おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その5。一宮・街並み。玉前神社。御菓子司角八本店・ほしみや・一宮酒場 がけっぷち! 。「梅一輪」。駅構内デザイン。(「房総東往還」を歩く。第4日。)

2023-11-30 18:30:20 | 房総東往還

新旧の建物が続く街並み。

バス停「鳥居前」。赤茶け、字がかすれた標識。

        この路線のバス停は、ほとんどこういう状態。

バス停名のもとになった「玉前神社」が右手奥にあります。

   「御菓子司角八本店」。

千葉一宮の御菓子司角八本店は江戸寛政年間、玉前神社の門前、一宮城の城下として栄えた上総之国一宮に生まれました。

 

 

(この項、「同」HPより)

参道には、明治時代に建てられた土蔵造りの蔵をリノベーションしたカフェ「赤七屋」さんがあり、旬の食材のシロップをかけたかき氷と、静岡おでんを主に販売しています。

玉前神社や一宮城跡を見て回るのが、本来。しかし、海岸の方に向かいたいので、ここからいったん上総一ノ宮駅に寄り、休憩します。

          右が創作居酒屋「ほしみや」。古民家を改造。

             

料理は名物・ほしみやメンチを中心に多彩。お酒はワインを中心にご用意しております。

右奥にかつての商家が。宿場や城下町特有のウナギの寝床のような細長い敷地。

奥に煙突。お味噌屋さん?  

「一宮酒場 がけっぷち! 」・九十九里の地酒「梅一輪」。

梅一輪酒造のお酒造り

千葉県九十九里平野の中央に位置する山武市で醸造業を営む梅一輪酒造は、地酒とは地元のお客様の食生活の一部分として溶け込んでいるお酒であると考えております。つまり、地元のお客様の幸せな食卓に自然と並ぶお酒。それが弊社の考える理想の地酒です。そして、そのお酒の原料米は蔵の地元の千葉県産米で地産地消を具現化していること。また、そのお酒は作り手の思いや、ぬくもりが感じられる高品質な日常酒でなければなりません。すべての梅一輪酒造の日本酒が、この基準を満たしているか、私どもは常に自問自答し続けています。梅一輪酒造の製品がお客様のお食事に、うるおいや安らぎ、そして喜びをほんの少しでもご提供できましたら、それに勝る幸せはございません。

(この項、「梅一輪酒造」HPより)

外房線「上総一ノ宮駅」西口。

      

駅前のようす。

                  寂れている印象ですが。

バス停「一宮駅」。

海岸までの本数がないので、歩いていこうか、と。

駅構内。屋根が素敵な意匠。

が、風がますます強くなり、ここでゆっくり休憩しているうち、一宮海岸へは別の日に出かけることにします。

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JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その4。バビアナ。長生村から一宮町へ。宮原・旧道。一宮橋。海抜5.0㍍。東の大磯。風船爆弾。(「房総東往還」を歩く。第4日。)

2023-11-29 20:52:20 | 房総東往還

田畑が広がる。

 庭先に、「バビアナ」という名前の植物が。

 

南アフリカを中心に60種あまりが分布する球根植物ですがその大半がアフリカの中でもケープ地方に分布しています。

葉っぱの形はアヤメやグラジオラスに似て細長い剣状で直立し、縦方向に走る葉脈の部分が盛り上がっており葉の表面の凹凸がはっきりと筋のように見えるのが特徴です(葉っぱに光が当たったとき、影ができるのでさらにはっきり見えます)。

球根は繊維状の軟らかい皮にくるまれています。 開花期間は主に4月~5月で、花茎を伸ばして穂状に花を咲かせます。花色は青紫、紫、白など中心ですが、そのほかに黄色い花を咲かせる種もあります。

品種によっては耐寒性が劣るものもあるので、置き場所の移動ができる鉢やコンテナ植え向きですが、一般に出回っているストリクタとその園芸品種なら簡単な霜よけ程度で庭植えも可能です。

(この項、「」HPより)

にぎやかな通りに。

               

          お店の向こうに旧道があるらしい。

長生村と一宮町との境界。

     右に、小さな祠。

       沿道には、道路整備で元の場所から移転された祠があるようです。

バス停「町田」。しかし、1日2便だけ。

「宮原」交差点。

ここに短いですが、旧道が残されています。

すぐ「国道128号」に合流します。

     

「いちのみやはし」。

上流方向。

下流(海側)。「一宮川」。河口は「長正村」。

橋を渡ったところ。「海抜5.0㍍」。

街中に入ります。

            

 一宮町は平安時代頃に成立した上総国一之宮・玉前神社を中心に発展してきました。古くから多くの信仰を集めた玉前神社は、一宮町の町名の由来でもあり、今でも一宮町のシンボル的存在です。

※玉前神社の祭神は玉依姫命。神武天皇の母で、すぐ東に広がっている太平洋からこの地に上陸したという伝説も伝わっている。

 現在の一宮町域には江戸時代、一宮本郷村、新笈村、東浪見村、綱田村、宮原村、船頭給村、新地村があり、合併や編入により昭和30年(1955)に現在の一宮町が誕生しました。

 明治時代末期から昭和時代初期にかけて、一宮は別荘地として栄えた神奈川県大磯と比較して「東の大磯」と呼ばれるほどの別荘地として栄えました。首相をつとめた斎藤実・平沼騏一郎をはじめ政財界の著名人たちが軒をそろえ、多いときでは約100軒の別荘が並んでいたといいます。昭和恐慌の煽りを受けて衰退していきましたが、別荘地としての発展は町内の商工業の発展、観光地化に大きな影響を与えました。
 また、綱田地区では明治時代初期に梨栽培が開始されています。今の町の特産品にもつながる礎が作られ始めた時代でもありました。
 戦争末期の昭和19年(1944)から翌年にかけては、一宮海岸から陸軍の秘密兵器・風船爆弾が打ち上げられました。風船爆弾は和紙をこんにゃく糊で張り合わせて作った直径約10mの気球に、爆弾や焼夷弾を吊り下げて飛ばし、アメリカ本土への攻撃を企図した平気です。一宮の他茨城県の大津(北茨城市)、福島県の勿来(いわき市)の計3か所の基地より合計で約9,000個が打ち上げられたといいます。

