おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

高崎線「桶川駅」~「鴻巣駅」。その3。上谷総合公園。中斉橋。ふるさと総合緑道。竹林公園。(「元荒川」をゆく。第5日目。)

2024-10-31 18:50:08 | 元荒川

畑が広がります。

対岸は、「上谷総合公園サッカー場」。

その先には、「テニスコート」。

      

      真夏とは違い、晴天の下、歩きやすい。

     大空を悠々と飛ぶ。

「中斉橋」を渡り、対岸へ。正面には、広大な「上谷総合公園」。

鴻巣市の南東に位置する『上谷総合公園』内に設置されたスポーツ施設です。野球場の「フラワースタジアム」を主施設とし、人工芝テニスコート10面・人工芝サッカー場1面、多目的グラウンドを配置し、夜間照明設備も整備されています。
スポーツ振興を目的として設置された公の施設で、スポーツ及びレクリェーションの場を提供し、健康で明るい市民の育成を図っています。                                           (「スポーツナビサイタマ」HPより)

下流方向。上流方向。

「ふるさと総合緑道」案内図。

「フラワースタジアム」。

             ここで、小休止。

「ふるさと総合緑道」を歩いて、上流へ向かいます。

「笠原大橋」。

「元荒川と緑、竹林」。               

対岸(右岸)のようす。

水道橋。 

対岸沿いの道路は、けっこう車が行き来しています。 

緑道には、銀杏の実や栗、木の実などが散らばっています。

  ぎんなん。

新幹線に近づいてきます。

        

橋の名は不明。

栗林。

「もうシーズンは終わったよ」と作業していた方。

「この先は県道に出て竹林公園へ向かうといいよ。あそこに見えるのが竹林公園だから」と。

                

新幹線沿いの管理道路。

ここにも木の実が散らばっています。何の実?

右手に「竹林公園」。

  

静かな空間。

                  朽ちかけた四阿がポツンと。

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高崎線「桶川駅」~「鴻巣駅」。その2。流路の今昔・蛇行した跡。鴻巣市常光・久喜市菖蒲。(「元荒川」をゆく。第5日目。)

2024-10-29 20:48:01 | 元荒川

上流方向。

左岸土手の道を歩きます。

右手にはかつての流路跡が残っています。

※流路に沿って村境が設定されています(現在の鴻巣市と久喜市にあたる)。

この付近の今昔。

                

                                   (1880年代)

 

                (現在)    

 

               右手に広がる、かつての流路跡。

       叢になっているところと道路になっているところがあります。

現在の元荒川の流れ。

航空写真では、

蛇行する旧流路がはっきりしている。             

正面に立派なお屋敷。

                                       このおうちは、鴻巣市常光。

草刈りの終えた土手を歩くことに。

ここは、久喜市。

左岸が久喜市、右岸が鴻巣市。

                                 

                                カラスウリ。

左手から鴻巣東部都市下水路。

               右岸方向。田畑が広がっている。

来た道を振り返る。

                 右が鴻巣市常光、左が久喜市菖蒲。

前方に草刈り作業中の軽トラ。

           「次の橋のところまで、草を刈ってありますよ」。まだ土手を先まで進めるので、一安心。

振り返って望む。

右手に田園風景が広がります。

この付近の今昔。 かなりの曲がりよう。

        (1880年代)           (現在)

左手(右岸)に「上谷総合公園」が見えてきます。

サッカー場や野球場、テニスコートなどけっこう施設が整い、大きな運動公園です。

 振り返る。

          川幅がぐっと狭くなっている。                     

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高崎線「桶川駅」~「鴻巣駅」。その1。五丁台バス停。幸手市。新幹線と何度か交差。鴻巣市常光入り。四郎兵衛橋。(「元荒川」をゆく。第5日目。)

2024-10-28 18:27:06 | 元荒川

今回は、「桶川駅」から朝日バスに乗って「五丁台」まで。そこから元荒川を遡ります。

「五丁台」バス停。

                「新幹線」高架線の手前から「幸手市」の標示。

「五丁台橋」。

              秋も深まる10月20日(日)晴れ。

元荒川下流方向。

               正面に見えるのは、「圏央道」。

上流方向。この先、新幹線と何度か交差します。

土手沿いに歩くことが出来ないので、新幹線沿いに迂回します。

本郷水管橋。

頭上をけっこう行き来する新幹線。

新幹線と川との間は耕作地になっています。

再び新幹線と交差。

この先も土手歩きは出来ず、集落に通じる道を進むことに。

上流方向。

田園風景が広がります。

右手に元荒川の流れ。

振り返る。

道路が交差する地点に何やら標識のようなものが。

 

この付近から鴻巣市常光入り。元荒川の対岸は、久喜市菖蒲。

来た道を振り返る。

鴻巣市と久喜市の境にある橋から。下流方向。

上流方向。

ここも草むらで歩行不能。

少し回り道をして次の橋に向かいます。

「四郎兵衛橋」。

この先からかつての元荒川が蛇行していた跡が残っています。

※今回の総選挙。今後の政局がどうなっていくのか? 立憲民主党も、いよいよその真価が試されている、と。

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「向島百花園」その2。芝金顕彰碑。鶴久子歌碑。たむけやま。はぜのき。ジンジャー。りんどう。とらのおすずかけ。 きせわた。

2024-10-27 21:08:36 | 向島百花園

芝金顕彰碑。

            ほととぎす今一声のきかまほし
             月はさゆれど姿を見せず
            エエぢれったい何としよう
             しんきくさいじゃないかいな

百花園には、庭づくりに協力した文人墨客たちの足跡が、石碑に残されています。芭蕉の句碑を含め、合計29基の石碑が点在し、そのうち14基は句碑で、俳句が読まれています。その他は、歌碑、仏画碑、記念碑、追善碑などです。

              鶴久子歌碑。 

    空蝉の 世のうきことは きこえこぬ いわおの中も 秋風のふく  

他にもたくさんあり、このブログでもたびたび紹介しています。

竹並木にも句碑などが。

          竹叢。

さて、

萩のトンネル。園内の萩は、もう散ってしまっている。

たむけやま。

                 季節によって色合いが異なります。   

            その向こうに、スカイツリー。

  

       ぴらかんさ。

はぜのき。

実から取れる油は、 古くから和ろうそくの原料として使われてきた木です。 美しく紅葉する木として庭木でも親しまれてきました。ウルシの仲間で、枝葉をちぎった時に出る白い樹液は、かぶれるので要注意。

ジンジャー。

りんどう(竜胆)。

リンドウは秋の山野草の代表的なものです。本州、四国、九州に分布し、人里に近い野山から山地の明るい林床や草原に見られます。人気が高く、薬草としても広く知られています。
春に細い芽が伸びてきて、ササの葉に似た細い葉をつけ、茎は次第に立ち上がります。夏が過ぎると茎は次第に横に倒れ、秋が過ぎたころから、先端に小さな蕾をのぞかせます。蕾は渦状に巻いた状態で、日を追うごとに伸びます。そして、暖かい日ざしのなかで、青紫色で5裂した筒状の花を数輪開きます。花後にはさや状の果実がつき、秋も深まるころには葉が枯れて休眠に入ります。
園芸的改良が盛んで多くの品種が見られ、鉢花や切り花などでも流通しています。

(この項「」HPより)

