おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR布佐駅~天王台駅。その1。利根川ゆうゆう公園。仲馬倶楽部。(利根川を歩く。第15回目)

2022-01-31 21:12:50 | 利根川を歩く

                      栄橋からスタート。 

              

               「海から77㎞」ポスト。

先週末に身近な人間が、複数、立て続けに新型コロナ感染症(オミクロン)に感染しました。当方は濃厚接触者の定義(お上がいうところの)に当てはまらないようですが、PCR検査を受けた方がいいかな、という今日この頃。

そんなことをつゆ知らず、思いもせず、29日(土)、懲りずに利根川歩き。

布佐駅から利根川に出て、歩き始めます。曇り空で肌寒い一日。

もう少し先まで進む予定でした。

が、12時少し前。JR「天王台駅」青山に住む古くからの友人に車で迎えに来てもらい、

上がり込んで、美味しいつまみ(キムチが絶品)とビールを飲んでいるうちに、今日はここまで、と。

わずか10キロ足らずしか歩きませんでした。

次回がきつくなりそうですが。最近は、どうも軟弱になってきたようです。

左の道は「県道170号」。

河川敷に砂利道が続く。

「海から78㎞」。肌寒い。

河川敷に広い公園が。

                 オフロードのサイクリング コース。何人か練習しています。

マウンテンバイクなどのオフロード自転車が楽しめる広場です。練習広場(1本橋とデコボコ道)、初級コース(130メートル)、上級コース(360メートル)で、全周490メートルのコースには、ジャンプ台やバンクがあります。休憩スペースには、あずま屋と水飲み場を整備しました。

利根川ゆうゆう公園

利根川右岸側の古利根沼付近から布湖排水路までの約4.5キロメートルの河川敷内にあります。面積は86.3ヘクタールあり、平成14年度から国土交通省と連携しながら整備を進めています。公園には、自然観察ゾーン、スポーツゾーン、ファミリーレクリエーションゾーン、自然緑地ゾーンの4つのゾーンがあります。

(この項、「」HPより)

この先には、サッカー場と野球場のほか、ピクニック テラスなどがあるようです。

                  

「仲馬倶楽部」。

仲馬倶楽部は、千葉県我孫子市にある乗馬クラブです。馬の頭数も会員数も少ないですが、馬や動物が好きな人たちに支えられているアットホームな倶楽部です。当倶楽部では、お客様の安全を第一に考えており、お客様に安心して安全に乗馬を楽しんでいただくためには、何よりも馬が幸せでなければならないと思っています。そのため、馬の調教、調整や管理をとても大切にしております。そのため、会員の方はもちろん、ビジターの方にも仲馬倶楽部の馬は優しく穏やかで乗りやすいという声をいただいていることが、私たちの誇りです。馬に乗るのが初めてという方も、経験者の方も大歓迎ですので、ぜひ一度お越しください。

(この項「EQUIA全国の乗馬体験・乗馬クラブの紹介」HPより)

 

          

   (「仲馬倶楽部」HPより)

左は、田畑が広がる。

整備されたグランドが何面も。

                              遠くに日光連山。

「利根川ゆうゆう公園」案内板。

 

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JR安食駅~布佐駅。その6。布佐網代場跡。生(鮮魚)街道。栄橋。布佐駅。(利根川を歩く。第14回目。)

2022-01-30 19:56:22 | 利根川を歩く

               左前方に我孫子の町が大きく広がっています。

河川管理境界「←取手出張所 安食出張所→」。

対岸(利根町)。

「栄橋」が見えてきます。

             「海から76㎞」ポスト。この付近に網代場があったらしい。

「生(鮮魚)街道」の起点・網代場付近にある「馬頭観音堂」が眼下に。

「鮮魚街道」は、ここから終点・松戸河岸まで歩きました。(2020年9月)

解説板。

          布佐「利根川」河岸から松戸「江戸川」河岸までの道筋。

「鮮魚」の「せん」は、「魚」を三つ重ねたもの「鱻」が本字。

現在示されている地図ですと、布佐の「利根川」上陸地点からすべて陸路をたどったようになっていますが、以下の記事のように、「手賀沼」を経由したルートも紹介されています。現在と異なり、手賀沼が大きく広がっていた当時はそういうルートもあったようです。現在、手賀沼周辺は開拓によって広大な田んぼになっています。

「なま(鮮魚)街道」は、銚子沖で獲れた海産物を陸路江戸へ運ぶための交通路で、明治の中頃まで盛んに使われていました。そのルートは、銚子から船で利根川をさかのぼり、布佐(我孫子市)で陸揚げされ、発作(印西市)を経て、手賀沼を船で船戸(白井市)に入り、富塚(白井市)から藤ヶ谷台町を通り、金ヶ作、日暮、松戸新田、陣ヶ前(以上松戸市)を経由し、松戸の河岸から江戸川を船で下って江戸の魚河岸に着きます。藤ヶ谷台町は木下・松戸間の中間地点です。

「馬頭観音堂」は、網代場の所にありました。観音堂は、駄送馬慰霊のため問屋・馬主が建立しました。

鮮魚(なま)街道・網代場・布佐河岸跡

『利根川図誌』によりその味利根川一と賞された布川鮭の網場。網代場はやがて利根水運の中継地ともなり、布佐河岸ができた。江戸時代、銚子や九十九里方面から運ばれる鮮魚をここで荷揚げし、一刻も早く日本橋市場に出すため松戸河岸まで馬で陸送する鮮魚(なま)街道の起点となった。盛時、1日4干籠の鮮魚を130~150頭の馬で運び、七里半の街道には馬子唄も流れたという。古い街道筋に見かける石造りの馬頭観音が、往時の繁栄をしのばせる。

(この項、「」HPより)

もともと急流箇所である布佐・布川間の狭窄部下流にあたり、海から昇る魚が一旦留まるため、網、投げ網の漁場となりました。後に水運の発達と共に船着場も出来て栄えました。

                                      

2010年代のようす。                          1880年代のようす。

現在は、網代場もすっかり住宅地になってしまい、「観音堂」だけが唯一面影を宿すのみです。

※網代(あじろ)

  1. 網の代わりという意味。
  2. 定置網の漁場。また、いつも魚群が集まってくる場所。
  3. 湖や川に柴や竹を細かく立て並べ、魚を簀の中に誘い込んで獲る仕掛け。

          かつての街道?

