おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

さるぼぼ。ぼぼ。・・・。(40年ぶりの飛騨高山。その6。)

2013-04-27 22:01:16 | つかのまの旅人
 飛騨弁では、赤ちゃんのことを「ぼぼ」と言い、「さるぼぼ」は「猿の赤ん坊」という意味である。災いが去る(猿)、家内円(猿)満になるなど、縁起の良い物とされ、お守りとしても使われている。近年では、土産として飛騨地方の観光地で多く見られる。 よく見かける基本形は、赤い体に赤く丸い顔(目鼻口は省かれる)、赤い手足(指は省かれている)、黒い頭巾と黒い腹掛け(いわゆる「金太郎」)を纏い、座って足を前に投げ出しているか両足を広げ、両腕を上げて広げた(いわゆる万歳の)姿である。尚、全身に亘って色が赤いのは、赤は古くから悪霊祓い、疫病(とりわけ天然痘)除けの御利益があると見なされてきたからであるが、近年では赤以外に黄色や緑色などさまざまなカラーバリエーションが見かけられるようになった。(以上、「Wikipedia」より)
さまざまで、たくさん!「さるぼぼ」。

http://www.hidanavi.com/sarubobo.html飛騨高山観光ナビ・高山在住の「Hiro」さんのHPより

 さるぼぼとは、飛騨高山で生まれた郷土人形で、その昔子供が産まれたときの御守として、玩具の代わりに与えられたそうです。
おばあちゃんが子供や孫にこつこつ作ってあげたんですね~さるぼぼは子供たちの遊び道具として長く親しまれてきました。
「日本で一番古いぬいぐるみの原型」とも言われ、奈良時代に中国から伝わり、貴族の間で重宝されたようです。
またさるぼぼとは、飛騨高山の言葉で「猿の赤ん坊」という意味になります。赤い顔と体が猿の赤ん坊に似ていることが由来です。
「猿」という読みをかけて、「災いが”さる”」、「家庭”猿”満(かていえんまん)」、 「”猿”むすび(えんむすび)」など、厄除けや縁結び、女性の安産のお守りとしても、 さるぼぼは重宝されています。
 さるぼぼをお土産に!
 飛騨高山の「さるぼぼ」はお土産として観光客に有名です。僕も友人のためにお土産として買うことが多いです。「かわいい~」ってとても喜んでくれます (^^)
「さるぼぼ」の色は以前は赤だけでしたが、今ではイエロー、ブルー、ピンク、グリーンなど、とてもカラフルな色がそろっています。大きさも、大小さまざまです。
 飛騨高山では、「さるぼぼ」はどこのお土産屋さんでも買うことができます。飛騨高山を訪れる観光客は、必ずといっていいほど、さるぼぼを買って帰られます。多くの観光客に親しまれているんですね~
 旅の思い出、そして災いから身を守ってくれる「飛騨高山のさるぼぼ」。さるぼぼは今や、日本人だけでなく外国人観光客からも大人気のお土産です!一つ一つ、地元の女性の方々が丹精こめて作っています。
 お部屋に飾ったり、携帯につけたり、バックの中に忍ばせたり・・・飛騨高山のさるぼぼに、ぜひ会いに来てください!

 が!「ぼぼ」が赤ちゃんのことを言ったとは!初めて知った!「飛騨弁では」と言う限定付き! なのかどうか。ここからが本論!
 実は「ぼぼ」とは、女性性器(秘所)のことだとずっと思っていた! 通俗的な言い方で「オマ○コ」(最近は伏せ字ではなくなっているよだ!)。飛騨高山の店先で、観光に訪れた(と思われる)若い女性たちが手にとって「かわいい!さるぼぼ!」というのを聞いたとたん、ぎょっと! それくらいインパクトの強い言葉ではあったのだ!(私の言語感覚では) 
 したがって(どういうわけか)今回は、「!」マークを多用せざるをえない! はたして真実はいかに?

 インターネットで調べていたら、『げたのにれのやのげたにれの“日日是言語学”』(ameblo.jp/nirenoya/entry-10076586250.html)の記事が。実に詳しく解説がありました。気になっていたことがほとんど網羅されていて、これだけ徹底して調べ上げたこの方に、心底、脱帽(ダツボボ)!さすが!

「さるぼぼ」 の問題。 ―― “ボボ” の語源について。2008-03-01 18:16:01 (以下、省略して紹介)
・飛騨の方言で、【 ぼぼ 】 赤ん坊を意味します。つまり、【 さるぼぼ 】サルの赤ちゃん、ということです。
 なぜ、“さるぼぼ” を取り上げたか、というと 「ぼぼ」  というコトバは、日本の多くの方言で “女性器” を意味するからです。そういう地方のヒトからすれば、「さるぼぼ」 というのは、ものすごいインパクトのあるコトバです。

・子どもの頃使ったことのあるのは、マンコ、オマンコですね。この言い方は、関東 (東京都、千葉県、埼玉県、神奈川県、茨城県、栃木県、群馬県) から、山梨県、長野県、岐阜県、富山県という本州の中央部で使われるようです。なので、飛騨では “さるぼぼ” と言っても、いっこう問題がないわけです。

・沖縄では、ホー、ホーミ、ボボが通用するようです。「ホー」 と 「ホーミ」 は、ごく古い日本語に由来します。
【 ほと 】 女性器。『古事記』 (712年) から登場する、もっとも古い 「女性器名称」 でしょう。(ここで、『古事記』の該当部分を紹介し、音韻変化をふまえて懇切丁寧に解説して下さっています。)
 沖縄における 「ボボ」 という語彙は、近世に薩摩から入ったものではないでしょうか。というのも、漢字音や特殊な語彙を除けば、沖縄には、短母音の o は存在しなかったからです。つまり、bobo という単語はありえません。

・関西~中国~四国には、「オメコ」 が分布するようです。

・これら地域を内包し、ひとまわり広い地域では、「おそそ」 という言い方もあります。マキノ雅彦こと、津川雅彦さんの映画 『寝ずの番』 (ねずのばん) を見たヒトなら、例の 「おそその一件」 はよくご存じでしょう。 原作者の故中島らもは、あきらかに六代目の笑福亭松鶴 (しょうふくてい しょかく) 師をモデルにしていると見えますが、してみると、キッスイの大阪弁では 「おそそ」 のほうが主だったんでしょうか。

・東日本の 「オマンコ」、西日本の 「オメコ」 は、どうやら、語源をイツにするようです。語源は、
【 女の子 】 [ めのこ ]
(1) おんな。 (←→おのこ)
(2) おんなの子ども。 (←→おのこ)
あたりでしょう。(1)、(2) どちらの語義でも 720年の 『日本書紀』 から用例があります。あるいは、
【 女ん子 】 [ めんこ ]
【 真子 】 [ まこ ]
子どもまたは妻・恋人を親しみいつくしんでいう語。
【 女子 】 [ めこ ]
     (1) 妻。 10世紀末~17世紀
     (2) おんなの子ども。 11世紀~

・【“女性器” を指す 「ボボ」 という方言の分布】東北から南九州まで広く日本中に広まっていることを実証。
【女性器以外のものを指す 「ボボ」 系の方言語彙 】
 本州のあるラインを境に、キレイに意味が分かれているんです。東北、新潟、富山、長野、岐阜では、「赤ん坊」、「幼児」、「人形」 を指すことがわかります。「人形」 を 「赤ん坊」 に見立てるのは自然なことですね。そして、「ボボサン」、「ボボサマ」 というコトバに見られるように、これが、女性語・女児語ではないか、と思われるのです。

