雨もいくぶん小降りになって一安心。しかし、周囲は煙ってきます。
子どもたちが元気に自転車でおでかけ。
「庚申塔」と「甲子(かっし)塔」。
「庚申塔」はよく見かけますが、「甲子塔」とは?
十干十二支による「甲子(きのえね)」の晩に大黒天を祀り、豊作や商売繁盛を願う民間信仰。「庚申待ち」は徹夜、「月待ち」は月の出までを原則とするのに対して、これは子の刻(深夜12時)までとするようです。「子待ち」ともいいます。東北地方から関東・甲信越地方に分布。
(13:56)目指す「忠治茶屋」の看板。あと500mとのこと。
左手に「子どもの森公園」の入口に「日光例幣使街道」の解説板。遠目で過ぎます。
伊勢崎まゆドームについて (HPより)
群馬県伊勢崎市にある子供のもり公園・まゆドームは、伊勢崎銘仙にちなみ、まゆの形をイメージした外観が特徴的な自然環境学習センターです。園内には芝生広場や冒険山などがあり、こどもたちが元気に遊べる設備が充実しております。公園前にはコンビニエンスストアもあり、手ぶらででかけても安心です。様々な体験学習も用意されておりますので、まゆドームだよりなども発行されておりますので事前にチェックしお出かけしてみてはいかがでしょうか。
晴れていれば、子どもたちの姿もいっぱいあったでしょうが、生憎の雨。
「ぼうけん山」。
(14:04)ようやく「忠治茶屋」に到着。
お店に入るとお客さんでいっぱい。注文も順番待ち。腰掛けてゆっくりともできず、土産として、酒まんじゅうなど購入して出発。
隣に運ばれてきた品を見てビックリ! 巨大なまんじゅう! 一人で食べきれるの? 香ばしい匂いも漂ってきて、・・・
(HPより)
想像していたよりパン生地のようにふっくらとしていて、けっこうお腹に入るらしい。
焼きまんじゅうの忠治茶屋の由来
忠治茶屋本舗の建物は、国定忠治が御用になった西野目宇右衛門宅解体の際、 忠治茶屋店主が譲り受け、その資材を使い建築したものです。
国定忠治は、上州から信州へ渡る唯一の街道筋の大戸宿(群馬県吾妻郡)関所を二度にわたり破っている。最初は、天保5年、忠治25歳の時、島村ノ伊三郎を斬った足で信州中野の貸元へ身を寄せる逃避行のため。二度目は、27歳の時、忠治が恩義を受けた信州の兄弟分が殺された仕返しに行くため、槍、鉄砲などの武器を持参して、白昼堂々、20人もの子分衆を従えての関所破りだった。当時、関所破りは、100年に一度あるかないかの重罪だったことから、忠治は27歳にして、天下の大罪人になってしまったわけです。
西野目宇右衛門は、上州田部井村(現在の群馬県伊勢崎市田部井町)の庄屋で、村民からの人望も厚い人だった。長岡忠次郎(国定忠治)の盟友でもあったことから、病気で役人の目から逃れようとする忠治を自邸の離れでかくまった。広大な屋敷は竹やぶで覆われ、隠れ家としては、最適だったようだ。
しばらくの間、妾のお町と忠治の平穏な日々が続いたが、嘉永3年(1850年)8月24日未明、ついに国定忠治は宇右衛門屋敷の納屋で、八州役人、中山誠一郎の指揮する捕手たちに捕縛された。
その後、国定忠治は、自ら破った大戸の関所ではりつけとなり、西野目宇右衛門は、江戸小塚原において、忠治をかくまった罪で打ち首となった。嘉永3年12月21日、国定忠治41歳、宇右衛門54歳の冬であった。
忠治茶屋は毎月21日(日・火・祝日は翌日)に忠治の没日を記念して特売をしている。
やはりここで「国定忠治」に触れておきましょう。
国定忠治の肖像(田崎草雲画)
国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次とも)文化7年(1810年)~嘉永3年12月21日(1851年1月22日)
江戸時代後期の侠客。「国定」は生地である上野国(上州)佐位郡国定村に由来し、本名は長岡忠次郎。