※以下、「鮮魚街道」松戸・江戸川河岸(ブログ記事を再掲)のようす。

かつての船問屋「青木源内」家の復元された塀。

  

銚子の鮮魚は船で利根川をさかのぼり、布佐等より駄送され、ここから船で江戸(日本橋河岸)に運ばれました。江戸時代、松戸の主産業は船運であり、ここが重要な基地になっていました。

 

松戸の河岸は「源内」(青木家:納屋河岸)と「太兵衛」(梨本家:下河岸)の二軒の船問屋が中心となって発展しました。宝暦5年(1755)1~2月、布佐河岸源左衛門から納屋河岸源内あての鮮魚輸送量は<1月>897籠(約10t)、<2月>4509籠(約50t)という記録が残されています。※当時の「一駄(馬一頭に乗せる貨物)」は三十貫が限度で約110kg、鮮魚では10籠に相当。船一隻あたり鮮魚300籠に相当。

 松戸河岸を出た船は、江戸川~新川~小名木川を経て水路で直接日本橋の魚河岸に入りました。
○付近が、「納屋川岸」。

 

(この項「」https://sites.google.com/site/matsudosyuku/home/suiun-to-kawagishi より借用)

栄橋。

  • 1930年(昭和5年):布佐町(現在の我孫子市)と布川町(現在の利根町)の間に開通
  • 1971年(昭和46年):現在の橋に架け替え工事が終了し、供用を開始

「布川観測所」。

栄橋から上流を望む。

            

下流方向。

今回はここまで。布佐駅に向かいます。

我孫子市のマンホール。

    我孫子市のシンボルである「手賀沼」と、市の鳥「オオバン」、市の花「ツツジ」、をデザインしたもの。

オオバン

頭をフリフリ泳ぐ真っ黒い鳥    白い額がトレードマーク

全長39cm。全体は灰黒色で額とくちばしは白色です。足は緑青色。「キュイッ」と聞こえる声を出します。陸上を歩くこともありますが、水上生活が多く、すばやく水上へ逃げていきます。「水鶏(にわとり)」と書いてクイナと読みますが、名の通り、その種類の多くは水辺の草やアシの中にすんでいます。このオオバンも、クイナの仲間ではいちばん大きく、太っています。黒いからだに白いおでこ、というモノトーンのしゃれた配色で、西洋では、その色彩やら身のこなしから美や雅(みやび)のシンボルとなるいっぽうで、白い頭部の連想から、英語で「額がハゲあがっている」ことをas bald as a coot(オオバン)といいます。池沼に生息していて、40年前は関東より北で繁殖していましたが、近年増加の傾向にあり、日本中で見られています。「|日本の鳥百科|サントリーの愛鳥活動」HPより)

                 (「Wikipedia」より)

布佐駅。

ここまで来るとがぜん都会的な駅の雰囲気(ここまでの駅は、それなりの趣はありましたが)。

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JR安食駅~布佐駅。その5。手賀川・手賀沼干拓・浄化事業。我孫子(あびこ)市。(利根川を歩く。第14回目。)

2022-01-28 21:20:21 | 利根川を歩く

                対岸は、「利根緑地運動公園」。

上流に向かいます。

「手賀排水機場」。

本施設は、国営手賀沼干拓事業により昭和31年に完成した排水機場です。降雨時には流域約160km2※1(柏市、印西市、我孫子市、鎌ケ谷市、白井市、流山市及び松戸市)から手賀沼に流入する洪水を手賀川の流末にて毎秒40m3※2で利根川へ強制排水することで、受益地3,400haを保全しており、近年では、流域の都市開発や道路等の浸水対策にも効果を発揮し、農地以外の社会共通資本の防災対策上も重要な施設となっています。

しかしながら、築後50余年経過し、老朽化が目立ち、平成21年10月にポンプ1台が損傷し、排水機能の低下を来しています。このため、当事務所では本施設の維持管理を行うとともに、基幹水利施設ストックマネジメント事業として、ポンプの復旧と他のポンプの老朽箇所、不良箇所の補修、交換整備を行い、本施設の機能を保全することで、農地や地域社会の防災対策に寄与するとともに、長期的な維持修繕コストの低減を図っています。

現在では、手賀排水機場の改修を含めた国営総合農地防災事業の令和3年度からの事業化に向けて、国や関係各市、各土地改良区等と調整を図っています。(「千葉県」HPより)

「利根川」側。

手賀川。

        遊覧船の船着き場もある。

手賀川

手賀沼東部に源を発し、東に流れる。流路に柏市我孫子市印西市がある。印西市発作付近で下手賀沼の水・下手賀川と合流する。途中、印西市大森で流路が2つに分かれる(北が六軒川、南が弁天川)。その後、印西市木下(きおろし)付近で再び合流し、利根川にそそぐ。手賀川の水深は15m(浅間橋付近)である。

手賀川は手賀沼の干拓により流路が伸びた。昔の手賀川は、今の手賀川本流と下手賀川との合流点付近が源であった。

手賀沼では、大きな干拓が2度行われている。第一干拓では、現在の下手賀川付近、第二干拓では今の手賀川北岸が埋められた。これにより、ほとんどが水田となり、残った部分が手賀川となった。

ところで、「手賀沼」は、全国の湖沼汚染度「ワーストワン」として有名になりました。近年は少し改善されてきたようですが。

手賀沼の水質は、昭和50年代に入って急激に悪化し、一番悪いときで54年度にはCOD27(mg/l)を記録していました。それから徐々に改善傾向にむかうものの、平成7年度のCOD年平均は24とまた悪くなり、平成12年度には再び14まで下がってきました。
そもそも湖沼の汚れは、人間がそこにどう関わっているかで決まるもので、湖や沼のせいではないのです。ちなみに湖沼水質のベスト・ワンは、周囲をすべて自然に囲まれた北海道の支笏湖で、COD年平均0.7です。これと、まったく同じ基準で比較するのも、周辺の田畑がどんどん宅地化し首都圏のベッドタウンになってきた手賀沼には気の毒というものです。
この手賀沼のCODの経年変化に、なにか明確な原因や背景がないかを探る試みもありました。結局、はっきりとした原因を求めることはできませんでした。ただ、間違いなく言えることは、周辺の宅地化、人口増といった水質を悪化させるマイナス要因と、下水道や合併処理浄化槽整備といった水質を浄化して排水するプラス要因のせめぎあいの結果として、COD経年グラフに表れているということでしょう。

手賀沼の場合、COD排出負荷量は一日あたり4.4トンと計算されていて、その内訳は家庭からの生活雑排水の占める割合が62%、市街地や農地などからの自然排出が32%、工場からの排水が6%、となっています。・・・一番大きな影響を与えている生活雑排水の内訳は詳細にはわからないのですが、一般に家庭から排出される台所、お風呂、洗濯、トイレなどの排水もすべて生活雑排水です。したがって、公共下水道が完備されていれば、これらはすべて下水処理の過程で浄化されたうえで、汚物は最終処理され、きれいな水になって自然界に排出されているので問題はありません。千葉県全域の公共下水道普及率は58%で全国平均の62%には及ばないものの、手賀沼の指定地域内だけでみると約73%と、決して低いという数字ではありません。
にもかかわらず、「日本一汚れている湖沼」という汚名を27年間もかぶらざるを得なかったのは、やはり下水道につながっていない生活雑排水が相当量あったということでしょう。下水道未普及地域の対策としては、合併処理浄化槽の普及がありますが、単独浄化槽から合併処理への切り替えが思うように進まないこと、生活や事業からでる汚水を直接雨水排水口に流し込んでしまうケースや、下水道エリアに入ってもつながないケースもあるということです。
それになによりも、市街化が急速に進んだ結果として自然系負荷や産業系負荷も増え、これまで森や林だった丘陵が住宅地になるということは、負荷を減らす要因だったものが逆に増やす方になってしまうわけで、そのバランスがとれなくなったためといえます。

