おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「風土」(福永武彦)P+D BOOKS 小学館

2016-08-31 22:55:11 | 読書無限
 このあいだ、久々に近所の図書館に出かけたところ、新刊のコーナーに置いてありました。福永武彦の「風土」。昔読んだことのある、印象深い小説。
 それよりも何よりもこの書籍。一風変わった装丁。定価も650円+消費税。今どきの本は、文庫本や新書版以外はロクでもないものでも何でも1000円2000円は取られる。その中でのこの値段。

「P+D」とは、ペーパーバック&デジタルの略称。
初回ラインアップは、16 作品。
 松本清張氏の初単行本化された幻の作品「山中鹿之助」をはじめ、丹羽文雄「親鸞」、澁澤龍彦「サド復活」、中上健次「鳳仙花」、立原正秋「剣ヶ崎・白い罌粟」、水上勉「秋夜」、栗本薫「魔界水滸伝」、山口瞳「居酒屋兆治」、北杜夫「どくとるマンボウ追想記」などなど、錚々たる昭和の大作家たちの代表作、お宝作品が目白押しです。
 デジタルの手軽さを生かしお好きな時間、場所でお読みいただいたり、じっくりとお時間を取り、自分本位の読書スタイルで熟読いただいたりと、自由な読書時間が広がります。

(以上「小学館」HPより) 

 基本はデジタル版のようですが、こうして従来の活字本も同じ価格設定です。
HPにもあるように、絶版になって入手困難な作品や単行本化されていなかった作品など「お宝作品」が出版・配信されているようです。

 さっそく借りてきて読んでいます。率直に言って安心して読める、落ちついて読める、というか予定調和的な作風。福永さんのこうした作風は、後の辻邦生さんにも影響を与えています。
 しかし、その内容はけっして調和的、穏やかなものではありません。「穏やかさ」の奥底に潜む人間の生の実相、突き詰めれば愛(性)の不思議さ、時代(の変化)に翻弄される男女の生き様・・・、
 関東大震災から第二次大戦という、日本のみならず世界が激しく揺れ動いた16年間。そうした激動の時代に翻弄されつつも自我、意志をとことん見つめていく中での獲得した地平。それも実は儚いものに過ぎない。・・・
 特に第二次世界大戦に突き進み、破滅していく日本。市井の人々の慎ましやかな生き様を奪い、また表現者への圧迫によってそれを奪った、軍国主義へは、冷徹なまなざしで厳しく向きあっています。
 フランス滞在中に他の女性と同乗中に交通事故で死んだ夫、一人娘と日本に戻り暮らす芳枝。長年、その芳枝を忘れることができなかった画家・桂。二人の再会から物語は始まります。ベートーベンのピアノ曲「月光」とゴーギャンのタヒチの女の絵が「狂言回し」として大きな役割を果たす。娘道子に淡い恋心を抱く、ピアニスト早川久邇。登場人物はこの4人。会話・対話劇のスタイルを取りつつ話が展開します。
 人(他者)を愛することの難しさ、お互いの思いのすれ違い、越えられない深淵(とも感じる)。・・・
 いつしか桂を愛するようになった芳枝は桂とフランスで暮らすことを思う。しかし、・・・。
 
 戦争? どうして桂さんはあんなに戦争のことばかり気にしていらしたのだろう。戦争はドイツとポーランドとのこと、遠い海の向こうで起こっていることだ。たとえドイツが攻め寄せて来てもフランスはマジノ線があるのだから、マジノ線は決して破られることはない筈だから、フランスは決して負けることはない、だから大丈夫、きっとうまく行く、ポーランドだけで戦争は終わるでしょう。わたしたちはパリで幸福に暮らせる。桂さんのようにそんなに心配ばかりしなさることはないのだ。わたしたちはまたパリで革命記念日のあの愉しい雰囲気を味わうことが出来る。爆竹が鳴っている、アコルデオンのゆるやかな旋律、三色の提燈が風に揺れている、わたしたちはくるくると廻って踊る、マロニエの上に月が照っている……。
 ――桂さん、桂さん……。
 またかすかに道子が呼んだ。芳枝は振り返ったが、道子はそれきり声を立てなかった。芳枝はほっと溜息を吐いた。風が涼しかった。
――もう秋だわ。
 芳枝はそう呟き、窓を閉めた。硝子戸を越えて、あかるい月影が芳枝の蒼じろい顔を照らし出し、道子の寝台の足許へまで、水のようにさらさらと流れ込んでいた。(P510)

 解説は、福永武彦の長男の池澤夏樹さん。

 福永作品では下記の作品もありました。
    

 これらも懐かしい作品達。若い頃けっこう読んでいましたが、最近はとんとご無沙汰。改めて読んでみようと思いました。
 
 他にも興味深い作品が出版されています。読んでみよう!  
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ホームステイ2016。今年はアメリカ・サンフランシスコから青年が。

2016-08-26 23:37:21 | 世間世界
 去年のJackに続いて今年の夏もやってきました。Phillip。4日~13日。ちょっと短い日程。実は、「JET」という事業で初来日の青年。
 「JETプログラム」とは、語学指導等を行う外国青年招致事業(The Japan Exchange and Teaching Programme)の略で、外国青年を招致して地方自治体等で任用し、外国語教育の充実と地域の国際交流の推進を図る事業。
 JETプログラム参加者は、「外国語指導助手(ALT)」、「国際交流員(CIR)」、「スポーツ国際交流員(SEA)」の3つの職種で来日。今回の青年は、そのうちの「外国語指導助手(ALT:Assistant Language Teacher)」日本人外国語担当教員の助手として外国語授業に携わり、教育教材の準備や英語研究会のような課外活動などに従事するために来日しました。(ちなみにJET参加者の90%以上がALTのようです)。
 2年間、多摩地域にある都立高校で仕事に携わるということで、住まいが決まるまでの間の滞在。
 「UCLA」出身。国際関係を学んでいたそうで、将来は政治家志望(といことくらいは英語で話されても、理解できた)とすると、未来の上院議員、大統領? 将来は大物に? 
 友人がすでに同じ事業で来日し、都立高校で従事しているらしく、予備知識は豊富。
 が、日本語はほとんどダメ。挨拶程度。こちらは英語はほとんどダメ。挨拶程度(それも、くらい)。かみさんにいたっては・・・、都立高校の教師である二人の子供たちも「私はJapaneseteacherだから英語は話さない」とかで・・・。何とか頼りになるのは、もう一人の息子、といっても度胸とはったりだけで・・・。
 新宿西口・NSビルの研修会場に迎えに行って、家に連れてくる、そこまでも大変! 

 「Nice to meet you.」もしどろもどろ。分かってもらえたかどうか、握手でお茶を濁す。

はったり息子についてきてもらったが、会ってすぐに「じゃァまた後で! (このくらいの英語は話したのかどうかも定かではない)」。あとは二人きりで。
 新宿駅から山手線に乗って日暮里経由で帰宅。会話も「From」「Next」「Right」「Left」「Change」「For NaritaAirPort」「SkyTree」「MyHome」・・・。明るい声でかみさんが「ようこそいらっしゃい」。

 翌日から朝食と夕食の世話はかみさんが。事前アンケートでは「魚はダメ、肉は大好き、胃腸が弱い、スポーツ大好き、ムエタイ(タイ式ボクシング? )が趣味だ」とのこと。何代か前にイタリアからアメリカに渡ったということでイタリア人のような名前。さすが移民の血筋。こうして海外へ出るのも苦にならな感じ。初めての日本! でも。

 毎日ビフテキというわけにはいかないからね。地元では日本料理屋さんがけっこうはやっているらしく、日本食には慣れているようすで、一安心。

 来日した4日から東京は猛暑、猛暑。気候が温暖なサンフランシスコからでは大変! なはず。

 家に来たとたん、「Beer!」と「キリン一番搾り」500㎖を出し、ついでに枝豆を出したら、大喜び。何はなくても「乾杯! 」てなわけ。「エダマメ」は向こうでもけっこう食べたことがあるようで、「EDAMAME」と大喜び。

 枝豆とビールで乾杯! ビールは「アサヒスパードライ」もあるようで・・・。もともと生水(水道水)は飲まない(飲めない)習慣の国、こうしたアルコールや清涼飲料水が当たり前のようです。

 初日もあっという間に二人で3本空けて、さらに追加で買いに行く始末。

 その日からは毎日、夜はBeer、Beer、Sake、Edamame、Edamame、・・・。会話もめちゃくちゃながら通じるのが不思議です。

 つまみに「タコ」を出したら、わさびもOK、醤油もOK。「タコは悪魔の魚 Devil Fish? 」「NO!Fishではありません」けっこう美味しそうに食べる。これで、枝豆とタコでますますビールが進む。という次第。

 翌日の晩は「Bon dance」(ではなくて「Bon festival dance」が正しい言い方らしいですが)に。「ソーラン節」かなんかを踊っていました。そして、夜店でかき氷を。

 というわけで、珍英語問答も繰り広げながらの会話。所々、憎たらしいほど、「R」と「L]の発音の違いをことさら強調する青年ではありました。

 家にやってきた2Japaneseteachersは、スマホを頼りに適当に(英)会話を楽しんでいます。こちらも近所の人と会っても「Ok」とか「thank you」とか変な受け答えに。アクセントも何となくおかしくなって、・・・。

 ある晩、はったり息子はバッティングセンターに誘っていき、力強い振りにビックリしたほど。土曜にはスカイツリーや上野、浅草にも連れて行ったりかなり協力的。あのとんこつラーメン「一蘭」にも連れて行ったそうです。
 しばらくして「明日、野球の試合があるから行こう」と車で「二子玉」まで。結果は3回コールドのダブルスコア(どころか20点以上―本人の名誉のために詳しい失点は言いません―)で大負け! それを気にしないところが別の意味で大物! 「どうだった? 」と聞かれてアメリカ青年は首をすくめて、・・・。

 ある晩、肉を腹一杯食べさせようと「焼肉屋」に連れて行きました。「Korean barbecued beef 」と大喜び。

 この青年。実はパンが嫌いなようす。食パンを出しても耳の部分はしっかり残し、バターロールは中身を器用に食べてちょっとかじるだけ。その代わり、ご飯は大好物な感じ。器用に箸を使って食べています。孫たちの箸の使い方よりも上手! ナイフとフォークを出しても箸の方を使う、という「変な」アメリカ人でした。

 味噌汁も大丈夫。豆腐もOK。「オクラ」も。ただ納豆はにおいをかいだだけで「No thank you」でした。

 最後の晩はお寿司にピザに炊き込みご飯にと用意しましたが、ピザにはあまり手をつけず、もっぱらお寿司とご飯を食べていました。
 インターネットで「想い出のサンフランシスコ(I Left My Heart in San Francisco)」の歌と映像を見せたら、ちょっとホームシックになったようです。

 でも、故郷とUCLAは誇りにしていました。特に「Golden Gate Bridge」。

 ところで、サンフランシスコでの交通手段は、あの有名なCable Car(こちらの感覚では市電ですが)。ご自分は、もっぱらBicycleだそうです。上ったり、下ったりで面白そうで、危険そう。 

 こうしてまだまだ熱い夏のさなか、13日朝。大きな荷物を持って新天地に向かいました。

 気がつけば、今夏ほどBeerとEdamameとOctopusを買った年はありません。

 「See You Again」

 その後、新居も決まり、高校にも行き、日本での新たな生活が始まったようです。このあいだの台風も何とかしのいで(たくさんの食糧を買い込んでいたとか)、高校も熱心な生徒が多く、運動にも関わって何だか伸び伸びとやっているようです。出だしはけっこう満足している感じ。

 娘とも英語文でのやりとりをしていて、日常会話など日本語もだんだんと覚えて、ひらがなが混じった文章になってきました。

 今、あちこちの高校でこうした事業が行われているようです。娘の学校にも同じ事業によって引き続いて新たなALT外国人教師が派遣されてきたようです。
 2学期が始まって落ち着いたら、その高校にお邪魔するつもりです。

 そうそう先日は、去年やって来たJackが香港から彼女を連れて我が家に来ました、日本を旅するとかで。

 こうして我が家も次第に輪が広がっていきます。

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軽井沢駅 信越線・廃線跡。(「旧中山道」をゆく。第11日目。番外編)

2016-08-24 23:16:21 | 鉄道遺跡
 小海線で小諸まで乗り、そこからしなの鉄道線で軽井沢駅に戻ってきました。
 JRの在来線(信越本線)は長野(北陸)新幹線の開通とともに「しなの鉄道」と名称を変え、軽井沢から篠ノ井まで運行されています。高崎から横川までは「JR信越線」。「碓氷峠」越えの線路は廃止され、「横川」と「軽井沢」を結ぶ鉄道はなくなり、バスでの往復。
 「横川」駅から群馬側の廃線跡は「熊ノ平」まで遊歩道として整備され、歩くことができます。ここは、この前歩きました。
 峠から長野側(軽井沢駅方向)は廃線後はどうなっているのでしょうか? 実はそれを見たくて軽井沢駅まで戻ってきたわけです。はたして?

