おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「姉ヶ崎」駅~「木更津」駅。その1。海岸線の今昔。(「房総往還」をゆく。第4日目)

2020-02-28 19:48:59 | 房総往還
                   「房総往還」歩きの第4日目。
「姉崎陣屋」「鶴牧陣屋」跡、藩校跡(「姉崎小学校」に)など、姉ヶ崎には鶴牧藩の遺構があるようですが、ちょっと分からず。そのまま南に向かいます。
注:「陣屋」=江戸時代に城を持つことを許されなかった小藩主の居所のこと。

左手に大きな洋館。

                 

車がけっこう頻繁に通過する街道歩きとなります。トタン囲いの蔵が。

右手に内房線の鉄橋。その向こうに工業地帯。

梅の木が庭先に。

しばらく進むと、八坂神社。裏山は「椎津城」があったところ。

右側の「瑞安寺」門前の道しるべ。
                      
「百番札所」。
「是よりちばてら四里八町 たかくら四里」。(文政元年(1818)の 銘文)。
なお、境内にはもうひとつ道標があるようです。天保2年(1831)。 銘文は「 右 きさらづ まくた 左 たかくらみち」とのこと。

「セブンイレブン」で買い物。来た道を振り返る。

「内房線」沿いに進みます。かつては線路付近が海岸線だったようです。


                   

この付近の今昔。


1880年代のようす。街道は、海沿いの海岸段丘の縁を進む。



2010年代のようす。海側が工業地帯として埋め立てられている。

(「今昔マップ」より)

足元にスイセン。

左側の崖を切り取ったような道が続く。日差しが届かない。

右側は明るく開けた世界が広がる。

じめじめした道。「スリップ注意」の看板。崖からは地下水が流れ落ちている。

            線路側には歩行する幅がなく、少し広い、こちら側を歩くしかありません。

「内房線」の電車がけっこうひっきりなしに通過。

 旧道は、もう少し西側の鉄道線路寄り(あるいは線路そのもの)だったような感じです。

今度は「落石注意」の看板。袖ケ浦市に入ります。

左手上空に、飛行機が。中古車の買取・販売のお店「ハリーランド」(クルマノフリーマーケット)。
 

街道はこのお店の敷地内を通り抜けるように屈折していたようです。○の部分。


1880年代のようす。


2010年代のようす。


同。

 線路の向こう側、「湾岸道路」(国道16号線)との間に、りっぱなおうちが。


                 踏切もあり。
かつてから存在したおうちなのでしょうか?

1880年代のようす。

2010年代のようす。線路の敷設、道路整備で移転した?

左手が開けてきます。奥の山際に旧道? 

菜の花。

クレソン? 

竹林。

歩道も復活します。左手に「亀寿し旅館」。
                            頭上の高架橋は、右手の「湾岸道路」とのインターに通じる道路。
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JR「蘇我」駅~「姉ヶ崎」駅。その6。「二子塚古墳」。「姉崎だいこん」。(「房総往還」をゆく。第3日目。)

2020-02-26 18:26:50 | 房総往還
               旧道らしい雰囲気もつかの間。橋梁工事中で迂回することに。
迂回路から振り返る。

右にカーブして先ほどの道に合流。

その手前のおうち。石造りの庭がすてき。

いまはやりの食パン専門店。

「弥塩道」。
少しお店もあって賑やかな通りになります。
「白塚」交差点を左折し、踏切を越える。

                     

線路に沿って右に進みます。

「五井」方向を望む。

線路沿いの旧道。向こう奥に工場群。

来た道を振り返る。「内房線」の電車。

しばらく行くと、再び県道に合流。

「馬頭観音」。「房州道 木更津・・・」と刻まれているそうですが。

側溝・水路の上を行く。

道路脇に「スイセン」。

右手には「内房線」。

お城のような造りの人形店「鯉徳」。

その先を左折し、しばらく進むと、「(姉崎)二子塚古墳」があります。


 


 形状は前方後円墳。姉崎古墳群を構成する古墳の1つ。千葉県指定史跡に指定され(指定名称は「二子塚古墳」)、出土品の石枕は国の重要文化財に指定されている。
概要
 養老川下流左岸、標高5メートル前後の砂堤上に築造された大型前方後円墳である。姉崎地域では大型前方後円墳数基を含む姉崎古墳群の築造が知られ、本古墳はそのうちの1基になる。周辺では宅地化が進み、東側の墳丘・周溝は良好に遺存するが、西側は宅地化により一部改変を受けている。これまでに数次の発掘調査が実施されている。
 墳形は前方後円形で、前方部を南西方に向ける。墳丘は3段築成で、墳丘長は現存103メートル(推定復原110メートル)。墳丘表面では中段・下段で円筒埴輪列が認められており、墳頂部でもその存在が推測される。また墳丘周囲には盾形周溝が巡らされている。主体部の埋葬施設は、後円部・前方部に1基ずつの計2基が存在したと推定される。1947年(昭和22年)の発掘当時に棺・槨等は認められなかったことから、いずれも木棺直葬と見られる。後円部・前方部それぞれの主体部周辺からは、石枕(国の重要文化財)を始めとする多くの副葬品が発見されており、その多くは現在では國學院大學博物館に所蔵されている。
 この姉崎二子塚古墳は、出土品等から古墳時代中期の5世紀前半-中頃の築造と推定される。周辺では群集墳が認められ、二子塚古墳はそれらの盟主的位置づけとされる。また、二子塚古墳含む姉崎古墳群は『先代旧事本紀』「国造本紀」に見える上海上国造の首長墓群と想定されており、本古墳もその1つとされる。なお姉崎古墳群では、この二子塚古墳のほかに古墳時代中期の前方後円墳は知られていない。
(以上、「Wikipedia」参照)

 前方後円墳は、山が二つ並んだ形の丘や小山にみえることから二子塚(双子塚)とよばれることが多く、全国には二子塚(双子塚)と呼ばれる前方後円墳が数多く存在している。この二子塚古墳は姉崎古墳群の一つで、標高約5mの砂堤上に立地しており、全長114m、後円部径62mをである。墳丘は3段築成で、中段・下段に円筒埴輪列が巡っていた。
 昭和20年(1945)に松根採取の際、偶然遺物が出土したことを契機に、昭和22年(1947)に国学院大学によって発掘調査が行われた。その結果、後円部からは、鏡・玉類、直刀・鉄鉾・甲冑などの破片、立花などの滑石製品が、前方部からは、直刀・長型耳飾り・勾玉が出土している。また、昭和20年(1945)の出土遺物には、石枕・鉄鉾・鉄鏃・甲の破片・轡(馬具)がある。石枕は、黒色を呈した滑石製で、全体に極めて丁寧に研磨されていて、県内出土の石枕中最も精巧なつくりのものである。側面には3段にわたって直弧文(日本の古墳時代だけにみられる独特の文様)が施され、まわりには立花が立ち並べられるものである。
 古墳の規模や副葬品の内容からみて、二子塚古墳は養老川流域の古墳時代中期前半(5世紀前葉)を代表する古墳である。