・いっぽう、「女性器」 を指す 「ボボ」 ですが、愉快なことに初出は 『日葡辞書』 (1603~04/江戸時代初期) です。つまり、ポルトガル人の第三者の目で記録されることによって、初めて 「ボボ」 というコトバが文字になったのです。
「Bobo (ボボ) 〈訳〉 女性の恥部。女性、少女らの用いる言葉」―― 『日葡辞書』

・「ボボ」 というのは 「女性、少女らの用いる言葉」 だったんですね。これは、「赤ん坊」、「人形」 を意味する北の 「ボボ」 と “使用者” が一致します。つまり、「ボボ」 は、女性・女児の使うコトバで、おそらく、“赤ん坊、幼児、人形” を意味していたが、本州のあるラインを境に、それより西で、“女性器” を指すためのコトバに専用されることとなったと言えそうです。そして、女性語・女児語であった語彙が、一般にも用いられるようになった。

・「女性器」 を指す “ボボ” という方言は、どうやら、「おぼこ」にさかのぼるフシがあります。実は、この 「ボボ」 の語源は、ほぼ確実に、「おぼこ」 にさかのぼると思われます。というのも、「オボコ」 と 「ボボ」 の中間の語形が、「ボボコ」、「ボンボコ」と見えているからです。
【 おぼこ 】
 (1) まだ世間のことをよく知らないために、すれていない男子や娘。
    うぶな男やきむすめ。また、そのようなさま。1548年初出
 (2) 女が、まだ男との肉体関係を知らないこと。男に接したことのない女。
    きむすめ。1689年初出
 (3) 子供。幼児。1775年初出
 (4) 赤児。1790年初出
 (5) 髪を切り下げて結ばないでいる児童。また、その髪形。
    きりかむろ。1819年ごろ初出
「赤ん坊」、「幼児」 の語義があるのがわかります。さらには、「オボコ」 は、「ウブコ」 にさかのぼります。
【 産 】 [ うぶ ]
     生まれたままの。生まれたなりの。生まれたときの。「産着」 (うぶぎ)、「産湯」 (うぶゆ)、「産声」 (うぶごえ) の “うぶ” ですね。この ubu が obo に転じた例は、他にも見られます。【 産土 】 [ おぼすな ]「うぶすな」 の転訛。「生まれた土地」 の義。【 産立 】 [ おぼたて、おぼだて ]<方言> 妊娠した婦人が五か月目頃に腹帯をしめる儀式。

・つまり、以上のことをすべてまとめると、
   「産子」 [うぶこ]   “生まれたばかりの子、生まれたままの子”
       ↓
   「おぼこ」 “赤ん坊、幼児、人形”
       ↓
   「ぼぼ(こ)」 “赤ん坊、幼児、人形” 北日本
   「ぼぼ」    “女性器” 西日本
と、たったコレだけのことですね。飛騨は 「ボボ」 の語義が異なるラインの北側にあるので、「赤ん坊」 の意味になります。ですから、
“さるぼぼ” =「サルの赤ちゃん」というコトバができあがるわけです。・・・

 安産のお守りということでは、なるほど納得!
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朝市。酒ばやし。飛騨さしこ。・・・。(40年ぶりの飛騨高山。その5。)

2013-04-26 20:37:31 | 歴史・痕跡
 毎日開かれている高山名物「朝市」。陣屋前と宮川沿い。
「陣屋朝市」。
陣屋門前の広場にテントが立ち並び、地元の野菜などが売られています。買い物客には地元の方々も多く、会話が進んでいました。
「宮川朝市」。こちらの方が規模が大きいようです。宮川沿いに長くテントが並び、野菜や果物、特産品などが並んでいます。道路をはさんで向かいの店先にもお土産や軽食などがたくさん。外国人もいっぱいそぞろ歩きで買い物を楽しんでいます。サクラの花も満開。
その外れ近くの地酒屋さん。さまざまな高山の地酒がたくさん販売されています。
「奥飛騨 春のにごり酒」。小さなものを一つ。さっそく飲んでみました。お酒の濃さを何より堪能。
ついでに広告を。通好みのお酒が多い感じ。都内で扱っている店があるのでしょうか?


杉の葉を玉にした「酒林(さかばやし」が軒先に下がっている「造り酒屋・山車」

 
 酒林(さかばやし)。スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造り物で、「杉玉」とも。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の大きな杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たしているそうです。「搾りを始めました」という意味が込められている、とのこと。
 吊るされたばかりの酒林(杉玉)はまだ蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を知らせる働きをする、らしい。
 元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったとされています。起源は、酒神大神神社(かつて、各地の酒樽が神前に見上げるほどの高さで積み上げられているを見たことがあります。ご神体は三輪山自体とか。)の三輪山のスギにあやかったという。スギの葉は酒の腐敗をなおすからスギの葉をつるすという説もあるらしいです。
 
 ここは、工場も見学でき、一合升の利き酒も販売中。他にも何軒か大きな造り酒屋さんがありました。
「本舗飛騨さしこ」のお店。
 独特の佇まいの職人芸の店。さらっとしか店内を見ただけ。HPを見て改めてその趣の深さに驚きました。じっくり見学して何かお土産に買ってくればよかった、と。
 
 そこで、「飛騨刺し子本舗」のHPより。

ひと針、ひと針。
一目ずつ数えながら、丁寧な手仕事で。
昔ながらの手仕事文化を丁寧に守りながら、小京都と呼ばれる飛騨高山で刺し子作品を制作し続けている職人集団が本舗飛騨さしこです。
ITには疎いお母さん、おばあちゃんの会社。
それでも一人でも多くの方に刺し子を知ってもらい、興味を持ってもらって、また好きで頂ける様に、このウェブサイトを運営しております。
このサイトでは刺し子には不可欠な専門糸や針等の道具のご紹介や販売、また私達が制作している作品のご紹介や販売を行っております。
もっともっと刺し子の技術や文化を知って頂けたらと、私たちの歴史やテクニックも紹介しております。
刺し子という手仕事、また伝承工芸。
大量生産大量消費の世の中で、この慈しむべき文化を後世に残したいと思っています。
私たちの一番伝えたいメッセージは作品の中に詰まっています。それは手仕事の温かさです。本店にお立ち寄り頂き、実物を手に取って見て頂く事。刺し子の息吹を感じて頂く事が何よりもシンプルで力強い私たちのメッセージです。
と同時に、飛騨高山までお越し頂けない遠方の方の為に、また一度お越し頂いた後も私たち飛騨さしこを応援頂ける方々の為に、ウェブサイトでの情報発信も常に更新していく所存です。
実店舗では伝えきれない想いや刺し子の文化もあります。
是非、ごゆっくりと刺し子について、また私たち飛騨さしこについてご覧頂けましたら幸いです。

この方が店の奥で手作業中でした。
ついでに作品をHPより。



暮れなずむ街並み。
そぞろ歩きの人で賑やかな「観光通り」からちょっと北にむかったところ。落ち着いた古い街並み。古い家々に営まれる生活が感じられます。
下二之町大新町地区。日下部民藝館、吉島家住宅など。ここで、時間切れ。高山駅まで戻らねば・・・。では、また来られる日まで。 

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御蔵。御一新。柿葺き。・・・。(40年ぶりの飛騨高山。その4。)

