもなりました。
 この歴史・地域遺産である「旧油屋旅館」の建物保存と有効活用を目的に2012年、NPO法人「油やプロジェクト」は発足しました。「油やプロジェクト」は本・アート、そして音楽などの文化事業を「旧油屋旅館」を改修した「文化磁場油や」を拠点として活動をしています。
 追分ゆかりの詩人であり建築家の立原道造は、信濃追分に芸術村をつくるという夢を「浅間山麓に位する芸術家コロニーの建築群」という卒業設計で遺しました。「油やプロジェクト」が少しでも立原道造の遺志をつぐ活動となれば、そして浅間山麓を訪れる皆様と一緒に末永く「文化磁場油や」を楽しんでいただければと思います。

(芥川龍之介、堀辰雄、立原道造は、東京府立三中―現両国高校―の先輩・後輩にあたります。)

    

「ふるほん」。

「雑貨」。

                          宿内を望む。

                   本陣跡。明治天皇追分行在所碑。
    

                          高札場の復元。
    

  追分宿高札場
 追分宿の高札場は、問屋前の路中央にあった。法度、掟書きなどを記した。また、さらし首、重罪人の罪状を記し、高くかかげた板札を高札という。
 寛永10年(1633)の古文書によると、広さ9尺、横1間、高さ3尺の芝土手を築き、高札場の柱は5寸角のものを使用し、駒よせ柱は4寸角で、高さ6尺の規模であった。 
 昭和58年、当時の古文書等から高札場を復元した。 
 ここに掲示してある高札は、複製品で、現物は追分宿郷土館に保管展示されている。

   軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会 

                  
                     当時の屋号・看板を掲げたおうち。

落ち着いた街並み。

                  「中山道追分公民館」。「中山道追分宿」の碑。

(12:15)この先で追分宿も終わりとなります。

 ところで、最寄り駅の「しなの鉄道信濃追分駅」は、無人駅で、一時間に1本か2本の列車が停まる。かつては特急が通る日本最高所駅(957 m)として知られていたが、しなの鉄道に移管されるとともに特急の設定はなくなった。
 現在でもしなの鉄道の最高所駅であり、JRを除いた普通鉄道では最も標高の高い駅である(JRで最も標高の高い駅は小海線・野辺山駅・標高1,345.67m)。
                          (以上、写真を含め「Wikipedia」参照。)

コメント

追分宿郷土館。追分節。芭蕉句碑。堀辰雄文学記念館。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目。)

2016-08-16 22:41:10 | 旧中山道

 右手の木立の中にあるのが「追分宿郷土館」。中山道、追分宿などの資料が展示されています。「堀辰雄文学記念館」と併せて拝観料400円。


 一通り見学したあと、外のベンチで休憩。木立を抜ける風が爽やかです。

入口のところに大きな「馬頭観音碑」。寛政6年のもので、高さは3㍍。

(11:30)隣の浅間神社の境内には「追分節発祥の碑」。

    

追分節発祥の地碑
 江戸時代、主要道路の一つ中山道を利用した旅人は、難所である碓氷の峠を通過し、江戸と京都の間を往復した。この碓氷峠を中心に駄賃付けの馬子達が仕事唄として「馬子唄」を唄いつづけてきた。この元唄は「軽井沢宿」「沓掛宿」「追分宿」の飯盛り女たちの三味線等により洗練され、(追分節)として成立した。馬子唄に三味線の手が入り、座敷唄になったことにより、諸国に広く伝播され有名になったものである。浅間神社に平成7年、石碑建立委員会により建てられる。

 この「追分節」には、信濃追分→越後追分→(北前船)→(蝦夷地)江差追分 日本海海運をめぐる唄の壮大な伝播の歴史があります。 

江差追分の起源
・・・
 言い伝えや研究者の著述の中で、江差追分の起源を信州小諸付近の追分節が、越後に伝わり、越後追分となって船で蝦夷地に渡り、一方それより先、越後から松坂くずしが伝わり、謙良節として唄われていたものとが結合して江差追分になったとする説がほとんど定説となっている。
 即ち信州北佐久郡長倉村追分付近の街道を上下する馬子たちによって唄われていた馬子唄(馬方節・信濃追分)が参勤交代の北陸武士や旅人瞽女(ごぜ)等によって越後に伝わり蹄の音が波の音、即ち山野のメロディーが海辺のメロディーに変化して越後追分(古くは松前、または松前節と呼ばれた)となり、船乗りに唄われ北前船によって蝦夷地に伝わり謙良節と合流し、蝦夷地という辺境の荒い波濤の中で哀調を加え、江差追分が生まれたという。
 この過程で追分の原型に近く哀愁をおびて唄い伝えられたのが「江差三下り」であり、謙良節と合流し地味で悲哀の感情をこめ「二上り」の調子に変わって唄い継がれたのが江差追分である。
 何れにせよ信州地方の追分節を母体に、その原型を堅持したのが「江差三下り」であり、調子を二上りに変え、比類なく曲節を練り上げたものが「江差追分」である。

 さて、江差追分の源流を信濃追分に求めるのは定説であるが、この信濃追分の発生についても異説が多い。
 岡田健蔵氏は、伊勢伊賀の馬子唄が東海道から中仙道を経て木曽路に入り、木曽馬方節となり信州小諸に伝わって追分節になったとし、柳田国男氏は信州追分のメロディーにイタコの神おろし唄と共通なものがあるとして古い時代の追分調メロディーの普遍性を指摘している。
 また、近年メロディーの近似性から蒙古民謡に源流を求め、貢馬とともに信州に入り、馬子の唄として成立したという説もある。
・・・
 ともあれ江差は有カな漁場及び商港として蝦夷地という当時の辺境のなかで、江差追分を独特の情緒をもつ唄として完成したものであろう。
 この江差追分の発生年代は、明和~寛政(1764~1800)年代にあたる松前13代藩主道広の頃とされている。
 この時代は藩政の頽廃期にあたり、よくいえば優雅風流、悪くいえば浮華淫靡で有カな座敷唄が生まれる温床として好適な時代であり、江差追分は一面そのような背景のもとに育ったのであろう。

            (以上、HP参照)

 ♪浅間根越の焼野の中であやめ咲くとはしほらしや (信濃追分の一節)
 ♪追分桝形の茶屋でほろと泣いたはありゃ忘らりょか(追分馬子唄の一節)
 
  また、大きな自然石でできた松尾芭蕉の句碑があります。

    
 大きな自然石に雄揮な文字で「更科紀行」中の句が刻まれ、芭蕉の百年忌にあたる寛政5年に佐久の春秋庵の俳人たちにより建立されたものといわれています。

 「吹き飛ばす 石も浅間の 野分哉

 なお、この先、「追分宿」高札場跡を入った「諏訪神社」の境内には小林一茶の「有明や 浅間の霧が 膳をはふ」という句碑があるそうです。

 7月24日(日)に開催した「第31回信濃追分馬子唄道中」が終了したばかりで、そのときのテントが残っていました。


そのときの様子(NHKニュースより)。
                                                水戸黄門ご一行様も。

浅間神社から旧道へ戻ります。

    

