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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

向島百花園。花々が咲きそろう季節。かるがも、も。

2025-05-31 20:23:57 | 向島百花園

梅雨入り間近の「百花園」。

「夏の七草」のうち、「しますすき」。

がくあじさい。

これから咲きそろうようす。

「むらさきつゆくさ」。

「こばんそう」。

日本では雑草として見られるもののひとつで、その中ではやや大きく偏平で、小判型の小穂が目につきやすい。成熟するとカラカラと音をたてることから「スズガヤ」の別名もある

草丈は10-60cm程度になる。茎は直立し、根元はややほふくする。葉は細長く、長さ5-10cm、幅3-8mmで毛がなく縁がざらつく。葉舌はまるく毛がない。

夏(7-9月)に茎の上部にまばらに数個(多くても10程度)の小穂のついた、先が垂れる円錐花序を形成する。淡い緑色から成熟すると黄褐色に変わり、光沢があって美しい。和名はこれを小判に見立てたものである。別名にタワラムギがあり、これもふくらんだ小穂の形をに見立てたものである。

「きりんそう」。

キク科の多年草。 山野で日当たりのよい所に生える。 黄色い小さな花を円錐状の穂のように咲かせる。

「うつぎ」。

ウツギは北海道から九州、奄美大島まで自生地の分布域は広く、昔は畑など耕作地の境界木としてよく植えられてきました。幹は木釘に加工されて利用されます。和名のウツギは、幹が中空であること「空木(ウツギ)」に由来しています。別名のウノハナはウノハナウツギの略称です。ちなみに、まったく科や属の異なる種でも幹が中空な植物はウツギと呼ばれていることがあります。

「うつぎのはな」が略されて「卯の花(うのはな)」となりました。

   卯の花の匂う垣根に
   ほととぎす 早も来鳴きて
   忍音もらす  夏は来ぬ   (「夏は来ぬ」佐々木信綱作詞)

古歌の「山里は 卯の花垣のひまをあらみ 忍び音洩らす ほととぎすかな 」を下敷きとして作られたといわれています。

「万葉集」でもたくさん歌われています。

「 五月山(さつきやま) 卯の花月夜 ほととぎす
   聞けども飽かず また鳴かぬかも 」  
            作者未詳 巻10の1953  


(五月の山。月光が卯の花をぼうっと白く浮き立たせている。ホトトギスの声が聞こえてきた。この澄み切った声はいくら聞いても飽きあきない。もう一度鳴いてくれないないかなぁ。)

※「卯の花」は、おからの別名でもあり、料理名としても使われます。

そして、池には、カルガモの番。

        人目も気にせず、毛づくろい。

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向島百花園。花が咲きそろう季節。

2025-05-29 13:44:23 | 向島百花園

向島百花園の年間パスポートを更新しました。

【年間パスポート】
一般    600円
65歳以上 280円

【9庭園共通年間パスポート】
一般    4,000円
65歳以上 2,000円

                

「せっこく」。

セッコクは、東北地方南部以南の山地や岩場に見られる小型の着生ランです。デンドロビウムの仲間で、主に針葉樹林や常緑広葉樹林に見られます。
節のある細い棒のようなバルブを何本も束ね、細い根でしっかりと木や岩に着生し、晩春から初夏に白や淡い桃色の花を咲かせます。花後に新芽を伸ばして、つやのある葉を広げながら、新しいバルブが伸びていきます。冬前には葉が落ちて、バルブの状態で冬を越します。このバルブに翌年花が咲きます。
花にはほのかに香りがあり、四季を彩る野生ランとして多く販売され、人気があります。古くから多くの斑入りや花変わりなどが選別され、「長生蘭」の名で古典園芸植物として親しまれています。

「かるみや」。 

カルミアはコンペイトウのような形をした、色濃い蕾を持っています。花が開くと皿形になり、色は薄く模様が入って、蕾の様子とは全く異なった印象を受けます。開いた花をよく見てみると、雄しべの先は花弁のくぼみの中に収まっています。この雄しべは、飛来した昆虫などによって刺激を受けると飛び出して、花粉も散るというおもしろい仕組みをもった花です。
カルミアは、7種からなる小さな属で、北アメリカとキューバに分布する常緑低木です。一般にカルミアと呼ばれるのはラティフォリア種(Kalmia latifolia)をさし、いくつかの品種が鉢植えや庭植えの花木として栽培されます。

「なでしこ」。 

「とうばい」の実。 

     花が咲いたとき。

          

紅梅性八重。 花の大きさは 2.5cm 程度の中輪、花弁は紅色で、花弁の縁は色が薄く白くなる。 
花は下向きに咲き、下から見上げると、陽に透けた花びらが美しい。紅梅の代表的な品種。

「ゆすらうめ」。

            

ユスラウメは、サクラの花が咲きだすころ、ウメに似た5弁の白~淡紅色の花を枝いっぱいに咲かせ、梅雨の初めごろ直径1cmほどの真っ赤な小さい果実がつきます。熟果は生食でき、小果樹としても扱われています。中国原産ですが、江戸時代の初期にはすでに栽培されていました。当時は「桜桃」と呼ばれていましたが、明治時代になってサクランボとの混同を防ぐため「朱桜」(ユスラウメ)と呼ばれるようになりました。

こういう具合に木も草も春爛漫の季節を迎えています。他にも、

しゃくなげ、しもつけそう、こばんそう、あかつめくさ、むらさきつゆくさ、おにたびらこ、うつぎ、きりんそう、・・・。

※gooブログ終了に伴い、「アメーバブログ」に順次、移行しています。

koikoi0106です。よろしく!

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「多摩川スカイブリッジ」を渡る。都県境の真上。(たまリバー50キロ番外編。)

2025-05-26 13:36:27 | たまリバー50

都県境(東京都と千葉県・埼玉県・神奈川県との境)歩きのときの記録を再掲。

「羽田空港」遊歩道最先端。      

戻ります。

対岸(川崎市)の河口先端近くには「浮島町公園」があります。

振り返ると、飛行機が。

対岸の正面付近に川崎市(神奈川県)設置した「多摩川河口」の標識があるはずです。

昨年完成した「多摩川スカイブリッジ」を渡って川崎市側に向かうことにします。

遊歩道から階段を上がり、橋の上に出ます。

                     車道と歩道、自転車道と区分され歩きやすい。

   上流方向。

現在地を示す標識。けっこう設置されています。

河口側。ほぼ都県境の上で。

振り返る。橋の全長、約675メートル。

          バス、自家用車、自転車、歩行者とけっこう行き来があります。

羽田空港方面。

川崎市側。

             右手奥に「多摩川河口」碑があるはずです。

        

まもなく川崎市側橋詰。

                 このまま渡り終えてしまうのは、もったいない感じ。

交通の便利さの他、観光名所になること間違いなし!