2013-04-25 23:32:38 | 歴史・痕跡
 「御蔵」。年貢米の蔵。高山の歴史資料館にもなっていて、展示品も数多くあります。
左側に見える建物。一番蔵から12番蔵まで(手前の空地に4つの蔵があった)、8つ残されています。
軒下。全国でも最古・最大級の米蔵、らしい。元禄8年(1695年)に高山城三之丸から移築されました。
雪深い土地柄故、軒の長さ・傾斜などに工夫あり。
鬼板。屋根の上部に取り付けたもの。
柿(こけら)葺き。
柿という漢字を書いて「こけら」といいます。板葺きの一種で、「こけら=薄い木片」を重ねて敷き詰めた屋根のこと。
 この写真のように、小さな薄い板を上下左右に何枚も重ね合わせて屋根を葺くことにより、雨水の浸透を防ぎます。(修復用にでしょうか、この薄い板が土間のところにたくさん重ねて置いてありました。)歴史は古く、奈良時代から既に屋根材として用いられていたようです。
 ちなみに劇場の初興行を「こけら落とし」といいますが、この「こけら」と柿葺きの「こけら」は同じ意味で木屑または木片を指し、新築や改装の工事の最後に、屋根などの「こけら」を払い落としたことから、完成後の初めての興行を「こけら落とし」と言うようになりました。
「杮(こけら)」という字は「柿(かき)」と同じに見えるが、「(かき)」は「木部五画(旁が「亠+巾」)」なのに対し、「(こけら)」は「木部四画(縦棒が繋がる)」。
 しかし、両者は明確には区別されておらず、両方とも「柿(木部五画)」とするものや、両字は同じ字の別字体と説明するものもあるようです。JIS規格では「柿(木部五画)」が両方の字を包摂するものとしています。これに対し、字義を考えれば「こけら」は「(木部四画)」で書くべきとする説も。

屋敷の遠望。手前に、桃の木が見えます。
南側の軒先。かなり大きく長い蔵になっています。
御一新後の「御触書」の高札。他にも、一揆(騒動)の顛末や遠島・死罪になった人の覚え書き、遺書などや幕藩体制下の政治・経済の仕組みなどのさまざまな展示品があります。興味深いものが多々。
旧「高山町役場」の建物。古い町並みの中に歴史・民俗関係の資料館が点在しています。一日まして半日ではとうてい見学できません。


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高山陣屋。御白洲。阿倍仲麻呂。・・・。(40年ぶりの飛騨高山。その3。)

2013-04-24 20:44:01 | 歴史・痕跡
「高山陣屋」。

 高山城主金森氏の下屋敷の一つでした。金森氏が上ノ山(山形県)へ移されてからは、徳川幕府の直轄地となり、江戸から代官や郡代がきて、ここに役所をおき飛騨の政治をとりました。
 役所を「高山陣屋」とよび、おふれを出したり年貢の取立てなどをしました。直轄地時代は、明治まで25代177年間続きました。クレ葺屋根の門の扉に残るしみは梅村騒動で農民に殺された門番の血痕といわれています。
玄関を入った正面壁には、郡代の格式を示す(青海波)模様があります。内部には、御役所、御用場、大広間、役宅、吟味所、白州などのほか裏手には、高山城三の丸から移した御蔵(米藏)8戸前(藏は戸前とかぞえる)も昔のまま残されています。かつて年貢米を保管した藏で天領時代の歴史を物語る資料が展示されています。大原騒動で打ち首となった本郷村(現在高山市上宝町)の農民善九郎が妻に送った遺言状の文面には胸をうたれます。
 明治に入ってからは、県庁、郡役所、支庁、県事務所など代々、地方の役所として使われてきました。郡代役所の建物が残っているのは全国でも高山だけです。(以上、高山市観光課HPより)
掲示板「史跡 高山陣屋跡」。
正面入り口。ボランティアの方々が清掃や案内など行っているようです。さすが幕府直轄地。葵のご紋です。
広い敷地内に表屋敷、米蔵などの建物があります。左の建物が吟味所・御白洲。この内部に興味深い展示。手前が井戸。
梅の古木。
刑事事件の取り調べを行ったところ。拷問用の重たい「抱石」や鋭い三角の「責石」など展示されています。窓からの日差しが明るい分、かつて行われていただろう検分・取り調べの凄さが・・・。珍しいものを見学。英語の説明版もあり。
「仮牢屋跡」もともとは「薪炭小屋」天保年間に「仮牢屋」留置場として使用された。その奥が「御白洲」。幕府の直轄地が故の犯罪者への厳しい取り調べも。騒動の首謀者として(東京の)新島に送られた人も。その記録が「蔵」の掲示室にありました。ここで新島が登場するとは意外でした。
御役所、御用場の濡れ縁。建物の中は、下足を脱ぎ、見学します。けっこうぐるぐる見て回る。広大な敷地に用途別の建物・部屋の数々。
複雑な配置になっています。
庭。
土間。
明かり窓。
嵐山の間(郡代が生活した場所)の床の間の掛け軸。中国に渡った阿倍仲麻呂が帰国途中に難破して亡くなったと伝えられた時に李白が作った追悼の七言絶句「哭晁卿衡」が懸けられていました。

「日本晁卿辞帝都」
日本の晁卿(ちょうけい)帝都を辞し=日本の晁衡卿は帝都(長安)を辞去し

「征帆一片遶蓬壷」
征帆一片(せいはんいっぺん)蓬壷(ほうこ)を遶(めぐ)る=帆を張った舟は蓬莱山をめぐって行った。

「明月不帰沈碧海」
明月は帰らず碧海(へきかい)に沈み=明月のような君は青い海に沈んで帰らず

「白雲愁色満蒼梧」
白雲愁色蒼梧(そうご)に満つ=白雲がうかび、愁いが蒼梧に満ちている

※「晁卿」=阿部仲麻呂。「蓬壷」=蓬萊山。蓬莱は、古代中国で東の海上にある仙人が住むといわれていた仙境の一つ。「蒼梧」=諸説あるが、晁衡の乗った難破船がたどり着いたのが現在のベトナムであることから、前漢から唐時代に置かれた交趾郡にある蒼梧県(ベトナム北部紅河中下流域地域、中華人民共和国広西チワン族自治区梧州市)を指すと考えられている。

そこで、「阿倍仲麻呂」について。

 文武天皇2年(698年)、阿倍船守の長男として大和国に生まれ若くして学才を謳われた。霊亀3年・養老元年(717年)、第9次遣唐使に同行して唐の都・長安に留学します。同期の留学生には吉備真備や玄がいました。
 唐の難関だった官吏登用試験「科挙」に合格し、唐の玄宗に仕えることになります。仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李白・王維ら多くの唐の詩人と親交がありました。
 天平勝宝4年(752年)衛尉少卿に昇進。この年、第12次遣唐使一行が来唐。すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国することになります。この時、王維は「秘書晁監(「秘書監の晁衡」の意)の日本国へ還るを送る」という別離の詩を詠んでいます。
 しかし、仲麻呂の乗船した船は暴風雨に遭って南方へ流されてしまいます。このとき、李白は彼が遭難死したという誤報を伝え聞き、上記の「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼みました。
 実際には仲麻呂は死んでおらず、船は漂流して安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着。結局、仲麻呂一行は天平勝宝7年(755年)には長安に帰着しました。この年、「安禄山の乱」が起こったことから、身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝は行路が危険である事を理由に帰国を認めませんでした。
 仲麻呂は帰国を断念し、唐で再び官吏の途に就き、天平宝字4年(760年)には鎮南都護・安南節度使として再びベトナムに赴き総督を務めました。天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)まで6年間、ハノイの安南都護府に在任し、天平神護2年(766年)安南節度使を授けられました。結局、日本への帰国は叶えられることなく、宝亀元年(770年)1月に73歳の生涯を閉じました。数奇な人生を送った人物の一人。

 阿倍仲麻呂の歌として有名なのは『小倉百人一首』にも採られた「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」これも、望郷の歌。