(この項、「」HP参照)

手賀沼の地元も水質改善のための事業を行っています。以下はそのHPより。

約1,000年ほど昔の手賀沼は手下水海と呼ばれ、香取海という内海の一部であり、海水が流れ込んでいました。

当時利根川は、東京湾に注がれていました。江戸時代初期、江戸を洪水から守ることや、食料増産のため、利根川東遷という、利根川を東京湾から銚子で太平洋に注ぐ川に変える工事が行われました。

このため、利根川から運ばれた土砂で香取海は陸化し、手下水海は湖沼化していきました。

その後も、利根川の度重なる氾濫で手賀沼に逆流した水により、流域の人々は苦しめられました。

そのため、昭和21年から約20年かけて干拓事業が行われ、当時の手賀沼の面積の約4割が水田となり、現在の手賀沼・下手賀沼に分かれた形になりました。

手賀沼の干拓。

かつては底が透き通って見えるほど水が澄み、夏には子供たちが泳いで遊んだほど美しく豊かな沼でした。

過去の写真。

手賀沼の流域

流域内から出た生活排水や雨水は、手賀沼に流れ込みます。手賀沼からはなれていても、手賀沼に汚れを流してしまう可能性があります。

この項「」HPより)

1880年代のようす。手賀沼が大きく広がっている。

2010年代のようす。手賀沼の干拓によって農地が拡大されている(特に東南部分)。

「今昔マップ」より、「干拓前後」。新田開発と住宅地化。

「海から75㎞」。

「いんざいうぉーくオススメコース」。

我孫子市に入ります。

 

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JR安食駅~布佐駅。その4。木下河岸・木下街道。木下宿。千葉ニュータウン。(利根川を歩く。第14回目。)

2022-01-27 20:13:29 | 利根川を歩く

木下(きおろし)の町に入ってきます。「川魚料理 銚子屋」の看板が見えてきます。

           「←JR木下駅」・「木下河岸跡→」。

2010年の11月末、「木下街道」歩きでここに着きました。曇り空で寒かった!

「木下河岸跡」解説板」。

江戸時代から明治時代にかけて木下河岸は、利根川水運の要衝の地として栄えた。安政5年(1858)、赤松宗旦は、「利根川図志」のなかで「木下といえば江戸にも隠なく・・・古この地僅に十軒ばかりなりしが、寛文のころ此処に旅客の行舟を設けたるに因りて、甚だ繁栄の地と為れり。そは鹿島香取息栖の三社に詣し、及び銚子浦に遊覧する人多かればなり」と述べている。利根川の渡し場として成立したが、明暦の頃(1655~57)から河岸場として発達していく。直接手賀沼へ船が航行できた寛永年中(1624~42)には、木下に寄港する船も少なかったが、寛文の頃(1661~72)、のちに「木下茶船」の名で知られる乗合船が発着するようになり、利根川下流へ向かう旅客や銚子・九十九里方面からの鮮魚荷物などで賑うようになった。最盛期には50軒余りの旅籠屋や飲食店が軒をつらねていた。文化・文政期(1804~29)に盛んとなってきた江戸近郊への寺社参詣を兼ねた遊山の流行とともに、利根川を下って香取・鹿島・息栖の三社を参詣し、銚子の磯巡りを楽しむ木下茶船の旅が江戸町人の人気を集めた。同船は貸し切り遊覧船で、8人乗りの和船である。寛政の初め(1789)頃には年間4500艘ほどの出船が見られ、1万7000人程度の乗客があった。木下河岸は、明治期に入っても蒸気船の発着場として地域経済の中心的役割を担っていたが、明治34年(1901)の木下駅の開設に加え、大正初めの利根川堤防の改修工事により、河岸の家並みの多くが移転を余儀なくされ、次第に衰退していった。

                     1880年代のようす。木下河岸付近。渡船場も。

                     2010年代のようす。かつての街道がそのまま。

「木下街道」(現「市川・印西線」)は、江戸時代初期に行徳河岸(現市川市)と木下河岸(現印西市)を結ぶ往還として、行徳、八幡、鎌ヶ谷、白井、大森、木下の6か所に宿がおかれました。人の行き来だけでなく、銚子方面から江戸日本橋の魚市場へと鮮魚を送る道としても重宝されました。貞享4年(1687)、松尾芭蕉は「鹿島紀行」の旅で木下街道を利用しました。

※「きおろし」は、伐採され河川で運ばれた材木を下ろしたことに由来するらしい。

現在の河岸のようす。

      左手、布佐方向。

        ※「布佐」は松戸に向かう「鮮魚街道」の河岸があったところ。

上流方向。

そこから土手を望む。

                  「銚子屋」の看板がてっぺんだけ見えます。

駅方面には歩かなかったので、「木下街道」歩きの記事を再掲。

・・・

宿場らしい雰囲気は感じません。

風情のあるおそば屋「柏屋」が左手に。

「川魚料理 銚子屋」。 

「印西郵便発祥之地」碑。

その奥に土蔵があります。

               吉岡家の土蔵。

吉岡家は歴史的にみて木下の原点であり、吉岡家の歴史はそのまま木下の歴史でした。
今回、二回目の修復により再生した土蔵は明治24年建造のもので、往時の木下の繁栄を伝える数少ない歴史建造物で、現状のままでは早晩、取り壊される状況下にありました。しかし、この木下を象徴する吉岡家の土蔵の消失は単なる建物が無くなるだけではなく木下の歴史と文化」、「愛着と誇り」の、つまり今後の木下を考える上でアイデンティティーの喪失に繋がりかねないという意識がありました。
かつてここを起点に木下街道を通じて遠く江戸・日本橋の河岸まで物資が運ばれていたにぎやかな時代がありました。

(この項、「木下まち育て塾 まちかど博物館」HPより)

かつて、奥には母屋等があったようですが、取り壊され、集合住宅になっています。

・・・

ところで、木下は印西市に属しています。

かつては印西の中心地(印西市役所の最寄りの鉄道駅は「木下駅」。)でしたが、今や「千葉ニュータウン」にお株を奪われた印象です。

印西市

古くから印西市木下地区は利根川水運の宿場町「木下河岸 (きおろしがし)」と呼ばれ、銚子から江戸への中継地点として栄えており、銚子沖で獲れた魚貝類は、馬で木下街道を通り本行徳河岸で舟に乗せ替えて日本橋・小網町の行徳河岸に運び入れていた。近年では、千葉ニュータウン地区が関東平野の中で活断層が無く下総台地上の岩盤が強固とされることから、災害へのリスクヘッジとして日本中から注目を集めており、大企業データセンターが次々と建築計画がされるなど、大規模開発が目覚ましい地域の一つである。また、東京成田国際空港の中間に位置し、都心へのアクセスの良さから多くの物流系企業が同地区に進出している。特に千葉ニュータウン鹿黒地区に進出した世界的企業グッドマン・グループ(グッドマンジャパン)は、商業施設や企業を集約した「グッドマンビジネスパーク」を開発し、充実した電力インフラと優れた事業継続計画(BCP機能)により今後更なる発展が期待されている。なお、日本初となるGoogleデータセンターも同パーク内に建設予定となっている

