おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

奥の手を出す。でも、すぐ引っ込める?・・・。

2013-09-30 00:12:36 | 世間世界
公明代表、改憲巡り首相けん制 「連立のあり方も議論」(朝日新聞) - goo ニュース
 ついに支持母体の創価学会からの突き上げもあって、踏み込んだ発言を。国レベルの選挙では、公明党(創価学会)の票がなければ、当選が危うい連中が多い自民党。あえて「けん制」というみえみえのボールを投げただけだろうが。 そして、またしても腰砕けになるか、公明党側が。
 いっとき、自民党から「あいつらは、雪道の下駄の歯と歯の間」結局くっついてくる、と揶揄された公明党ではあった。
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「FALLO!2003」(TintoBrass)(古きよき映画シリーズ。その41。)

2013-09-29 20:41:59 | Tinto Brass
 この際だから、tinto Brass監督の作品を懲りずに紹介しよう!

Fallo!(From Wikipedia, the free encyclopedia)
DVD cover

Directed by Tinto Brass
Produced by Giovanni Bertolucci
Roberto Di Girolamo
Ugo Tucci
Written by Tinto Brass
Carla Cipriani
Massimiliano Zanin
Starring Sara Cosmi
Massimiliano Caroletti
William De Vito
Music by Francesco Santucci
Cinematography Federico Del Zoppo
Editing by Tinto Brass
Running time 104 minutes
Country Italy
Language Italian

Fallo! is a 2003 Italian film co-written and directed by Tinto Brass. The film is known in English as Do It! (English translation of Fallo!) and Private. It consists of a series of 6 independent vignettes.

1) ALIBI:
 Cinzia (Sara Cosmi) celebrates her honeymoon with her husband in Casablanca; he must give her the prize she covets, or she will have sex with a handsome Moroccan waiter.


2) MONTAGGIO ALTERNATO:
Stefania (Silvia Rossi) is the wife of distinguished TV news anchor Luigi (Andrea Nobili) who becomes enraged when she finds out her husband is having an affair with Erika (Federica Tommasi). She takes in a new lover in television director Bruno (Max Parodi). Includes a scene with brief finger penetration on Federica Tommasi and oral sex on Andrea Nobili.


3) 2 CUORI & 1 CAPANNA:
 The sweet Katarina Alto Adige (Raffaella Ponzo) will get paid to meet with the perverse Frau Bertha (Virginia Barrett) a German dominatrix in a small Tyrolean guesthouse. The scheme was concocted by her boyfriend, Neapolitan chef Cyrus (Stefano Gandolfo) so that they can open his own restaurant.


4) BOTTE D’ALLEGRIA:
 Raffaella (Angela Ferlaino) betrays her pedantic and talkative husband Hugh (Daniel Ferrari) after she learns of his many extramarital affairs.


5) HONNI SOIT QUI MAL Y PENSE:
 In the beautiful village of Cap d'Agde, Anna (Maruska Albertazzi), has leisurely fun with Mrs. Helen (Grazia Morelli) and her husband, Scottish satirist Mr. Noel (Antonio Salines).


6) DIMME PORCA CHE ME PIAZE:
 Venetian Rosy (Federica Palmer) is on her honeymoon with her husband in London, and agrees to a dare that she must have sex in public.


 邦題は、「桃色画報」。原題の「ファッロ (Fallo)」 は、人口162人のイタリア共和国アブルッツォ州キエーティ県のコムーネ(共同体)の一つ。(「Wikipedia」より。)??? 性の世界は、男と女の(むしろ、女主体の男との)共同作業ということ。TSUTAYAにも一般向け(年齢制限もなく)にありました。
 例によって、ブラスの軽快な演奏で始まる、もちろん軽いタッチの6つのエピソード。女性美謳歌で、開放的。
 最後がおもしろい。「覗き見」されているのに気づきますます燃える二人。覗き見を気づかせる御仁は、Tinto Brassご自身という落ち。


 どうも英語のあらすじ・解説、ちょっと内容と違っているような気がするが。
 あくまでも、明るくおおらかなつくり。6人(6組)6色の色恋騒動。ブラス作品の、どこで登場した、見た女優が勢揃い(狂言回しの男優達も)。
 それぞれ、色彩感覚がおもしろい。特に、室内での装飾が。5話は、日本の扇子をイメージしたような雰囲気がどっきとするほど、決まった! 他も、なかなか見事な舞台設定。電車ごっこの時のバックのポスターなど、細かいところまで遊びの精神が満載。

※映像はすべて「YouTube」による。
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「Salon Kity」(Tinto Brass)(古きよき映画シリーズ。その40。)

2013-09-28 23:24:43 | Tinto Brass
サロン・キティ(ドイツ語: Salon Kitty)