大広間。奥の掛け軸は「忠」「孝」。
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抗加齢科。ジャズが流れる高山ラーメン。・・・。(40年ぶりの飛騨高山。その2。)

2013-04-23 21:25:55 | つかのまの旅人
 むしろ、「はじめての高山」といった方が正しい感じです。たしかに見所満載。日曜の夕方と月曜の午前中。ぶらりと散策。中国人など外国人観光客が多く目につきました。先週が春の「高山祭」。屋台を繰り出しての大がかりな祭。

 高山祭は日枝神社の春の山王祭(4月14・15日)と、桜山八幡宮の秋の八幡祭(10月9・10日)の総称で、日本三大美祭のひとつに上げられています。
 祭の起源は飛騨の領国大名金森氏の時代(1585~1692年)、屋台の起こりは1718年頃にさかのぼります。
巧みな人形の動きを披露するからくり奉納、仕掛けが施された戻し車など、屋台にも匠の技が生きています。
 総勢数百名におよぶ祭行列は、闘鶏楽や裃姿の警固など伝統の衣装を身にまとい、お囃子や雅楽、獅子舞に先導され祭地域をまわります。夜に入ると各屋台はそれぞれ100個にもおよぶ提灯を灯し、艶やかに夜の闇を飾ります。飛騨人の意気が高まる高山祭。高山の揺るぎない誇りです。
春の高山祭・・4月14日・15日
秋の高山祭・・10月9日・10日                (以上高山市HPより)
 
 高山祭は京都の祇園祭、秩父の秩父夜祭と並んで日本三大曳山祭の一つに数えられているそうです。

「高山陣屋」前、宮川に架かる「中橋」を渡るようす。
祭の屋台は、各町内の屋台蔵に保管されていて、街中を歩くと、いたるところで正面に大きな扉のついた白壁の土蔵のような「屋台蔵」があります。琴高台。
崑崗台。
飛騨国分寺塔跡(奈良時代)七重大塔の心礎(心柱の礎石)、上面に径1.3メートルの円柱座と舎利孔がある。
その隣にあった「カメ」状の大きな石。特に説明板はなかった。
古い街並み。伝統的建造物群保存地区。
土産屋さんとか喫茶店などが多い中で、こうしたお医者さんなどもあり、日常生活とマッチしながら保存されているところがすばらしい。
番外編1
「筏橋」手前の古くからあるお医者さん(らしい)門前の看板「抗加齢科」がとてもタイムリー。
番外編2
 ご当地ラーメンを食べるのは、最近の傾向(福岡が地元の友人に、博多で「一蘭」に入ったと言ったら複雑な笑いをされましたが・・・)。ここは「高山ラーメン」を。そこで、駅前のあまり人も入らなそうな「無名」?のラーメン店。おばさんが一人でまかなっている。
 けっこうおいしかった。何よりもいいのは、店内にモダンジャズが流れていること。その前に座ってしばし聞き惚れた。すてきな店でした。隣の「鶏ちゃん家」が賑わっているらしいが。
 帰りの列車では、飛騨牛の寿司を昼飯にしました。これもおいしかった!

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高山本線。雪景色。満開のサクラ。・・・。(40年ぶりの飛騨高山。その1。)

2013-04-22 23:34:02 | つかのまの旅人
 お祝い事があって、飛騨高山に。20代の後半、名古屋から夜行列車でここまで来て、バスに乗り継ぎ、新穂高温泉経由で北アルプス・槍から西穂まで縦走したときに来て(通って)以来のこと。その時は降り立っただけ。ということで新幹線と特急を利用しての旅。それでも、我が家の最寄り駅から東京~名古屋~高山駅まで、乗り換え時間も含めて、約5時間。飛行機で沖縄に行くよりもはるかにかかる。日本は狭いようでまだまだ「広い」。なるほど、高山は、岐阜と長野と富山と、本州の名だたる山並みのへそみたいなところに位置しているのを、実感。
 ところで、「高山本線」。本州では「本線」とついていながら、唯一、地方交通線に分類されているそうです。それに非電化。
 久々に気動車に乗りました。ディーゼル・カー。独特の懐かしい、うなり声をあげながら上っていく風情がなによりよさそうでした。この「本線」、岐阜から富山までの区間。飛騨高地の山間部を木曽川・飛騨川沿いに走り、名古屋・中京と富山・北陸を結んでいます。生活路線というより、途中にある「下呂温泉」や高山市、飛騨市への観光路線としての性格が強そうですが、名古屋からの乗客は、日曜日でもそれほど乗ってはいませんでした。高山には大勢の外国人観光客がいましたので、大型バス輸送が中心になっているのでしょう。
 電化の計画・構想もあったようですが、立ち消え。それでも、国鉄時代の早い時期から列車行き違い設備の増設や列車集中制御装置 (CTC) の導入といった輸送近代化が行われ、列車の増発が可能になり、国鉄分割民営化後は、岐阜駅 - 高山駅間において行き違い可能駅で両開き分岐器(Y字ポイント)を高速通過が可能な型に取り換えるなど、気動車も新鋭の機種に変えて電車特急に負けないほどの高速運転が行えるようになったようです。
 ワイドビュー「ひだ」号。国道41号線とほぼ同じルートを流れを渡り、渡り返しながら、だんだんと高度を上げて高山に向かいます。沿線は、飛騨木曽川国定公園に指定されているだけあって、2時間30分ほど、美しい遠くの山々や渓谷美が楽しめます。桜がようやく満開を迎え、そして、時ならぬ名残り雪の景色でした。浅い緑一面の山々と深い水の青さと大小様々な岩の間を縫う急流。・・・。
一面の雪景色。
高山の手前付近。

「宮川」沿いに桜などの木々が。
流れに被さるような満開のサクラ。
少し風が冷たいですが、散策にはほどよい季節。
シダレザクラ。
「筏橋」。
ソメイヨシノ。
梨の花。

帰りは穏やかな川面の春景色に。列車での長旅もたまにはいいもです、疲れますが。



 
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読書「猫トイレット荒神 母の発達・永遠に」(笙野頼子)河出書房新社

2013-04-20 14:51:58 | 読書無限
 これを書いている側で、17歳の「TAROU」が我が輩の顔をなめ回し、特に、風呂上がりの時は執拗になめ回す。今はそっぽを向いているので、これを書く。しっぽはこっち向き。しっぽで我が輩の気配を読み取っている。愛猫の死を笙野流の落し前のつけ方。ついでに永遠の母へのこだわりよう。と書いていると、またこっちの頭(白髪頭)をなめ回す。同じような白さ故。実は、そのあとTAROUさん、口から戻すことも。それをティッシュで拭き取る。だから、なめるをやめなさい、といつも言っているのに、性懲りもないんだから・・・。そういうわけで、ここまで。あとはこの次。なんですか、おじいさん(猫)。笙野さんの作品は、だからおもしろくて、こだわりがあって、止められない。今度は、パソコンの上に手(前足)をかけておちついてしまった老猫(同病)、相哀れむ風情。なにしろ、東京地方。冬に逆戻りの曇り空。こたつはないし、ここが今のところ居心地がいいのでしょうね。伸びをしてうつむいて、じっとたたずむ。もう一人はどこにいるのやら。こちらも年寄り猫です。どうもTAROUを観察している(遊んでいる、からかわれている・・・)方が、今はいいようで。
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読書「歴史が後ずさりするとき―熱い戦争とメディア」(ウンベルト・エーコ)岩波書店