市内にはジョイフル本田千葉ニュータウン店ビッグホップガーデンモール印西牧の原モアイオンモール千葉ニュータウンなどの大型ショッピングセンターが林立しており、準商業中心都市から商業中心都市に商圏を広げている

市制施行直前には全国で最も人口の多い町となり、印西市文化ホール(市役所隣)前には全国町村人口日本一の記念碑が建てられている。2018年(平成30年)5月29日には人口10万人を突破した2011年(平成23年)に、印西市のマスコットキャラクターが、いんザイ君に決定する

(この項、「Wikipdia」参照)

北総線「千葉ニュータウン中央」駅前のようす。

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JR安食駅~布佐駅。その3。北相馬郡。将監(しょうげん)川。木下(きおろし)東。(利根川を歩く。第14回目。)

2022-01-26 19:00:56 | 利根川を歩く

                   対岸(茨城県北相馬郡利根町)の工場地帯。

ところで、「相馬郡」というと、茨城県よりも北に位置する福島県の相馬郡を思い浮かべます。どうして「北相馬」なのかという疑問が。

そこで、「Wikipedia」によって。 

歴史

1871年(明治4年)11月以来、全域が印旛県、次いで千葉県に属していたが、1875年(明治8年)茨城県および千葉県の再編に合わせて千葉県管下の下総国のうち利根川以北の区域が茨城県に移管された。葛飾郡と相馬郡のうちの利根川以北の区域が茨城県となった。

1878年(明治11年)の郡区町村編制法により茨城県管下の相馬郡が北相馬郡となった。一方、千葉県管下の相馬郡は南相馬郡となり、1897年(明治30年)に東葛飾郡に併合されて消滅している。

なお福島県相馬は、中世から明治維新までの大名である相馬氏に由来するものである。相馬氏の発祥は下総国の相馬郡であり、千葉県の旧東葛飾郡地域を含めて福島県の相馬郡とは現在でも交流が続いている。

 というわけでした。こういう歴史があったのですね。           

振り返る。信号のない直線道路。車が多く行き来しています。

上空に「大利根飛行場」から飛び立った飛行機の姿。さてどれか?

                            中央上の白い点。

    

               川面にフェンスが張られています。

印旛郡栄町から印西市木下(きおろし)へ。しだいに市街地になってきます。

      

整備が進む河川敷。

「木下東」交差点。

安食付近で分岐し、「将監(しょうげん)川」沿いに進んだもう一つの「国道356号線」は下り、ここで再び合流します。

将監川

千葉県印西市・印旛郡栄町の境に位置する利根川の旧派川である。かつては「枝利根川」とも呼ばれた。栄町西付近にて利根川より分派し、栄町和田の長門橋下流にて長門川に合流する河川であった。1912年(大正元年)に洪水対策の一環として、利根川の第二期改修工事において将監川締め切り工事が行われ、以降は長門川にのみ接続している。現在は名称上「川」として親しまれているものの、利根川水系の指定河川には含まれておらずさながら「湖沼」として扱われている。

(この項、「Wikipedia」より)

「将監川」の今昔。

                     1880年代のようす。

     利根川と将監川がつながっている。

                     2010年代のようす。

    利根川と締め切られている。川というよりは「沼」という表現がふさわしいか。

※「将監」=近衛府の将官名。四等官の判官(ジョウ)に相当し、六位上の官位に相当。現場指揮官で護衛、警護の体制を組み立てる役目。近衛将監は六位蔵人・式部丞・民部丞・外記・史・衛門尉などと同様に正月の叙位で叙爵枠があり、毎年1名ずつ従五位下に叙された(巡爵)。五位でこの官職に就くと、左近大夫(さこんたいふ)将監あるいは右近大夫(うこんたいふ)将監。将監を略して、左近大夫あるいは右近大夫と称された。

葛西臨海公園近くに「将監の鼻」があります。かつてブログで紹介しました。

・・・

「旧海岸堤防」。碑の正面。


由来と潮干狩りの写真。
 《碑文》
 昔、この地は、”将監の鼻”と呼ばれ、海の玄関口として知られていました。
 葛西海岸は遠浅の海岸をなし、海の宝庫として、沖にはのりひびが立ち並び、あさりや、しじみを採る舟が舳を競い、春には汐干狩、夏には海水浴など、レクリエ-ションの場としても親しまれていました。
 この堤防は、昭和22年のカスリーン台風、続く昭和24年のキティー台風による被害を経て、昭和26年に高潮から内陸部を守る目的で建設に着手され、約4.5kmに及ぶ工事が昭和32年に完成しました。
 以来、幾多の自然の試練からこの土地を守ってきました。
 しかし、一方では先祖伝来の土地を海の中に追いやってしまうというつらい役割も担って来ました。昭和47年からの東京都の埋立て事業ねにより、見事に陸地として甦り、新たな堤防の築造により無事にその役割を終えました。
 海と親しみ、海と共に生きてきた先人達の姿を永く記憶にとどめるため、堤防の一部を残し記念とします。
 昭和61年8月 江戸川区長中里喜一

のところ。
 このあたりがかつては岬で、「将監の鼻」と呼ばれたとのこと。向井忠勝の官位である左近衛「将監」に由来しているようです。

・・・

       

「海から74㎞」。

振り返り、下流を望む。

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JR安食駅~布佐駅。その2。日光連山・富士山。海から70㎞。自然堤防。(利根川を歩く。第14回目。)

2022-01-25 20:48:52 | 利根川を歩く

               対岸遠くに日光連山。「男体山」(↓)

左手遠くに雪に覆われた富士山が。

家並みの向こうに田畑。

振り返ると「若草大橋」。

突然、銃声が聞こえてきます。猟銃でしょうか、河原で二人のハンターの姿。犬もしきりに吠えています。

       

道の正面遠くに富士山。

   

「海から70㎞」。

                          標識の右奥遠くに富士山(↓)

対岸遠くには筑波山。

「とね川」。

「国道356号線(利根水郷ライン)」が近づいてきます。

河川敷は土砂の採掘現場。

左手に堤が続きます。かつての自然堤防(土手)? 