信越本線の変遷
(「news.mynavi.jp/series/trivia/278/」HPより)

「軽井沢」駅構内には信越線時代の車両が展示されています。

軽井沢駅から東には線路はあるものの・・・

線路は残っていますが、架線は撤去されています。

その線路も草に埋もれつつあります。軽井沢駅方向を望む。

東に向かって歩いてみます。「立ち入り禁止」なので遠くから眺めるだけですが。向こうに見えるのは新幹線。手前の草むらが旧線跡。


なかなか近づけません。遠目に目に見るだけ。 

    

しばらく行き、右に折れると、踏切跡があります。
    

 たまたまなのか、フェンスが開いていたので、ちょっと入りました。草むらの中に線路が。
    

 架線柱。
    

「碓氷峠」方向に伸びる架線。


この先は遠慮します。このまま線路をたどれば碓氷峠に進むのでしょうか?
軽井沢から「熊ノ平」まで廃線跡が遊歩道になれば、「横川」から「軽井沢」まで歩くことが可能に。
 また、横川から廃止になった「新線」跡も整備されたら、すばらしい遊歩道になると思いますが。・・・

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皎月原。鵜縄沢端一里塚。岩村田宿。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目。)

2016-08-22 21:06:25 | 旧中山道


                 軽井沢・沓掛宿~岩村田宿 概念図


 

(「」HPより)

 けっこう車の行き交う県道に沿って南に向かいます。(14:47)途中、右手に草原があります。「皎月原」。

    

佐久市文化財 名勝 皎月原
 皎月原は旧中山道沿い、小田井宿と岩村田宿の中間、小田井宿よりの草原で、古くから指定地に関する古記録や伝説があって、中山道に於ける著名な名勝として知られている。伝説によれば用明天皇(586年)皎月という官女が、おとがめを受けて佐久郡の平尾へ流されてきた。いつも白馬を愛していた官女はある時、小田井の原へ馬を引き出して乗りまわしていた。ところが天の竜馬だった白馬は、空へかけ上がり、東西南北をかけまわった後、平尾山の頂上に立ちどまった。そこで官女は「吾は唯人ではない。白山大権現だ」と云って光を放って岩の中へ入ってしまった。その後女官は白山大権現と云うようになり、時々小田井の原へ来て馬の輪乗りをし、其跡には草が生えなかったので、其処を皎月の輪と呼ぶ様になったと伝えられている。
 只「村上家伝」の村上其国の伝記には全くの異説が載っている。

 平成2年10月1日 佐久市教育委員会

 広重の浮世絵の通り、かつては大草原だったようです。現在は、奥には歌碑やら解説板がある、こぢんまりとした草原。しかし、蚊やダニに喰われたら大変なので、そうそうにして引き返しました。
                 

来た道を振り返って望む。日差しが強い!

「岩村田」方向を望む。

 (15:02)左手のこんもりとした林のところに「鵜縄沢端一里塚」解説板。塚らしい雰囲気はなさそうです。

    

市文化財 鵜縄沢端一里塚
 この一里塚は慶長年間(1598~1614)中山道開通当初に設置されたものである。その後の道路改修によって街道からはづれてしまったが両塚の間の道路は中山道の旧い道筋を示すもので貴重なものである。

 平成2年3月31日 佐久市教育委員会

 この標識から少し林の中に入ったところに東塚が残っているそうです。しかし、足を踏み入れようにも・・・。


奥の小高い林の向こうに? 

 この付近の両側には、大規模なお店が並んでいます。
    
                                             「珈琲哲学」。
 
 しかし、目を東に転ずると、自然豊かな風景が。
    

リンゴ畑が広がっています。

 まだまだ青いリンゴと木の下には小さなリンゴが落ちています。
    

遠くには平尾山? この付近では山並みもはるか彼方。 
     

佐久平の一角。(15:16)「上信越自動車道」の上を行く。

         
        西方向。                        東北方向。

            実りつつあるりんご。

(15:26)路傍の石仏群。

次第に「岩村田宿」に近づいてきます。

「住吉神社」。この辺りが「岩村田宿」入口。 

家紋入りの土蔵造り。

(15:33)右手には「善光寺道道標」。
    交通事故で破損し、再建されたもののようです。元の道標は「住吉神社」境内に。

  立派なお屋敷。

案内板には「↑清里 →諏訪 白樺湖」。ここは、「小海線」のエリアです。

門構えもなかなかのもの。

 左手には武田信玄ゆかりの「龍雲寺」。武田信玄の帰依が熱く、信濃路に出兵する際は必ず詣で戦勝祈願をした。境内には、信玄霊廟があり遺骨とその副葬品と伝えられるものが納められています。
                     

(15:40)「岩村田」交差点。

 今回は、ここまで。
 右に折れ、しばらく進むと小海線・「岩村田」駅になります。そこから一駅で新幹線「佐久平」駅。帰京するのは早くて便利ですが、あえて小海線で小諸まで出て、しなの鉄道で「軽井沢駅」まで戻りました。その理由は、次回。

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小田井宿。筆塚。本陣。脇本陣。問屋場。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目。)

2016-08-20 15:56:10 | 旧中山道
小田井宿(おたいしゅく)
 中山道六十九次のうち江戸から数えて21番目の宿場。現在の長野県北佐久郡御代田町中心部にあたる。
 参勤交代などで大名が北国街道との分岐点でもあった追分宿で宿をとる際、小田井宿は姫君や側女たちの宿にあてられることが多く「姫の宿」とも呼ばれた。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、小田井宿の宿内家数は107軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒で宿内人口は319人であった。

(14:18)「小田井宿入口」という標識。    

その裏手には「筆塚」。筆を供養して納めたもので、各地にあります。

バス停「小田井上宿」。ひなびた街並みが現れます。
   

(14:22)枡形跡にある解説板。

中山道 小田井宿
 小田井宿は天正年間(1573~92)に誕生し、慶長(1596~1615)以降、宿駅としての機能が整えられました。
 昭和に入って数度の工事で、道の中央を流れていた用水路も南側に寄せられましたが、東西の入口にあった枡形もわずかにその形を留め、上の駅・下の駅は茶屋など小商売が多く、中の駅にあった本陣・問屋・旅籠などが残り、当時の面影をしのばせてくれます。
 文久元年皇女和宮のご昼食休みに代表されるように、多くの姫君の休泊に利用され、「姫の宿」とも称されています。街道の繁栄期であった文化・文政期には、文政5年(1822)で、199戸・人口524人を数えていますが、他の時代には小さな規模のお伝馬に生きた宿場で会ったようです。町並みは寛延元年(1746)で7町23間(805米)ありました。和宮より拝領の人形が遺され、それにちなんで8月16日には小田井宿祭りが行われます。
 現在地は東の枡形です。

    
 宿内を望む。                               枡形を望む。


               安藤広重画。遠景に浅間山。もう少し南、宿外に位置する「皎月原」の景色を描いたようです。

宿の中央を流れていた用水は道路脇を水量も豊かに流れています。


「お休み処」。

                               「本陣」跡。
    

町指定史跡 中山道小田井宿 本陣跡(安川家住宅)
 安川家は江戸時代を通じて中山道小田井宿の本陣をつとめた。現在、その本陣の客室部を良工に残している。
 客室部は切妻造りで、その式台・広間・三の間・二の間・上段の間・入側などは、現形をよく留めており、安川家文書で宝暦6年(1756)に大規模改修が行われたと記されていることから、その際の建築と考えられる。また、湯殿と厠は幕末の文久元年(1861)の和宮降嫁の際に修築されたものであろう。
 厠は大用所・小用所ともに2畳の畳敷きとなっている。

 昭和53年6月1日 御代田町教育委員会

        

「高札場」跡。

 「上の問屋場跡」碑。本陣と同じく安井家が勤めました。
    

脇本陣跡。建物は残っていません。

旅籠屋風? 

バス停・待合所。宿場らしさ。

(14:29)「下の問屋場跡」碑。白壁が見事。 

「小田井宿」西の桝形付近。  

自販機が置かれてあるところが桝形跡? 

宿を出ても右手に旅籠屋風の建物。

振り返って望む。のどかな道筋。人に会うこともない。

畑の一角に「馬頭観音」「道祖神」など。

東方には「平尾富士」? 田園の道をたどる。

(14:44)しばらく進み、県道に合流します。 
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笑坂。千ヶ滝湯川用水温水路。御代田の一里塚。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目。)

2016-08-19 22:10:52 | 旧中山道

 「笑坂」と名付けられた坂道を緩やかに下って行くと、「御代田(みよた)町」に入ります。その手前の左手には「千ヶ滝湯川用水温水路」。「中山道」をくぐって勢いよく水が流れていきます。

                    
 「温水路」とあるので、温泉のお湯でも流しているのか、と。しかし、この付近に温泉があったかしら? そこで、ネットで調べてみると大違い!