(この項、「千葉県」公式HPより)

 墳丘の上まで上ってみようと思いましたが、立入禁止のようで、断念。


                          

二子塚古墳は姉崎古墳群の一つ。

周囲にはすぐそばまで家が。

県道に戻り、「マツモトキヨシ」の先を左折し、旧道へ。

          

すぐに県道に合流し、「姉ヶ崎」駅方向へ。

来た道を振り返る。



今回はここまで。「姉ヶ崎」駅へ。

世界に誇る姉崎だいこん」。

先日、TVで紹介されたようです。
《マナブ!旬の産地ごはん
姉崎だいこん》

今回は千葉県市原市姉崎の農家15軒で生産される「姉崎だいこん」を、紹介していく。水分が多く、甘味が特徴のこの大根は、台風の被害を受けたが種を蒔き直して収穫の時期をむかえていた。相葉さん達は姉崎だいこんを皮のまま食べ、梨のようだとコメントしていた。

大根農家の奥様方が、姉崎大根を使ったオススメ料理を教えてくれた。相葉さんは「大根のチーズ照り焼き」を、泉水さんから教えてもらった。まず、大根は真ん中部分を1cmの輪切りにし、ごま油を引いて焼いていく。大根の両面に焼き色がついたら、中火で蒸し焼きにしていく。醤油、砂糖、チーズを大根にかけて30秒ほど待って完成した。

相葉さんは「大根のバター炒め丼」の作り方を、泉水さんから教えてもらった。まず、大根の皮を剥いて少し大きめに切る。そしてオリーブオイルをひいて焼き目がつくまで大根を炒め、牛肉やぶなしめじを投入する。酒や醤油などを入れ、5分ほど蒸し焼きにしてバターを全体になじませて完成した。

相葉さんは失敗しないという「ブリ大根」を作っていった。大根は皮の下にある筋を取り除くよう、厚目にむいていった。そして、むいた大根は米の研ぎ汁で20分下茹でする。ブリは片栗粉をつけて両面焼きにし、下茹でした大根を入れる。そこにみりんや醤油、味噌などの調味料を入れて落し蓋をする。10分ほど煮込んでブリ大根は完成した。

相葉さんは大根の皮のきんぴらをつくっていった。先ほど、むいた大根の皮を約5mm幅に切ってごま油で鶏肉を炒めていった。そして大根の皮と唐辛子を炒め、砂糖やお酢などを加えて完成した。

相葉さんはたたき大根の豚バラ鍋をつくっていった。大根は4等分に切って密閉袋に入れ、叩いて味を染み込ませた。そして大根の下部分を鬼おろしでおろし、しょう油やダシなどを鍋に入れる。

鍋に豚バラなどを入れて煮込み、大根が柔らかくなったら完成するという。

相葉さんは大根農家の方々に、お返し料理として大根を入れた麻婆を作ることにした。
情報タイプ: 
相葉マナブ 『『マナブ!旬の産地ごはん・千葉市原の姉崎だいこん』絶品料理大興奮!』 2020年2月2日(日)18:00~18:30 テレビ朝日
(この項、「」HPより)

■姉崎だいこんとは?
 千葉県市原市の北西部に位置する姉崎地区で栽培・収穫され、JA市原市姉崎集出荷場で洗浄・選別・出荷されただいこんを「姉崎だいこん」と呼びます。選別が非常に厳しく、食の安全や環境保全などの取り組み強化を行っています。2013年には農業関係で最も権威のある日本農業賞の特別賞も受賞しています。
 この姉崎だいこんは「甘く」「芯まで真っ白」なのが特徴です。姉崎地区は千葉県内でもかなり冷え込み、霜が降りるほどの寒さで大根の葉が傷むこともある生育環境の厳しい地区です。しかしこの冷え込みによって大根自体が凍らないように糖度を高めようとするため、甘みが強い大根になります。また土壌は富士山からの火山灰が降り積もってできた黒ボク土のため、大根の生育を阻害せずに横に肥大しやすくなり、芯まで真っ白なみずみずしい大根に育ちます。

(この項、「石井食品株式会社」HPより)
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JR「蘇我」駅~「姉ヶ崎」駅。その5。「養老川」。三角形。(「房総往還」をゆく。第3日目。)

2020-02-25 22:42:08 | 房総往還
                    街道に復帰。歩き始めましたが道が?

 右に曲がって、すぐ左折し、というはずが・・・。この付近は、住宅地再開発なのか、道路も広く、整然と碁盤の目のように。
 旧道を探しあぐね、駅近くまで戻ったり、あちこちうろちょろ。
駅方向を振り返る。

どうやらこの道が旧道?

 「大宮神社」付近で右カーブし、「白金通り」を左折、養老橋へ向かいます。


                      

左側のお店。休業中?

やっと「養老橋東側」交差点に出ました。ここまで約30分。

                    

「養老川」に架かる「養老橋」。
養老川
 千葉県夷隅郡大多喜町大田代の清澄山北東部に位置する麻綿原高原に源を発し、蛇行しながら北上する。高滝(別名、粟又の滝)、弘文洞跡を過ぎ市原市に入り、高滝湖に注ぐ。さらに北に流れ、市原市五井南海岸と市原市五井海岸の境界から東京湾に注ぐ。

名称の由来
 川の名前の「養老」の由来は、一説にひざの裏を表す古語の「膕(よほろ)」という言葉が、屈曲の多い川の様子を表したと言われている。現在の「養老」という字が当てられたのは江戸時代以降で、それ以前は「用路川」や「勇露川」という字が、さらに以前には「与保呂」が当てられていた。 (以上、「Wikipedia」参照)

 「小湊鐵道」はほぼ「養老川」沿いに南下する鉄道線。

河口(東京湾)方向。

                    上流方向。

「大塚ばやし」。「五大力船」。

「国分尼寺跡」。
橋の欄干には、以上のようなレリーフがあります。

橋を渡って左折した街道は次第に川から離れます。

左手に大きなお屋敷。

                        

ここで右の細い道に入ります。旧道のようです。

 
右手に「出羽三山」の大きな碑のある共同墓地を見ながら進みます。

三角形の頂点を左に曲がります。

県道に復帰。
どうしてこのような道筋になったのか?