                     2010年代のようす。整地されています。

                     1880年代のようす。自然堤防が縦横に。

「海から72㎞」「西」地区。

対岸の工場。

下流を望む。

「国道356号線」「西」。

家がたくさんになって。

そろそろ「栄町」から「印西市」に入ります。

 

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JR安食駅~布佐駅。その1。印旛水門。生板鍋子新田。若草大橋有料道路。(利根川を歩く。第14回目。)

2022-01-24 20:18:21 | 利根川を歩く

                     遠くに「印旛水門」。

このところ、土日も含めて忙しく、なかなか利根川歩きができません。お天気のせいもあります。晴れても、けっこう北風が強くて土手歩きはどうも・・・。北国の方々には贅沢ですが。

昨日、久々にお会いした北海道の方は、毎日雪かきで大変だ、捨てる場もいっぱいになっちゃっているし・・・。それでも、なんで東京はこんなに寒いの、と。

1月22日(土)。そういうわけで、少しでも歩いてみようと。快晴で、歩き始めは北風が強く吹いていましたが、しばらくすると穏やかに。快晴の中、土手をのんびりと散歩という雰囲気。。安食駅から布佐駅まで、13キロほどの歩きでした。

今日も筑波山と。

    ところが、目をこらすと、筑波山の遠く左には、雪をかぶった男体山など日光連山が見えます。

下流を望む。

「印旛沼」からの「長門川」。

上流に向かって歩き始めます。 

                  「県道409 佐原我孫子自転車道線」。

「海から66.5㎞」。

1台のバイクが疾走中。

              遠くに右手奥に日光連山がかすかに見えます。

               

川面にはモーターボートが。

「栄町消防本部・消防署」。

               けっこうお洒落な建物。

「海から67㎞」。

「生板鍋子新田」。何と読むのでしょうか?

「まないたなべこしんでん」。対岸の茨城県稲敷郡河内町にも同名の地名があります。「大徳鍋子新田」という地名も。由来は?

サッカーグランドで少年達が。

家並みが増えてきます。

左手に「YAMAHA」の大きなロゴのある建物。「TBCCo.Ltd.」。

モーターボートなどがズラリ。

利根川にある「北総マリンゲレンデ」と関連した施設。

続々と車が集まってきます。

しばらく併走していた「国道356号線」が左にそれていきます。

「若草大橋有料道路」が間近に。

若草大橋有料道路につきましては,利根川の上流と下流に架橋されていた栄橋及び長豊橋の渋滞緩和を目的に,茨城県道路公社が有料道路事業により平成18年に建設し,その建設の際の借入金を,通行料金収入により償還することとしております。

(「」HPより)

            振り返ると。

    

 

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今日は何の日?

2022-01-18 22:50:22 | 世間世界

とある印刷会社から手帳を貰いました。コンパクトで使いやすい。さっそくメモ帳として使っています。

この手帳。毎日「○○の日」が記されています。スマホでも、こういう「○○の日」というのが記されていますので、はやっているのかな? と。

それにしてもよく「○○の日」を毎日記しているのか、実に感心させられます。

たとえば、今年1月。

16日「囲炉裏の日」

17日「防災とボランティアの日」。これには以下のような根拠があります。

1995年(平成7年)1月17日5時46分52秒、兵庫県淡路島北部沖の明石海峡震源として、マグニチュード7.3の地震が発生し、近畿圏の広域が大きな被害を受けました。特に震源に近い神戸市の市街地(東灘区灘区中央区三宮元町ポートアイランド)、兵庫区長田区須磨区)の被害は甚大で、犠牲者は6,434人にも達し、戦後に発生した地震災害としては東日本大震災に次ぐ被害規模でした。

地震直後に現地において、被災者支援のボランティア活動に参加した人の数は1日平均2万人超、3か月間で延べ117万人ともいわれ、被災地でのボランティア活動の重要度に対する一般の認識も飛躍的に高まりました。現地には行かずに被災負傷者のための献血義捐金拠出・物資提供などの後方支援に携わった人々も含めると参加人数はさらに増えます。このために、この年は日本における「ボランティア元年」ともいわれています。後に、1月17日を「防災とボランティアの日」、17日を中心とした前後3日の計7日間を「防災とボランティア週間」と定めています。

18日「都バス記念日」

「都バスの日」とは〜

「都バスの日」とは

関東大震災で大きな被害を受けた路面電車の応急措置として、大正13(1924)年1月18日、巣鴨〜東京駅間と中渋谷〜東京駅間で初めて都バスの運行を開始した日を記念して「都バスの日」としています。

東京都交通局では1月18日の「都バスの日」を記念し、「走る!都バス型キーホルダー」を下記のとおり、発売いたしますのでお知らせします。今回の新商品は取り外し可能なキーホルダーです!取り外せばプルバック式のおもちゃとして使えます。つけて可愛い!使って楽しい!!お子様にもぴったりな商品です。是非お早目にお求めください!!

(この項、「」HPより)

19日「のど自慢の日」。

1946年(昭和21年)のこの日、NHKラジオの「のど自慢素人音楽会」が始まったことを記念して日本放送協会(NHK)が制定。

初めての聴取者が参加できる娯楽番組であった。第一回の予選では、モンペや復員兵スタイルの人が朝早くから900人も集まった。予選通過者は30人で競争率は30倍。人気のあった曲は「りんごの唄」「旅の夜風」「誰か故郷を思わざる」などだった。当初は鐘もなく、司会者が口頭で合格者に「合格です」、不合格者には「けっこうです」と告げていた。

(「雑学ネタ帳」HPより)

20日「海外団体旅行の日」

1965年(昭和40年)のこの日、日本航空が海外団体旅行「ジャルパック」を発売し、海外団体旅行がブームとなった。

高度経済成長による外貨獲得高が伸びたため、第二次世界大戦後以降の日本人の海外渡航制限が1964年(昭和39年)に解除されたことを受けての開始であった。

その後「ジャルパック」は、海外パッケージツアーの代名詞となるほどに好調であった。当時はツアー参加者にサービスとしてトラベルバッグを配布しており、そのバッグが海外旅行者の間でステータスとされていた。

現在では高級なイメージは払拭され一部の高額パッケージツアーは残しているものの一般的なパッケージツアーとなっている。

関連する記念日として、「遠(10)くへ行く(19)」と読む語呂合わせから10月19日は「海外旅行の日」となっている。

(「同」HPより)

というような具合です。それぞれ根拠があるわけです。以下の日も根拠がありそうですが。

21日「ライバルの日」。?

23日「ワンツースリーの日」。(これはわかりやすい)

24日「法律扶助の日」。

25日「日本最低気温の日」。

26日「携帯アプリの日」。

27日「国旗制定記念日」。

28日「逸話の日」。?

29日「RQの日」。?