 もともとは慶安3年(1650年)に開削された約16里の農業用水で、現在のものは戦後、約21㎞にわたり改修したもの。
 千ヶ滝、湯川は浅間山の中腹を水源としており、雪解け水や湧水が中心で稲作には水温が低いため、水温上昇のために、全長934㍍、幅20㍍、深さ20㌢の浅いプールのような水路にしたそうです。その結果、水源で13.2度だった水がこの水路などで暖められ、水温は18.2度となり、稲作に適するようになり、耕地が広がった、という。

 先人の知恵はたいしたものです。この付近の散策もなかなかのもののようです。

ここからは「中山道」の表示が道案内。

中山道から折れると、こんな木漏れ日の道。

左手に不動産会社の宣伝。浅間山の写真。

(12:47)右手を振り返っても浅間は見えず。

時折、車が通り過ぎるだけで、人っ子一人いない道。沿道には浅間山の巨大な噴火石でできたモニュメント。
                          

交差点には「中山道」の案内表示。
                                     ひたすら下って行きます。

傾斜はこんな感じ。自販機の並び方。

    
                                        振り返って望む。女子中学生2人ががひっしに自転車をこいで上って行きました。

住宅が増えてきます。??? ポストの郵便受け。

 (13:12)長い下り坂も飽きてきた頃、右手に説明柱。
        

右手奥に行ったところに「御代田の一里塚」。 

長野県史跡 御代田一里塚
 中山道、御代田の一里塚は、軽井沢町追分一里塚の次に位置するもので、これを経て中山道は小田井(おたい)宿へと至り、さらに佐久市鵜縄沢の一里塚、岩村田(いわむらた)宿へと向かう。
 中山道は、江戸幕府の置かれる前年の慶長7年(1602年)に整備され、寛永12年(1635年)に改修されるが、本一里塚はその改修以前に構築されたものである。
 本一里塚は、西塚で径13m、周囲40m、高さ5mを測る。隣接するのは東塚で径13m、周囲40m、高さ4.5mを測る。
 これらは現中山道より7m離れた畑中に位置するため、遺存状態もよく貴重である。
 ちなみに、国道18号線の北には北国街道に沿う一里塚「馬瀬口一里塚」が二基保存されており、町指定の史跡となっている。

 昭和39年8月20日 長野県教育委員会 指定

    
                                   西の塚。しだれ桜。
    
          東の塚。

「中山道」改修以前の一里塚で、路地を抜けて奥まった畑の中にあります。
               西を望む。

 「一里塚」案内表示の先を進むと、すぐに「しなの鉄道」の線路に突き当たりますが、地下道を通って向こう側に出ます。
    

来た道を振り返って望む。

 (13:27)すぐ右手には「しなの鉄道御代田」駅があります。旧道の角に「手打ち田舎そば処 なかや」というお店があったので、休憩。生ビールとお蕎麦を注文しましたが、お蕎麦はなかなかの美味。おやじさんともしばし歓談。

 「この先にはしばらく食べ物屋さんはないよ。焼き鳥屋はあるけれど。そう、ずっと下り坂だね。けっこう続くよ。立科くらいまでかな。追分に行くのは上りなんでけっこうしんどいね。・・・明日はお祭りで賑わうけど、それくらいだな、ここは。町ももっと宣伝をすればいいのにね。・・・」

(13:58)一杯飲んで元気回復。再開です。

 落ち着いた、古い家並みが続きます。相変わらず緩やかに下って行きます。
    

りっぱな塀が長くお屋敷。

(14:17)県道に合流する手前左には石の建造物。
                    「御嶽山大権現」、「八海山・・」、「三笠山・・」などと刻まれています。

 この先の県道を越えると、「小田井宿」となります。
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「追分宿」桝形の茶屋。「分去れ(わかされ)」。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目。)

2016-08-18 21:36:19 | 旧中山道
 宿場は国道に合流しますが、その手前が「追分宿」の西の出口。桝形の茶屋が数軒ありました。そのうちの一軒、「つがるや」という古びた茶屋が残っています。

    

史跡 追分枡形の茶屋
 寛永12年徳川家光の代、諸大名の参勤交代の制度が実施され、ここを往来する諸侯のため、宿内には問屋、本陣、脇本陣を設置し、宿の西入口、この辺に枡形の道と土手(高さ約2.5㍍)を築いて宿内の警備取締りをした。
 今、その面影を見ることはできないが当時枡形の地域内にあって茶屋つがるや(枡形の茶屋)の建築にその昔をしのぶことができる。

 軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会

□の中に\線が入った桝形の記号と屋号。

(12:18) 左が「追分宿」、右が国道。

 (12:19)国道に合流するとその先には「分去れ(わかされ)」。「追分」という地名の発祥となった「中山道」と「北国街道」との分岐点になります。「大常夜燈」、「道標」、平賀源内の弟子の「森羅亭万象歌碑」などいくつもの石造物が立っています。

      

 一番手前に「道標」。「右 従是北国街道 左 従是中仙道」と刻まれています。

    

北国街道。追分から直江津まで約180㎞。

    

(地図は、「」HPより)

追分(おいわけ)
 道が二つに分かれる場所をさす言葉。
 もとは「牛馬を追い、分ける場所」を意味したが、そこから街道の分岐点も意味するようになり、甲州街道と青梅街道の分岐である新宿追分や、中山道と北国街道の分岐である信濃追分など、各地に地名として残っている。
 類義語・対義語としては、追分と同様に分岐点を意味する「ワカレ」(「分かれ(分れ)」「別れ」「岐れ」などと表記される)、道が合流する点という意味の「落合」「出合」があり、こちらも各地の地名としてその名を残す。

                                                                   (以上「Wikipedia」参照)

・内藤新宿 - 甲州街道から青梅街道の分岐(新宿追分)に設けられた宿場。
・本郷追分 - 中山道と日光御成街道の分岐。現在の東大農学部正門前。
・平尾追分 - 中山道と川越街道の分岐。現在の板橋郵便局前交差点。
・幸手宿 - 日光街道・奥州街道と日光御成街道の分岐(幸手追分)に儲けられた宿場。
・追分宿 - 中山道と北国街道(北国脇往還)の分岐(信濃追分)に設けられた宿場。
・日永追分 - 東海道と伊勢街道の分岐。現在の三重県四日市市。
・草津宿 - 東海道と中山道の分岐(草津追分)に設けられた宿場。
・髭茶屋追分 - 東海道と大津街道(伏見街道)の分岐。

 日本各地に「追分」という地名が残っていますが、上に掲げられた「追分」には行ったことがあります。「幸手宿(幸手追分)」、「日永追分」、「草津宿(草津追分)」などは印象深いところでしたが、ここ「追分の分去れ」が一番印象深いものになりました。

追分の分去れ
 北国街道と中山道の分岐点にあるのが「追分の分去れ」です。江戸から来た場合、右は北国街道の更科や越後方面、左は京都、吉野など関西へ向かう分岐点となりました。その昔、長旅の途中で親しくなった旅人同士が、別の行く先を前に別れを惜しみ、ともに袂を分けて旅を続けたといわれるのがその名の由来です。
 「分去れ」の三角地の頂点に小さな道祖神。その奥に延宝七年(1679)の道しるべ。中山道、北国街道を指し示し、まだ初期に使われた海道の文字が刻まれています。元は地蔵尊の台座であった四角のくり抜き石が、その次にある道しるべ。

「さらしなは右 みよし野ハ左にて 月と花とを 追分の宿」

 更科は月の名所、吉野は12年ほどの間皇居があったことから人々は御吉野と呼びます。桜の名所で、このあたりに咲く山桜を吉野桜といいます。台石には更に西面に妙義、江戸、日光など関東への道のり、南面には伊勢、京都その先に金毘羅への道程150里半が刻まれています。北面は善光寺、戸隠山、高田と北国街道沿いの土地、その先の金沢へと里程が記されています。

 この「分去れ」の三角地帯に立つ石塔、石仏を見てみましょう。三角の頂点には「北国街道道標」があります。正面には「東 二世安楽 追分町」、右側面は「従是北国街道」左側面は「従是中仙道」、そして裏面には「西于時延宝七己未年三月○日」と彫られ、ここにある石塔などでは最古のものと思われます。

 続いては、「世の中は ありのままにぞ霰ふるかしましとだに 心とめぬれば」と彫られる「森羅亭万象の歌碑」です。森羅亭万象は、江戸時代中期の博物学者・戯作者で有名な平賀源内の門人で狂歌師・桂木甫燦のことといわれています。

 その隣に手水鉢のような形の道しるべ石があります。正面には「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿」という風流な道案内の歌が彫られています。他の三面にはここから各地への里程が示されています。いくつかあげますと、「江戸江(へ)三八里」「御岳(木曽)江三三里半」など1番遠い所は「金毘羅(讃岐)江一五〇里半」でした。

 この道しるべ石の後ろには、よく目立つ常夜灯が立っています。中山道の常夜灯の中でも屈指のもので、寛政元年(1789)春に建立され、台石には「町内安全」「是より左伊勢」などと大きく彫られています。

 その横、北国街道に面してぽつんと立つ観音像は、郷土史家によると鳥羽天皇の天永年間(1110~12)に彫像された勢至観音菩薩で、これが確かなら追分の分去れの石仏中、最も大きく古い時代のものとなります。

 分去れの一番奥には、優美な姿でたつ観音立像があります。正面に「牛馬千匹飼」とあるように馬頭観音像で安永三年(1774)11月、役馬持連中が建立したものといわれています。背丈が高く、頭部顔面あたりが異国風です。

 中山道は分去れから国道18号線を斜めに横切って小田井宿へと続いています。国道を横断するとゆるやかな下り坂になりますが、その坂道は笑坂と呼ばれています。
 作家・後藤明生に『笑坂』という作品があります。土地の老人から笑坂の由来を聞いています。小田井宿方面から旅人がやって来ますと、追分宿の燈が見えるので思わず笑顔になることから笑坂と名づけられたというのです。追分宿から小田井宿までの1里半(約6キロメートル)は、農家なども見えず荒涼とした原野であったといいます。

                                                                (以上、「軽井沢観光ガイド」HPより)

「国道18号線」。「高崎まで55㎞」ポスト。

「分去れ」から国道を横断し、左手の旧道に入ります。
                                             横断には十分注意!

右手に「中山道69次資料館」。

 林の中に江戸から京都までの69次遊歩道が設けられていて、たどるとじきに「三条大橋」まで着ける、という面白い趣向。東海道・桑名宿にもこんな公園(もっと大規模でしたが)がありました。

    

 (12:27)そして最終地点の「三条大橋」。

「ここはコスモス街道」。
 兄弟の歌手狩人が昭和52年分去れから続く中山道を「コスモス街道」と歌い、「あずさ2号」に次ぐヒット曲となった。

 ♪右は越後へ行く北の道 左は木曽まで行く中仙道 続いているコスモスの道が

 (12:35)軽井沢高原野菜の産地。
    

 のどかな高原の道。「笑坂」。
 この付近から「小田井宿」の先までかなり長く、ゆっくりと下って行きます。京都から来ると、意外に足腰にこたえそうな一方的な上り坂となっています。しかし、この付近になると、もうじき「追分宿」。旅人の顔も自然と微笑んだのでしょう。

    

 すっきり晴れていれば、正面に蓼科、右後方には浅間、左後方には八ヶ岳と美しい山容が見えるはずですが、残念ながら雲に覆われて見えず。その分、暑さも感じず、歩きやすい。
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「風立ちぬ」。「菜穂子」。脇本陣。旧本陣。信濃追分駅。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目。)

2016-08-17 23:24:39 | 旧中山道
堀辰雄
 明治37年(1904年)~昭和28年(1953年)。作家。代表作に『聖家族』『美しい村』『風立ちぬ』『菜穂子』『大和路・信濃路』など。
 室生犀星や芥川龍之介の知遇を得て、文学の道を進み始め、しばしば軽井沢、追分を訪れて、豊かな自然の中で読書や散策をしたり、作品の構想を練り、執筆し、数々の名作を生み出しました。
 昭和19年(1944年)からは疎開と療養を兼ねて追分に定住、昭和26年には「堀辰雄文学記念館」のある、この地に家を新築し、亡くなるまで1年10ヶ月療養の日々を過ごし、昭和28年5月、49歳の生涯を終えました。
 
「こういった凄さを何処かその底にもってゐる山だが、その浅間も、追分の供養塔などの立ち並んだ村はずれ―北国街道と中山道との分か去れ―に立って真白な花ざかりの蕎麦畑などの彼方に眺めやってゐると、いかにも穏やかで、親しみ深く、毎日見慣れてゐる私の裡にまでそこはかとない旅情を生ぜしめる」(「初秋の浅間」)

「それらの夏の日々、一面に薄の生ひ茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いてゐると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たへてゐたものだった」(「風立ちぬ」)

