おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「向島百花園」虫ききの会。8月28日夜。

2022-08-31 20:49:20 | じじばばがゆく

初めて参加しました。8月28日(日)18:00~。

昼頃は、雨が時折降るような空模様でしたが、夕方からは、晴れてきました。心地よい、涼しい風も吹いてきて。

「百花園」。ふだん、夜は開放していませんが、このときは、夜9時まで開園しています。

三々五々、人々が。浴衣姿のご婦人たちも。

暮れなずむ園内。

虫かごのムシたち。

  マツムシ。

 鉢植えの草花の展示。

スカイツリー。

刻々変化するスカイツリー。

               

行灯や雪洞が灯され、草むらからコオロギ、スズムシなどの声が響く。

 

                                袖ふれて一期一会の虫の声

ハギのトンネル。

お休み処。

「御成座敷(おなりざしき)」に灯りが点り、お茶会が催されています。

     

             

四阿で商談する人たち? 

池にも灯りが映り、

写真では伝わりませんが(写りもよくないです)、動画では虫の声がたくさん拾えました。

向島百花園。ここはすっかり秋の気配でした。心が少し洗われた気がしました。

帰りの道筋、気がつくと道端の草むらからけっこう虫の声が聞こえてきます。秋の夕べもまた、よきものです。

次回、夜の開放は、「月見の会」のようです。また来ようと思います。皆さんもいかがですか。

      9月9日(金)~9月11日(日)

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城ヶ島めぐり。その3。角川源義句碑。ウミウ生息地遠望。馬の背洞門。

2022-08-30 20:09:07 | 三崎口

       ウミウ、ヒメウ及びクロサギの生育地展望台を経て、西に向かいます。

城が島のウミウ、ヒメウ及びクロサギの生育地。

城ヶ島の南側、太平洋の荒波を受ける断崖は高さ約30㍍、幅2キロメートルに及び、自然景観もよく残されている。この崖の中ほどやや東に位置する赤羽根海岸周辺には、崖面の岩棚や割れ目にウミウとヒメウ、それにクロサギが生息することでよく知られている。

ウミウとヒメウはウの仲間で、夏期は北日本などの冷涼な地域で繁殖し、冬季には温暖な地方へ南下して冬を過ごす。城ヶ島においては、例年10月末頃から渡来し、少数のヒメウのほか、最盛期のウミウは千数百羽を数え、やがて春になると北へ帰っていく。一方、クロサギは、南方系のサギで、太平洋側では房総半島や城ヶ島を北限域とする。体は黒く見えるが、くちばしと足が長くて黄色がかるので、全体は黒色に見えるウミウやヒメウと区別できる。

城ヶ島赤羽根海岸周辺は、往時よりもウミウの渡来数が減少しているが、なお関東地方最大規模の渡来地として重要であり、またクロサギの太平洋側分布北限地の一つとして学術上きわめて貴重である。

その途中にあった句碑。

               火の島へ 一帆目指すよ 芋の露 源義

この俳句は、角川源義昭和39年の作。

・・・帆をいっぱいに追い風をはらんだ帆掛け舟が大島に向かって走っている情景、芋の露(季語=秋)は、生長した里芋の葉に夜露や雨が溜まってきらきらと輝いているようす。

角川源義(俳号―源義)大正6年富山県生まれ、昭和20年角川書店を創立、・・・ことに三浦半島の風光を愛し、しばしばこの地を訪れている。

眼下に太平洋が広がる。

ウミウのモニュメント。

              海風の強さから高い木はない。

赤羽根海岸・断崖。

                奥の崖が、ウミウたちの生息地。

白秋文学コース ウミウ展望台

三崎城ヶ島は鵜の鳥島よ 潮のしぶきで鵜が育つ

城ヶ島の白百合の花大きければ 仰ぎてぞあらんあそびの舟は

               (「Wikipedia」より)

樹木に覆われたところも。

視界が広がってきます。

急な階段道を下ると、目の前に「馬の背洞門」。

           馬の背洞門

これは自然が作った海蝕洞穴で長い年月をかけて波浪、風雨等に浸食されてこのような見事な形となったものです。地層は第三紀層、鮮新統、三浦層に属し土質は凝灰質砂礫岩という軟らかい岩質です。高さ8㍍、横6㍍、厚さ2㍍で、土地の人は「馬の背洞門」のほか「めぐりの洞門」「眼鏡の洞門」などと呼んでいます。そのどの名前もみな洞門の形から推して名付けられたものです。

