おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

常人の感性・理性とはあまりにも違いすぎ

2010-11-30 21:00:06 | つぶやき
地方選連敗「政権崩れる」=民主・小沢氏(時事通信) - goo ニュース
 このところ小沢さん。復権画策とかで積極的な言動。鳩山さんもそうだが、ご自分の置かれている状況をよくつかんでいらっしゃる、という皮肉な状況。自分たちの言動がますます菅さんと民主党を窮地に追い込んでいることを自覚しすぎ。
 小沢待望論・ご出馬を煽る連中。その筆頭の参議院議員会長殿、もうちょっとで落選しそうだったことをすっかり忘れています。今のままでは、民主党総崩れの状況。その要因が「政治と金」。そのお二人が実に元気盛んなことが、民主党の一番の悲劇。むしろ喜劇に近いか。
 菅さん。こうなったらさっさと小沢さんをすっぱと切って、自ら辞任し岡田さんあたりを首相にして衆議院解散総選挙で、民主党の起死回生を狙うしかない。小沢一派の、離党するぞという脅しに屈せずに。
 それにしても、小沢流政界立ち回り術。国民の感性からはほど遠いものがあります。だからかえって政治家稼業は、面白くて、面白くて辞められない。常人の(国民の)常識・感情・理屈を超越(無視)することで成立する業界なのかもしれません。
 「猿は木から落ちても、猿」だが、次回選挙に落ちれば、ただ以下の人になってしまう民主党の新人議員は、こうまでして小沢さんに盲従してていいのですかね。このままでは間違いなく落選!それを分かっていてもなのでしょうが。
 この業界。一度足を踏み込んだら、落ちても受かっても面白くて仕方がない世界なのでしょうね。だから公募でも何でも出たがるし、歴戦の闘士をいとも簡単に「風」とやらで落選させ、もうミニ支配者になれるのですから。右往左往させられる国民・市民がいい迷惑ですが。この程度の民意とやらなのでしょう。
 
 
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要求したり拒否したり・・・

2010-11-29 18:38:33 | つぶやき
党首討論開催折り合わず=「問責閣僚」出席で対立―与野党(時事通信) - goo ニュース
 党首討論。これまでは、閣僚が全員出席のもとで開催されていました。与党1に対して野党多数。それほど論戦が活発になるとは思えないし、成果があるとも思えない。今までも1対多数のために、野党それぞれ自己主張するので、互いに言い放しに・・・。
 それでも何とかけじめをつけさせる、特に与党・首相に対しての大事な機会だと思います。要求しておいて、今度は、二人が出席するなら開催しない、という自公。菅さんが、それなら(そのためには)では二人を更迭する、という風にはなるはずがありません。
 このところ、国会はまともな議論ができない感じ。天皇の言葉ではありませんが、もっと「国会の責務は大きい」ことを自覚して下さい、議員諸公。

 日本の議会開設120年の節目を祝う「議会開設120年記念式典」が29日午前、参議院本会議場で開かれ、天皇、皇后両陛下と秋篠宮ご夫妻が出席した。天皇陛下はおことばで「国会の時代は、57年にわたった帝国議会の時代を超えるものとなった」と振り返り、「国会が、国権の最高機関として、国の繁栄と世界の平和のため果たすべき責務はいよいよ重きを加えている」などと述べた・・・
 
 明治憲法下での議会、特に政党政治の腐敗、堕落が、結局、軍国主義を招く大きな要因となりました。すでにその年月を超えて存在する現憲法下の議会、政党政治。何とかしないと、またまた足元をすくわれてしまいます。
 