「『やっぱり菜穂子さんだ』思はず都築明は立ち上がりながら、ふり返った。すれちがふまでは菜穂子さんのやうでもあり、さうでもないやうにも思へたりして、彼は考へてゐたが、すれちがったとき急にもうどうしても菜穂子さんだといふ気がした」(「菜穂子」)

 洗練された文体、語り口の小説や随想が魅力的な作家です。福永武彦さんなどにも大きな影響を与えました。

ここにもヤマユリの花が。

  
      「記念館」の前にあるのが脇本陣だった「油屋旅館」。

 昔は「記念館」の並びにありましたが、ちょうど向かい側に移っています。平成24年からギャラリーと素泊まりの旅館になっています。
                 

 旧油屋旅館は、江戸時代に中山道追分宿で脇本陣をつとめた旅館でした。昭和になってからは堀辰雄・立原道造・加藤周一などの文士・知識人たちが執筆に利用し、多くの作品の舞台にもなりました。
 この歴史・地域遺産である「旧油屋旅館」の建物保存と有効活用を目的に2012年、NPO法人「油やプロジェクト」は発足しました。「油やプロジェクト」は本・アート、そして音楽などの文化事業を「旧油屋旅館」を改修した「文化磁場油や」を拠点として活動をしています。
 追分ゆかりの詩人であり建築家の立原道造は、信濃追分に芸術村をつくるという夢を「浅間山麓に位する芸術家コロニーの建築群」という卒業設計で遺しました。「油やプロジェクト」が少しでも立原道造の遺志をつぐ活動となれば、そして浅間山麓を訪れる皆様と一緒に末永く「文化磁場油や」を楽しんでいただければと思います。

(芥川龍之介、堀辰雄、立原道造は、東京府立三中―現両国高校―の先輩・後輩にあたります。)

    

「ふるほん」。

「雑貨」。

                          宿内を望む。

                   本陣跡。明治天皇追分行在所碑。
    

                          高札場の復元。
    

  追分宿高札場
 追分宿の高札場は、問屋前の路中央にあった。法度、掟書きなどを記した。また、さらし首、重罪人の罪状を記し、高くかかげた板札を高札という。
 寛永10年(1633)の古文書によると、広さ9尺、横1間、高さ3尺の芝土手を築き、高札場の柱は5寸角のものを使用し、駒よせ柱は4寸角で、高さ6尺の規模であった。 
 昭和58年、当時の古文書等から高札場を復元した。 
 ここに掲示してある高札は、複製品で、現物は追分宿郷土館に保管展示されている。

   軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会 

                  
                     当時の屋号・看板を掲げたおうち。

落ち着いた街並み。

                  「中山道追分公民館」。「中山道追分宿」の碑。

(12:15)この先で追分宿も終わりとなります。

 ところで、最寄り駅の「しなの鉄道信濃追分駅」は、無人駅で、一時間に1本か2本の列車が停まる。かつては特急が通る日本最高所駅(957 m)として知られていたが、しなの鉄道に移管されるとともに特急の設定はなくなった。
 現在でもしなの鉄道の最高所駅であり、JRを除いた普通鉄道では最も標高の高い駅である(JRで最も標高の高い駅は小海線・野辺山駅・標高1,345.67m)。
                          (以上、写真を含め「Wikipedia」参照。)

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追分宿郷土館。追分節。芭蕉句碑。堀辰雄文学記念館。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目。)

2016-08-16 22:41:10 | 旧中山道

 右手の木立の中にあるのが「追分宿郷土館」。中山道、追分宿などの資料が展示されています。「堀辰雄文学記念館」と併せて拝観料400円。


 一通り見学したあと、外のベンチで休憩。木立を抜ける風が爽やかです。

入口のところに大きな「馬頭観音碑」。寛政6年のもので、高さは3㍍。

(11:30)隣の浅間神社の境内には「追分節発祥の碑」。

    

追分節発祥の地碑
 江戸時代、主要道路の一つ中山道を利用した旅人は、難所である碓氷の峠を通過し、江戸と京都の間を往復した。この碓氷峠を中心に駄賃付けの馬子達が仕事唄として「馬子唄」を唄いつづけてきた。この元唄は「軽井沢宿」「沓掛宿」「追分宿」の飯盛り女たちの三味線等により洗練され、(追分節)として成立した。馬子唄に三味線の手が入り、座敷唄になったことにより、諸国に広く伝播され有名になったものである。浅間神社に平成7年、石碑建立委員会により建てられる。

 この「追分節」には、信濃追分→越後追分→(北前船)→(蝦夷地)江差追分 日本海海運をめぐる唄の壮大な伝播の歴史があります。 

江差追分の起源
・・・
 言い伝えや研究者の著述の中で、江差追分の起源を信州小諸付近の追分節が、越後に伝わり、越後追分となって船で蝦夷地に渡り、一方それより先、越後から松坂くずしが伝わり、謙良節として唄われていたものとが結合して江差追分になったとする説がほとんど定説となっている。
 即ち信州北佐久郡長倉村追分付近の街道を上下する馬子たちによって唄われていた馬子唄(馬方節・信濃追分)が参勤交代の北陸武士や旅人瞽女(ごぜ)等によって越後に伝わり蹄の音が波の音、即ち山野のメロディーが海辺のメロディーに変化して越後追分(古くは松前、または松前節と呼ばれた)となり、船乗りに唄われ北前船によって蝦夷地に伝わり謙良節と合流し、蝦夷地という辺境の荒い波濤の中で哀調を加え、江差追分が生まれたという。
 この過程で追分の原型に近く哀愁をおびて唄い伝えられたのが「江差三下り」であり、謙良節と合流し地味で悲哀の感情をこめ「二上り」の調子に変わって唄い継がれたのが江差追分である。
 何れにせよ信州地方の追分節を母体に、その原型を堅持したのが「江差三下り」であり、調子を二上りに変え、比類なく曲節を練り上げたものが「江差追分」である。

 さて、江差追分の源流を信濃追分に求めるのは定説であるが、この信濃追分の発生についても異説が多い。
 岡田健蔵氏は、伊勢伊賀の馬子唄が東海道から中仙道を経て木曽路に入り、木曽馬方節となり信州小諸に伝わって追分節になったとし、柳田国男氏は信州追分のメロディーにイタコの神おろし唄と共通なものがあるとして古い時代の追分調メロディーの普遍性を指摘している。
 また、近年メロディーの近似性から蒙古民謡に源流を求め、貢馬とともに信州に入り、馬子の唄として成立したという説もある。
・・・
 ともあれ江差は有カな漁場及び商港として蝦夷地という当時の辺境のなかで、江差追分を独特の情緒をもつ唄として完成したものであろう。
 この江差追分の発生年代は、明和~寛政(1764~1800)年代にあたる松前13代藩主道広の頃とされている。
 この時代は藩政の頽廃期にあたり、よくいえば優雅風流、悪くいえば浮華淫靡で有カな座敷唄が生まれる温床として好適な時代であり、江差追分は一面そのような背景のもとに育ったのであろう。

            (以上、HP参照)

 ♪浅間根越の焼野の中であやめ咲くとはしほらしや (信濃追分の一節)
 ♪追分桝形の茶屋でほろと泣いたはありゃ忘らりょか(追分馬子唄の一節)
 
  また、大きな自然石でできた松尾芭蕉の句碑があります。

    
 大きな自然石に雄揮な文字で「更科紀行」中の句が刻まれ、芭蕉の百年忌にあたる寛政5年に佐久の春秋庵の俳人たちにより建立されたものといわれています。

 「吹き飛ばす 石も浅間の 野分哉

 なお、この先、「追分宿」高札場跡を入った「諏訪神社」の境内には小林一茶の「有明や 浅間の霧が 膳をはふ」という句碑があるそうです。

 7月24日(日)に開催した「第31回信濃追分馬子唄道中」が終了したばかりで、そのときのテントが残っていました。


そのときの様子(NHKニュースより)。
                                                水戸黄門ご一行様も。

浅間神社から旧道へ戻ります。

    

 「昇進川(精進川)」を渡ると、かつての宿場の中心に。

    

追分宿
 中山道69次のうち江戸から数えて20番目の宿場。
 現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分にあたる。北国街道(北陸道)との分岐点でもあり「追分」の名はこれに由来する。元禄時代には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒を数え、飯盛女も最盛期には200~270人もいたとされるほど栄えた。また、民謡に多く見られる追分節の発祥の地である。旧脇本陣の油屋は、堀辰雄や立原道造、室生犀星らに愛され、堀辰雄の小説『菜穂子』、『ふるさとびと』に登場する牡丹屋という旅館はこの油屋がモデルである。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、追分宿の宿内家数は103軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒で宿内人口は712人であった。また御影陣屋支配下の貫目改所が設置された。
            木曾街道六拾九次 追分(渓斎英泉画)

 「中山道69次」のうち、この宿でやっと20番目(「東海道」だと「鞠子宿」)で、もうすぐ何とか3分の1に。

興味深いものを発見。「青空文庫 夢の箱」。
                                ・本の出し入れは自由
                                ・借りるのは1冊
                                ・自分の蔵書にしたい人は代わりに自分の本を持ってくる
                                ・成人向けの雑誌・写真集、宣伝広告は厳禁。

 けっこう本が置かれていました。読みたい本があれば自由に取り出せます。おもしろい試み。

 (11:41)左手にある「堀辰雄文学記念館」の入口。「土屋本陣」の裏門が使われています。
                  

 ここはぜひ寄ってみたかったところ。「堀辰雄文学記念館」。
         

 堀辰雄の終焉の地となった場所に、平成5年(1993年)に開館されました。敷地内には終焉となった居間(家)、書庫、堀辰雄没後、夫人が建てた家などが残されています。
    


    

           堀辰雄文学碑
                春の大和に往って
                馬酔木の花ざかり
                を見ようとして途中
                木曽路をまはつて来
                たら思ひがけず雪が
                ふつていた

                 昭和十八年四月十三日
                    堀 辰雄 

 昭和18年4月、堀辰雄は夫人とともに木曽路を通り、大和を旅しましたが、この旅から「辛夷の花」「浄瑠璃寺の春」といった作品が生まれました。
 堀辰雄文学碑は、大和へ向かう途中木曽福島のつたや旅館(現在、つたやグランドホテル)に一泊した時に、宿の主人に請われて書いたものをもとに、平成13年10月建立されました。
 堀辰雄が遺した数少ない毛筆による自筆の文で、夫人の堀多恵氏によって選ばれました。
 碑の石材は白御影石で、堀辰雄が好み、また堀辰雄文学の白を表しています。基台の円柱は堀辰雄が文学において希求し、表現しようとしたものを象徴しています。

 ゆっくりと邸内を散策しました。落ち着いたすばらしい雰囲気。
      

    
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女街道入口。借宿。追分一里塚。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目。)

2016-08-15 21:02:59 | 旧中山道

 しばらく進むと、「国道18号線」に出ます。その先、国道が上下線に分かれるところで、左の下り線を進みます。バイパスの高架下をくぐり、国道から左の道に入ると「借宿」という集落に。
 なお、国道のすぐ左に坂道(旧道らしい雰囲気)がありますが、そちらには進まないこと。つい行ってしまい、気がついて戻りました。ロスタイムに。

    

東海道の三重以降によく見かけた「飛び出し坊や」風。「飛び出し注意」。

 (10:32)左手に「女街道入口」。関所のあった碓氷峠を避けて上州に向かう道。

    