上野国佐位郡国定村(旧、佐波郡東村国定地区、現在の群馬県伊勢崎市国定町)の豪農の家に生まれる。国定村は赤城山南麓の村で、生業は米麦栽培のほか農間余業として養蚕も行われており、長岡家でも養蚕を行っている。
父与五左衛門が文政2年(1819年)5月20日に死去したため、忠治は青年期に無宿となり、家督は弟の友蔵が継ぐこととなった。弟の友蔵( - 明治11年(1878年))は養蚕のほか糸繭商を興し、無宿となった忠治を庇護している。忠治や友蔵は長岡家の菩提寺である養寿寺で寺子屋を開く住職貞然に学んでいると考えられており、養寿寺には友蔵の忠治宛金借用証文も残されている。
忠治は上州勢多郡大前田村(群馬県前橋市)の博徒大前田英五郎の縄張りを受け継いで百々村(どうどうむら)の親分となり、日光例幣使街道、間宿の境町を拠点とする博徒で英五郎と敵対する島村伊三郎と対峙する。
忠治は伊三郎の縄張りを荒らし捕らえられたが、伊三郎から助命された。しかし忠治は伊三郎に怨恨を抱き、子分の三木文蔵が伊三郎の一派と諍いをおこしたのをきっかけとして、天保5年(1834年)、忠治は伊三郎を殺してその縄張りを奪い、一家を形成する。
その後は日光例幣使街道の玉村宿を本拠とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立し、天保6年(1835年)には玉村兄弟が山王堂村の民五郎(山王民五郎)の賭場を荒らしたことを発端に対立が激化、山王民五郎に子分二人を差し向けて玉村兄弟を襲撃し駆逐する。
また、忠治はこのころ発生していた天保飢饉に際して盗区の村々への賑救を行っていたが、天保9年(1838年)には世良田の賭場が関東取締出役の捕手により襲撃され三木文蔵が捕縛され、忠治は文蔵奪還を試みるが失敗し、関東取締出役の追求が厳しくなったため逃亡する。忠治は文蔵に加え子分の神崎友五郎や八寸才助らも処刑され一家は打撃を受けた。
さらに天保12年(1841年)には忠治の会津逃亡中に玉村主馬が山王民五郎を殺害して反撃にでると、翌天保13年に忠治は帰還し主馬を殺害する(この際に忠治は子分に「洋制短銃」をもたせている)。
関東取締出役は天保10年に出役の不正を摘発し人員を一新して体制の強化をはかり忠治の捕獲を試みているが、天保13年8月に忠治は道案内(目明し)の三室勘助・太良吉親子を殺害し、勘助殺しにより中山誠一郎ら関東取締出役は警戒を強化し忠治一家の一斉手配を行う。
また、天保13年には老中・水野忠邦が将軍徳川家慶による日光参詣を67年ぶりに企図し、同年4月13日から4月21日にかけて実施された。これに伴い博徒・無宿の取り締まりを強化した。忠治は信州街道の大戸(後の群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所を破り会津へ逃れるが、日光円蔵や浅次郎らの子分を失っている。
忠治は弘化3年(1846年)に上州に帰還するがこのころには中風を患い、嘉永2年(1848年)には跡目を子分の境川安五郎に譲る。忠治は上州に滞在し盗区において匿われていたが、翌嘉永3年8月24日(1850年9月29日)には田部井村名主家において関東取締出役によって捕縛され、一家の主要な子分も同じく捕縛された。
捕縛後は江戸の勘定奉行池田頼方の役宅に移送され取調べを受け、小伝馬町の牢屋敷に入牢。博奕・殺人・殺人教唆等罪名は種々あったが、最も重罪である大戸関所の関所破りにより時の勘定奉行・道中奉行池田頼方の申し渡しによって上野国吾妻郡大戸村大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)に移送され、大戸処刑場で磔の刑に処せられる。享年41。
忠治の遺体は三日間晒された後に取り捨てられた。首を含めた遺体は何者かに盗まれ、国定村の養寿寺住職・法印貞然の「一札」によれば、貞然は忠治の首を密かに寺に貰い受け、供養したという。その後、関東取締出役が探索を強化し、貞然は忠治の首を再び掘り起こすと別の場所に秘匿したという。貞然の「一札」によれば、戒名は「長岡院法誉花楽居士」。