           とらのおすずかけ。

スズカケソウの仲間は3種あるが、3種ともごく限られた地域でしか見られないもので、 江戸時代に園芸植物として栽培されていたスズカケソウは岐阜県の一部にあるそうだが、キノクニスズカケは紀伊半島の1部で、そしてこのトラノオスズカケは四国の南部と九州に自生するとされている。
 まことに変わった和名がついているが、3種に共通する鈴懸は、球形の花序の付きようが、(鈴懸衣)山伏などの修験者が着用する法衣の上につける結袈裟(ゆいげさ)についた、丸くて大きな房に似ていることから来ているそうで、房状の果実がぶら下がるプラタナスの和名が鈴懸の木となっているのも同じ理由からのようだ。
  このトラノオスズカケは、球形ではなくて長楕円形になった花序を葉腋につけるが、花は近くによってもあまり目立たず、トラノオ(虎の尾)とはあまりにも大げさな命名に思える。
 植物の名前ではミズネコノオやネズミノオなどとともにトラノオがつく和名もいくつかあるが、尻尾状に見えるもので、猫や鼠に比べて太く荒っぽい感じのものを虎の尾と表現したのだろうか。 

                                  (この項「宮崎と周辺の植物」HPより)

きせわた。

北海道、本州、四国、九州に分布し、山地や丘陵地の草原や草地に生育する。和名の「きせわた」は「着せ綿」の意で、花冠の上部に白い毛が多くあり、それを「花に着せる綿」に見立てたという。(「Wikipedia」より)

         だんぎく。

ダンギクは海に近い、日当たりのよい岩山の崖や急斜面に見られる多年草です。全体に柔らかい毛があり、茎はまっすぐに伸びて、茎の上部の葉のわきに花を密集させます。冬には根元を残して枯れ、翌春、根元や茎の残った部分から芽を出して成長を再開します。
乾燥と強光線にたいへん強い反面、やや耐寒性に欠けるため、寒冷地や積雪の多い日本海側では鉢植えにして冬は保護したほうが無難です。

(この項「」HPより)

このように、「百花園」では、珍しく、絶滅危惧種になっている野草なども栽培・展示しています。

こうして、しだいに秋の気配が深まる「向島百花園」でした。

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「向島百花園」その1。我が庭のごとき。秋の気配が濃厚。へびうり。ひょうたん。みつばあけび。ざくろ。そして、芙蓉。

2024-10-26 17:00:45 | 向島百花園

一段と寒くなった、今日この頃。北の地方からは雪の便りや紅葉のようすが伝えられてきます。軽井沢では、0度を記録したとか。近所の、その軽井沢に別荘を持つ方が出かけられました。さぞかし素晴らしい紅葉に包まれ、過ごされることでしょう。

そんな別天地に出かけられない小生。今や我が家の庭と化した「向島百花園」に、ささやかな秋を求めに行きます。

10月19日(土)午後。晴れ。

   

  

へびうり。

             面白い奇妙な姿かたち・色あい。 

なたまめ。たしかに大きい。

それぞれりっぱな実をつけています。

 

みつばあけび。

 

          

ざくろ。

くずの実(豆)。               

盛りを過ぎた「おみなえし」にたくさんのアゲハチョウが。

艶やかな花が咲いています。

ふよう(芙蓉)。

白やピンクの大柄の花。

      

開花時期は、 8/ 1 ~ 10/ 5頃。ピンク色の大型の花。  

枯れたあとの姿も印象的(”枯れ芙蓉”)。昔から、「美しい人のたとえ」に用いられている花で、美しくしとやかな顔立ちのことを 「芙蓉の顔」という。

・「酔芙蓉(すいふよう)」 芙蓉とほとんど同じ形の花だが、朝に開花したときは白花で、夕方になるにつれてだんだん赤くなるという、とてもおもしろい花。

”酔っぱらって赤くなった”とのことでこの名前になったらしい。ピンク色の「芙蓉」を夕方に見ただけだとふつうの「芙蓉」と「酔芙蓉」は見分けがつきにくいが、朝、白かった花が夕方ピンク色になっていれば、それは「酔芙蓉」かもしれない。

(この項「」HPより)

いよいよ総選挙の投開票日。どの党に大きな花が咲くか? 国民の思いはどこにつながるのか? 

あきらめずに投票所に足を運びましょう! 

他人事のように眺めているだけでは、けっして未来はよくなりません。「国民主権」「主権在民」を名実ともに、今こそ!

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宇都宮線「蓮田駅」~「桶川駅」。その5。綾瀬川源流付近。横手堤。朝日バス「五丁台」バス停。附:桶川宿。(「元荒川」をゆく。第4日目。)

2024-10-24 20:15:13 | 元荒川

「東北新幹線」。

農地が広がります。

「桶川市 環境センター」。

新幹線高架下。綾瀬川。

横手堤(左手)。

横手堤:赤堀川の水除堤と綾瀬川への導流堤を兼ねた旧堤防。横手堤を挟んで2本の農業排水路が流れていて、北側の排水路は赤堀川へ落ちる。南側の中堀は綾瀬川の源流となっている。

赤堀川。

              

北東側に広がる田畑。

新幹線高架脇を進みます。                

                           遠くに「圏央道」。

                新幹線と交差する「圏央道」。

桶川市マンホール。

  市章と紅花のデザインの側溝の蓋。「べに花の郷 桶川市」。

朝日バス「五丁台」バス停で乗車。桶川駅まで戻ってきました。「桶川」は「中山道」の宿場町。中山道は、板橋宿から下諏訪宿まで歩きました。その先は、まだ。

中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸日本橋から数えて6番目の宿場。現在の埼玉県桶川市にあたる。

「桶川」の地名の由来については諸説ある。最も有力なのは「沖側(オキガワ)」説で、「オキ」を「広々とした田畑」の意とし、その「方向(ガワ)」である「沖側(オキ-ガワ)」が転訛したとするもの。他にも、湿地が多い土地柄で、東に芝川、南に鴨川の水源があることから、「川が起こる」意で「起き川(オキガワ)」とする説などがある。この地名「オケガワ」が初めて文献に現れるのは観応3年(1352年)、足利尊氏が家臣にあてた下文(くだし-ぶみ)であり、そこには「武藏国足立郡桶皮郷内菅谷村(むさし-の-くに あだち-ごおり おけがわ-の-ごう-ない すがや-むら)」とある

日本橋から距離にして10里14町(約40.8 km)と、ちょうどそれは江戸を出立した旅人が1日で歩く道程(詳しくは「#中山道の行程」を参照)とおおよそ等しく、江戸方に一つ手前の上尾宿(9里16町、約37.1 km)とともに、宿場町として絶好の位置にあったと言える。また、この距離はフルマラソンともほぼ同じである。

桶川宿は寛永12年(1635年)に設置された。当初わずか58軒に過ぎなかった宿内家数は、「中山道もの」といわれた紅花等の染料や食用農作物の集散地となっていた天保14年(1843年)頃には347軒に達し、経済的にも文化的にも繁栄を見せている。本陣は1軒、脇本陣は2軒。府川家が世襲した敷地面積1,000余、建坪200坪に及ぶ本陣は、当時の建物の一部が個人宅として現存している。旅籠は36軒あり、当時の建物を残して今日ある「武村旅館」はその中の一軒であった。

加賀前田家を始めとする参勤交代の大名の多くが、桶川宿の府川本陣を定宿としていた。水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が足跡を残していることも知られている。また、文久元年11月13日(西暦1861年1月2日)には、皇女・和宮(親子内親王)が公武合体政策の一環で徳川将軍・家茂御台所として降嫁すべく江戸へ下向の際、宿泊している。

(この項「Wikipedia」参照)

町並みが懐かしく、歩いてみます。

             宿内のようす。旧中山道。

            

           車が突っ込んだらしく、修復中だそうです。

       

             

