おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

二つの引き込み線跡をたどる。その2。三井化学工場構内に入る貨物線跡。阿久川沿い。草むらの中にバラスト(砂利)。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

2023-12-31 20:10:08 | 鉄道遺跡

阿久川」の左岸の遊歩道を歩きます。右は、「沢井製薬 関東工場」。

「沢井製薬」と「三井化学」の間にある道路はかつての三井化学への貨物線跡のようです。

右が「三井化学」、左が「沢井製薬」。

この道をたどってみます。

沢井製薬。

しばらく直線の道。

広い道にぶつかります。

この付近で貨物線は、工場構内に入って行ったようです。

阿久川沿いに戻り、北西にあった「新茂原貨物駅」跡に向かいます。

ここでおさらい。(「」HPより拝借)

三井化学茂原工場敷地までの間に、3系統のルートで旧国鉄と連絡した貨物の専用線が敷設されていた。 1941年(昭和16年)に旧海軍茂原航空基地への引込線としての敷設が最初で、専用線の南方ルートは茂原駅の南側で房総東線から上り方向に東へ分岐北上し旧海軍茂原航空基地に接続していた。

1957年(昭和32年)旧海軍茂原航空基地跡が東洋高圧工業茂原工場になり旧国鉄との専用線が西方ルートの現在の外房線経塚高架橋の先、上り方向東へ分岐する専用線が新しく設けられた。(※茂原駅東口から歩いた遊歩道がこれに当たる.

1968年(昭和48年)10月に東洋高圧工業は合併により三井東圧化学となった。房総東線(現在の外房線)の貨物列車は土気-大網間は勾配がきつく急勾配の土気-大網間を避けるために貨物列車が、大網-成東-佐倉と東金線、総武本線へと迂回していた。

1972年(昭和47)の大網駅のスイッチバック解消以後も短絡線が残され貨物の多くは三井東圧の専用線を発着していた。1972年に房総東線が電化され外房線となり、茂原市内の外房線の高架化の計画により、茂原駅の客貨分離が決定された。

1986年(昭和61年)に本納~新茂原間に新茂原貨物駅が開設され、同時に三井東圧専用線の旧国鉄との接続は北方ルートとなる。新茂原貨物駅の発着線南端から外房線に並行して南下した後、1つ目の陸橋をくぐるあたりで東にカーブし、阿久川の東岸沿いに三井東圧化学へと至る専用線が新しく敷設された。(※これが今回のコース。

三井東圧化学は1997年(平成9年)10月1日三井石油化学と合併し三井化学となる。

1996年3月16日貨物列車の設定及び専用線発着コンテナ貨物・専用線発着車扱貨物の取扱を廃止。同時に三井東圧化学専用線が廃止。1997年(平成9年)3月 新茂原駅での貨物取扱廃止に伴い、大網駅短絡線を廃止した。

右手の草むらがかつての貨物線跡。右は沢井製薬。

直線の草むらが続く。

振り返る。

右手のさびた鉄柵がかつての線路エリアであったことを偲ばせる。

         

阿久川の対岸。

            左右には、のどかな田園風景が広がる。

ちょっと足を踏み入れてみましたが、歩けるような状態ではありません。

バラスト(砂利)が残されているようなところも。

※線路の砂利は、バラスト(ballast)と呼ばれるもの。 線路や道路に敷く小石や砂のことで、略してバラスとも言います。 これには、レール・まくらぎへの荷重を受けるクッションの役割があります。 列車の走行を安定させると同時に、砂利と砂利との隙間が音を吸収し、線路周辺の建物などに伝わる振動を軽減させます。

東海道新幹線やJR在来線、中部地方の私鉄などにバラストを供給している会社に聞いた。まず、岩盤にダイナマイトを仕掛けて、大きな塊の岩を取り出す。ダイナマイトといっても「ドッカーン!」と爆発させるわけではなく、「ポン!」という感じで、岩盤にひび割れを作る程度だという。切り出した岩をショベルですくい上げてダンプカーに乗せ、山の麓の砕石プラントへ運ぶ。

プラントで機械を使って岩を砕いていく。ただし、初めからバラスト用に砕くというわけではない。砕いていくうちに、さまざまな形の砕石ができる。その中から鉄道用に適したバラストを選別して貯めておき、鉄道事業者の要請を受けて必要な量を納入する。ざっくりと説明すると、このような流れになっているそうだ。

鉄道用に適したバラストは拳骨のような形をしており、細長い石や扁平な石は不可。大きさは60mm~20mmで、適度な硬さが必要。石の種類としては安山岩や玄武岩などの火山岩で、火山帯が広く分布する日本ではどこの山にでもある石といえる。ただし、組成によって密度が違うため、上質な岩盤を見極める必要がある。

(この項、「マイナビニュース・鉄道トリビア」より) 

今年はここまで。

昨年末からの都県境歩きに続き、炎天下の関東ローカル鉄道の旅、そして「伊南房州通往還(房総東往還)」の御宿まで、と。そんな1年でした。

皆さん、良いお年を。(「北十間川・福神橋」より)

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二つの引き込み線跡をたどる。その1。茂原駅から三井化学工場へ。高架線脇の遊歩道。大きく右へ。合流地点か? 「萩原交通公園」。「房総東往還」と交差。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

2023-12-30 19:58:50 | 鉄道遺跡

「房総東往還」を歩くために、外房線を何度も利用していますが、「本納駅」と「新茂原駅」の間に気になる建物が。

また、「房総東往還」の時に、貨物線跡が遊歩道になっていることを知りました。

そこで、今回、「茂原駅」から「本納駅」まで歩き、この二ヶ所を確認しました。

12月28日。曇り。北風寒し。

茂原駅。

高架線の下が遊歩道になっています。

この道が「三井化学」工場からの貨物線跡。

    振り返る。

 ↓が「三井東圧」からの貨物線。その後、整備されて遊歩道に。(「今昔マップ」より)

※○が本線との合流地点と思われます。

「房総東往還」道を渡ります。

                    正面の道が「農総東往還」。

「高師」交差点。

大きく右にカーブします。

右奥に「県立長生高校」。

             「房総東往還」は、長生高校の東を通ります。

「信号」と刻まれた標石。

茂原駅からの高架線が下がってきます。

              「萩の台踏切」(茂原駅方向を望む)。

この付近から遊歩道は右にカーブします。この付近が引き込み線(貨物線)と本線の合流地点?