女街道入口
 江戸時代に「入り鉄砲」「出女」といって当時恐れられていた武器鉄砲の動きや江戸屋敷に住まわせていた諸大名の奥方は人質的意義をもっていたので女人の出入りは厳重に取り締まった。したがって女人は関所を避けて裏街道を通るようになった。これを女街道、または姫街道ともいう。
 この街道はこれより本街道と分かれ油井釜ヶ淵橋を渡り風越山、広漠たる地蔵が原をよこぎり和美峠または入山峠を往来したものである。
 「関所さけて女人が多く往来せし女街道と いふは寂しも」
                     

街道筋の廃屋。

 間の宿だった「借宿」は「古宿」とともに信州と北上州、南上州を結ぶ物資輸送の中継基地として馬や牛の中継ぎで栄えました。街道脇には「馬頭観音」石碑が残っています。

その先には「遠近(おちこち)宮」。

 「遠近宮」は『伊勢物語』の主人公として登場する在原業平が、
「むかしをとこ有りけり。京にや住み憂かりけん、あづまの方に行きて住み所もとめむとて、ともとする人ひとりふたりして行きけり。
   信濃の国、浅間の嶽にけぶりの立つを見て 
   信濃なる浅間の嶽に 立つけふり
       をちこち人の 見やはとがめぬ」
と詠んだ和歌から、明和8年(1771)に建立した借宿村の神社に「遠近宮」と名付けたという言い伝えが残っています。この神社は国道18号線の借宿東信号から南に入り、突き当たりを右折すると右手に鎮座しています。借宿は古くは「遠近の里」と呼ばれました。
 境内には山岳信仰の盛んだった証のように、御嶽山神社、三笠山大神、八海山大神の石碑がありました。又、遠近宮社叢は町指定天然記念物(樹木)となっており、特にシナノキが多いのが特徴だそうです。棟札によると享保年間に社殿、鳥居が整備されています。

「軽井沢観光ガイド」HPより)

鶴丸の紋の入った土蔵など、立派なお屋敷が並ぶ街並み。

    

     杉玉を吊した酒屋。
    

                       

新型の信号機。頭上にあるため歩行者には見づらい。

ヤマユリ。

涌き水の出ているところを過ぎると、

(10:44)右手に大きな「馬頭観音碑」。 

 この先で、「国道」に合流します。その手前にも「馬頭観音」碑がいくつか並んでいます。
                       

来た道を振り返って望む。

(10:49)「国道18号線」。車の行き来が激しい。

向かい側には「従是左上州」と彫られた道標。 

「追分」交差点。

 その先には「追分の一里塚」。日本橋からちょうど40里目(約160㎞)―39里目という説もあり―。物の本によると、「東海道」と合流する「草津宿」までは129(?)の一里塚があったらしい。全行程のやっと30%をクリアーしたわけです。まだまだ先は長い!
 こちら・左手(南側)は国道拡幅後に復元されたもので、向かい側・右手(北側)が本物。左右の塚が存在しています。 

左手のもの。右手のもの。

 向こう側に渡ろうとしましたが、車が上下とも途切れることなく、さらに横断信号も離れています。やっと渡ることができましたが、かなり危険。手前の「追分」の交差点・歩道橋で渡っておいた方がいいようです。

    


          南側の塚(復元)。

 (11:02)その先、ガソリンスタンドのところを右手に入っていく道が旧道で、「追分宿」の入口となります。
    
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浅間山。宮之前一里塚。沓掛宿。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目)

2016-08-13 22:59:54 | 旧中山道
 緑の多い道をゆっくり下って行きます。強く甘い香りが鼻に。ヤマユリの花が庭先に。この先けっこう見かけます。ちょうど花盛り。



次第に道は右に曲がっていきます。

 (09:07)正面が開けてきて「前沢橋」を渡ると、目の前には「浅間山」勇姿が見えてくる、はずですが、残念ながら雲に隠れて見えません。
      
                                          振り返ると、「離山」が。 

 左手奥に「しなの鉄道・中軽井沢駅」を見ながら、ガードをくぐり再び国道の方へ進みます。江戸時代の初期の「中山道」、そして「沓掛宿」は駅の南側にあったようで、「宮之前一里塚」が駅裏にあります。そこで、中軽井沢駅方向に進みます。
 「宮之前一里塚」跡の石碑は、坂を上がった左手、フェンスの中にあり、墓地の一角にあるため、見落としてしまいそうです。
              

中軽井沢駅。  

 (09:26)国道に出て左折すると、「沓掛宿」の入口。
        

沓掛宿
 中山道六十九次のうち江戸から数えて十九番目の宿場。現在の長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢にあたる。
 古代の長倉牧の跡とされ、1535年に追分諏訪神社に奉納された大般若経にある「長倉沓懸」が初出。「沓掛」の名は、難所であり荒天時は人も荷も足止めされた碓氷峠の入口であることに由来し、両隣の軽井沢宿および追分宿と共に浅間三宿と呼ばれて栄えた。また、草津温泉に向かう分岐路もあった。甲府藩や小諸藩の領有を経て1716年以後は公儀御料となる。
 1875年に借宿村との合併により長倉村、1889年に軽井沢村・峠町などと合併して東長倉村となるが、軽井沢が避暑地として著名となったために1923年の町制施行を機会に軽井沢町と改称した。この間の1910年に信越本線の沓掛駅が開業する。
 しかし1951年の大火で町の殆どを焼失したため、往時の様子を伝えるものは殆ど残っていない。その後は1956年に沓掛駅が中軽井沢駅と改称したのを機に地名も中軽井沢と改称、以後別荘地や避暑地として発展している。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、沓掛宿の宿内家数は166軒、うち本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠17軒で宿内人口は502人であった。

                    「木曾街道六拾九次 沓掛(渓斎英泉画)」。

 この碑の奥には「長倉神社」があり、その境内の裏手に長谷川伸の芝居や映画などで有名な「沓掛時次郎の碑」(「千両万両枉(ま)げない意地も人情絡めば弱くなる浅間三筋の煙の下で男沓掛時次郎」)がありますが、省略。

↓が碑のあるところ。

「沓掛」の名はほとんど見当たらない。

 (09:32)左手に旧脇本陣の一つだったとされる「旅館 枡屋本店」。かつての面影はまったくなく、廃墟と化しています。
    

「中軽井沢」駅前。「鬼押出し」の看板。

 鬼押出しの溶岩は、火砕物が火口周囲に堆積し、熔解して凝固しながら流出した特殊な溶岩であった。天明浅間山噴火も普通の噴火のように、軽石の噴出、火砕流、最後に静かに溶岩が流出したと考えられてきた。しかし鬼押出しの溶岩には、普通の溶岩に少ない、鉱物の結晶が破砕されたもの、山を構成する岩石の断片、酸化した火砕物を多く含むことは、金沢大学や日本大学のグループが独立に指摘してきた。これらの特徴は、爆発的に噴き上げられた火砕物が積もり、急傾斜のために流れたとすると説明がつくという。

     (以上、「Wikipedia」参照。写真も)


  「中軽井沢駅」。夏休みとはいえ、平日のせいか閑散としています。

(09:36)右手に「本陣土屋」という表札のあるおうち。

その先、「上田信用金庫」の向かいにあるのが「草津道道標」。草津温泉への道を記したもの。
    

その先で国道から離れ、左手に延びる側道を進みます。
    
                         (09:46)すぐ右手には「道祖神」。

 下り坂から上り坂に変わると「古宿」と呼ばれていた集落に入ります。
振り返って望む。

車もほとんど行き交わない旧道。

「二十三夜塔」。

(10:04)「古宿公民館」前。

(10:10)「馬頭観音」他。

 この付近の旧道沿いには「馬頭観音」「二十三夜塔」などが数多く残っています。「馬頭観音」が多いのは、この辺りは古くから「佐久の三牧」と呼ばれ、馬の産地で有名だったからだそうです。

振り返って望む。
   すると自販機が何台も並んでいるのが目に入りました。助かった! 水分補給します。この自販機群、これから先、「中山道」に度々見かけます。炎天下の歩きに大変助かります。

「馬頭観音」。
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旧軽井沢ロータリー。離山通り。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目。)

2016-08-12 21:47:27 | 旧中山道
 久々に「中山道」の旅。7月29日(金)。晴れ。
 新幹線で「軽井沢」駅まで。このかん、「日光街道(道中)」を歩き、少し間が開きました。3月31日に「碓氷峠」を越えて以来の「中山道」。
 (08:00)前回の最終地点、旧軽井沢(軽井沢宿)のロータリー(ここまでが「軽井沢宿」)まで戻って、中軽井沢方面に進みます。さすが夏の日差しも高原らしい爽やかさです。
 この道も「日光道中」で通った「日本ロマンチック街道」の一部とか。
    
                                      「駅舎旧軽井沢」。

 ロータリー付近にはお店もありますが、まだ時間も早いせいか人通りもなく、車もほとんど通らない、静かなたたずまい。その先は、林の中の道。
    

 道の両側、林の中には別荘が点在しています。
    

 (08:14)まもなく6本の道路が交差するところへ。
    

 かつてはこういう交差点が都内の幹線道路にもありました。交差する車が増えるにつれて渋滞や事故を招き、そのため、信号機を設置したり、立体交差になっていつしかなくなりました。
 交差点の中央に円形の低い塚(島)をつくり、車はどこの道からも一時停止のあと、時計回りに交差点内に入り、目的の道へ進むというシステム。
    
 軽井沢という土地柄、周囲の景観を大事にする交差点でもあるようです。しばし車の動きを観察しました。

右手奥に「離山」が見え隠れしてきます。

旧中山道も「離山通り」となって進んで行きます。

離山(はなれやま)
 軽井沢町のほぼ中央に位置する山。標高は1,256㍍だが、軽井沢の標高が1,000㍍以上なので、実際の高低差は約200㍍。
 溶岩ドームで浅間火山の側火山である。山体は方向によっては円錐台形をしており、また頂部が比較的に平らであるため、「テーブルマウンテン」の愛称も持つ。
 登山口から山頂まではゆるやかな登山道を徒歩1時間ほどで登ることができる。

(08:24)離山登山口。    

 その先には、瀟洒な建物。「軽井沢ホテル ロンギングハウス」。背景の山が「離山」。
    

 その先の右手の路傍には「庚辰塔」など数体の石仏。
    

国道に合流します。(08:50)来た道を振り返る。

旧道はかつてはそのまま直進していたが、信越線や国道によって消滅。

 国道の右手には「市村資料館」(近衛文麿の別荘だったところ)などの古い建物があります。
    

 「軽井沢中学校前」交差点で国道を渡り、「しなの鉄道」(旧信越本線)の踏切を越えます。
    

 (08:54)踏切を渡ると左手に「菓子処 おらが」。そのすぐ先を右手に折れて、旧道に復帰。 
          振り返って望む。

   
                    行き交う車も少なく、緑豊かで静かな住宅地を進みます。 

「松水庵」。軽井沢高原豆腐のお店です。

 
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「日光道中」をゆく。総集編。第9日目。(関東バス「海老王子」から東武「日光駅」まで。)

2016-08-10 22:21:33 | 日光道中
 第9日目。いよいよ最終回。7月16日(土)。曇り。宇都宮駅発のバスに乗って前回の最終地点「海老王子」バス停まで。
 降り立ったのが9:10過ぎ。さっそく並木道を歩き始めます。雨上がりのせいか道はぬかって、蒸し暑い。が、日差しもなく今回こそ一気にゴールしようということで。
             