 1930年代から1940年代にかけてドイツの首都ベルリンにあった高級娼館。1939年から1942年にかけての時期は、SD(親衛隊(SS)内部におかれた情報部)が経営を乗っ取り、諜報目的で運営していた。
 要人たちが使うような高級娼館を諜報活動に使うというアイデアは、親衛隊幹部で情報部門を掌握していたラインハルト・ハイドリヒによるものだが、実行に移したのはその部下のヴァルター・シェレンベルクだった。ハイドリヒやシェレンベルクのアイデアは、ドイツ各界の要人たちや各国外交官らを酒と女性でもてなし、枕元で女性に対してナチ党や政府への率直な意見や不満、自国の内密の情報などを打ち明けるのを傍受して、不満分子を摘発したり機密情報を得たりするのに役立てようというものだった。娼館にSDのエージェントを浸透させるという案に対し、シェレンベルクは娼館そのものをSDが乗っ取り経営することを主張した。
 乗っ取りの対象となった高級娼館サロン・キティは、シャルロッテンブルク区ギーゼブレヒト通り(Giesebrechtstrasse)11番地にあった。この地区はベルリン西部の裕福な階層が暮らす地区で、サロン・キティの主な顧客はドイツ各界の高位の人物や、各国の外交官などであった。爛熟したヴァイマル文化の残る1930年代初頭以来、この高級娼館を経営していた女主人(マダム)は、1882年生まれのキティ・シュミット(Kitty Schmidt, 本名 Katharina Zammit)という人物であった。キティ・シュミットは、ナチ党の権力掌握以来、他国へ亡命しようとする人々をひそかに助けつつ、自らもイギリスの銀行へ送金を続けていた。彼女自身もついに国外へ逃げようとしたが、1939年6月28日、SDのエージェントによりオランダとドイツの国境で逮捕され、ベルリンのゲシュタポ本部へと送られた。
 シェレンベルクはキティ・シュミットに面会し、サロン・キティをSDに使わせてナチ党の諜報活動に協力するか、SDへの協力を拒否して強制収容所へ送られるかの二者択一を迫り、防諜活動への協力を強いた。
 SDはサロン・キティを「改装」の名目で一時閉店し、その間に大量の盗聴用マイクロフォンを全館に仕掛けた。マイクからの送信線は地下室に引き込まれ、そこから顧客たちの話の傍受・監視を行う部屋へと続いていた。
 この娼館でエージェントとして働く女性を確保するため、ベルリンの道徳警察(風紀警察、Sittenpolizei)が逮捕した多数の娼婦の中から、頭がよい、多国語を理解する、思想的にナチス寄りなど、エージェントの素質がある者20人を選出した。彼女らは7週間にわたり厳しい思想教育や訓練を受けた。その中には各種の軍服の見分け方や、他愛のない会話から機密を収集する方法などもあった。彼女らは顧客を相手するごとに報告を行うことが義務付けられた。一方で、隠しマイクが部屋毎にあることについては知らされていなかった。
 1940年3月、サロン・キティは営業を再開した。キティ・シュミットは、何事もなかったかのように営業を続けるよう命じられた。ただしある特定の種類の客に対してのみ、普通の顧客には見せない20人の女性の情報が載った冊子を見せるよう指示された。もし店に来た客がキティに「私はローテンブルクから来たのだが」という合言葉を言えば、彼女は20人の女性の情報が載っている特別な冊子を出し、客はその中から一人を選んで夜を共に過ごすことになっていた。
 ナチ党や政財界の要人、軍部の高官、駐ドイツ外交官らの間に、「サロン・キティでは、要人だけの特別な合言葉を言えば、一般人には紹介しない選り抜きの女性を紹介してくれるらしい」という話が広がり、サロン・キティは人気のある店になった。
 サロン・キティの傍受担当者は要人たちの会話数千件分の録音を行っている。顧客の中にはイタリアの外務大臣ガレアッツォ・チャーノがおり、彼はベッドで、アドルフ・ヒトラーの今後について見通しは暗いと率直なところを語っている。親衛隊大将ヨーゼフ(ゼップ)・ディートリッヒは一晩で20人全員の相手をしたいといい徹夜の乱交を繰り広げたが、何一つ秘密めいたことは口にしなかった。
 ラインハルト・ハイドリヒは何度かサロン・キティに行って「査察」を行ったが、彼は自分が女性を相手している部屋のマイクの電源は切らせていた。
 第二次世界大戦が進むにつれ、サロン・キティの顧客は減少していった。1942年7月には連合軍の空爆で、サロン・キティが入っている建物に爆弾が落ち、同じ建物の地階への移転を余儀なくされた。1942年の終わりにはSDはサロン・キティでの諜報活動を終え、もし秘密を洩らせば報復を行うと脅したうえで経営をキティ・シュミットに返還した。20人の女性もサロン・キティに残ることになった。
 サロン・キティは戦後営業を再開し、経済の復興とともにふたたび人気の娼館となった。1954年にキティが没した後はその娘が跡を継いだ。キティは結局、戦中の活動については語ることはなかった。
 SDが娼館の経営を乗っ取り要人に対する諜報に使った、というサロン・キティの話は、Peter Norden が小説にし、ティント・ブラスの監督、ヘルムート・バーガー(ヴァルター・シェレンベルクをモデルにした「ヘルムート・ヴァレンベルク」役)とイングリッド・チューリン(マダム・キティ役)の出演で、『サロン・キティ』というタイトルで1976年に映画化された。日本ではポルノ映画として、『ナチ女秘密警察 SEX親衛隊』という題名で劇場公開されている。
(以上、「Wikipedia」を参照。)

 そこで、その映画を。1976年の作。70年代にはやった、邦題からも分かるように、日本での公開当時はナチスを題材にした、エロ・グロ映画というくくり(実際、ナチス・ファシズムはまさにマゾとエロ・グロの世界だと思えます)となっていた。手に取って、借りて観るのもちょっとが臆するものだが、たしかに中身はそういう部分もあるが、全体的にはナチスと呼応したのムッソリーニ・ファシズム体制を歴史に持つ、ブラス監督の初期の意気込み(ファシズムへの批判)が感じられる作品となっていて、単なるエロ・グロ映画ではありません(と思いました)。