 「昇進川(精進川)」を渡ると、かつての宿場の中心に。

    

追分宿
 中山道69次のうち江戸から数えて20番目の宿場。
 現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分にあたる。北国街道(北陸道)との分岐点でもあり「追分」の名はこれに由来する。元禄時代には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒を数え、飯盛女も最盛期には200~270人もいたとされるほど栄えた。また、民謡に多く見られる追分節の発祥の地である。旧脇本陣の油屋は、堀辰雄や立原道造、室生犀星らに愛され、堀辰雄の小説『菜穂子』、『ふるさとびと』に登場する牡丹屋という旅館はこの油屋がモデルである。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、追分宿の宿内家数は103軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒で宿内人口は712人であった。また御影陣屋支配下の貫目改所が設置された。
            木曾街道六拾九次 追分(渓斎英泉画)

 「中山道69次」のうち、この宿でやっと20番目(「東海道」だと「鞠子宿」)で、もうすぐ何とか3分の1に。

興味深いものを発見。「青空文庫 夢の箱」。
                                ・本の出し入れは自由
                                ・借りるのは1冊
                                ・自分の蔵書にしたい人は代わりに自分の本を持ってくる
                                ・成人向けの雑誌・写真集、宣伝広告は厳禁。

 けっこう本が置かれていました。読みたい本があれば自由に取り出せます。おもしろい試み。

 (11:41)左手にある「堀辰雄文学記念館」の入口。「土屋本陣」の裏門が使われています。
                  

 ここはぜひ寄ってみたかったところ。「堀辰雄文学記念館」。
         

 堀辰雄の終焉の地となった場所に、平成5年(1993年)に開館されました。敷地内には終焉となった居間(家)、書庫、堀辰雄没後、夫人が建てた家などが残されています。
    


    

           堀辰雄文学碑
                春の大和に往って
                馬酔木の花ざかり
                を見ようとして途中
                木曽路をまはつて来
                たら思ひがけず雪が
                ふつていた

                 昭和十八年四月十三日
                    堀 辰雄 

 昭和18年4月、堀辰雄は夫人とともに木曽路を通り、大和を旅しましたが、この旅から「辛夷の花」「浄瑠璃寺の春」といった作品が生まれました。
 堀辰雄文学碑は、大和へ向かう途中木曽福島のつたや旅館(現在、つたやグランドホテル)に一泊した時に、宿の主人に請われて書いたものをもとに、平成13年10月建立されました。
 堀辰雄が遺した数少ない毛筆による自筆の文で、夫人の堀多恵氏によって選ばれました。
 碑の石材は白御影石で、堀辰雄が好み、また堀辰雄文学の白を表しています。基台の円柱は堀辰雄が文学において希求し、表現しようとしたものを象徴しています。

 ゆっくりと邸内を散策しました。落ち着いたすばらしい雰囲気。
      

    
コメント

女街道入口。借宿。追分一里塚。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目。)

2016-08-15 21:02:59 | 旧中山道

 しばらく進むと、「国道18号線」に出ます。その先、国道が上下線に分かれるところで、左の下り線を進みます。バイパスの高架下をくぐり、国道から左の道に入ると「借宿」という集落に。
 なお、国道のすぐ左に坂道(旧道らしい雰囲気)がありますが、そちらには進まないこと。つい行ってしまい、気がついて戻りました。ロスタイムに。

    

東海道の三重以降によく見かけた「飛び出し坊や」風。「飛び出し注意」。

 (10:32)左手に「女街道入口」。関所のあった碓氷峠を避けて上州に向かう道。

    

女街道入口
 江戸時代に「入り鉄砲」「出女」といって当時恐れられていた武器鉄砲の動きや江戸屋敷に住まわせていた諸大名の奥方は人質的意義をもっていたので女人の出入りは厳重に取り締まった。したがって女人は関所を避けて裏街道を通るようになった。これを女街道、または姫街道ともいう。
 この街道はこれより本街道と分かれ油井釜ヶ淵橋を渡り風越山、広漠たる地蔵が原をよこぎり和美峠または入山峠を往来したものである。
 「関所さけて女人が多く往来せし女街道と いふは寂しも」
                     

街道筋の廃屋。

 間の宿だった「借宿」は「古宿」とともに信州と北上州、南上州を結ぶ物資輸送の中継基地として馬や牛の中継ぎで栄えました。街道脇には「馬頭観音」石碑が残っています。

その先には「遠近(おちこち)宮」。

 「遠近宮」は『伊勢物語』の主人公として登場する在原業平が、
「むかしをとこ有りけり。京にや住み憂かりけん、あづまの方に行きて住み所もとめむとて、ともとする人ひとりふたりして行きけり。
   信濃の国、浅間の嶽にけぶりの立つを見て 
   信濃なる浅間の嶽に 立つけふり
       をちこち人の 見やはとがめぬ」
と詠んだ和歌から、明和8年(1771)に建立した借宿村の神社に「遠近宮」と名付けたという言い伝えが残っています。この神社は国道18号線の借宿東信号から南に入り、突き当たりを右折すると右手に鎮座しています。借宿は古くは「遠近の里」と呼ばれました。
 境内には山岳信仰の盛んだった証のように、御嶽山神社、三笠山大神、八海山大神の石碑がありました。又、遠近宮社叢は町指定天然記念物(樹木)となっており、特にシナノキが多いのが特徴だそうです。棟札によると享保年間に社殿、鳥居が整備されています。

「軽井沢観光ガイド」HPより)

鶴丸の紋の入った土蔵など、立派なお屋敷が並ぶ街並み。

    

     杉玉を吊した酒屋。
    

                       

新型の信号機。頭上にあるため歩行者には見づらい。

ヤマユリ。

涌き水の出ているところを過ぎると、

(10:44)右手に大きな「馬頭観音碑」。 

 この先で、「国道」に合流します。その手前にも「馬頭観音」碑がいくつか並んでいます。
                       

来た道を振り返って望む。

(10:49)「国道18号線」。車の行き来が激しい。

向かい側には「従是左上州」と彫られた道標。 

「追分」交差点。

 その先には「追分の一里塚」。日本橋からちょうど40里目(約160㎞)―39里目という説もあり―。物の本によると、「東海道」と合流する「草津宿」までは129(?)の一里塚があったらしい。全行程のやっと30%をクリアーしたわけです。まだまだ先は長い!
 こちら・左手(南側)は国道拡幅後に復元されたもので、向かい側・右手(北側)が本物。左右の塚が存在しています。 

