おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

旧東海道らしい道。そして、地名「ホト」「ホド」・・・。(保土ケ谷宿。その4。)

2014-08-31 22:49:07 | 旧東海道
 ここに来るまで見てきた旧東海道沿いの「松原商店街」や「相鉄天王町」駅の人通りもあって賑やかな雰囲気と違って、かつての宿場らしい街並みを期待すると少しがっかり。商店も少なく、道路沿いは、マンションなどが建ち並んでいます。

振り返って「環状1号」を望む。

「宿場まつり」出店募集のポスターがあちこちに貼られ、町おこしの計画が。

宿場らしく当時あったところに記念碑がたてられています。ここは、「助郷会所」跡。
自販機の壁面。なかなか親切な解説。


歴史の旅【助郷会所跡】
 助郷村々の人馬を手配するため設けられたのが助郷会所です。

自販機の解説文

 各助郷村の代表はここに出勤して問屋場の指示に対応するとともに、村が手配した人馬が不公平な割り当てを受けたり、不当に使用されないよう監視する場所でもありました。

「問屋場跡」。

歴史の道【問屋場跡】

問屋場

 宿場の公的な業務のうち、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたのが問屋場で、宿場の中でも最も重要な施設のひとつです。宿場ではこの業務をつとめるのに十分な数の人足と馬を用意するよう定められていました。問屋場には問屋を筆頭に、年寄、帳付、馬指などの宿役人が詰めていました。

助郷

 宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員することを助郷、指定された村を助郷村といいます。助郷は東海道が整備されてから交通量が増加してきた17世紀後半頃に次第に制度化されていきました。享保10年(1725)に定められた保土ヶ谷宿の助郷村は全部でおよそ40か村、現在の保土ヶ谷区のみならず、旭・西・中・南・港南・磯子・戸塚等の各区域に及びました。こうした助郷村々は助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていました。

高札場

 高札場は、幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札=「高札」を掲示した施設です。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んだ内部に高札が掲示され、屋根がかけられています。宿場の高札場には人馬の駄賃や宿代などを記した高札が掲示されており、宿内の中心地に設置されました。
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

「高札場跡」。

歴史の道【高札場跡】
 宝暦十三年(1763)に普請された保土ヶ谷宿の高札場は幅二間半(約四.五メートル)高さ一丈(約三メートル)の規模でした。
 宿場の高札場には一般の法令等に関するものだけでなく、隣の宿場までの荷物の運搬料金や旅籠屋の木賃(宿泊料)等を細かく記載した高札も掲出されました。

 「保土ケ谷税務署」の案内用の大きな看板の脇に立っています。

「金沢横丁道標4基」。
解説板。

「金沢横町道標四基」 横浜市地域有形民俗文化財(平成元年12月25日登録)

 この地は、旧東海道の東側で、金沢・浦賀往還への出入口にあたり、通称「金沢横町」と呼ばれました。金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、道標として四基が建立され、現在残っています。
 四基の道標は、それぞれ次のとおりです(右側から番号を付す)。

①円海山之道[天明三年(1783)建立]
 左面に「かなさわかまくらへ通りぬけ」と刻されています。
 建立者は保土ヶ谷宿大須賀吉左衛門です。円海山は「峯のお灸」で有名でした。
②かなさわ、かまくら道[天和二年(1682)建立]
 左面に「ぐめうし道」と刻されています。
③杉田道[文化十一年(1814)建立]
 正面に「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪」と刻されています。
 句碑を兼ねた道標は珍しく、また作者の其爪は江戸の人で河東節の家元です。
④富岡山芋大明神社の道[弘化二年(1845)建立]
 建立者は柳島村(現茅ヶ崎市)の藤間氏。
 芋明神は、富岡の長昌寺で、ほうそうの守り神として信仰を集めていました。
     平成五年三月 横浜市教育委員会



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。→のところ。
 この道を東南にたどると、金沢、横浜へ通じる道となっている。