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今時の結婚披露宴

2010-11-28 20:53:39 | つぶやき
 久々に縁があって、結婚披露宴に出席しました。略礼服に身を包み、最近は葬式続きで黒のネクタイばかり。今日は久々の白ネクタイ。東京メトロ・江戸川橋駅から坂道をあえぎあえぎ上り詰めた椿山荘。ここも久々。なかなか由緒ある会場ですね。
 それなりのご祝儀を用意して(後で聞いたら他の人間も同額だった。一安心)、年寄りは身内の方々と小生ぐらい。あとは若い方々ばかり。着物姿もほとんどなくて、たしかに明るく華やかな宴の世界。でも、開宴が12時半でなんと4時まで。実に大ロングランの宴席でした。ま、結婚披露宴だから許されますか。
 乾杯の発声が、小さな子ども。ここから意外な展開が待っていました。主賓が両者の恩師。インタビューであれこれ。先生というのは、もともと大の話し好き。長いこと、長いこと。もう流れを全然読まないで話していました。
 それからは、食事タイム。適当に飲んで話して、おいしい食事を食べて・・・。
 そして、余興タイム。高校時代の友人やらお互いに関係者が出てきて、お祝いの言葉や歌の披露。そして、ビデオで結婚式の風景。教会のようでしたが、それも実にアットホームで和気藹々な内容。この辺りからどうも年寄りにはついて行けなくなりました。
 新郎の高校時代の先輩が挨拶に出てからは、もうはちゃめちゃ。なにしろ、よく見ると、新郎の脇にはパソコン。映像一切を彼が操作しているのです。高校時代の怪しげな組織の活動を写真を交えて紹介。いったい何なの?
 司会者はクリスチャンで、開式の言葉で「アーメン」を唱え(閉式の時にも)、当人は右翼の活動家? もうこの辺りで、出席者の氏素性がほとんど不明確。
 おきまりの子どもの頃から今までの生育歴と出会いのスライド。ま、よくあるパターン。ちょっとくどいくらいでしたが。またまた新郎新婦交えての歌があり、踊りがあり・・・。デザートも出て、コーヒーも飲んで、引き出物も頂いてではそろそろお開きかと思いきやここからまた長かった!まだ挨拶やら歌やら・・・。
 またまた子どもの頃からのスライドが出てきて(さっきと重複、重複!)やっと両親と並んで挨拶ということに。新郎の挨拶もユニーク。どうもまだ正業に就いていない。弟もそんな感じ(3兄弟で一人だけが正社員)。それを延々と、堂々と言ってのけた。新郎側の父、すかさず「育て方を間違えました」と。花嫁側の両親は眼が点になってしまい、うつむいたまま。
 最後はハグ。新郎の父はその時は大感激。・・・。「アーメン」だとか。
 会場の外は、すばらしい庭園。そこかしこで、団欒や記念撮影が繰り広げられていました。我々は、さっさと高田馬場駅近くの2次会に。相乗りのタクシーで途中、都内一番の急坂「目白坂」を下って行きました。
椿山荘は、でも素敵です。
 
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現在・497㍍、スカイツリー

2010-11-27 20:44:30 | つぶやき
 スカイツリーもいよいよ500㍍の大台間近。クレーンが地上から大きな構造物を持ち上げています。第二展望台もその輪郭を現し、その上の部分も立ち上がって見えてきました。今日もたくさんの見物客で、歩道一杯です。曳舟には、「イトヨ」が新しく完成、グランドオープンとか。ここも人が一杯。自転車があふれています。業平、押上から曳舟と下町も一大変貌の時を迎えています。
源森橋からのスカイツリー。北十間川と東武線と。
直下(といっても線路をはさんで反対側)見上げているとすぐ首が痛くなるほどの高さ。
駒形橋西詰からのスカイツリー。
曳舟川通りからのスカイツリー。曳舟川が流れていた頃からのものと思われる家並みが残っている。
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呑川・緑が丘駅付近