《あらすじ》
 1939年、ベルリン。ナチ親衛隊の将校バレンベルグ(ヘルムート・バーガー)は、上官ビオンド(ジョン・スタイナー)から、容姿に優れ、肉体的に健康で、ドイツ国民として健全な思想を持つアーリア系の白人20名を集めることを指示される。女性の中には、若い少女マルゲリータ(テレサ・アン・サヴォイ)も含まれていた。マルゲリータは裕福なブルジョワ家庭に生まれ育ったお嬢様だったが、ヒットラーの国家社会主義に心酔し、国家の理想のためなら、と自ら志願した。

 体育館に集められた女性たちは次々と服を脱がされ、若くて屈強な兵士たちとの集団セックスを命じられる。
音楽隊が軽やかな曲を奏でる中、乱交が始まる。映画カメラも回っている。

 それぞれの女性たちは個別の部屋へ移動させられ、小人、レズビアン、老人などを相手に性の奉仕を強要され、そのようすを厳しくチェック、選別する。
 さらに、バレンベルグはベルリン市内の高級娼館「サロン・キティ」のマダム(イングリッド・チューリン)を無理矢理、支配下に置き、親衛隊公認の高級娼館としてリニューアル・オープンすることとなる。


 しかし、そこには訓練した娼婦たちをスパイとして送り込み、彼女たちが見聞きした顧客たちの個人情報をデータとして集めるという目的があった。さらに娼館内部に盗聴器を仕掛け、娼婦との会話を傍受していく。サロン・キティの常連客には大物政治家や軍幹部も多い。彼らの性癖を含めた秘密情報を入手することで弱みを握り、必要に応じて政治的な交渉や脅迫の材料にしようという目的だった。
 そうした中、マルゲリータは客のハンス・レイテル(ベキム・フェミュ)という兵士と親しくなる。ハンスはナチス・ヒトラーに対する強い反感を抱いていた。


 ショックを受けるマルゲリータ。彼女はハンスの言動をウソの報告書として作成し、バレンベルグに提出する。しかし、ばれてしまい、ハンスは反逆罪で処刑されてしまう。
 一方で、しだいにナチズムのほころびは表面化し、模範的な国家社会主義者を自負していた娼婦のスーザンが狂死する。


 ある日、マルゲリータはハンスのことを口汚く罵る兵士を射殺してしまう。銃声を聞いて駆け付けたマダム・キティは、兵士の自殺として虚偽の報告をする。

 マルゲリータは実家へ戻ることとなった。しばらくして、マルゲリータの実家へマダム・キティがやって来る。そこで初めて、マダムは娼館が親衛隊のスパイ活動に利用されていることを知らされた。また、マダムがナチスのシンパでないことを知る。


 バレンベルグに憎しみをもつマルガリータは、マダム・キティと謀り、反ナチ的な言動をバレンベルグに言わせ、それをテープに録音した。それによって、バレンベルグは部下の手によってあっけなく射殺される。

ラスト。爆風で吹き飛ばされる娼館。

(あらすじは、angeleyes.dee.cc/なかざわ ひでゆきさんのHP記事を一部、参照しました。)

 随所に監督の才気を感じさせる。生きた豚を切り裂く場面。その周囲で笑い興じるナチス将校と女性達。遺体の公開。女性へのサディスティックなナチス将校。ヒトラーの映像にオーバーラップさせながらの発狂シーン。裸体のバレンベルグへの銃殺(「カリギュラ」のラストシーンとも重なる)。・・・。
オープニング。けだるいバック音楽に合わせて歌う、マダム。半身男性、半身女性の顔、コスチューム。うまく反転させながら歌うという凝った演出。展開を通じ、イングリッド・チューリンの妖艶な演技も見物。
現代的な様式美。
これ以降、多用される鏡を用いた映像効果。
 
 硬軟両様を見事に使い分ける監督。軽いのりの「ポルノ」作品ばかりではないことに気づかされる。

※「画像」は、すべて「YouTube」より。
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「動員時代―海へ」(小川国夫)岩波書店

2013-09-25 19:56:39 | 読書無限
 遺品整理中に発見された未公開・未完成だった作品。小川国夫らしい「透徹した」心、そしてそこから生じる外界の事物への、関わりのある人々への澄んだ「まなざし」をひしひしと感じさせる。
 自伝的小説。主人公(語り手)の僕=剛二。旧制志太中学(現・藤枝東高校)時代、学徒勤労動員で用宗海岸にある小柳造船所に通っていた頃の物語。
 漠然とした「死」への思いが切実なものとして感じられる日々。戦争末期(昭和19年夏から昭和20年夏)の一年間。「生と死」を日常性の中でとらえ続けようとした青年前期の心情を今また昇華した立場で見つめ直す。そういう小川の作風がよくうかがわれる作品。
 これがどうして未完のままで終わって、そしていつしか埋もれてしまったのか? 