忠治の十三回忌にあたる文久元年(1861年)には貞然が死去し、同年9月には大戸村の土屋重五郎・本宿村もしくは大柏木村の霞藤左衛門を世話人として、大戸刑場跡に忠治地蔵が造立された。また、群馬県伊勢崎市曲輪町に所在する善應寺には忠治の妻・菊池徳が造立した「情深墳」があり、忠治の戒名を「遊道花楽居士」としている。
1882年(明治15年)には長岡家の嗣子である権太により忠治夫妻の墓誌が建立され、碑銘は元伊勢崎藩の儒者・新井雀里が手がけている。
《逸話》
・国定忠治のたばこ入れ
愛煙家であった忠治は、そろばんが付いた革製のたばこ入れを愛用していた。こうしたそろばん付きのたばこ入れは、往時の博徒らがよく使っていたという。
・剣の腕前に自信があった忠治は当時日本一と評判の北辰一刀流へ道場破りとして乗り込み、真剣勝負で千葉周作と立ち合おうとするも忠治の構えから千葉は勝負の成り行きを見抜き早々にその場を立ち去る、荒立った忠治だったが門下生一同より諭されたことで命拾いしたと悟り道場を後にする。
・遠州を西へ旅していた時に掛川の博徒で堂山の龍蔵というウルサ型の親分の世話にならず旅籠に泊まったことがあった。面子を潰したと龍蔵は激怒、命を取ろうと追いかけて前に立ちはだかったが、相手が龍蔵と確かめた忠治は顔色一つ変えずに「忠治の伊勢参りだ。共をするか」と台詞を残し去った。呆気にとられた龍蔵だがずっと後までこの忠治の度胸の良さと男振りを「忠治というのは偉い奴だ、偉い奴だと聞いてはいたが本当に偉い奴だった」と褒め称えたという。
・信州に逃げている忠治が地元の親分の家にワラジを脱いだ際、親分の女房が「このごろ旅人が多くて遣り繰りが大変だ」と愚痴をこぼした。これを聞いた忠治は「俺は十五の時から貰い飯で育った。米の値段は分からねえ。それに生まれつき遠慮は知らねえ」と塩鮭一匹を丸々焼かせて、大きな黒椀で十数杯の飯をムリヤリに詰め込んで女房をドギマギさせたという話が残っている。
・喧嘩にはめっぽう強く「国定忠治は鬼より怖い、にっこり笑って人を切る」と謳われた。
なお忠治と島村の伊三郎、勘助の子孫らは「忠治だんべ会」の仲裁により平成19年(2007年)6月2日の手打ち式で170年越しに和解した。
天保の大飢饉で農民を救済した侠客として、講談・浪曲や映画、新国劇、大衆演劇などの演劇の題材となる。・・・
(以上、「Wikipedia」参照)。
《名文句》
新国劇「国定忠治・赤城山」
忠治「赤城の山も今宵限り、生まれ故郷の国定村や、縄張りを捨て、可愛い乾分(こぶん)の手前(てめえ)
たちとも、別れ別れになる首途(かどで)だ。」
定八「そう言や何だか寂しい気がしやすぜ。」
巌鉄「ああ、雁が鳴いて南の空へ飛んで行かあ。」
忠治「月も西山へ傾くようだ。」
定八「俺ぁ明日はどっちへ行こう?」
忠治「心の向くまま、足の向くまま、あても果てしもねえ旅へ立つのだ。」
定八・巌鉄「親分!」(笛の音が聞こえて)
定八「ああ、円蔵兄ィが・・・。」
忠治「あいつもやっぱり、故郷の空が恋しいんだろう。(刃を抜いて月光にかざし)加賀の国の住人、小松五郎義兼が鍛えた業物(わざもの)、万年溜の雪水に浄めて、俺にゃあ生涯手前という強い味方があったのだ。」
「名月赤城山」作詞:矢島寵児、作曲:菊地 博、唄:東海林太郎
1 男ごころに男が惚れて
意気が解け合う赤城山
澄んだ夜空のまんまる月に
浮世横笛誰が吹く
2 意地の筋金 度胸のよさも
いつか落目の三度笠
云われまいぞえ やくざの果と
悟る草鞋に散る落葉
3 渡る雁がね 乱れて啼いて
明日はいずこのねぐらやら
心しみじみ吹く横笛に
またも騒ぐか夜半の風
「赤城の子守唄」作詩:佐藤惣之助、作曲:竹岡信幸、唄:東海林太郎