(この項、「千葉県一宮町観光協会」HPより)

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JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その3。旧道・竹藪。長生村マンホール・鶴と亀・九十九里浜。八積(やつみ)。コスモス畑。槇。(「房総東往還」を歩く。第4日。)

2023-11-28 20:00:18 | 房総東往還

左に入る旧道。

住宅が続く。

長生村のマンホール。中央に村章「ち」を図案化した規格型。

長生村のマンホールには、九十九里浜の荒波と鶴、亀を デザインした汚水管マンホール蓋があるようですが、見つけられませんでした。

(「」より)実にめでたい絵柄です。

左に竹藪が。

           

藪の向こうに、病院の看板。「南洲会長生クリニック」。

まさか「藪医者」というわけではないでしょうが。駐車場には車がたくさん。

※松尾芭蕉の門人である俳人の森川許六が1706年に編んだ『風俗文選』では、汶村による『藪醫者ノ解』において、「養父」(やぶ)が語源とする説が述べられている。それによると、但馬国養父に住んでいたという評判の名医が語源であり、本来は名医を指す言葉であったという。現在の養父に当たる兵庫県養父市は、その名声を悪用して「養父医者の弟子」を騙る者が現れたことで「養父医者」の評判が悪くなり、「藪医者」に変化したのではないかと話している。また、件の名医とは養父出身の旗本である長島的庵(1647年頃-1723年頃)ではないかとしている。ただし、蔑称としての「藪」の字は更に古くから使われており、養父説は学問的には支持されていない

養父市ではこの説にちなみ、僻地医療活動を行う若手医師を対象にした「やぶ医者大賞」を2014年から行っている

国道128号(「伊南房州通往還」)に復帰します。

右に「長生八積医院」。

※「八積」=「やつみ」。長生村唯一のJR外房線の駅名でもある。

この付近の今昔。

                     (現在)国道から左に入る道が旧道。

                     (1880年代)○が現在の分岐点。「藪塚」。

イチョウの葉が、タイヤをたくさん積んだ校庭の遊具に。

「長生村村立八積小学校」。

米「八積」村はなくなりましたが、駅名と小学校名に残っていました。

「忠魂碑」。

右手に畑地が広がる。

左は、満開のコスモス畑。

                  

     

右手に、

               房総特有の方形に近い寄棟造りの大きな屋根。

左手の浅間神社境内に「南部用水組合揚水機 寄贈 柴﨑喜代松様」とある大きなポンプ。

農業用水を汲み上げる装置のようです。

「詳細は石碑に記載」とありましたが、判読不能。

右手には、田畑が大きく広がっています。

畔道の一部に旧道が残されているようですが。

「旬の里 かねだ」。

「金蔵寺」。

見事に調えられた槇。

広い庭に剪定された槇が並ぶ。よく調和されています。奥の建物も立派。

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本格的な冬を間近に。「向島百花園」。菊展。一気に色づく木々。

2023-11-27 20:39:14 | 向島百花園

11月25日(土)午後。晴れ。

  

それぞれネーミングがすてきです。

 

         

イチョウもすっかり黄ばみ、足元には落ち葉が。

            

          枯れすすき。

 

         初冬の陽光に映えるカエデ。

・・・

ということで、もう少し冬支度が始まる頃に訪問する予定です。

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JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その2。長生村~長生きのまち~? 七井土。鵜沼堰。(「房総東往還」を歩く。第4日。)

2023-11-26 18:45:31 | 房総東往還

「長生村」に入ります。「房総横断道路」。 

長生村(ちょうせいむら)

長生村は、千葉県の房総半島九十九里浜に面し、東京から約60キロ、千葉市から約30キロの距離にあり、昭和28年11月3日に八積村、高根村、一松村の3カ村が合併して誕生しました。現在の村域は、東西7.4キロ、南北6.0キロで、面積は28.25平方キロ。太平洋の黒潮による影響を受けて、年間を通して温暖な気候です。

交通は、西部から南部にかけて国道128号とJR外房線が縦貫しており、村内には八積駅があります。千葉駅までは普通電車で約45分、東京駅までは茂原駅からの特急利用で約1時間と、周辺都市への利便性に恵まれた距離にあります。

産業は、温暖な気候と平たんな地形を活用して、稲作や野菜栽培、酪農などのほか、九十九里浜での沿岸漁業を中心に発展してきましたが、昭和57年に西部地区に工業団地が開設されたことにより、工業生産が飛躍的に伸びています。

また、美しい海岸一帯は県立九十九里自然公園内にあり、首都圏の海浜レクリエーション地として知られ、夏季には海水浴客でにぎわいをみせています。

こうした恵まれた条件を活かし、将来に向けて着実な発展をめざしていくため、長生村では平成11年度から都市計画制度を導入し、計画的な市街地の誘導を図り、調和のとれた活力ある利便性の高いまちづくりを進めています。

村の花「ハマヒルガオ」。村の木「ラカンマキ」

(この項、「」HPより)

※長生村~長生きのまち~?