 解説で、原稿(コピー)の発見のいきさつと背景、出版に至った経過など詳細に書かれているので、ここではあえて触れない。ただ、「無題」だった小説に「動員時代―海へ」と名付けたのはちょっと・・・。同人雑誌『青銅時代』の名に借りたにしても、「動員時代」という言葉の軽さに不満すら。もちろん、今は亡き小川国夫にはなんの責任もないが。

 「浩」ものとして少年時代の「物語」(あえてこう呼びます)にも珠玉のような作品があるが、この作品でも、感受性が人一倍豊かな青年らしい視線、初々しくもそれでいて老成された(人生を達観した)まなこを強く感じた。なかでも自殺した叔母さんの存在。剛二を「陸士」に誘おうとする、ホモセクシャルすら感じる副官の存在。そして、姉、母親。・・・。

 印象的な場面は副官と遠泳をし、おぼれそうになった場面。大きな海のうねりと死への恐怖・・・。大海原、見え隠れする大地、副官の姿。助けられたときのたゆたう水音。・・・

 副官と姉との逢瀬を垣間見る場面。

 叔母との会話。

 ――死ぬのは苦しいことじゃないわよ。
 ――苦しいことじゃない・・・、そうだろう、それでなにもかも終わるからな。死は生のない状態だ。そいうことになるじゃないか
 ――そうじゃないわよ。死のことはだれにもわからない。どうなるかわからない。
苦しいことなのか、楽しいことなのかわからないわよ。
 ――苦しいことだ。どう考えたって、苦しいことだよ。
 ――あなたには解らない、叔母は眼を大きくしていった。まん丸く瞳が見えた。あの時見えた瞳孔が、今も見える。


 そして、姉の失踪。副官も行方をくらます。突然の刑事の訪問。・・・
 ばたばたと挿話が積み重なっていくまま、未完。
 光あふれる故郷の海の、包み込む懐の大きさと、その中で地に足をつけた人々が織りなす、ささやかな、それでいて重たい、一人ひとりの、そして人々の、生の営み・深さを感じた。


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市内と市外の境。墨田区・向島編。南葛飾郡。

2013-09-24 20:34:14 | 歴史・痕跡
 台東区と荒川区は市内と北豊島郡との境界。隅田川の東は、今度は市内と南葛飾郡との境となります。向島地域で分かれていましたが、現在は同じ墨田区向島。横十間川から東がやはり南葛飾郡で、現在の江東区となります。今回は、この境界線をたどってみました。もともとは細い川(水路)の流れに沿って区分けされていましたが、現在はまったく流れの痕跡はありません。北十間川との合流地点も定かではありません「横十間川」は今も昔も変わらぬ流れです。
 よりどころは、「goo」地図の明治時代のもの。市内は詳細な地図が掲載されていますが、市外は全くの空白。その境目はいまどうなっているか? 再び路地裏の探訪ということになるのか?
江戸・安政3年(1856年)の古地図(「曳舟川」沿いの掲示による。南北を修正。)。赤い線が境界線となった流れ。赤丸に「葛飾郡請ぢ」とある。西の大きな川は隅田川。東は中川。中央南北の流れは、「曳舟川」「大横川」。南の運河は北十間川。合流点から少し東、南方に流れるのが「横十間川」。中央の鐘淵付近から南東への流れ(「古綾瀬川」)は、荒川(放水路)工事で吸収された。

首都高の向島入口。このあたりが境界線でした。墨堤通り。
「墨堤通り」から東に入ったところ。何本か道がありますが、どうもこの細い道がそうだったようです。南の広い道も隅田川から分かれて東南に流れ、曳舟川に合流した流れのようですが、これは境界線の内側(東京市内)の流れのよう。
細い路地をはさんで、東京市内と市外(南葛飾郡)とは思えないほど。現在は、墨田区向島五丁目・四丁目町内。
(「今昔マップ」より。明治末頃のようす。)このころは、はっきりと水路(境界線)が残っていました。北十間川との合流付近には大きな池(赤丸)。
南東に向かって進んでいます。
「鳩の街商店街」入り口(水戸街道側)。この通りの一本南の通りが境界線となった流れ跡。
水戸街道を渡ったところから続きます。
道路(流路の跡)に比べて両側の土台が少し高くなっています。
このあたりは、頑丈な土台になっています。
曳舟川通りから来た道を振り返る。微妙なカーブを描いています。
曳舟川通りをはさんで水路跡の道。
土盛りされた道沿いの土地。
東武線の線路にぶつかりました。振り返ったところ。両側を細い道で囲まれた細長い住宅が続いていました。水路跡?
たどってきた路地。
スカイツリーも間近。
線路を越えた付近。ここまでは何とかたどれました。
(「同」。)京成電車が押上まで開通したころのようす。黄色い○あたりに東武線との乗換駅として「請地」駅がありました。
(京成線高架線工事沿いにあった掲示写真より。)左が京成押上駅(地上駅)。右が東武線。
地図では境界線はこの通路なのですが・・・。
 この先は、戦後の区画整理で道も縦横に直線で広く流路跡はまったくさだかでなくなりました。
(「同」)。押上駅の東側一帯。区画整理されてかつての水路は?