1 泣くなよしよし ねんねしな
山の鴉が 啼いたとて
泣いちゃいけない ねんねしな
泣けば鴉が 又さわぐ
2 坊や男児(おとこ)だ ねんねしな
親がないとて 泣くものか
お月様さえ ただひとり
泣かずにいるから ねんねしな
3 にっこり笑って ねんねしな
山の土産に 何をやろ
どうせやくざな 犬張子
貰ってやるから ねんねしな
『国定忠治』は、『瞼の母』や『一本刀土俵入り』などと並んで、新国劇や映画、旅芝居、村芝居の定番でした。
たっぷりと雰囲気を味わったところで。
(14:17)さて、また激しくなってきた雨の中を「旧日光例幣使道 右赤城」という案内表示にしたがって、右手の道に入ります。
「右赤城」の解説板。
毎年旧暦の4月1日に京都を出発した例幣使の一行は、中山道によって倉賀野宿に至り、この宿の分か去れの辻から日光例幣使道に入りました。この道では、行列は日光に向かって東に進むので、常に赤城山は左手に見えました。
柴宿から馬見塚の村はずれにくると、道は西に向きが変わります。すると、行列の右手に赤城山を望むようになりました。
ここが日光例幣使道でただ一ヶ所右に赤城山が見える所で、例幣使や上方にも知れ渡った「右赤城」なのです。
この道の先には道標があり、「東 日光道 右 五りやう 左 ほん志やう」と刻まれています。
もちろんまったく赤城山のすがた、かたちも見えません。どっちの方向になるかも皆目、見当がつきません。
そこで、晴れていれば、という写真。
(HPより)なるほど。すばらしい景色。
旧道はその先で左折して「県道296号線」に合流します。
その角に円柱の道標。「右 五りやう 東 日光道 左 ほんしやう」とあるようですが。
来た道を振り返る。
1880年代のようす。この時代にはすでに架橋されています。「広瀬川」は大きく南に蛇行しています。
2010年代のようす。旧道はかなり付け替えられています。「広瀬川」も流路変更されています。湾曲した跡は畑、公園等に。
子どもたちが元気に自転車でおでかけ。
「庚申塔」と「甲子(かっし)塔」。
「庚申塔」はよく見かけますが、「甲子塔」とは?
十干十二支による「甲子(きのえね)」の晩に大黒天を祀り、豊作や商売繁盛を願う民間信仰。「庚申待ち」は徹夜、「月待ち」は月の出までを原則とするのに対して、これは子の刻(深夜12時)までとするようです。「子待ち」ともいいます。東北地方から関東・甲信越地方に分布。
(13:56)目指す「忠治茶屋」の看板。あと500mとのこと。
左手に「子どもの森公園」の入口に「日光例幣使街道」の解説板。遠目で過ぎます。
伊勢崎まゆドームについて (HPより)
群馬県伊勢崎市にある子供のもり公園・まゆドームは、伊勢崎銘仙にちなみ、まゆの形をイメージした外観が特徴的な自然環境学習センターです。園内には芝生広場や冒険山などがあり、こどもたちが元気に遊べる設備が充実しております。公園前にはコンビニエンスストアもあり、手ぶらででかけても安心です。様々な体験学習も用意されておりますので、まゆドームだよりなども発行されておりますので事前にチェックしお出かけしてみてはいかがでしょうか。
晴れていれば、子どもたちの姿もいっぱいあったでしょうが、生憎の雨。
「ぼうけん山」。
(14:04)ようやく「忠治茶屋」に到着。
お店に入るとお客さんでいっぱい。注文も順番待ち。腰掛けてゆっくりともできず、土産として、酒まんじゅうなど購入して出発。
隣に運ばれてきた品を見てビックリ! 巨大なまんじゅう! 一人で食べきれるの? 香ばしい匂いも漂ってきて、・・・
(HPより)
想像していたよりパン生地のようにふっくらとしていて、けっこうお腹に入るらしい。
焼きまんじゅうの忠治茶屋の由来
忠治茶屋本舗の建物は、国定忠治が御用になった西野目宇右衛門宅解体の際、 忠治茶屋店主が譲り受け、その資材を使い建築したものです。