        
        
1880年代のようす。                  2010年代のようす。道筋がしっかり残っている。

再び県道歩き。

                   

 ここで左の旧道に進みます。
  
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JR「蘇我」駅~「姉ヶ崎」駅。その4。「枡形」。「五井陣屋」。「小湊鐵道」。(「房総往還」をゆく。第3日目。)

2020-02-20 18:59:37 | 房総往還
                         街道筋には大きなおうちが並ぶ。
        

手入れの行き届いた庭木のあるおうちが目立つ。

庭先には「ナツミカン」がたわわに。

途中の魚屋さん「寿々喜鮮魚店」。粋な店名。人通りもほとんどない中、熱心にさばいています。その先には「すずき旅館」。
カジキマグロ。

サバ。

路地の奥に「共同墓地」(↓)。宗派を問わずに地域の中に。

この付近、海に通じる運河が多い。

「割烹かしわ寿司」。

落ち着いて静かな街並み。

海に通じる運河。
                右手奥に「八幡御所」疑定地あり。
 小弓公方足利義明が小弓城に入る前に一時館を構えたといわれているところで、「ジョイフル本田」の裏手付近か?

市原市のマンホール絵柄。



                 

「北五位学校跡」碑。

                         

「五井(五位)」の町への入口は大きな枡形のようです。
「小倉酒店」が曲がり角手前に。

大きく左に曲がり、

振り返る。

それから大きく右へ折れます。
                            正面に見える大きなおうちが存在感あり。

振り返る。
    家並みがない分、枡形がよく分かります。
               

この付近の今昔。


1880年代のようす。→が枡形の道筋。



2010年代のようす。現在、この付近は、宅地造成が行われているようです。

 「五井」の町に入ります。

古くは「御井・後井・五位」などの文字が混用されていました。
のち「五井」に統一され、五井村村誌に「天正18(1590)年8月1日徳川家康公、関東を領するに及び、同9月1日御家人の知行となる、同年松平家信五井五千石を賜る」と記述が残っています。江戸と安房を結ぶ海運・陸運の交通の要所として昔から栄えていました。

注:五井藩主有馬家が歴代「従五位下」であったこととの関連はなさそうだが。

奥に白壁の蔵が。

看板建築の商店。

「五井駅入口」交差点。

来た道を振り返る。

 「五井駅」西口ロータリーが「五井陣屋」があったところのようなので、駅方向に向かいます。

 「五井駅」は小湊鐵道の乗換駅でもあり、去年、養老渓谷に行く時に利用しました。


弘文洞跡」。

        
小湊鐵道線(こみなとてつどうせん)
 千葉県市原市の五井駅から夷隅郡大多喜町の上総中野駅までを結ぶ小湊鐵道の鉄道路線である。
 東京湾沿岸から房総半島内陸部を結び、路線の大半が市原市内に属する。

「五井陣屋」跡。特に解説板等はなし。

カラー版のマンホール。
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JR「蘇我」駅~「姉ヶ崎」駅。その3。「村田川」。「八幡宿」。五所。(「房総往還」をゆく。第3日目。)

2020-02-19 21:41:13 | 房総往還
                        「村田川渡船場跡」解説板。
街道をはさんで両側に緑地帯(公園)があります。

          


 この地は、南房総と結ぶ房総往還の要衝でした。古来、村田川は下総国と上総国との国境で、防衛上の必要あってか、橋が架けられなかったといわれています。このため、明治20年(1887)頃までは船による渡しがありました。この道を古くから文人客をはじめ多くの人びとが渡って行きました。水戸黄門の甲寅紀行にも自ら川を越えたを記し、また、小林一茶も渡って行きました。
 康生2年(1456)10月、千葉氏の内紛で千葉宗家胤貞父子を滅した馬加城主馬加康胤は、将軍足利義政の命を受け追討に向かった一族の東常縁(古今伝授を受けた人)の軍に敗れ、市原市八幡で敗死し首を村田川岸に晒されたと伝えられています。また1868年4月江戸城明け渡しに不満な撒兵隊は江戸を脱走し木更津方面に集結した。いったんは勢力を盛り返し、追討軍と村田川・養老川を挟み激戦を交え、敗れて木更津方面へ退却しました。今は川筋もかわり元の川は埋め立てられて公園となり、当時の姿を偲ぶよすがもありません。

 市原市北部を流れる村田川は全長20.8㎞、八幡海岸の埋め立て地を経て東京湾に注ぎ込みます。現在の村田川は河川改修で旧川筋を直したものであり、昔の村田川はもっと蛇行し、暴れ川だったようです。

          
          
          
1880年代のようす。蛇行しているようすが分かる。      2010年代のようす。現在の村田川。上に旧村田川跡の緑道(公園)。 

来た道を振り返って望む。

車のナンバーも変わる。 「袖ケ浦」に。

現在の「村田川」を渡ると、「八幡宿」の街並みに入ります。

               下流方向(東京湾)。

「県道24号線」。 

振り返って望む。右手に庚申塔などいくつか。

「八幡宿商店街」。

「八幡宿駅入口交差点」。

その先のバス停で一休み。バス停名が行く手を示す(○)。

左手に分かれる道。
 現在は、この先で交差する「大多喜街道(通称)」と合流する道のようです。

     
1880年代のようす。          2010年代のようす。

その先、用水路に架かる朱塗りの太鼓橋。

                        

「八幡宿」方向を振り返る。

「金杉川」。

                     

「五所」の町に入ります。

                      

 ・・・中世においては千葉氏の勢力下にあったが、千葉氏の勢力が次第に衰えると、里見氏などの新興勢力の伸張を許した。現在の千葉市生実町に館を構えた小弓公方足利義明も、一時期この地に拠っており、その時の御所があったとされる場所は、五所という地名として残っている。
足利 義明(あしかが よしあき)
 室町時代後期(戦国時代)の武将。足利氏の一門。第2代古河公方足利政氏の子。第3代古河公方足利高基の弟。小弓公方を自称した。
 父と兄・高基が対立すると、下野国に移って名を足利義明と改め、下総国小弓城を攻撃して千葉氏家臣を破って同城を占拠する。そして、「小弓公方」を自称して古河公方と対立した。
 天文7年(1538年)、義明は軍を起こして下総国国府台に出陣し、北条氏綱と決戦を行った(第一次国府台合戦)。一時は晴氏・氏綱軍に対して優勢だったが、次第に劣勢となる。義明は氏綱軍に突撃するが、その反攻に遭って戦死した。 (この項、「Wikipedia」参照)

御所跡はこの先にあるようですが。
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JR「蘇我」駅~「姉ヶ崎」駅。その2。「伊南房州通往還」、「国道16号線」。(「房総往還」をゆく。第3日目。)