左手のもの。右手のもの。

 向こう側に渡ろうとしましたが、車が上下とも途切れることなく、さらに横断信号も離れています。やっと渡ることができましたが、かなり危険。手前の「追分」の交差点・歩道橋で渡っておいた方がいいようです。

    


          南側の塚(復元)。

 (11:02)その先、ガソリンスタンドのところを右手に入っていく道が旧道で、「追分宿」の入口となります。
    
コメント

浅間山。宮之前一里塚。沓掛宿。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目)

2016-08-13 22:59:54 | 旧中山道
 緑の多い道をゆっくり下って行きます。強く甘い香りが鼻に。ヤマユリの花が庭先に。この先けっこう見かけます。ちょうど花盛り。



次第に道は右に曲がっていきます。

 (09:07)正面が開けてきて「前沢橋」を渡ると、目の前には「浅間山」勇姿が見えてくる、はずですが、残念ながら雲に隠れて見えません。
      
                                          振り返ると、「離山」が。 

 左手奥に「しなの鉄道・中軽井沢駅」を見ながら、ガードをくぐり再び国道の方へ進みます。江戸時代の初期の「中山道」、そして「沓掛宿」は駅の南側にあったようで、「宮之前一里塚」が駅裏にあります。そこで、中軽井沢駅方向に進みます。
 「宮之前一里塚」跡の石碑は、坂を上がった左手、フェンスの中にあり、墓地の一角にあるため、見落としてしまいそうです。
              

中軽井沢駅。  

 (09:26)国道に出て左折すると、「沓掛宿」の入口。
        

沓掛宿
 中山道六十九次のうち江戸から数えて十九番目の宿場。現在の長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢にあたる。
 古代の長倉牧の跡とされ、1535年に追分諏訪神社に奉納された大般若経にある「長倉沓懸」が初出。「沓掛」の名は、難所であり荒天時は人も荷も足止めされた碓氷峠の入口であることに由来し、両隣の軽井沢宿および追分宿と共に浅間三宿と呼ばれて栄えた。また、草津温泉に向かう分岐路もあった。甲府藩や小諸藩の領有を経て1716年以後は公儀御料となる。
 1875年に借宿村との合併により長倉村、1889年に軽井沢村・峠町などと合併して東長倉村となるが、軽井沢が避暑地として著名となったために1923年の町制施行を機会に軽井沢町と改称した。この間の1910年に信越本線の沓掛駅が開業する。
 しかし1951年の大火で町の殆どを焼失したため、往時の様子を伝えるものは殆ど残っていない。その後は1956年に沓掛駅が中軽井沢駅と改称したのを機に地名も中軽井沢と改称、以後別荘地や避暑地として発展している。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、沓掛宿の宿内家数は166軒、うち本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠17軒で宿内人口は502人であった。

                    「木曾街道六拾九次 沓掛(渓斎英泉画)」。

 この碑の奥には「長倉神社」があり、その境内の裏手に長谷川伸の芝居や映画などで有名な「沓掛時次郎の碑」(「千両万両枉(ま)げない意地も人情絡めば弱くなる浅間三筋の煙の下で男沓掛時次郎」)がありますが、省略。

↓が碑のあるところ。

「沓掛」の名はほとんど見当たらない。

 (09:32)左手に旧脇本陣の一つだったとされる「旅館 枡屋本店」。かつての面影はまったくなく、廃墟と化しています。
    

「中軽井沢」駅前。「鬼押出し」の看板。

 鬼押出しの溶岩は、火砕物が火口周囲に堆積し、熔解して凝固しながら流出した特殊な溶岩であった。天明浅間山噴火も普通の噴火のように、軽石の噴出、火砕流、最後に静かに溶岩が流出したと考えられてきた。しかし鬼押出しの溶岩には、普通の溶岩に少ない、鉱物の結晶が破砕されたもの、山を構成する岩石の断片、酸化した火砕物を多く含むことは、金沢大学や日本大学のグループが独立に指摘してきた。これらの特徴は、爆発的に噴き上げられた火砕物が積もり、急傾斜のために流れたとすると説明がつくという。

     (以上、「Wikipedia」参照。写真も)


  「中軽井沢駅」。夏休みとはいえ、平日のせいか閑散としています。

(09:36)右手に「本陣土屋」という表札のあるおうち。

その先、「上田信用金庫」の向かいにあるのが「草津道道標」。草津温泉への道を記したもの。
    

その先で国道から離れ、左手に延びる側道を進みます。
    
                         (09:46)すぐ右手には「道祖神」。

 下り坂から上り坂に変わると「古宿」と呼ばれていた集落に入ります。
振り返って望む。

車もほとんど行き交わない旧道。

「二十三夜塔」。

(10:04)「古宿公民館」前。

(10:10)「馬頭観音」他。

 この付近の旧道沿いには「馬頭観音」「二十三夜塔」などが数多く残っています。「馬頭観音」が多いのは、この辺りは古くから「佐久の三牧」と呼ばれ、馬の産地で有名だったからだそうです。

振り返って望む。
   すると自販機が何台も並んでいるのが目に入りました。助かった! 水分補給します。この自販機群、これから先、「中山道」に度々見かけます。炎天下の歩きに大変助かります。

「馬頭観音」。
コメント

旧軽井沢ロータリー。離山通り。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目。)

2016-08-12 21:47:27 | 旧中山道
 久々に「中山道」の旅。7月29日(金)。晴れ。
 新幹線で「軽井沢」駅まで。このかん、「日光街道(道中)」を歩き、少し間が開きました。3月31日に「碓氷峠」を越えて以来の「中山道」。
 (08:00)前回の最終地点、旧軽井沢(軽井沢宿)のロータリー(ここまでが「軽井沢宿」)まで戻って、中軽井沢方面に進みます。さすが夏の日差しも高原らしい爽やかさです。
 この道も「日光道中」で通った「日本ロマンチック街道」の一部とか。
    
                                      「駅舎旧軽井沢」。

 ロータリー付近にはお店もありますが、まだ時間も早いせいか人通りもなく、車もほとんど通らない、静かなたたずまい。その先は、林の中の道。
    

 道の両側、林の中には別荘が点在しています。
    

 (08:14)まもなく6本の道路が交差するところへ。
    

 かつてはこういう交差点が都内の幹線道路にもありました。交差する車が増えるにつれて渋滞や事故を招き、そのため、信号機を設置したり、立体交差になっていつしかなくなりました。
 交差点の中央に円形の低い塚(島)をつくり、車はどこの道からも一時停止のあと、時計回りに交差点内に入り、目的の道へ進むというシステム。
    