「桶川宿本陣跡」。

          

     

ということで、「桶川宿」をほんのちょっと散策して帰りました。

駅前は、大規模な開発計画が出来ているようで、整地された空き地が目立ちます。

何年かすれば、駅前は大きく変貌することに。

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霜降。10月23日(水)。初時雨。紅葉。イチョウ。霜降り。

2024-10-23 18:27:13 | 世間世界

                  隅田公園にて。ただし、11月下旬のころ。

10月下旬では、紅葉にはまだまだ早い時期。

                      

ところで、今日は、二十四節気のうちの「霜降」。
 
朝晩の冷え込みがさらに増し、北国や山里では霜が降りはじめるころ。
 
露が霜に変わり、だんだんと冬が近づいてくる時期。
 
21日の東京地方。すっかり冷え切り、厚手のシャツを着込むことに。
 
たしかに朝晩は涼しさを感じるし、陽の沈むのも一段と早くなった印象。
 
5時過ぎでは暗くなり、自転車のライトを点けないと、あぶない。
 
それでも、向島百花園などではイチョウの木もモミジも、まだまだ色づかない。
 
昨日からはしばらく気温は、高め。でも、雨模様、と。寒暖差、晴れ、雨と変化が激しい今日この頃。 
 
自然の営みは、暦の上の「二十四節気」の季節感・自然観とはずいぶんずれてきているようです。
 
暦の上で「霜降」とは、

朝晩の冷え込みがさらに増し、北国や山里では霜が降りはじめるころ。だんだんと冬が近づいてくる。北国では初雪の便りも。

ということになります。

我が家でも、少しずつ冬支度。冬物の服装の準備。

「七十二侯」では、

初侯 10月23日〜10月27日頃

霜始降 しもはじめてふる

霜がはじめて降りる頃。

次侯 10月28日〜11月1日頃

霎時施 こさめときどきふる

通り雨のように雨が降りはじめる頃。降ったかと思えば、すぐに青空が顔を出す。

※「時雨」のことのようです。

「初時雨」は、人々や動物たちが冬支度をはじめる合図だといわれている。

※「初時雨」というと、芭蕉の句を思い浮かべる。

旅人と 我名よばれん 初しぐれ  (『笈の小文』)

初時雨 猿も小蓑を 欲しげなり  (『猿蓑』)

末侯 11月2日〜11月6日頃

楓蔦黄 もみじつたきばむ

もみじや蔦が色づいてくる頃。葉が赤色に変わることを「紅葉」と呼び、銀杏のように黄色に変わることは「黄葉」と呼びます。また、秋の山が紅葉することを「山粧う(よそおう)」という。

ここで、俳句、和歌をいくつか紹介。
 
柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 正岡子規
 
奥山に もみぢ踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき 猿丸太夫(『小倉百人一首』)
 
                          

ただしこの歌は、『古今和歌集』では作者は「よみ人しらず」となっている菅原道真の撰と伝わる『新撰万葉集』にも「奥山丹 黄葉踏別 鳴鹿之 音聆時曾 秋者金敷」の表記で採られているが、これも作者名はない。(「Wikipedia」より)

裏を見せ 表を見せて 散る紅葉(もみじ) 良寛が臨終の際に、弟子の貞心尼(ていしんに)に言い残した句。

(「向島百花園」にて。ただし、11月下旬。)

※七十二侯については、「暦生活」HPより。

毎年感じることですが、日本の四季は最近では「二季」に。夏から冬、冬から夏という具合。

ところで、「霜降(しもふり)肉」といえば、牛肉で脂肪が筋肉の間に細かく網の目のように入っている肉のこと。豚肉や馬肉にも用いられる。筋肉(筋繊維)の間に入った脂肪は「サシ」と呼ばれており、それが細かいほど上質とされる。

たまには高級な霜降り牛を食してみたいものです。

写真は神戸牛の霜降り。

(「Wikipedia」より)

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宇都宮線「蓮田駅」~「桶川駅」。その4。赤堀川・備前堤。「綾瀬川起点」碑。(「元荒川」をゆく。第4日目。)

2024-10-22 20:41:37 | 元荒川

途中、地元の方の軽トラで送ってもらい、「元荒川」沿いの農地を歩かないですみました。

さて、「桶川市環境センター」のところで降ろしてもらい、そこから再び歩き始めます。

「赤堀川」。右は、「桶川市環境センター」。

赤堀川

北本総合公園南東の北本市朝日地区と、鴻巣市常光地区との境界付近の田園地帯に源を発する。 ゆるやかに蛇行しながら概ね南東方向に流れ、高野戸川等の支流を合流しながら次第に流量を増す。 桶川市環境センター(ゴミ処理場)の脇、備前堤と直角にぶつかった所で備前堤に沿って北に不自然に曲がり、約300m 下流で元荒川の右岸に合流する。なお、備前堤を挟んだ反対側に綾瀬川の起点がある。 

起点から合流点まで、全域で元荒川の右岸側にほぼ平行して流れている。主に水田の排水路として機能していて、周囲は上流域は工業団地、下流域は主に農地となっている。 

※「備前堤」という名は、江戸時代に関東郡代として、幕府の領地にあった伊奈備前守忠次に由来する。忠次は、鴻巣領(鴻巣市付近)、小室領(伊奈町)一万三千石を給され、小室に陣屋を構えた。
この備前堤は、常光(鴻巣市内)、中丸(北本市内)方面から流れる赤堀川を幅4メートル、高さ約3メートル、長さ約600メートルの堤を築いて締切り、その流れを元荒川に直角に落としたものである。

この堤の完成によって、下流の伊奈、蓮田方面の村は洪水の害をまぬがれるようになったが、現在の桶川市域を含む上流の村は大雨の降るたびに田が冠水し、その被害は大きく近年にまで及んだという。
出水のたびに、上流と下流の村々の間で備前堤をめぐる争いがしばしばあったと伝えられ、現在も残る「御定杭」はこの争いを調停するために、土俵を積む高さを制限する目安とされたものである。

                                               (現在)〇のところで直角に折れる。北と南、二か所に「御定杭」が残っている。

                                               (1880年代)堤が確認できる。元荒川は河川改修前で、かなり蛇行している。

「綾瀬川起点」碑。

下流を望む。備前堤に沿って流れているか?

綾瀬川

埼玉県桶川市の小針領家の田園地帯の排水に源を発し、桶川市営運動場付近を流れ東に向かう。徐々に方向を南東に変えて北足立郡伊奈町蓮田市の境となる。右岸が上尾市に変わるところで、原市沼川を合わせる。以後蛇行しながら南東に流れ、いくつもの農業用水や排水路の水をあわせて次第に流量を増す。綾瀬川によって形成された低地によって大宮台地の片柳支台、鳩ヶ谷支台および岩槻支台が隔てられている。

以後中川低地に至り、草加市越谷市あたりでは川幅が数十メートルになる。しかし草加市で綾瀬川放水路を東に分け、一気に流量を減らす。綾瀬川放水路は洪水防止のために作られたもので、東京外環自動車道の下を通って中川に流れ込む

草加市内では古綾瀬川を合わせ、東京都足立区と埼玉県八潮市の境に入る辺りで伝右川毛長川を合わせる。足立区では花畑運河で中川と連絡する。葛飾区荒川放水路の左に沿って流れ、葛飾区東四つ木で中川に合流する。