2010-11-25 22:15:26 | つぶやき
呑川(のみかわ、のみがわ)東京都を流れる二級河川。
東京都世田谷区桜新町の東急田園都市線桜新町駅付近を水源とし、世田谷区深沢、目黒区八雲、東急東横線都立大学駅付近(目黒区中根付近)、東急大井町線緑が丘駅及び東急目黒線大岡山駅付近(東京工業大学付近)、大田区石川町、雪ヶ谷、久が原、池上、蒲田を流れ、糀谷を抜けて東京湾に注ぐ。
支流の一つとしては、世田谷区奥沢の浄真寺(九品仏)付近を水源として東急東横線自由が丘駅南口付近を通り東急大井町線緑が丘駅付近(東京工業大学付近)で合流する九品仏川がある。
 いずれも全区間暗渠化され、緑道になっている。また本流も世田谷区深沢から目黒区大岡山の東京工業大学付近までは暗渠化されているが、東京工業大学付近では、「清流復活事業」として、東京都下水道局の落合水再生センターから高度処理水が流されている。
 下流は、大田区東蒲田付近で新呑川になっている。洪水や氾濫を防ぐために直線化した新呑川(呑川)は、羽田空港との間の海老取川に注ぎ込んでいる。
 今回は、この呑川の中流付近、東急大井町線の「緑が丘」駅付近を訪ねました。一つ手前の駅は、大岡山駅。この両駅にまたがって東京工業大学のキャンパスが広がっています。緑道公園としてよく整備され、特に目黒区立十一中と東京工業大学の間にある公園は、両側の緑の木々が色とりどりに色づき、初冬の光の中で穏やかな散歩道でした。
 緑が丘駅近く、九品仏川の緑道は桜の古木の並木道になっていました。
自然なカーブがかつての川筋を想像させる。
保育園児達の散歩。明るいイメージの公園になっている。
緑が丘駅付近。ここから高度処理水が流されている。
かつては、左手から九品仏川が流れ込んでいた。現在は舗装された道路。
九品仏川緑道の桜の古木。
元の九品仏川。現在は緑道。細く曲がっている川だった。
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仙川、五中むら

2010-11-24 23:15:59 | つぶやき
 仙川。東京都小金井市貫井北町三丁目の新小金井街道直下が「上端」と定められている。源流域からおおむね東に向かい、ふだんは水の流れない水路として市街地を曲がりながら武蔵野市に入る。亜細亜大学や桜堤団地の近くを流れ、南に向きを変え、武蔵境駅の少し東でJR中央本線の下をくぐり、市街地を曲がりながら抜けてゆく。このあたりはふだん流れのない状態。
 三鷹市に入り、しばらく行くと野川宿橋の所から川幅が広がり、ここで地下から汲み上げた水を放流する。ここが現在、確立された最初の水源。
 少しずつ蛇行しながらおおむね南東方向に流れてゆき、調布市に入る。少し下流で再び三鷹市の境界に触れるが、そこで三鷹市東部下水処理場の高度処理水が放流される。
 水量もある程度のものになったところで国道20号や旧甲州街道と交差し、世田谷区に入る。京王電鉄京王線と交差し、両岸に祖師谷公園を見て通り抜け、成城に達して成城学園の横を流れる。小田急小田原線をくぐり、成城の東を流れ、世田谷通りと交差して大蔵住宅の横を流れ東名高速と交差する。世田谷区鎌田で北西から流れ来る野川に合流する。
 今回、仙川にちなんだ京王線「仙川駅」から上流。中央自動車道の三鷹料金所直下あたりまで歩いてみました。
 がっしりとした石組みの堤防の下にきれいな流れが。ところどころ、鯉が泳いでいたり、カルガモの姿もちらほら。ただ水面に下りることは出来ません。もともとはもっと流れも細く、生活用水が流れ込んで汚い川だったようですが、下水道施設の完備(三鷹市は下水道普及100%になったのが日本で最初だったとか)などにより汚水が流れ込まなくなった。それにしてもきれいな澄んだ流れ。それは三鷹市東部下水処理施設できれいにされた水が、放水されているためのようです。
 さらに上流。中央高速の橋桁が見え始める。そこから左折すると、三鷹市立五中。ここの校舎建設のときに、大量の縄文時代からの土器、竪穴式住居あとなどが発掘されました。今、体育館の建設工事が始まっていますが、ここにも大量の土器が発掘されました。
 このように、三鷹には井の頭池遺跡群をはじめ、野川・仙川の流れに沿って数多くの遺跡があり、古代から湧水に恵まれた土地に人々が生活しており、旧石器時代から中世まで幅広い時代の遺跡が出土しているのです。ちょっと見学させてもらいましたが、もう夕方。また今度じっくりということで失礼しました。
はるか眼の下に流れていますが、よく石組みを見ると、中段辺りが黒ずんでいます。この辺りまで流れが増すことがあるのか?
下水処理場からの放水口。
その上流。植生が変わっています。
より自然な感じが。
カルガモの姿がちらほら。
五中のそば。このあたり、サーキットみたいなコースが昭和三〇年代後半の航空写真に写っている。いったいどういう施設だったのか?
三鷹五中のグランド。左手の校舎建設の際、縄文時代の遺跡が発掘された。
発掘当時のようす(模型)。右手には、その時の土器がたくさん展示されている。
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宇宙人健在。それにしても菅さんいったいどうしたの?