 山越えをして「金沢道」となり、南西に向かうと「弘明寺」(ぐめうし)を過ぎ、現「上大岡駅」方面になる。

横丁を入ったところにある「保土ケ谷宿番所」○に「程」の字が。「保土」が「程」に。「程が谷」がかつての表記。

 程が谷」のいわれ
 地域に神社の所領として置かれた荘園の一種である「榛谷御厨(はんがやのみくりや)」から転訛したという説。

 鎌倉時代、当地を支配していた畠山重忠一族の榛谷重朝(はんがやしげとも)が、所領を伊勢神宮に寄進して土地管理を委ねられていた。
 この伊勢神宮の荘園は榛谷御厨(はんがやみくりや)と呼ばれ、「はんがや」が「ほどがや」へ転訛したという説がある。かつては程ヶ谷のほか、程谷、ほどが谷、などとも書いた。
 1601年(慶長6年)徳川家康が定めた東海道の駅制により東海道五十三次程ヶ谷宿が成立し、江戸時代は宿場町として発展した。

 一方で、凹地などの窪んだ所という意味の古語である「ホト」のような谷という説。

 日本各地に「ホト」「ホド」の音を持つ様々な表記の地名が残っているが、民俗学者の柳田國男の主張する説によれば、これらは女性器に似た形の地形だったり、女性器に似た特質(湿地帯)を持っていたり、陰ができる土地(「陰」部から)などの特徴から名付けられたとされる。アイヌ語で川や河口を生殖器になぞらえるのと類似している。
 「ホト」「ホド」の音を持つ地名は、安寧天皇陵の名前の由来となった地名「美保登」(みほと:奈良県)などがあったが、更に和銅6年(西暦713年)に発令された諸国郡郷名著好字令(全国の地名を好ましい意味の漢字で書きなさいという命令)などを経ることで表記が変わっていき、一例を示すと
 保戸 保戸沢(ほどさわ:青森県)、保戸野(ほどの:秋田県)、保戸島(ほとじま:岐阜県、大分県)保土 保土塚(ほどづか:宮城県)、保土沢(ほどさわ:岩手県、静岡県)、保土原(ほどはら:福島県)、保土ヶ谷(ほどがや:神奈川県、程ヶ谷駅として開業した駅がこの名に変更されたため区名などがこちらで定着)程 程森(ほどもり:青森県)、程田(ほどた:福島県)、程島(ほどじま:新潟県、栃木県)、程原(ほどわら:島根県、山口県)、程ヶ谷(ほどがや:神奈川県(≒保土ヶ谷))
のような形で全国に散見される。
 特に、ここ「程(保土)ヶ谷」は、柳田國男が「ほどがや」の「ほど」は「ホト」に由来するいう説をとった際の有名な例。(以上、「Wikipedia」より)

 ※JR「保土ケ谷」駅は、1931年(昭和6年)10月1日に「程が谷」から、保土ヶ谷駅に改称された。

 実際に歩いてみると特に西に急角度で折れた辺りの街道の両側には山が迫って狭間のようになっている。もともとはこの辺りの地名ではなかったか。実は、「ホト」が女性器を意味することは周知のことなので、多分「保土ケ谷」の由来はかくありなん、と思った次第。ただ、「ホド」にわざわざ「谷」を付する必然性があったのか、多少気になるところではある。
 一方の「榛谷御厨(はんがやのみくりや)」から転じたというのは、かなり無理筋の印象。地形から来ているとみた方が正しいと思う。
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古東海道(旧古町橋)~JR「保土ケ谷」駅西口(保土ケ谷宿。その3。)

2014-08-30 21:15:38 | 旧東海道

安藤広重保土ケ谷宿・「新町橋」付近。(神明社HPより)

 もっと昔の東海道はもう少し西寄りの山側をとっていたという。「古東海道」。
「旧古町橋」跡。帷子川に架かっていた橋。今の相鉄天王町駅南にある旧「帷子橋」は、「新町橋」とも言われていた。街並みを古町から少し東に移し、新町へと東海道の道筋を変化させた、と思われる。