「わんぱく天国」脇。この辺りが少し広くなったところだったと思いますが。
「わんぱく天国」。
そこからのスカイツリー。
北十間川との出会い付近。他よりも少し広くなっているのが気になりました。
来た道を振り返る。
十間橋からのスカイツリー。首都高向島入口付近からここまで(ほんの一部、不明なところもありましたが)、細い道ながらもほぼここまでたどれることに驚きました。


(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)北十間川との合流地点。(赤丸の部分)。南に流れる運河が「横十間川」。
北十間川と横十間川との分岐点。横十間川の東側が「南葛飾郡」。現在は、江東区亀戸地域になる。(江東区でも、「竪川」以南はもともと東京市内に属し、現在は深川地域。)
北十間川。かつては「南葛飾郡」だったが、現在は、川をはさんで右奥が江東区、左・右手前が墨田区。北十間川は東に流れ、旧中川に合流する。
横十間川の流れ。右が墨田区、左が江東区。横十間川は南に流れ、小名木川へ。そして、さらに南へ流れていく。

 現在の墨田区の区域にはいる江戸時代の町村は、慶応四年(1868)7月10日区北半の向島地区18ヶ村は武蔵知県事に所属したのち(同年9月8日明治改元)、同11月東京府南葛飾郡に編入されたが、区南半の本所地区は最初(慶応四年5月12日江戸府設置)から江戸府(7月17日→東京府改称)に編入された。同7年3月8日大区小区制により第六大区・第十一大区に編入され自治権被奪の憂き目に遭う。2ヶ月後の7月22日「大区小区制」を撤回すると「郡区町村編制法」ほか2法を制定し地方自治の方向を示した。11月2日郡制を復し当区では南葛飾郡16ヶ村・本所区77町が成立した。
 同22年5月1日明治政府が初めて地方自治を認めた「市制町村制」により、南葛飾郡下の須崎・押上・小梅・請地・中ノ郷・柳島の6ヶ村を本所区に編入し本所区亀戸町を郡下に移した。残りの10ヶ村は統合して隅田・寺島・吾嬬・大木の4村に改編、同24年3月18日本所区編入の6ヶ村を9町に編成し本所区は82町となった。同44年5月1日市制町村制の改正により本所地区では町名改称し南本所・本所の冠称を削除した。
 大正元年日9月5日吾嬬村が町制移行。同3年3月31日荒川放水路開鑿のため大木村は廃村となり、残った村域を本田村と吾嬬町に編入。同12年3月24日寺島村が、同8月16日隅田村が町制に移行。昭和4年11月1日町名改正により本所区は68町となった。同7年10月1日東京市周辺郡部を市に組み込んで20区を新設することになり、南葛飾郡下の3町が合併して向島区29町が成立した。同18年7月1日、府県制を改正し新たに「都制」を敷き東京府と東京市を廃して東京都を発足させた。
 敗戦後の同22年3月15日都は、戦禍による疲弊と人口減少のため都心区の統合を図ることになり、向島区と本所区が合併させ墨田区97町を成立させた。(「東京の地名の由来 東京23区辞典」さんより引用。途中、一部省略あり。)

 なお、「南葛飾」は、葛飾区立石にある「都立南葛飾高校」にその名を残しています。
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もう一つの藍染川。日暮里~町屋。その2。

2013-09-23 21:14:56 | 河川痕跡
歩道には花壇が並び、地元の方々の整備が行き届いています。
それほど交通量も多くなく、歩道も広い。でもなんだか歩きにくい。どうも歩道が傾いています。
けっこうな角度。開渠だったころの川との仕切り壁をそのままにして歩道をつくった? 車道部分(藍染川跡?)が盛り上がっています。
この段差はどうしてできたのでしょうか?
車道と歩道と微妙な舗装の違いが。

 町屋駅にかけて、京成線の高架下には小さな工場や商店がありました。それらもすべて撤去されています。
かなりの幅で続いていた工場。
どういう工場だったのでしょうか。「禁煙」の表示や人名が残されています。
工場の名が。
フックのようなものが高架の壁にそのまま残っていました。
このお店はどういう商品を扱っていたのでしょうか?
入口のタイルの部分が残っていました。
明治通りにぶつかります。左が「新三河島駅」。
日暮里方向を望む。
ここからは「藍染川通り」となります。
取り壊した隣の家の姿。
「花の木橋」交差点。スカイライナーが通過中。暗渠になる前は、大きな橋が架かっていたようです。
新三河島駅方向を望む。
都電荒川線を越える。町屋駅方向を望む。
隅田川方向を望む。幾分カーブしているところが河川跡らしく感じます。右手が「荒川自然公園」。この公園は、「三河島水再生センター」の水処理施設の上部空間にあたります。
 「三河島水再生センター」は、1922年(大正11年)に稼動を開始した日本で最初の近代的な下水処理場。

 (以下、東京都下水道局HPより)

 旧三河島汚水処分場喞筒場(ポンプじょう)施設
 大正11年3月の設立当初から稼働した赤いレンガ造りの喞筒(ポンプ)室は、水再生センターのシンボル的な施設でしたが、平成11年3月に別系統のポンプ施設に切り替え、引退しました。
 旧三河島汚水処分場喞筒場(ポンプじょう)施設は、「わが国最初の近代下水処理場である旧三河島汚水処分場の代表的遺構として、高い歴史的価値が認められ、また、阻水扉室、沈砂池などの一連の構造物が、旧態を保持しつつまとめて残る点も、近代下水処理場喞筒場施設の構造を知る上で貴重である」と評価され、平成19年12月に国の重要文化財(構造物)に指定されました。・・・
 三河島水再生センターの歴史
 三河島水再生センターは、大正3年に建設工事を開始し、大正11年3月に日本で最初の下水処理施設「三河島汚水処分場」として、運転を開始しました。三河島水再生センターの下水処理方法は、散水ろ床法をかわきりに、昭和9年には、パドル式活性汚泥法(鋼製の水車を回転させ空気を取り入れる方法)、昭和34年に散気式標準活性汚泥法を採用し今日に至っています。


来た道を振り返る。
京成町屋駅のホームから隅田川方向を望む。
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もう一つの藍染川。日暮里~町屋。その1。