 軽井沢という土地柄、周囲の景観を大事にする交差点でもあるようです。しばし車の動きを観察しました。

右手奥に「離山」が見え隠れしてきます。

旧中山道も「離山通り」となって進んで行きます。

離山(はなれやま)
 軽井沢町のほぼ中央に位置する山。標高は1,256㍍だが、軽井沢の標高が1,000㍍以上なので、実際の高低差は約200㍍。
 溶岩ドームで浅間火山の側火山である。山体は方向によっては円錐台形をしており、また頂部が比較的に平らであるため、「テーブルマウンテン」の愛称も持つ。
 登山口から山頂まではゆるやかな登山道を徒歩1時間ほどで登ることができる。

(08:24)離山登山口。    

 その先には、瀟洒な建物。「軽井沢ホテル ロンギングハウス」。背景の山が「離山」。
    

 その先の右手の路傍には「庚辰塔」など数体の石仏。
    

国道に合流します。(08:50)来た道を振り返る。

旧道はかつてはそのまま直進していたが、信越線や国道によって消滅。

 国道の右手には「市村資料館」(近衛文麿の別荘だったところ)などの古い建物があります。
    

 「軽井沢中学校前」交差点で国道を渡り、「しなの鉄道」(旧信越本線)の踏切を越えます。
    

 (08:54)踏切を渡ると左手に「菓子処 おらが」。そのすぐ先を右手に折れて、旧道に復帰。 
          振り返って望む。

   
                    行き交う車も少なく、緑豊かで静かな住宅地を進みます。 

「松水庵」。軽井沢高原豆腐のお店です。

 
コメント

碓氷峠。その1。「坂本宿」~「覗(のぞき)」まで。(旧中山道をゆく。第10日目)

2016-04-09 11:18:11 | 旧中山道

 3月31日(木)。穏やかな日差しのもと、「碓氷峠」越えに出かけました。在来線を乗り継いで「横川」駅に着いたのが午前9時15分。前回、「アプトの道」を歩いたついでに「坂本」宿を通ったので、タクシーでもいれば坂本宿の「上木戸」まで乗って、との目算が見事はずれ、結局、「坂本」宿まで歩くことに。
 その分、前回撮り損ねたところを写真におさめることが出来てそれはそれでよかった!

    
      「横川」駅から「碓氷峠鉄道文化村」まで伸びる線路(廃線)。

 「文化村」の中では電気機関車が走っています。「横川駅」がかつての賑わっていた時代を彷彿とさせます。

宿内のようす。静かなたたずまい。正面が「刎石山」。

(10:19)「旧18号」が右にカーブするところで正面の道へ。

今度は右の道へ。「安政遠足(注:今で言うマラソン)」の看板が目印。


(10:30)「タンク」脇の崖沿いに進み、右にある朽ちた階段を上ると、「旧18号」と合流します。道路の向こうに東屋風の建物。そこから山道を登っていくことになります。

    

 ここから「碓氷峠」の見晴らし茶屋まで。約3時間半。1名、中年の女性が早足で追い抜いていきました(実に健脚、マラソンの練習? )が、声を掛ける暇もなく、・・・。それ以外、誰にも会わず、でした。
 東海道の「鈴鹿峠」のときとほぼ同じ状況。途中でくたばったらどうしよう、熊に出会ったら、・・・。鳥のさえずりと木々のふれあう音と、妙義山などの周囲の山の景色と、心地よい風が頼りの山道です。

堂峰番所」跡。

 堂峰の見晴しのよい場所(坂本宿に向かって左側)の石垣の上に番所を構え、中山道をはさんで定附同心の住宅が二軒あった。関門は両方の谷がせまっている場所をさらに掘り切って道幅だけとした場所に設置された。現在でも門の土台石やその地形が石垣と共に残されている。
  

 「安政遠足」の立て札。「ゴールまで8㎞」

「刎石山」の名の如くがれきの続く急な坂。
                                         写真を撮る間のなくどんどん登る。

右手、目の下にはゴルフ場が広がる。

しばらく行くと、「柱状節理」の解説板。

 火成岩の冷却固結するとき、亀裂を生じ自然に四角または六角の柱状に割れたものである。

刎石坂」。

 刎石坂には多くの石造物があって、碓氷峠で一番の難所である。むかし芭蕉句碑もここにあったが、いまは坂本宿の上木戸に移されている。南無阿弥陀仏の碑、大日尊、馬頭観世音がある。ここを下った曲がり角に刎石溶岩の節理がよくわかる場所がある。

上り地蔵下り地蔵」。

 十返舎一九が「たび人の身をこにはたくなんじょみち、石のうすいのとうげなりとて」と・・・
 その険阻な道は刎石坂である。刎石坂を登りつめたところに、この板碑のような地蔵があって旅人の安全を見つめていると ともに、幼児のすこやかな成長を見守っている。

けっこうきつい上り坂。

(11:12) 回り込んだところが「覗(のぞき)」。坂本宿が眼下に一望できる。目の下に旧18号が一直線に。その道沿いに整然と並ぶ町並み。逆光気味なのと木々が生い茂っていて、坂本宿をうまく撮れません。

    

 坂本宿を見下ろせる場所で、山梨の老木がある。一茶は「坂本や袂の下の夕ひばり」と詠んだ。 

すばらしい景観にしばし休憩。
コメント

碓氷峠。その2。「覗」~「座頭ころがし」まで。(旧中山道をゆく。第10日目。)

2016-04-08 21:39:46 | 旧中山道

(11:21)しばらく休んで出発。左手に「風穴」。

 刎石溶岩のさけめから水蒸気で湿った風が吹き出している孔が数か所ある。「刎石山」は、火山でした。お椀型なのも納得です。瓦礫が道にごろごろ転がっています。

静かな山道をのんびりと上って行きます。

 その先で、後ろから足音がしてきたのでびっくりして振り向くと、女性が後ろから近づいてきます。
 さっき坂本宿の「デイリーヤマザキ」に立ち寄ったら、一人先に行きましたよ、と言っていたので・・・、と。この方、「西松井田」駅から歩いてきたのだ、とも。さすが健脚のようで、山道にも慣れているようすで、さっと追い越して行きました。
 これ以降、誰にも会わずに黙々と歩きます。
 右手奥の方に「弘法の井戸」という標識がありましたが、何だか荒れ果てていたので、立ち寄らずにそのまま通り過ぎました。
 ここで、道に迷います。落ち葉がびっしり敷き詰められた杉林の中にあちこち踏み跡(のようなもの)があります。南側の、日差しが差す奥には墓石のようなものも建っていて、そっちの方へ進んでしまいました。かなり下ってこれはおかしいと再び「弘法の井戸」付近まで戻り、ようやくそこで本来の道に出会いました。
 平らになった道を進んで行くと、かつて4軒の茶屋があった広いところへ出てきます。

(11:39)    

刎石茶屋跡
 ここに四軒の茶屋があった。現在でも石垣や墓が残っている。

四軒茶屋跡
 刎石山の頂上で昔こゝに四軒の茶屋があった屋敷跡である。今でも石垣が残っている。(力餅、わらび餅などが名物であった。)