2010-11-22 20:10:39 | つぶやき
「菅さんは何をしたいの?」鳩山氏、政権に疑問(読売新聞) - goo ニュース
 鳩ぽっぽさん。迷走したあげく、何の成果もなく、かえって政治を混乱させ政権を放り出した方がよく言うよ、というのが率直な感想。
 と仮に識者が言ったって、何の痛痒も感じないのが、この方。自らが、国民の昨夏の民主党政権への期待から、今の無惨な失望へと落とした張本人なのにね。
 それにしても、菅さん。こうなったら、「民主党や既成政党をぶっつぶす」と、議員定数の大幅削減や公務員給与の削減、天下り根絶、企業献金NO!大幅減税など破れかぶれの政策を打ち出して、怒り狂ってもいいから打って出るしかない。
 民主党内で猛反対が出るに決まっているから、その時、衆院解散をた直ちに断行、という大胆不敵な面構え、気力を見せた政策を発表して欲しいが。もう首相の地位にこだわっていてはいけないと。
 でも、そんな気はさらさらありませんな、菅さんには。一介のサラリーマンが、苦節何十年やっと射止めた社長の座だ。この程度の御仁だから、産経グループにぼろくそに言われるのだ。
 なにしろ、小沢さんにもけじめをつけさせることができない。かといって、小沢さんに味方するわけでもない。こうして優柔不断では、実に「有言不実行」そのものですから。
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西新宿・十二社

2010-11-21 21:08:45 | つぶやき
 新宿西口の新都心地区の新宿中央公園に接して熊野神社があります。この神社の南西一帯は、かつては「十二社(じゅうにそう)」という町名でした。その名は熊野神社が紀州熊野の十二所の神々を勧請したことに由来しています。ここには大小二つの池と滝がありました。その池の周辺は、戦後、昭和三十年代頃まで、いわゆる「花街」として賑わいました。この二つの池。江戸時代の初期、慶長11年(1606)、湧水をせきとめて田畑の用水溜として開発したもの。新宿中央公園の西側を南北に通る十二社通りの西側、北側に開ける深い谷の底にありました。
 明治以降、池の周囲には、大きな料亭ができ、花柳界として知られるようになり、最盛期には料亭・茶屋が並び、芸者置屋も出来て、ボート・屋形船・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われました。
 一帯は、1924(大正13)年には二業地(料理屋、芸者置屋)、1927(昭和2)年には三業地(二業地+待合)として指定されました。
 花街は戦争末期の経済統制と東京の空襲で一旦消滅し、戦後、再度復興。戦前ほどの規模ではないが1950年代には、戦後の最盛期を迎えました。1958(昭和33)年には、「十二社温泉」がオープン。
 その頃をピークに料亭、待ち合いは減少。淀橋浄水場の廃止と副都心の開発、近辺の宅地化などによって大きく変化、弁天池北側の十二社通りに面した一角も、水質の悪化から1968(昭和43)年に埋めたてられました。花街も1980年代半ばには消滅、2009年(平成21)年には十二社温泉も閉館しました。
 ほんの少しの時間。かつての池の辺りを歩いてみました。新宿副都心の何棟もの高層ビル群、新宿中央公園、十二社通り。それを西に入ると、ビルの谷間に埋もれたようにかつての面影が残っていました。
十二社通りから一本西の道路。池の西縁に当たる。
十二社通りから谷を東西に横切る道を望む。池の底の部分。
この辺りには、古い街並みが残っている。
ニューシティホテルのはす向かいには、かつての料亭・旅館風の建物が。