「多摩川スカイブリッジ」。

               

案内板。都県境が川の中央に。

「多摩川スカイブリッジ」を振り返る。

京急大師線の終点「小島新田駅」に向かいます。

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東急・新丸子駅~京急・川崎駅。その5。「大師橋」・「首都高」。「多摩川スカイブリッジ」。「多摩川河口標柱」。羽田空港。(「たまリバー50キロ」第5日目。)

2025-05-25 16:13:01 | たまリバー50

「海から(河口まで)3K」。「大師橋」、「首都高大師橋」が遠くに。

手前が「大師橋」。

「首都高横羽線」。

「羽田空港」が見えてきます。

「海から2K」。

釣り人。

川の真ん中付近にも点々と。

「多摩川スカイブリッジ」。

多摩川最下流の橋。これまでは川崎方面から羽田空港までの所要時間が開通前は対岸まで電車とバスで1時間、自動車で20分程度かかっていたものが、この道路の完成により車では3分、徒歩でも10分余りで行き来できるようになった。2022年(令和4年)3月12日に開通

「KAWASAKI KING SKYFRONT」。

「海から1K」。

この先、「多摩川スカイブリッジ」の下をくぐって、「多摩川河口標柱」までの道を進みます。

右手は「ヨドバシカメラ」。

黒い点は、釣り人。

      ほぼ川の真ん中。胸まで浸かってしまいそうな・・・。対岸は、「羽田空港」第3ターミナル付近。

「多摩川河口標柱」。

今回、2度目。前回のときの写真も掲載。

「多摩川河口標柱」。

               「2012年6月吉日」とある。

小さな広場になっています。

現在の河口付近を望む。

この先で行きどまり。河口自体は、かなり先になる。

         

                   「↓」付近。     (「今昔マップ」より)

河口という標柱がある地点は、かつての都県境の線上にあるようです。微高地・河畔の畑の端だった?

陸地側には、大きな建物が。

               「ヨドバシカメラアッセンブリーセンター」。

※主に関東以北のヨドバシカメラ全店舗で取り扱う商品の保管と店舗配送機能、ネット通販関連の梱包、出荷拠点として運用されている。

羽田側の先端を望む。

※大田区側の起点。「たまリバー50キロ」

              実は「羽村取水堰」から53.0km。

ここが大田区(東京都)側の多摩川起点のようです。

来た道を振り返る。起点を示す柱が色あせているのが残念。

(以上、「都県境歩き」の記録。)

この先、まだまだ河口は先に伸び続けているので、ちょっと中途半端なのかも。

・・・川崎側も、

もう少し先まで道があります。「0.2K」。

ここで行き止まり。

来た道を振り返る。

                 

遠くに飛行機、手前に鳥。

ここまでで「神奈川県・川崎市側」の「たまリバー50」を終了。

        

ネコたちが見送ってくれました。

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東急・新丸子駅~京急・川崎駅。その4。川崎港水門。味の素本社。釣り人。(「たまリバー50キロ」第5日目。)

2025-05-24 20:14:37 | たまリバー50

前方に大きな水門が見えてきます。

             

「川崎港水門(国登録有形文化財)」解説板。

第一次世界大戦による好景気の中で、川崎市は足りなくなった工場用地の拡大を図る運河・講和計画を立てました。川崎港水門はこの計画の一環として将来の発展に備えるべく、当時の多摩川改修事務所長であった内務技師・金森誠之氏の設計により大正15年(1926)11月に着工、昭和3年(1928)3月に完成しました。2本のタワーとタワーをつなぐ梁、ゲートによって構成され、タワーの頭頂部には当時の川崎の名産品のブドウ・梨・桃をあしらった装飾がされています。梁部分には、現在は残っていないものの、エジプト様式の船のレリーフがありました。運河。河港計画は、現在の川崎区を対角線上に状に横切る幅員33~40mの大運河となり、内務省の都市計画事業の認可を受けましたが、敷地内に住宅や工場が建てられ、戦局の悪化による経済への影響などもあり、昭和18年(1943)に廃止されました。また、この河港水門は平成10年(1998)に、国の登録有形文化財(建造物)に登録されています。

※川崎は「ブドウ」「梨」「桃」の産地でもあったようです。

 多摩川。

味の素本社の敷地内。 

              

味の素グループの川崎工場は、京急大師線の鈴木町駅前から広がる鈴木町という街にあります。その鈴木町という地名、実は創業者・鈴木三郎助の名前に由来しています。
ここが「味の素®」の工場用地となったのは1913年のこと。創業当時の工場は神奈川県逗子市にありましたが、製品に確かな需要を感じていた鈴木三郎助は、大きな河川が近く、なだらかで運送の利便さに恵まれた土地で大規模な生産設備の建設を計画。わずか1年後となる1914年9月1日には操業を開始。そして1917年、味の素グループの前身となる「株式会社鈴木商店」を設立しました。

川崎工場は、1923年の関東大震災によって一度は崩壊したものの、二代目鈴木三郎助の機転と努力によって再建し、翌年には操業を再開。創業者の名前にちなみ、この地が「鈴木町」と呼ばれるようになりました。

振り返る。

味の素本社の外壁沿いの遊歩道を歩き、河口に向かいます。

     

河川敷は、グランド。  

「河口まで4K」。

河の真ん中付近に釣り人の姿が。

この先、河口付近まで川の中に釣り人の姿が点々と。腰まで浸かっています。 釣果は? 

川の中の黒い点々は釣り人。

※多摩川河口付近で釣れる魚:シーバス、マゴチ、クロダイなど。 

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東急・新丸子駅~京急・川崎駅。その3。「六郷の渡し」・新旧「六郷橋」。(「たまリバー50キロ」第5日目。)

2025-05-23 14:39:48 | たまリバー50

六郷橋から再開します。

                  「六郷の渡しと旅籠街」。

六郷は東海道が多摩川を横切る要地で、慶長5年(1600年)に徳川家康六郷大橋を架けさせた。慶長18年(1613年)、寛永20年(1643年)、寛文2年(1662年)、天和元年(1681年)、貞享元年(1684年)に架け直され、貞享元年のものが江戸時代最後の橋になった。1688年(貞享5年)の洪水以後、橋は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられた。

六郷大橋は千住大橋両国橋とともに江戸の三大橋とされた。寛文2年の橋は、長さ107間 (194.5m)、幅4間1尺7寸 (約8m)、高欄の高さが4尺3寸 (1.3m)。貞享元年の橋は長さ111間 (202m)、幅4間2尺 (約8m) であった。・・・

1925年(大正14年)8月には長さ446.3m、幅16.4m の六郷橋が架けられた。1984年12月、架け替えのための解体・撤去作業中に橋桁が落下し、死傷者18名を出す事故となった。宮本台緑地には、この橋の橋門も保存されており、その柱にはこのときの事故で亡くなった5人の氏名と、作家の森村桂よる鎮魂の詩が刻まれたプレートが取り付けられている。

橋門上部。アーチが見事。
説明板。ここには、「左内橋」(木造)の写真と1925年架橋の橋の写真がある。

 1984年12月、架け替えのための解体・撤去作業中に橋桁が落下し、死傷者18名を出す事故となった。橋門の柱にはこのときの事故で亡くなった5人の氏名と、作家の森村桂による鎮魂の詩が刻まれたプレートが取り付けられている。



雄々しい五人の男たちへ
 星がひときわ美しくまたたいた翌朝、
 橋造りに命をかけた男たちが、
 星の国へいってしまいました。
 どうか、天国で、
 こんどは、虹の橋を造る仕事をして下さい。
        森 村 桂

金子義男 菊池幸雄 小俣方一男 鈴木司郎 三宅郁夫 (1984・12・14)