明治の文豪、大町桂月はここを訪れて次のように述べています。「―馬の背に至る、怒涛脚下の巌を噛む、左は房州、右は伊豆、前には雲の峰聳ゆ、その雲の峰少し薄らぎて中より大島あらわる、馬の背はやがて馬の首となり、長巌海に突き出す。云々」

※落石等の危険があるため近づかないでください。

                                            (「解説板」より)

       

ここを訪れたのはこれで3回目ですが、この自然の造形にしばし魅入ります。

周囲の景観。

      岩畳。

海岸の岩伝いに歩くこともできますが、崖の上を歩いて「城ヶ島灯台」の方へ。

               

「馬の背洞門」を見下ろす。

展望台へ。

遠くに「馬の背洞門」。

「城ヶ島灯台」が見えてきます。

坂道を下り、海岸へ。

ここから右に折れて「城ヶ島」バス停に向かいます。炎天下の歩きでしたが、城ヶ島の南側を東から西へと変化に富んだ歩きでした。

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城ヶ島めぐり。その2。城ヶ島公園。城ヶ島・首都防衛の最先端。砲台・観測所・展望台。安房埼灯台。

2022-08-29 21:00:59 | 三崎口

                公園案内図。

松虫に ささで寝る戸や 城ヶ島 たかし

秋の夜 松虫が鳴いている 島の漁家は戸締まりをしないまま 松虫の鳴く声声につつまれて安らかな眠りに入っている

この俳句は 松本たかし昭和13年(1938)の作。当時、この城ヶ島には大橋はなく、三崎との渡し舟が唯一の便であった。さらに東京湾防衛の要塞地帯で、島へ渡るのには軍の制約があり、殊に夜に渡る人など稀であったことから、初秋の夕べには虫の鳴きこぞる島となった。島の漁家のいとなみは、素朴そのもの。松虫の鳴く頃は、涼をとるため蚊帳を吊って、雨戸を開けたままで寝ている。このような島の叙情が、たかしの高い詩心によってうたいあげられた。

松本たかし=子規・虚子の写生を根本とした俳人。三崎の風光を愛し、ししばしば来遊。

        

上記のように、城ヶ島は明治以来、首都防御の最先端であったようです。

「歴史的農業環境閲覧システム」によると、城ヶ島の東京湾側は地図に掲載されていませんでした。

1880年代のようす。東半分が掲載されていません。軍事機密だったのでしょう。

2010年代のようす。城ヶ島全景。

公園内を回ってみます。しかし、炎天下で、もう汗が噴き出します。

眼前に東京湾が広がる。

                      左手は、三浦半島。

ハマカンゾウ。

「展望台」からの眺め。ここは、城ヶ島砲台・要塞(観測所)跡に建てられています。

※「城ヶ島砲台」

除籍となった戦艦安芸の主砲45口径25cm連装砲塔2基などが設置されていた。砲座跡が駐車場花壇となっている。

駐車場内にある砲台跡(↓)。

安房埼灯台 が向こうに。

         左手、対岸は、房総半島。

     相模湾。

三崎港方向。

       西の方を眺める。

安房埼灯台」に向かいます。

この先の奥には、岩場が続きます。かつての灯台跡も。釣り人以外は立入禁止?

2010年代のようす。

旧安房埼灯台跡。(「Googlマップ」より)

      

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城ヶ島めぐり。その1。城ヶ島大橋。北原白秋碑。

2022-08-28 21:00:04 | 三崎口

                     城ヶ島大橋。

久々の三崎口駅。そこからバスで、城ヶ島へ。久々。7.8年ぶり? 

今日は、一転して雨模様。しかし、昨日、8月27日(土)は、快晴。暑い日差しに参った、参った。

                  遊覧船が通過。

「城ヶ島大橋」解説板。

三崎港の天然の防波堤城ヶ島は、北原白秋の詩で有名な島です。漁港の整備のために、従来の渡し舟にかわって三崎と島を結ぶ城ヶ島大橋が昭和35年(1960)4月に完成しました。

城ヶ島大橋は、全長375㍍、幅7㍍の車道、その両側に幅2㍍の歩道があります。我が国では最初の本格的なもっとも長い鉄鋼の橋で、はこ形の橋桁を用いて軽量化をはかり、高度の技術を用いて2020トンの重量にも耐えられるようにしてあります。