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豊田・多摩平

2010-11-16 21:56:01 | つぶやき
 JR中央線・豊田駅の北口に広がっているのが、多摩平団地。大きな団地。もうかなり老朽化して、建て替え工事が進められている。すでに完成して高層になった建物がある。一方で、あちこちで整地された場所が。
 すっかり人気のない4階建ての建物群。後は解体をまつのみ?ケヤキなどの大きな木々がぽつんぽつんと敷地内に残されている。かつての賑わいは果たして取り戻せるのか。駅前から団地に続くアーケード商店街。30年以上の店舗群。「閉店」の張り紙が、そこここに。人通りもそれほどない。新しくここも建て直されるのだろうか。
 立川から二つ先で、都心に出るのにも便利だ。団地以外は、大きなマンションやしゃれた一戸建ての家が目立つ。けっこう高そう。改築された公団も、高い家賃でもと住んでいた人も住めなくなるのではと、余計な心配をしてしまう。
 この多摩平団地。ちょっとした高台に建っている。南側。JRの線路に向かって丘陵地帯が広がって、武蔵野の雑木林の散策路が整備されている。落ち葉がびっしりと敷き詰められ、あざやかな黄色に覆われたイチョウが美しい。自動車が行き交う道路から右に入ると、閑かな道になって、武蔵野の秋を感じる。
 雨が降ってきそうな夕暮れ時、ちょっと足を踏み入れた。せせらぎの音も聞こえて、つかの間の静寂。外国人の親子が四阿のところで水辺を見つめている。都心からそれほど遠くないところにこんな素敵な自然が残されているとは思いもよらなかった。
一面の落ち葉。
遊歩道。
鮮やかに色づいたイチョウ。
清流に泳ぐ鯉。流れの向かい側にはワサビ田がありました。
閑散とした商店街。
「閉店」の張り紙のあるお店。
 残された武蔵野の自然とうまく調和しながら、再び活気あふれる街になることを。
 
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政党政治への不信感が社会不安を煽る

2010-11-15 21:32:46 | つぶやき
 ちょっと気になる記事がありましたので。私もほぼ同意見です。

 政府ないし国家は、人間社会の持つ暴力装置を一手に収め、それを排他的に行使すべきものです。だから、犯罪者を逮捕し、裁きに掛け、死刑執行することもできるのです(死刑廃止論に異論を唱えているのではなく、統治理論の一般論です)。
 その行使を恣意的にさせないために、民主国家は多段階の制御装置を整備してきました。末端の暴力装置が自分勝手に動かないように、シビリアンコントロール(文民統制)は貫徹されていなければなりません。「何が正しいか」を決定するのは文民であり、暴力装置自身ではないのです。これが大原則です。
 国家が所管する暴力装置の最たるものが、警察機能であり、国防機能です。要するに警察と軍です。だから独裁者はこれを掌握しようとします。
 海上保安庁もこの領域に入り、那覇地検などの検察もこの領域に入ります。今回の情報流出経路は、どうやらこの二方面のどちらかと思われます。これは、暴力装置の現場がシビリアンコントロールから離れて独自の判断で動き始めた可能性があるということであり、その象徴的な端緒となるでしょう。
 ワタシはこれを、戦前の青年将校の暴走、五・一五事件の現代版だと考えています。そして、青年将校の行状を、当時の一般国民は讃えた。助命嘆願運動も起こりました。
 その行動は、どうしようもない政治を打破しようとした、止むに止まれぬ行動だったからです。
 当時、世界恐慌から3年目、東北では困窮のあまり、娘を人買いに売りに出す家も出るなど、社会の歪みと民衆の困窮は眼を覆うばかりでした。それに対して政治家は庶民を顧みることなく利権に明け暮れ、不況対策を旗印に登壇した犬養毅政権は満足な成果を得られず、こうした不満が青年将校の英断に支持を与えたのでしょう。
 あれあれ。今の政治情勢に似ていませんか?
 戦前の日本は、このあと議会政治が崩壊し、軍部独裁体制に傾斜し、太平洋戦争を仕掛けたものの中国そして南洋の戦線で兵站が延びきり、各所で戦線が崩壊した挙げ句、東京大空襲、ヒロシマ・ナガサキの原爆投下と、一直線に崩壊の道を辿りました。
 また、同じ道を辿りますか? それとも、別の道を探しましょうか。