 奥に石垣が見えます。

(11:44)「碓氷坂の関所跡」。
 晶泰2年(899)碓氷の坂に関所を設けたといわれる場所と思われる。

 左手に東屋があって休憩に最適なようですが、さっき道に迷った分、そのまま通過。明るい道筋。落ち葉と石を踏みながら。

尾根伝いの道。    

(12:03)しばらく進むと、両側がすっぱりと削れた道になります。人為的に切り取って崖状にしたようです。

    

掘り切り
 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで、北陸・信州軍を松井田城主大導寺駿河守が防戦しようとした場所で、道は狭く両側が掘り切られている。

 その先の南側が切り立った絶壁となります。

「南向馬頭観世音」。

 この切り通しを南に出た途端に南側が絶壁となる。
 昔、この付近は山賊が出たところと言われ、この険しい場所をすぎると、左手が岩場となり、そこにまた馬頭観世音が道端にある。

 寛政3年12月19日 坂本宿 施主七之助

「北向馬頭観世音」。

 馬頭観世音のあるところは、危険な場所である。
 一里塚の入口から下ると、ここに馬頭観世音が岩の上に立っている。

 観世音菩薩
 文化15年4月吉日  
 信州善光寺
 施主 内山庄左衛門 上田庄助
坂本世話人 三沢屋清助

木の間越しに望む「妙義山」。

一里塚
 座頭ころがしの坂を下ったところに、慶長以前の旧道(東山道)がある。ここから昔は登っていった。
 その途中に小山を切り開き「一里塚」がつくられている。

そこから来た道を振り返って望む。



 急な坂道となり、足下には小石、落ち葉もたくさん。うっかりすると、足をくじきそうな道筋。
(12:22)    

座頭ころがし(釜場)
 急な坂道となり、岩や小石がごろごろしている。それから赤土となり、湿っているので,すべりやすい所である。
コメント

碓氷峠。その3。「座頭ころがし」~「子持山」まで。(旧中山道をゆく。第10日目。)

2016-04-07 23:43:33 | 旧中山道

 ところどころで「安政遠足」の立て札に導かれての歩き。



 ところで先達のレポートですと、この付近に廃車が捨てられているとか。が、気がつかずに通り過ぎてしまいました。それとも、すっかり片付けられたのか? 

(12:36)栗が原」。

 明治天皇御巡幸道路と中山道の別れる場所で、明治8年群馬県最初の「見回り方屯所」があった。これが交番の始まりである。

振り返って望む。穏やかな日差しの下。

遠くに「妙義山」が見え隠れしています。まだ群馬県。

この先が「山中茶屋」跡になります。

 そろそろ1時近く、さすがにお腹が空いてきました。どこか適当なところで休憩を、と思いながら歩きます。

入道くぼ」。

山中茶屋の入口に線刻の馬頭観音がある。これから、まごめ坂といって赤土のだらだら下りの道となる。
 鳥が鳴き、林の美しさが感じられる。

左手に石垣が残って、生活の跡がありあり。

(13:10)林の中の広い空間に出ました。ここが「山中茶屋」跡。作業小屋らしきものがあります。
山中茶屋」。

 山中茶屋は峠のまんなかにある茶屋で慶安年間(1648~)に峠町の人が川水をくみ上げるところに茶屋を開いた。
 寛文2年(1662)には13軒の立場茶屋ができ、寺もあって茶屋本陣には上段の間が二ヶ所あった。
 明治の頃小学校もできたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っている。

山中学校跡」。
 明治11年、明治天皇御巡幸の時、児童が25人いたので、25円の奨学金の下賜があった。供奉官から10円の寄付があった。

 ここまで来ると、今は廃墟と化して誰も住んでいませんが、コンクリート製の下水溝や広い道路など生活の臭いがしてきます。道端の石に腰掛けて休憩。人っ子一人通らないところです。
 と思いきや、メールが入っていました。下界とはまったく無縁の世界ではありません。その後には別の電話がかかってきました。実は、少しホッとした気分にもなりました。

(13:35)山中坂」。
 山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂が山中坂で、この坂は「飯食い坂」とも呼ばれ、坂本宿から登ってきた旅人は空腹ではとても駄目なので手前の山中茶屋で飯を喰って登った。
 山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。

 相変わらず静かで、鳥の囀りとどこからともな落ちる葉の音くらいです。足下はふかふかした枯れ葉が敷き詰められています。

崖の上に廃墟となった? 建物。

続いて、朽ち果てたバス。

さらにその奥には廃墟となった「別荘(保養所)」。

(13:46)一つ家跡」。
                 
 ここには老婆がいて、旅人を苦しめたと言われている。

来た道を振り返って望む。

陣馬が原」。
 太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、戦国時代,武田方と上杉方のうすい峠合戦記がある。
 笹沢から子持山の間は萱野原でここが古戦場といわれている。

「子持山」。
 万葉集第14 東歌中
       詠人不知

 兒持山若かへるでの
      もみづまで
 寝もと吾は思う
     汝はあどか思う
      (3494)           

 この歌にある「兒持山(児毛知山・子持山)」は、群馬・伊香保温泉近くの山で、こことは異なるようです。歌の意味は、

 子持山の若いかえでの葉が、(秋になって)紅葉するまで、(あなたと)寝ていたいと私は思うが、あなたはどう思う?

注:「かへるで」=かえで。蛙の手の形をしているところから。「もみづ」=もみじ。紅葉。

 山の名前に「子持ち」を懸け、寝ることで「子を持とう」ということで求婚している歌です。子持山付近での歌垣の世界の存在をうかがわせる歌です。

 「歌垣(うたがき)」とは、特定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う習俗。
 古代の日本では、常陸・筑波山などで歌垣の風習が存在したことが『万葉集』などにも明らかです。歌垣は未婚男女の求婚の場という意味合いもあり、若い男女が集会し、一緒に飲食をしながら互いに歌を掛け合いながら一対一の関係になって、恋愛に発展していきます。もちろん、その場限りの恋愛もありえます。
 語源は、「歌懸け」で、「歌(訴う)」の「懸け合い」に由来しています。
 古代の言霊(ことだま)信仰の観点から、ことば(うた)を掛け合うことにより、言葉の霊力の強弱が試され、男女間の求愛関係もその強弱を通じて決定されることとなります。そうした掛け合いの面白さ、駆け引きの苦心など、後代には和歌(贈答歌)や連句などの世界にもつながっていきます。
コメント

碓氷峠。その4。「子持山」~「峠頂上」まで。(旧中山道をゆく。第10日目。)

2016-04-06 21:20:12 | 旧中山道
(13:52)いよいよ碓氷峠頂上に近づきます。「安政遠足」の表示がある、まっすぐ行く道道が和宮降嫁の時に開かれた、広くゆるやかな道。
 「旧中山道」は左の小道に入っていきます。案内表示があるので、迷うことはなさそう。しかし、この先どうなるかちょっと不安な道筋。

ゆるやかな下り坂。もちろん、人の気配はなし。熊は?