2013-04-18 23:04:25 | 読書無限
 大部だが刺激的な書。一気に読み進められた。イタリアの評論家の書。訳者(リッカルド・アマデイ。この人もイタリア人。)のあとがきによれば、原題は、「A passo di gambero.Guerre calde e populismo mediatico」(「エビの歩き方で。熱い戦争とメディアのポプピュリズム」このくらいなら私でも訳せるね)。エビは前へ進むとき、後ずさりするような格好になる。当人は、前進しているつもりだが、端から見る(別の観点から見れば)後退しているように見える。その意をくんで表題にした、とのこと。9・11以降の世界情勢を緻密に分析しながらの現代批評論集。現代イタリアの知識人の書を読むことは(古典以外では)、ほとんどなかったので新鮮な印象を持った。
 一方で、言語学者としての学識をもとに、絶好の機会を得て、今の時代(政治・文化・社会・・・)への厳しい視線と、それでも希望を失わずになんとか混沌とした世界に対峙していこうとする人間的な眼差しのおかげで、納得しながら読み進められたことがよかった。
 グローバリゼーションがいっそう進む中での軍事衝突、宗教のみならず政治の世界に於いても、新たな「原理」主義の台頭。そうして、これまではそうした傾向に対して、批判的に警鐘を鳴らしてきたマスコミ・メディア(とりわけTV)。ますますとめどなく愚にもつかないほど大衆娯楽化していく一方の様相を呈している。
 「社会が狂信と軽信にますますおおわれ」、(あとがき)歴史が進歩に向かって(より英知を発揮して)進むというよりも、後ずさりはじめたかに見える21世紀。もとの書の刊行は、2006年。7年前のものではあるが、こうして日本語訳が刊行され目を通したとき、2013年の今を先取りする先見性に改めて、感心。
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両国橋~隅田川河口まで(隅田川の歴史をたどる。その2)

2013-04-17 22:55:24 | 隅田川

 両国橋の下流、隅田川とを結ぶ竪川(人工の堀)で遊歩道は途切れて、ぐるっと回り道。
竪川(一之橋)側からみた水門。
 一之橋から東にかけて、竪川に架かる橋は、二之橋(清澄通り)、三之橋(三ツ目通り)、四之橋(四つ目通り)と続き、五之橋はJR亀戸駅付近を通る「明治通り」に架かる橋となっています。
新大橋西詰めにある大正12年に起こった関東大震災「避難記念碑」。碑文によれば、神の助けと人智により、隅田川に架かっていた橋の中で焼け落ちなかった「新大橋」上で九死に一生得たことを記念したもの、と。
見上げるほど大きな碑。
「日本銀行」発祥の地。永代橋西詰付近。
 碑面には 「創業時の本館」の図が彫られたプレートが取り付けられています。
碑文 日本銀行創業の地
 明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
 明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
 創業百周年を記念してこの碑を建てる
      昭和五十七年十月
         日本銀行総裁  前川春雄

 日本橋川、隅田川、新川に囲まれたこのあたり一帯は、「霊岸島」と呼ばれた地域。今は一大商業地域ですが、そこここに歴史的な記念碑などが多くありますが、今回は省略。
日本橋川河口(隅田川との合流点近く)に架かる「豊海(とよみ)橋」。昭和2年関東大震災復興事業の一つとして鉄骨橋になった。橋の形式は、フィーレンデール橋(考案者の名前をとった)。ハシゴを横にしたようなこの橋は、日本では数例しかなく希少価値の高い橋。
解説版。由来とともに、永井荷風の「断腸亭日乗」の一節が記されています。
「日本橋川」の西側を望む。
「南高橋」。「日本橋川」から分岐した「亀島川」が隅田川に注ぐ地点にあります。
「南高橋」の説明板。

創架年代は、昭和六年(一九三一)に起工、同七年三月に竣工。
現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正十二年(一九二三)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。
東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治三十七年(一九〇四)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。
 都内において、珍しくも明治三十七年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで二番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。   
 平成十四年三月 中央区教育委員会
 

 ここにも記されているように、この橋の橋梁は、関東大震災で損害を受けた旧両国橋(明治三七年建造)の鋼鉄トラス橋の一部を使用しました。都内に残る鋼鉄トラス橋としては2番目に古い橋(車両通行可能橋梁としては最古。全国でも6番目に古い橋となっています)。
両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めたもの。

「中央大橋」にある彫刻家オシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」と名づけられた彫像。
 隅田川とフランスのセーヌ川とは、1989年(平成元年)に友好河川を提携し、中央大橋を架ける際に、フランスのデザイン会社に設計を依頼しました。主塔および欄干部分は、「兜」を意識したデザインになっている、ということです。
(「Wikipedia」より拝借。)
 彫像は川側を向いており、橋をくぐる水上バスからしか正面が見えません。
遠くにスカイツリー。
銘板。
月島方向を望む。

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両国橋~隅田川河口まで(隅田川の歴史をたどる。その1)

2013-04-16 19:21:09 | 隅田川

 といってもなかなか河口にたどり着きません。久々に隅田川の旅を試みました。今回は吾妻橋から東側(左岸)を。まだまだ歴史の古さを感じさせるものがあって。やっと「永代橋」の下流の橋「中央大橋」まで。往復約3時間30分の自転車の旅。「勝鬨橋」までまだまだ遠い。
 テラスには、区立の小学校や中学校の卒業制作の作品が展示されています。また、歴史を偲ばせる浮世絵や写真が掲示されています(「東京江戸博」所蔵のもの)。総武線の鉄橋が見える。
隅田川のボートレース。昭和29(1954)年の全日本選手権にケンブリッジ大学からも参加したときのものらしい(言問橋上空から上流を望む)。右岸(西側)に見える川筋は「山谷堀」。現在の桜橋・西のたもと付近。
安政の大地震後に新しく架けられた両国橋渡り初め。親子三代の一家を先頭に渡るのが慣わし。
こちらも同じだが、夫婦揃っての三代の一家という。遠くに筑波山。
川沿いのフェンスには、相撲の48手が描かれている。
両国橋のたもとの広小路の賑わい。
かつての橋は現在の橋よりも少し下流にあった。その説明板。
「赤穂浪士休息の地」。実際には、両国橋を渡らずに一之橋から永代橋を渡って泉岳寺に向かった。
「春日野部屋」。堂々とした建物。かつての広小路付近。

ここで、「春日野部屋」出羽の海一門の相撲部屋(名門に属するか)。 
 1925年(大正14年)5月場所に現役を引退した出羽海部屋所属の第27代横綱・栃木山が、引退に伴い自身の養父である行司・木村宗四郎が所有する年寄名跡である年寄・春日野を襲名して、当時「分家を許さず」の不文律があった出羽ノ海部屋から例外的に独立を許されて春日野部屋を創設した。8代春日野は横綱・栃錦などの関取を育て上げた。
 8代春日野は1959年(昭和34年)10月に死去し、それに伴い、春日野部屋所属の横綱・栃錦が現役力士のまま二枚鑑札で9代春日野を襲名して部屋を継承した。9代春日野は1960年5月場所に現役を引退して年寄専任となり、以降、師匠として横綱・栃ノ海や大関・栃光、関脇・栃東、関脇・栃赤城、関脇・栃乃和歌などといった多くの関取を育て上げた。
 約30年にわたり師匠を務めた9代春日野は1990年(平成2年)1月に死去し、それに伴い、春日野部屋の部屋付き親方である中立親方(元横綱・栃ノ海)が10代春日野を襲名して部屋を継承した。10代春日野は関脇・栃乃洋や小結・栃乃花などといった関取を育て上げた。
 その後、10代春日野の定年退職を1ヶ月後に控えた2003年2月に、春日野部屋の部屋付き親方である竹縄親方(元関脇・栃乃和歌)が10代春日野と年寄名跡を交換する形で11代春日野を襲名して部屋を継承した。11代春日野はこれまでに栃煌山や栃ノ心、栃乃若などといった関取を育てている。
 春日野部屋の力士には、開祖の栃木山に因んで四股名に「栃」の字が付けられた力士が多い。1938年(昭和13年)5月場所以降、1967年9月場所を除いて幕内力士を絶やしていない。2012年2月13日に田子ノ浦部屋の師匠である田子ノ浦親方(元幕内・久島海)が急逝したため、同年3月場所前に幕内・碧山を始めとする力士3人が田子ノ浦部屋から所属力士として加わった。
(以上、「Wikipedia」による。)
 我々の世代にとっては、何と言っても9代春日野親方(第44代横綱の栃錦)。またその跡を継いだ第49代横綱の栃ノ海ですね。