             側道を歩いて行きます。桜並木から杉並木へ。

(9:27)「松本」バス停を過ぎた左手に「うらない仏」。

 右手には「リンゴ畑」。まだ青々とした実がなっています。
    

(9:38)しばらく進むと、宇都宮市から日光市へ。
                             この付近では杉の中にモミジなどが混じっていて、秋には紅葉が楽しめそうです。
左手には広大な農地が広がります。

「日本ロマンチック街道」。

 長野県上田市から栃木県日光市までの全長約320kmを通過する広域観光ルートからなる街道。この名称はドイツのロマンティック街道に由来するそうです。


(9:48)田んぼが広がります。

 杉並木が現れたので、右手に移動、雑木林の脇を進みます。しっとりとした雰囲気。
        

 「国道119号線」と分かれて右の杉並木の道に入ります。


 (10:05)旧道に入ると、「並木寄進碑」があります。
      
 右にある石碑。左の石柱には「特別史跡 特別天然記念物 日光杉並木街道」とあります。
 松平正綱公が杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが記された石碑。並木の起点となる神橋および街道の切れる今市市山口(日光街道)、同小倉(例幣使街道)、同大桑(会津西街道)の4ヶ所に建っている。この碑は日光神領の境界に建てられているので境石と呼ばれている。

本格的な杉並木。   

 日光杉並木について。

 日光街道、日光例幣使街道、会津西街道のうち、旧日光神領内にあたる大沢 - 日光間16.52キロメートル、小倉 - 今市間13.17キロメートル、大桑 - 今市間5.72キロメートルの3区間の両側にスギが植栽された並木道の総称である。総延長は35.41キロメートルに及び、世界最長の並木道としてギネスブックに登録されている。
 徳川家康、秀忠、家光の三代に仕えた松平正綱が、主君家康の没後、日光東照宮への参道にあたる3街道に約20年の歳月をかけてスギを植樹し、東照宮に寄進したことに始まり、江戸時代には幕府の日光奉行の元で手厚く保護された。明治以降は幾度も伐採の危機に瀕するものの、官民双方の有識者の努力によって大規模な伐採は避けられてきた。中でも、地元出身の林学者で「杉並木博士」と呼ばれた鈴木丙馬は、杉並木の研究と保護に生涯を捧げ、保護運動の中心となって活躍した。
 周辺の開発によって旧態を失った箇所もあるものの、植樹から400年近く経った現在でも約12,500本のスギが生い茂り、寄進碑や一里塚も現存するなど、江戸時代の街道の景観をよく伝えており、歴史的にも植物学的にも特に重要とされ、日光杉並木街道 附 並木寄進碑(にっこうすぎなみきかいどう つけたり なみききしんひ)として、全国で唯一特別史跡および特別天然記念物の二重指定を受けている。また、日光杉並木街道は、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された日本の道100選のひとつとして選定を受けている。
 現在も生活道路として利用されているが、街道を通る自動車の排気ガスや沿線の開発による根の切断などによって樹勢の衰えが進行し、毎年平均して100本以上のスギが倒木や枯死により姿を消している。保護が叫ばれて久しいものの、減少のペースに歯止めを掛けるには至っていない。このままでは100年後には消滅してしまうとも言われ、早急な対策が必要とされている。
 二荒山神社、日光東照宮などとともに世界遺産の登録を受けた。

 ここの杉並木は、まだその序の口。しばらくすると、前方が明るくなってきます。「大沢宿」に入ります。
                        

「国道119号線」に合流。「大沢」交差点

その付近から振り返る。

大沢宿
 日光街道の19番目の宿場。現在の栃木県日光市大沢。
 もともと大沢村と呼ばれていたが元和3年(1617年)に徳川家康の日光鎮座に伴って宿駅となり大沢宿となった。
 元和年間には大沢御殿(おおさわごてん)が建造され徳川将軍家の日光参詣に際し宿泊所として使用された。その後一旦処分され再造営されたが、それもまた享保年間までに処分された。
 享保13年以降、将軍社参時等の休息所には沿道にあった竜造寺(りゅうぞうじ)が用いられた。なお竜造寺はその後明治元年に近隣別所に移転している。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、大沢宿の本陣は1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が41軒あり、宿内の家数は43軒、人口は278人であった。

 現在、その痕跡は見当たらないようです。

                     

(10:25)「大沢小学校入口」から再び杉並木が始まります。

杉並木保護のため、車道は右に迂回しています。

ここから「普通地域」から「保護地域」に入ります。
                           
                   
             (10:32)車両の排ガスや振動から日光杉並木を守るため 車両通行止

    
     この道も「国道119号線」。ただし、杉の落ち葉や小枝が散乱し、濡れた道なので足下には注意!

 (10:43)しばらく進むと、「特別史跡 特別天然記念物 日光杉並木街道の一里塚(水無一里塚)」。左右に残されています。
        
 日本橋から32里目。通常、塚の上には榎などが植えられますが、ここでは杉が植えられています。(31里目の一里塚は上小池町・新渡神社付近にあったらしいが不明)

 (10:49)しばらく進むと、杉並木も終わり、「水無」という集落に向かいます。出口付近に祠と何体かの石仏。
           

      再び車道沿いに歩きます。

またすぐ杉並木になります。車道を避けて右手の方に。

(10:57)水田が広がります。

 (11:14)「甚五郎せんべい」の手前で、再び国道と分かれて右の並木道へ入ります。
    

 この杉並木には日光杉並木オーナーが記されたプレートがくくりつけられています。企業名や個人の名前も。
    

杉並木オーナー制度とは?
 並木杉の樹勢回復のための保護事業を行っていくためには、多額の費用が必要です。
 そこで栃木県では、平成8年秋から多くの方々と力を合わせて杉並木を守る「日光杉並木オーナー制度」をスタートさせました。
 杉並木保護に賛同された皆様に並木杉1本につき1千万円でオーナーになっていただき、その代金を栃木県が日光杉並木街道保護基金で運用し、 その運用益で杉並木の樹勢回復事業を実施するという制度です。
 オーナー杉については、日光杉並木保護財団と東照宮が、日常の管理をいたします。
 並木杉は文化財であるため、枯れた場合などを除き杉の伐採はできませんが、解約したい場合は栃木県がいつでも同額で買い戻しいたします。
 また、オーナー制度とは別に、日光杉並木街道保護基金に対する寄附金も受け付けています。

 まもなく、車も来ない静かな杉並木道(「特別保護地域」)も終わり、「下森友交差点」に向かいます。


進む方向からの一方通行なので、一安心。  

車もほとんど来ないようです。

 (11:50)途中、左手にあるのが「さくらすぎ」。杉の幹の途中から桜の木が生えてきてかなり太い幹になっています。
    

 (11:55)しばらく行くと、右手に「七本桜一里塚」があります。日本橋から33里目。ちょっと上がったところに根元が腐って大きな空洞できた杉があります。大人が4人位入れるところから「並木ホテル」と呼ばれています。
    

 (12:01)その先の信号は「七本桜交差点」。左の通りが「国道119号線」。
    
                  そのまま一方通行路を進みます。日光・今市方面から来る車も増えてきます。

少し進んで、東武日光線のガードをくぐります。

 (12:16)「小倉歩道橋」を渡ると、まもなく杉並木から今市の町に入ります。


今市宿
 日光街道の20番目の宿場。現在の栃木県日光市今市。
 もと今村と呼ばれていたが宿駅となって住民が宿に集まって活況を呈し、定市が開かれるようになったことから今市宿となったと云われている。この宿は一街道の単なる一地方宿ではなく、日光街道のほか、壬生道、会津西街道、日光北街道などが集まる交通の要衝に立地する宿駅であった。
 日光例幣使街道と日光街道の追分には地蔵堂がある。ここに安置されているのは像高2メートルの石造地蔵菩薩坐像である。もと空海(弘法大師)が大谷川含満ヶ淵の岸辺に建てた石仏と云われ、大水で流されて今市の河原に埋もれていたのをここに堂を建て安置したものと云われている。徳川吉宗が日光参詣した折、この地蔵が白幕で覆われているのを見て、後は白幕で覆わないよう命じ、この地蔵堂の後ろで朝鮮人参を育てさせたという。正確な造像時期は不明だが、室町時代頃の作と推定されている。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、今市宿の本陣は1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が21軒あり、宿内の家数は236軒、人口は1,122人であった。

 (12:23)「国道119号線」と「国道212号線」(例幣使街道)との合流地点(追分)にあるのが「追分不動尊」。
        

例幣使街道。

 元和3年(1617)、徳川家康の霊柩が日光山に改葬されましたが、その後、正保3年(1646)から、毎年、京都の朝廷から日光東照宮への幣帛(へいはく)を奉納する勅使(例幣使という)がつかわされました。
 例幣使は京都から中山道を下り、倉賀野宿(現高崎市)からは太田、佐野、富田、栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て、日光に至りました。その道筋が「例幣使街道」と呼ばれました。日光付近では杉並木が続きます。

(12:40)

右手には「ニコニコ本陣」。「道の駅」風。

手前には「造り酒屋」。    

 今市の町の中には伏流水をくみ上げた自然水の水飲み場が設置されています。「いまいちの水」。つい「いまいち」なのかと思ってしまいますが、飲んでみると、おいしい!
    

 日光名物・特産の「たまり漬」等のお店。
    

「二宮尊徳終焉の地 今市宿」碑。

二宮 尊徳
 江戸時代後期の経世家、農政家、思想家。通称は金治郎(きんじろう)であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまうことが多い。
 また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓むが、有職読みで「そんとく」と訓まれることが多い。
 経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した。
 安政3年(1856年)下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所にて没した。

「明治天皇御小休所」碑。

 (12:53)しばらく行くと、左手にある「瀧尾神社」のところから右に杉並木が始まります。公園となっています。杉並木も「特別保護地域」。
    

12:55)公園の中に「朝鮮通信使今市客館跡」があります。

    

朝鮮通信使今市客館跡  
 江戸時代に徳川幕府の要請により、朝鮮国王が、信(よしみ)を通わす善隣友好の朝鮮通信使を12回派遣しました。その内、日光には初期の頃に三度訪れております。第一回目は東照宮が現在の社殿に造り替えられた寛永13年(1636)、第二回目は・同20年(1643)、第三回目は明暦元年(1655)
 通信使は、東照宮・大猷院でに国王からの進物を贈り、公式行事を行いました。
 この三回とも将軍社参並の扱いをうけ、盛大な行列立てとして日光に参詣しており、幕府は通信使のためだけに、此の所に一万金両を掛け、豪華な客館を新築しもてなしました。

その隣には二重連の水車。

 杉木立の中を上っていきます。
        
                       この付近に日本橋から34番目で、日光街道最後の一里塚が残っているはずですが、見落としました。

    
 (13:09)しばらく進んだ右手奥には茅葺き屋根の建物と手打ち蕎麦「報徳庵」、ここも藁葺き屋根のおうち。落ち着いたお店で、車で次々とお客さんが見えています。ここで食事にすればよかった!