1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

旧六郷橋。上方、大田区側の河川敷が現在ほど広がり、整備されていないことが見える。

 現在の橋は、1979年(昭和54年)に工事を始め、1997年(平成9年)に完成した。

正岡子規句碑(稲毛神社」内)。「六郷の 橋まで来たり 春の風 子規」。

六郷橋の拡幅のために架け替えられたのが、現在ある橋である。1979年(昭和54年)に工事を始め、段階的に工事を進めた。1984年(昭和59年)3月に旧橋の上流側に接して新橋の一部が完成し、交通を切り替えた。次に旧橋を撤去して1987年(昭和62年)に新橋が完成した。その後第3期の工事が完了したのは1997年(平成9年)であった。橋の幅は倍以上となり、車道も片側3車線に増加した。

・・・「東海道」歩きのときの記録を再掲。

「多摩川」に架かる「新六郷橋」際にある「六郷の渡し」説明板(川崎市)。

 関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ東海道の交通を遮る障害でもありました。
 そこで慶長 五年(1600)徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。以来、修復や架け直しが行われましたが、元禄元年(1688)七月の大洪水で流されたあとは、架橋をやめ明治に入るまで船渡しとなりました。
 渡船は 、当初江戸の町人らが請け負いましたが、宝永六年(1709)川崎宿が請け負うことになり、これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。

※「川崎宿」

徳川幕府が、東海道に駅制を定め、諸駅を設置した慶長6年(1601)のこと。諸駅より20年ほど遅れて川崎宿は元和9年(1623)に設置されました。それまでは品川宿の次は神奈川宿。往復十里(約39km)におよび、伝馬百姓の負担が過重のため、その中間に位置する川崎に新しい宿場・駅を設置しました、とされています。


1880年代のようす。

           (「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

六郷川(多摩川)をはさんで旧東海道。「六郷渡船場」とある。

 ※地元の鈴木左内が明治7年(1874)に木造有料の「左内橋」を架けたが、明治11年(1878)に流されてしまったため、この図には描かれていない。

左上の直線は、鉄道。左下に連なるのが「川崎宿」の町並み。

「明治天皇渡御記念碑」。

明治元年(1868)十月十二日、天皇は東下の道中、二十三艘でつくられた舟橋を渡って江戸(東京)に入った。

そのようすを描いたレリーフ。


(「制作 web-photographer 上野 隆史  Copyright 2003- All rights reserved.(ueno@tamagawa-kisui.jp)」より)


「六郷橋」の親柱風な三箇所にあるオブジェその1。

「笹舟」(右岸―川崎側―上流)。

その2「和船」。渡し船をイメージしたものか(右岸下流)。同。

その3「和船」。(左岸―大田区側―上流)。

・・・

対岸(大田区)を望む。

「リヴァリエB棟」。

        「河口からK」。

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5月21日。「小満」。蚕。紅花。麦秋。らっきょう。アジ。衣替え。

2025-05-21 20:01:12 | 二十四節気

今日、5月21日は、二十四節気の第8番目「小満」。

東京地方。このところ、真夏日になったり、雨が降ったり止んだりと変化が激しく、すっきりしないお天気が続きます。「走り梅雨」でしょうか。しばらくすると、本格的な梅雨に入ります。

さて、「小満(しょうまん)」とは、あらゆる生命が満ち満ちていく時期のこと。江戸時代の暦の解説書『こよみ便覧(べんらん)』には「万物盈満(えいまん)すれば草木枝葉繁る」と記されている。

太陽の光を浴び、万物がすくすく成長していく季節です。「小満」は「小さく満ちる」と書きますが、「満ちる」とは言っても、まだその完全な状態にはなっていないことを意味していて、まだ最盛期には達していない時期ということです。

具体的には、農業や自然界では、作物が順調に育ち始める時期です。気温も高くなり、日照時間も徐々に長くなってきます。

七十二侯では、

・初侯 5月21日〜5月26日頃

蚕起食桑 かいこおきてくわをはむ

蚕が、桑の葉をたくさん食べて成長する頃。人々の暮らしを支えていたため、「おかいこさま」と敬称をつけて呼ぶ地方もありました。

※ 養蚕の歴史は古く、紀元前15世紀頃に中国で始まり、その後、日本や遠くヨーロッパに伝わっていきました。絹織物は当時大変な貴重品であり、皇帝や国王などの権力者への献上品や、友好国への贈り物として用いられました。絹織物はその美しさから世界中の人々を魅了し、ペルシャや古代ローマの商人は海、山、砂漠などを越え、危険な目に遭いながらも絹織物を求めて中国までやってきました。交易路として彼らが通った道は、「シルクロード(絹の道)」として現在も知られています。(「農研機構」より)

・養蚕業が盛んだった頃は、群馬県、栃木県や埼玉県北部などでは桑畑を多く見かけましたが、中山道、日光街道など歩いている中では、まったく見かけることができませんでした。

かつての養蚕農家。屋根に特徴あり。

・・・

           伊勢崎市田島弥平旧宅主屋全景。

田島弥平旧宅は、田島弥平(文政5年(1822年)生、明治31年(1898年)没)による、近代養蚕法「清涼育(せいりょういく)」の開発と、ヤグラ(越屋根、天窓ともいう)付き総二階建ての近代養蚕農家建築の原点となった建物です。伊勢崎市境島村地区は、江戸時代中期から蚕種(さんしゅ=カイコの卵)製造の盛んな地域で、田島弥平家も有力な蚕種製造農家でした。 蚕の飼育は難しく、年によって収量の差が大きかったため、弥平は各地の養蚕方法を研究し、蚕の飼育には自然の通風が重要であると考え「清涼育」を大成し、安定した繭の生産に成功しました。 

また、「清涼育」に適した蚕室の工夫を行い、文久3年(1863年)には棟上に換気設備(ヤグラ)を備えた瓦屋根総二階建ての住居兼蚕室を建築しました。桁行き約25.38メートル、梁間約9.4メートルの大規模な建物で、1階を住居、2階を蚕室としました。 弥平は「清涼育」の普及のため明治5年(1872年)に『養蚕新論』を著し、ヤグラを付けた養蚕農家建築は、その後の近代養蚕農家建築の標準となりました。

幕末の横浜開港後、島村の蚕種製造農家は、当時微粒子病で養蚕に壊滅的な被害が出ていたヨーロッパ向けの蚕種輸出に積極的に取り組みました。

明治初期、生糸増産のために先進地の視察を行う際には、器械製糸は富岡製糸場に、養蚕技術は田島弥平に学ぶのがモデルコースでした。また、富岡製糸場の外国種などの試験飼育の要請に応え、繭品種の改良や統一運動に協力しました。

・次侯 5月27日〜5月31日頃

紅花栄 べにばなさかう

あたり一面に紅花が咲く頃。紅花は古代エジプト時代から染料として利用されていました。花びらの水に溶ける黄色の色素と、水に溶けない赤の色素から、紅色がつくられます。

ベニバナ(紅花、学名:Carthamus tinctorius)