その前の道路。現在は問屋街。むやみに幅広い道。広小路の名残り?
けっこうな広さの道筋。
「尾上町」跡。隅田川と竪川との合流点付近。
竪川の水門。
箱崎に向かう首都高。



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「独裁者」(古きよき映画シリーズ。その33。)その2。

2013-04-11 19:11:58 | 素晴らしき映画
 最後の演説のシーン。英文で紹介します。

I'm sorry but I don't want to be an Emperor. That's not my business.
I don't want to rule or conquer anyone.
I should like to help everyone if possible, Jew, gentile, black man, white.

We all want to help one another, human beings are like that.
We all want to live by each other's happiness, not by each other's misery. We don't want to hate and despise one another.
In this world there is room for everyone and the earth is rich and can provide for everyone.

The way of life can be free and beautiful. But we have lost the way.
Greed has poisoned men's souls has barricaded the world with hate, has goose-stepped us into misery and bloodshed.
We have developed speed but we have shut ourselves in, machinery that gives abundance has left us in want.
Our knowledge has made us cynical, our cleverness hard and unkind.

We think too much and feel too little,
more than machinery we need humanity,
more than cleverness we need kindness and gentleness,
without these qualities, life will be violent and all will be lost.

The aeroplane and the radio have brought us closer together.
The very nature of these inventions cries out for the goodness in men, cries out for universal brotherhood for the unity of us all.
Even now my voice is reaching millions throughout the world, millions of despairing men, women and little children,
victims of a system that makes men torture and imprison innocent people.
To those who can hear me, I say "Do not despair".

The misery that is now upon us is but the passing of greed,
the bitterness of men who fear the way of human progress,
the hate of men will pass and dictators die,
and the power they took from the people will return to the people,
and so long as men die, liberty will never perish.

Soldiers, Don't give yourselves to brutes,
men who despise you and enslave you - who regiment your lives,
tell you what to do, what to think and what to feel,
who drill you, diet you, treat you as cattle, as cannon fodder.

Don't give yourselves to these unnatural men, machine men, with machine minds and machine hearts.
You are not machines. You are not cattle.
You are men.
You have the love of humanity in your hearts.
You don't hate, only the unloved hate. Only the unloved and the unnatural.
Soldiers! Don't fight for slavery, fight for liberty.

In the seventeenth chapter of Saint Luke it is written "the kingdom of God is within man" -
not one man, nor a group of men - but in all men - in you, the people.

You the people have the power, the power to create machines, the power to create happiness.
You the people have the power to make life free and beautiful, to make this life a wonderful adventure.

Then in the name of democracy let's use that power - let us all unite.
Let us fight for a new world,
a decent world that will give men a chance to work, that will give you the future and old age and security.

By the promise of these things, brutes have risen to power, but they lie.
They do not fulfil their promise, they never will.
Dictators free themselves but they enslave the people.

Now let us fight to fulfil that promise.
Let us fight to free the world, to do away with national barriers, do away with greed, with hate and intolerance.
Let us fight for a world of reason, a world where science and progress will lead to all men's happiness.
Soldiers! In the name of democracy, let us all unite!

Hannah, can you hear me?
Wherever you are, look up Hannah.

The clouds are lifting, the sun is breaking through.
We are coming out of the darkness into the light.
We are coming into a new world.
A kind new world where men will rise above their hate, their greed and their brutality.

Look up Hannah.
The soul of man has been given wings - and at last he is beginning to fly.
He is flying into the rainbow - into the light of hope, into the future,
the glorious future that belongs to you, to me, and to all of us.
Look up hunna. Look up.



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「独裁者」(古きよき映画シリーズ。その33)その1。

2013-04-10 23:24:44 | 素晴らしき映画
《あらすじ》 
 第一次世界大戦の戦場。チャップリン(床屋のチャーリー)は、召集されてトメニア国の陸軍重砲部隊に所属する二等兵。前線で味方とはぐれたチャーリーは、負傷した飛行士官のシュルツを救出し、飛行機で飛び立つが、燃料切れにより墜落してしまう。九死に一生を得たチャーリーは病院へ。そこで、トメニアが降伏していたことを知る。
 大砲の弾丸が不発の場面、逆さづりの状態の飛行機の場面が抱腹絶倒。

 チャーリーは墜落のショックで記憶を失い、以後の20年を病院で過ごすことになる。
 この間にトメニアに政変が起こり、アデノイド・ヒンケル(チャップリン:一人二役。たまたま床屋のチャーリーと、うり二つ。)が独裁者として君臨し、内務大臣兼宣伝大臣ガービッチ(ヘンリー・ダニエル)と戦争大臣ヘリング元帥(ビリー・ギルバート)の補佐を受けつつ、自由と民主主義を否定し、国中のユダヤ人を迫害する。

 チャーリーは病院を抜け出し、ゲットーにある集合住宅にある店舗兼自宅に戻ってくる。ほこりが積もった理髪店のありさまに呆然とする。彼は突撃隊が自分の店の窓にペンキで塗った「ユダヤ人のレッテル」を消そうとして、大勢の突撃隊に取り囲まれ、吊るし首にされる。
そこに、かつて戦場で命を助け、今は突撃隊長になっているたシュルツが通りかかり、自分と恋人ハンナたち一緒に住む人々の身の安全を保証される。
恋人ハンナ。 
 ヒンケルはオーストリッチ国への侵略を企て、ユダヤ系の金融資本から金を引き出すため、ユダヤ人への抑圧政策をいったんは緩和するが、資金援助を断られたヒンケルは、ユダヤ人に対して怒りを露わにし、シュルツにゲットーを襲うように命令する。
 これに対し、シュルツはユダヤ人迫害は党の利益にならないと反対したため、ヒンケルは彼をすべての役職から解き、強制収容所にぶち込んでしまう。
 突撃隊は、ゲットーへの襲撃を行い、床屋のチャーリーの店は破壊されてしまう。ハンナは隣国オストリッチへの亡命を提案する。強制収容所から脱出したシュルツはゲットーに逃げ込み、ヒンケル体制の転覆を計画するも発覚、チャーリーとともに捕えられ、強制収容所に送り込まれてしまう。
 ハンナと彼女の両親らはオストリッチへ亡命し、新たな生活を始めた。
 しかし、世界の皇帝として君臨する野望を抱くヒンケルはオストリッチへの侵略を諦めなかった。この侵略計画は、近隣のバクテリア国の独裁者・ベンジノ・ナポロニ(イタリアのムッソリーニをさす)によって反対され、2人の独裁者の間で激しい交渉があり、両者はいったん妥協するが、ヒンケルは妥協を反故にしてオストリッチ侵攻を決行。