(14:02)「化粧水跡」。

 峠町へ登る人々がこの水で姿・形を直した水場である。

 右側の小川らしきものには水の流れている気配はありません。まだ冬枯れの雑木林、その下には枯れ枝と落ち葉。

人馬施行所跡」。そして「中山道」の標識。

 笹沢のほとりに、文政11年、江戸呉服屋の与兵衛が、安中藩から間口17間、奥行き20間を借りて、人馬が休む家をつくった。

 それだけの大きな敷地が確保できていたかどうかは、今の様子からはとても想像できません。
 その先で小さな沢を石伝いに渡ると、上り道になります。けっこうきつい(疲れた体には)上り坂が続きます。峠までの「胸突き八丁」、という感じで、一汗かきます。ようやく平坦になったところに「長坂道」という解説板。

 ところで、今、気がつきましたが、「碓氷峠」の行く先々にある解説板は、どうも、京から江戸へ向かう旅人への案内、という印象です。「座頭ころがし」「一里塚」・・・、「坂本宿」から上がってくると、そこを通り過ぎた後に、その解説板があるようです。 
 
(14:22)20分弱の登り道です。所々に残雪。
 
(14:31)長坂道」中仙道をしのぶ古い道である。


 ようやく広い林道に出ます。そこを右に曲がります(峠から下る場合は、この標識を左に曲がって坂本宿方向へ)。
 振り返ると、「松井田坂本宿」への標識と「中山道」という道しるべ。
                            

突き当たりの正面には「仁王門跡」。

 もとの神宮寺の入口にあり、元禄年間再建されたが、明治維新の時に廃棄された。仁王様は熊野神社の神楽殿に保存されている。

「中山道」の道しるべ。左の広い道が「安政遠足」の道。

その先に「思婦石」が建っています。

 群馬郡室田の国学者 関橋守の作で、安政4年(1857)の建立である。
 ありし代に
   かえりみしてふ
       碓氷山
 今も恋しき
    吾妻路のそら

「鼻曲山」への道標。若い頃登ったことがあり、下山後、たしか霧積温泉へ向かった、と。「鼻曲山」は、「浅間山」の東方にある山。頂上が曲がった鼻のような格好をしています。 

この先を下ると「水源」に。

その付近にはまだ残雪がびっしり。

(14:35)ようやく碓氷峠の頂上に着きました。日頃の不摂生がたたって、休み休みで約4時間かかりました。
 名物の「力餅」を売るお店が数軒並んでいます。そのひとつの「見晴亭」というお店に入りました。その名物をた食べずに、ビールを注文、お蕎麦を食べました。ここから旧軽井沢までの下り坂を歩くのはそっちに置いて、・・・。
           

 お店の人によると、今日はほとんどお客さんが来なかった、せっかくのいいお天気なのにねえ、と。
 そのうち、車から降りてどやどやと入ってきた家族連れ、ここの力餅が食べたくて来ました、と。

はるか遠くに見えるのは、高崎辺りだそうです。 
コメント

碓氷峠。その5。「峠頂上」~「軽井沢」駅まで。(旧中山道をゆく。第10日目)

2016-04-05 18:43:14 | 旧中山道
 テラス越しに風景を眺めながら、のんびりと。そういえば、軽井沢から横川までの連絡バスの発車が16:10だったことに気がつきましたが、後の祭り、今から下っても間に合わない・・・。ま、いいか。でもちょっと急ごうか。
 右手には、「安政遠足」のゴール、熊野神社。社殿がちょうど群馬と長野にまたがっています。

(15:10)   茶店の敷地に「上信国境」線。
                              右が長野、左が群馬。

そこから群馬県側(上州側)を望む。

 さて、これから軽井沢宿までどの道を進むか迷うところですが、いずれにしても旧道はほとんどが道路整備、宅地再開発等のため失われてしまっていると考えると、谷間の旧道は整備されていないようだし、結局、多くは「遊歩道」を下ることになるようです。

旧中山道碓氷峠跡
 江戸時代五街道の一つ。江戸から上野、信濃、美濃を経て近江草津で東海道と合する。
 この谷間の道が五街道の一つ中山道で坂本宿を経て峠に至り、軽井沢宿への入り口になっていた。この道の険しさを旅人は
 「旅人の身を粉に砕く難所道
       石のうすいの峠なりとて」
 「苦しくも峠を越せば花の里
       みんな揃って身は軽井沢」 
と唄っていた。峠の頂上には道中安全の神、熊野権現が祀られている。
 現在の道(舗装路)は明治天皇御巡幸道で明治11年に改修された道である。

 軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会

谷間の道へ通じる標識。

 ともかくさっさと遊歩道を下りました。緩やかに曲がりながら林間を下る道。やがて吊り橋を過ぎると、別荘の建物が点在するところへ。

そのうち、県道に合流します。振り返って望む。

(15:50)峠から下ってくる県道を望む。

 合流した県道を進むと、橋に出ます。この橋が「二手橋」。軽井沢宿に泊まって江戸に向かう旅人と見送りにきた飯盛女とが東西二手に別れるところから名が付いたといいます。この先からが「軽井沢宿」ということに。
            

軽井沢宿(かるいさわしゅく)
 中山道六十九次のうち江戸から数えて十八番目の宿場。
 現在の長野県北佐久郡軽井沢町の軽井沢駅北側一帯。旧軽井沢と呼ばれるあたりが該当する。中山道有数の難所であった碓氷峠の西の入口にあたり、六十九次で最も栄えた宿場であった。本陣と脇本陣合わせて5軒、旅籠は最盛期には100軒近くあったとされ、数百人の飯盛女が働いていたという。宿場の東にある矢ヶ崎川にかかる二手橋は、旅人と飯盛女が別れを惜しんだ場所。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、軽井沢宿の宿内家数は119軒、うち本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠21軒で宿内人口は451人であった。
 明治時代以降は欧米人宣教師に避暑地として広く紹介され、それまで「かるいさわ」であった当地の名を英語などで発音しやすい「かるいざわ」と読むようになった。多くの外国人が滞在する街として変貌を遂げたため、現在宿場町の面影を残すものは少ない。
                                                          (以上、「Wikipedia」参照。)
                        歌川広重 画。

(16:00)「二手橋」を渡ると、右手にショー記念像と教会があります。
                 

 英国聖公会宣教師A・C・ショー師がキリスト教布教の途にあって軽井沢を知ったのは1885年(明治18年)である。師は翌年この地に暑さを避け、静思、休養、交親の場とし、構内に礼拝堂を建てて霊的よりどころとした。
 現在の礼拝堂は由緒あるこの地に在り、いまもなお天地創造を賛美し、清想、祈祷、聖書読修の場としてここを訪れるすべての人に開放されている。