2020-02-18 18:47:30 | 房総往還
                   右手には「JFEスチール」関連会社の施設が。


上流にJR内房線の鉄橋。

街道を行き来するバスは、「小湊バス」。

                        

大きなおうち、門構えも立派。

旧道らしいカーブ。

ここにも古い面影を残すおうちが。

この付近の今昔。
        
                
1880年代のようす。                 2010年代のようす。→が街道。右に、内房線。 


丁字路に突き当たり、右にある「塩浜橋」を渡ります。

曲がりくねった道を進む。

その先、丁字路を左折する道は「茂原―大原―勝浦」を通って館山に至る道。「伊南房州通往還」。
 伊南とは東上総海岸沿いの夷隅地方が、伊南荘・伊南領の名で慣習として呼ばれていたことによる。房総往還との分岐点は浜野とその先の八幡宿で、潤井戸で合流し茂原→上総一宮→大原→御宿→勝浦→小湊→鴨川→和田→丸山と進み、館山で再び房総往還と合流する。(この項、「坂道散歩」HPより)


この付近の今昔。
 
1880年代のようす。○が分岐点。


2010年代のようす。現在、その一部は「茂原街道」(茂原まで)と呼ばれている。

「房総往還」は、そのまま進みます。

広い通りとの丁字路で、左折。

交差点の信号名がユニーク(↓)。

「国道16号線」を渡ります。首都圏の街道歩きではしばしば横切ったり、歩いたりする国道。


                 

「日光千人同心街道」(八王子~佐野)
で紹介した記事を再掲。
・・・
国道16号線
■横浜を起点に町から町へ。関東圏をリング状に結ぶ幹線道路。
 現在の国道16号は、全長約331km。横浜市を起点に、八王子市、大宮市、千葉市、木更津市、横須賀市を経て、再び横浜市に至る環状道路になっています。この経路は1962年に、路線指定されました。
 都心より半径30km圏を走るこの幹線道路沿いには、国際貿易港やコンビナート、流通センターなどが多く、コンテナ等を積んだ大型車が頻繁に行き交います。その光景からも、国道16号は、わが国の産業の発展を支える象徴的な道路のひとつと言えます。
HPより)

 木更津、相模原、横田、横須賀と米軍基地(あるいは自衛隊基地)を結ぶ「軍用道路」というイメージが強いのですが。幹線道路だけあって、交通量は半端じゃありません。
 なお、東京湾口に海上区間があり、観音崎(神奈川県横須賀市) - 富津岬(千葉県富津市)間は、海上を代替のフェリーで結ばれることにより、環状道路を形成しています。
 起点と終点が同じ国道は、全国で二本しかないようです(この場合、横浜)。
 もう一本は、「国道302号」=名古屋環状2号線と呼ばれる外環道路で、起点と終点が名古屋市中区。  
・・・
来た道を振り返る(↓)。

河川跡の緑地帯。

 「市原市」に入ります。かつての「下総国」と「上総国」との国境。先ほどの緑地帯はその境であった「村田川」の旧流路。
         
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JR「蘇我」駅~「姉ヶ崎」駅。その1。「蘇我」。「旧国道踏切」。(「房総往還」をゆく。第3日目。)

2020-02-17 18:44:26 | 房総往還
              「房総往還」第3日目。2月8日(土)。晴れ時々曇り。最近は、自宅を出るのが遅く距離が伸ばせません。


  街道はほぼ南に向かうので、写真を撮ると、逆光気味になってしまいます。
こんな風にスッキリとは撮れません。 

道標「大がんじ道」。ここから北東にあるお寺への道。

「鬼そば」。ネーミングが奇抜!

 明治創業の4代目が切り盛りするお店。日本蕎麦から中華まで幅広いメニュー。
 本当の店名は「林遊庵」。その昔、お店の瓦が "鬼瓦" だった為、ご常連さんから「鬼そば鬼そば」と呼ばれ、「鬼そば」の方が定着した為、看板や暖簾の方も「鬼そば」にしたようです。

 年季の入ったお店。営業しているのかどうか。

 すぐ西側を通る幹線道路(「湾岸道路」)にはお店もたくさんあるので、廃れてしまったような街並み。そこが、街道歩きにはけっこう!

広い道路を横切るときの西側のようす。
                        「湾岸道路」とその海側にある「千葉市蘇我スポーツ公園」方向。


ジェフユナイテッド千葉のホームスタジアムであるフクダ電子アリーナのほか、サッカー、野球、テニスなどができる大規模なスポーツ公園です。
(この項、「」HPより)

この付近の今昔。


1880年代のようす。海岸線沿いに進む。。



2010年代のようす。公園施設を造成中。○が撮影地点(交差点)。
現在は、公園の西側に「JFEスチール」の工場が建設されている。

「蘇我比咩神社」何と読むのか?
「そがひめじんじゃ」と言うそうです。
 紀記神話によれば、日本武尊の東征の際、相模から総国に渡ろうとしたとき暴風雨に遭い、それを鎮めるために日本武尊の后の弟橘姫が入水した。社伝によれば、そのとき弟橘姫に付き従ってきた5人の女性も一緒に水に入ったが、そのうちの一人、蘇我大臣の娘の蘇我比咩だけは浜に打ち上げられ、里人の看護により蘇生し、都に帰った。後に里人は、日本武尊が帰途に亡くなったことを聞き、その霊を慰めるために社を建てて祀った。応神天皇はその行為に感激し、蘇我一族をこの周辺の国造として派遣した。蘇我氏は春日大社と比咩神社を信仰しており、両社を勧請して蘇我比咩神社を創建したという。
 ただしこれには別の伝承もあり、浜に打ち上げられ蘇生したのは弟橘姫であり、弟橘姫が「我、蘇(よみがえ)り」と言ったので「蘇我」という地名となったともいう

レンガ造りの倉庫。

                  

右手を望む(海岸方面)。

三叉路で、左手の旧道に進みます。

道の曲がり方が旧道らしい。

 左手奥に「曽我野藩陣屋跡」があります(小公園)が、見逃しました。

 その先で、「京葉臨海鉄道株式会社」が経営する貨物線の踏切を越えます。列車が通過するのをしばらく待ちましたが、来ず。
  
                                「旧国道踏切」とあります。
「千葉貨物駅」に向かう線路。

(「Wikipedia」より)


        一大工業地帯、各社を網羅する貨物線。
 総武線《新小岩→蘇我・鹿島SS》 の貨物列車。この踏切の通過時間がわかれば待ち構えていたところです。作業員の方が数人、蘇我駅方向を監視していたようにも見えましたので、・・・。
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向島百花園。梅まつり。2020。その2。