「情報クーデター」で存在価値が失墜した民主党・尖閣ビデオ流出問題を考える
(11/10・オルタナティブ政治経済研究所)「日経ビジネスオンライン」より。
 
 ビデオ流出事件(事件性があるか疑問だが)。自民党政権下だったら、どう対応したか。民主党を攻める自民党も、自らが政権を担っていたらどう判断しただろうか。自民党内でもてんやわんやになっていたに違いない。そのことを抜きにして民主党攻撃をしてればいいのだから、野党も気楽なものだ。もっとも野党時代の民主党もそうであったのだが。
 自公政権下では中国もあそこまではしなかった、という見方もあるようだ。鳩山の普天間を巡るありえない迷走が、日米、日中、日ロ、と立て続けにガチンコのぶつかり合いになったことに。(鳩山には、何の反省もない!)
 国会議員は、誰も選挙の勝ち負けだけが、自らの頭と行動の視点でしかない。国民生活のことや外交。「票」につながるかどうか、どうしたら相手を一票でも上回れるか、その利害得失で勝手に発言し、行動し、国の方向性などを考える、などみじんもない。
 もともと民主党。自分の議席獲得のためにできた政党。いわば、選挙互助寄り合い団体。「政権交代」というスローガンが、見事、有権者の心をつかんで実現した。そう言えば、あのスローガン。政権交代の文字の後には、「。」がついていた。つまり、政権交代が実現すれば、それで終わり。今の状況を見据えていたかのような・・・。
 でも、これによって、長びく経済不況、国民生活の不安、疲弊しきった国民が喝采をするのは何か? 
 数年前、一部の青年からガラガラポンになるはずとの虚しい希望の元での「戦争待望論」が叫ばれたが、時代状況は、ますます昭和10年代に似てきているようだ。今こそ、政治(家)の真価が試される時なのに、いまだ党利党略に明け暮れる国会議員諸公は、自らの足元が崩れていることに全く気づこうとしない。そこにつけ込もうとするのは、いったい、どういう主義主張を持つ人間達なのか。
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境港・水木しげるロード

2010-11-14 21:42:39 | つかのまの旅人
 鳥取の米子市でお葬式がありました。東京から朝一番の飛行機で出かけ、帰りは3時過ぎにとの目論見もはずれ、結局夜8時の飛行機で帰ってきました。
 知人と少しばかり飲んで、あとは境港に向かいました。水木しげる関連。この前、調布の深大寺に行ったときも、NHKのテレビ小説「げげの女房」関連。奇しくも、関連二箇所を見物したわけです。
 米子から境港まで。各駅停車の気動車も、鬼太郎が正面に大きく描かれ、車内もすっかり鬼太郎・妖怪一色。停まる駅も駅名の下には、妖怪名が・・・。徹底したあやかりぶりでした。
 降り立つともうすっかり水木しげるの世界。メインストリートには、いろんな妖怪のブロンズ像。妖怪神社まで。そして「水木しげる記念館」。お土産もすっかり水木ワールド。
 少しずつ日が西に傾く中、けっこう人も出ていました。帰りは、米子空港駅まで。学校帰りの高校生男女がたくさん乗り込んで来て、混んでいました。駅に停まると、ボタンを押してドアを開けます。戸惑っていると、高校生がボタンを押して開けてくれました。
 空港駅で降りたのは自分一人。無人駅。空港までのロードを一人で歩いて行きました。それから、飛び立つまで、まだまだ長い時間を費やしました。
 そうそう、JR線でしたが、「PASMO」が使えないことが分かりました。駅員に尋ねたら、軽く、使えませんね!の一言でした。
米子~境港
こんな具合になっています。