         

               左手には大きなマンション。

来た道を振り返る。

本線との間にある小公園。

          空き地。

「萩原交通公園」。

この遊歩道は、昔の貨物列車の旧引き込み線路を利用したもので、茂原駅の高架下から上林地区の阿久川まで続いています。木陰の続く散歩道で、ジョギングコースとして親しまれているほか、市民や学生などの通勤、通学路として日々利用されています。萩原公園は、交通公園とも呼ばれ、体験型公園として自転車の練習や一般道路の交通を安全に疑似体験でき、本物の機関車が展示されるなど小さな子ども達が安心して遊べる公園として夏休みなどは多くの方に利用され、また、緑豊かな住民の憩いの場としても親しまれています。  

※案内図の→が、「房総東往還」。  

この先を歩きます。

「房総東往還」道と交差します。茂原駅方向。

                    新茂原駅方向。

阿久川に出ます。

             対岸には「三井東圧・現三井化学」。かつての「茂原海軍航空基地」の跡地。

この付近の今昔。

 ○が茂原海軍航空基地。西側に司令部などの官舎が並ぶ。             (「今昔マップ」より)

※「司令部跡」は現萩原小学校、「兵舎跡」は現茂原中学校、「滑走路跡」は三井化学(株)東側の約1,000mの道路。

「千葉県立茂原樟陽高等学校」の敷地もかつての基地内。

※海軍基地当時の引き込み線は基地から茂原駅近くまで直線で存在していました。今回の引き込み線は三井時代のもの。

阿久川。

引き込み線は工場内に向かい、廃線跡としてたどれるのは、ここまでのようです。

左が三井化学。

「関東天然ガス」の標識。

続いて、阿久川沿いに進み、もう一つの廃線跡を探ります。

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JR外房線「三門」~「御宿」。その8。「月の沙漠記念公園」へ。童謡『月の沙漠』。駱駝に乗る姫と王子の像。加藤まさを。ロペス通り命名趣意碑。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

2023-12-29 21:38:25 | 房総東往還

海岸に向かいます。観光案内図。

御宿海岸は、はるか昔、高校時代。ま夜中、友人と養老渓谷から麻綿原高原を抜け、外房線・上総興津駅まで歩き、電車で移動して御宿まで来たことがあります。それ以来の訪問。

当時の記憶は薄れてしまいましたが、その後、長く登山を趣味にするきっかけとなった、思い出の徹夜行でした。

「御宿町営ウォーターパーク」。

「清水川」河口。

「月の沙漠記念公園」へ。

童謡『月の沙漠』の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像

月の沙漠記念公園の中にある月の沙漠記念像は、童謡『月の沙漠』の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像となっています。

御宿海岸の美しい砂浜からアラビアの情景を思い浮かべて作られたとも言われている。

ラクダに乗っていることからラクダ像とも呼ぶ人も多いです。

このラクダ像は2代目で、1990年7月に建てられました。初代の像は、姉妹都市の長野県野沢温泉村に寄贈されています。

(この項、「」HPより)

           

晴天ですが、風が強く、歩いている人もいません。

                         工事現場の方のみ。

    足跡もほとんどなく、

              

           

               「月の沙漠」記念像譜

小麦色の柔らかい 美しい砂丘

この砂丘に寄せては返す波の音は

優しい余韻をもっている

夢とロマンに満ちた童謡の名曲

「月の沙漠」は、一九二三年青年詩人

加藤まさを氏によって

御宿のこの砂丘で綴られた

このことを永遠に記念とするために

御宿町民が挙ってここに記念像と詩碑を建てる

らくだに乗った王子と姫が

美しい御宿海岸のシンボルとして

多くの人に愛されることを祈ってやまない

・・・

月の沙漠(つきのさばく)は、日本の画家、詩人である加藤まさをの作品の1つ。作曲家の佐々木すぐるによって曲を付けられ、童謡として有名になった。「朧(おぼろ)にけぶる月の夜」の「沙漠」を、「駱駝」(らくだ)に乗った「王子様」と「お姫様」が旅していく情景を描写した作品である。

概要

大正から昭和初期に叙情的な挿絵画家として人気を博した加藤まさをが、大日本雄弁会講談社(現講談社)発行の雑誌『少女倶楽部』(しょうじょくらぶ)1923年大正12年)3月号に発表した、詩と挿画からなる作品である。

これに、当時まだ若手の作曲家であった佐々木すぐるが曲を付けたことで、童謡としての「月の沙漠」が生まれた。童謡の普及活動もしていた佐々木すぐるは、自ら主催する普及のための講習会で同曲を用いた。また佐々木は教育現場での音楽指導用の教本として『青い鳥楽譜』と呼ばれる楽譜集を出版しており、童謡としての「月の沙漠」もその中に収められている。

上記の経緯から、当初は児童の音楽教育の中で使われていたが、1927年ラジオ放送されたことから評判となり、1932年柳井はるみの歌唱で録音、レコード化され、より一般に知られるようになった。

その後も童謡として長く歌い継がれ、世代を超えて支持される歌の一つとなっている

作詩の経緯

加藤は1965年(昭和40年)、朝日新聞記者本多勝一のインタビューに答えて、作詩の経緯について、「動機って、ただ少女倶楽部から『何でもいいから』と注文されただけですよ。ぼくは沙漠どころか、外国へはどこも出たことはないけれど、沙漠にはなんとなくあこがれがありましてね。沙漠の歌でもって気になったんです」と語っている。念頭に置かれていたのはアラビアの情景だったという。ただし、初出時に加藤自身が描いた挿画では、ラクダはアラビアのヒトコブラクダではなく、中央アジアのフタコブラクダになっていた。後年に加藤が描いた絵では、ヒトコブラクダに修正されている