 キク科ベニバナ属の一年草または越年草。雅称を末摘花(すえつむはな)余計な注:「源氏物語」に異様な赤鼻の女性を主人公にした「末摘花」という挿話がある)ともいう。紅色染料や食用油の原料として栽培される。
 エジプト原産といわれ、古くから世界各地で栽培されている。日本にはシルクロードを経て4 - 5世紀ごろに渡来したといわれている(6世紀伝来説もあり)。古くは和名を「くれのあい(呉藍)」といい、中国伝来の染料との意味。
 高さは1m。花期は6 - 7月で、枝先に頭状花をつける。花は、はじめ鮮やかな黄色で、徐々に赤くなる。
 日本では、平安時代に千葉県長南町で盛んに栽培され、江戸時代中期以降は現在の山形県最上地方や埼玉県桶川市、上尾市周辺で盛んに栽培された。しかし、明治時代以降、中国産の紅花が盛んに輸入され次いで化学的に合成可能なアニリン染料が普及したことから、こうした紅花生産は急速に衰退した。現在では紅花染めや観光用などにわずかに栽培されている。
 山形県ではベニバナが県花になっており、同県河北町には、「紅花資料館」がある。また、千葉県長南町も紅花を町花に指定し、月1回の紅花染め教室を開催している。
 紅花の花を摘んでから発酵・乾燥させたものが、紅色の染料や着色料(食品添加物、化粧品の口紅)の材料となる。
 ベニバナの花の色は黄色である。紅色にするには花を摘んですぐに水にさらして乾燥させる。これを何度も繰り返すと紅色になる。ベニバナの花の色素は水に溶けやすい黄色の色素サフロールイエロー99%と水に溶けにくい紅色の色素カルタミン1%が混在しており、水にさらすことによって分離するのである。
 紅花染めは、水にさらして乾燥させた花を水に含ませて餅つきと同じ方法で杵でついた後、丸餅の形にして乾燥させた状態の紅餅(べにもち)を灰汁の中に入れてかき混ぜた状態にしたのち、衣類を漬け込み(一次染め)水にさらす(灰汁はアルカリ性の液なので苦く、色もオレンジ色に仕上がる)。次に、紅餅入りの灰汁に烏梅(注:未熟な梅の果実を、薫製にしたもの)を少量加えたものに漬け込み(二次染め)水にさらす(烏梅はクエン酸の多い酸性の液体なので酸っぱく、色も赤みが加わってくる)。さらに、烏梅を少しずつ加えて配合を変えながら何度も染め上げて水にさらし乾燥させると完成する。このような手間をかけるのは、色が中に染み込みにくい特性を持つからである。

    (桶川市内)。

(以上「Wikipedia」参照)

 昭和57年には、紅花が山形県の花として定められ、山形県民に広く親しまれています。現在では、加工用品種の「もがみべにばな」や、切花用品種の「とげなし紅花」・「しろばな紅花」などが、山形県内の村山・置賜地方を中心に栽培されております。

(「」HPより)

・末侯 6月1日〜6月5日頃

麦秋至 むぎのときいたる

麦が熟し、たっぷりと金色の穂をつける頃。百穀が成熟する、麦にとっての「秋」です。この時期に穂を揺らしながら吹き渡る風を麦嵐、また降る雨を麦雨と呼びます。

(解説の項は「暦生活」HPより)

佐賀市の麦秋の風景 

佐賀市は大和町以北の山間部と有明海まで続く佐賀平野からなっており、平野部では稲作だけでなく麦の生産も盛んに行われています。麦が実り、収穫期を迎えた初夏の季節のことを「麦秋」と言います。麦秋の季節には一面に黄金の麦畑が広がります。特に佐賀市の南部地域(川副町、東与賀町、久保田町、諸富町)は丘陵のない広大な麦畑が広がっており、吹いた風が麦を揺らし、風が見える爽やかな風景を見ることができます。

(この項、「佐賀市観光協会」HPより)

 雨二滴 日は照りかへす 麦の秋 高浜虚子

※ 「麦秋」といえば、映画「麥秋」。日本映画の名作と呼ばれている作品のひとつ。

 

1951年製作/124分/日本
配給:松竹
劇場公開日:1951年10月3日

監督:小津安二郎。撮影:厚田雄春。

ストーリー

間宮周吉は北鎌倉に住む老植物学者である。息子康一は医者で東京の某病院に通勤、娘紀子は丸ノ内の貿易会社の専務佐竹宗太郎の秘書である。佐竹の行きつけの築地の料亭「田むら」の娘アヤは紀子と学校時代からの親友で二人共未婚であるが、安田高子と高梨マリの級友二人はすでに結婚していて、四人が顔を合せると、未婚組と既婚組とに対立する。折から間宮家へは周吉の長兄茂吉が大和の本家より上京して来たが、紀子の結婚談が出る。同時に佐竹も自分の先輩の真鍋という男との縁談をすすめる。間宮家では、周吉夫婦をはじめ康一たちも佐竹からの話に乗り気になり、紀子も幾分その気になっているが、古くから間宮家の出入りである矢部たみの息子で、康一と同じ病院に勤めている謙吉が、急に秋田の病院へ転勤するときまったとき、謙吉こそ自分の結婚すべき相手だったことに気がつく。謙吉には亡き妻との間に光子という三才の遺児があり、恒産もないので、間宮家では四十歳ではあるが、初婚で、善通寺の名家の出である真鍋との結婚を希望するが、紀子のたっての希望を通してやることにする。紀子は秋田へ去り、周吉夫妻も大和の本家へ引きあげて行く。その大和はちょうどさわやかな麦秋であった。

(この項、「」HPより)

※ 「秋」を「とき」と読む。「危急存亡の秋」の「秋」も「とき」と読むことに注意。漢字も正しく書きましょう。

「危急存亡の秋」は、魏・蜀・呉の三国時代、魏との戦いに出征する蜀の諸葛孔明の『出師の表』にある言葉。「今天下三分して、益州疲弊す。此れ誠に危急存亡の秋なり」に基づく。「秋」は、穀物を収穫する一年で最も重要な時期であることから、重大な時機を示す語。

旬の食べ物としては、「らっきょう」、「アジ」。

・らっきょうの旬は5月頃から7月頃まで。6月頃が出荷の最盛期です。取り扱い量は約893トン。最も多いのは鳥取県産(約363トン)で全体の約41%を占めています。続いて鹿児島県産(約316トン:約35%)、茨城県産(約63.7トン:約7%)となっています。〈ただし、この数値は「東京都中央卸売市場」扱いに基づく。〉(「野菜ナビ」HPより)

・アジは1年を通して獲ることのできる魚であり、日本国内であればいつでも手に入れることができます。 ただ、アジの旬といわれる時期は春~夏にかけてです。 資料によって多少の違いはありますが、5月~8月程度に獲れるアジは質が良く、特に6月~7月のアジは非常に食味に優れます。

(「ふるさと納税」HPより)

そして、6月1日は、「衣替え」。

衣替えの習慣は、平安時代の宮中行事から始まった。中国の風習に倣って旧暦の4月1日および10月1日に夏服と冬服を着替えると定め、これを「更衣(こうい)」と呼んだ

しかし、天皇の着替えの役目を持つ女官の職名も更衣と言い、後に天皇の寝所に奉仕する女官で女御(にょうご)に次ぐ者を指すようになったので、民間では更衣とは言わず衣替えと言うようになった。季節による取り替えは衣服以外についても、女房が手に持つ扇も冬は桧扇(ひおうぎ)、夏は蝙蝠(かわほり=紙と竹製の扇)と決められていた。