Nekomusume
駅前の水木しげるさんの像。
お土産の下駄。
広場にはあやしげな煙が吹き出して
コロボックル
交番も。灯りは目玉。
きたろうまぐろらーめん?
港を照らす夕日。
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11月7日のスカイツリー

2010-11-11 23:56:24 | つぶやき
 久々のスカイツリー。このところ、お日様があるころに近くに行くこともなかったので。相変わらず押上駅付近も業平橋駅付近も北十間川にも見物客が一杯でした。クビをあげて、ついでに口もあんぐり。高いところを見上げるときには、どうして口も一緒に開いてしまうのでしょうね。写真は、本所吾妻橋のアサヒビール本社窓に映るスカイツリー。金色のガラス壁面にちょっぴりスマートな姿が映っています。
三つ目通り・源森橋付近からの偉容。秋空に映えています。
街並みの中に存在感を示す。
何となく模型のように見える。
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用賀・砧公園

2010-11-10 21:20:07 | つぶやき
 東名高速から首都高にはいるところ、用賀インターから料金所まで。左手に深い森を見ながら走ります。首都高が混んでいると、ここで下りて環八を行くかどうか迷う。右か左か車線変更をしないと・・・。
 いつもそうして左を見ると森が続いています。そこに行ってきました。環八の西側に広がる砧公園。かつてはこのあたり、田んばが広がる米どころ。畑もあって近郊農村地帯。昭和30年代まではそんなようすだったでしょうか。
 それが東京オリンピックに合わせて、首都高ができ、東名高速ができ、大変貌を遂げました。環八は少し後になりますが。
 公園の南のはずれに塚があります。昭和20年頃にはこんもりした高台状になっていましたが、東名の完成と共に少し北側に移転したとか。すり減っていて、ただの土盛りという感じでした。ちょっと期待はずれ。というか、ほとんど注目されていないようででした。
 公園には世田谷美術館があります。広々として開放的な雰囲気の公園。小春日和の中、のんびりと散策する親子連れ。学校も代休なのでしょうか、小学生の子供達の姿も見かけました。ブランコの側では、何やらブライダル撮影。車いすに腰掛けた花嫁と寄り添う花婿。ブランコに興ずる親子。どういうシチュエーションなのでしょうか。演劇の宣伝パンフ用?
 風船とばしに笑い声が飛ぶ。暇そうな老人達がベンチに腰掛けて団欒。芝生では一人の女性がヨガのようなポーズを。どこからともなくサックスの練習音が・・・。
 公園まで導く元用水路には、歩道に「百人一首」がモニュメントとしてはめ込まれています。それを辿れば自然と美術館につながっていくという趣向。
 駅前は、オフィスビルがあって、近代的な気配でした。
 写真は、「砧大塚」。古墳ではなくて、鎌倉から室町にかけて築造された「修法の壇」(仏教の呪詛を行った場所)とのことでした。
一見、たんなる禿げ土の山?
のどかな昼前のひととき。
公園の一角には、バラ園。
よく整備された遊歩道。
渋滞の環八もこんな時もあります。車が一台も目に入らない!
それも一瞬。相変わらずの車の量。大型車が地響きを立てて、目の前をすり抜けていきました。
 
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武蔵府中熊野神社古墳

2010-11-09 21:51:10 | 歴史・痕跡
 JR南武線・西府駅。駅前はまだ開発中。南口は少し先に「NEC」の大きな工場があって、湧水散策路なども整備され、マンションなどもできています。北口は、まだまだ空き地が広がってこれからというところ。
 その北口から北西の方角に歩いて約8分。旧甲州街道を渡った場所に、国史跡「武蔵府中熊野神社古墳」があります。こう言っては失礼だが、街道側から見ると、何の変哲もない神社。熊野神社もあちこちによくある社。社殿も含めてまだ整備中の感じ。角には、資料館を建設中なので、これができればもっと目立つことになるだろう。
 まさかこの社の北側の、それまで雑木林のこんもりした塚が、国史跡として指定されるほどの価値が高い古墳だ、とは地元の方々も承知していただろうか。
 もともとこの付近、武蔵国府跡が旧甲州街道を東に向かうと存在しているなど、古代から発展していた地域。多摩川の河岸段丘上に人々が生活を営み、一大勢力を誇っていた。この古墳は古墳時代の終わり、7世紀中頃から後半に築造された。武蔵地域を代表する豪族の墓と想定されている。上円下方墳。一段目と二段目が正方形。三段目が円形。全面が多摩川の河原石で覆われている。
 この形式の墳墓としては最も大きく、かつ古い時期の可能性が高く、武蔵地域では最大級のもの。2005(平成17)年7月に国史跡に指定され、最近、築造当時の姿に近い形で復元された。
 先日、小春日の中、のどかな住宅街の間を通ってやって来ました。まだまだかつての農村風景を残した地域。建て売り住宅もチラホラあり
ますが、庭木にはミカンやゆず、柿、カリンなど冬に実のなる木々が植えられていて、素敵な散歩道でもありました。 
入り口の看板
側面からの墳墓
多摩川の河原石が敷き詰められている。
裏手からみたもの。