「沙」の字について[この詩は異国を連想させる内容からか、また現在では「沙漠」という表記が一般的ではないことからか、しばしば「漠」と誤記されるが、題名、詩文中ともに一貫して「」の字が用いられている。この字が用いられる理由として

  • 「沙」には「すなはま」の意味がある。
  • 学生時代に結核を患った加藤が、保養のために訪れた御宿海岸(千葉県)の風景から発想した。
  • 海岸の風景がモチーフになっており、海岸の砂はみずみずしいことから、「漠」ではなく「漠」としている。

というものが良く知られている

モチーフとなった場所

「月の沙漠」のモチーフとなった砂浜については、以下の2説がある

千葉県夷隅郡御宿町御宿海岸
加藤は1923年(大正12年)に関東大震災が起こるまでの数年間、毎年夏、結核の療養のために御宿海岸を訪れていた
静岡県焼津市(旧大井川町)の吉永海岸説
加藤の出生地である西益津村(現・藤枝市)に近く、加藤が少年時代によく遊んでいたといわれる(藤枝市自体は海に面していない)。加藤まさをの長男で写真家の嶺夫は、「生まれ故郷は静岡県の藤枝市。海にも近く、よく浜辺に行って泳いだそうです。その記憶がヒントになった、と親類に話しており、私もそう信じているんです」と証言している

このほか鳥取砂丘や、伊豆大島三原山なども候補に挙げられたことがあるという

加藤まさを自身は、1969年(昭和44年)に御宿町が御宿海岸に「月の沙漠記念像」を建てたころから、御宿海岸がモチーフだと公言するようになり、1976年(昭和51年)5月には自らも御宿町に移住し、翌1977年に同地で死去している。加藤は「月の沙漠は御宿の砂丘」という揮毫も書き残している。一方で加藤嶺夫は、「『月の沙漠』に関しても、特定の場所などを描いたりはしていないといっていいだろう」とし、御宿海岸説は御宿町による観光宣伝だと主張している。嶺夫は、「二十年ほど前のことだったと思うが、まさをの生まれ故郷の静岡県藤枝市に在住の方が、その件について本人に質したところ、「せっかく観光のメダマにしてくれているのに反対するほどのこともないでしょ」と笑いながら答えたという」と記している。童謡研究家の上田信道は、この加藤嶺夫の証言を紹介した上で、「結局のところ、「月の沙漠」のモデルの地については、この唄の聴き手の判断に任せるしかないでしょう」とコメントしている。

(この項、「Wikipedia」より)

1 月の沙漠をはるばると
旅の駱駝がゆきました
金と銀との鞍置いて
二つならんでゆきました

2 金の鞍には銀の甕
銀の鞍には金の甕
二つの甕はそれぞれに
紐で結んでありました

3 さきの鞍には王子様
あとの鞍にはお姫様
乗った二人はおそろいの
白い上衣を着てました

4 広い沙漠をひとすじに
二人はどこへゆくのでしょう
朧にけぶる月の夜を
対の駱駝はとぼとぼと

砂丘を越えてゆきました
黙って越えてゆきました

加藤まさを」レリーフ。

帰りの列車の時間が近づいたので、駅に向かいます。

清水川の対岸。

「ロペス通り」。

                 「ロペス通り命名趣意碑」。

1609年(慶長14年) メキシコのガレオン船サンフランシスコ号は、折からの暴風雨で岩和田田尻海岸で沖で座礁してしまいました。村人たちは総出で救助にあたり、乗組員376人のうち317人を助けました。
中でも若い海女たちは素肌で遭難者を温め蘇生させたと伝えられています。この史実をもとに昭和53年 御宿とアカプリコは姉妹都市となり、同年行われたメキシコ記念塔建立50周年記念式典には メキシコのホセ・ロペス・ポルティーリョ大統領が来訪し「エルマーノ!」(兄弟よ)私はやってきた」と歓呼し 歴史に培われた友情をさらに深めました。このロペス大統領の来町を記念し この通りを「ロペス通り」と名づけました。

御宿駅。

駅前は意外に閑散。

市街地を望む。

次回は勝浦まで。ただ、トンネルが続くのでちょっと逡巡。

※旧道は途中からは廃道同然になるようなので、国道を歩くしかなさそう。

さて、どうするか? 

勝浦まで電車で行ってしまおうか。

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JR外房線「三門」~「御宿」。その7。新旧混じった家並み。「御宿小学校」。「ロペス通り」。清水川。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

2023-12-28 20:15:50 | 房総東往還

風はけっこう強いですが、青空の下、御宿町に入っていきます。

             

房総らしい屋根のおうち。

この建物は? モルタル2階建て。

どんな商いをしていた建物なのか? 

今は廃業中。

「伊南房州通往還(房総東往還)」はこの先の交差点を右折します。

         

「御宿小学校」正門前を左折。

             

                    

この三叉路を右に。

「ロペス通り」を突っ切り、向かいの細道へ。

※「ロペス通り」の由来は、後で。

「ロペス通り」。海岸方面を望む。

この細道が旧道にあたるようです。

左奥「御宿駅」方向を望む。

「清水川」に突き当たります。

旧道歩きはここまで。この後は、海岸へ向かいます。

この付近の今昔。

                             (1880年代)「伊南房州通往還」はジグザクに進む。

                             (現在)学校前の細道が旧道。

昔からの御宿の中心は、街道沿いに南に広がっている。

※当時は、「濱村」。

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JR外房線「三門」~「御宿」。その6。いすみ市から御宿(おんじゅく)町へ。「第二房総街道踏切」。山道を行く雰囲気。「WELCOME TO ONJUKU」。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

2023-12-27 21:35:42 | 房総東往還

しばらく「国道128号」を進みます。

                  振り返ると、「Welcome toISUMI」。この先、御宿町に入ることに。

       

洒落たスープカリーのお店。

この先で、国道から右に分かれて進む。

       

国道は一直線で御宿の町へ。

来た道を振り返る。

外房線の踏切を越えます。

「第二房総街道踏切」。

                