国定忠治は、上州から信州へ渡る唯一の街道筋の大戸宿(群馬県吾妻郡)関所を二度にわたり破っている。最初は、天保5年、忠治25歳の時、島村ノ伊三郎を斬った足で信州中野の貸元へ身を寄せる逃避行のため。二度目は、27歳の時、忠治が恩義を受けた信州の兄弟分が殺された仕返しに行くため、槍、鉄砲などの武器を持参して、白昼堂々、20人もの子分衆を従えての関所破りだった。当時、関所破りは、100年に一度あるかないかの重罪だったことから、忠治は27歳にして、天下の大罪人になってしまったわけです。
西野目宇右衛門は、上州田部井村(現在の群馬県伊勢崎市田部井町)の庄屋で、村民からの人望も厚い人だった。長岡忠次郎(国定忠治)の盟友でもあったことから、病気で役人の目から逃れようとする忠治を自邸の離れでかくまった。広大な屋敷は竹やぶで覆われ、隠れ家としては、最適だったようだ。
しばらくの間、妾のお町と忠治の平穏な日々が続いたが、嘉永3年(1850年)8月24日未明、ついに国定忠治は宇右衛門屋敷の納屋で、八州役人、中山誠一郎の指揮する捕手たちに捕縛された。
その後、国定忠治は、自ら破った大戸の関所ではりつけとなり、西野目宇右衛門は、江戸小塚原において、忠治をかくまった罪で打ち首となった。嘉永3年12月21日、国定忠治41歳、宇右衛門54歳の冬であった。
忠治茶屋は毎月21日(日・火・祝日は翌日)に忠治の没日を記念して特売をしている。
やはりここで「国定忠治」に触れておきましょう。
国定忠治の肖像(田崎草雲画)
国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次とも)文化7年(1810年)~嘉永3年12月21日(1851年1月22日)
江戸時代後期の侠客。「国定」は生地である上野国(上州)佐位郡国定村に由来し、本名は長岡忠次郎。
上野国佐位郡国定村(旧、佐波郡東村国定地区、現在の群馬県伊勢崎市国定町)の豪農の家に生まれる。国定村は赤城山南麓の村で、生業は米麦栽培のほか農間余業として養蚕も行われており、長岡家でも養蚕を行っている。
父与五左衛門が文政2年(1819年)5月20日に死去したため、忠治は青年期に無宿となり、家督は弟の友蔵が継ぐこととなった。弟の友蔵( - 明治11年(1878年))は養蚕のほか糸繭商を興し、無宿となった忠治を庇護している。忠治や友蔵は長岡家の菩提寺である養寿寺で寺子屋を開く住職貞然に学んでいると考えられており、養寿寺には友蔵の忠治宛金借用証文も残されている。
忠治は上州勢多郡大前田村(群馬県前橋市)の博徒大前田英五郎の縄張りを受け継いで百々村(どうどうむら)の親分となり、日光例幣使街道、間宿の境町を拠点とする博徒で英五郎と敵対する島村伊三郎と対峙する。
忠治は伊三郎の縄張りを荒らし捕らえられたが、伊三郎から助命された。しかし忠治は伊三郎に怨恨を抱き、子分の三木文蔵が伊三郎の一派と諍いをおこしたのをきっかけとして、天保5年(1834年)、忠治は伊三郎を殺してその縄張りを奪い、一家を形成する。
その後は日光例幣使街道の玉村宿を本拠とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立し、天保6年(1835年)には玉村兄弟が山王堂村の民五郎(山王民五郎)の賭場を荒らしたことを発端に対立が激化、山王民五郎に子分二人を差し向けて玉村兄弟を襲撃し駆逐する。
また、忠治はこのころ発生していた天保飢饉に際して盗区の村々への賑救を行っていたが、天保9年(1838年)には世良田の賭場が関東取締出役の捕手により襲撃され三木文蔵が捕縛され、忠治は文蔵奪還を試みるが失敗し、関東取締出役の追求が厳しくなったため逃亡する。忠治は文蔵に加え子分の神崎友五郎や八寸才助らも処刑され一家は打撃を受けた。