橋脚の海面からの高さは、最大で23.5㍍、海面下は18㍍で、安定度の高い構造で千トン級の船がこの下を楽に航行できるボックス・ガータ式の橋として当時は東洋一を誇っておりました。・・・

この橋の下に北原白秋の碑があります。

雨はふるふる城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる(草書)※白秋の自筆。

全文は、

雨はふるふる城ヶ島の磯に利休鼠の雨がふる

雨は眞珠か夜明の霧かそれともわたしの忍び泣き

舟はゆくゆく通り矢のはなを濡れて帆あげたぬしの舟

ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気

雨はふるふる日はうす曇る舟はゆくゆく帆がかすむ

                         

「城ヶ島の雨」は大正二年恰度私が相州三崎の城ヶ島の前に住んでゐた頃、芸術座音楽会のために舟唄として作ったものである。この舟唄は梁田貞氏の作曲で、その会で唄はれた。近頃聞けばかの地では今は船頭たちまで唄ってゐるさうである。さうなってくれるとうれしい。(大正8年白秋小唄集覚え書より)

昭和24年7月10日、建碑が除幕されました。高さ3m余、下太の帆型の根府川石で、城ヶ島の雨の一節の草書は白秋の自筆です。
昭和35年4月17日、城ヶ島大橋架橋により現在地に移転され、梁田貞の譜碑が添えられました。

この詩碑は、白秋謝恩の文学記念碑として本来第1号の碑となるはずでしたが、戦時中、城ヶ島は要塞地帯に指定されたため実現しませんでした。白秋が生前希望した「帆型の石が荒磯に突き差したように」を具現して建てられました。

「城ヶ島の雨」は、大正2年10月27日夜、東京から催促に見桃寺を訪れた岩崎雅道に渡したと言われています。
大正2年10月30日、東京有楽座で作曲者梁田自身の独唱で発表されました。

(この項、「」HPより)

※「利久鼠の雨」とは、暗い緑に灰色をまぶしたような雨のこと。

橋の下の磯で遊ぶ親子。

「城ヶ島公園」に向かいます。

駐車場からの城ヶ島大橋。

「白秋文学コース 遊ヶ崎」。

しんしんと 夕さりくれば 城ヶ島の魚籠押し流し 汐満ちきたる

城ヶ島 さっとひろげし投網のなかに 大日くるめきにけり

遊ヶ﨑は鎌倉時代、源頼朝が遊覧のおり諸将と共に宴席などを催したところからその呼び名が生まれたといわれ、白砂の美しい海岸で埋め立て以前は海水浴場となった時代もあります。

三崎港を隔てた向ヶ崎に住んだ白秋は、朝に夕に、月齢の応じた汐の干満に、詩境を展開していったのでした。

さんさんと 海に抜手を切る男 しまし目に見え昼ふかしも

海峡の自然に誘われ、その魅力に沈潜してゆく姿や遊ヶ崎に遊泳する人々の躍動に、白秋の心の描写がうかがわれます。

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諸磯湾~油壺湾めぐり。その3。磯遊び。三浦一族資料館。油壺マリンパーク閉館・キャンプパーク。三浦道寸の墓。胴網海岸。

2022-08-10 20:03:30 | 三崎口

              「荒井浜」は、この付近では一番大きなようです。

渚の中央が砂浜で、左(南)右(北)が岩場になっていて、泳ぐだけでなく、磯遊びも楽しめる場所。

                 

磯遊びを楽しむ。

    

                 向こうに見えるのは、「諸磯崎灯台」。

浜辺には、「三浦一族資料館」。

そこから海を望む。

北側の岩場。

海を望む。

さて、次の海岸へ。

                 この付近は、リアス式海岸になっていて、海岸線が入り組んでいます。

「油壺マリンパーク」が閉館になり、再開発の予定に。

・・・

マリンパークは相模湾を望む三浦半島の先端部の高台に位置し、当時は東洋一とされた大回遊水槽などを有した施設として1968年に開業。葉山御用邸(同県葉山町)にも近く、皇族が非公式に訪れることも多かったという。81年には屋内でイルカなどのショーを観覧できる施設もオープンし、近年も週末を中心ににぎわいをみせた。建て替えの議論なども浮上したものの、京急電鉄は2021年5月に老朽化などを理由に閉館を決めたという。