しばらく線路沿いに進みます。

山道を行く雰囲気。 

舗装されていますが、車が来たら大変! しかし、幸いに小型車二台と、すれ違っただけでした。

切通しの道が続く。

前方が開け、やっと広い道に。

来た道を振り返る。

「御宿町B&G海洋センター」。右奥には、弓道場や野球場などが広がります。

外房線を越える。

左手上に「WANぱく館」(廃業)。

山道(?)を振り返る。

国道128号に合流、御宿町に入ります。

            「WELCOME TO ONJUKU」。

        街路樹が南国的な雰囲気。

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JR外房線「三門」~「御宿」。その5。国道から右、小さな集落へ。外房線「浪花駅」。特急「わかしお7号」が通過中。「第三やまか丸」。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

2023-12-26 20:01:25 | 房総東往還

「ログハウス」など住宅地が奥に広がる。

しかし、道筋には住む人がいない、荒廃した家屋がいくつか。

崩れ落ちた家。

      

どれくらい経過したのか? 

集落を抜けると、

田畑が広がり、住宅も。

               「浪花駅」方向。

水準点が設置され、かつての主要道であることが分かる。

旧道の左奥に「旧伊南陣屋移築表門」があるようです。

             (「Googleマップ」より)

外房線「浪花駅」。

島式ホーム1面2線を有する地上駅。国鉄の房総東線時代は有人駅で木造の立派な駅舎があった。

駅舎側に貨物ホームもあり、現在のような単調な配線ではなかった。また、いすみ鉄道が国鉄の木原線時代に機械式気動車だけで運転されていたころは現在の上り線の外側に側線が一本あり(プラットホームの写真の上り線外側にある草むらが側線の跡)、廃車されたレールバス・キハ01がしばらく留置されていた。側線がいつ廃止されたかは不明だが、電化して外房線と改称された時には撤去されていた。外房線となってからもしばらくは跨線橋が整備されず、ホームの大原寄りに長いスロープを付け構内踏切で駅舎とホームを行き来するようにしてあった。電化時に客車時代の低いホームはある程度かさ上げしている。ホーム待合室の床面がホームより低くなっているのは電化前にホームをかさ上げした名残り。現在は駅舎とホームは跨線橋連絡している。(「Wikipedia」より)

※今回の目的地「御宿駅」の、一つ手前の駅。

右手にホーム。

川沿いの道を進む。

               

左奥に「国道128号」。

右手には住宅が。

のどかな「田舎」道風。

「国道128号」に接近しますが、旧道はまだまだ続く。

振り返る。

この先で、国道に合流します。 

来た道を振り返る。が、すぐ右に折れます。

しばらくのんびりと歩く。

大原台への高架橋をくぐる。

      特急「わかしお7号」が通過中。

「安房鴨川」行き。

「国道128号」に近づきます。

                   土産屋「やまか水産」の裏手。

「第三やまか丸」という漁船。

国道に復帰します。

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JR外房線「三門」~「御宿」。その4。追分回国供養塔・追分道標。房総らしい屋根構え。平(上総)広常お手植えの大銀杏。国道から分かれて。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

2023-12-25 18:31:53 | 房総東往還

左に折れて、今度は右に折れます。

その向かいの左の角に、天保9年建立の「追分回国供養塔道標」があります。

    

  正面上部  如意輪観音半跏座像。
  下部左 「四國西國/秩父坂東」
  下部右 「此方、かつうら/ぼう志ふ なこ/こみなと みち」(勝浦/房州那古/小湊道)
  右側面    右指差し図、下に「古はまみち」(小浜道)
  左側面    左指差し図、下に「一の宮 江戸/きよみづ、道」

この道が江戸時代からの伊南房州通往還(房総東往還)だったことが分かります。

    

この先で県道に合流します。

さらに「国道128号」に合流。

右側に立派なおうち。

    

右側に「瀧泉寺」門前のイチョウ。

                 「平(上総)広常公お手植えの大銀杏」。

※「上総広常」

平安時代末期の武将豪族上総氏。上総権介平常澄の八男(嫡男)。上総介広常(かずさのすけひろつね、上總介廣常とも)の呼称が広く用いられるが、上総介は官位であり、本名は平 広常(たいら の ひろつね)である。房総平氏惣領家頭首であり、源頼朝の挙兵に呼応して平家との戦いに臨んだ。

前方左に森が見えてきます。

     

森の近くで、「伊南房州通往還」は国道から離れて、右に向かいます。

  

外房線「浪花駅」方向へ進みます。

                    

                       ↓が「伊南房州通往還」道。(「今昔マップ」より)

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JR外房線「三門」~「御宿」。その3。古い商家が残る道筋。二ヶ所、旧道が。「第一房総街道踏切」。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

2023-12-24 20:17:02 | 房総東往還

大原駅で小休止し、南に向かいます。

元酒屋さんらしい。

道筋に、こうした廃業したお店が目立つのは、残念です。

現役のおうちが二棟。

振り返る。

               

かつての曲尺手の名残でしょうか? 

県立大原高校付近。

     

この先、旧道が左に。

「大原小・わんぱくランド」のところを右折。

「忠霊塔」の先で、行き止まり。

振り返る。

県道に戻ることに。

この右手に旧道があるはずですが。

この先で外房線の踏切を越えます。

                   「第一房総街道踏切」とあります。

「大原」方向。御宿方向。

踏切を渡ってすぐ左折します。

左手にジグザグに旧道が残っています。

この付近の今昔。

                                                                 

(1880年代)西に流れる「塩田川」との関連あるか?     (現在)二ヶ所の○が旧道。

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冬至。冬来たりなば、春遠からじ。ウツボグサ(空穂草、靫草)。ヘラジカ。一陽来復。我が家のネコたちは、・・・。