2013-09-22 20:54:35 | 河川痕跡
 「水再生センター」HPに、「流入水」として、「尾久幹線」「浅草幹線」と並んで、「藍染川幹線」というのがあります。現在の「藍染川」通り下の下水道施設。
 「水再生センター」。ここで下水処理されたものは、隅田川に放流されていきます。
※ 放流水は、「都民の健康と安全を確保する環境に関する条例」の水質基準を十分に満たし、魚がすめる水質。


のHPより。)
施設の北側に沿って流れていたのが「藍染川」。(写真では最上部のところ。)

京成線・隅田川橋梁脇。
●藍染川の終着点
 藍染川は日暮里の高台、文京区側を流れていた谷田川(藍染本流)の氾濫防止として、西日暮里の京成高架線付近までトンネルで分水、排水路として大正7(1918)年に造られました。昭和35(1960)年に保健衛生上の問題などにより全面トンネル化され、現在は道路になっていますが、トンネルを流れる藍染川幹線は三河島水再生センターで下水処理をされ隅田川へ放流されています。
さんより。
 
 「西日暮里の京成高架線付近までトンネルで分水、排水路として大正7(1918)年に造られました」とありますが、このトンネル部分はレンガ積みで、その内部の写真が「2013年下水道カレンダー」に載っているそうです。
 「大正2年、東京市下水道設計による最初の工事に着工(台東区龍泉二丁目付近)」と東京都下水道局HPにありましたから、かなり初期の頃に造られたことが分かります。

 今回は、その藍染川通りを日暮里から町屋までたどってみました。すべて暗渠、京成線高架沿いの、ほぼ直線で広い舗装道路となっていて、痕跡はほとんどありません。 

日暮里駅前ロータリーの「太田道灌」像。
「舎人ライナー」。様変わりの日暮里駅前。
「立ち呑み酒屋」。以前は、ごみごみした街中にこうした飲み屋さんがありました。立派なビルに入っていても、コンセプトは変わらないことに敬服。
ここからスタート。「さくら水産西日暮里店」の店の横。「さくら水産」はここ以外で飲んだり食べたりするお店の一つ。「藍染川幹線」の上にお店があるような印象。このごついコンクリート製のものはかつての橋の一部? 
横から見たところ。
その幅に沿って道路のようすが異なる。いかにも開渠だったころの名残り。
 店の裏手、ガード際にも何か痕跡がありそうだが・・・。そこでJR線の方へ。
廃線を見つけた。線路の途切れた辺りが元の水路?
この辺りだけが雑草に覆われている。
「さくら水産」から尾久橋通りを望む。
「藍染川西通り」。西日暮里駅近く。尾久橋通り際。
振り返って尾久橋通り方向を望む。
JR貨物線の踏切を越えると、京成線高架沿いに直線で進みます。

京成電車がまだなかったころのようす。赤い線が「藍染川」。(「今昔マップ」より)
まだ暗渠にならない前のようす。(「同」)京成電車は藍染川に沿うように建設されたことが分かります。○は、「花の木橋」。大きな○は汚染水処理場。
現在のようす。(「同」)
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「COSI FAN TUTTE」(Tinto Brass)(古きよき映画シリーズ。その39。)

2013-09-21 21:16:01 | Tinto Brass


 冒頭、モーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』(伊:Così fan tutte)K.588(モーツァルトが1790年に作曲したオペラ)序曲から始まり、現代風にアレンジした曲に変わり、再びモーツアルトに。随所に『コジ・ファン・トゥッテ』の曲が流れる、という趣向。
 オペラの正式なタイトルは「Così fan tutte, ossia La scuola degli amanti(女はみなこうしたもの、または恋人たちの学校)」。
 姉妹の恋人である二人の男が、それぞれの相手の貞節を試すために仕組んで互いの相手を口説いたら、二人とも心変わりしてしまった! はたしてことの成り行きは? てなことらしいが。
 タイトルの原語(イタリア語)の意味は「Così このように fan する tutte すべての女性は」。
 今や、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』『魔笛』の3大オペラにこれを加えて4大オペラと呼ばれるほど。日本でもけっこう上演されているようです。
 もちろん、わがイタリアの巨匠・TintoBrass監督。先刻ご承知の上でのエロチックコメディーの仕立てに。

邦題「背徳小説 第二章 ALL LADIES DO IT」(1992年)。「Così fan tutte」は、 英訳にするとこうなるわけです。
監督: ティント・ブラス
製作: ジョヴァンニ・ベルトルッチ
脚本: ティント・ブラス
撮影: シルヴァーノ・イッポリティ
音楽: ピノ・ドナッジオ

出演: クラウディア・コール
    フランコ・ブランチャローリ

 みだらな性の快楽に溺れてゆく人妻の日常を描くエロティック・ロマンス。ダイアナは、気品のある外見とは裏腹に、飽くなきセックスの快楽を求める淫乱な人妻。彼女にとっては、夫の嫉妬すら性的な刺激に結びついてしまうほど。ダイアナは、男たちを集めて自分の尻をさわってくれるように頼むなど奔放な生活を楽しむが、結局、元の鞘(まさに字義の通り)に収まる。
 (以上、「映画 MOVIE-FAN」movie-fan.jp/1992/00036165.html参照)


 妻の自在闊達に比べて、夫はいかにも優男という設定が目立つ。言い寄ってくる男性も軽くあしらわれる。それでいて、戻るところはその「優しい」夫の元。そこで、夫も一安心。しかし、その後はまた相変わらず、・・・。