歴史の道【旧古町橋跡】
《江戸時代初期の東海道》
 現在知られている「旧東海道」は、慶長6年(1601)に保土ヶ谷宿が成立した当時のものではなく、慶安元年(1648)に竣工されたもので、それまでは追分(宮田町1丁目)から上方方面の東海道はここを通っていました。 現在、追分から神明社あたりまでの道筋は判明していますが、そこから境木までの道筋には諸説あります。
《古町通》
 このあたりには江戸初期まで屋敷や寺が多くありましたが、新道の造成に伴い屋敷は新道沿いに移され、新しい街並みを形成しました。ここから追分へ至る道は「新町」(現:岩間町、帷子町)に対比して「古町通」と呼ばれ、元禄年間の書物には「古町通屋敷跡」の字(あざ)が見られます。
《旧古町橋》
 この場所には江戸時代初期の東海道が帷子川をわたる「古町橋」がありました。慶安年間の新道の開通にともなって架けられた旧帷子橋は、これに対応して、「新町橋」と呼ばれていました。また、かねてから暴れ川として氾濫を繰り返していた帷子川の改修が昭和38年(1963)に決定され、帷子川の流路は北側に変更されました。それにともない、現在の古町橋は昭和41年(1966)に、ここから約120メートル北に架設されています。
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

この絵図では、すでに東海道は現在の通りの道筋になっていて、「古町橋」は、「神明社」の参道になっているようだ。

その付近から古東海道の南方向を望む。南に「神明社」の大きな敷地がある。

「帷子川」旧流路跡。旧帷子橋(新町橋)から西の道路。

「古東海道」右奥が「神明社」。正面遠くに小さな祠。

祠の脇にある道標「古東海道」と記されて、交差する道の道標には「相州道」とある。




1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓が「古町橋」。赤い直線が「東海道」。その東にある川が「今井川」。


「環状1号」線が旧東海道。しばらくJR「保土ケ谷駅」付近までは広い道路に沿って進む。宿場としておそらく多くの店などが並んでいたと思われるが、道路の拡幅などによって現在はその面影はない。

「大門通り」交差点。西の山側は、一帯が寺町になっている。

今井川。東海道(現・「環状1号」)に沿って南西に向かう。1880年代の頃の水路とほとんど変わらない。

街道筋で見かけた古い面影を残す家屋。表通りには、この一軒くらいしか残ってないか?

旧中橋跡。

歴史の道【旧中橋跡】
《今井川の改修》
 かつて今井川はここで宿場を横切っており、「中橋」が架けられていました。その川筋は慶安元年(1648年)に新しい保土ヶ谷宿が建設された際に人工的に造られたものでした。しかし、その流路の構造から大雨のたびにここで水が滞り、しばしば下流域を浸水することになりましたが、なかなか改善されませんでした。
 しかしながら幕末にいたって人馬の往来が急増してきたため、嘉永5年(1852年)宿場では改修費用100両を準備するとともに、町役人が200両の借用を代官に陳情し、認められるとただちに現在の川筋に改修されました。
《保土ヶ谷宿と品川台場建設》
 今井川改修で発生した多量の残土の処理に困った名主苅部清兵衛は、当時建設中だった品川台場(外国の侵入に備えた砲台)の埋め立て用の土として幕府へ献上することを申出、3000立坪(約18,000m3)あまりの土を船で品川に運び、この問題を解決したと伝えられています。
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

 

「環状1号」をしばらく進むと、右の道が旧東海道保土ケ谷宿の中心部へ。左は、「保土ヶ谷駅」西口方向。

来た道を振り返る。

品川宿や川崎宿で見てきたとほぼ同じ道幅の旧東海道。


1880年代のようす(「同」より)。
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gooニュース最新政治ニュース一覧

2014-08-28 10:32:30 | 世間世界
 以前にも載せたことがありますが、「gooニュース」の9時過ぎ。
 朝刊代わりに開く人も多い時間帯。それにあわせるかのような記事一覧。このところ、「goo」として、昨今、まったく変わらない編集方針。