さらに天保12年(1841年)には忠治の会津逃亡中に玉村主馬が山王民五郎を殺害して反撃にでると、翌天保13年に忠治は帰還し主馬を殺害する(この際に忠治は子分に「洋制短銃」をもたせている)。
関東取締出役は天保10年に出役の不正を摘発し人員を一新して体制の強化をはかり忠治の捕獲を試みているが、天保13年8月に忠治は道案内(目明し)の三室勘助・太良吉親子を殺害し、勘助殺しにより中山誠一郎ら関東取締出役は警戒を強化し忠治一家の一斉手配を行う。
また、天保13年には老中・水野忠邦が将軍徳川家慶による日光参詣を67年ぶりに企図し、同年4月13日から4月21日にかけて実施された。これに伴い博徒・無宿の取り締まりを強化した。忠治は信州街道の大戸(後の群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所を破り会津へ逃れるが、日光円蔵や浅次郎らの子分を失っている。
忠治は弘化3年(1846年)に上州に帰還するがこのころには中風を患い、嘉永2年(1848年)には跡目を子分の境川安五郎に譲る。忠治は上州に滞在し盗区において匿われていたが、翌嘉永3年8月24日(1850年9月29日)には田部井村名主家において関東取締出役によって捕縛され、一家の主要な子分も同じく捕縛された。
捕縛後は江戸の勘定奉行池田頼方の役宅に移送され取調べを受け、小伝馬町の牢屋敷に入牢。博奕・殺人・殺人教唆等罪名は種々あったが、最も重罪である大戸関所の関所破りにより時の勘定奉行・道中奉行池田頼方の申し渡しによって上野国吾妻郡大戸村大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)に移送され、大戸処刑場で磔の刑に処せられる。享年41。
忠治の遺体は三日間晒された後に取り捨てられた。首を含めた遺体は何者かに盗まれ、国定村の養寿寺住職・法印貞然の「一札」によれば、貞然は忠治の首を密かに寺に貰い受け、供養したという。その後、関東取締出役が探索を強化し、貞然は忠治の首を再び掘り起こすと別の場所に秘匿したという。貞然の「一札」によれば、戒名は「長岡院法誉花楽居士」。
忠治の十三回忌にあたる文久元年(1861年)には貞然が死去し、同年9月には大戸村の土屋重五郎・本宿村もしくは大柏木村の霞藤左衛門を世話人として、大戸刑場跡に忠治地蔵が造立された。また、群馬県伊勢崎市曲輪町に所在する善應寺には忠治の妻・菊池徳が造立した「情深墳」があり、忠治の戒名を「遊道花楽居士」としている。
1882年(明治15年)には長岡家の嗣子である権太により忠治夫妻の墓誌が建立され、碑銘は元伊勢崎藩の儒者・新井雀里が手がけている。
《逸話》
・国定忠治のたばこ入れ
愛煙家であった忠治は、そろばんが付いた革製のたばこ入れを愛用していた。こうしたそろばん付きのたばこ入れは、往時の博徒らがよく使っていたという。
・剣の腕前に自信があった忠治は当時日本一と評判の北辰一刀流へ道場破りとして乗り込み、真剣勝負で千葉周作と立ち合おうとするも忠治の構えから千葉は勝負の成り行きを見抜き早々にその場を立ち去る、荒立った忠治だったが門下生一同より諭されたことで命拾いしたと悟り道場を後にする。
・遠州を西へ旅していた時に掛川の博徒で堂山の龍蔵というウルサ型の親分の世話にならず旅籠に泊まったことがあった。面子を潰したと龍蔵は激怒、命を取ろうと追いかけて前に立ちはだかったが、相手が龍蔵と確かめた忠治は顔色一つ変えずに「忠治の伊勢参りだ。共をするか」と台詞を残し去った。呆気にとられた龍蔵だがずっと後までこの忠治の度胸の良さと男振りを「忠治というのは偉い奴だ、偉い奴だと聞いてはいたが本当に偉い奴だった」と褒め称えたという。
・信州に逃げている忠治が地元の親分の家にワラジを脱いだ際、親分の女房が「このごろ旅人が多くて遣り繰りが大変だ」と愚痴をこぼした。これを聞いた忠治は「俺は十五の時から貰い飯で育った。米の値段は分からねえ。それに生まれつき遠慮は知らねえ」と塩鮭一匹を丸々焼かせて、大きな黒椀で十数杯の飯をムリヤリに詰め込んで女房をドギマギさせたという話が残っている。