 
 あいにく日本語版は、手に入りにくい。TSUTAYAにあるはずもない(はず)。英語なら何とか分かるがイタリア語となると何とも・・・。しかし、内容が内容(ないよう)で、これで「カリギュラ」「鍵」など4作目となると何とか分かってしまうのが、我ながらおそろしい。
 部屋の装飾から窓外の風景、白黒トーンの配色、例によって大小の鏡、・・・洒脱な演出を楽しめます。寝室などのセットはいつも同じようですが。バックに流れる音楽は凝っています。

 お決まりは、トイレとお風呂とベッドシーン。社交場でのダンスシーン。・・・。窓外に見える厳かな教会の建物。美しく開放的な地中海の海べ。太陽。心地よい風。・・・。

 ちょっとエッチな牧師さんとカメラや双眼鏡を持つおじさん。そして、あきれた顔をするおばさん、おじさん。そして、上半身も下半身も透け透けのお嬢さん。・・・。

例によって、監督も登場。

 ※画像は、すべて「YouTube」より。

 今度は、本家本元のオペラを視聴することにしないと、・・・。あっ、今までこの年まで、モーツァルトさんのオペラにはまったく無縁であったことに気づいた。
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羽二重団子。芋坂。音無川出張所。音無川跡をたどる。(台東区と荒川区の区界。その4。)

2013-09-17 21:05:00 | 河川痕跡
 「尾久橋通り」・「竹台高校前」の信号を渡ってしばらく通り沿いに進むと、いよいよ日暮里駅への道に出ます。
斜めに入る道が音無川跡の道。左が台東区、右が荒川区。
「尾久橋通り」の向かいの高層マンションの先が来た道(音無川跡)。
右が荒川区、左が台東区。道は微妙にカーブしている。
奥に見える路地? が台東区と荒川区の区界となっている。右の建物が荒川区、左の建物が台東区。
ずうっと奥まで細く続く。区界は西側のJR線を越えていく。この先「音無川」跡は荒川区内に。ということは、ここで「goo」の明治期の地図も掲載されなくなるというわけ。

 その先で、「羽二重団子」の店先に。
「羽二重団子」。角に「王子街道」という道標。「音無川」が王子から流れてきているという証。正面の道が「芋坂」。
「芋坂」から通りを望む。

羽二重団子(はぶたえだんご)は東京都荒川区にある株式会社羽二重団子が製造販売している団子。
 きめがこまかく羽二重のようだと絶賛されたのが由来で、そのまま名前となった。生醤油を塗った焼き団子と、さらし餡を巻きつけた餡団子の二種類が売られている。串団子であるが、粒の形が一般的な球形ではなく厚みのある円盤状なのが特徴的。
 文政2年(1819年)、初代 庄五郎が「藤の木茶屋」を武蔵野国谷中本村字居村(現在地 東京都荒川区西日暮里 付近) に開く。当初の品名は「大だんご」であった。 のちに団子が、きめ細かく羽二重のようだと賞され、慶応4年の二代目庄五郎の頃には菓子名「羽二重だんご」、屋号も「羽二重団子」となっている。(以上、「Wikipedia」より。)

 以下、「羽二重団子」HPより。

●江戸の昔より、日暮しの里・呉竹の根岸の里といえば、音無川の清流にそうた塵外の小天地として知られました。花に鶯、流れに河鹿、眼には遥かな荒川の風光にも恵まれて、人々は競ってこの智に別荘を設けました。くだって明治大正の頃まで、粋で風雅な住宅地として憧れの土地柄でありました。
●文政二年、小店の初代庄五郎が、ここ音無川のほとり芋坂の現在地に「藤の木茶屋」を開業し、街道往来の人々に団子を供しました。この団子が、きめ細かく羽二重のようだと賞され、それがそのまま菓名となって、いつしか商号も「羽二重団子」となりました。こうして創業以来六代百八十年、今も江戸の風味と面影をうけ継いでいるのでございます。
●団子というものは、そもそもは中国渡来の野趣ある菓子でありましたが、江戸時代に入って普及したものです。ことに元禄年間には名物団子が随所に現れ、流行になりました。けれども今日では、昔からの名ある団子が都内ではほとんど見られなくなりましたことは、いささか心さびしいことです。
●羽二重団子は、その光沢と粘りとシコシコした歯ざわりが身上です。よく吟味した米の粉を搗抜いて、丸めて扁たく串にさします。昔ながらの生醤油の焼き団子と、渋抜き漉し餡団子の二種類を商っております。材料の吟味に製法に、家伝に即した苦心を怠らず、いまの東京に類をみない古風な団子をご賞味いただけるのも、代々のご愛顧のたまもの、商売冥利と存じております。

「子規の句碑」。
芋坂も団子も月のゆかりかな

「芋坂」の説明板。

 芋坂
 善性寺の門前から谷中墓地へのぼる坂。坂名の由来は未詳。明治15年ころ、日本鉄道会社の東北線(現JR)が通じて分断され、その形状が、失われてしまった。伊藤晴雨が描いた「根岸八景」の「芋坂の晩鐘」は天王寺の五重塔を望む芋坂の、のどかなたたずまいをよくあらわしている。荒川区教育委員会