2023-12-22 20:47:55 | 二十四節気

今日、12月22日は二十四節気のうちの22番目「冬至」。本格的な冬将軍が訪れています。

北半球では太陽南中高度が最も低く、一年の間でが最も短くが最も長くなる日(南半球では逆転する)。

『暦便覧』では「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」と説明している。

太陽の動き

冬至は1年間で太陽の位置が最も低くなる日であり、1年間で日中が最も短くなり、冬至を境に太陽が生まれ変わり、陽気が増え始めるとされている。

秋分から春分までの間、北半球では太陽は真東からやや南寄りの方角から上り、真西からやや南寄りの方角に沈む。冬至の日にはこの日の出(日出)・日の入り(日没)の方角が最も南寄りになる。また南回帰線上の観測者から見ると、冬至の日の太陽は正午に天頂を通過する。

冬至の日には北緯66.6度以北の北極圏全域で極夜となり、南緯66.6度以南の南極圏全域で白夜となる。

1年で日の出の時刻が最も遅い日・日の入りの時刻が最も早い日と、冬至の日とは一致しない。日本では、日の出が最も遅い日は冬至の約半月後(年明け)の1月上旬頃であり、日の入りが最も早い日は冬至の約半月前の12月上旬頃である

古くから中国では冬至を含む月を「子月」と呼んだ。子は十二支の1番目であり「新たな生命の種が宿る時」とされており、旧命が滅し、新種が宿るため、子は十二支で唯一、生滅同梱・新旧同梱の支となる。

天文二十四節気平気法では冬至を1年の起点としている。時刻に関しても子の時刻は23:00-0:59となっており、旧から新へと切り替わることを意味する。二十四節気を24時間上に例えると、子月後半の最初にある冬至は0:00の位置となり、次の24時間周期への移行となる。物理上は1年間の干支は冬至で切り替わることになる。

暦法上では子月前半・後半の境目である冬至が1年の始まりとなる。

日本には次のような風習がある。

・星祭(ほしまつり)
妙見系の神社等で行われる。天台宗真言宗の寺院で行われる「星供養」も俗に「星祭」といわれる。各自の生まれ年の十二支に該当する当年星を祀って、無病息災を祈る。
・冬至風呂
この日は冬至風呂と称して柚子湯に入る。天保9年の『東都歳時記』によれば流行し始めたのは江戸の銭湯からであるという

またこの日には以下のものを飲食する風習がある。

冬至粥
冬至の日の朝に小豆粥を食す。これを冬至粥という。小豆粥には疫病にかからないという伝承があり、あるいは体を暖めるためともいう。
・とうなす(かぼちゃ)
冬至にはカボチャの煮物を食べる風習がある。冬至にカボチャを食べると中風にならず、あるいは長生きするとも、栄養をとるためともいう。
・コンニャク
コンニャクを「体の砂払い」と称し、体内の悪いものを掃除するという。
・「と」の付く食べ物
冬至の「と」に因んで、豆腐唐辛子ドジョウいとこ煮。今でも冬至の前にはスーパーや魚屋でドジョウの売り出しの風景が見られる。豆腐は季節柄、湯豆腐にされることが多い。

冬至には太陽の力が最も弱まった日を無事過ぎ去ったことを祝って、世界各地で冬至祭が祝われる。クリスマスも、イラン発祥のミトラ教の冬至祭儀やドイツ北欧のキリスト教以前のゲルマン人の冬至祭がキリスト教と混淆してできたものである。

(この項、「Wikipedia」参照)

我が家には、ゆず湯に入ることとカボチャを食べる習慣はありますが。

七十二侯でいうと、

・初侯 12月22日〜12月25日頃

乃東生 なつかれくさしょうず

夏になると枯れてしまう靭草(うつぼぐさ)の芽が出る頃。靭草は芽を出す頃ですが、この草以外の草木のほとんどは枯れていきます。

ウツボグサ(空穂草、靫草)

「うつぼぐさ」(初夏。「向島百花園」にて)。

円筒形の花穂の形、もしくは花穂につく小花の形が、弓矢を入れて背中に背負った道具である靫(うつぼ)に似ていることに由来する

シソ科ウツボグサ属多年生植物の1種。日当たりのよい山地に自生する。草丈30センチメートルほどで、地下茎を伸ばして殖える。夏に紫色の花穂をつけるが、花が終わると褐色に変化して枯れたように見える。漢方でも使われる薬用植物で、別名をカコソウ(夏枯草)、セルフヒールといって、利尿や消炎に用いられる。(「Wikipedia」より)

・次侯 12月26日〜12月30日頃

麋角解 さわしかつのおつる

ヘラジカの角が生え変わる頃。枝分かれした大きな角が抜け落ち、春にまた新しい角が生え始めます。

※ヘラジカ(「Wikipedia」より)

哺乳(ほにゅう)綱偶蹄(ぐうてい)目シカ科の動物。シカ類中の最大種で、オオジカともよばれる。体長206~310センチメートル、肩高174~235センチメートル、体重350~800キログラムに達する。北ヨーロッパ、シベリア東部、中国北部、カナダ、アメリカ合衆国北部などに分布する。ヘラジカはアメリカとヨーロッパでは呼び名が異なる。ヨーロッパではエルクelkと称されるが、アメリカではエルクとはワピチをさし、ヘラジカをよぶ場合は、アルゴンキン人が称していた「小枝を食べるもの」という意味のムースmooseを用いている。ヘラジカの外見的な特徴は、手のひら状に広がった大きな角(つの)と、ウマのような長い顔、長い足、盛り上がった肩部、のどにある肉垂れなどである。巨大な角は4月に生え始め、8~9月初旬に完成し、12月から翌年1月初旬に脱落する。(「コトバンク」より)

・末侯 12月31日〜1月4日頃

雪下出麦 ゆきくだりてむぎのびる

降り積もった雪の下で、麦が芽を出しはじめる頃。重い雪の下で、暖かい春をじっと待っています。

(この項、「暦生活」HPより)

冬至の別名は「一陽来復(いちようらいふく)の日」。

「一陽来復」(いちようらいふく)は、冬至を意味し、新年の到来、悪い事が続いた後で幸運に向かう事、陰気が極まった後に冬至を境に陽気に向かう事を意味する。

ゆず湯に入り、かぼちゃを食べて、無病息災を願い、寒い冬を乗りきることに。

そして、我が家の猫たち。

ソウタは、こたつから、頭だけ出して。ジジを見つけ、

ジジにじゃれつくも、

 そのうち、

カーペットの暖かさに、ジジも一緒にゴロンと。

そのうち机の下へ。

寒さの冬も自由自在。

アンズは、マイペース。こたつの中に入ったまま。   

次の24節気は、23番目「小寒」(2024年1月6日)。    

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JR外房線「三門」~「御宿」。その2。グリーンスパいすみ。新田川・塩田川。いすみ鉄道「房総往還踏切」。木戸泉。ギャラリー泉。大原駅。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