鎌倉時代になると、更衣は衣服だけでなく調度品までとり替えることを含むようになった。

江戸時代になると着物の種類が増え、江戸幕府は公式に年4回の衣替えでの出仕を制度化した。武家の制服は、旧暦の4月1日 -5月4日が袷(あわせ=裏地付きの着物)、5月5日 - 8月末日が帷子(かたびら=裏地なしの単仕立ての着物)、9月1日 -9月8日が袷、9月9日 - 翌年3月末日が綿入れ(表布と裏布の間に綿を入れた着物)とされ、一般庶民もこれに従った。

明治時代になると、明治政府は洋服を役人・軍人・警察官の制服に定め、夏服と冬服の衣替えの時期も制定した。

1873年(明治6年)1月1日より新暦(太陽暦)が採用され、太陽暦6月1日 -9月30日が夏服、10月1日 - 翌年5月31日が冬服と定められた。やがて、これが学生服に、次第に一般の人にも定着し、官公庁・企業・学校が毎年6月1日と10月1日に衣替えを行うようになった。(「Wikipedia」より)

かつてはこういう風に半ば制度化されていたため、特に制服のある学校では肌寒い日でも夏服、暑い日でも冬服と決められていた。昨今のように5月中に夏日となっても、冬服を着用させたり、クーラーも5月中は運転しないなど・・・。おかしな風習(風潮)もありました。

さすがにそれじゃ健康・活動にそぐわないと、5月、6月は夏服・冬服併用(9月・10月も同様)でも可にしたり、クーラーも運転可としているように、真夏のような東京地方の暑さの厳しさから、それも次第になし崩しになってきています。

熱中症が怖いですから。「衣替え」という言葉(風習)も死語になりつつある、ということでしょうか。

官民問わず、「クールビズ」がすっかり定着し、ノーネクタイが一般的になっています。

世の中も暑さ・寒さで一喜一憂。政財界も同様? 

都議会選、参院選と・・・。まったく落ち目となった自公政権を何とかできないのか? トランプもプーチンも何とかならないのか?

農水相が交代。後任は小泉さん。選挙狙いが明らか。人気のある(中身のない)小泉さんに国民はまた騙されてしまうか? 

次の二十四節気は、6月5日(木)「芒種」。

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東急・新丸子駅~京急・川崎駅。その2。川崎競馬練習馬場。「ラジオ日本」送信所。川崎駅付近。「六郷橋」。東海道・川崎宿。(「たまリバー50キロ」第5日目。)

2025-05-19 20:18:20 | たまリバー50

「川崎競馬場練習馬場」。

「ラジオ日本 1422kHz 50kw 川崎送信所」。

道路を挟み、右手に「放送局社屋」。

馬場が広がる。

厩舎が並ぶ。

競走馬が1頭。

土手下の草道を歩いているうち、だんだん踏み跡が狭くなり、・・・

遠くにJRと京急の鉄橋が。しかし、

テトラボットが足元に。行くに行けず、戻るに戻れず。足元が不如意に。

やっとのことで、土手に復帰。

                          ここで一息つきます。ここは、すでに川崎駅前の繁華街。

「川崎市川崎区」。

京急大師線(「川崎」~「川崎大師」~「小島新田」)。脇から、

「六郷橋」のたもとに出ます。

大師電気鉄道は明治32年(1899)、京都市電、名古屋電鉄に次いで日本では3番目、東日本では最初の電気鉄道として開業。現在の六郷橋より大師寄りにあった旧川崎駅と大師駅の2km間を約10分で運行していた。明治35年(1902)の線路延長に伴い、旧川崎駅を六郷橋駅を改称し、現在の京急川崎駅の場所に新たに川崎駅を新設した。

「六郷橋」。

「京急川崎駅」方向。線路際には「六郷橋駅」遺構。

京急線・JR線鉄橋方向

昼時になったので、川崎駅付近で昼食休憩を。

                    「東海道・川崎宿」。

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東急・新丸子駅~京急・川崎駅。その1。「丸子村」。ガス橋。多摩川大橋。(「たまリバー50キロ」第5日目。)

2025-05-17 14:29:41 | たまリバー50

5月16日(金)。曇り。今回、河口まで歩きます。

東急「新丸子」駅で下車し、「東海道新幹線」、「湘南新宿ライン」の下をくぐり、

 

「多摩川」に復帰。

              対岸は、東京都大田区。

      下流方向。

※神奈川県川崎市中原区には「上丸子」と「中丸子」があるが、「下丸子」だけは東京都大田区に。実はこの3地域、昔は一つの村だったが、多摩川の流路が変わったことで分断され、現在に至っている。「等々力(とどろき)」のように東京都と神奈川県に同じ地名があるのは、同じ村が多摩川の流路の変遷により分断されたことが影響している。

この付近の今昔。

                     (1880年代)玉川(多摩川)を隔てて丸子村。

                     (現在)多摩川を挟み神奈川と東京に分かれる。

「河口まで12K」。

河川敷には、「多摩川ゴルフ倶楽部」ゴルフ場が広がる。

武蔵小杉駅付近の高層マンション群。

 

対岸は、「キヤノン本社」付近。

「ガス橋」。

多摩川に架かる「ガス橋」は、1929年(昭和4年)、東京ガスの神奈川の工場から東京へガスを送るために、東京都大田区・神奈川県川崎市の間で架設されました。
 
当初はエネルギーの供給という機能のみの「ガス導管専用橋」として計画されていたものの、両岸の地域住民により一般の人も渡れるようにしたいと要望があがり、点検用の仮橋を人が往来できるよう1メートルの幅を持たせる計画に変更し、1931年(昭和6年)9月に瓦斯人道橋となりました。
 
昭和はじめの大田区下丸子付近には、白洋舎、日本精工、三菱精機などの工場ができ、川崎に住む工場で働く人々にとっては、それまで多摩川を渡るには下流の六郷橋か上流の丸子橋の他は船で渡るしかなく、「ガス橋」は大変便利な橋として重宝されました。
 
一方、もともと人が渡ることを想定して計画されたものではなかったため、最低限の幅しか設けていなかったにも関わらず自転車で渡る人やリヤカーを引いて渡る人などもおり、たびたび争いが起こっては近くの店の店主が仲裁に入ることもあったそうです。「けんか橋」の別名もありました。
 
1950年代になると多摩川をはさんで大工場が続いて建設され、ますます増大してきた交通需要にこたえるため、車の通行が可能な新たな「ガス橋」に架け替えることが計画されました。・・・1960年(昭和35年)6月に完工しました。

「ガス橋」は幅12メートル、橋長388メートルの大きな橋に生まれ変わり、今でも神奈川と東京都を結ぶ重要な交通路として活躍しています。
橋の下部にはガス管が通されており、東京ガスのパイプラインの動脈となっています。

建設当時の写真。

(この項、「東京ガス」HPより)

「多摩川大橋」。

すぐ下流に並行する橋は、東京電力とNTTが占有する専用橋3連のブルーのアーチ橋は、けっこうインパクトあり。

                 「川崎市立川崎総合科学高等学校」。

※「多摩川大橋」は、「国道1号線(第2京浜)」。

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。

流路が大きく湾曲しているところも。渡し場があります。(「矢口の渡し」)