1897年(明治30年)に上埴「生」郡(かみはぶぐん)と「長」柄郡(ながらぐん)の区域で長生郡が発足したことが村名の原点。 1953年に長生郡の高根村・一松村・八積村の3村合併により長生郡長生村が誕生した。 長生きとは関係がなさそうです。

 

「長生村」は最近、こんなことで話題になりました。以下「NHK」ニュースより。

千葉 長生村議会議長 3度目の辞職勧告決議のあと議員辞職

公用車の中で職員をたたきけがをさせたとして罰金刑を受けた千葉県長生村の東間議長は、30日に3度目となる辞職勧告を受け、議員を辞職しました。

長生村の東間永次議長は、ことし4月、私的な歓送迎会から公用車で帰宅する途中、車を運転していた女性職員をたたいて軽いけがをさせたとして罰金20万円の略式命令を受け、30日午前に極めて異例となる3度目の議員辞職勧告を受けました。

東間議長は、これまで議員を続ける意向を示していましたが、昼前に「一身上の都合」として辞職願を提出しました。これを受けて午後1時に本会議が開かれ、辞職が全員一致で了承されました。

東間議長は、1990年の村議会議員選挙以降、これまでに9回当選し、去年5月からは4度目となる議長を務めていました。

東間議長は「長い間ご迷惑とお騒がせし申し訳ありません。心からおわび申し上げます」とコメントしています。

・・・

「㈱合同資源千葉工場」。

バス停「七井戸」。この先、三叉路の右に進む道は、大多喜への道。

※「七井土」とも書く。江戸期は七井戸村。地名は「ななこ(斜子)・い(川)・ど(処)」の転訛で川沿いの傾斜地形を指す。

             「ホームプラザナフコ 茂原長生店」。

左奥には田畑や森。

右手にも田畑が広がる。

来た道を振り返る。

右手に森が広がる。

「ECCジュニアスクール」。

         ヤシの木に囲まれた、しゃれた建物。

「鵜沼堰」。

桜の名所でもあり、釣り場としてけっこう人が集まるようです。

この先、左手に旧道があります。

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JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その1。国道128号・房総横断道路。野巻戸。大多喜ガス。落合橋。「農水・両総」。明治時代と変わらない現在の道筋。(「房総東往還」を歩く。第4日。)

2023-11-25 21:37:10 | 房総東往還

茂原駅。右にモニュメント。

11月18日(土)曇り時々晴れ。強風。

降りたとたん、強い風が。雲行きも怪しい。果たして「上総一ノ宮駅」まで歩けるか? 

本来なら前回のところまで戻って歩くのですが、旧市街地歩きをショートカットし、駅正面の広い道を進みます。

※茂原という地名は、平安時代藤原黒麻呂貴族)によって拓かれた荘園藻原荘)に由来しているとされ、字の通り湿地が多く「原」が江戸時代に現在の「茂原」という文字に変わったと言われている。

北西にある「藻原寺」は、「そうげんじ」と読みます。

          「房総横断道路」との標示。ここを左折します。

           「国道128号」となっています。

しばらく行くと、「野巻戸」交差点。

野馬の放牧場があったのか?

正面の大きな建物は、ソニー、東芝、日立が中・小型のLCDの事業を統合したジャパンディスプレイ(JDI)の茂原工場。

「大多喜ガス」。

                   隣には、「関東天然瓦斯開発株式会社」。

          「七夕飾り」のガスタンクが印象的。

「落合橋」からの「阿久川」。

                                 上流方向。

「一宮川」との間に、

                   「川中島下水処理場」。

「伊南房州通往還(房総東往還)」となる「国道128号」を進みます。

バス停「早野新田」。平日夕方に2本のみ。他は運休!

            「茂原」~「一宮駅」。

              

農家の庭先に、花の名は?

槙の垣根。

「農水・両総」と記されたマンホール。

両総用水

千葉県香取市佐原の第1揚水機場で利根川から取水し、香取市伊地山で栗山川に流し込み、栗山川下流の山武郡横芝光町寺方の第2揚水機場で再度取水し、東金市茂原市などの九十九里平野南部まで農業用水を供給している。全取水量は14.47m3/s、用水を供給している受益面積は約20,000ヘクタールになる。

幹線は、第1揚水機場から栗山川源流までの北部幹線と、第2揚水機場までの栗山川部分、第2揚水機場からの南部幹線により成り立っており、北部幹線と栗山川部分を房総導水路と共用している。

両総用水の事業はその後に着工された愛知用水の事業などでも参考にされた

《沿革》

かつて、九十九里平野は海岸線に平行に砂堆とその間の低地が列をなし、低地には縄文時代ラグーン湖沼群として残されていたが、明治以降の開発により湖沼群は姿を消した。そのため大きな川が無い南部の地域では、良港に恵まれず漁業が衰退して農業に移行したこともあって、用水不足が常態化していた。一方利根川東遷事業などのため、香取市佐原一帯の大須賀川及び小野川流域は排水不良地域となっていて、度重なる水害に悩まされていた[2]。このような状況の中で1933年昭和8年)、1934年(昭和9年)、1940年(昭和15年)と大旱魃となり、九十九里平野中央部では、大正時代から山武郡東部連合耕地整理組合の用水事業が行われていたこともあって、1943年(昭和18年)戦時の食料増産計画の一環として、用水不足解消と排水の改良を同時に考えた両総用水事業が計画、施工された。

(この項、「Wikipedia」より)

見事に剪定された槙。

幹線道路とあって、大型ダンプ等けっこう交通量が多い。

沿道には大きい農家。

この付近の今昔。

                                                                                                                                             

1880年代のようす。                        現在のようす。

古今の道筋にはほとんど変化がない。

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JR外房線「大網」~「茂原」。その7。「高師」。県立長生高校。外房線をくぐる。「高師」交差点。茂原七夕まつり。ガス灯。(「房総東往還」を歩く。第3日。)

2023-11-23 20:47:04 | 房総東往還

「茂原高師郵便局」。

          右からの道を合わせ、「茂原駅」方向へ。

しばらく住宅地が続く。

茂原市のマンホール。

             市の木ツツジの花、三輪をデザイン。

別のマンホール。

           茂原市の頭文字「も」を図案化した市章を中央に配した規格型。

県立長生高校。

長生高校は、茂原市にある公立の高校です。通称は、「長高」。県内ではトップレベルの進学校で、全日制は「普通科」「理数科」、定時制は「普通科」があります。文部科学省よりSSHに指定され、理数科のSSHコースは独自カリキュラムを設けています。約9割が大学進学し、「早稲田大学」「慶應大学」「上智大学」「千葉大学」の実績があり、「東京大学」合格の実績もあります。 部活動においては、運動系、文科系ともに熱心に活動しています。文化祭をはじめ生徒の自主性に任せた行事が多くあり、生徒間の絆が深いです。海外からの留学生、短期訪問生徒を積極的に受け入れたり、留学する生徒をサポートするなど、国際感覚を育むことに力を入れています。