 続いて右手には芭蕉句碑
     
                           芭蕉翁
             馬をさへ ながむる雪の あした哉

 松尾芭蕉(1644~1694)「野ざらし紀行」(甲子吟行)中の一句。前書きに「旅人をみる」とある。雪のふりしきる朝方、往来を眺めていると、多くの旅人がさまざまな風をして通って行く。人ばかりでない、駄馬などまでふだんとちがって面白い恰好で通っていくとの意。(飯野哲二編「芭蕉辞典」による)
 碑は、天保14年(1843年)当地の俳人 小林玉達によって、芭蕉翁150回忌に建てられたものである。

                                                                軽井沢町

 芭蕉句碑を過ぎると、いよいよ本格的な「軽井沢宿」へ。観光客がそぞろ歩きしている商店街(旧軽井沢)の入口にあるのが、宿の江戸方枡形の地にある、かつての茶店、現在は旅館になっている「御宿 つるや」。門前に「中山道 軽井沢宿」と記された石塔。

    

春休み中なのに、思いがけず閑散としています。

軽井沢写真館」。

 軽井沢の古き良き時代にタイムスリップしたような、レトロ調の記念写真はいかがでしょうか。 セピア写真の撮影をメインとしておりますが,ご希望によりカラー写真も承っておりますので、お気軽にご相談下さい。 野外での撮影は午前の開館時より、午後4時半くらいまで撮影可能ですが、 混雑状況、天候により変動致しますので事前にお尋ねくださいますよう宜しくお願い致します。

土屋写真館」。

 軽井沢の歴史が垣間見られる写真店です。 もとは小林一茶も泊まった軽井沢宿の旅籠でしたが、明治39年(1906)に写真館として創業。 軽井沢の昔の写真が手に入る店として有名です。 モノクロの写真が展示、多くの人が写真を見に訪れます。

(以上、二つのお店の紹介は、HPより)

「軽井沢観光会館」。

 旧軽井沢商店街の中央には明治44年(1911)に建てられた軽井沢郵便局があったが、建物は現在塩沢湖畔の軽井沢タリアセンに移築されて、跡地には外観を模した軽井沢観光会館が平成7年(1995)に建設された。
(「軽井沢観光協会公式HPより)

 
 すれ違う人々は圧倒的に外国人。なかでも中国人が目立ちます。

「京方枡形」跡。
 現在はローターリーになっていて、その面影はありません。旧中山道は、右手に進みます。左手は軽井沢駅方向。

観光案内板。今回はここまで。

 軽井沢駅まではけっこうな距離があります。着いたときは、バスの出発時刻をかなりオーバー。しかし、次の「横川」行き最終バスは18時過ぎ。
 もともと在来線の上野(都区内)~横川の往復切符(JR東日本「大人の休日倶楽部」会員で「3割」引)だったのです。軽井沢を午後6時過ぎに出たのでは帰宅が遅くなります。そこで、新幹線で「軽井沢」から「高崎」まで利用し、そこから在来線で帰ることにしました。余計な出費でしたが、思ったよりも早く帰宅できました。
 次回からの旧中山道歩き。しばらくは在来線のみでの利用しにくくなってきます。「軽井沢」以降は新幹線利用ということになりそうです。その点、「大人の休日倶楽部」は3割引なのでかなり助かりそうですが、・・・。

 次回は、さっきのロータリーからになります。
コメント

坂本宿。その2。(旧中山道をゆく。第9日目)

2016-03-30 22:20:09 | 旧中山道

 その先、左手にある建物は「酒屋脇本陣跡」。現在は地区の公民館として使われています。その脇には「坂本宿屋号一覧」が掲示されています。

       

 整然とした町並み。街道の中央、北、南に用水が流れています。本陣が2軒、脇本陣が4軒、さらに旅籠屋、関連施設がずらりと。かなり大きな宿場であったようです。

「脇本陣永井」。白壁と屋敷門。

                            「佐藤本陣」。
    

 坂本に二つある本陣のうち当本陣は、「佐藤本陣」また「上の本陣」と呼ばれていた。三代将軍家光は、寛永19年(1642)譜代大名にも参勤交代を義務づけた。そのため、文政年間では31大名が坂本宿を往来した。
 寛政2年8月8日、坂本宿で加賀百万石といわれた松平加賀守が江戸へ信州松代真田右京太夫は帰国のため信州へで擦れ違いそれぞれ宿泊している。東に碓氷関所、西に碓氷峠がひかえているため坂本泊まりが必然となり本陣が2軒必要だった。
 安政6年(1859)2月、安中藩主板倉主計頭が大阪御加番(大阪城警備)を命ぜられ登城するとき後輩源左衛門と組頭の甚右衛門は安中藩の役人宅へお祝いに参上している。そして、御本陣番(御休所)は佐藤甚左衛門宅(佐藤本陣)で、諸荷物の伝馬継ぎ立ては問屋番の金井三郎左衛門宅(金井本陣)である。
 宿割りは脇本陣をはじめとして16宿。板倉候はじめ藩士二百余名は、7月17日朝五ッ半(午前9時)坂本に到着した。大名はじめ宮様、日光例幣使、茶壺道中で坂本宿はたいへんな賑わいであったが、その反面難渋も少なくなかった。
 
 解説板と並んで、「坂本小学校発祥の地」の石碑が建っています。敷地はともかく、この建物は、もちろん本陣時代のものではありません。つくりも旅籠屋風で、さらに小屋根(養蚕用)の乗った建物になっています。

奥に掲示してある解説文。

 明治8年4月10日、佐藤本陣(上の本陣・佐藤慎一郎氏宅)を仮校舎にあて、坂本小学校が開校されました。
 その後佐藤家は移住、現在の家屋はその跡地に明治34年3月、小竹屋の分家(「分家・小竹屋」、通称「新築・小竹屋」)として建てられたものです。

 分家・新築 小竹屋当主
 
           