30日「六斎日」。

仏教の思想に基づく斎日のひとつ。この斎日は1か月のうち8日・14日・15日・23日・29日・30日の6日で、前半の3日と後半の3日に分け、それぞれの3日を三斎日と称した。

六斎日の歴史は古く、律令制における令にもこの日は殺生を禁じる規定があり、出家したものは布薩説戒を行い、在家のものは八斎戒を守ることとなっていた。

六斎市

六斎日にちなんで月に6回行われる定期市を「六斎市」(ろくさいいち)と呼ぶようになった。室町時代ころから行われるようになったといわれ、月に3回行われるものは「三斎市」(さんさいいち)と称される。六斎市が行われる日は、例えば2と8が付く日(2日・12日・22日と8日・18日・28日)など定期的な日に行われた。

応仁の乱後は六斎市が一般化され、当時の荘官農民たちは、これらの市で農産物を売却して、貨幣を入手した。これにより、それまで年貢として領主におさめられていた農産物の多くが商人の手に渡り、商品として流通するようになった。

千葉県の夷隅・長者地域では、苅谷、御宿、椎木、大原、牛久、茂原、大多喜、長者の8つの六斎市が開催され、毎日いずれかの場所で定期市が開催されている。これらに出店する近隣市町村の店舗は、毎日夷隅・長者地域のいずれかの六斎市に出店したり、勝浦朝市(毎日)と御宿朝市(2と7が付く日に開催)などいくつかの朝市を掛け持って営業を行っている。しかし、出店者の高齢化や生活様式の変化などで夷隅・長者地域の定期市も店舗数が減少して規模が小さくなってきている(「Wikipedia」より)

31日「五つ子誕生の日」。

1976年(昭和51年)NHK記者、山下頼充さん夫妻に1月31日、五つ子が誕生した。「普通のお子さんよりかなり小さいと覚悟はしていましたが、あんなに小さいとは思わなかった。とにかく頑張って生きてほしい」とお母さん。夏の暑さを病院で過ごした5人の赤ちゃんは9月末、元気に退院、東京・練馬の自宅で新しい生活に入った。

(「NHKアーカイブ」より)

2月1日「ニオイの日」。?

という具合で365日全ての日に記念日・○○の日が書き込まれています。

 興味深い日も。2月を取り上げても。

2月17日「天使のささやきの日」、2月20日「アレルギーの日」、24日「月光仮面登場の日」、26日「脱出の日」・・・

他の月も盛りだくさん。

「ガッツポーズの日」。「高血圧の日」。「小松菜の日」。「おまわりさんの日」。「ちらし寿司の日」。さて、これはいつの日でしょうか?

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JR滑河駅~安食(あじき)駅。その6。大利根飛行場。印旛排水機場・長門川。印旛沼。(利根川を歩く。第13回目。)

2022-01-15 19:03:22 | 利根川を歩く

                    「県道409号線 須賀」の標識。

  水流を制御するための杭だったようです。杭にした木から葉が茂っています。面白い光景。

  対岸遠くには、「大利根飛行場」。

田園地帯が広がる。

「大利根飛行場」。

                  何機か飛行機の姿が見えます。 

                     2010年代のようす。大利根飛行場。

一般社団法人日本飛行連盟が運営している飛行場で、主にグライダーの離着陸、軽飛行機操縦訓練・教習のために使用されており、定期便の就航はない。(「Wikipedia」より)

活動場所の大利根飛行場は茨城県と千葉県の県境を流れる利根川の茨城県側、稲敷郡河内町の利根川河川敷に位置しています。
幅20mx長さ600mの舗装滑走路を有しており、日本モーターグライダークラブが「社団法人日本飛行連盟」からの委託を受けて管理している場外離着陸場になります。
なお、大利根飛行場は日本モーターグライダークラブ以外にも各個人、各団体が使用しています。  大利根飛行場を利用ご希望の方は、日本飛行連盟のホームページもご覧ください。

   

                   (「 JMGC 日本モーターグライダークラブ」HPより)

「海から66㎞」ポスト。

   河川敷には、「栄町町民Aグラウンド野球場」。前方には「印旛排水機場」・「長門川」。

利根川への流入地点。

長門川

利根川と北印旛沼とを連絡する役割を果たす。それゆえ短区間ながら印旛沼水系全体に係る流域を擁し、また印旛放水路とともに印旛地域の水量調節に活用される治水上重要な河川である。定義上はいずれも印旛沼を起点とするが、印旛放水路(新川)は平常時印旛沼へ流入するため、事実上印旛沼唯一の流出河川となっている。

ふじみ橋を過ぎると長門川公園を挟んで二手に分かれる。西側分流は印旛水門・東側分流は印旛排水機場をそれぞれ越えて、利根川へ流入する。

(この項、「Wikipedia」より)

この先に「印旛水門」。

筑波山が遠くに。

 今回は、常に筑波山を遠く右手に見ながらの歩きでした。

下流方向を望む。

大利根飛行場を飛び立った飛行機(↓)。

今回はここまで。安食駅まで向かいます。

左手に「長門川公園」。

ここから安食駅まで2キロ以上、歩くことに。

うなぎ処 さかた」。

いい香りがしてきますが、かなりはやっているお店のようで、けっこう次々とお客さんが。

横目で見ながら駅へ。今回の歩きの中ではこの区間には歩道がなく、車とすれ違うたびにヒヤヒヤ。

駅前にある「関東ふれあいの道」案内板。

「沼めぐりのみち・川と沼をつなぐみち」とあり、印旛沼への道と丘陵地をめぐる歩きです。

印旛沼は京成電車の車窓から眺めながら通り過ぎるばかりですが、機会があったら歩いてみようか、と。

 

※「印旛沼」の今昔(部分)。

                                                                                                                                

2010年代のようす。干拓による農地の広がり。             1880年代のようす。広大な沼と湿地帯。

安食駅に到着。

次回は「天王台」駅まで足を伸ばしたいところですが、「布佐」駅までかな。

ところで「安食(あじき)」という地名の由来は?

 ①『新利根川図誌 下』p.262に由来が書かれている。「仁平元(1151)年、度重なる水害で飢えた人々が、駒形神社を建て五穀豊穣を祈願したところ、翌年大豊作となり以来「食に安んずる」ようになったことから、安食の地名が生まれた」と書かれている。

②渡来人の「阿自岐(あじき)」族に由来するとも言われるが未詳。

・ 応神天皇の時代に、「秦(はた)」「漢(あや)」の二大氏族が渡来し、伴造(とものみやっこ)となった。その中に阿自阜(あじき)人もいて、漢字を伝えたという。それらの渡来人が住み着いたところに、安食、安楽の地名が多く残っている。【JR・第三セクター 全駅ルーツ事典 村石利夫 東京堂出版】

ということらしい。

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JR滑河駅~安食(あじき)駅。その5。須賀スーパー堤防。水と緑の運動広場。(利根川を歩く。第13回目。)

2022-01-13 19:33:52 | 利根川を歩く

         「栄町終末処理場」が左手に。この先、「須賀スーパー堤防」がはじまります。

 

「タヌキ」の絵柄で動物注意の標識。野生動物が出没?

この付近で、かつて釣りをしていた?

 

川の中に立てられた棒杭がいくつも。そのいくつかには板が架けられ、先端には大きな板があります。細くて歩けるのかな? 