左が綾瀬川、右は中川。ここで合流する。

戦国時代の頃は利根川荒川の本流であった。

荒川放水路が開削される前は、現在の旧綾瀬川を経由し隅田川に合流していた

戦国時代の頃は利根川荒川の本流であった。当時の利根川・荒川は、現在の綾瀬川源流の近く、桶川市と久喜市の境まで元荒川の流路をたどり、そこから現在の綾瀬川の流路に入った。現在の元荒川下流は、当時星川のものであった。戦国時代にこの間を西から東につなぐ水路が開削されて本流が東に流れるようになり、江戸時代に備前堤が築かれて綾瀬川が分離した綾瀬川の川筋は、武蔵国内の足立郡埼玉郡の境界とされていた

慶長年間(1596年 - 1615年)には備前堤が築造され、綾瀬川が荒川から切り離され、綾瀬川流域の低湿地の開発と綾瀬川自身を流域の用水源としたという

当時の日光街道(奥州街道)は、江戸付近の千住宿から、いったん東に回って松戸宿を経由し、西に戻って越ヶ谷宿に出てから北に向かっていた。寛永7年(1630年)に草加宿の設置が決まり、これにあわせて、天和3年(1683年)に綾瀬川の直線化の工事が行なわれた。これ以後、日光街道は一部綾瀬川沿いを通るようになった。

(この項、「Wikipedia」より)

「日光街道・草加宿」と綾瀬川。

  
  
  
1880年代のようす。         現在のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

「御定杭」。

    南北2ヵ所にあるうち、南にあるもの。※北の杭は「赤堀川」の対岸にあるが、叢に隠れていて、確認できず。

その付近から綾瀬川起点碑を望む。

              かなり下方に流れ(枯れた)がある。

新幹線沿いの道を歩いて、バス停のある「五丁台」へ向かいます。

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宇都宮線「蓮田駅」~「桶川駅」。その3.「常福寺橋」・「高虫橋」。「野通川」。ソバ畑。工事中の道・今回も軽トラに乗せてもらう。(「元荒川」をゆく。第4日目。)

2024-10-21 20:57:33 | 元荒川

「常福寺橋」を渡り対岸へ。

「常福寺橋」(下流より)

元荒川(下流方向)。

対岸。

元荒川の下を潜り抜けた見沼代用水が南東に向かっていきます。

元荒川右岸の土手を歩きます。

右から「野通川」が合流。

野通川はかつて周辺に存在した小針沼を始めとした、沼地干拓排水路として開発されてきた。 現在の流路は元荒川支派川改修事業が実施された大正末期から昭和初期にかけてのものである。その後鴻巣市加須市と元荒川と見沼代用水に挟まれた低地を南東と流れ、白岡市柴山・蓮田市高虫付近で元荒川左岸に合流する。 流域は主に農地として利用されているほか、川里工業団地といった工業団地ゴルフ場が存在する。

左手に広がる田畑。

高虫橋」。

              

この先、土手伝いは歩きにくいので、左の道路を進みます。

ソバ畑が広がる。

「日本アニマルパートナーシップ協会」の建物を右折。コスモス。

          

「ソバ」の名は栽培地や植物の性質を表したものと考えられている倭名類聚抄』には「曽波牟岐(そばむぎ)」とある。また『古今著聞集』には「そまむぎ」とある。「そま」は漢字では「」と書き、権力者が建築資材確保のために所有した山林のことで、中世にかけて貴族や社寺の所有する荘園の一部であった。このことから「杣」のような山で栽培される畑作物の意味で「そまむぎ」と呼ばれていたと考えられているまた、山の険しい地形を意味する「岨(そわ)」や「そは」の語や険阻なことを意味する「曾波(そば)」の語から地形に由来するという説もある

元荒川から少し離れ気味に。

住宅地へ入ります。

蓮田市のマンホール。

            蓮田市の木ハナミズキのデザイン。

カラスウリ。

花卉(かき)栽培。

鑑賞用の植物という意味を持つ「花卉」を栽培することです。 花卉の例としては、切り花、鉢花や花壇苗や観葉植物、盆栽など食用でない植物があげられます。 基本的に贈答用や、切り花の場合には冠婚葬祭として扱われることの多い植物の栽培になるため、嗜好性の高い作目の農業。

さて、住宅地を抜けて畑の中の道を進もうとしましたが、道路工事中で立ち入り禁止!

傍の工場で作業中の方に、この先の道を尋ねたところ、「どこまで行くの?」

「元荒川に出たいのですが」

「それなら、送っていくよ」と。軽トラを出してくれました。

「すいません。ありがとうございます」

「いや、こんな時間に歩いている人を見かけることはないので。気になって見ていたところだよ」。

というわけで、「八ッ場ダム」歩きに続いて、今回も軽トラに乗せてもらって、やれやれ。

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宇都宮線「蓮田駅」~「桶川駅」。その2。見沼代用水。柴山伏越。(「元荒川」をゆく。第4日目。)

2024-10-20 19:05:27 | 元荒川

道に迷いましたが、「柴山伏越(ふせこし)」にようやく近づきます。

左に「柴山伏越」。

                         正面には「常福寺」。

「柴山伏越」。

元荒川と見沼代用水の交差地点で、元荒川の川底を見沼代用水が抜け出る構造になっています。これは、流体を低い所に落とし、元の高さまで押し上げる連通管の理論を応用したものです。この伏越は、享保12年(1727)に井沢弥惣兵衛為永によって「紀州流」という土木技術でおこなわれました。当初、伏越地点では伏越と掛渡井(元荒川の上を樋によって通水する)がおこなわれ、舟運にも利用されていました。

令和元年、見沼代用水は「世界かんがい施設遺産」に選ばれました。(「白岡市観光協会」HPより)

           

見沼代用水(みぬまだいようすい)は、埼玉県にある灌漑農業用水。江戸時代の1728年(享保13年)に幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永新田開発のために武蔵国に普請した。灌漑用溜池であった見沼溜井の代替用水路であった。現在の埼玉県行田市付近の利根川から取水され、東縁代用水路東京都足立区西縁見沼代用水路は埼玉県川口市に至る。埼玉・東京の葛西用水路、愛知県の明治用水とならび、日本三大農業用水と称されている疏水百選にも選定され、かんがい施設遺産に登録されている。

「見沼代用水路の概要」

          「見沼代用水」概念図。

「見沼代用水」(北東方向)。

柴山伏越 

見沼代用水路は、享保12年(1727)徳川吉宗が勘定吟味役格井沢弥惣兵衛に命じ、県南東部(大宮台 た見沼溜井を干拓させたとき、代わりに水源を利根川に求めて掘った用水路であり、もとの見沼に代わる用水路といことで見沼代用水路と命名された。水路延長は約60キロメートルで、受益面積約17,000ヘクタールにも及ぶ大用水路である。

井沢弥惣兵衛は紀州(現和歌山県地方)の人で、土木技術にすぐれ、この用水路の工事は、着工から完成まで約6ヶ月で完工している。当初の設計にほとんど狂いがなかったといわれたほどで、いかにすぐれた土木技術を駆使して進められた工事であったかがわかる。

同用水路が元荒川と交差するこの場所では、元荒川の川床を木製の樋管を使用してサイフォンで通すという大工事を行った。これが柴山伏越である。

現在は、河川の改修が行われ、以前より川幅も3分の1と狭くなったが、これまで、修繕や伏替工事などが20数回行われ、現在見られるような構造になった。

設置当時:荒川の川底のさらに下、平地から5.4mの地下にトンネルを掘って木で樋を造り、その中に用水を通して、元荒川の下をサイホン式にくぐらせている。  設置当初の伏越は、長さ約47m、内幅約4.2m、高さ約1.2m。

※伏越(ふせこし・ふせごし)