                     2010年代のようす。↑が矢口ポンプ所樋管橋。

「クサフジ」。

         「ハマダイコン」。

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京王稲田堤駅~東急・新丸子駅。その4。河川敷・ゴルフ場。「等々力大橋」(仮称)建設中。河口(海)まで14K。新丸子駅。(「たまリバー50キロ」第4日目。)

2025-05-12 20:19:28 | たまリバー50

陽光の下、のんびりと。

「多摩川の孤独なライオン像」が対岸に(あるはず)。

河川敷の砂利道を歩く。

「東急ゴルフパークたまがわ」。

新しい橋梁の工事中。

                      「等々力大橋」(仮称)下部工事のようです。

       目黒通りが川崎へ「等々力大橋」巨大橋脚が出現中 「橋空白地帯」多摩川に念願の架橋

東京都世田谷区に、多摩川を渡る新たな橋梁「等々力大橋(仮称)」の建設が進んでいます。完成は2025年度の予定です。

この橋が架かるのは、有料道路・第三京浜の約1km東側。目黒通りの延長線となる形です。一般道路としては、二子橋と丸子橋のちょうど中間部分です。両者は5kmも離れているため、ボトルネックとなって慢性的な渋滞ポイントとなっていますが、混雑分散に期待がかかります。

目黒通りが川崎市内に入ったあとは、西下橋交差点から都市計画道路「宮内新横浜線」に接続。そこから子母口まで4車線道路が開通済みです。

名前のとおり最終的には新横浜駅へ直結する計画で、全通すれば都心~新横浜が4車線道路で直結されることとなります。・・・

さて多摩川の現場では、川崎側の橋台と橋脚が2022年夏に完成。東京側の橋脚も、約半分ほどの高さまでコンクリートが打ちあがっています。このあと河道内にもう1本橋脚を立てて、橋桁部分の工事へ移行します。橋の長さは約390m、鋼製の箱桁を主塔からケーブルで支える形式です。 ・・・

(この項、「」HPより)

「等々力」という地名は、川崎市にもあります。

当地は、もともと多摩川の流れが南に屈曲していたところに張り出した、荏原郡等々力村に属する半島状の土地であったが、洪水や多摩川の付け替えが行われた結果、対岸の飛び地となった。宝暦12年(1762年)の小杉村絵図にも、現在の川崎側の等々力の南側を、多摩川の本流から分流して蛇行した流路が「古川」として描かれている

江戸時代には旧河道の土地をめぐり等々力村と小杉村で争いとなり、宮内村が立ちあって境界が定められ、幕府側でのその裁決の文書には大岡越前守の名も残っている

明治末期に、多摩川に沿って府県境が引き直され、当地は神奈川県橘樹郡中原村へと編入された

この付近の今昔。

                     現在のようす。○が飛び地だったところ。

川崎市側は「等々力陸上競技場」等、大きな運動広場になっています。川崎市中原区等々力。

                      1880年代のようす。かなり蛇行する流路。

 

振り返る。

ゴルフ場。

武蔵小杉駅付近の高層マンション群。

「河口(海)まで14K」。

「丸子橋」方向。

対岸(世田谷区)。

今回はここまで。東急・「新丸子駅」に向かいます。途中、

「旧中原街道」。

今年初め、「虎ノ門」から「中原御殿(跡)」(平塚宿)まで歩きました。そのとき、通過したところ。

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京王稲田堤駅~東急・新丸子駅。その3。「宇奈根の渡し」碑。パターゴルフ。「多摩川の孤独なライオン」。(「たまリバー50キロ」第4日目。)

2025-05-11 14:29:08 | たまリバー50

両岸とも河川敷は運動広場に。

「河口まで20K」。

「宇奈根の渡し」碑。

「キャンプ場」。

対岸は、東京都世田谷区。

パターゴルフ場。老若男女が楽しんでいます。川崎市高津区。

対岸遠くに東急・二子玉川駅付近の高層ビル。「海から19K」

「平瀬川」が合流。

「新二子橋」と東急線鉄橋。

「二子玉川駅」方向。

対岸は「二子玉川公園」。

「第3京浜道路」。

 

対岸の送電線の下には、

「多摩川の孤独なライオン」。     

どういうわけで、一頭だけ?

この疑問を追求したブログ「デイリーポータルZ」には、その疑問が解決されていく記事が掲載されています。

それによると、

40年近く前、ライオンの近くには

・パンダの遊具があった

・「前後に揺れる遊具」や砂場もあった

・ライオンは台風のたびに埋まる

当時の写真などを発見、ついに、区役所による周囲の発掘作業に立ち会うことになります。そこでの発見は?

事の次第・興味深い話は、下記の記事をご覧下さい。(写真・図を借用しました。)

多摩川に埋まる遊具「孤独なライオン」の発掘調査に立ち会った【完結編】 :: デイリーポータルZ (dailyportalz.jp)

上記のような経緯があり、ライオンだけ撤去されずに残されて、今に至るわけです。

河川敷の野原にポツンと置かれたライオン。が、存在感あり。

以上、都県境歩きのときの記録。こちら側(川崎市側)からは確認できませんでした。

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京王稲田堤駅~東急・新丸子駅。その2。「登戸の渡し」・「堰の渡し」碑。「二ヶ領宿河原堰」・「二ヶ領せせらぎ館」。。(「たまリバー50キロ」第4日目。)

2025-05-10 13:59:59 | たまリバー50

「登戸の渡し」碑。 当時のようす。

左岸(東京都狛江市側)を望む。

ワンドになっています。

「二ヶ領宿河原堰」。

400年以前の江戸時代からある二ヶ領用水へ多摩川からの水を取水するための堰で、昭和24年(1949年)の戦争直後にコンクリート堰として完成し、その後、昭和49年9月台風により左岸側の狛江市で迂回流による侵食破堤が発生したことを契機に、平成7年に堰改築工事を着工し、平成11年(1999年)に現在の堰が完成しました。

対岸には「多摩川決壊」碑があります。以下は、「都県境」歩きのときの記録。多摩川左岸(東京都狛江市側)。

「多摩川決壊の碑」。

         

碑文。

昭和49年(1974)8月31日深夜から9月1日夕方にかけて、台風16号の影響をうけ、上流氷川を中心にした多量の降雨のため、多摩川の水位が上昇を続けました。この出水により、1日昼頃、二ヶ領宿河原堰左岸下流の取り付け部護岸が一部破壊されたのを発端に、激しい迂回流が生じたため高水敷が浸食され、懸命な水防活動もむなしく、午後10時過ぎには本堤防が決壊し、住宅地の洗掘が始まりました。迂回流はその後も衰えを見せず、本堤防260mを崩壊させたうえ、1日深夜から3日午後までの間、狛江市猪方地区の家屋19棟を流失させる被害をもたらせました。・・・被災住民は、国家賠償法に基づき、提訴し、河川管理の瑕疵について改めて指摘された水害ともなり、平成4年(1992)に判決が確定しました。