(この項、「」HPより)

振り返る。

外房線のガードを抜けます。

「高師」交差点。

「房総東往還」はまだ先の旧市街地に進みます。

来た道(「房総東往還」)=右の道を振り返る。

今回はここで終了。「茂原駅」に向かいます。

        

                

「千代田町」。

茂原駅前。

          

七夕祭り。           

今年の夏の行事でしたが、

4年ぶりに開催!「茂原七夕まつり」へ行こう

<picture><source srcset="//de5c3ya1fcot1.cloudfront.net/uploads/content_image/image/9605/pc_show_webp_02.JPG.webp" type="image/webp" />なかには3mを超える飾りもあります</picture>
なかには3mを超える飾りもあります

例年7月下旬頃に開催される「茂原七夕まつり」は、関東三大七夕祭のひとつにも挙げられている夏の恒例イベントです。例年80万人もの来場者で賑わい、県内では最大規模のまつりになっています。

4年ぶりの開催となる2023年のテーマは、“こころ踊る再会の刻(とき) ~「やっと逢えたね…織姫」「ずっと逢いたかったよ…彦星」~”です。

会場であるJR外房線「茂原駅」周辺の商店街や特設ステージで、さまざまなイベントが行われます。

「茂原七夕まつり」の特徴は、会場全体を埋め尽くすように飾られる七夕飾り。手の込んだ豪華な七夕飾りが、まつり会場を彩ります。

また、約230店の露店が軒を連ね、さらにまつりムードを盛り上げます。

2023年は、7月29日(土)~30日(日)の2日間にわたって行われる「茂原七夕まつり」。今年で69回目の開催となり、来て、見て、参加して楽しい内容となっています。

市の木ツツジの花。

JR茂原駅。

             幼稚園児の御礼。

中央にガス灯。

次回は、JR外房線「茂原」から「上総一ノ宮」まで。

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小雪(二十四節気)。小春日和も束の間、今週末からは一気に冬へ? 「房総東往還」歩きも風と寒さとの戦い?

2023-11-22 20:20:52 | 二十四節気

    

今日は、二十四節気のうち「小雪(しょうせつ)」。冬とは言えまだ雪はさほど多くないという意味。

東京は、先週からぐっと冷え込んでいます。雨は降らないようですが。冷え込みは一段と。

立冬から数えて15日目ごろ。北国から雪の便りが届く頃ですが、まだ本格的な冬の訪れではありません。陽射しが弱くなり紅葉が散り始めるころで、いちょうや柑橘類は黄色く色づいてきます。次第に朝晩の冷え込みが厳しくなってきて、冬支度に入る頃。

「七十二侯」では、

初侯 11月22日〜11月26日頃

虹蔵不見 にじかくれてみえず

曇り空が多くなる頃。陽射しが弱まり、虹を見ることが少なくなります。見ることができても、夏の空のようなくっきりとした虹ではなく、ぼんやりとすぐに消えてしまいます。

次侯 11月27日〜12月1日頃

朔風払葉 きたかぜこのはをはらう

冷たい北風が、木々の葉を落とす頃。朔風とは北風のことです。地面いっぱいに広がる落ち葉と、葉を落とした木々は冬の景色の象徴であり、季節の移り変わりが感じられます。

末侯 12月2日〜12月6日頃

橘始黄 たちばなはじめてきばむ

橘の実が黄色くなっていく頃。橘とは柑橘のことで、古くから日本に自生していました。常緑植物であることから「永遠」を意味するとされ、不老不死の実だといわれていたようです。

(この項、「暦生活」HPより)

隅田公園などは、12月中旬くらいの季節感。

※現在、隅田公園は池を中心に大改修工事中。写真は、数年前のもの。

向島百花園も冬支度。

      カリン。

和名「カリン」は、材の木目が三味線の胴や竿、座卓に使われる唐木の花櫚(かりん、花梨とも書く)に似ているので名づけられたものである。(「Wikipedia」より)

すっかり日の暮れるのが早くなりました。「つるべ落とし」という感じ。

※写真は、2020年12月。

                      

以下はある日の戯れ言。

 

急に寒くなりました。
ついこの間まで、ワイシャツ一枚でよかったのにね。

もう薄手のジャンバーでは寒~い。
ついでにズボンも厚手のものに。
一週間前は夏のズボンだったのにね。

そうそう、遂にコタツも登場。
この間はクーラーをつけていたのにね。

どうなってるでしょ、最近の気候は。
三寒四温。行きつ戻りつ。
春先もそういう言葉もなくなって。
けれど、
秋だけは「つるべ落とし」という表現が
かえってぴったり。

一年が急に暑くなって、急に寒くなって。
春。秋。何だか肩身の狭い季節になったような。
夏ばかりがでかい顔しています。

春を早く追い出し、秋の出番をくい止めてと
昔は6・7・8月。今は5・6・7・8・9・10月
ともう6ヶ月のロングランとなって
夏こそが我が物顔で
日本を席巻しています。

日本の四季は二季に変わってしまって・・・。
日本の学校では
三学期制が二学期制にとって変わられ

どこもかしこも
小学校から高校まで
二期制でなければ学力低下とばかり
大流行したのはいつだったか。

今や思うように伸びず、
いつしか三学期制に戻すところも
増えてきたらしいのに。
季節だけは二期制に。

それもこれもデジタル化。
○か×かの二項発想。
季節もついにこうなりました。
やはりこれも温暖化現象というヤツですか。

電車も涼しい風から
急に暖かい風に切り換えて。

人間はそう簡単に切り換えられない。
アナログ型人間は
もう世の中の変化についていけません。
ファジーがホントは
身体にも心にもいいはずなのに。・・・

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JR外房線「大網」~「茂原」。その6。貨物線の跡。茂原海軍航空基地その後。(「房総東往還」を歩く。第3日。)