どれもすっかり朽ちてしまっています。中には、棒杭から緑の葉が伸びているものも。

「展望冒険砦」と芝生広場。

栄町運動公園(「水と緑の運動広場」)。奥には大きな野球場(ナイター設備完備)や多目的グランド、土俵も。

実はこの施設もスーパー堤防事業によって整備された公園のようです。

「須賀スーパー堤防」栄町運動公園を中心とするスーパー堤防で、工事は1987年(昭和62年)に着手され、総事業費30億円をかけ、1996年(平成8年)に完成した、とのこと。

2010年代のようす。かなり大きな公園。

1970年代のようす。当時あった施設等は不明。

今回の歩きの到達予定地に間もなく着きそうなので、この公園で大休止。

堤防を望む。

すると軽飛行機がエンジン音を響かせて低空を通過中(↓)。

      

              対岸にある「大利根飛行場」へ着陸するようです。

土手に上がったときは、もう姿が見えず。右手奥にある飛行場に着陸したか。

「海から65㎞」ポスト。

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JR滑河駅~安食(あじき)駅。その4。県道409号線。矢口(やこう)スーパー堤防。(利根川を歩く。第13回目。)

2022-01-12 20:05:23 | 利根川を歩く

すぐ左を走る「国道356号線(利根水郷ライン)」の車の量はかなり多く、騒音も激しいのですが、自転車道は時折、サイクリング車が通るだけで歩く人もいない、ノンビリとした歩きになります。

 

     

工業団地が終わると、田園地帯が開けてきます。今日あたりでは、雪もすっかり溶けているでしょうが、8日はまだまだ雪が。

なにやら前方に標識が見えてきます。

          車輌通行禁止の「県道409号線」になっています。

「矢口スーパー堤防」標識。

記念碑が利根川右岸、国道356号 利根水郷ライン沿いの紀文工場の脇の小広場に石碑と説明板が設置されている、とのこと。(「発祥の地コレクション」HPより。以下も引用させていただきます。)

矢口(やこう)スーパー堤防のあらまし

スーパー堤防とは、一言で言うと台地のような堤防のことで、万が一計画を越える洪水が越流しても決壊しない堤防です。

(「Wikipedia」より)


矢口スーパー堤防は、利根川の浚渫土約120万㎥を盛土し、最大幅約300m、延長約1,600m、面積約32haの工業団地を造成したもので、昭和62年に浚渫開始し、平成4年度にすべての工事が完成しました。

事業は、建設省の特定高規格堤防整備事業(通称スーパー堤防)、栄町の新しい街作り事業と栄町矢口工専土地区画整理組合の土地区画整理事業の三者による共同事業として実施しました。
なお、建設省のスーパー堤防事業は昭和62年度から新規事業として始められたもので、ここ「矢口スーパー堤防」は、我が国第1号になります。
今までは、川と街は堤防という大きな壁で区切られていました。ところが、スーパー堤防化にすることで、水辺と緑の自然な場所へ近づきやすくなり、うるおいのある安全な街になります。

※工業団地が大きく広がっていたのは、この事業の一環だったのですね。

                                                                     

1970年代のようす。造成以前。                  2010年代のようす。工業団地化。

下流を振り返る。

        「ここから〈長豊橋にかけて〉矢口(やこう)スーパー堤防」。

こうして、現在歩いている「自転車道」(県道)の整備もそうした事業の一環であることを知りました。

が、はたして上記の碑文のようにいいことだらけでしょうか?

ここまで歩いてきた利根川の河川敷の様子を見ていると、「水辺と緑の自然な場所へ近づきやすくなり、うるおいのある」とは言いがたい印象ですが。

都内江戸川区篠崎地区でもスーパー堤防事業が展開され、反対する住民訴訟(最高裁で敗訴)があったりなど、莫大な事業費計画と膨大な年月がかかる事業への批判もあります。

「googleマップ」でスーパー堤防が完成した江戸川区篠崎地区を眺めると、空き地(事業用地)が目立ちます。移転を余儀なくされた住民が戻ってこない土地なのか? 

「スーパー堤防」事業は、都内の住宅密集地では、かなり無理があるような印象です。

さらに、この栄町のような工業団地造成という目的を兼ねた事業ではなく、洪水・浸水対策としても部分的(細切れ)改修事業となってしまう恐れが。また、これから先、さらに膨大な費用(何兆円)と期間(一説では200年かかる)とも言われています。

費用対効果はどんなものなのでしょうか?

足立区と北区にまたがる隅田川の新田地区では、スーパー堤防が整備されています。カミソリ堤防と不評だったコンクリート堤防が緑の堤防に生まれ変わり、治水の安全性に加え環境も大幅に改善されています。

右岸にかつての「カミソリ堤防」のモニュメント。

上流方向を望む。

          両岸は、高層集合住宅群。(左:北区、右:足立区)

(以上、以前、掲載したブログより)

 

大きく広がる田園地帯。

                       左奥に工業団地。

利根川の穏やかな流れ。

川面に映る対岸の木々。

「海から64㎞」ポスト。

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JR滑河駅~安食(あじき)駅。その3。長豊橋。日本食研・紀文・・・。(利根川を歩く。第13回目。)

2022-01-11 19:32:06 | 利根川を歩く

遠くから近づく飛行機。

             頭上を。

この先、一面、茅に覆われていた河川敷に樹木が一面に。

          

その木々を切り倒し、整地する作業が行われています。

伐採した木を運び出すため、大型ダンプがひっきりなしに河川敷に向かう。

    

        

かつて2010年代のようす。

                     

利根川の入江付近に樹木が植えられて、親水公園風になっていたのでしょうか? 伐採し整地したまま終わりではなく、新たな計画があるといいのですが。

長豊橋。

「海から61㎞」。

茨城県稲敷郡河内町田川千葉県成田市竜台とを結ぶ橋として1968年昭和43年)2月15日に開通した。全長509.6 m、幅員7.0 m。千葉県側827 m、茨城県側284 mの取り付け道路は両県が受け持ち、主要地方道路成田江戸崎線(現在は国道408号)がそれにより貫通した。施工は汽車製造。長豊橋の管理者は千葉県知事で、協議により管理費は千葉・茨城両県で折半としている

かつてから、周辺住民達は利根川架橋の必要性を唱え、特に茨城県側の長竿村の村長を中心に運動を展開。茨城県側からは長竿村・金江津村(ともに現在の河内町)、千葉県側からは、豊住村滑河町(ともに現在の成田市)が運動を展開し、架橋建設の気運が高まり、両県に跨ることから予算調整等の困難を乗り越え、建設へと漕ぎ着ける事になる。また、長豊橋の名前の由来は、長竿村の「長」と豊住村の「豊」に由来する。

現在、成田とつくば方面とを結ぶ基幹道路となっているが、片側1車線通行であり、千葉県側の国道356号と交わる長豊橋交差点では、右折車による慢性的な交通渋滞が発生している。渋滞を解消するため、上流側の茨城県北相馬郡利根町と千葉県印旛郡栄町を結ぶ若草大橋有料道路2006年(平成18年)4月18日に開通した。しかし、それでも朝夕の通勤時や休日などには交通渋滞が起こり抜本的な解決にはなっていなかったが、2001年(平成13年)度から茨城県竜ヶ崎土木事務所により長豊橋の右折車線を増設する交差点改良工事が行われ、2007年(平成19年)7月に完成。渋滞が緩和されている。

(この項、「Wikipedia」より)

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。

                     2010年代のようす。

掲載の古地図にズレがあって分かりにくいが、渡船場が二ヶ所あるなど、両岸の村民にとって、架橋は長年の願いであったことが分かります。

       