2020-02-13 18:42:22 | 向島百花園

                        園内には23種類の梅の木があるようです。
「福寿草」。
 春を告げる花の代表。そのため元日草(がんじつそう)や朔日草(ついたちそう)の別名を持っています。福寿草という和名もまた新春を祝う意味があり、縁起物の植物として古くから栽培されてきました。
 ただし、強い毒性あり。地面から芽を出したばかりの頃は、フキノトウと間違えたり、若葉がヨモギの葉に似ているので、誤食しやすく、重症の場合死亡することも。



これは「マユミ」。
 材質が強い上によくしなる為、古来より弓の材料として知られ、名前の由来になりました。この木で作られた弓のことや、単なる弓の美称も「真弓」といいます。

「わびすけ(侘助)(太郎冠者)」。ツバキの一種。

      

             

「とうばい(唐梅)」。お座敷の庭に。

「はつかり(初雁)」。お座敷の門前に。

咲き始めた「ミツマタ」。
 ミツマタは、その枝が必ず三叉、すなわち三つに分かれるために「ミツマタ」と名付けられた。三枝、三又とも書く。中国語では「結香」(ジエシアン)と称している。
 古代には「サキクサの」という言葉が「三(み)つ」という言端(ことば)に係る枕詞とされており(例:「三枝〔サキクサ〕の三つば四つばの中に殿づくりせりや」〔催馬楽・この殿は〕)、枝が三つに分かれるミツマタは昔は「サキクサ」と呼ばれていたと考えられている。そう名付けられた訳(わけ)としては、ミツマタはあたかも春を告げるかのごとく一足先に淡い黄色の花を一斉に開(ひ)らくため、その故(ゆえ)をもって「先草=サキクサ」と呼ばれたのだとの考えがある。但(ただ)し他にも、ミツマタが縁起の良い吉兆の草とされていたため「幸草(サキクサ)」と呼ばれたのだとも言われる。最も古い用例である万葉歌人・柿本人麻呂の和歌(ヤマトうた)では、
春されば まず三枝(さきくさ)の 幸(さき)くあれば 後にも逢む な恋ひそ吾妹(『万葉集』10巻-1895) (春になればまず先に咲く「サキ」クサのように「幸〔さき〕」く〔つつが無く〕あることが出来たならば、のちにまた会いましょう。恋しがらないでください、わが愛しい人よ)
とあり、三枝(さきくさ)という言端(ことば)の元が「先草(サキクサ)」とも「幸草(サキクサ)」とも とれる表現となっている。(いずれにせよ、この「サキクサ」が三枝[さいぐさ、さえぐさ]という姓の語源とされる)。
 NHKのラジオ番組・「ラジオ深夜便」では、日本の季節に合わせて このミツマタの花を2月21日の「誕生日の花」とし、その花言葉を「壮健」としている。
 園芸種では、オレンジ色から朱色の花を付けるものもあり、赤花三椏(あかばなみつまた)と称する。
 和紙の原料として重要である。ミツマタが和紙の原料として登場するのは、16世紀(戦国時代)になってからであるとするのが一般的である。
(以上、「Wikipedia」参照)

 以前、ブログの中、「美濃」で取り上げた紙の原料の一つです。

「鴛鴦」。

 「鴛鴦」は、おしどりのこと。鴛」は雄のおしどりを意味し、「鴦」は雌のおしどりを意味します。
 この鳥は、いつも仲良く寄り添って泳いでいることから、「夫婦仲が良いことの象徴」とされてきました。

「花香美(はなかみ)」。

「見驚」。薄紅色。



そろそろ閉園時間。空はますます澄んで。


 訪れる人も少なく、ゆっくり散策。        

「梅まつり」。

              

錦絵などに描かれた百花園。

出口付近にあったスイセン。盆栽風。
 全草が有毒で、鱗茎に特に毒成分が多い。食中毒症状と接触性皮膚炎症状を起こす。中毒は初期に強い嘔吐があり摂取物の大半が吐き出されるため症状が重篤に到ることは稀であるが、鱗茎を浅葱(あさつき)と間違えて食べ死亡した例がある。
 葉がニラととてもよく似ており、厚生労働省によると、2008年~2017年に起きた有毒植物による食中毒188件のうち、最多はスイセン(47件)だった。
 Narcissus という学名は、ギリシャ神話に登場する美少年ナルキッソスに由来する。神話によると、ナルキッソスは、その美しさにさまざまな相手から言い寄られたものの、高慢にはねつけて恨みを買った。ついには、そんな彼への呪いを聞き入れた復讐の女神ネメシスにより、水鏡に映った自分自身に恋してしまった。水面の中の像は、ナルキッソスの想いに決して応えることはなく、彼はそのまま憔悴して死ぬ(水面の像に接吻をしようとして溺死したという説もある)。そして、その体は水辺でうつむきがちに咲くスイセンに変わった、というものである。だからこそスイセンは水辺であたかも自分の姿を覗き込むかのように咲くのである。
 「スイセン」という名は、中国での呼び名「水仙」を音読みしたもの。「仙人は、天にあるを天仙、地にあるを地仙、水にあるを水仙」という中国の古典に由来する。水辺で咲く姿を仙人にたとえたのであろう。別名に雪中花、雅客。
(以上、「Wikipedia」参照)

《番外》墨堤通りの河津桜。他の桜に先駆けて、一本、鮮やかな色で咲いています。


                      

         

               

 「隅田公園」も、もうじき早咲き桜の季節を迎えます。

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向島百花園。梅まつり。2020。その1。

2020-02-12 19:00:38 | 向島百花園

                     「梅まつり」を開催中の「向島百花園」へ。左:白加賀、右:一重寒紅。
芭蕉の句碑がお出迎え。

春もやゝ けしきとゝのふ 月と梅 はせを

「梅洞水」。

                   

「紅冬至(こうとうじ)」。

    枝振りが見事。

「白加賀」。

見上げるほどの高さまでつぼみが。

「紅千鳥」。



 一昨年、同じ時期に来たときにはメジロがたくさん集まっていましたが。去年、今年と見かけません。
「べにちどり(紅千鳥)」(一昨年撮影)。 

メジロ。(写真は「Wikipedia」より借用)

 その代わり、我が家の隣のキンモクセイの大木に集まってきてしきりに鳴いています。ムクドリも来て、「ギャーギャー」「ピーピー」にぎやかです。


      左が「冬至梅」、右が「シラタキシダレ」。

遠くには「スカイツリー」。

「冬至梅」。

「スイセン」。

「しろかが」。

        

「紅千鳥」。

         

園内を行きつ戻りつ。

「八重野梅」。枝先まで花を咲かせて。

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隅田公園。梅めぐり散歩道。2020。

2020-02-10 21:14:52 | 隅田川

                     2月7日(金)。晴れ。寒し。
隅田公園の梅を観に行きました。6日の寒さが引き続き、けっこう寒い中での。でも、北風ではなくて幸い。
隅田公園はサクラで有名ですが、台東区側の北に梅が植栽されているところ=「梅めぐり散歩道」があります。
去年初めて訪問。今年はどうかな、と。少しずつ整備されているようですが。

上空の寒気で、飛行機雲が幾筋も。

満開に近い梅も。

バックにはスカイツリー。



                   

見物客もほとんどいない。公園全体も少なそう。雷門界隈ははたして?