2023-11-21 20:43:14 | 房総東往還

突き当たりで右折し、すぐ左折します。

                  草むらの向こうの道は、かつての貨物線の跡になっています。

※戦後できた工場への引き込み線。

                     (現在)○が上の写真のところ。

破線が、かつての貨物線。外房線に合流していました。現在は、緑道になっています。

                「三井東圧(当時)」からの貨物線があります。(「今昔マップ」より)

この付近の今昔。「三井化学」の敷地がかつての海軍基地の中心。東西にかなり広がっています。

 ○が茂原海軍航空基地。西側に司令部などの官舎が並ぶ。南北の線路が基地への引込み線。(「今昔マップ」より)

※「司令部跡」は現萩原小学校、「兵舎跡」は現茂原中学校、「滑走路跡」は三井化学(株)東側の約1,000mの道路。

「千葉県立茂原樟陽高等学校」。この学校もかつての基地の敷地内。

       

来た道を振り返る。

道の両側には、茂原市立茂原中学校や住宅地が続きます。

「萩原東公園」。

茂原海軍航空基地

1941年(昭和16年)07月に建設決定し、同年09月に着工。東郷地区の約150戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転。(旧東郷小学校跡記念碑がある)
1942年12月に「第五五二航空隊」が茂原に開隊。しかし翌年昭和18年にマーシャルに進出し、茂原に戻ることなくテニアンにて解隊。
1943年9月に佐伯空艦爆隊を主体とする「第五〇二航空隊」が茂原海軍航空基地の管理部隊となる(現駐は松島基地)。同隊は1944年2月に北海道に転進し、1944年10月に解隊。
1943年10月に夜戦部隊を主体とする「第三二一航空隊 (鵄)」が茂原に開隊。1944年2月にマーシャルに進出し、7月に解隊。
1943年11月に第三〇一航空隊 (艦戦)が、茂原基地を原駐として横須賀基地で開隊。1944年7月に硫黄島にて解隊。
1942年に館山で開隊した第二五二航空隊 (元山航空隊戦闘機部隊を主体) はマーシャルで壊滅状態となり、1944年2月に館山基地にて再建。本部は館山基地に置かれ、1944年(昭和19年)8月以降、茂原基地に転進している。
「二五二空」は本土防空の迎撃に従事。1945年(昭和20年)5月28日、米軍が茂原飛行場を強襲。「二五二空」は郡山飛行場に退避。そのまま終戦を迎えた。

戦後の1955年(昭和30年)3月18日、茂原海軍航空基地が自衛隊の基地になろうとしたとき、茂原市議会は満場一致で基地に反対する決議し、跡地の大部分は工業地帯と学校用地、農地、住宅地となった。

(この項、「近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝 戦跡紀行ネット -日本の近代と慰霊の地を巡る‐ https://senseki-kikou.net/」HPより拝借)

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JR外房線「大網」~「茂原」。その5。掩体壕(えんたいごう)。新茂原駅。茂原海軍航空基地跡。(「房総東往還」を歩く。第3日。)

2023-11-20 21:10:41 | 房総東往還

静かな落ち着いた家並みが続きます。

      

土蔵。

来た道を振り返る。

                                  右は、宗延寺。

「新茂原駅」に向かう途中に「掩体壕」が残っているので、探してみます。

竹藪の向こう?

付近を歩き回り、見つけることができました。

農家の一角に。

            

森の中に隠れるようにあります。

住宅の裏手。

掩体壕(えんたいごう)は、防御設備である掩体の1種で、軍用機などの装備・物資や人員を、敵の攻撃から守るためにコンクリートなどで造った横穴状の施設。欧米ではHAS(Hardened Aircraft Shelter)と呼ばれる

                                       (「Wikipedia」より)

・・・

掩体壕について

掩体壕の写真

太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年9月に、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡等の約150戸の民家や東郷国民学校(現東郷小学校)及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設が始まりました。

司令部跡は現萩原小学校、兵舎跡は現茂原中学校、滑走路跡は三井化学(株)東側の約1,000mの道路で、基地の東端は東郷保育所前を通る通称海軍道路と呼ばれている辺りです。基地の北側には誘導路が巡らされ、戦闘機を敵襲から守るための格納施設である掩体壕が造られました。

この写真の掩体壕(3号掩体壕)は土砂を壕の形に盛って転圧して筵(むしろ)や板を並べ、その上に鉄網等を張ってセメントを流して造られており、総面積365平方メートル、壕の中の面積286平方メートル、高さは最大6m70cmあります。築城は、主に横須賀鎮守府から派遣されてきた海軍設営隊が行っておりましたが、長生中学校や茂原農学校(現長生高校・茂原樟陽高校)の生徒、近隣住民等も動員されたことが確認されております。

戦争の記憶が薄れていく中、当時の様子を物語る貴重な戦争遺跡です。

(この項、「」HPより)

茂原市内には数多く「掩体壕」が残されています。

※中央が「茂原海軍航空基地跡」。

(「近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝
 戦跡紀行ネット ‐日本の近代と慰霊の地を巡る‐URL: https://senseki-kikou.net/」HPより)