用水施設排水施設などの水路において、開渠となっている部分が、河川法の適用を受ける河川または他の水路と交差している場合、逆サイフォン構造によって河川・水路の河底を通過させる工法・技法、およびそれによる工作物で、施工方法が開削工法によるもの

用水路・排水路など開水路の場合、河川と交差する部分で、沿岸の双方の高さに高低差が大きい場合、高い側から逆サイフォンで河川を自然流下で通過させることが多い武蔵国見沼代用水埼玉県)の「柴山伏越」二十箇用水大阪府)の「久左衛門樋」など、歴史的に古い水路・用水にも見られる工法である。(「Wikipedia」より)

                

 

  

この付近の今昔。

                               (現在)「柴山伏越」。近代化されている。

                               (1880年代)「見沼用水」と表示されている。

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宇都宮線「蓮田駅」~「桶川駅」。その1。朝日バス「根金(ねかね)橋」バス停。「隼人堀川」。「柴山沼」。(「元荒川」をゆく。第4日目。)

2024-10-19 20:15:06 | 元荒川

気温も少し落ち着いてきたので、「元荒川」歩きを再開します。

10月14日(スポーツの日)。晴れ。

「蓮田駅」から朝日バスで「根金橋」まで。

                         前回、暑さで中断したところから歩きます。

左岸の土手を歩く予定でしたが、草がかなり生い茂って、歩くのが難しい状態。

                       

     右岸もこんな状況。

「根金橋」。

そこで迂回し、「柴山沼」の方へ向かいます。

 

                          「隼人堀(はやとほり)川」。

白岡市柴山を管理起点とし、宮代町を流れ、春日部市で古利根川に合流する1級河川である。隼人堀川は、見沼代用水路の完成とともに周辺地域の灌漑用水が確保され栢間沼を干拓するにあたり、溜水を排水するために掘られたものである。この川の呼び方は、以前は庄兵衛堀川合流地点から下流を隼人堀川と呼び、上流部分は栢間堀と呼んでいた。今では河川行政上は全川を通して隼人堀川と表示されている。隼人堀川が見沼代用水路の川底をくぐって川の立体交差を形成している。

・・・

工業団地に出入りする大型ダンプなどがひっきりなしに行き交う道路「稲穂通り」を歩き、ようやく

「柴山沼」へ。

大山地区のほぼ中央に位置し、元荒川の下浸作用によって形成された河川跡です。
県内の自然沼としては、川越市の伊佐沼に次ぐ広ささの沼です。面積は12.5ヘクタール、水深は約8メートル。
平成4年度から始まった県営水環境保全事業によるビオトープ(生態系の保全、復元)などの整備により、さらに親しみやすい沼になりました。
柴山沼は格好の釣り場として、多くの釣り人が年間を通して訪れています。(「白岡市観光協会」HPより)

大雨などの際には隼人堀川(栢間堀)が排水不良となり、柴山沼の水が流下できなくなり冠水する事態もたびたび発生していた。1948年昭和23年)のカスリーン台風水害の際にその地理的条件から大きな損害を受けている。後に柴山沼は1977年(昭和52年)より埼玉県営圃場整備事業で面積は12.5ha、水深約8mの規模の沼となり、周囲の掘り上げ田は通常の水田乾田)へと姿を変えた。・・・(「Wikipedia」より)

             

「県営干拓地等農地整備事業 芝山地区竣工記念碑」など。

「柴山沼」解説板。

柴山沼は、大山地区のほぼ中央に位置し、元荒川の浸食作用によって形成されたものである。

江戸時代の享保13年(1728)から井澤弥惣兵衛によって周辺の浅い部分を堤で囲い、新田約24町3反歩(約24.3ヘクタール)を開いたにとどまり、中央部に53町歩余(約53ヘクタール)を残していた。

その後、明治から現在に至るまで稲作中心の土地利用が促進され、今では沼の規模は総面積11.9ヘクタール、最大深度約8メートルになっている。

最近では、沼周辺部は稲作にかわって梨、野菜、イチゴなどの栽培が進められている。

・・・

この付近の今昔。

                               (現在)中央の川が「元荒川」。

干拓事業が完成している。

                                (1880年代)沼地が大きく広がっている。

※現在、「柴山沼」の南側、北側には、田畑・果樹園などが広がっています。

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不可解な公明党の姿勢。しかし、何の疑問も持たず、ひたすら当選のために活動。不思議な組織・創価学会。

2024-10-18 18:18:16 | 世間世界

今回の総選挙。石破さんの乾坤一擲の初陣・大勝負! さて、どうなることやら。

ところで、今回は、とりわけ公明党の党利党略・打算が目に付く。

非公認や重複立候補が認められなかった裏金候補35人を「推薦」するという。

「裏金問題」で非公認となった候補者へ推薦を決定。地元の要望だといろいろいいわけがましいことを言っているが、無所属には学会の票を差し出すから、比例区には「公明党」へ。また、公明党が出馬する「小選挙区」の票を是非とも、と。