 オストリッチに脱出していたハンナたちは再びヒンケルの支配下に置かれ、深い悲しみと絶望に。
 シュルツとチャーリーはトメニアの軍服を着て、強制収容所から逃げ出した。このとき、チャーリーがヒンケルにそっくりだったこととシュルツと一緒だったので、将兵たちはチャーリーを本物のヒンケルと間違えてしまう。
 反対にヒンケルは侵攻に備えて、狩猟旅行を装ってオストリッチ国境付近で偵察中、脱走したチャーリーと間違えられて配下の兵士に逮捕されてしまう。

 チャーリーはヒンケルと間違えられたまま、トメニア軍に占領されたオストリッチの首都へ連れていかれる。

ガービッチが演説を行ったのに続いて、
演台に立ったチャーリーは、人種の壁を越えた融和を訴え、ヒューマニズムに基づく演説を行う。何万という兵士たちの大きな拍手の中、チャーリーはハンナへラジオを通じて語りかける。
冒頭のテロップ。
独裁者ヒンケルが地球のバルーンをもてあそぶ場面。きわめて情緒的な音楽が奏でられる中、突然バルーンが破裂し、音楽が止まる、という見事な手法。
「ハンガリー舞曲第5番」をバックにしたひげ剃り。

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「Modern Times」(古きよき映画シリーズ。その32)

2013-04-09 19:28:27 | 素晴らしき映画
 久々に。
 チャップリンの数々の名作の中の一つ。機械文明に象徴されるアメリカ資本主義社会の中で生きぬく市井の人の姿。人間の尊厳が失われ、人間が機械の一部分のようになっている世の中を笑いで表現しています。
 トーキー映画が登場した中、前作の『街の灯』(1931年)からチャップリンは、サイレントながらも自作の映画音楽を映像にのせ、その才能ぶりを披露しました。

《あらすじ》
 最新鋭の大型動力機械を備えた工場で働くチャーリー(チャーリー・チャップリン)。ベルトコンベアーで運ばれてくる部品のねじ回しを続ける単純作業の繰り返し。
機械のリズムで働いているうちに、精神的にいかれてしまう。
工場の機械の速さは、工場資本家の気分次第で決まる。
自動食事装置に振り回されるシーン。
歯車に巻き込まれるシーン。
 やがて退院するが、トラックにくくりつけられた赤旗を拾ってふりかざし、デモのリーダーと間違われ、捕まってしまう。このときは、脱獄囚を撃退した功績で模範囚として放免され、仕事も紹介されたがうまくいかず、やはり街をうろつく生活に戻る。
 そんな中、チャーリーは浮浪少女(ポーレット・ゴダード)と出会う。意気投合したチャーリーは、2人のために豊かな生活を築くという夢を叶えるために働き出す。デパートの夜回り(ここでは、見事なローラースケートを披露)

 や工場の技師の助手をするが、2件とも警察沙汰になるという結果。
 やっと少女が勤め始めたキャバレーのウェイターの職を得て、少女のダンスやチャーリーの即興の歌によって拍手喝采を受けるが、少女の過去に犯した盗みの罪のため、そこも追われてしまう。
 そして、2人は、新たな希望を求め、地平線の彼方に向かって旅立っていく。

 この作品の中では次の2曲が有名で、今でも演奏されます。 

ティティナ
 1917年にフランスの作曲家レオ・ダニデルフ(英語版)によって "Titine Je cherche après Titine" というタイトルで作曲され、本作で使用されて世界的に有名なメロディとなった、とのことです。チャップリンが初めてスクリーンで肉声を発したとして、有名です。即興ででたらめな外国語(一説にはフランス語風)による歌となっています。


スマイル
 本作のラストシーンでの印象的な曲。

 この曲は、チャップリン自身が作曲。その後、ナット・キング・コールやマイケル・ジャクソン、ダイアナ・ロスらがカバーしている。
 また、チャップリンがアメリカを追放されてから20年後、再びアメリカの地を踏む契機となった第44回アカデミー賞授賞式のフィナーレで、彼がオスカー像を受け取る際、会場のゲスト全員で歌詞の付いたこの曲が歌われました。
(付)
 1945年、第二次世界大戦が終結し、ソ連をはじめとする東欧諸国との冷戦が始まったアメリカでは、彼の作風が「容共的である」とされ、非難の的とされました。特に、1947年公開の『殺人狂時代』以降はバッシングも最高潮に達し、1950年代に入り、ジョセフ・マッカーシー上院議員の下、赤狩りを進める非米活動調査委員会から、他の俳優や監督とともに何度も召喚命令を受けます。
 1952年、ロンドンで『ライムライト』のプレミアのために向かう船の途中、事実上の国外追放命令を受けます。そのため、スイス・ローザンヌのアメリカ領事館で再入国許可証を返還することに。
 アメリカを去ったチャップリンは、映画への出番も少なくなりましたが、スイスの広大な邸宅「マノワール・ド・バン」に移り住み、晩年を送ります。
 1972年、アカデミー特別賞授賞式に出席するため、20年ぶりにアメリカの地を踏みます。この賞は、彼の国外退去を阻止できなかったハリウッドからの謝罪を意味しました。そして、舞台に登壇したチャップリンに対し、会場にいる全ての者がスタンディングオベーションで迎えました。

「人間の機械化に反対して個人の幸福を求める物語」

 こんなタイトルで始まるこの映画は、近代工業社会を痛烈に風刺しました。
 オートメーション化された工場で労働者が機械のリズムで働かされるシーン、閉店後のデパートの中でチャーリーが目隠ししてローラースケートで滑るシーン、チャーリーの声が初めて聞くことができる「ティナティナ」を歌うシーン、最後に「スマイル」の曲が流れる中、チャップリンとゴダートが手をつないで地平線の彼方へ消えていくシーン、いずれも印象的です。
 この映画で取り上げられたテーマのいくつかは、現代社会の中で起こる人間疎外という現実に対する批判。機械化やそれに伴う徹底した合理化によって、労働者が非人間的な環境に置かれ、あるいは、仕事を失って失業者があふれてしまう状況に対する批判。さらに、成果主義によって労働者を酷使している資本家への抗議、等・・・。
 75年以上も前の作品にもかかわらず、これらの批判が今も的確になされているところに、この映画の真価があると思います。ますます徹底した成果主義・産業構造の合理化によって、「首切り」が当たり前の経済システムが進行しつつある現在の姿を改めて考えさせられる作品。

 余談:チャップリンがいつも愛用する靴。若者が好んで履くえらくつま先の長い革靴(幅広ではなく先のとがった)は、このまねだったのですかね。再発見!

 もちろん、「ドタ靴」「ステッキ」「アヒル歩き」というチャップリン・スタイルの復活ではありません。


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名実ともにアメリカの属州となる宣言集会の日。4・28。

2013-04-08 18:26:09 | 平和
全員一致で違憲破棄の意向=最高裁長官、駐日米公使に―砂川事件・米公文書(時事通信) - goo ニュース
 来る4月28日。菅官房長官「サンフランシスコ講和条約発効で日本は主権を回復したが、沖縄などは施政権の外に置かれ、大変な苦難の道を歩んだ。国民に事実関係を明らかにして、未来に開かれた式典にしたい。」と。
 野党も沖縄のことにふれているが、「沖縄切り捨て」の根本に、講和条約と同時に発効した日米安保条約の存在があることを、一言も言わない。
 4月28日は、こうして、反共シフトを固めつつあった「アメリカ」に身も心も売った日であったことが、今回の公文書公開で明らか。   今回、今までどの自民党政権下でもやらなかった「式典」を行うことになった。これは、北朝鮮を含む東アジア問題を奇貨として、TPPをはじめ、政治も経済も軍事もすべてアメリカの言いなりになることの路線を宣言(天皇も利用して)。従米救国という道を露骨に歩み出したアベ政権。それを「快哉」と絶賛するマスコミ、そして人々。・・・。後の責任はどうとるつもりか?
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「Monella1998」(Tinto Brass)(古きよき映画シリーズ。その31)