ミカンがたわわに実をつけています。
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左内坂(JR「市ヶ谷」から大江戸線「牛込神楽坂」まで)

2010-11-08 20:29:02 | つぶやき
 週末、JR中央線・市ヶ谷駅から都営大江戸線・牛込神楽坂駅まで歩きました。これまで、市ヶ谷駅に降り立った記憶がありません。外堀通りを渡って北西の方向に。目の前にけっこう急な坂があります。これが「左内坂」。この坂は江戸時代初期に周辺の土地とともに開発されたもので、 開発名主島田左内の名に因み左内坂と呼ばれるようになった。島田家はその後明治時代まで名主をつとめ、代々島田左内を名乗ったということです。
 この坂、見上げるとなかなかの坂。暑い日には汗をかきつつ、雪道にでもなったらすべりそうな坂道。ちょっと息が切れるといったら少し大げさですが。写真は、その坂の途中から外堀方向を見たところ。自転車が一気に下っていくかたわら、年寄りはうつむき気味に上っていきます。坂の途中には、江上料理学校。江上トミさんでしたか、創設者は。この坂にちなんだご当地ビールも売っているとか。
 左にカーブしていくと自衛隊市ヶ谷駐屯地の裏手に出ます。三島由紀夫が演説、その後、割腹自殺したバルコニーのあった建物はずっと西の方に当たります。また、かつての日本育英会(現在は独立行政法人)のビルやJICAの建物もあります。
 「防衛庁」と掲げられた大きな門(別名「左内門」)を左手に見て曲がっていく、その先、少し下った付近。目の前には、大日本印刷の広大な敷地が広がっています。本社、工場と坂道の多い地形の中で、偉容を誇っています。大きな建築工事も行われていて、完成すれば、この辺りの景観もずいぶんと変わっていくことでしょう。
 坂道が多く、道も曲がっていて狭い!ひっきりなしにトラックやら乗用車が建物から出てきて、歩いている危ないくらい、歩道すらありませんので。ここまで来ると、何となく台地上の感じ。新宿区でも昔ながらの町名がこの辺にはそのまま残っています。
 納戸町。細工町。加賀町。鷹匠町。甲良町。箪笥町。二十騎町。山代町。横寺町。矢来町。狭い地域にたくさんの町名があります。上に市ヶ谷とか牛込とかつくこともありますが。それぞれ曰く因縁があって、その解説と案内板が置かれていました。
 また、新宿区立牛込三中は、かつての東京府立四中があったところ。現在も名門の都立戸山高校です。ちなみに府立一中は現在の日比谷高校。二中は、立川高校。三中は、両国高校です。それぞれ今でも伝統校です。
 大久保通りに出ると、そこに、都営地下鉄大江戸線の「牛込神楽坂」駅。箪笥町に所属しているようです。
 坂道と古い地名と近代的なビル、むかしながらの町家・・・。変化に富んだところでした。 
ご当地ビール。「上り坂の時もある。下り坂の時もある。」とありました。
坂道を登り切ったあたり。
左手奥に広がっているのが、大日本印刷。
いろんな町名が記されている。
町名の由来。
府立四中の記念碑。
「二十騎町一番地」の標識。
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