このうち、一ヶ所しか見て回ることが出来ませんでしたが。

「房総往還」の最終地・館山でも掩体壕を見ました。・・・

「ブロワ珈琲焙煎所」の前の住宅地に、

掩体壕(えんたいごう)」。

         誘導路跡。

■ 館山海軍航空隊掩体壕(えんたいごう)ってなあに?
 館山海軍航空隊は、海軍5番目の航空隊(昭和20(1945)年の終戦の時には、54の海軍航空隊があった)として、昭和5(1930)年にできました。
 そのあと、現在の館山市沼から香にかけての地区には、さきほど見学した射撃場跡や、飛行機の部品や弾薬、食料、燃料などを保管するための倉庫や、この「掩体壕」などさまざまな建物がつくられました。
 昭和14(1939)年の記録によると、館山海軍航空隊には、97式艦上攻撃機を中心に124機の飛行機がありました。この時の、館山海軍航空隊の役割は、中国で行われていた戦争に飛行機を送ることでした。
しかし昭和16(1941)年に、日本とアメリカが戦争をはじめると、館山海軍航空隊は、東京、東京湾、太平洋岸を守るための基地として使われました。戦争が終ったあとに、日本軍からアメリカ軍に渡された記録によると、終戦の時には、零戦、紫電など41機の飛行機しか残っていませんでした。
この「掩体壕」は、アメリカ軍の飛行機に爆弾を落とされても飛行機を守ることができるよう、全体が分厚いコンクリートで固められています。館山海軍航空隊と洲ノ埼海軍航空隊の周辺には40以上の掩体壕がつくられましたが、現在残っているのは、この宮城のものと、香(こうやつ)に残っている大型の掩体壕の2つだけです。

(この項、「」HPより)

「97式艦上攻撃機」(「」より)

・・・

「新茂原駅」。

駅前。現在はこぢんまりとしている。

「房総東往還」に戻ります。

左手に「阿久川遊水池」。

     沢井製薬 関東工場。

この建物の南側一帯に「茂原海軍航空基地」がありました。現在は、「三井化学」の広大な工場等になっています。

この先、歩く道筋の両側はかつての基地の跡になります。

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JR外房線「大網」~「茂原」。その4。国道128号。「腰当」交差点で左折。外房線をくぐる。阿久(あく)川。「大多喜天然ガス」マンホール。(「房総東往還」を歩く。第3日。)

2023-11-19 20:37:33 | 房総東往還

農道の先には、外房線の踏切。

              

振り返る。単調な歩道歩き。

ほぼ直線。

長生郡市広域市町村圏組合章。制水弁。 

国道の西側の低山の麓に民家が並び、東は広く開け、田園地帯が広がっています。沿道には、自動車販売などの大型店が連なっています。

前方に「腰当」交差点。  

※地名は「こし(抉じ)・あて(洪水)」で豪雨後に洪水の危険性のある川沿いの浸食地という意味。(「未知の駅艘ふさ」HPより)

ここを左折し、外房線をくぐります。 

来た道を振り返る。強い日差しのもと、けっこう疲れた!

      歩行者専用道。

              

右手に外房線の鉄橋。

    「阿久(あく)川」。

                  「新川代橋」。

下流方向。

この付近の今昔。

                             (現在)

       旧道は一部消滅し、橋を越えた後に復活。

                             (1880年代)

   「至本納驛道」とあるのが「房総東往還」。

 「大多喜天然ガス」マンホール。

                  大多喜ガス㈱の前身、「大多喜天然ガス」のマンホール蓋。

千葉県は国内で天然ガスが産出する数少ない地域です。

葉県の天然ガスを葉県で費(千産千消)しているため、輸送時のコストや二酸化炭素排出量を抑えることができるので、

安定した価格で、かつ環境にやさしく、みなさまのご家庭にガスをお届けすることができます。

※「千産千消天然ガス」は大多喜ガスの登録商標です。

(この項、「」HPより)

千葉県の天然ガスは、明治時代の中頃から利用されるほど歴史が古く、現在では純国産の天然ガスの中でも全国第2位の生産量を誇っています。

             

 千葉県の天然ガスは、比較的深度の浅い地下水に溶解していることから、水溶性天然ガスと呼ばれています。また、この地下水は塩分を含んだ太古の海水で「かん水」と呼ばれており、通常の海水の約2,000倍ものヨウ素が含まれています。

 地球上のヨウ素生産地は偏在しており、日本はチリに次ぐ世界第2位の主要産出国であり、国内においては千葉県で生産されるヨウ素が国内生産量の約80%を占めています。

 千葉県で産出される天然ガスとヨウ素は、貴重な国産天然資源として様々な分野で利用され、重要な役割を果たしています。

水溶性天然ガス

 千葉県の天然ガスは、かん水に溶解して地中に埋蔵されています。主成分は地中に埋もれた有機物が微生物によって分解されて生まれたメタンガスです。
 
 この有機物の起源は、地質学的には第四紀と呼ばれる時代(氷河期が始まり、人類が出現した頃)に砂や泥と一緒に海底に堆積した動植物と推定されています。この有機物が分解されて天然ガスとなり、長い年月をかけて地層中のかん水に溶けて溜まり、濃度を増していったものと考えられています。

 このようにして誕生した水溶性天然ガス田は、千葉県を中心とする南関東一帯に広がり、可採埋蔵量は国がまとめた資料によれば3,685 億㎥といわれています。

(この項、「」HPより)

※房総台地は地下水も豊富で、水と火にはこと欠かない土地なのかもしれません。

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JR外房線「大網」~「茂原」。その3。本納城・街道筋の町場。曲尺手(かねんて)・桝形。看板建築。「国道128号」に合流。(「房総東往還」を歩く。第3日。)

2023-11-18 21:11:41 | 房総東往還

「子安神社(橘樹神社の摂末社)」。

本納(宿)へ向かいます。

街道筋らしい町並み。

             

                   高台をバックに家並みが続きます。

先に「曲尺手(かねんて)」が見えてきます。

      

※曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。宿場の出入口には必ず設けられた。「桝形(ますがた)」ともいう。

振り返る。

    ここも「曲尺手」になっています。

※「曲尺(かねじゃく)」。

来た道を振り返る。曲尺手(桝形)のため、先が見通せない。

バス停「本納駅入口」。

ここも曲尺手の名残りか? 

