おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR新前橋駅~渋川駅。その2。勝山城跡。天狗岩用水。(「利根川を歩く。第7回目。)

2021-11-16 22:15:43 | 利根川を歩く

                          遠くに見える橋は、「上毛大橋」。

「勝山城跡」。

この城は、赤松氏の居城(砦)で、1371年(応安4年)に築城されたと伝えられている。1427年(応永34年)赤松能亮の時、姓を関口と改姓したという。1525年(大永5年)関東管領の上杉氏・長尾氏の居城である総社要害城(蒼海城)の支城となり、関口清房が在城した。1566年(永禄9年)長野氏箕輪城落城後、武田勢の攻略により落城し、廃城となった。

勝山城は、元景寺の北西に位置し、総曲輪は約4㎞にわたる縄張りを持っていた。廃城後、北条氏康の領有するところとなり、この地(上野郷や高井郷)が瀬下豊後守にあてがわれた。1607年(慶長12年)総社領主秋元長朝によって総社城の一部に取り入れられたが、勝山城の遺構は、勝山小学校の北西部に一部を残し、ほとんどが利根川に崩落した。

                                                                     

1880年代のようす。自然堤防が複雑に。              2010年代のようす。流路変更されている。

この先で、自転車道は利根川を離れて「天狗岩用水」沿いの道となります。

 

         

「水天宮石祠」。

天狗岩用水に沿って造立されたこの石祠は、水の守護神である水天宮である。稲作農民にとって水は命であった。水神は八大竜王や弁才天である。水禍の災難を除くために造立された水の神とも考えられる。

天保14年(1843)8月、植野村立石の発願主榎田庄五郎外11名の講中の名が刻まれている。天保の飢饉から用水の恩恵に感謝し水天宮を造立、信仰を深めた歴史の証しである。

秋元長朝と天狗岩用水

慶長6年(1601年)関ヶ原の戦いの翌年、総社藩主となった秋元長朝は、灌がい用の水が得られれば、水不足とたび重なる戦いで荒れ果てた領地を実り豊かな土地にできると考え、用水をつくることを計画しました。
長朝は総社藩の東の端を流れる利根川から水を取ろうと考えました。しかし、土地が川の水位より高い位置にあったので、上流の白井藩に水の取り入れ口をつくらなければ、水を引くことができませんでした。
そこで、白井藩主の本多氏の許しを得るために、高崎藩主の井伊氏に協力を求めて相談しましたが、「雲にはしごを架けるようなもので無理であろう」といわれました。しかし、長朝の決意は固く、井伊氏に仲だちを頼み、本多氏と何度も話し合いました。その結果、水の取り入れ口を白井藩につくることが許されて、用水工事の測量を始めることができました。
知行高が6千石の長朝にとって用水づくりは経済的にも大きな負担であり、領民の協力なしにはとても完成しない大変な事業でした。長朝は領民に協力してもらうために、3年間年貢を取り立てないことにして、慶長7年(1602年)の春に用水工事に取りかかりました。
工事は最初のうちは順調に進みましたが、取り入れ口付近になると大小の岩が多くなり、工事を中断することもありました。そして最後には、大きな岩が立ちはだかって、とうとう工事は行き詰まってしまいました。
長朝や工事関係者、領民たちは困り果てるばかりでした。思いあまった長朝は、領内の総社神社にこもって願をかけました。その願明けの日、工事現場に突然一人の山伏が現れて、困り果てている人々に言いました。
「薪になる木と大量の水を用意しなさい。用意ができたら、岩の周りに薪を積み重ねて火を付けなさい。火が消えたらすぐに用意した水を岩が熱いうちにかけなさい。そうすれば岩が割れるでしょう」
人々は半信半疑でしたが、教えられたとおりにしたところ、見事に岩が割れました。人々がお礼をいおうとしたら、すでに山伏の姿がありませんでした。そんなことから、誰とはなくこの山伏を天狗の生まれ変わりではないかと語り合うようになりました。
この話が、天狗が現れて大きな岩を取り除いたといわれている「天狗来助(てんぐらいすけ)」の伝説です。その後、人々は取り除かれた岩を天狗岩、用水を天狗岩用水と呼ぶようになりました。
総社の人々はこの天狗に感謝して、取り除かれた大きな岩の上に祠を建ててまつることにしました。これが「羽階権現(はがいごんげん)」です。今も、総社町にある元景寺の境内にまつられています。
長朝が計画し領民たちの協力によって進められた天狗岩用水は、3年の年月をかけて慶長9年(1604年)にようやく完成しました。この用水のおかげで領内の水田が広がり、総社藩は6千石から1万石の豊かな土地になりました。
秋元氏は長朝の子である泰朝のときに、甲州谷村(現在の山梨県都留市)に領地を移されて総社の土地を離れますが、総社藩の領民は用水をつくった恩人である長朝に感謝を込めて、慶長9年より172年後の安永5年(1776年)、秋元氏の菩提寺である光巌寺に「力田遺愛碑(りょくでんいあいのひ)」(田に力めて愛を遺せし碑)を建てました。力田遺愛碑を建てるにあたって、村々では農家一軒につき一にぎりの米を出し合ったと伝えられています。このことは、農民が領主であった長朝をどんなに慕(した)っていたかを示すものといえましょう。
封建時代、領民が領主の業績をたたえて建てた碑はめずらしいものです。碑文の最後には領民らが碑を建てたことがはっきりと書かれています。刻まれた言葉には、年代を超えた領主と領民の温かい人間関係も見てとることができます。

(この項、「」HPより)

江戸時代には「植野天狗岩堰」と言いましたが、明治15年に「天狗岩水利土木会」ができてからは、「天狗岩堰」
という呼び方になりました。現在は、利根川坂東大堰取水合口から八幡川との合流地点までを「天狗岩用水」と呼び、
それより下流の烏川への落水口までを「滝川」と呼んでいます。明治25年には「天狗岩堰普通水利組合」が設立され
昭和24年の土地改良法の制定に伴い、昭和27年に天狗岩堰土地改良区に組織変更されました。その間、カスリン台
風やアイオン台風、キティ台風など数多くの台風による被害を受けながらも、整備・改修を施し現在に至っています。

(この項、「」HPより)  

       

 「総社緑地」付近からの利根川。

対岸は、ゴルフ場。

暗渠になっているところも。

けっこう流れは急です。

                                          1880年代のようす。掘割が「天狗岩用水」。

        まだまだ下方に続き、田畑を潤した。

                                          2010年代のようす。林の中の水路。

            上は「上毛大橋」。  

                                     上越線付近。    

コメント
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