狛江側から「二ヶ領宿河原堰」。

再建された家屋。

ところで、この水害をもとに、今も話題に残るドラマができました。

『岸辺のアルバム』

1974年多摩川水害が背景にある。この水害で多摩川の堤防が決壊して19棟の家屋が崩壊・流出したが、家を失ったことのほかに家族のアルバムを失ったことが大変ショックであったという被災者の話を脚本の山田太一が聞き、そこから作品の構想が生まれた。ラストの水害で家が流されるシーンは、実際の報道映像が使用されている。

主演の八千草薫は、和泉多摩川駅の向かいのホームに佇む美しさに惹かれたといって電話をかけてきた竹脇無我と家族に隠れて不倫する主婦を演じ、それまでの良妻賢母的なイメージを打ち破り、新たな役どころを開拓。関川夏央は「貞淑を絵にかいたような八千草とラブホテルの組み合わせは衝撃的だった」と評する。小説では39歳だったが、脚本では42歳に直されている。八千草の実年齢は46歳だった。八千草はテレビ大賞主演女優賞を受賞。また、この作品でデビューした国広富之はゴールデン・アロー賞放送新人賞等を受賞した。

当時の平均視聴率は14.1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)とそれほどでもなかったが、その後評価が高まり、テレビドラマ史に残る名作という評価が定着している。山田は「脚本家を志す学生から『早春スケッチブック』と並んでこの作品が最も質問を受ける」と語っている。

このドラマは、前述のように実際に東京都狛江市で起こった水害を題材に、平凡な中流家庭の崩壊を描いた作品である。それまでの「家族で食卓を囲んで最後はハッピーエンド」というホームドラマの殻を打ち破り、辛口ホームドラマというジャンルを確立した点で、革命的な作品であり、日本のテレビドラマ界に与えた衝撃は大きかった。

そのストーリーと共に特筆すべきは、オープニングの映像である。平穏に見える川がある日突然濁流に変わり平凡な家庭を飲み込んでいくという、この作品のテーマを見事に象徴している。特にジャニス・イアンの甘く気だるい歌声と、マイホームが濁流に飲み込まれていく実際のニュース映像が鮮烈に印象に残る。

(「Wikipedia」より)

           

              

            

1977年に放送されたTBS制作のドラマ。

一見平和で幸せそうな中流家庭の崩壊と再生を描く。

出演:八千草薫、杉浦直樹、中田喜子、国広富之、竹脇無我、風吹ジュン、新井康弘、村野武範、原知佐子、津川雅彦、沢田雅美、山口いづみ ほか          

山田太一脚本のテレビドラマ史に残る名作「岸辺のアルバム」。淡い水彩画のような、おっとりしたタイトルとは裏腹に、このドラマはあえて「衝撃の家庭ドラマ」と銘打っている。激情的な人間模様、生臭い話、どろどろした性の問題を内包した作品だ。またその一方で、このドラマは「家庭とは何だろう?」「親と子の関係はどうあるべきか」といった普遍的な難問と正面から取り組んでいる。東京郊外の多摩川沿いに住む中流家庭を舞台に、初回放送当時のホームドラマでは一切タブーとされてきたエピソードが次々と展開される。

【ストーリー】
東京郊外の多摩川沿いに住む中流家庭。一見すると幸せそうに見える家族4人。しかし、実はそれぞれが問題を抱えていた。
母・則子(八千草薫)は良妻賢母型の専業主婦。だが、見知らぬ男から電話がかかってくるようになる。はじめは知らん顔をするも、やがてその男と会うようになり…。父・謙作(杉浦直樹)は有名大学出の商社マン。しかし、実のところ会社は倒産寸前の状態だった…。娘・律子(中田喜子)は大学生。なかなかの秀才で大学も簡単に合格したはずだったが、ここ一年は家族に対して心を閉ざしている。やがて、アメリカ人男性と交際するようになるのだが…。息子・繁(国広富之)は大学受験を控えた高校生。決して勉強のできる方ではないが、心の優しい性格の青年だ。だが、両親や姉の異変に気付き、思い悩むことに…。

(この項、「TBSチャンネル」HPより)

                

      

          (「YouTube」より)

・・・

「川崎市二ヶ領せせらぎ館」。

右岸から望む。 

         下流方向。

 

「フットサルコート」 

「海から21K」。 

「東名高速道路」。   

「堰の渡し」碑。  

「東名高速道路」をくぐる。

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京王稲田堤駅~東急・新丸子駅。その1。くさふじ。二ヶ領上河原堰。「中野島の渡し」。「多摩川水道橋」。(「たまリバー50キロ」第4日目。)

2025-05-07 20:42:27 | たまリバー50

5月5日。こどもの日。晴れ。

「京王稲田堤」駅から多摩川土手に出ます。水面が大きく広がっています。

サーフボードに乗って手漕ぎで下る! 二人。

くさふじ」。

土手にたくさん生い茂っています。外来種の「なよくさふじ」?

   「二ヶ領上河原堰」。

                 二ヶ領用水中野島取入れ口(上河原取水口)」。

二ヶ領上河原堰(にかりょう かみがわらぜき)

二ヶ領用水の取水のために多摩川に設けられた取水堰です。住所は右岸側が川崎市多摩区上布田、左岸側が調布市染地二丁目になります。

はるか上流の奥多摩湖から流下した多摩川は、両岸を東京都に囲まれて西に流れてきますが、上河原堰の約2km上流で、右岸側は神奈川県川崎市に変わります。

上河原堰は多摩川に設置された初めての取水堰として知られており、堰と多摩川とが織りなす雄大な景観が「多摩川50景」に選定されました。
この上河原堰は、東京湾河口から約26kmの位置にあります。

※二ヶ領用水の名は、江戸時代の川崎領稲毛領にまたがって流れていたことに由来する。農業用水として多摩川から水を引いて造られ、かつては近隣の農業を支えた二ヶ領用水だが、時が流れて現在の沿川は宅地化が進んでおり、工業用水などに用いられるとともに、近隣住民の憩いの場としても親しまれている。

下流側。

「中野島の渡し」碑。

「右岸・海から25K」。対岸は、東京都調布市。

森の左側が多摩川の流れ。

    舗装道路の脇には細道があり、自転車との接触もなさそう。

流れに近い林の中の道。               

       

                   向こうには、「小田急多摩川橋梁」

振り返ると「多摩川水道橋」。

狛江市内で多摩川に架かる唯一の道路の橋であり、東京都道・神奈川県道3号世田谷町田線の起点側(多摩川の左岸)が東京都狛江市、終点側(右岸)が神奈川県川崎市多摩区となる都県境の橋となっている。なお、この道の愛称は東京都側が「世田谷通り」、神奈川県側が「津久井道」と都県境をもって変化する。

この場所にはもともと「登戸の渡し」があったが、東京都内の水不足対策として、川崎市の長沢浄水場から相模川の水を都心へと送る「導水管」の建設が行われることとなった際に、歩道と車道の架橋計画が行われ、1953年(昭和28年)12月に先代の道路及び水道管の併用橋として開通することをきっかけに、同年8月に廃止された。なお、この「登戸の渡し」は、廃止時点で多摩川の渡し船としては最後に残っていた区間であった。

運動広場で小休止。

 運動を楽しむ親子連れ、読書する人、サイクリング、そぞろ歩きのグループ、・・・穏やかな春のひと時をのんびり。

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立夏。5月5日。端午の節句。こどもの日。五月晴れ。「目に青葉・・・」。「夏は来(き)ぬ」。「背(せい)比べ」。

2025-05-05 15:32:57 | 二十四節気

                 一面、麦畑。緑が目に染みるようです。(「日光東往還」歩きにて)

5月5日(こどもの日)は、24節気の7番目「立夏」。春分と夏至のちょうど中間にあたる。

暦の上での夏の始まり。この日から立秋の前日までが夏季になる。

「立夏(りっか)」とは夏の始まりの時期。一年のうちで、もっとも過ごしやすい季節。

むしろ、温暖化で季節が早まっています。すでに真夏日が出たところも。

東京地方も晴天で、じわじわと暑い。

5月1日(木)が八十八夜」でした。八十八夜は、立春から数えて88日目にあたる日を指し、茶摘みや稲の種まきの目安となる日とされてきました.