2023-12-21 18:43:04 | 房総東往還

「国道465号線」深堀バイパスとの交差点に。

          右手奥には、「JAいすみ グリーンスパいすみ」の建物。

   房総らしい低い山並みが見える。

街道は右に大きくカーブします。

右手奥に緑豊かな低山。

「宮元橋」で「新田川」を越えます。

※新田川 - 千葉県いすみ市を流れる塩田川水系の二級河川。

すぐ左折し、しばらく「新田川」に沿って進むと、「いすみ鉄道」の踏切を渡ります。

「房総街道踏切」。

※今夏。内房線・五井で乗り換え、小湊鐡道」、「いすみ鉄道」と乗り継いで大原まで列車の旅をしました。

いすみ鉄道の終点「大原駅」方向。

「大多喜駅」方向。

「大原駅」に向かう坂。

「塩田川」を渡ります。上流方向。

                  千葉県いすみ市流れる本流の二級河川。

下流方向。いすみ鉄道の鉄橋。

「大原はだか祭り」のポスター。

9月下旬の2日間にわたって行われる雄壮な祭りです。十数基の神輿が一斉に海へとかつぎこまれ、もみあう″汐ふみ″が祭りのハイライト。勇ましく、雄々しく、神輿が海の中を駆け巡り、投げ上げられます。そして夕闇のせまる頃、花火を合図に大原小学校校庭に集まり、神輿を高く上げて別れを惜しむ″大別れ式″。海の男たちの情熱と優しさの両面を十分に感じることのできるこの祭りには熱心なファンも多く、毎年多くの観衆でにぎわいます。関東随一とも言われる、大原はだか祭り。強烈な感動が、心の中を駆けぬけていくようです。

現在の行事は、昔のものと少し異なるが、初日午前9時頃大原地区の神輿十社は親神(おやがみ)である鹿島神社に参集、法楽施行、午後大原漁港に向う。東海・浪花両地区の神輿もそれぞれ地区の行事後大原漁港へ集結。十八社がそろって五穀豊穣・大漁祈願ののち汐ふみの行事にうつる。
 この汐ふみは、この祭りの三大みどころの一つで、怒濤の中で神輿が数社もみあうさまは勇壮豪快の一語につきる。汐ふみ行事後は、木戸泉酒造前に全部の神輿が打ちそろったのち、二社が並列で唄いおどり、もみあって大原小学校の校庭へ向かう。

(この項、「」HPより)

右手に「木戸泉」酒造。

永年頑に守り続けている木戸泉独特の酒母造り
「高温山廃酛(モト)」

木戸泉では、天然の生の乳酸菌を用いて高温で酒母を仕込む高温山廃酛で、
麹菌・乳酸菌・酵母菌の3つの菌がのびのび発酵する酒母造り手法を
50年以上変わらず守り続けています。

天然の乳酸の可能性を追求し続け、健康や安全・個性をテーマに掲げて挑む『旨き良き酒づくり』。
揺らぐことのない木戸泉の蔵ビジョンのもと、邁進しています。

添加物や農薬、化学肥料を
一切使用しない日本酒を造りたい

明治12年の創業から時を経て、現在の木戸泉を特徴づける大きな転換期を迎えたのは昭和31年。3代目蔵元の決断により、醸造法を「高温山廃酛」仕込みへと切り替えました。
当時は大量生産が必須の高度成長期。調味液で量を増す三増酒が大衆のニーズを賄っていた時代に、防腐剤として使用されていたサリチル酸の危険性にいち早く気づき、防腐剤に頼らずとも長期間貯蔵できる酒造りに取り組んだのです。

「添加物や農薬、化学肥料を一切使用しない日本酒を造りたい」

という三代目蔵元の強い想いから、昭和42年には、添加物はもちろん、原料となる米も農薬や化学肥料を一切使わない、自然農法米を100%使用した、自然醸造酒(現在の銘柄名「木戸泉 自然舞」)の製造も始めました。・・・

(この項、「」HPより)

               

向かいには「ギャラリー泉」。

石造っぽい見た目はモルタル。三連の半円アーチ窓の隣に何故か一枠のみアーチでなく、シンメトリーを崩している。  

 振り返る。

メインストリートを進む。

古い商家の趣。

大原駅への道。

               右手には、古びた銅板葺きの看板建築。

この付近の今昔。

                                                                                                                                     

(1880年代)街道沿いに町屋。               (現在)大原駅中心に市街地が発展。

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JR外房線「三門(みかど)」~「御宿(おんじゅく)」。その1。日在(ひあり)踏切。車の交通量多し。大山堰。日在城址。三省学校跡。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

2023-12-20 18:09:14 | 房総東往還

12月9日(土)。晴れ。

外房線「三門駅」。

旧道に復帰します。 

街道は、「国道128号」のう回路になっているのか、車の往来がけっこう多い。

外房線の線路沿いに「征清 征露碑」。

「日在(ひあり)踏切」。

               

右手の土手は、「大山堰」。

        大山堰の奥には、「老人ホーム エスポワール大原」。

左手には外房線。

右手からの道と合流。道端には、「日在城址」碑。

(「古城盛衰記」HPより)

※山裾沿いに進む「伊南房州通往還(房総東往還)」。

遠く海方向。

住宅地に入っていきます。

旧道らしくカーブし、狭い道の両側には住宅が立ち並び、生垣も道路ギリギリまで。さらに、車の往来がけっこう激しい。

けっこう飛ばして通過する車、すれ違う車が気になり、避けるので精いっぱい。周囲を見回す余裕がありません。

手入れの行き届いた槇の生垣が続きます。

           