・小渕優子氏抜てきに期待も…自民・幹事長ポスト(読売新聞)
・「50年後に人口1億人」維持へ 政府、総合戦略を策定(朝日新聞)
・内閣改造は“反主流派”を生む可能性が高い(ダイヤモンド・オンライン) 8月28日 08:00
・石破氏、地方創生相の方向 大島氏、復興・環境相で調整 (産経新聞)
・石破氏、強気の理由 安保相を固辞 一転、入閣の方向 (産経新聞)
・石破氏「首相は気力・体力続く限り」(産経新聞)
・公安調査庁、調査官2000人に増員へ 五輪テロ対策強化(産経新聞)
・沖縄知事選 公明、自主投票の公算 仲井真氏と会談、物別れ(産経新聞)
・外務省概算要求 英などに「ジャパンハウス」、500億円上乗せ(産経新聞)
・政府、大熊・双葉町の復興構想 帰還困難区域除染など支援(産経新聞)


 同じ時間に記事の内容詳細を紹介。 
 これだけ徹底しているのは、すごい。読者のニーズに合わせているのか、または世論誘導か?
 「産経」新聞などは、イシハラ支配下にあった都庁内の一部の役人くらいしか熱心に読まないと思っていたが・・・。
 産経は、時流に乗って、今、威勢がいいのですね。

 ※ほぼ同時間帯での「Googleニュース」は、以下の通り。

・週刊文春の広告、朝日新聞社が掲載断る(朝日新聞) ‎
・藤井市長、語らず 美濃加茂市議会、事件追及相次ぐ(岐阜新聞)‎
・小渕優子氏抜てきに期待も…自民・幹事長ポスト (読売新聞)
・安倍首相:石破氏処遇に苦慮「総務相兼創生担当相」案浮上(毎日新聞)
・沖縄振興概算要求、過去最高の3794億円(読売新聞)‎
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芝生(しぼう)追分~旧帷子橋(保土ケ谷宿。その2)

2014-08-27 20:06:13 | 旧東海道
 右手が「八王子道」(その昔は「古東海道」の一部でもあった、という)、左手が旧「東海道」。
   
【追分】 (歴史の道)
≪標柱左側面の説明文≫
 追分は一般に道の分岐点を意味しますが、ここ芝生の追分は東海道と八王子道が分かれる場所です。
≪標柱右側面の説明文≫
(歴史の道)
 八王子道は、ここより帷子川にそって伸び、町田・八王子へと続く道で、安政六年(1859年)の横浜開港以降は八王子方面から横浜へと絹が運ばれるようになり、「絹の道」とも呼ばれています。

《八王子道》
 「絹の道」の愛称で親しまれているこの道は、かつては「神奈川往還」または「浜街道」と言われていました。
 安政6年(1859)に横浜が開港し、その後、鉄道が発達する明治の中ごろまで、輸出用の生糸が多数運ばれたルートのひとつです。八王子周辺地域で生産された生糸は、八王子宿に集められ、この道を通って横浜に運ばれて行きました。その、生糸取引で短期間に巨額の富を成したのが「鑓水商人」です。
 現在、「絹の道」は御殿橋のたもとから、「絹の道碑」の前までの約1.5キロメートルが市の史跡に指定されています。このうち、特に昔の面影をよく残す未舗装部分は文化庁選定「歴史の道百選」にも選ばれました。

 峠の一番高いところには、かつて道を行き交う旅人や村内の安全を祈って、道了尊を祀ったお堂がありました。現在は取り壊されて、跡地が大塚山公園として整備されています。
HPより)

 しかし、「八王子道」は、ただ「絹の道」という役割だけではなかった。
《資料1》
町田市自由民権資料館(http://www1.ttcn.ne.jp/chikyuh-kotabi/machidajiyu.htm)より