看板建築。

看板建築とは,主に東京や関東周辺で関東大震災後に商店などに用いられた建築様式である。具体的には,木造2階建ての店舗兼住宅で,建物の前面を垂直に立ちあげ,モルタルや銅板,タイルなどで洋風のデザイン装飾を施した建物をいう。その装飾の多くは,正式なギリシャ古典様式を踏襲したものではないが,むしろその違いこそが地方の看板建築の特徴といえる。無名の職人たちが,西洋の様式や意匠をもとに,在来の技術や技能によって新たに創り上げた,日本独自の庶民の建築様式である。

            

「水戸街道」歩きで石岡市内でたくさん見かけました。

・・・

「久松商店」。昭和5年頃建てられた木造2階建ての看板建築。正面外壁には銅板が張られている。
「十七屋履物店」。昭和5年に建てられた木造2階建ての看板建築。この地区における看板建築の先駆けとなった。
       「久松商店」と「十七屋履物店」。 

     
 「すがや化粧品店」。
 昭和5年頃建てられた木造2階建ての看板建築。屋号を冠したペディメントやコリント、イオニア様式風の柱頭飾りなど重厚な外観で、この地区における看板建築の秀逸なものの一つである。
注 ペディメント:西洋建築における切妻屋根の妻側屋根冑水平材に囲まれた三角形の部分
  コリント、イオニア様式:古代ギリシャ建築様式


        「森戸文四郎商店」
 昭和5年頃に建てられた木造2階建て看板建築。2階部分がアールデコ調の外観となっている。
 他にもまだまだあるようです。それぞれがコンクリート製ではなく、すべて木造(一部銅板)なのがすごい!

「パンとケーキの店 ビィオレ」。

・・・

ここも「曲尺手」になっています。

振り返る。

        

「公立長生病院」。

この先で、「国道128号」に合流します。

  

               大きな幹線道路で車も多い。 

「本納」地区について。

藩政時代には、房総東往還と呼ばれた街道上に定期的に市が立ち、町場が形成されていた。取引される品は日用品等の小規模なもので、ささやかながら在郷町的賑わいを示していたのだろう。宿駅機能があったかどうかははっきりしないが街道の要衝であったことは間違いないと思われる。
 直角に二度折れ曲り遠見遮断が図られるなど、街道上の主要な集落らしい体裁が残っていた。あるいはこれは城下町時代に備えられていたものなのなのかもしれない。
 ただ家並からはその歴史を感じ取りにくくなっているのが惜しまれる。平入り、一部に寄棟屋根も見られる伝統的な構えの建物が散見されるが、連なっている箇所はなく古い町並としての体裁は淡いものだった。地元も特に認識されていない様子で、今後これらの建物も徐々に失われ、町並風景から往時を偲ぶことは困難になっていくのではと思わせた。

                                   (この項、「郷愁小路」HPより)

この付近の今昔。

                                                                                                                                           

(現在)右からの赤い線が「国道128号」。           (1880年代)街道に沿って町場が形成されている。

※引用している絵図は、「歴史的農業環境閲覧システム」HPより。

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JR外房線「大網」~「茂原」。その2。永田駅。コスモス。何度か旧道へ。茂原市入り。(「房総東往還」を歩く。第3日。)

2023-11-17 20:58:23 | 房総東往還

『Googleマップ』で、「伊南房州通往還(※「房総東往還」)」と記されている道を進みます。

バス停「永田駅入口」。

          すばらしい槙の垣根が続きます。

           

垣根を立派にしつらえた、おうちが目立ちます。

満開のコスモス。

右に旧道が。

             

奥に森が広がります。

来た道を振り返る。

もとの道に戻ります。

         里山風景。

気が付いたら足元に「茂原市」の標石。茂原市に入りました。

豪華な長屋門。

               

刈入れを終えた田んぼが広がります。

飛び去るシラサギ(↓)。

外房線の特急電車。

鋭角に折れる旧道へ。

合流するところに、「妙藏寺」石柱。顕本法華宗に属するお寺。

この付近の今昔。

                                                                                                                                                   

(現在)〇が残された旧道。                      (1880年代)本道として機能している。

 

この後、「本納宿」に入っていきます。

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JR外房線「大網」~「茂原」。その1。「大網駅」。「房総東往還」今昔。旧道。がまの穂。水準点。肥料問屋。(「房総東往還」を歩く。第3日。)

2023-11-16 10:11:50 | 房総東往還

外房線「大網駅」。

今回は、茂原駅まで歩くことに。

11月3日(祝)。晴れ。まだまだ暑い夏日が続く一日でした。

こうして掲載している今は、いきなり冬が来たようなお天気。わずか一週間ちょっとでこれだけ変化するとは!

かなり季節感がずれてしまいますが、そのときの記録を。

 

川沿いの前回歩いた道(「房総東往還」)。

この道を歩くことに。

この付近の今昔。

                             (現在)外房線沿いに南下する「房総東往還」。

                             (1880年代)北東に「大網宿」。

今も古い町並みが残されている。太く記された道が「房総東往還」道。

この時期は、いったん「大網宿」に入り、東金から大網と続く道と合流し、南下していたようです。

短い距離ですが、右に旧道があります。

 「駒込クリニック」裏の道。

合流。

大網白里市のマンホール。

太平洋に面している大網白里市の名勝九十九里浜海岸に朝日が昇るデザイン。他のデザインのマンホールには気付かず。

左右に田園風景が広がります。

             

 外房線が遠くに。

「がまの穂」が密生。 

                