下流を望む。

振り返ると、道路標識に土浦や成田空港が。

栄町に入ります。

振り返る。遠くに「長豊橋」。

左側一帯が工場地帯になります。「日本食研製造(株) 千葉工場」、「(株)紀文食品 東京工場」・・・。

    「日本食研」。

業務用のたれの製造では国内シェア40%でトップの売上を誇り、焼肉店のみならず、牛丼、カツ丼、居酒屋チェーンなど、飲食大手の味を支えている。年間約7,800種類の通常商品を生産し、一品物を加えると21,000種類を超える。また、から揚げ粉のシェアでも他を寄せ付けない圧倒的な強さを誇る。

家庭用では食肉・鮮魚・青果の売り場に製品を置くことが多く、競合するメーカーとしてはモランボンダイショーなどが挙げられる。焼肉などのツケダレやタン塩に添えられるレモン汁等といった商品にも使われていることが多い。『晩餐館』シリーズは殆どのスーパー精肉売場で置かれている。

近年は健康食品やミネラルウォーターなどの販売を行うなど、多角化が進んでいる。

調味料やハム・ソーセージなどの製造・販売やホテル業等の事業を行っている。

『晩餐館』シリーズのCMでは、エプロンをした牛のキャラクター・バンコが出演し、その毒舌(『焼肉焼いても家焼くな』)も相まって強烈な印象を残したことで知られている。

海外進出も盛んであり2006年には米国ニッポン食研を設立、また中華人民共和国に工場の建設を計画している。

ウィーンのベルベデーレ宮殿をモチーフとした宮殿工場と本社の世界食文化博物館は今治の観光名所となっている。

(この項「Wikipedia」より)

 千葉工場。 (「」HPより)

「海から62㎞」ポスト。

 「紀文」。

         どういうわけか「東京工場」。

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JR滑河駅~安食(あじき)駅。その2。「歴史的農業環境閲覧システム」。水門。海から60㎞。(利根川を歩く。第13回目。)

2022-01-10 17:31:40 | 利根川を歩く

                

この付近は、千葉県側、茨城県側とも、利根川の河川改修に伴う流路変更、さらに湿地帯だった土地を干拓して農地化するなど、長年にわたる大工事・事業によって、現在、、大きく変貌しています。

今と昔。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

                                                                                                                           

2010年代のようす。流路変更、干拓事業等による農地化。     1880年代のようす。対岸も香取郡でした。

右下が滑川の集落。                      利根川の南は茅の生い茂る湿地帯だった。 

            

根木名川水門。

  

この先、しばらく自転車道がなくなり、車道を歩くことに。ダンプなど大型トラックがすれすれで通過するのでけっこう冷や冷やもの。

水門を越えると、自転車道が復活。一安心。

空を見上げる余裕も。

川面に棒杭が一列に並んでいます。筑波山が遠くに。

対岸も田畑が広がる。

飛行機が後方に見えるように。

住宅が増えてきます。

振り返る。

田畑と人家と森と。

「海から59㎞」ポスト。

十日川排水機場。

    

「海から60㎞」ポスト。やっと60キロ進みました。

     

         

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JR滑河駅~安食(あじき)駅。その1。下総利根宝船公園。尾羽根川水門。(利根川を歩く。第13回目。)

2022-01-09 20:24:37 | 利根川を歩く

久々の雪景色になった関東地方。その2日後の「利根川」歩き。午後から予定があるのでどうしようかと思いましたが、少しでも距離を稼ごうと出かけました。

雪が凍っていたら、という心配もありましたが、道路はもちろん、歩道や土手の上はまったく雪が残っていません。これなら歩くのは、大丈夫。

でも、土手下や周囲の家々、田畑は、まだ雪景色のままでした。

       

車窓から見えて、気になった所へ。

      上空には成田空港へ向かう飛行機。

「下総利根宝船公園」。

当公園は、下総地区北部の田園地帯にあり、利根川と隣接している公園です。芝生広場を横断する園路は、千葉県から太平洋に流れ出る利根川をイメージし、利根川に架かる主な橋の名前を表示しています。芝生広場中央には成田市を飛び石で型どり、下総地区のしもふさ七福神巡りにちなみ、七福神をモチーフとしたモニュメントを配置しています。芝生広場東側には、宝船をイメージした展望台があり、利根川、筑波山、条件の良い日には富士山まで望むことができます。また、展望台にはすべり台もあり子供も楽しむことができます。

(この項、「」HPより)

「宝船」が印象的。足元が不如意なので下りるのは遠慮。 

隣には「直売所しもふさ」。

さて土手上の「自転車道」を歩き始めます。快晴、風も穏やかで、歩きやすい。

 筑波山が遠くに。 

       

上空には、ひっきりなしに飛行機が。

   

     航空機マニアならどこの航空会社の飛行機か分かるのでしょうが。

「尾羽根川水門」。

        

水鳥の群れ。

         

「海から57㎞」ポスト。

はるか遠くまで雪景色の田園地帯。

       左下は「国道356号(利根水郷ライン)」。

今回も「筑波山」と共に。

朝日を背に受けて。

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JR佐原駅~滑河駅。その4。道の駅発酵の里こうざき。常総大橋。成田空港に向かう飛行機。(利根川を歩く。第12回目。)

2022-01-08 20:30:42 | 利根川を歩く

 「海から51㎞」ポスト。その先を左折して「道の駅発酵の里こうざき」に向かいます。                       

千葉県神崎町の「道の駅 発酵の里こうざき」は、全国初の「発酵」をテーマとした道の駅。地元をはじめ全国の発酵食品を取り揃えた「発酵市場」がユニークです。味噌や甘酒、それにお酒と品ぞろいも豊か。

創業300年を超える2件の蔵元を中心に、酒、味噌、醤油など発酵文化で栄えた「神崎町」を具体的に表した道の駅です。

けっこう賑わっています。ただ、車でないと不便。最寄駅の「下総神崎」駅から歩いたら、けっこうありそう。

ま、「道の駅」のコンセプトが高速のサービスエリア的なもののようなので、しかたがありませんが・・・。

「味噌豚まん」と「甘酒糀あんまん」を食べました。お土産は「米粉パン」。

甘酒。

               

他の商品の写真も、「道の駅発酵の里こうざきオンラインショップ」HPから、いくつか紹介。

 

      

「観光案内板」。

利根川歩きをしていなければ、まず立ち寄ることがなかった道の駅です。

銚子駅と東京駅八重洲口を結ぶ高速バスのバス停がありました。

気がついたらけっこうのんびりしていました。「滑河駅」まで歩きを再開。

圏央道・新利根川橋。

                   

  

右手遠くに筑波山。

振り返って望む。

「海から54㎞」ポスト。

午後2時過ぎ。空を見上げると、成田空港に着陸する飛行機が増えてきます。

(↓)。

常総大橋が身近に。

上空に飛行機。

「海から54.5㎞」ポスト。

   常総大橋。

左手からJR線が近づいてきます。

滑河駅に向かうJR線。

成田空港への着陸態勢をとる飛行機。

「滑河」駅に到着。

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