水準点。奥に田畑が広がる。

「三省学校跡」碑。

明治の初期に安藤誠道はこの地に三省学校を設立した。普通部・英語部があり、熱心な若者がここで学んだ。明治33年に閉校する。 大原町文化財保護協会

まさかこの空き地がその跡とは思えませんが。

右手には田畑が山裾まで大きく広がる。

          

「いすみ市立東海保育所」。

ここまで来てやっと道幅も広くなり、歩道もあります。

それまでのヒヤヒヤしながらの歩きから解放され、やっと一安心。

来た道を振り返る。

この付近の今昔。

                                                                                                                       

(現在)住宅や田畑が広がっている。              (1880年代)往還の道筋は変わらない。 

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JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その8。旧江場土村。水準点。旧道らしいカーブが続く。国道128号を渡る。三門駅・きわどいところで乗車。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

2023-12-18 20:12:59 | 房総東往還

この先、静かで落ち着いた住宅地を進みます。

            房総らしい屋根。

空き地や廃屋も目立つ。

手入れの行き届いた槙の生垣。

大きなお屋敷が連なる。

                    街道らしいカーブが続く。車の行き来はあるが、人通りはなし。

「本寿院」入口にある水準点。

                  かつて、この道がこの付近の主要な道として存在していたことが分かります。

この付近の今昔。

                             (現在)水準点が表示されている。

                             (1880年代)道沿いに街並みが形成されている。

※「三門」では,外房線の建設の際に,前方後円墳が見つかり,そこから人物や家,水鳥などの埴輪が出てきました。鏡や刀も出土したそうです。6世紀ころのものと思われており,豆塚古墳と呼ばれています。三門駅の近くに小さな鳥居が立っており,かすかに古墳の位置を示しています。

来た道(旧道)を振り返る。

旧江場土村。

国道128号を斜めに通過します。

                交差点にあるのは、「北向き地蔵」。

国道128号・長者方向を望む。

「三門駅」付近の道を進みます。

と、上総一ノ宮に向かう列車が近づいてきて、この先の踏切の警笛音が聞こえてきます。 

「三門(みかど)駅」が右奥に。

この列車を逃すと、1時間後。必死に走りました。長いホームの先の方に列車が停まります。

下車した方に乗車ボタンを押し続けてもらい、危うく乗り込むことができました。

感謝! 感謝です。こうして、今回の旅は終了。次回は、御宿まで歩く予定です。 

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JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その7。長者。飯島喜美・宮本百合子。三門駅へ。外房黒潮ライン。江場土川。~夷隅川の河童どん~ (「房総東往還」を歩く。第5日。)

2023-12-16 18:29:50 | 房総東往還

右手奥には「長者駅」がありましたが、次の駅「三門」まで足を延ばすことに。

複雑でユニークな屋根。

こちらは房総らしい屋根のおうち。 

「長者」。

一帯に柴胡(さいこ)という草が一面に茂っていたことから柴胡原と呼ばれ、無人であったが、江戸から房州へ向かう旅人の宿泊地として旅館や商店が現れ、房総の宿駅として発展した。万治年間に家数35軒ほどとなったのを機に、領主阿部播磨守に願い出て町となり、領主の邸が江戸下谷の長者町にあったことから「長者町」と名付けた。(「Wikipedia」より)

左手に最近出来たと思われる記念碑が。

中央に「飯島喜美」。

匝瑳郡共和村(現旭市)生まれ 東京モスリン紡績亀戸工場でストライキ指導 モスクワのプロフィンテルン第5回大会で演説(1930・18才)

左右の碑には、プロレタリア作家 宮本百合子の短歌と一文が刻まれています。 

・ひろひろと夷隅の川の海に入る 岬のかなたに虹立ちて居り

・よしきりのここだ来啼ける河口に かかる木橋は年古りにけり

・虹かゝる岬のはての叢松は 小さく群れて目にさやかなり

もう一つには、

うらゝかな春は きびしい冬のあとに来る 可愛い蕗のとうは 霜の下で用意された

・・・

※飯島 喜美(いいじま きみ、1911年12月17日 - 1935年12月18日)は、日本社会運動家

千葉県匝瑳郡太田村(現旭市)で提灯職人の家の13人兄弟の長女として生まれた尋常小学校卒業後、2年間女中奉公1927年女工として東京モスリン紡織亀戸工場に就職した。やがて共産主義の研究会に参加するようになり、1928年の同工場の賃上げ争議では500人の女工たちの副責任者を務め勝利に貢献した1929年四・一六事件亀戸警察署に検束されたが、日本共産青年同盟に加盟、同年5月日本共産党に入党1930年モスクワに渡り、赤色労働組合インターナショナル(プロフィンルテン)第5回大会に日本女性として初めて参加し演説、のち東方勤労者共産大学(クートヴェ)に入学した1931年10月帰国、党中央婦人部員を務め地下活動に投じた1933年5月に検挙、投獄され、のち栃木刑務所で獄死した。享年24

評伝に、山岸一章「紡績労働者の飯島喜美 コンパクトに『闘争・死』の文字」(『不屈の青春―ある共産党員の記録』新日本出版社、1969年、所収)、鹿野政直「飯島喜美 革命運動史上の光芒」(『鹿野政直思想史論集 第6巻』岩波書店、2008年、所収)などがある。

(この項、「Wikipedia」より)

 イチョウ並木。

「国道128号」と交差。

「外房黒潮ライン」と名付けられています。

           往還道は、正面の道に。

「国道128号」上総一宮方向を望む。

「三門駅」方向へ進みます。

「江場土橋」。

「江場土川」。下流方向。

           