ガマとはガマ科ガマ属の植物で6月から8月にきりたんぽやソーセージ、フランクフルトに似た茶色の花を咲かせます。これをガマの穂と呼びます。

ガマの葉は最大で150cmから200cmにもなるほどの大きさで、川沿いや池の周りなどに自生します。

ガマの穂の茶褐色部分は雌花です。ガマの雌花は弾力があってふんわりと膨らんでいるのが特徴です。ガマの穂の上部には細長い棒があり、これがガマの雄花です。

ガマの穂は雄花も雌花も花弁がないのが特徴で、とても花のようには見えません。穂状なことからガマの穂と呼ばれています。

ガマの穂の大きさは10cmから20cmほどで、太さは2cmから3cmほどです。茎が細い分、太いガマの穂はよく目立ちます。群生しやすいのも特徴です。

膨らんだガマの穂を手でつぶすと勢いよく破れるため、爆発すると言われています。爆発したガマの穂からは白い綿毛が飛びだし、種を飛ばして繁殖します。ふわふわと舞う白い綿毛はとても美しくて見ものです

ガマの穂は食べることができます。地下茎は天ぷらにするとよいでしょう。海外では小麦粉にガマの穂の花粉を混ぜてパン、ビスケットにして食べることがあります。アボリジニが食用にしていたという記録もあるほどです。

ガマの新芽や若い穂はクセなく食べることができるでしょう。

ちなみに蒲鉾の名前の由来はガマ(蒲)の穂からです。見た目が蒲鉾に似ていたことからこのような名前になりました。

他にも花粉は蒲黄(ほおう)と呼ばれ生薬として利用することがあります。利尿作用があるとされ、さらに止血薬として使用されることがあります。

(この項、「Green Snap」HPより)

再び、右手に旧道があります。

        

「水準点」。

国土地理院が管理する水準点は、一等水準点、二等水準点などがあり、全国の主要国道等に沿って約2キロメートル毎に設置しており、各地点の高さを測るための基準として利用されています。 

※「水準点」が全国の主要国道等に設置されている、ということは、この道が当時の主要道路ということに。  

 肥料問屋のようです。

「千代田化成」「マクボス」「ダイヤ化成」「タキポリン」「しき島肥料」「塩」・・・看板がズラリ。                

小さな祠の脇にあった石塔。刻まれた内容は不明。

この付近の今昔。

                                                                                                                                  

(現在)「水準点」9.7と記されている。           (1880年代)旧道が残されている。

※今回の旅は、「房総東往還の地図 | 旧街道モバイルマップ

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向島百花園へ。11月12日(日)。冷たい雨・曇り空。一気に冬の気配。菊花展。のこんぎく。りんどう。はぜのき。ぶっそうげ。・・・

2023-11-13 20:15:03 | 向島百花園

寒い、寒い! 東京地方。北風がビュービュー。「凩1号」が3年ぶりに。

全国からも初雪どころか、どか雪になったところも。

秋がいつあったのか? 一気に冬に。

昨日も寒かった! そんな中、

初冬の園内。

                 

11月12日(日)。曇り空。時折、冷たい雨。

久々の百花園、「菊花展」が開かれています。

丹誠込めた菊の盆栽。

                  真ん中の作品は、「村のお祭り」。

             

それぞれ凝った作品がずらり。

 

       

          

         

鉢植えも置かれています。まだ時期が少し早そうですが。

  

         職人さん達の丹誠込めた菊がたくさん。

地植えの野菊。こんぎく。

のこんぎく。

・北海道と沖縄を除く全国に分布するキク科の多年草。ヨメナと共に、いわゆる「野菊」と呼ばれるキクの代表。葉はヨメナと同じように食用になり、味もよく似る。別名をコンギク、ナンヨウシュンギクという。

・日向を好み、田んぼの畦道、山道あるいは林の縁などの開けた場所に多い。根はいわゆる地下茎であり、横に広がって群生する。

・野に咲く紺色の菊という意味合いでノコンギクと命名されたが、花の色は白~薄紫と個体差や地域差が見られバラエティに富む。紺色が濃い「紺菊」という園芸品種もある。

(この項、「庭木図鑑・植木ペディア」HPより)

りんどう(竜胆)。

リンドウは秋の山野草の代表的なものです。本州、四国、九州に分布し、人里に近い野山から山地の明るい林床や草原に見られます。人気が高く、薬草としても広く知られています。
春に細い芽が伸びてきて、ササの葉に似た細い葉をつけ、茎は次第に立ち上がります。夏が過ぎると茎は次第に横に倒れ、秋が過ぎたころから、先端に小さな蕾をのぞかせます。蕾は渦状に巻いた状態で、日を追うごとに伸びます。そして、暖かい日ざしのなかで、青紫色で5裂した筒状の花を数輪開きます。花後にはさや状の果実がつき、秋も深まるころには葉が枯れて休眠に入ります。
園芸的改良が盛んで多くの品種が見られ、鉢花や切り花などでも流通しています。

(この項、「」HPより)

           

ぶっそうげ。

・熱帯及び亜熱帯に自生するアオイ科フヨウ属の常緑低木。日本では沖縄、九州南部、伊豆諸島南部、小笠原諸島に分布し、江戸時代の慶弔年間以降に本州での栽培が始まった。ハワイを代表する植物「ハイビスカス」の原種の一つで、南国風の花を観賞するため、自生地以外でも温室等で栽培される。

・学名Hibiscus rosa-shinensisは「中国のバラ」を意味し、西洋人が中国で発見したことによる。中国南部~東インドを原産地とする説もあるが栽培品だった可能性もあり、正確な原産地は分かっていない。インド洋諸島~東アフリカで成立した雑種植物とする説もある。

・ブッソウゲという名は、中国名「扶桑」に由来する。扶桑は「日本」を意味する言葉でもあり、混乱を避けるためか「花」を付け加え、これを音読みしてブッソウゲとなった。沖縄ではアカハナー(赤花)あるいはグソーバナ(後世花)といい、後者は本種を仏花として墓前に供えることによる。

(この項、「庭木図鑑・植木ペディア」HPより)

ふよう(芙蓉)。

             

はぜのき。

ひときわ鮮やか。

今までの暑さのせいか、イチョウもモミジも色づくにはまだ早いようでした。

今日の寒さで一気に色づくことを期待して。

でも、ダウンコートに着替えて外出した今日の夕方でした。

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