街道は物資や情報と共に思想も運ぶ

 神奈川(横浜)開港で幕末から明治初期にかけて、多摩や秩父地方から町田経由で横浜へ向かう街道は、輸出生糸の輸送路として活用された。この経路は現在俗に絹の道と呼ばれるが、それは物流ばかりでなく、新しい思想を多摩秩父地方へ伝える経路にもなった。
 また横浜開港の結果、町田一帯は外国人の遊歩区域として解放区に指定された。そのため幕末期には多くの居留外国人が町田を訪問している。1865年には、後年トロイ遺跡の発見者として世界的に著名なシュリーマンも来訪している。彼は八王子訪問の途中、原町田で一泊して見聞記録まで残している。
 このような環境に置かれた武蔵・多摩地方の富裕商人や地主階層は、人権論などの西欧政治思想に触れる機会を得た。もともと学問の素養があった彼らは、維新後、明治政府が納税や徴兵義務などの報国面ばかりを強調し、憲法制定・参政権付与・国会創設などの国民の権利面は何ら考慮しない状態に不満を持っていた。
 これら富裕な人々が運動の指導者となり、集合・結社・思想・討論・出版の自由を求めて自由民権運動へ向かっていった。。町田は地理的にも歴史的にも、その運動の先進的な一中心地となった。この目的を実現するためには、各人が相応の見識を持つことが必要とされ、そのための学習活動が活発に行われた。
 その指導者の一人・村野常右門は、剣術と自由民権思想の教育を目指して、1883年に凌霜館を開設した。「町田市立自由民権資料館」は凌霜館跡に建てられ、多摩の民権/町田の民権として運動を紹介するばかりでなく、全国の自由民権運動の資料も展示している。
 自由民権運動はやがて、地域活動から全国的な運動となり、参政権や憲法制定運動に発展して行く。その間、思想上や運動上の対立を繰り返し、政府の弾圧も受けながらも、少しずつ目的を達成して行った。
 彼等が百年前に要求したことは現在では、ほとんど達成されている。しかし、もし彼らが今の町田の現地に立って、町とも田舎ともいえないような雑然とした風景を見たならば、彼らの理想とした社会と比べて、どう感ずるだろうかと思わず考えてしまう。

《資料2》東京都 - 東書KIDS(kids.tokyo-shoseki.co.jp/kidsap/downloadfr1/htm/jsd38773.htm)より


 1871(明治4)年の廃藩置県(はいはんちけん)により,ほぼ現在の23区を行政区域とする東京府が成立しました。しかし,多摩地区や伊豆諸島は,神奈川県などに属していました。伊豆諸島は,明治に入り韮山県(にらやまけん),足柄県(あしがらけん),静岡県を経て,1878(明治11)年に政府の力が行きとどく東京府に編入されました。一方,神奈川県管下にあった三多摩は,1893(明治26)年4月に東京府に移管されました。これは,東京府民の人口増加による水源確保(府民の飲料水として利用されていた玉川上水(たまがわじょうすい)の水源管理を確実にするため)をねらいとしていました。また,当時,三多摩では自由民権運動が盛んで,神奈川県の政界で自由党が有力な地位を占める基盤ともなっていました。そのため,三多摩の自由民権運動を抑圧するねらいもありました。これにより,ほぼ現在の東京都の範囲が確定されました。

《資料3》

『武相自由民権史料集』全6巻


本書は、武相地域(現神奈川県に東京都多摩地域を加えた旧神奈川県域)を、自由民権運動が展開した当時の運動領域と位置づけることによって、「三多摩」や市町村など現在の行政区分に左右されてきた研究状況を克服し、旧神奈川県域の自由民権運動を俯瞰することを目指したものです。また、いわゆる自由民権運動史料だけではなく、幕末維新期の多様な史料、明治20年代の政治運動史料、民権期における地域指導層の社会観や諸活動に関する史料をできるだけ多く収録しました。利用される方々が、本書を通じて、武相地域の自由民権運動をより多角的かつトータルに把握できるよう心がけています。
HPより)


 他にも「新撰組」など、実に興味ある話題が尽きない、街道の「八王子道」です。

来た道(旧東海道)を振り返る。

「保土ケ谷宿案内図。

「松原商店街」。活気にあふれた商店街。八百屋さんを中心にお店の人の元気な声が響く。段ボール箱で買っていくお客さんも。それほど長くはない通りにお店がひしめいている。