七十二侯でいうと、

・初侯 5月6日〜5月10日頃

蛙始鳴 かわずはじめてなく

春先に冬眠から目覚めた蛙がウォーミングアップを終え、元気に活動し始める頃。オスの蛙の鳴き声は、メスの蛙を恋しがって鳴く声だともいわれています。

・次侯 5月11日〜5月15日頃

蚯蚓出 みみずいづる

冬眠していたミミズが土の中から出てくる頃。他の生き物は「啓蟄」の頃に出てきますが、ミミズはマイペースに活動を始め、土を肥やしてくれる影の努力家です。

・末侯 5月16日〜5月20日頃

竹笋生 たけのこしょうず

たけのこがひょっこり顔を出す頃。伸びすぎないうちに収穫しなければ、美味しいたけのこは味わえません。種類によって収穫期は異なるので、三月から六月頃まで収穫できます。

(この項、「暦生活」HPより)

                      

最近は、筍も早め早めになっているようですし、銚子街道歩きでは、ミミズもけっこう道ばたに這い出しています。カエルの鳴き声も聞こえてきます。

5月に入って最近の東京地方の天気のように晴れると、「爽やかな」「五月晴れ」といったりますが、この表現が気になることも。

※「爽やかな」は、秋の、まさに澄んだ空に用いたように思うのですが。5月頃は「薫風」「風薫る」というような表現が適切だったような・・・。

※「五月晴れ」も本来は「梅雨時の合間の晴天」(旧暦の5月の、じめじめとうっとうしい雨が続く中、時に、すかっとした晴れ間がある。)を指していました。ところが、いつしか「5月」の晴れの日でも使われるようになり、今や、この言い方がすっかり定着したようです。

たしかに、二つとも、あまりこだわることはなさそうですね。

しかし、「梅雨」を指す「五月雨(さみだれ)」と、「梅雨のころの夜の暗さ」などを表す「五月闇(さつきやみ)」は、本来の意味で用いられています。

「立夏」というと、山口素堂(寛永19年~享保元年)の「目に青葉山ほととぎす初鰹」。

正しくは「目に」だそうですが。「青葉」も「ほとどぎす」も「初鰹」もいずれも夏の季語ですね。

「初鰹」に因んだ芭蕉の句碑が神奈川県の戸塚宿にあります。

「芭蕉句碑」(旧東海道歩きの際)

 「鎌倉を 生きて出でけむ 初松魚(かつお)  芭蕉翁」

 当時鎌倉で水揚げされた初鰹は戸塚を通り江戸に運ばれました。嘉永2年、当地の俳人達によって戸塚にちなんだこの句の碑が建てられました(「解説板」)。

さらに、作詞:佐佐木信綱、作曲:小山作之助により1896年に発表された歌「夏は来ぬ」。こういう季節感、風物詩は、都会ではまったくなくなりました。

卯の花の 匂う垣根に
時鳥 早も来鳴きて
忍音 もらす 夏は来ぬ

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾ぬらして
玉苗 植うる 夏は来ぬ

橘の 薫る軒端の
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌むる 夏は来ぬ

楝ちる 川べの宿の
門遠く 水鶏声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

五月やみ 蛍飛びかい
水鶏鳴き 卯の花咲きて
早苗植えわたす 夏は来ぬ

つい口ずさんでしまう名曲。卯の花、時鳥、さみだれ、玉苗、橘、蛍、楝、水鶏、五月やみ、夕月、・・・季節感あふれる詩情。しかし、これらの風物も、すっかり忘れ去られてしまった感がします。

この歌すらも、忘れ去れてしまって・・・。

    (「Wikipedia」より)

また、今日(5日)は、「こどもの日」。五節句の一つ「端午の節句」です。

以前ほど鯉のぼりをあげているおうちは少ないようです。ご時世でしょうか。

旧暦では午の月は5月に当たり、5月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、後に5が重なる5月5日が「端午の節句」の日になった。「端」(はし)は「始め・最初」という意味であり、「端午」は5月の最初のの日を意味していたが、「午」と「五」が同じ発音「ウ-」であったことから5月5日に変わった

 
端午の節句に菖蒲などの多種の薬草を厄除けに用いることは中国の南朝梁・隋朝の文献に記されており、菖蒲は刻んで酒に混ぜて飲む、とある

日本では、菖蒲を髪飾りにした人々が宮中の武徳殿に集い、天皇から薬玉(くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜った。かつての貴族社会では、薬玉を作り、お互いに贈りあう習慣もあった。宮中の行事については、奈良時代に既に「菖蒲のかずら」等の記述が見られる

端午の日には柏餅(かしわもち)を食べる風習がある。柏餅を食べる風習は日本独自のもので、は、新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていった。

(この項、「Wikipedia」参照)   

そうそう、こんな歌も思い出しました。

「背(せい)くらべ」海野厚作詞・中山晋平作曲

柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ

粽たべたべ 兄さんが
計ってくれた 背のたけ

きのうくらべりゃ 何のこと
やっと羽織の 紐のたけ

柱に凭れりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ

雲の上まで 顔だして
てんでに背伸していても

雪の帽子を ぬいでさえ
一はやっぱり 富士の山     

いよいよ田植えも盛んに

                                    (水郷にて)。向こうは、利根川。

次の二十四節気は「小満」。5月20日になります。

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薫風薫る5月の「向島百花園」。さんざし。せんだん。すずらん。しらん。たにうつぎ。ぼたん。みやこわすれ。・・・かるがものつがい。

2025-05-04 13:53:00 | 向島百花園

すっかり春爛漫の「向島百花園」。さんざし。 

栴檀(せんだん)。                                 

※香木の栴檀はインドネシア原産の白檀(ビャクダン)を指し、「栴檀」は特別な香りを持たない

鈴蘭(すずらん)。

紫蘭(しらん)。

                      

「たにうつぎ」。

和名の由来は谷などに多く自生していることによる。     

  「姫卯木(ひめうつぎ)」

牡丹(ぼたん)。

「都忘れ(みやこわすれ)」。

  • 承久の乱で佐渡に流された順徳帝が、庭に咲いていた紫色の花を見て、「都を忘れることができた」と感動し、その花を「都忘れ」と名付けたという説があります。
  • 京を去る際にこの花を見て、「都を忘れることにしよう」と思ったことから、この名前になったという説もあります。

カルガモの番(つがい)。

水中にもぐり水草を採る。

スカイツリー。木橋の下にカルガモ。

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