「報徳庵」を過ぎると杉並木が途切れ、石畳道に。

 再び杉並木に入ります。

           巨大な切り株。七本杉伐痕。
                              7本の杉の根幹が一株となった珍しい大木でしたが、すべて倒木や枯死し、伐り倒されました。

日光彫の工房。   

 (13:23)戊辰戦争の時の砲弾跡のある杉の木。
    
 附近は明治戊辰の役に官軍が日光に拠る幕府軍を攻撃した際、前哨戦を行った所である。この杉の幹の凹んでいるところは砲弾が当たって破裂したあとである。

 ちょっとした家並みと石畳、そして舗装道路と交互に。
     

 集落を抜けると、国道に合流します。ここからはしばらく車の行き来の激しい車道脇の側溝の上を進みます。
      振り返って望む。

左側にはJR日光線の線路。

 その先の左手には「常夜燈」や「弘法の霊水(表示)」がありますが、道路を渡るのは危険なので、遠目に望むだけ。

 (13:51)杉並木の中で一番大きな杉の木「並木太郎」。並木の中で一番大きな杉であり、周囲5.35㍍樹高58㍍・・・その姿の美しく端正なことより並木太郎と呼ぶにふさわしい名木である。
    

 (14:12)しばらく行くと、「明治天皇七里御小休所」跡。
     

その先、しばらく進み、「宝殿」交差点で右奥の道を進みます。

 (14:28)左手に広くて静かな旧道・杉並木があります。久々の土の道。
    

 (14:31)その道もすぐ終わり、JR線のガードのところで国道に合流、ガードをくぐってから右手の小道を進むと、杉並木の旧道。
    

 「国道119号線」に合流すると、いよいよ最後の「日光杉並木街道」。
    
                                「特別史跡 特別天然記念物 日光杉並木街道」  
               
 (14:37)右手奥の方に「JR日光駅」。古風で趣のある駅舎。東武日光駅に比べると閑散としていますが・・・。
    

 その先には「東武日光駅」。華やかな駅前通りになり、外国人など大勢の人々の姿が。
ゴールに向かって緩やかな上り道。右手奥が「東武日光駅」。

 ここから神橋までは1,500㍍ほど。そぞろ歩きする外国人の姿が目立つ中、いよいよラストスパート。けっこう疲れがきていますが。
 東照宮に向かう広い参道の両側にはお店がずらり。公共施設も街道筋らしい趣の建物に。
 ここは日光道中21番目で、道中最後の宿場でもあります。

 鉢石宿
 もともと鉢石村という村落があったが、元和3年(1617年)に徳川家康を日光山に祀り日光参詣が盛んとなると日光東照宮の門前町として大いに栄えた。現在のJR日光駅の辺りに鉢石宿の木戸があった。当時、入江本陣は御幸町、高野本陣は中鉢石町にあり、参詣者は本陣に投宿して東照宮を参詣した。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、鉢石宿の本陣は2軒設けられ、旅籠が19軒、宿内の家数は223軒、人口は985人であった。

(14:48)「日光消防署」。

(14:58)「日光市日光庁舎」。お城のような雰囲気。

「鉢石横町」。
 この辺りに「鉢石」という町名の基になった「鉢石」が保存されているはずですが、見逃しました。

    
 「金谷ホテル」下にある物産店。国の有形登録文化財に指定されています。

「日光のおいしい水 磐裂霊水」。

      
          板垣退助銅像

      
                             (15:06)神橋。

「華厳の滝」から流れ落ちてきた「大谷川」。

            与謝蕪村句碑

             二荒や 紅葉の中の 朱の橋 (ふたあらや もみじのなかの あけのはし)

 こうして、約140㎞の旅、終了!
 だんだんと日差しが強くなる日々の下、果てしなく延びる直線の国道歩きにはいささか参りました。が、宇都宮宿を過ぎてからの杉並木街道には圧倒されました。宇都宮までは標高もほとんどなく、平らな道筋。その点では歩きやすさが一番でした。
 すべて日帰り。それもおおかた午後3時前には終了(午前中で終わりの日もあった! )、というペース。結局、9日間にわたる旅でした。

 いよいよ次回は「中山道」を再開。軽井沢から、と思っています。が、はたしていつになるやら・・・。


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「日光道中」をゆく。総集編。第8日目。(関東バス「弁天橋」から「海老王子」まで)

2016-08-09 19:18:27 | 日光道中
 7月1日(金)。晴れ。8時半「今市車庫」行きのバスに乗って30分。前回の最終地点・弁天橋に付いたのが、9:00。さっそく出発! ちょっと日差しが強くなるかな、と悪い予感。

出発してまもなく左手に「光明寺」。
                                      ここには立場があったといわれています。

最初の並木は桜。

左手には竹林が広がります。

                      桜のシーズンにはさぞかし・・・。ところどころ杉も混じっています。
    

自動車道より一段高い遊歩道を歩きます。

 周囲の自然豊かな遊歩道を進みます。竹林、モミジ、サクラ、スギ・・・。秋の頃や新緑の頃などはすてきな散歩道に。
                         

振り返って望む。

 「宇都宮インター入口」交差点付近でいったん並木は途絶え、下金井町へ入っていきます。

(9:33)はじめて「徳次郎」の名を見つけます。

 「徳次郎」は、今は、「とくじろう」と読むようになっていますが、「とくじら」とも読んだようです。

地名の由来
 徳次郎の地名の由来には諸説在る(以下に列記)。初出が宇都宮氏時代であることから、平安時代後期以降、江戸時代までに一般化した地名と考えられている。
 読みに『とくじら』と『とくじろう』の二通りがある。現在の行政による住所地としては『とくじろうまち』と規定されている。経緯としては、当初は『外久次良』(とくじら)の地名だったが新田徳次郎昌言がこの地に徳次郎城を築いたことに因んで漢字を当てて『徳次郎』(とくじら)としたため、後世に『徳次郎』の文字だけが一人歩きし『とくじろう』と誤読されたと云われる。

1.日光の久次良氏(久次郎氏)の外領ということで、外久次良(外久次郎=とくじら)とされた。
                ↓
2.宇都宮氏家臣の新田徳次郎がこの地に徳次郎城を築いたことから徳次郎と書くようになった。

 「徳次郎」の読みについては、富屋村が宇都宮市に編入された際に漢字の音読みに合わせ「とくじろう」に変更されたが、その後も「とくじら」「とくじろう」が混用された状態であり、日光宇都宮道路徳次郎インターチェンジの読みが2008年まで「とくじら」であるなど現在に至るまで「とくじら」の読みが一般的に流通している。

(以上、「Wikipedia」参照)

 ちなみにこのお店は「とくじら古美術点店」と記されています。

再び桜並木。

 (9:45)しばらく進むと、右手に「高谷林の一里塚」(東側のもの)。
     
                 この一里塚は、宇都宮城下と徳次郎宿の間に位置し、江戸・日本橋から29里目。
そこから西側を望む。塚の有無は不明。

 まもなく「東北自動車道」の高架をくぐります。右手の丘の上に煉瓦造りの瀟洒な建物。
    
                        「第六号接合井」。
 接合井は、今市浄水場で浄水した水を、距離約26キロ、標高差240㍍ある戸祭配水場まで送る際、送水管にかかる水圧を高めるために建設された施設です。
 この接合井は、今市浄水場と戸祭配水場間の日光街道沿いに、標高が約30㍍下がるごとに設けられ、全部で6箇所設けられました。
 これらの接合井は、昭和24年の今市地震により、残念ながらその大半が倒壊しましたが、この第六号接合井だけは、創設当時のままの姿を今も残しています。

 国の有形文化財並びに「土木学会推奨土木遺産」として登録されています。

 この先のバス停が「下徳次郎」。その先、「山王団地入口交差点のところに「大谷道道標」(10:02)。
    

 山並みが身近に見えてきます。

 (10:09)「徳次郎町」の落ち着いた街並みに入って来ました。けっこう日差しが強くなってきます。大谷石造りの建物が並んでいます。
    

右手奥の山の手前の小高い丘にあったのが「徳次郎城」? 

「中徳次郎」交差点の手前には「田中道」道標。    
 「神社入口約五丁 田中道」とあります。当時、徳次郎宿の本陣や問屋場があった付近のようですが、痕跡は見つからず。

徳次郎宿
 日光街道18番目の宿。
 上徳次郎宿、中徳次郎宿、下徳次郎宿の3宿から成る宿場町で、これらに古道旧日光街道沿いの門前村、田中村、西根村を加え徳次郎六郷と呼ばれていた。
 江戸時代当初の元和3年(1617年)の時点では上徳次郎宿のみで人馬役が賄われていたが、その後中徳次郎宿および下徳次郎宿の嘆願により享保13年(1728年)より上徳次郎宿に加えて中徳次郎宿、下徳次郎宿も宿駅の役が課され合わせて徳次郎宿となった。1月を3分し上旬は中徳次郎宿、最も混雑した中旬は経験豊富な上徳次郎宿、下旬は下徳次郎宿が人馬役を当番した。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、徳次郎宿の本陣は2軒、仮本陣1軒、脇本陣3軒、仮脇本陣1軒が設けられ、旅籠が72軒あり、日光道中最大級規模の宿駅であった。宿内の家数は168軒、人口は653人であった。
 徳次郎宿は江戸末期に天領化されて真岡代官所の管轄となる。この時代に二宮尊徳や吉良八郎の手により西原の治水事業が進められ、田川に堰が設けられ宝木台地に引水された(宝木用水)。

(10:19)倉造りのおうち。

しばらく進むと、右手に「智賀都神社」の鬱蒼とした杜。
県の天然記念物と名木百選に指定されている二本の大きなケヤキは樹高40m、幹周り7~8m、推定樹齢は700年だそうです。  

 (10:33)行く手の中央分離帯に杉並木。「六本杉」といって、杉が6本並んでいます。
        

 街道沿いの杉並木は思ったほど連なっていません。炎天下を歩くハメに。この先もまだまだ待望の杉並木は現れてきそうもありません。それでも前方に並木道があると、ホッとします。しかし、左側の遊歩道を歩いたのが失敗。木立もなく日差しをそのまま浴びる感じ。
               

 右手、分かれ道に大きな石の「道標」。「宇都宮・・」とあります。
「大網町」への分岐点。右奥に「田川」が流れていますが、ここからは見えません。もう少し行ったところで渡ります。

「徳次郎変電所」から、街中に進みます。「上徳次郎」地区。「徳次郎宿」は、「下」「中」「上」の3つで成り立っています。本陣跡は「飯野」さん宅のようですが、同姓の家が並んでいて、果たしてどのおうちか?
   

 日陰もない通りをひたすら歩きます。車は通りますが、人影はありません。しばらく静かな街並み。

いつしか「上徳次郎宿」を抜け、今市へ向かいます。振り返って望む。

 (11:00)「船生街道入口」交差点の右手(北側)に「石那田(六本木)一里塚」があります。江戸・日本橋から30里目。
             
                                      解説板が立ててありますが、かすれていて判読不能。

道路のこちら側(南側)には「十九夜塔(道祖神)」。

さらに「日光街道桜並木」碑。

 (11:13)しばらく進むと、右へ分かれる道の角に「二宮尊徳先生遺跡石那田堰」という標柱があります。


石那田堰(二宮堰)
 二宮尊徳が手がけた用水事業の一つで、尊徳のもとに吉良八郎が工事監督にあたり、嘉永5年(1852) 9月徳次郎六郷用水(石那田堰)が完成しました。さらに南方の宝木地区まで水を引くため、安政2年(1855)徳次郎用水の取水口より開削工事に着手しました。
 しかし、翌3年(1856)尊徳の死などにより工事の中断もありましたが、安政6年(1859) 6月吉良八郎の監督のもとに宝木用水が完成しました。この宝木用水の取水堰を「二宮堰」と呼んでいます。
 かっては、宝木用水の出発点として重要な役割をはたしていましたが、今でも、水の勢いを弱める工夫が施された田川からの水の取り入り口や、木材を利用した水門、玉石積みの護岸などの一部が残っており、当時の設計技術の優秀さを伝えています。
 現在は、田川の河川改修工事によって役目は終わりましたが、尊徳の偉業を後世に引き継ぐため、二宮堰部分の復元を行い、周辺一帯を整備し貴重な文化遺産に触れることのできる親水公園になっています。
 蛇足ですが、この宝木用水は宇都宮市街地の西寄りを流れる新川の名で親しまれています。

(以上、「」HPより)

前に見た「接合井」施設。再建されたもののようです。

(11:20)開けたところに出てきます。「榊里」。

工事中の橋を渡ります。下を流れているのが「田川」。

橋を渡って左手にあるのが、「石那田八坂神社」。

その前にはりっぱなお屋敷。かつての「茶屋」? 