     



      

正岡子規・句碑
             雪の日の 隅田は青し 都鳥(明治廿五壬辰年)
『寒山落木』明治十八年ヨリ同二十五年マデ
明治十八年 夏郷里松山ニ歸ル○嚴嶋ニ遊ビ祭禮ヲ觀ル○九月上京
仝 十九年 夏久松定靖公ニ扈從シテ日光伊香保ニ行ク○九月歸京
仝  廿年 春腸胃ヲ病ム上野ヲ散歩ス○夏歸省○九月上京
仝 廿一年 夏牛嶋月香樓ニ居ル○九月歸京常盤會寄宿舍ニ入ル
仝 廿二年 四月水戸ニ遊ブ徃復一週間○五月咯血 七月歸省九月上京不忍池畔ニ居ル後再ビ常盤會寄宿舍ニ入ル 十二月歸郷
仝 廿三年 一月上京七月歸郷 九月三井寺觀音堂前考槃亭ニ居ルコト七日直チニ上京
仝 廿四年 春房總行脚十日○六月木曾ヲ經テ歸郷 九月上京途中岡山寒懸ニ遊ブ○秋大宮ニ居ルコト十日 冬駒籠ニ居ヲ遷ス○川越地方ニ遊ブコト三日
明治廿五年 一月燈火十二ケ月ヲ作ル其後何々十二ケ月ト稱スル者ヲ作ルコト絶エズ 春根岸ニ遷ル 夏歸省ス 九月上京 十一月家族迎ヘノタメ神戸ニ行ク京都ヲ見物シテ上京○此年夏ヨリ日本紙上ニ投稿十二月ヨリ入社

【説明】隅田公園の北側の端に、大正時代まで「竹屋の渡し」と呼ばれる渡船場がありました。近くにある待乳山聖天からの眺めを詠んだものと思われます。(Untitled - 上野観光連盟)

そして、「花」歌碑。
                春のうららの 隅田川
           のぼりくだりの 船人が
           櫂のしづくも 花と散る
           ながめを何に たとふべき

           見ずやあけぼの 露浴びて
           われにもの言ふ 桜木を
           見ずや夕ぐれ 手をのべて
           われさしまねく 青柳を

           錦おりなす 長堤に
           くるればのぼる おぼろ月
           げに一刻も 千金の
           ながめを何に たとふべき


 武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」。この碑は、羽衣自筆の歌詞を刻んだもの。



                       

サクラの古木と。



メジロが1羽飛んできました。梅の蜜を吸いに。



                    

吾妻橋を渡って墨田区側へ。

            

 例の騒ぎで、「スカイツリー」に向かう人は(特に外国人)少ない印象。     

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「京成稲毛」駅~JR「蘇我」駅。その4。港町。銭湯。JFEスチール。「赤いサイロ」。・・・(「房総往還」をゆく。第2日目。)

2020-02-07 21:41:16 | 房総往還
                           旧道は、南に向かいます。
この付近の今昔。


1880年代のようす。↓が「君待橋」付近。海岸側から来た道と合流。




2010年代のようす。

この辺りは、「港町」。かつては海に面していた。


1880年代のようす。


2010年代のようす。←が街道。千葉港が左手に。

車の通りの少ない街道を進みます。
                                鄙びた街並みという印象。
 左手にある「寒川神社」を過ぎ、先に進みます。街道沿いに銭湯が目立ちます。
湯あそびひろば  石の湯」 
              
銭湯好きの小生には興味がわきます。以下紹介文を引用。


千葉市中央区寒川・末広界隈にある銭湯です。
浴室は2種男女日替わりで、露天風呂付 夕暮イメージの ’夕星’と
早朝イメージの‘ 暁‘ 2種の浴室を男女日替わりで楽しめます。
’夕星’は露天風呂ほかヘルツバス、うきうき風呂、ローリングバス、塩サウナ・水風呂があります。
暁には、エステバス、肩たたき、リラックスバス、水風呂、遠赤外線高温サウナがあります。
1908年(明治41年)創業で、1993年(平成5年)秋 現店舗に建て替えました。

それから100㍍ほど先に、
梅開湯(ばいかいゆ)」。
かなり太い柱や梁が見事。まるで映画のセットかと思うくらい、昔の状態に近い銭湯である。
シャワーと泡風呂の他は多分改装しておらず、昭和の前半の漁師町の銭湯である。
湯船はかなり熱い湯なので長湯できない。

そして、三つ目。
大和湯
大和湯は、本千葉駅から徒歩12分の場所にあります。また、大和湯の前には、駐車場スペースが10台以上あるので、車の人には便利ですよ。
ちなみに、近くには、梅開湯や石の湯などの銭湯もあり、銭湯密集地になっています。梅開湯のご主人にお伺いしたところ、昔、港がすぐそばにあり、漁師さんが漁から戻った後に、銭湯に立ち寄ったことから、このエリアには銭湯が多く作られたそうです。
(この項、「」HPより)

 近所ならきっと来ていたはずの銭湯紹介でした。

街並みもけっこうすてきです。

                     

りっぱな屋根のおうち。(↓)
              
街道筋に道標
             延享2年(1745)の造立。左側面に「右ハかつさみち 左ハちばてら道」。

「京葉線」の高架をくぐります。

 その先、左手に「稲荷神社」があり、そこに「甘藷澱粉製造発祥の地」記念碑があるようですが、境内が工事中のため、立入禁止。

 一本右の大きな通り(「国道357号」=「東京湾岸道路」一般道)には「アリオ」などの大型商業施設が並んでいます。


                    

「房総往還」街道は、狭い割には車の迂回道になっているようで、けっこう飛ばしています。


大きなお屋敷。

JFEスチール(株) 東日本製鉄所」の煙突が。

注:「JFEスチール」は、「日本鋼管」と「川崎製鉄」の統合に伴い誕生した。

今回は、ここまで。JR「蘇我」駅に向かいます。



                    