左手が「佐藤本陣跡」の建物。奥に見えるのが「刎石山」。

「脇本陣みまがや」。

    
                           「うだつの上がる家」。
うだつ
 日本家屋の屋根に取り付けられる小柱、防火壁、装飾。本来は梲と書き、室町以降は卯建・宇立などの字が当てられた。

《歴史》
 平安時代は「うだち」といったが、室町時代以降「うだつ」と訛った。本来は梁(うつばり)の上に立てる小さい柱のことを言ったが、そののち、自家と隣家との間の屋根を少し持ち上げた部分を「うだつ」と呼ぶようになった。桃山時代に描かれた洛中洛外図屏風にはうだつのある長屋が描かれている。桃山時代から江戸時代初期にかけては木製のうだつが存在するなど、当初は防火壁と言うよりも屋根が強風で飛んだりするのを防ぐ防風の意味合いや、また装飾的な意味合いが強かった[1]。
 その後、隣家と接するケラバ(切妻屋根の両端)部分の壁を少し持ち上げ、独立した小屋根を乗せたものを「うだつ」と呼ぶようになった(本うだつ)。さらに、本うだつの下端が、平側の1階屋根と2階屋根の間の部分にまで張り出すようになり、その壁部分が小さい防火壁として独立し、これも「うだつ」と呼ぶようになった(袖うだつ)。
 本来、町屋が隣り合い連続して建てられている場合に隣家からの火事が燃え移るのを防ぐための防火壁として造られたものだが、江戸時代中期頃になると装飾的な意味に重きが置かれるようになる。自己の財力を誇示するための手段として、上方を中心に商家の屋根上には競って立派なうだつが上げられた。
 うだつを上げるためにはそれなりの出費が必要だったことから、これが上がっている家は比較的裕福な家に限られていた。これが「生活や地位が向上しない」「状態が今ひとつ良くない」「見栄えがしない」という意味の慣用句「うだつが上がらない」の語源のひとつと考えられている。
(以上、「Wikipedia」参照)

    
                         「坂本宿・下木戸」跡。
 慶長7年(1602)、江戸を中心とした街道整備が行われたとき五街道の一つとして江戸、京都を結ぶ中山道132里(約540㎞)が定められ、この間に69次の宿場ができた。
 その一つに坂本宿が設けられ宿内の長さ392間(約713m)京都寄りと江戸寄りの両はずれに上木戸、下木戸が作られた。本木戸は下木戸と称せられ、当時の設置場所に一部復元したものである。
 木戸は、軍事・防犯などの目的のため開閉は、明け六ツ(現在の午前6時)から暮れ六ツ(現在の午後6時)までであった。実際には木戸番が顔が識別できると判断したようである。 文久元年の絵図によると、8間1尺巾(約14.8m)の道路に川幅4尺(約1.3m)の用水路が中央にあり、その両側に本陣、脇本陣に旅籠、商家160軒がそれぞれ屋号看板をかかげ、その賑わいぶりは次の馬子唄からもうかがい知れる。

 雨が降りゃこそ松井田泊まり 降らにゃ越しまし坂本へ

 「下木戸跡」の手前、右側のちょっと奥まったところに「金井本陣跡」があります。皇女和宮も一泊した本陣です。


       
               振り返って望む。車の通りも少なく、静かで落ち着いた町並み。

こうして再び、「横川駅」に向かいます。

 15分ほどゆるやかに下り、「旧18号」から左手に折れて急な「薬師坂」を下ります。
    
                                     「薬師の湧水」。 

「川久保薬師堂」。

 元和9年(1623)碓氷関所が開設されて通行の取締りに厳しさが増し、加えて碓氷峠が間近にひかえているため旅人は難渋を極めた。そこで、無事通過と感謝を込めてこの坂に薬師如来を祀る薬師堂が建立された。また、近くに清澄な湧水があるところから心太(ところてん)を商う店があり、旅人たちはここで憩いながら旅装を都問えたり、街道の事情を知る場所でもあった。このところから心太坂といわれ親しまれた。・・・ 

                             坂の上り口にある「薬師坂」碑。

 再び「旧18号」に合流します。「霧積橋」へ。

川久保橋
 碓氷関所時代、現在地霧積橋よりやや上流に川久保橋が架けられていた。この橋は正しくは碓氷関所橋と呼んで中山道を結んでいたが、橋桁の低い土橋であったため増水期になると度々流失した。関所設立当初は軍事目的を優先したからである。橋が流失すると川止めとなり、旅人や書状などの連絡は中断された。このため、関所には、大綱一筋、麻綱一筋が常備されていて宿継ぎ御用綱として使われ書状箱を対岸に渡すことに使われた。
 細い麻綱を投げ渡して大綱を張り、大綱に竹輪を通して麻縄を繰り、ちょうどケーブルカーのようにして書状箱を渡したという。川止めとなっても増水の危険を冒して渡河する人もいた。なかでも参勤交代の大名行列は日限も予定されているので渡河を強行したという。
 大名の渡河に際しては。番頭も川原に集まり出て見届けた。

正面の坂道が「薬師坂」。

「横川駅」へ向かう一画に大きな「顕彰碑」と「解説板」。どちらも「碓氷B舎鉄道」にちなんだもの。

    

碓氷馬車鉄道(うすいばしゃてつどう)
 かつて官営鉄道横川線(現、信越本線)の横川駅前から、碓氷峠を越えた直江津線(現、しなの鉄道線)の軽井沢駅との間を連絡していた馬車鉄道である。
 半官半民の私鉄である日本鉄道によって上野駅 - 高崎駅間の路線が開通した後、官営鉄道によって1885年(明治18年)10月15日に高崎駅 - 横川駅間が開業した。その後、日本海側の直江津駅からも順次南下して線路が敷設され、軽井沢駅までの路線が1888年(明治21年)12月1日に完成した。しかし横川駅 - 軽井沢駅間には碓氷峠という古くからの難所があり、この区間は直線距離にすると10kmにも関わらず標高差が552mもあるなど、鉄道にとっては非常に急勾配となるもので、工事も長期にわたっての難航が予想された。そのため、暫定的に両駅間を馬車鉄道によって結び、東京 - 直江津間の連絡と碓氷峠の鉄道敷設に要する資材輸送手段を確保しようと考えられた。これにより、国道18号上に線路を敷設することで開業したのが「碓氷馬車鉄道」である。
 旅客、貨物が好調で車両も増備したが、急勾配、急曲線のため線路や車輪の摩耗も激しく、馬匹も2頭引きの上、片道2回交代するなど経費がかかっていた。
 そして、わずか2年後の1890年(明治23年)には鉄道庁が碓氷線の建設を決定。株主総代が4月には山縣有朋総理大臣、翌年5月には鉄道庁長官に対して会社資産の一切を買収する旨の請願書を提出したものの、「該社の設立は中山道鉄道布設の発令以降にして、早晩官設あるべきは知り渡りたる事なれば、彼等は予め今日あるを十分覚悟の上に手着手したるものにして」として却下した。元々暫定的な鉄道であったため、1893年(明治26年)にアプト式ラックレールを採用して同区間の官営鉄道線が開通すると、開通僅か5年で廃線となった。
 (以上、「Wikipedia」参照)

 「碓氷峠」をめぐる交通事情には「碓氷関所」以後も、様々な変遷といろいろな苦労と歴史がありました。

横川駅ホームからの妙義山。

                    横川駅出発09:17~横川駅到着14:20。


 次回は、いよいよ「碓氷峠」越えです。  


コメント