「国道16号線」から商店街を振り返る。

 「16号線」を渡ると、「江戸方見附」跡の標識が。ここからが「保土ケ谷宿」の江戸側出入口。



(歴史の道)【江戸方見附跡】
 「東海道分間延絵図」によれば、芝生(しぼう)の追分から国道16号を越え天王町にいたる途中に保土ヶ谷宿の江戸方見附がありました。保土ヶ谷区郷土史では、天王町391・393番地先(現在の天王町1丁目11-3付近)にあったとされています。
 江戸方見附は、各宿場の江戸側の出入口に設置されているもので、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしています。このため「土居」(どい)とも呼ばれています。こうした構造から、見附は本来簡易な防護施設として設置されたことがうかがえますが、同時にまた宿場の範囲を視覚的に示す効果を合わせ持っていたと考えられます。
 ここ江戸方見附から京都(上方)側の出入口に設置された上方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれ、保土ヶ谷宿では外川神社付近の上方見附まで19町(約2キロメートル)になります。大名行列が来ると、宿役人が見附で出迎え、威儀を正して進みました。
     平成15年3月 保土ヶ谷区役所

商店街を進む「旧東海道」。


現「帷子橋」からの「帷子川」。

《歴史》

平安時代:袖ヶ浦と呼ばれた入り海が、現在の横浜市保土ケ谷区東端部まで湾入しており、現天王町付近の河口は帷子湊(かたひらみなと)と呼ばれ、橘樹神社付近は「かたひらの宿」「かたひらの里」として栄えた。
江戸時代:河口に河岸があり、薪炭などの物流の地として栄えた。
1707年(宝永4年):富士山の大噴火による降灰で川筋が埋まり、河口も下流へ移動。現浅間町付近に新河岸が成立、旧河岸と対立を深める。
1732年(享保16年):川幅と河身の改修工事が行われる。こののち、明治時代にかけて袖ヶ浦の埋め立てが進み、平沼等が成立。埋め立て地に帷子川本流と新田間川・派新田間川・石崎川・幸川が残され、さらに一部はその後埋め立てられた。
明治時代:絹のスカーフの輸出増大を受けて、染色・捺染工場が集まる。八王子からの「絹の道」が通り、天王町が栄えた。
1923年(大正12年)9月 関東大震災後:国の復興事業として改修工事が行われる。
1958年(昭和33年):台風22号(狩野川台風)による水害
・・・

《名称の由来》

 現在の横浜市保土ケ谷区天王町一帯は片方が山で、片方が田畑であったため、かつては「かたひら」と呼ばれていた。その地を流れていたので「かたびらかわ」と呼ぶようになったともされているが、名称の由来については諸説ある。(以上、「Wikipedia」参照)
 
※かたびら【帷子】
〔あわせの「片ひら」の意〕
①裏を付けない衣服。ひとえもの。
㋐装束の下に着るひとえの布製の衣服。
㋑夏用の麻の小袖。薩摩上布・越後上布などが用いられた。 [季] 夏。
②几帳(きちよう)・帳(とばり)などに用いて隔てとする薄い絹布の垂れ布。
③経帷子。

「帷子橋」から来た道(旧東海道)を振り返る。

「環状1号」からの見た、旧東海道に架かる「帷子橋」。

相鉄天王町駅。



 相模鉄道線の「天王町駅」ホーム下をくぐると、「天王町駅前公園」に旧帷子橋跡のモニュメントがあります。
 また、公園入口に『江戸日本橋より八里』と刻まれた石柱が立っています。(「八里」は42㎞。)


【旧帷子橋跡】 横浜市地域史跡(平成10年11月9日登録)

 江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は、絵画に描かれたり、歌や俳句に詠まれるなど、保土ヶ谷宿を代表する風景として知られていました。中でも初代広重の「東海道五十三次之内 保土ヶ谷」は特に有名です。
 大橋や新町橋などとも呼ばれていた帷子橋について、『新篇武蔵風土記稿』の帷子町(保土ヶ谷宿のうち)の項には、「帷子橋 帷子川ニ架ス板橋ニテ高欄ツキナリ、長十五間、幅三間、御普請所ナリ」という記載がみられ ます。
 昭和三十九年(1964)七月に、帷子川の流れがそれまでの相鉄線天王町駅南側から北側に付け替えられたのに伴い、帷子橋の位置も変わりました。かつての帷子橋の跡地は、現在の天王町駅前公園の一部にあたります。

     横浜市教育委員会


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。→が「帷子橋」。現在のモニュメントの橋の架かる方向と微妙に異なっているようです。