決定後には閉館を惜しむ客の来訪が増加。新型コロナウイルスの影響で来場者を2500人に限定しているものの、駐車場や近隣の道路が慢性的な渋滞となった。

マリンパークによると、閉館後の動物らの移送先はすべて決まっているという。利用者の写真やエピソードを車内に掲示した京急線の列車「マリンパークギャラリー号」を運行するなどして往時を振り返るほか、オンラインを活用した情報発信なども進める方針という。

(以上、「日本経済新聞」2021年9月30日)

京急油壺温泉キャンプパークオープン

京浜急行バス停留所名称を「油壺」から「油壺温泉」に名称変更

2021年9月末に閉館した京急油壺マリンパーク周辺敷地を活用したアクティビティスポット、「京急油壺温泉キャンプパーク」を2022年1月24日(月)にオープンいたします。

都心から1時間半程度でアクセスできる「京急油壺温泉キャンプパーク」は、三浦半島西側の眺望を活かし、キャンプサイトから富士山や相模湾に沈む夕日が望めるほか、モンゴルサイトでは馬を眺めながらキャンプできる非日常を体験できます。

パーク内には、BBQ、ドッグラン、ポニーとのふれあい体験などのアクティビティが充実しており、隣接するホテル京急油壺観潮荘の小網代湾を一望できるレストランや、天然温泉の露天風呂とあわせ、エリア全体で一日楽しむことができます。また、日中は入場無料で開放いたしますので、開かれた公園として気軽に散策することができます。

京急グループは、今後も「都市近郊リゾートみうらの創生」実現に向け、地域事業者等と連携を図り、エリアの活性化を行なってまいります。

(この項、「」HPより)

「京急油壺温泉キャンプパーク」。

     初代園長 末広恭雄さんの記念碑。「愛」 魚わが友 

  

「胴網海岸」へ下る途中の駐車場脇に、「新井城跡」碑。

下り坂の途中には、

「三浦道寸の墓」解説板。

新井城城主三浦道寸義同は鎌倉以来坂東武門の名族である三浦一族最後の当主となりました。三浦一族は始祖為通にはじまり鎌倉時代には北条氏とともに幕府を二分して覇権を争ったことはよく知られています。この間、和田の乱(和田義盛滅亡)宝治合戦(三浦泰村滅亡)などいく度か興亡を繰り返し、450年の後、奇しくも同じ北条を唱える伊勢新九郎(北条早雲)と戦い、戦国騒乱の世の露と消えました。

永正9年(1511)北条早雲は岡崎城(平塚市伊勢原市両市にまたぐ)から住吉城(逗子市)などにつづいて三浦氏を新井城(油壺)に攻めました。

そして日本籠城史でもまれな凄惨な攻防は3年にわたり、永正13年7月11日義同以下城兵ことごとく決戦にのぞみ、ここに、さしもの三浦氏はその歴史を閉じました。

(義同辞世の歌)

討つものも討たるるものもかわらけよ

  砕けて後はもとの土くれ  

三浦道寸の墓。 

「小網代湾 胴網海岸」。

     

                 小さな浜辺で、静かな佇まい。

          

坂道を下ったところに、「横堀海岸」。

こうして油壺巡りを終了。「油壺温泉」バス停から「三崎口駅」まで戻ります。

今度、孫達と海岸に遊びに来ようかな。

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諸磯湾~油壺湾めぐり。その2。新井城址。油壺湾。白秋文学コース。句碑。荒井浜・カメハメハ大王の渚。

2022-08-09 20:06:31 | 三崎口

せっかくですので、油壺湾めぐりを。まず「荒井浜」に向かいます。

その途中に、「新井城」空濠・土塁跡。

「新井城址」解説板。

「油壺湾」解説板。

油壺の名のいわれは、永正13年(1516)新井城(今の油壺一帯)を最後の居城として立てこもった三浦一族が北条早雲の大軍を相手に、3年間にわたって奮戦しましたが、空しくついに全滅し、一族の将三浦道寸義同をはじめその子荒次郎義意は、自刃、他の将兵も討ち死に、または油壺湾へ投身したと伝えられ、そのため湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したような状態になったので、後世「油壺」といわれるようになりました。北条五代記には、三浦一族全滅の模様を次のように記しています。

「今も七月十一日には新井の城に雲霧おおいて日の光も定かならず、丑寅の方と未申の方より雷かがやき出て両方光入り乱れ風猛火を吹き上げ光のなかに異形異類の物有りて干戈をみたし、虚空に兵馬駆け散り乱れ天地をひびかし戦う有様おそろしきと言うばかりなり云々」