・喧嘩にはめっぽう強く「国定忠治は鬼より怖い、にっこり笑って人を切る」と謳われた。
なお忠治と島村の伊三郎、勘助の子孫らは「忠治だんべ会」の仲裁により平成19年(2007年)6月2日の手打ち式で170年越しに和解した。
天保の大飢饉で農民を救済した侠客として、講談・浪曲や映画、新国劇、大衆演劇などの演劇の題材となる。・・・
(以上、「Wikipedia」参照)。
《名文句》
新国劇「国定忠治・赤城山」
忠治「赤城の山も今宵限り、生まれ故郷の国定村や、縄張りを捨て、可愛い乾分(こぶん)の手前(てめえ)
たちとも、別れ別れになる首途(かどで)だ。」
定八「そう言や何だか寂しい気がしやすぜ。」
巌鉄「ああ、雁が鳴いて南の空へ飛んで行かあ。」
忠治「月も西山へ傾くようだ。」
定八「俺ぁ明日はどっちへ行こう?」
忠治「心の向くまま、足の向くまま、あても果てしもねえ旅へ立つのだ。」
定八・巌鉄「親分!」(笛の音が聞こえて)
定八「ああ、円蔵兄ィが・・・。」
忠治「あいつもやっぱり、故郷の空が恋しいんだろう。(刃を抜いて月光にかざし)加賀の国の住人、小松五郎義兼が鍛えた業物(わざもの)、万年溜の雪水に浄めて、俺にゃあ生涯手前という強い味方があったのだ。」
「名月赤城山」作詞:矢島寵児、作曲:菊地 博、唄:東海林太郎
1 男ごころに男が惚れて
意気が解け合う赤城山
澄んだ夜空のまんまる月に
浮世横笛誰が吹く
2 意地の筋金 度胸のよさも
いつか落目の三度笠
云われまいぞえ やくざの果と
悟る草鞋に散る落葉
3 渡る雁がね 乱れて啼いて
明日はいずこのねぐらやら
心しみじみ吹く横笛に
またも騒ぐか夜半の風
「赤城の子守唄」作詩:佐藤惣之助、作曲:竹岡信幸、唄:東海林太郎
1 泣くなよしよし ねんねしな
山の鴉が 啼いたとて
泣いちゃいけない ねんねしな
泣けば鴉が 又さわぐ
2 坊や男児(おとこ)だ ねんねしな
親がないとて 泣くものか
お月様さえ ただひとり
泣かずにいるから ねんねしな
3 にっこり笑って ねんねしな
山の土産に 何をやろ
どうせやくざな 犬張子
貰ってやるから ねんねしな
『国定忠治』は、『瞼の母』や『一本刀土俵入り』などと並んで、新国劇や映画、旅芝居、村芝居の定番でした。
たっぷりと雰囲気を味わったところで。
(14:17)さて、また激しくなってきた雨の中を「旧日光例幣使道 右赤城」という案内表示にしたがって、右手の道に入ります。
「右赤城」の解説板。
毎年旧暦の4月1日に京都を出発した例幣使の一行は、中山道によって倉賀野宿に至り、この宿の分か去れの辻から日光例幣使道に入りました。この道では、行列は日光に向かって東に進むので、常に赤城山は左手に見えました。
柴宿から馬見塚の村はずれにくると、道は西に向きが変わります。すると、行列の右手に赤城山を望むようになりました。
ここが日光例幣使道でただ一ヶ所右に赤城山が見える所で、例幣使や上方にも知れ渡った「右赤城」なのです。
この道の先には道標があり、「東 日光道 右 五りやう 左 ほん志やう」と刻まれています。
もちろんまったく赤城山のすがた、かたちも見えません。どっちの方向になるかも皆目、見当がつきません。
そこで、晴れていれば、という写真。
(HPより)なるほど。すばらしい景色。
旧道はその先で左折して「県道296号線」に合流します。
その角に円柱の道標。「右 五りやう 東 日光道 左 ほんしやう」とあるようですが。
来た道を振り返る。
1880年代のようす。この時代にはすでに架橋されています。「広瀬川」は大きく南に蛇行しています。
2010年代のようす。旧道はかなり付け替えられています。「広瀬川」も流路変更されています。湾曲した跡は畑、公園等に。