新委員長のところと大阪。

まるで、「公明(正大)」と裏腹の姿勢。

と思っていたら、小泉郵政民営化解散のときも同じような事が。

20年前とまったく変わらない、選挙「勝利」至上主義組織のあわれさよ。

題して公明党=創価学会というろくでもない存在」。再掲します。

《2005年8月13日》。

政治の世界に限らず、人と人とのつながり。昨日の友は今日の敵。敵の敵は味方。・・・よくあることです。それにしてもと思います。公明党=創価学会のやり口には。
 今回の選挙。コイズミさんのやり方。郵政民営化反対者は公認せず、対立候補を立てる。それで、郵政賛成派で過半数がとれなければ、首相の座を降りる。ある意味で、政党政治家らしい対応の仕方です。
 政党という団体は、まさに政策の一致が根本であって、その主義、主張に一定の拘束性を持つのは当然でしょう。こうした考えを一貫して堅持するコイズミさん。その姿勢を批判するなら、党内で反コイズミの多数派工作をして、コイズミさんを党代表の座から下ろす。コイズミさんの考え方・行動は、我が党の党是とは反するとして。それが叶わなければ、主義・主張を同じくする同志を募って、新たな政党団体を結成する。これが当たり前ではないでしょうか。
 党内論争は、論争として大いに行い、いったん党内がまとまったならば、その方針に従って、党人として行動する。自民党の50年間。そうしたやり方が出来ず、派閥間の合従連衡で、自民党という政治結社を組織していた。こうした旧態依然とした体質・あり方をぶっ壊していく、これがコイズミ流だと思うのです。その意味では、コイズミさん。首尾一貫しています。
 小選挙区制のもと、反対派は、自分たちで政治団体をつくるか、圧倒的に不利であっても無所属で選挙運動をする。勿論、今の自民党の体質ではそれがすっきりと出来ず、反対派候補者に対する党本部と県連との意見が合わない。まさに内紛的選挙戦になることも、仕方がないでしょう。どうみても組織政党とはいえないんですから、自民党は。だから、日本の政治の実権を握ってこられたとも言えますね。
 しかし、小選挙区制になった今、二大政党制の是非はともあれ、政党間で政策論争・論議がなされ、それが国民の前に明らかにされる。そして、投票の際の重要な観点になっていく、こうならなければ、小選挙区制をおく意義がないと思います。こうして、初めて今回の選挙の争点がはっきりもしてくるのです。
 ところが、相変わらずの自民党内のゴタゴタ。自民党公認がだめなら、無所属で立候補するという、反対派議員も多いようです。コイズミさんも当初の目的通り、反対派には自民党公認で賛成派候補者を擁立する方向。「内ゲバ」解散とも言われる所以です。もしかしたら漁夫の利を得るのは民主党。そうであってもコイズミさん、自らの節を曲げないでしょう。ある意味で立派な御仁です。
 そこで、またもや露呈したのが、公明党=創価学会の態度のおかしさです。
「郵政民営化には賛成です。コイズミさんをこれからも支えます。」と公言しておきながら、一方で、郵政民営化反対派の候補者を応援することもあり得るという。 郵政民営化可否を巡って、自民党内が大もめになっているとき、反対派には今後選挙支援をしない、と反対派切り崩しに一役買った公明党幹部。その根拠は、否決して総選挙になることを阻止!という一点のみでした。ところが、あれよあれよというまの総選挙。
 ここで、公明党の党利党略のえげつなさが出てきたのです。神崎さんをはじめ党幹部は、「郵政民営化賛成」という舌の根も乾かないうちに、反対派候補者(自民党本部から公認されない候補者)も支援する場合がある、と発言しました。この理由は、簡単。無所属では比例区には投票する対象の組織がない。そこで、「小選挙区では、誰々、比例区には公明党を」と叫んで貰いたいのです。
 これは、前の総選挙でも行った戦法。自民党の候補者が、学会からの固定票ほしさで「比例区には公明党」と演説して回りました。それで、比例区の公明党票は大きく伸びました。これは、候補者が連呼しただけではなく、自民党候補者の「後援会員名簿」を譲り受け、徹底した公明党への投票依頼行動をしたからです。
 今回もその作戦。郵政民営化に反対・賛成は関係なし!ただただ自分たちが有利になりさえすれば、それでOKというわけです。
 同じ「信仰者」ということで存在するはずの創価学会組織。本来、政党支持は自由であるはずなのに、信心の組織を全面的に使って、会員を選挙活動にかり出す。あげくの果てに、自民党候補者への投票を上から指示されたり、自民党後援会名簿をもとに、公明党への一票をお願いする。・・・表向きは、自由です、どの党に入れよう、と言いつつも。そこに、この組織の「ろくでもなさ」があるのです。
 まして今回は、コイズミさんが争点にしたいのは、「郵政民営化賛成か反対か」だとすれば、これほどいい加減な政党組織はないと思います。コイズミさんと一緒に少数派に転落したらイヤ!敵であろうと何であろうと、その保険のためには、節操も主義も何もない。
 どうしてこういう団体が、日本に跳梁跋扈しているのでしょうか。こういうことでは、「イカン」崎!と思うのです。

・・・

さて、今回はどうなるか、思惑通りにいくかどうか。該当選挙区に選挙権・票を持たない小生ですが。

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「野木沢駅」~「郡山駅」。阿武隈(あぶくま)川。あぶくま高原道路。泉郷(いずみごう)・川東・小塩江(おしおえ)・安積永盛(あさかながもり)。そして、終点・郡山駅。(「水郡線」の旅。その8。)

2024-10-17 20:21:59 | 鉄道の旅

この先は、丘陵地帯から田園地帯を進みます。

※「久慈川」沿いから「阿武隈川」及び支流沿いになります。

「あぶくま高原道路」。

「泉郷(いずみごう)駅」。

福島県石川郡玉川村大字小高字中村前にある

福島空港に最も近い鉄道駅であるが、現在は空港行きの路線バスの設定はなく、タクシー以外にアクセス手段がない。

   

「川東駅」。「阿武隈川」の東側にあたる。

福島県須賀川市小作田(こさくだ)字西舘(にしたて)にある。かつては相対式ホーム2面2線であったが、旧2番線の線路および跨線橋は撤去された。

「小塩江(おしおえ)駅)」。

福島県須賀川市塩田字小玉にある。駅舎はなく、出入口があるのみ。

「谷田川駅」。

福島県郡山市田村町谷田川字荒小路(あらこうじ)にある。郡山市に属している。

「磐城守山駅」。福島県郡山市田村町岩作(がんさく)字西河原にある。

東北本線に合流して、「安積永盛駅」に向かいます。

※その手前で、「阿武隈川」を渡ります。

源を福島県西白河郡西郷村に位置する旭岳(標高1,835m)に発し、阿武隈山地や奥羽山脈から流れ出る社川、釈迦堂川、大滝根川、荒川、摺上川等の支川を合わせながら福島県中通 り地方を貫流し、福島・宮城県境の狭窄部を抜け、白石川を合わせて、岩沼市、亘理町の境で太平洋に注ぐ一級河川です。
 阿武隈川は、「古今集」東歌の一首をはじめとして、古くから歌に詠われ、また、江戸時代には御城米や物資などの輸送手段として、舟運が盛んに行われていたという歴史・文化があり、福島・宮城県境の狭窄部は、阿武隈渓谷県立自然公園に指定される景勝地となっており、阿武隈川で唯一の舟下りが行われています。
 現在、流域の市町村が構成する”阿武隈川サミット”が定期的に開かれ、阿武隈川の抱える共通 の問題や課題について連携しながら取り組んでいます。(この項「東北地方整備局」HPより)

「安積永盛(あさかながもり)駅」。

福島県郡山市笹川三丁目にある東北本線所属線として水郡線を加えた2路線が乗り入れる。水郡線は当駅が終点であるが、全列車が東北本線の郡山駅を発着する

かつては駅から分岐本線の西側に沿って、駅の南側にある太平洋セメント安積永盛倉庫へ至る専用線があった。そのため、本駅は大越駅住友大阪セメント田村工場)からセメント輸送列車が到着していたが、1999年(平成11年)6月に廃止された。

ようやく「郡山駅」に到着します。

水戸駅発9:23 郡山駅着12:33。約3時間の列車の旅でした。

※小生以外、同じ車両では小生以外、3人が水戸からここまで乗ってきました。

       

「郡山駅」ホーム。  

  

       

JR東日本の新幹線と在来線各線が乗り入れ、東西南北へ向かう路線の結節点となっている。

新幹線は、線路名称上は東北新幹線のみであるが、新幹線ホームには同新幹線の列車のほか、山形新幹線の列車も停車する。

在来線は、線路名称上は東北本線磐越西線磐越東線の3路線が乗り入れている。このうち、東北本線を当駅の所属線とし、また、磐越西線は当駅が起点、磐越東線は当駅が終点である。このほか、水戸駅を起点とし、東北本線の当駅の南隣にある安積永盛駅を終点とする水郡線の列車も当駅まで乗り入れており、前述の各線と合わせると5方面の列車が当駅を発着している。

 

にぎやかな駅前。  

車窓からの映像より。 

               

                  

雨の一日でしたが、変化に富み、車窓の右に左に景色が広がり、3時間もあっという間に過ぎてしまいました。

今度は、磐越西線、磐越東線に乗ってみたいと思います。

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「磐城棚倉駅」~「野木沢駅」。「花火の里あさかわ」。里白石駅。磐城石川駅・「学法石川」。野木沢駅。(「水郡線」の旅。その7。)

2024-10-16 18:29:55 | 鉄道の旅

駅周辺を過ぎると、田園地帯が広がります。

          

「花火の里あさかわ」。

磐城浅川(いわきあさかわ)駅。福島県石川郡浅川町字浅川字本町西裏(もとまちにしうら)にある。

水郡線の駅の中では最も標高が高い場所に位置する。標高307M。

※水戸駅:標高9M。郡山駅:226M。

久慈川沿いの微高地・盆地を上ったり、下ったりしながらここまで到着。この先は、阿武隈山地、阿武隈川(支流)沿いに進む。

浅川の花火は毎年お盆の8月16日に開催され、趣向を凝らした大小数千発の打上げ花火が夜空を彩ります。なかでも呼び物となっている「大からくり」と「地雷火」は必見で、町内を見下ろす城山の山肌で炸裂する迫力満点の「地雷火」がフィナーレを飾ります。浅川の花火の起源は諸説あり、一説によると江戸時代中期から始まったとされ、福島県内で最古の伝統を持つ花火大会とも言われています。