穏やかな房総の夷隅川にはこんな民話が残されています

~夷隅川の河童どん~

昔むかし、天神様のお祭りの見世物小屋に河童の親子が出されていたそうな。
珍しいものだから、たくさんの見物人でにぎわっていたが、それを見た江場土村の者たちは腰を抜かさんばかりに驚いた。
「おらほの村の氏神様(六所神社)では、河童どんを水の神様としてうやまっているのに、見世物にするとはあんまりだ」
急いで村に戻り、みんなして六所神社の神主さんにお願いした。
「神主さん、あんとか河童の親子を助けてやって下せえ」
話を聞いた神主さんは、急いで見せ物小屋にかけつけてわけを聞くと、この河童の親子は悪さばかりの困りものの河童だったので、捕まえられて見せ物小屋に売られてしまったのだそうな。
神主さんはこの河童の親子を可哀そうに思い大金を出して買いとると、よく言い聞かせ、六所神社の裏を流れる「後っ川」に放してやったそうな。
この川は、鴨根の清水寺の山から流れてきて夷隅川の河口に出るが、上流にある将監淵という深い淵に住みついたこの親子の河童を、村人たちは「将さん河童」と呼ぶようになったそうな。
それからは、他の村がいくら日照りで困っても、将さん河童が、夜のうちに将監淵から田畑に水を汲んで来てくれたおかげで、江場土の村だけは水に困らなくなったそうだ。
そんなことで、村人たちも河童を大切にし、きゅうりやぼた餅を供えてやってたそうな。
そんなある年の夜、大雨が降って、江場土の橋が流されてしまった。
とある家の嫁さんが急に産気づいて苦しみ出し、家の者が川向うの産婆さんのところへ連れていこうとしたが流れが早くて船が出せない。困っていると、将さん河童が現れて、
「おらたちが、向こう岸の産婆さんの所まで連れていくから安心しな」 と、嫁さんを背中に乗せ、水かさが増して流れの早い川を渡り始めた。 河童の親子は何度も何度も流されかかったが、とうとう向こう岸までたどりついて嫁さんを陸に渡した。そして、親子の河童も岸に上がろうとしたが、どうしたことか、足元の岩に、つるりんとすべって、まっさかさまにひっくりかえると、荒れ狂う水の中に落ちてしまった。
その後、嫁さんは無事に男の子を産んだが、親子の河童はそれからはいつになっても姿を見せなかった。
村の衆は今までの事は河童の親子の恩返しに違いないと言いあったそうな。

いすみ市教育委員会発行「いすみの民話」より

この項、「」HPより)

この先に上記の「六所神社」があります。

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JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その6。いすみ市岬ふれあい会館・文化センター。健康マラソンコース。サザエさん一家。池田屋菓舗。長者。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

2023-12-15 19:24:10 | 房総東往還

ここにも親子連れが。

周囲は、広々と。               

バス停「小福公民館前」。

左手に大きな建物。

こちらは小さなぬいぐるみたち? 

 

振り向くと、一家勢ぞろい。    

こうして「スタート」地点に。

「いすみ市岬ふれあい会館・文化センター」。

歩いた日が、11月30日。翌々日の大会のために準備に慌ただしいようす。

   

     

当日は、なかなかの盛り上がりを見せていたようです。

この先、「岬町長者」交差点を左に曲がります。

と、角にあるお店。

「池田屋菓舗」。

               かなりのインパクトがあり。年期が入ったお店です。営業中?

このゲートには「○○商店街」と掲げられていたはず。

バス停「岬郵便局前」。

長者地域も昔から商業の中心地だったようですが、

商店街らしい雰囲気はありません。

バス停「千葉銀行長者出張所前」。

                               (「今昔マップ」より)

往還沿いに町場が形成されていたようです。

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JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その5。夷隅川。「いすみ健康マラソン」・かかしたちの応援、歓迎。田園地帯。農免道路。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

2023-12-14 20:27:37 | 房総東往還

「椎木商店街」もここまで。

「福原橋」で夷隅川を渡ります。

夷隅川(いすみがわ)

千葉県の房総半島南東部を流れる二級河川。一級河川の利根川を除くと千葉県最大の流域面積をもつ

勝浦市の清澄山に源を発し、数多くの渓流をあわせいすみ市岬町で太平洋に注ぐ。流路延長は67.5km、流域面積は299.4km²である

夷隅川は類まれな蛇行河川であり、夷隅川河口から西畑川合流点まで直線距離では約22kmなのに対し、河川延長は約45kmもある。夷隅地域は『古事記』や『日本書紀』で「いじむ」「いじみ」と呼ばれているが、ハワイ語の「イ・チ・ミ(川が悲鳴を上げて流れる(山の間を蛇行して流れる)地域)」が語源との説がある

夷隅川流域は古くから水田が多く、夷隅川を利用した農耕が盛んである。生活用水としても利用されている。

江戸中期から明治中期にかけて耕作地の拡大と流下阻害要因の解消のために「川廻し」という流路の直線化が盛んに行われた

(この項、「Wikipedia」より)

《生物》

夷隅川流域は、国の天然記念物に指定され絶滅危惧種であるミヤコタナゴの分布域にあたり、流域内の細流やなどに現在も生息が確認されている。同じく絶滅危惧種であるメダカなども細流や池に数多く生息していたが、近年は生息数が減少している。過去にはミヤコタナゴの稚魚の放流が行われていた。

コイフナウグイウナギアユの放流も行われており、1991年まではサケの試験放流が行われていた。その効果もあってか、アユの遡上が確認されている。平成6年および11年に実施された魚介類調査結果(河川水辺の国勢調査)によれば、現地確認された魚類は86 種で、純淡水魚23種、回遊魚11 種、汽水・海水魚52 種となっている。 平成6年調査では72種が確認されたが、その種数は、全国で実施された「河川水辺の国勢調査」結果で見ると長良川の88種に次いで、木曽川揖斐川と並び全国第二位にランクされた。

(この項、「」HPより)

上流方向。

ここにもたくさんのかかしが並ぶ。

その脇の横断幕には、

           「いすみ健康マラソンにようこそ! 楽しくパワー全開! 」。

マラソン大会の歓迎と応援に、たくさんのかかしたちが登場しているわけです。

※もともとあった、かかしも含まれているようです。

JR外房線の高架が見えてきます。

来た道を振り返る。

 のんびりと街道歩き。

梨園。

「手打ちそば ひらが」。

ここにもかかしたちが、並んで応援。

田園地帯が開けてきます。 

「農免道路」の表示が。    

バス停「東中滝」。      

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