保土ケ谷宿散策案内図。
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上台橋~よこはま道~追分(保土ケ谷宿。その1)。

2014-08-26 21:46:46 | 旧東海道
 猛暑の夏。広島では大変な惨事。その他の地方でも猛烈な豪雨による被害が続出。その中で、東京地方はときどき小雨がぱらつくほど。お盆休み前の何日かちょっと不安定な天気だったが、その後は猛烈な暑さ。

 日本はどうなっているのか、どうなっていくのか? お天気と甚大な被害が示す、行く手。
 
 この夏。こうして終わりそうな気配。久々に東海道の旅に。炎天下の歩き!

 JR横浜駅の西口を出て、少し西に向かうと「上台橋」。ここは、前に来たところ。その時は、、東に進んで「神奈川宿」の道をたどりました。
 「上台橋」は、1930(「昭和5)年、横浜駅方面からの切り通しの道路ができたために、その上に架けられたもの。

『神奈川駅中図会』。
 かつてこのあたりは、潮騒の聞こえる海辺の道でした。この場所から見えた朝日は、ひときわ美しかったのでしょうか。『神奈川駅中図会』にも、その姿が描かれています。

横浜駅西口方向を望む。欄干の文様は「青海波」。

橋のたもとにある案内板。スタート地点。ここから、西に向かいます。

旧東海道。

東方向・「神奈川宿」(台町)方向を望む。神奈川宿方向からは下りになっている。この辺りで海岸線沿いになっていた。

「旧東海道」という道しるべ。

この先で「環状1号」線に合流する。 

 

浅間下交差点。旧東海道は斜め右・交番の辺りから入っていく。

 ここで交差しているのが、「横浜道」。

 
1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。東海道と「横浜道」が交差している付近()。東海道は海沿いに進み、この先から丘陵地帯沿いに次の宿場町「保土ケ谷(程ケ谷)」に向かう。「横浜道」は、東海道と交差した後、開港した「横浜港」へ向かう(直線の黒い線)新田間(あらたま)橋、平沼橋の名が見える。現在の関内付近まで続いていた。


「よこはま道」案内板。

 安政5年(1858)6月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は、神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定めた。
 しかし、ミナト横浜の街づくりは開港3ヶ月前の3月になって、やっと工事が始まるという状況であった。当時は、東海道筋から横浜への交通は非常に不便であったため、幕府は東海道筋の芝生村(しぼうむら・現浅間町交差点付近)から横浜(関内)にいたる「横浜道」と呼ばれる道路を開いた。(当時、東海道と連絡するには、保土ケ谷から井土ケ谷、蒔田を通るか、神奈川からの舟運しかなかった。)
この道は、芝生村から湿地帯だった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで一直線に通じる道路を築くとともに、新田間(あらたま)、平沼、石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切り通しを開き、野毛橋(現都橋)、太田橋(現吉田橋)を架けたものだ。
記録によると、当時の橋の幅は3間(約6m弱)で道路もおそらくこれと同等の幅員であったと考えられる。工期3ヶ月の突貫工事で、橋材は欄干には杉を、杭には松を使用した。
新開地横浜への主要道路として大いににぎわい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり、今では住時の面影をわずかにとどめるのみである。

  

右図で、赤い点線が「旧東海道」、青い点線が「横浜道」。 

案内図。
 赤い線が「旧東海道」、青い線が「横浜道」。

交番裏の「浅間下
公園」。旧東海道の一部になっている。

明治後期のようす。かなり海が干拓され、土地が広がっている。上の↓が、「横浜道」との交差点。下の↓が「八王子道」との分岐点・追分。

現代。(「今昔マップ」より)

浅間神社方向を望む。

浅間神社脇の道標。

緩やかにカーブを描いて進む。

「環状1号線」方向。下り坂になっていて、「旧東海道」がかつては海を干拓した田んぼと丘陵の縁を進んでいたようすがわかる。

右手の住宅の裏はかなり切り立った崖。


足下には「旧東海道」との銘板。

静かな住宅街の道。

振り返って来た道を望む。左手の公園の奥は、崖になっている。

行く先には「八王子道」との分岐、「追分」。
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