2013-04-05 19:39:33 | Tinto Brass
 「YouTube」で発見した、痛快な作品、といってもジャンルはポルノ。「MONELLA」は、イタリア語で「悪漢」。英語吹き替え?版では「FRIVOLOUS LOLA」(軽薄なローラ)。英語版で視聴しました。

《あらすじ》
The story takes place in northern Italy in the 1950's. Lola and Masetto is about to get married. Masetto wants to keep Lola as a virgin until they are married. But Lola is impatient to remain in chastity until the wedding night. She wants to be sure that Masetto is a good lover, before she commits herself into marriage. She does everything to trick Masetto into breaking the moral tradition.
《批評》
There are a lot of people who get turned on by voyeuristic shots - shots of the vagina from the rear, transparent clothing etc. Tinto Brass is the ace director for such movies. Monella is full of such shots. Lots of people think that his movies are nothing but XXX, I differ in their opinion.
All of us enjoy sex; priests and human rights people have made sex a taboo, so the general public think that showing such movies is not good to the society. In reality, it's the image that is present in people's mind. If the open up and think about this in the director's point of view, they will enjoy this movie to the fullest.
Tinto Brass had vision, he knew people are turned on by such movies and he directed it to such perfection that you will be his ardent fan,
I find all of his movies fascinating- 'caligola', 'le chaive', 'monella' etc...
Tinto is a great director, almost upto the ranks of Sergio Leonne who is famous for western spaghetti.
This movie is a must watch. Lola is an young women who is very horny. All she wants to do is to loose her virginity to her boyfriend, so that she can go about have sex with others and enjoy life. The whole movie is about her escapades.
I love the clothing she wears in the movie, no bra, takes of her panty in almost every scene. Beautiful shots of her fabulous breasts and vagina. Really, Tinto has done a wonderful job on this one.
 以上借り物のあらすじと批評でした。ですから引用文中の「I」は、私ではありません。念のため。(映像は、「YOUTUBE」より)
年寄りが鼻の下を長くして見る、というようなものではなく、あっけらかんとした映像にかえって圧倒されるほど・・・。
若い二人はパン屋で働いています。隙をみては抱き合う二人。でも、いつもローラの思惑通りにはいかない展開に。
積極果敢なローラ。戸惑う彼氏。
夢見るローラ。手がどこにあるのかはお楽しみ。
 このシーン(けっこう長い)のバックに流れる曲が「ビー・バップ・ア・ルーラ/ジーン・ヴィンセント Be Bop A Lula Gene Vincent」 (1956)。一世を風靡した曲。プレスリーなどと共に、ビートルズなどロックンロールシーンに大きな影響を与えたロックンロールの名曲です。

Well, be-bop-a-lula, she’s my baby
Be-bop-a-lula, I don’t mean maybe
Be-bop-a-lula, she’s my baby
Be-bop-a-lula, I don’t mean maybe
Be-bop-a-lula, she’s my baby love
My baby love, my baby love
・・・
 
 ジーン・ヴィンセント (Gene Vincent、1935年2月11日-1971年10月12日)は1950年代後半にアメリカ音楽文化を変えたロカビリーを代表するひとり。この曲は、今でも口ずさめる歌詞です。これがバックに流れているのですから、推して知るべし。懐かしいジュークボックスでのシーンなど、1950年代の時にはやった、開放的な音楽が流れる中でのローラの挑発が随所に。
オープニングとラストには人の良さそうなおじさんが
(どうもティント・ブラス監督自身のようだが)
指揮するブラスの音色が響く。イタリアらしい雰囲気の広場を行き交う人々。
結婚披露パーティ。青空の下、老いも若きも男も女も牧師さんも踊りに興ずる。
よりを戻す二人。
フラフープが登場したり、懐かしいツィストだったりして・・・。人々のおおらかな気質が軽快な曲に乗ってよく表れています。人間、いくつになってもこうでなくては・・・。
あれ、花嫁さんの下半身?
すかさずシャッターチャンスを逃さない。

 映画の中で使用された曲。

・NON,JE NE REGRETTE RIEN
・IN THE MOOD
・LET'S TWIST AGAIN
・FOLLE BANDEROOLA
・NESSUNO
・VORRE ISAPERE PERCHE ・・・
 他に主題歌「MONA MONELLA」。歌っているのは、主役のANNA AMMIRATI。
 監督のティント・ブラスは、以前投稿した「THE KEY」の監督でもあり、イタリアポルノ映画界の大物。かのポルノ大作「カリギュラ'Caligula'」の監督としてつとに有名。この作品は、何だかのびのびと描いている印象。

『カリギュラ』(Caligula)は、1980年のイタリア・アメリカ合作映画。当時のペントハウス誌社長ボブ・グッチョーネが46億円の巨費を投じて製作した。表向きはローマ帝国皇帝カリギュラの放蕩や残忍さを描いた重厚な歴史超大作であったが、実態はハード・コア・ポルノである。 この映画の撮影はアメリカ映画協会(MPA)を通さず秘密裡に行われ、ニューヨークでは劇場を一館買い取って公開されて大ヒットを記録した。
 なお、この映画が基となりカリギュラ効果という用語が作られた。
 監督はイタリアのポルノ映画界の巨匠ティント・ブラス。主演はカリギュラ役のマルコム・マクダウェル、皇帝ティベリウスのピーター・オトゥールほか、サー・ジョン・ギールグッド、当時すでにシェイクスピア女優としての地位を築いていた演技派女優のヘレン・ミレンなど豪華キャストの上、脚本家にはゴア・ヴィダル、製作はフランコ・ロッセリーニという布陣であった。しかし撮影現場はトラブル続きで不協和音の連続だったという。後で付け加えられたハードなポルノ・シーンはボブ・グッチョーネがペントハウスのモデル達を使って別撮りしたとされ、主要キャスト陣は関わっていないという。それどころか、当初はこの作品がポルノになることは出演者たちには全く知らされてなかったという。・・・(以上「Wikipedia」による。)
 この次はこれを観てみたい。ただ2時間以上の大作でエロ・グロ・残虐性にあふれていて、途中でギブアップする人もいるようですので、はたして・・・。そもそも「TSUTAYA」の普通のコーナーに置いてあるのかしら?

 (付)カリギュラ効果とは、禁止されると、かえって余計にその行為をやってみたくなる心理のことである。一例としては、「お前達は見るな」と情報の閲覧を禁止されると、むしろかえって見たくなるなどの心理が挙げられる。
 ローマ帝国の皇帝カリギュラをモデルにしたアメリカ映画『カリギュラ』が語源で、過激な内容のため、ボストンなどの一部地域で公開禁止になったことで、かえって世間の話題を惹いたことにちなむ。
 この効果は、広告宣伝やテレビ番組でも利用されている。例えば、テレビ番組で、「ピー」などの効果音を付けて発言を聞こえなくしたり、モザイク処理をかけて映像の一部を見えなくすることにより、いっそう視聴者の興味をかき立てるなど。(以上、「Wikipedia」より。)
 戯曲「夕鶴」(木下順二作)でも、機織りの姿を見てはいけないというのでかえって見てしまって女房が鶴になって去って行く、というのがありました。

 明日明後日は、大型台風並の大荒れの空模様。泊まりがけで出かけます。この映画の主人公のように大粒の雨に濡れても素肌のままでいいような、そんな明るいようすの雨風ではなさそうです。
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