                                (「」HPより)

           

                   

                                (「」HPより)

「里白石駅」。

福島県石川郡浅川町大字里白石字宿裏(しゅくうら)にある。待合室があるのみ。ホームと道路との間は段差がない。

「北須川」(「社川」と合わせ、「阿武隈川」に合流する。)。

   水源は、阿武隈山地(右手一帯に広がる山地)。

「磐城石川駅」。福島県石川郡石川町字当町(とうまち)にある。

高校野球などで有名な「学法石川」は、この地にあります。

福島県石川郡石川町大室にある、中高一貫教育を提供する私立中学校高等学校(併設型中高一貫校)。

1892年(明治25年)に石川義塾として創立。福島県内最古の私立学校である。2008年度より法人名を学校法人石川義塾に変更・石川義塾中学校を新設し、併設型中高一貫教育を開始した。

自転車競技部は全国高等学校総合体育大会自転車競技大会インターハイ)6回(うちトラック2回、ロード8回)、全国高等学校選抜自転車競技大会3回の全国での総合優勝とインターハイと選抜自転車競技大会で12回の準優勝がある。

ハンドボール部は全国高等学校総合体育大会ハンドボール競技大会(インターハイ)、国民体育大会全国高等学校ハンドボール選抜大会2回の3位入賞をしている。

野球部は4回と9回の甲子園出場、最高位はベスト16。明治神宮野球大会1回出場。

陸上競技部は全国高校駅伝競走大会に男子は12年連続14回、女子は10年連続10回の出場。男子は2013年8位、2014年7位、2015年7位と3年連続で入賞、2018年は2時間2分台を記録し3位の表彰台に入った。2019年も前年の記録を上回る2時間2分台で5位入賞を果たした。7区間すべて日本人だけで2時間2分台を2度記録している。2021年、2022年は連続で8位入賞。10年で7度の入賞。女子は2020年に8位と初の入賞を果たしている。

サッカー部は全国高校サッカー第99回)に1度、ソフトボール部はインターハイに3度出場。柔道部、ソフトテニス部、チアリーディング部、ゴルフ部、空手道部も全国大会出場がある。

※通学は郡山駅、白河駅から通学バスが出ている。

「野木沢駅」。

福島県石川郡石川町大字中野字水内(みずうち)にある。「JA夢みなみ」の石川野木沢支店と合築の駅舎に改築

駅舎。

郡山に向かう乗客が増えてきます。

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「十三夜」。10月15日(火)。「豆名月」・「栗名月」。月見団子・ススキ。樋口一葉『十三夜』。

2024-10-15 20:30:08 | 世間世界

今夜は、「十三夜」。少し欠けた月がきれいですが、スマホではうまく撮れないので、「ウェザーニュース」を拝借。

  近所の公園から。                 

十三夜とは、昔使っていた月の満ち欠けをもとに1か月の日付を決める太陰太陽暦(旧暦)の9月13日の夜を指し、この日に見える月は旧暦の8月15日(十五夜)に出る月(中秋の名月)と並ぶ名月とされています。

平安時代に中国から伝わったとされる十五夜の月を愛でる風習とは異なり、十三夜の少し欠けた月を愛でる風習は日本独特のものと言われています。

ではなぜ、満月でもない十三夜にお月見をする風習が日本で始まったのでしょうか?

これに関しては諸説あるものの、延喜(えんぎ)19年9月13日 (現在の暦では919年10月9日)に、当時の法皇が催した月の宴がきっかけとなったというのが、最も有力な説とされています。

また、十三夜の月は、十五夜の月(中秋の名月)とセットで呼ばれることも多く、旧暦8月の十五夜の月を「前の月」、9月の十三夜の月を「後(のち)の月」と呼んだり、2つの月を合わせて「二夜(ふたよ)の月」と呼ぶこともあります。

そして、片方しかお月見を行わないことは「片見月(かたみづき)」と呼ばれ、縁起の悪いものとされています。

(この項、「ウェザーニュース」HPより)

十三夜には、別の言い方があります。この時期は、栗や豆が収穫できる時期であり、旬のものをお供えしてお月見をしたことから「豆名月(まめめいげつ)」「栗名月(くりめいげつ)」と呼ばれます。十五夜の「芋名月」が、芋を収穫しお供えしたことから名づけられたのと同じですね。

また、十五夜に次いで美しく、十五夜の後に巡ってくるので、「後(のち)の月」とも呼ばれます。

お月見では、秋の収穫に感謝するため、収穫物をお月様にお供えします。お供えしたものは、必ず美味しくいただきましょう。神様との結びつきが強くなると考えられています。十五夜に対して十三夜の月見を「後の月見」と言います。

「後の月見」に何を準備して、楽しみましょうか? まずは、月見団子。十三夜の場合は、13個のお団子を用意し、1段目に9個、2段目に4個並べます。月見団子は、お月様から見えるところもしくは、床の間にお供えしましょう。合わせて、収穫された旬の果物や野菜をお供えし、秋の実りに感謝します。旬を迎える栗やブドウと言った果物がおすすめです。名前の由来にもなっている枝豆、大豆をお供えするのも良いでしょう。

そして、収穫物と共に、ススキを飾ります。ススキの鋭い切り口は、魔除けになる。茎の内部が空洞のため、神様の宿り場になると信じられていたため、古くから神様の依り代(よりしろ)と考えられていました。悪霊や災いなどから収穫物を守り、翌年の豊作を願う意味が込められています。

(この項、「Oggi.jpおしゃれもキャリアも。働く女性のWebメディア」HPより)

※樋口一葉『十三夜』を紹介します。

《貧しい士族斉藤主計の娘お関は、官吏原田勇に望まれて七年前に結婚したが、勇は冷酷無情なのに耐えかねてある夜、無心に眠る幼い太郎に切ない別れを告げて、無断で実家に帰る。おりしも十三夜、》

・・・ほんに/\手が懸つて成ませぬ、何故彼樣で御座りませうと言ひかけて思ひ出しの涙むねの中に漲るやうに、思ひ切つて置いては來たれど今頃は目を覺して母さん母さんと婢女をんなどもを迷惑がらせ、煎餅おせんやおこしの※(「口+多」、第3水準1-15-2)たらしも利かで、皆々手を引いて鬼に喰はすとおどかしてゞも居やう、あゝ可愛さうな事をと聲たてゝも泣きたきを、さしも兩親ふたおやの機嫌よげなるに言ひ出かねて、烟にまぎらす烟草二三服、空咳こん/\として涙を襦袢の袖にかくしぬ。