穏やかな海、ヨットハーバーやレジャーで賑わう油壺にも壮絶な歴史が刻まれているのですね。

左、油壺湾を見下ろす絶好の地に、句碑と解説板。

「白秋文学コース 油壺」解説板。

油壺しんととろりとして深し
 しんととろりと底から光り

三浦一族の哀史を秘める油壺、白秋のこの一首からも一族450年の秘話を聴くことができるようです。
大正のはじめ、この先海岸にある東京大学臨海実験場には海水を汲み上げるため大風車がまわっていました。

夕焼小焼大風車のうえへをゆく

 雁が一列 鵜が三羽

油壺から諸磯みれはまんまろな

 赤い夕日がいま落つるとこ

このように油壷には、歴史と自然の深いたたづまいハイカラさが同居していました。
 自由律俳句の荻原井泉水も「旅の印象」でこの頃の油壷の風情には詩の空気がこもっているようだと書いています。
 白秋の三崎時代の短唱「眞珠抄」が、井泉水の自由律俳句に大きな衝撃を与えることになりますが、共に油壷の水の色に感動し、作品が生まれたようです。


句碑 外海は荒れゐて 月の油壺 田辺 大愚

                          ※この方は、地元の俳人。

油壺湾。

                                              

         正面・左手奥の入り江を回り込むように歩いてきました。

諸磯湾方向。

坂道を下っていくと、

荒井浜。カメハメハ大王の渚。

荒井浜海岸を望むハワイアンな海の家

日本の水浴場88選に選ばれた透明度の高い綺麗な海の前のリゾートまるでHawaii 、癒されに来てください。プライベートビーチのような海岸で、ハワイアンミュージックを聞きながら、ゆったりとした時間が流れます。穏やかな海で、釣り・シュノーケル・カヤック・パドルボート・磯遊びをしてみませんか? (当店ご利用で、カヤック・SUPパドルボート・ボート貸し出し中)家族や仲間とBBQも一年中できます! 富士山が見える絶景のサンセットを見ながらのCOFFEEもお勧めです。 三崎のマグロ、三浦の野菜や果物を使ったHawaii料理、 Hawaiiシェイブアイスもあります。

この項「」HPより)

            

  

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諸磯湾~油壺湾めぐり。その1。諸磯ヨットハーバー。MISAKI MARINE。初島・利島ヨット レース遭難の碑。

2022-08-08 20:35:45 | 三崎口

久々の京急「三崎口駅」下車。「浜諸磯」(三崎港経由)行きのバスで、「尾志倉」バス停下車。

今回は、諸磯湾から油壺湾まで歩きます。

前回よりも暑さは和らいでいる感じ。でも、暑い!

道しるべ。「関東ふれあいの道」。

         このように、けっこう入江の多い道筋です。

諸磯湾。たくさんのヨットが停泊中。

諸磯ヨットハーバー。

        沖を望む。

「SOPRA(ソプラ)」(閉業)。

すぐ「油壺湾」に。ここも大きなヨットハーバー。その脇道を進みます。

             

            「MISAKI MARINE」。

大型ヨットがズラリ。

桟橋から振り返る。

回り込むと、

         初島・利島ヨット レース遭難の碑

この小網代をスタートして

われらは進んだ 永遠のレースへ

吹きつのる風 おしよせる波

最後まで、力を尽くしてたたかった

あの水平線のかなたは われらのしとね

海を愛する人々よ。忘れないでくれ

海のきびしさ、海のやさしさ

そして、海を愛するこのわれわれを

        海の安全を祈って

          初島・利島ヨットレース遭難の碑

昭和37年11月3日夜、相模湾で行われたヨットレースで、思いがけない事がおこりました。参加した43隻の大型ヨットのうち慶應義塾大学の「ミヤ号」(乗組員4人)と早稲田大学の「早風号」(乗組員6人)が、突然の暴風のために行方不明になり、さらにほかの艇に乗っていた慶應義塾大学の一人も波にさらわれてしまいました。家族の人や両大学の友人や関係者、海上保安庁、自衛隊、そして、各地の漁協や消防署まで、大勢の人々の捜索活動が続けられましたが、ヨットは発見されませんでした。

その先の坂道を上がって行きます。

林越しの湾内。

上がり切ると、右手に駐車場があり、京急バス「油壺温泉」バス停に出ます。

観光案内版。

今回、たどったコースの概要。

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