おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR高崎駅~前橋駅。その3。両毛線。前橋刑務所。長昌寺能。前橋空襲。(「利根川を歩く。第6回目。)

2021-11-09 19:40:20 | 利根川を歩く

                  川面に水鳥がたくさん集まっています。

渡ると右手に赤煉瓦の壁が長く続きます。「前橋刑務所」。

1945年(昭和20年)8月5日、米軍の前橋空襲により被災し、刑務所職員と受刑者39名が死亡するという惨事が起こりました。

(「Googleマップ」より)

※「前橋空襲」については、後述。

その前を左折します。

「利根橋」からすぐ下流にある「両毛線」鉄橋を望む。左手が「前橋駅」方向。

その先、左手にある「長昌寺」門前の記念碑。

      

             「真田家ゆかりの寺」・「滝川一益公ゆかりの寺」

長昌寺は群馬県における能発祥の地である。その歴史は戦国時代にさかのぼる。
 天正10(1582)年武田勝頼は、織田信長・徳川家康連合軍に攻められ3月11日甲斐国(山梨県)天目山で滅ぼされた。勝頼の首は、織田・徳川連合軍の先方を務めた滝川一益から先鋒大将・織田信忠(信長の長男)を経て、信濃国(長野県)浪合に陣取っていた信長に届けられた。
 武田氏が滅ぶと、北条氏政は上野国(群馬県)を支配しようと目論んだ。これに対して信長は一益に上野国と信濃国小県・佐久二郡を与えた。そして秘蔵の脇差一腰と馬を与え関東へ入部するよう命じ、「関東管領職」に任じた。
 滝川一益はまず箕輪城(高崎市)に入り、厩橋城(前橋市)へ移った。厩橋城を拠点に上野国支配を行おうとした。一益は、厩橋城に上野国内の諸将を招き、5月に能興行を行った。自ら『玉鬘』を舞い、一益の嫡子・於長が小鼓を、岡田太郎右衛門が大鼓を打った。6月11日には長昌寺で「能組十二番書立、舞台ヲ拵、瓶ヲ十二フセ、総構ヲ大竹ニテ二重」にというふうに、本格的な能興行を行った。これが記録に残る群馬県で最初の演能である。
 馬上でとった天下は馬上で治められぬと、徳川家康は朱子学を重んじたが、一益が能を舞って見せたのは、文武兼ね備えた支配者であることを誇示したものであり、上野国の諸将(城主)は、領主として一益を受け入れた。
 「内藤大和守・小幡上総介・和田石見守・由良信濃守・長尾但馬守・安中左近・上田安徳斎・木部宮内少輔・高山遠江守・深谷左兵衛尉・成田下総守・倉賀野淡路守・(信州)真田安房守」がその配下に組み込まれた。
 ところが、天正10年6月2日明智光秀が謀反を起こし信長が倒された(本能寺の変)。18・19日、一益は上野国の諸将を従え、上野(群馬県)・武蔵(埼玉県)国境の神流川の河原で、北条氏邦を先鋒とする北条軍と対決することになった(神流川合戦)。
 滝川・北条両軍は多数の犠牲者を出したが、戦いは北条氏の勝利に終わり、一益は碓氷峠を越え、信濃国小諸を経て本国伊勢へ引き返した。
 一益は、神流川合戦に敗れて本国へ帰る際にも、上野国の諸将を厩橋城に集め酒宴を開いた。一益が能『羅生門』の一節を鼓に合わせて「武士の交り頼みある仲の酒宴かな」と謡うと、倉賀野淡路守が能『源氏供養』の一節を「名残今はと鳴く鳥の」と返した。
 滝川一益は鉄砲の名人で織田四天王として知られたが、この武将によって群馬県には能がもたらされたのであった。

(この項、「長昌寺」HPより)

また、門前の解説文「石川忠総留書」によると、

・・・長昌寺能興行の出席者の中に真田昌幸の姿もあった。その後、滝川一益の孫の一積と昌幸の五女於菊は結婚している。一積は於菊を妻に迎えている縁から、大坂夏の陣で討ち死にした真田幸村の娘あくりを養女に迎えている。

そこから「真田家ゆかりの寺」ということに。

「長昌寺能 経正」冒頭の部分(「YouTube」より)

       

              

門前には、「柿之宮」・「石川小路」解説碑。

前橋風土記に「江戸小路に長昌寺有り」と記されている。城の南部にあった石川門を出たところに造成されたのが石川小路である。この辺りを柿之宮と言い、後に紅雲分村となった。

※紅雲分村の「分」は、江戸時代、本来ある人の知行を示すのが普通であるため、「紅雲」と号する人の知行が村名になったものと考えられているのだが、記録にはそれらしい人物は見当たらない。(「Wikipedia」より)

「群馬県庁」へ向かいます。

                                                                                                               2010年代のようす。(「歴史的農業環境システム」より)

上方に県庁の高層ビル。中央に「群馬中央病院」。下方に「長昌寺」。左手が「利根川」。広い通りが「群馬大橋通り」。

※「前橋空襲」

1945年8月5日夜から6日未明にかけて、前橋市街地を襲ったアメリカ軍による空襲。92機のB29により、723トンもの焼夷弾などが投下され、1万1518戸が全半焼し、535人が死亡し、600人以上が負傷した。被災面積は全市の22%、被災戸数は全市の55%、被災人口は全市の65%に及んだ。(「Wikipedia」より)

空襲後の前橋。(「未来に残す戦争の記憶」HPより)

なお、広瀬川散策(「比刀根橋」)の際に、もう一度ふれることにします。

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