今宵は舊暦の十三夜、舊弊なれどお月見の眞似事に團子をこしらへてお月樣にお備へ申せし、これはお前も好物なれば少々なりとも亥之助に持たせて上やうと思ふたけれど、亥之助も何か極りを惡がつて其樣な物はお止よしなされと言ふし、十五夜にあげなんだから片月見に成つても惡るし、喰べさせたいと思ひながら思ふばかりで上る事が出來なんだに、今夜來て呉れるとは夢の樣な、ほんに心が屆いたのであらう、自宅うちで甘い物はいくらも喰べやうけれど親のこしらいたは又別物、奧樣氣を取すてゝ今夜は昔しのお關になつて、外見みえを構はず豆なり栗なり氣に入つたを喰べて見せてお呉れ、いつでも父樣と噂すること、出世は出世に相違なく、人の見る目も立派なほど、お位の宜い方々や御身分のある奧樣がたとの御交際おつきあひもして、兎も角も原田の妻と名告なのつて通るには氣骨の折れる事もあらう、女子をんなどもの使ひやう出入りの者の行渡り、人の上に立つものは夫れ丈に苦勞が多く、里方が此樣な身柄では猶更のこと人に侮られぬやうの心懸けもしなければ成るまじ、夫れを種々さま/″\に思ふて見ると父さんだとて私だとて孫なり子なりの顏の見たいは當然あたりまへなれど、餘りうるさく出入りをしてはと控へられて、ほんに御門の前を通る事はありとも木綿着物に毛繻子の洋傘かうもりさした時には見す/\お二階の簾を見ながら、吁あゝお關は何をして居る事かと思ひやるばかり行過ぎて仕舞まする、實家でも少し何とか成つて居たならばお前の肩身も廣からうし、同じくでも少しは息のつけやう物を、何を云ふにも此通り、お月見の團子をあげやうにも重箱おぢうからしてお恥かしいでは無からうか、ほんにお前の心遣ひが思はれると嬉しき中にも思ふまゝの通路が叶はねば、愚痴の一トつかみ賤しき身分を情なげに言はれて、本當に私は親不孝だと思ひまする、それは成程和やはらかひ衣服きものきて手車に乘りあるく時は立派らしくも見えませうけれど、父さんや母さんに斯うして上やうと思ふ事も出來ず、いはゞ自分の皮一重、寧そ賃仕事してもお傍で暮した方が餘つぽど快よう御座いますと言ひ出すに、馬鹿、馬鹿、其樣な事を假にも言ふてはならぬ、嫁に行つた身が實家さとの親の貢をするなどゝ思ひも寄らぬこと、家に居る時は齋藤の娘、嫁入つては原田の奧方ではないか、勇さんの氣に入る樣にして家の内を納めてさへ行けば何の子細は無い、骨が折れるからとて夫れ丈の運のある身ならば堪へられぬ事は無い筈、女などゝ言ふ者は何うも愚痴で、お袋などが詰らぬ事を言ひ出すから困り切る、いや何うも團子を喰べさせる事が出來ぬとて一日大立腹であつた、大分熱心で調製こしらへたものと見えるから十分に喰べて安心させて遣つて呉れ、餘程甘うまからうぞと父親の滑稽おどけを入れるに、再び言ひそびれて御馳走の栗枝豆ありがたく頂戴をなしぬ。

※太字:「十三夜」にちなんだもの。

《両親を見て言い出しかねていたが、あやしむ父に促されて経緯を話し、離縁をと哀願する。父は、お関に因果を含め、ねんごろに説きさとす。お関もついにはすべて運命とあきらめ、力なく夫の家に帰る。》

《その途中乗った車屋はなんと幼なじみの高坂録之助。話を聞けば、自分のために自暴自棄、妻子を捨てて落ちぶれた暮らしをしている。そのひとを今、目の前にして、万感、胸に迫る思いで、無限の悲しみを抱いたまま、彼とも別れ、帰って行く。》

男はうす淋しき顏に笑みを浮べて貴孃といふ事も知りませぬので、飛んだ我まゝの不調法、さ、お乘りなされ、お供しまする、さぞ不意でお驚きなさりましたろう、車を挽くと言ふも名ばかり、何が樂しみに轅棒かぢぼうをにぎつて、何が望みに牛馬の眞似をする、錢が貰へたら嬉しいか、酒が呑まれたら愉快なか、考へれば何も彼も悉皆しつかい厭やで、お客樣を乘せやうが空車からの時だらうが嫌やとなると用捨なく嫌やに成まする、呆れはてる我まゝ男、愛想が盡きるでは有りませぬか、さ、お乘りなされ、お供をしますと進められて、あれ知らぬ中は仕方もなし、知つて其車それに乘れます物か、夫れでも此樣な淋しい處を一人ゆくは心細いほどに、廣小路へ出るまで唯道づれに成つて下され、話しながら行ませうとてお關は小褄少し引あげて、ぬり下駄のおと是れも淋しげなり。
 昔の友といふ中にもこれは忘られぬ由縁ゆかりのある人、小川町の高坂とて小奇麗な烟草屋の一人息子、今は此樣に色も黒く見られぬ男になつては居れども、世にある頃の唐棧たうざんぞろひに小氣こきの利いた前だれがけ、お世辭も上手、愛敬もありて、年の行かぬやうにも無い、父親の居た時よりは却つて店が賑やかなと評判された利口らしい人の、さても/\の替り樣、我身が嫁入りの噂聞えそめた頃から、やけ遊びの底ぬけ騷ぎ、高坂の息子は丸で人間が變つたやうな、魔でもさしたか、祟りでもあるか、よもや只事では無いと其頃に聞きしが、今宵見れば如何にも淺ましい身の有樣、木賃泊りに居なさんすやうに成らうとは思ひも寄らぬ、私は此人に思はれて、十二の年より十七まで明暮れ顏を合せるたびに行々は彼の店の彼處へ座つて新聞見ながら商ひするのと思ふても居たれど、量らぬ人に縁の定まり、親々の言ふ事なれば何の異存を入れられやう、烟草やの録さんにはと思へどそれはほんの子供ごゝろ、先方さきからも口へ出して言ふた事はなし、此方は猶さら、これは取とまらぬ夢の樣な戀なるを、思ひ切つて仕舞へ、思ひ切つて仕舞へ、あきらめて仕舞うと心を定めて、今の原田へ嫁入りの事には成つたれど、其際までも涙がこぼれて忘れかねた人、私が思ふほどは此人も思ふて、夫れ故の身の破滅かも知れぬ物を、我が此樣な丸髷などに、取濟したる樣な姿をいかばかり面にくゝ思はれるであらう、夢さらさうした樂しらしい身ではなけれどもと阿關は振かへつて録之助を見やるに、何を思ふか茫然とせし顏つき、時たま逢ひし阿關に向つて左のみは嬉しき樣子も見えざりき。
 廣小路に出れば車もあり、阿關は紙入れより紙幣いくらか取出して小菊こぎくの紙にしほらしく包みて、録さんこれは誠に失禮なれど鼻紙なりとも買つて下され、久し振でお目にかゝつて何か申たい事は澤山たんとあるやうなれど口へ出ませぬは察して下され、では私は御別れに致します、隨分からだを厭ふて煩らはぬ樣に、伯母さんをも早く安心させておあげなさりまし、蔭ながら私も祈ります、何うぞ以前の録さんにお成りなされて、お立派にお店をお開きに成ります處を見せて下され、左樣ならばと挨拶すれば録之助は紙づゝみを頂いて、お辭儀申す筈なれど貴孃のお手より下されたのなれば、あり難く頂戴して思ひ出にしまする、お別れ申すが惜しいと言つても是れが夢ならば仕方のない事、さ、お出なされ、私も歸ります、更けては路が淋しう御座りますぞとて空車引いてうしろ向く、其人それは東へ、此人これは南へ、大路の柳月のかげになびいて力なささうの塗り下駄のおと、村田の二階も原田の奧も憂きはお互ひの世におもふ事多し。

(明治二十八年十二月「文藝倶樂部」臨時増刊 閨秀小説)

(「青空文庫」より)

               樋口一葉。これまでの五千円札の肖像でした。

新しい五千円札の肖像画は、津田梅子さん。

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