「蘇我」駅は、内房線と外房線との分岐駅。さらに、「京葉線」(東京駅から東京湾湾岸沿いを経由して蘇我駅まで)がつながっています。
「房総往還」はほぼ内房線沿いに進み、館山まで。

この付近の今昔。


1880年代のようす。海岸線沿いに街道。



2010年代のようす。「JFEスチール」の工場が広がる。右上に稲荷神社。

《番外》先日、パスポートの更新で有楽町の交通会館まで出かけました。
 そこには、各県のアンテナショップが集まっています。そこで、二品購入。
北海道「赤いサイロ」。売れ筋ナンバーワンらしい。

 富山県「しろえび紀行」。

向かいにある沖縄県のアンテナショップには行きそびれました。またの機会に。
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「京成稲毛」駅~JR「蘇我」駅。その3。「市美術館」。「亥鼻城」。「君待橋」。・・・(「房総往還」をゆく。第2日目。)

2020-02-05 00:02:22 | 房総往還
                         広々とした道路(振り返る)。
                               

 右手に「千葉神社」を見て、街中を進みます。
千葉市美術館・(中央区役所)」。
 千葉市美術館は、現在の中央区役所が移転した跡スペースを活用し、新たな展示スペースを設けるなど2020年7月を目途にリニューアルいたします。リニューアルオープン後は、1〜5階が新たに美術館スペースとして拡張され、様々な体験・交流ゾーンが生まれることになる予定。

 1927年(昭和2年)に建てられたネオ・ルネサンス様式の旧川崎銀行千葉支店(矢部又吉設計)の建物は、千葉空襲で焼け残った歴史的建造物で、その跡地に総合支所と美術館を併設する構想が浮上したため、保存を求める市民らが約1500人の署名を提出して保存運動を展開し、これを受けて千葉市が部分保存の検討を含める形で基本設計を委託することになった]。
そこで、設計者の大谷幸夫は、新ビルで旧川崎銀行千葉支店を覆うようにする「さや堂」方式を用いて保存・修復と区役所と美術館の新設を両立する計画とし、1-2階にさや堂ホールとして歴史的建造物を活用した建築物となった。 (この項、「Wikipedia」参照)
 
     「さや堂ホール」。

けっこう気になる建物です。

「大和橋」で「都川」を渡ります。対岸に古風なおうちが(↓)。

下流方向を望む。

左手奥の高台が「亥鼻城(千葉城)」にあたる。
 平安時代末期に千葉氏の初代当主である千葉常重が千葉県千葉市中央区(旧:下総国)に居館を構えた平山城。通称は千葉城。周辺は亥鼻公園(歴史公園)として整備され、土塁、堀切などが現存する城跡は市の文化財に指定されている。
 千葉氏の居城があった猪鼻山は、北は都川、西は断崖に面した天険の要害の地に築かれた平山城である。鎌倉幕府を開いた源頼朝の挙兵に際し、いち早く参陣して東国武士団の動向に大きな影響を与えた重鎮千葉常胤の父である千葉常重が平安時代の1126年(大治元年)、上総国大椎城(現在の千葉市緑区大椎町)から拠点を移し、下総国(現在の千葉市中央区亥鼻町)に居館を構えた。拠点を移して以来、1455年(康正元年)、千葉胤直が下総原氏の原胤房に追われるまで、千葉氏13代(約330年)に渡り両総に覇を唱えた千葉氏の拠点である。
 1516年(永正13年)に落城後、江戸時代(幕末)の1861年(文久元年)には千葉八景「猪鼻山の望月」に選定されており、古くから名所・旧跡として親しまれていた。城跡は1909年(明治42年)以降公園として開放され、1959年(昭和34年)に歴史公園「亥鼻公園」(面積10,293平方メートル)として整備され、亥鼻山の中腹には、1967年(昭和42年)に千葉市立郷土博物館(模擬天守)、いのはな亭(茶室及び庭園)が建造された。
 城域は亥鼻公園(主郭)から千葉大学亥鼻キャンパス(外郭)を含む広大な領域が城跡であり、地名をとって「亥鼻城跡」と呼ばれている。土塁や空堀が遺構として残されており、その特徴から戦国時代の城跡と推測されている。また主郭部の突端にかつての物見台跡の神明社がある。二の郭跡に郷土博物館と千葉常胤像が建つ。
千葉県庁からの「亥鼻城」。(但し、天守は模擬、の建築)
 (この項、「Wikipedia」参照)

「千葉名産 貝煎餅」とある。

左手には昭和を感じさせる複合ビル。

                          

右手は「千葉県庁」。手前左に「羽衣公園」。

 その先、モノレール「県庁前」駅にある円形の歩道橋を進みます。モノレールの線路の先端。


「東金街道」の時にも。「千城台」駅。 

少し静かな街並みに。

 「本千葉駅」を過ぎ、「君待橋」碑のある小公園を左折します。
→が旧道。

 
 君待橋という名前の由来には3つの伝承がある。
①長徳元年( 9 9 5 年) 藤原実方が陸奥国へ下向の途中にここを通り、里人に橋の名を問うと、君待橋と答えたので実方は 「寒川や袖師ケ浦に立つ煙君を待つ橋身にぞ知らるる」と詠んだ。
②冶承4年(1080年)、千葉常胤一族が源頼朝をこの橋のたもとに出迎えたことから。
③昔、橋の近くの美しい乙女と対岸の若者が恋を語りあっていた。ある日大雨で橋が流され、対岸へ泳いで渡ろうとした若者が濁流に流された。 それを見た乙女は後を追い激流へ身を投げた。このことがあってから里人は君待橋と呼ぶようになった。(「日本伝説叢書」より)
(この項、「」HPより)
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「京成稲毛」駅~JR「蘇我」駅。その2。「千葉公園」鉄道遺構。「大賀ハス」。・・・(「房総往還」をゆく。第2日目。)

2020-02-03 20:21:29 | 房総往還
               2両編成で頭上をけっこう早く走っているので、写真が撮りにくい「モノレール」です。
「道標」。判読は?