 再び並木道になりました。少しずつ上って行きます。しかし、けっこう炎天下。ちょっと一休み。下の車道にバス停「海老王子」。休みがてら時刻表を見たらまもなくバスが来る時間。あまりの暑さと腹も減って、喉も渇き、帰ってからは飲み会があるし、・・・。それを言い訳にして、ここで早々にギブアップ。時に11時45分。今までで最短距離。
 バスの中の涼しいこと、涼しいこと。そのまま中抜きで東武「下今市駅」まで。杉並木を横目で眺めながら、そのまま中抜きで東武「下今市」駅まで来てしまいます。
         
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「日光道中」をゆく。総集編。第7日目。(JR「雀宮駅」から関東バス「弁天橋」まで)

2016-08-08 21:59:26 | 日光道中
翌6月19日(日)。曇り、時々晴れ。昨日よりは歩きやすい感じ。(9:30)雀宮駅に降り立ちます。
 この下り線ホームにも「鐵道院」の鋳物製の鉄柱があります。そこには解説板も。
                         

雀宮駅旧跨(こ)線橋の柱について
 この柱は、かつて雀宮駅で使用されていた乗換えこ線橋の階段下の門柱で、乗換えこ線橋自体は1984(昭和59)年の駅改良工事に伴い撤去されましたが、その後乗降場の外灯として2009(平成21)年まで再利用されていました。
 この門柱は鋳鉄製で、柱下部の刻印のとおり、合資会社高田商會(現株式会社高田商会)の柳島製作所(現東京都墨田区錦糸4丁目の錦糸公園東側付近)にて1912(明治45)年に製作されたもので、合資会社高田商會の銘がある鋳鉄柱は、今のところ全国でも当駅と京浜東北線の大森駅東口に保存されているもののみです。

旧道(国道4号線)に戻って右折すると、「雀宮神社」があります。

ここで「雀宮(神社)」という地名の語源について。(より)

    

    


                       。
              『雀宮南小学校50周年記念誌』『雀宮の地名の由来」(吉野益太郎氏執筆)より抜粋

 なるほどさまざまないわれがあるようです。いずれも興味深い説。
 中でも、「紅雀」説は、物語性があって、なかなかのすぐれもの。
 光源氏だとされる藤原実方朝臣の話で、都にて女性のことで騒ぎを起こした科により青森の地に国造として単身赴任を命ぜられた。彼の若妻が後を慕って雀の宮の地まで来たが風邪がもとで寝ついて、もはやこれまでと村の女房たちを集め「私は陸奥の国造藤原実方朝臣の奥方です。私はここまで来ましたが、病が重くもう死ぬでしょう。心惜しいのですが実方朝臣が来たならばこの藤原氏に伝わる三種の神器をぜひ渡して欲しい」と言い切ると息を引き取った。これを知らぬ実方朝臣は国実検の途路、落馬して死んでしまった。実方は死して紅雀となり雀の宮まで飛来して奥方の埋葬されている綾女塚の上に来て息絶えた。あまりの悲しい物語のため墳頂に綾女神社として祀り供養し、現在は雀宮神社境内に移されている。

 藤原実方は「三十六歌仙」の一人で、その歌は「小倉百人一首」にも入っています。

 かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを

 死後、蔵人頭になれないまま陸奥守として亡くなった怨念によりスズメへ転生し、殿上の間に置いてある台盤の上の物を食べたという(入内雀)
 
 この場合も「雀」になっているようで、やはり「雀宮」にはご縁があるわけです。

(9:44)その先がちょうど「東京から100㎞」ポスト。

 「国道121号線」との立体交差を過ぎると、左手に富士重工の工場。その先が「陸上自衛隊北宇都宮駐屯地」(10:07)。正門からぞろぞろ親子連れが入場しています。イベントがあるようです。



 (10:34)しばらく進むと、右側にJR宇都宮線の線路が近づいてきます。その脇の停留所名が「一里」。この付近に日本橋から26里目の「江曽島一里塚」があったようです。
    

踏切の名称も「一里踏切」。

(10:44)「東京から104㎞」ポスト。

この付近から「国道4号線」の道路幅がかなり広くなります。

 (10:50)「西原」の交差点。ここまで辿ってきた「国道4号線」ともおわかれです。国道4号線は大きく右に曲がって続いていきます。
左に進む道が「日光街道」になります。

    
 「国道119号線」を「東京街道」と表示。                            振り返って望む。

「宇都宮宿」に向かって進みます。 

JR日光線。

 しばらく行くと、正面に交差点。宇都宮宿へは左の「日光街道(奥州街道)」にあたる「不動前通り」を進みます。直進する道が「旧奥州街道」で、現国道119号線。この国道は東武線・宇都宮駅前に向かいます。交差点のところにあるのが、「不動堂」。
    

 ここが「宇都宮宿」の江戸方木戸口でもあります。

宇都宮宿
 日光街道および奥州街道の17番目の宿場。宇都宮城の城下町にあり、両街道の追分であったほか、国内各地を結ぶ主要道路が通る交通の要衝で、日光街道で最も賑わった宿場町と云われている。
 宇都宮宿は、宇都宮城の城下町であり宇都宮大明神(二荒山神社)の門前町でもあった宇都宮が、徳川家康の命により伝馬役を命ぜられ、宿駅として整備されたものである。宇都宮藩により治められていた。
 東海道に続く街道整備により宇都宮宿にも伝馬役が命ぜられたのが慶長7年(1602年)であり、以来宿場町となり人足25人と馬25頭の常備が義務付けられていた。一方で地子免許状が交付され土地税は免除となり負担軽減の措置が執られていた。
 元和3年(1617年)に徳川家康が日光山に祀られ、寛永13年(1636年)に徳川家光によって現在の東照社が日光に造営され、さらに正保2年(1647年)に朝廷より東照社に宮号が宣下され日光東照宮となると、日光街道は参詣道としての重要度も急速に高まり、文政期には日光街道を参勤する大名家は41家を数え、五街道では東海道の146家に次いで多いなど通行量が増大した。
 伝馬役は日光街道と奥州街道の追分である伝馬町、池上町界隈で受け持っており、当初は東石町で担っていたが負担が重かったため伝馬町に移され、さらに小伝馬町や池上町にも拡大された。
 宇都宮宿で最も栄えたのがこの伝馬町や池上町界隈で、多くの商家や問屋が店を構え、寛文10年(1670年)には本陣と脇本陣が置かれている。大黒町には木賃宿が設けられ一般旅客の宿泊所となっていたほか、挽路町や材木町には造り酒屋や遊郭などもあった。蓬莱町、大黒町、歌橋町などの界隈では七の付く日に市が立ち、たいへん賑わったと伝えられている。また、日光街道には2宿に貫目改所が設けられたが、ひとつは千住宿に、そしてもうひとつが宇都宮宿新石町に置かれていた。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、宇都宮宿は南北20町(約2.2km)、東西18町58間(約2.1km)の規模で、本陣は2軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が42軒あった。宿内の家数は1219軒、人口は6,457人であった。
 門前・寺社を含めた宇都宮城下では、天保15年(1844年)の記録によると、家数1,693件、人口15,500人であり、江戸初期には32町であったのが、後期には48町まで増えている。本陣は日光道中と奥州道中の追分に当たる傳馬町(伝馬町)および池上町に1軒ずつ、脇本陣は伝馬町に1軒、それぞれ所在した。ほか、街道沿いには台陽寺や桂林寺など寺社群が多数林立し、宇都宮は、日光道中で最大の繁盛の地であった。
                                                            (以上、「Wikipedia」参照。)

東武宇都宮線のガードをくぐります。

 ガードの先、右手にあるのが「蒲生君平旌碑」。
    

 この付近には多くの寺院が配され、宇都宮城下入口を固める防御線の役割も果たしていたという。
 「不動前通り」から「蓬莱大黒通り」となると、左側に「熱木山不動尊」があります。


「蓬莱大黒通り」。

 道が整備されて広くなって、街中に入って行きます。
    

更に材木町通りとなります。「宇都宮城址」は右手奥の方になります。

 少し賑やかになってきて、「宇都宮地方裁判所」前で、大通り(国道119号線)に突き当たります。この辺りは伝馬町といって問屋場や本陣・旅籠が並び、一番賑やかな町でした。


 裁判所の前を右に曲がり、今度はすぐ左に曲がります。(11:46)ここが日光街道と奥州街道の追分(分岐)でした。
             

日光街道と奥州街道の追分
 江戸からの街道は、ここで日光街道と奥州街道に分かれました。北へ向かう清住町通りが日光街道、東へ向かう大通りが奥州街道にあたり、多くの人馬でにぎわった場所でした。

「バス停・伝馬町」。

 この付近に本陣があったようですが、確認出来ません。「高札場跡」の案内板があります。

       

これから歩む「日光街道」を望む。

「本郷町」解説板。

古い商家風のおうちがちらほらあります。
    

       
(12:02)日光道中宇都宮宿追分一里塚 「二十七里」

(12:05)「蒲生君平の墓所」桂林寺。

 旧街道筋らしい古いおうちが見られます。
    

 (12:19)しばらく進むと、Y字路になり、そのところに「勝善神」の大きな石碑があります。
       
     勝善神の碑(そうぜんしんのひ)
 「勝善神」は、「蒼善神」とも書き、馬の神を祀ったもの。主に関東、東北地方で信仰の対象であったとされます。

 しばらく進むと、先ほど「裁判所前」で分かれた「国道119号線」に再び合流します。
    
 ここからは、日光までほぼこの国道を進むことになります。

(12:36)そろそろ昼食タイム。さて、と。

 「讃岐うどん」のお店があります。ここで讃岐はないだろうと思いましたが、なにしろ昨日のお蕎麦屋さんで腹一杯出てきていささか参ったので、ここなら、と。しかし、このお店、チェーン店ではなくやっているお店。舞茸の天ぷら付きのうどんを頼んだらけっこうな量。都内では考えられないボリューム。栃木はなかなかサービス精神が旺盛のようです。

 こうして今日も腹一杯食べて、午後の部再開。


 (13:26)「日光街道」からは東西に街道が分岐しています。ここは、「長岡街道」。

     
                        大谷石でできた蔵造りの立派なおうち。

    

 (13:36)いよいよ前方に並木が見えてきました。ただこの先は、杉ではなく、桜並木となります。
 初めは、桜並木が続きます。桜の季節にはみごとな並木道になりそうです。車道と遊歩道が分かれていて、歩道は、一段高いところを進みます。入口付近には派手な衣装屋さん。


    
                 大谷石を活かした造りの新旧? のおうち。  

    木陰がたっぷりある遊歩道。
 
左手に「文星芸術大学・短大」。

 (13:50)大学の正門近くに「上戸祭一里塚」があります。江戸・日本橋から28里目。
    

街道を挟んで東側にある塚。

    
                       車道は一段低いところにあります。

 「君島建装」という会社のところで歩道は終わり、車道を歩いて大きな交差点へ。

振り返って望む。

(14:09)「弁天橋」。

 今回はここまで。帰りはバスに乗ってJR「宇都宮」駅へ。市街地に入るとけっこうな賑やかな街並みです。
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