 右手、道を挟んだ向こうに「千葉競輪場」。壁絵がユニークです。


                    

 「千葉公園」駅付近でモノレールと分かれ、街道は左に曲がっていきます。 
右手奥が「千葉公園」。

                        

 「千葉公園」は、かつて鉄道遺跡として紹介。さらに競輪場脇の道から先も含めて、その一部を再掲。(2014/7/04~ 掲載)


 「千葉公園」。大きな慰霊塔をはじめ、戦前、戦中の軍隊施設の一部が残っています。そして、周辺のここかしこに残る「戦争遺跡」。

 「つわものどもと学園地域コース」。
 「つわものども」の跡が戦後、「学園施設」や「病院施設」そして、落ち着いた「住宅街」に大きく変貌し、まさに人々の命と生活と未来につなぐ地域となった。が、かつての遠い「出来事」がいつのまにか、現実になったら・・・。
 そんな複雑な思いも込めて、7月1日、お昼前から午後にかけて、探索してみました。

 鉄道大隊(のち、「鉄道連隊」)専用の軍用線路は現在の千葉駅付近から北西に向かって進んでいた。千葉公園一帯から千葉経済大学、さらにモノレールの東側一帯は、「鉄道第一連隊」「陸軍歩兵学校」などほとんど軍の施設であった。
「千葉公園」内にある高台「荒木山」。昭和8年12月に建てられたもの。
 この小高い丘は、以前、連隊ラッパ手の訓練が行われ、「喇叭山(らっぱやま)」と呼ばれ親しまれていましたが、殉職した荒木大尉を悼む鉄道第一連隊の兵たちにより銅像が建立されたため、以後「荒木山」と呼ばれるようになりました。
 満州事変で先頭に立って戦い亡くなった鉄道第一連隊の「荒木大尉」の名をとって名付けられました。戦前までは,この荒木大尉の銅像が建っていましたが,現在は展望台になっています。
現在の広場のようす。
 公園の奥を進むと「護国神社」と大きな「忠霊塔」がある広場に。

 「忠霊塔」を回り込んだところに「荒木大尉」の碑があります。
レリーフ。

《千葉公園内の鉄道遺構》
①架橋演習用に使用したコンクリート製の橋脚。高さ4㍍、幅5㍍、奥行き2㍍。上部の丘の上に一部が残っている。
見上げるほど、かなり大きな遺構。

当時の演習のようす。

西側の高台に残る橋脚。

②トンネル工事演習で使用したコンクリート製のドーム(外枠)。高さ6㍍、幅6㍍、奥行き5.5㍍。


これもかなり大きな遺構。

上部には「鉄道連隊」のマーク。

側面。 内壁。

③ウィンチ台といわれるコンクリート塊。
橋脚と「綿打池」のほぼ対岸にある。


 「ウインチ」は、動力で歯車を回しながらワイヤロープ等で大きな物を上げ・おろし、運搬、引張り作業などに使用する「巻き揚げ機」のこと。池をはさんで重量物を運搬する演習にでも用いたのか。

平らで四角い塊も。

ボルト痕。

 「千葉公園」を後にして、次に向かいます。

 「千葉公園」付近。頭上にモノレールの橋脚がある道路から左に入った道がかつての鉄道線跡。


 ここから「競輪場」の脇を通って、現在の「千葉経済大学」「附属高校」までが路線跡。千葉公園~競輪場~千葉経済大学。
大正時代。○が「鉄道材料廠」、→が「綿打池」。

昭和40年代。↓「国鉄貨物線」となっている。

現在。上から「千葉経済大学」、「競輪場」、「千葉公園」。線路は道路となっている(「今昔マップ」より)。

「千葉けいりん」の脇を直線で進む道が線路跡。


モノレール「作草部(さくさべ)」駅付近。

 「千葉経済大学」キャンパスを回り込んだ一番北の駐車場横に。
「旧鉄道連隊材料廠煉瓦建築」
 明治41年、鉄道連隊材料廠の建物として建築されたもので、煉瓦造アーチ構造、木造トラスの小屋組みで、南北にそれぞれ幅2.7mの下屋を付設し、面積695.6㎡である。煉瓦構造の主要部分は、54.4m(約30間)×7.3m(約4間)と細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積みと呼ばれる技法を用いている。
 県内に数少ない明治年間創建の大規模な煉瓦建築であり、特に南北の両壁にみられる10連の雄大なアーチ構造はこの建物の特徴で、全国的にも他に例がない。我が国の初期の煉瓦建築の構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。(千葉県教育委員会・千葉市教育委員会設置説明板より)

 現在、建物周辺は「立ち入り禁止」区域になっていて、残念ながら近づくことはできません。現在も使用されているようすです。
南東の角(建物入口付近)。

この建物の前に残っている当時の線路。



              線路が何カ所か残っていました。


1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)貨物線は廃止されたが、まだ建物は残っている。中央上の白い屋根の建物が「材料廠」。

 軍用線路は「材料廠」からしばらく北上し、西に転じて「鉄道第二連隊」のあった習志野(JR「津田沼」付近)に通じていました。
・・・

→が旧線路。

掲載時期からすでに6年が経ちました。「千葉経済大」校内は、現在どうなっているのでしょうか? 興味あるところです。

 同じ頃に「千葉公園」中央にある大きな池(「綿打池」)にある「大賀蓮」を掲載。

 「大賀蓮(オオガハス)」は、1951年(昭和26年)、東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)の落合遺跡で発掘された、今から2000年以上前の古代のハスの実から発芽・開花したハス「古代ハス」。
 検見川総合グランド一帯の発掘調査により、丸木舟とハスの果托などが発掘され、「縄文時代の船だまり」であったと推測され「落合遺跡」と呼ばれた。
 ハスの権威者であった大賀一郎博士が発掘品の中のハスの果托があることを知り、1951年(昭和26年)3月3日から地元の小・中学生や一般市民などのボランティアの協力を得てこの遺跡の発掘調査を行い、地下約6mの泥炭層からハスの実3粒のハスの実が発掘された。
 大賀博士は3粒のハスの実の発芽育成を、東京都府中市の自宅で試み、そのうちの1粒が育ち、翌年、1952年(昭和27年)7月18日にピンク色の大輪の花を咲かせ、「大賀ハス」と命名された。ハスの実は今から2000年前の弥生時代以前のものであると推定された。
 この「古代ハス」は、1954年(昭和29年)6月8日に「検見川の大賀蓮」として千葉県の天然記念物に指定された。また1993年(平成5年)4月29日には千葉市の花として制定され、現在千葉公園(中央区)ハス池で6月下旬から7月に開花が見られる。日本各地はもとより、世界各国へ根分けされ、友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っている。
 2012年になって、東京大学が、大賀ハスの生育されている施設などの売却を検討している事が判明、これに対し、千葉市民らが、大賀ハスが千葉市の市花となっており、シンボルキャラクターともなっていることなどを考慮し、存続を求めている。
(以上、「Wikipedia」参照)



ちょうど見頃という感じ。

平日、それも天候が不安定なせいか人の数は少ない。その代わり、じっくり見物できる。



中央にある大きな池(綿打池)の一部に「大賀蓮」池がある。

「千葉公園マップ」。

・・・
この公園も再訪したいところです。

さて、広くなった街道は、JR「東千葉」駅の跨線橋(「椿森陸橋」)を渡ります。


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