上の赤丸が善性寺、下の大きな赤丸が芋坂と思われる。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 谷中の天王寺・五重塔
 1644(正保元)年に最初の五重塔は完成したが、1771(明和9)年目黒行人坂の火事で焼失し、19年後の、1791(寛政3)年に近江国高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された。このときのことは、幸田露伴の「五重塔」として知られている。
 総ケヤキ造りで高さ11丈2尺8寸(34.18メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治41年(1908)6月東京市に寄贈され、震災、戦災にも遭遇せず、谷中のシンボルになっていたが、1957(昭和32)年7月6日、放火により焼失した。焼け跡から男女の遺体が発見された。不倫の精算のためだったという。現在は、礎石が残っているだけである。現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石などすべて花崗岩。
 もとは、日蓮宗感応寺と称した。奈良時代からの古寺・浅草寺と幕府の寺・寛永寺の五重塔に負けじと五重塔を建てた。出来た頃は、将軍家光に大いに保護されていたが、1699(元禄12)年、この寺が日蓮宗の中でも過激な、不受不施派(他の宗派からは施しを受けない、施しをしない)の根城だったことから、幕府から邪宗だとして弾圧され、僧侶は流刑に処され、寺は寛永寺の管轄に置かれ、天台宗に改宗させられた。寺名が天王寺に改名されるのは、1833(天保4)年。
意外に狭い敷地。掲示されていた写真。

慶応4年(1868年)、上野の山での官軍との戦いに敗れた「彰義隊」が「芋坂」を逃げ落ちて行った、と。
「芋坂跨線橋」。JR線に架かる歩道橋。
芋坂跨線橋からスカイツリーを望む。
渡りきった谷中側にある説明碑。「芋坂」。
坂の由来。

 坂を登れば谷中墓地、下ると羽二重団子の店の横から善性寺前に通じていた。鉄道線路でカットされ、これに架かる橋が、「芋坂跨線橋」と名付けられて、わずかにその名を残している。
 坂名は伝承によると、この付近で自然薯(山芋)が取れたのに因んだという。正岡子規や夏目漱石、田山花袋の作品にもこの芋坂の名が書かれている。
   芋坂も團子も月のゆかりかな 子規

「正岡子規と当店」。

 子規居士が上根岸町82番地に居を構えたのが明治25年である。爾来、亡くなる明治25年までの十年間随分とご愛顧を頂いたと当店四代目は伝える。
 『仰臥漫録』から明治34年9月4日の日記を抜粋すると「芋坂団子を買い来たらしむ(これに付き悶着あり)あん付き二本焼き一本を食う」とある。多分悶着とは妹の律さんと当店の団子のことで言い争いがあったのであろう。旺盛な食欲が日記から推察でき、死を目前にした子規居士の人間味を彷彿とさせる。
観月会
芋坂の団子の起こり尋ねけり
根岸名所の内
芋坂の団子屋寝たりけふの月
短歌会第四会
芋坂の団子売る店にぎはひて
 団子くふ人団子もむ人
俳諧稿巻一より
子規歌集より

 他にHPでは次の俳句も紹介されている。
芋阪に名物の團子あり
名物や月の根岸の串團子
秋昔三十年の團子店

明治10年代のようす。(「同」より)

「将軍橋と芋坂(善性寺)」の説明板。

 善性寺は日蓮宗の寺院で長享4年(1487)の開創と伝える。・・・宝永年間(1704~1711)、(六代将軍徳川)家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。
 善性寺の向い、芋坂下には文政2年(1819)に開かれたという藤の木茶屋(今の羽二重団子)がある。芋坂も団子も月のゆかりかな 子規  荒川区教育委員会
門前の通り。音無川跡の道。

「東京消防庁荒川消防署音無川出張所」。
消防車。表示が「音無川」となっている(○のところ)。

「日暮里駅」前より音無川跡(来た道)を振り返る。久々にやってきて、大きく変貌した駅前のようすにびっくり! かつては安い大衆酒場があったり、ラーメン屋があったり、と雑然とした町並みだった。

 日暮里から王子までは音無川跡もJR敷地内だったり不明だったりで、跡をたどるのはここまで。ただし、駅前から西日暮里駅に向かう蛇行した道が「音無川」跡のようです。
 「歴史的農業環境閲覧システム」さんより明治10年代のころのようすを。
中里付近の音無川。
石神井川との分岐点付近。蛇行している川は石神井川。飛鳥山の東側に流れていくのが音無川。
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笹の雪。子規庵。「獺祭」。ねぎし三平堂。音無川跡をたどる。番外編。

2013-09-16 23:46:26 | 河川痕跡
 ここでちょっと寄り道。根岸界隈は見所満載でもある。上の図で赤い線が「音無川(「跡)」。

「笹の雪」。
《句碑》
・水無月や根岸涼しき笹の雪
(みなづきや ねぎしすずしき ささのゆき)
・蕣に朝商ひす笹の雪 子規
(あさがおに あさあきなひす ささのゆき)

 ※上の句は、明治26年、下の句は、明治30年の作。

「笹乃雪」の名の起り
 笹の雪の祖先玉屋忠兵衛なる者 其の頃未だ江戸市中にきぬごし豆富など無かりしに 此のきぬごしを発明しを以て初めとし 上野東叡山の○(一字不明)用を承り候 輪王寺様の御称讃に預り、此は・・・

 以下はHPより。 

笹乃雪初代玉屋忠兵衛が絹ごし豆富を発明。
 元禄四年(約三百二十年前)上野の宮様(百十一代後西天皇の親王)のお供をして京より江戸に移り、江戸で初めて絹ごし豆富を作り根岸に豆富茶屋を開いたのが当店の始まりです。
 宮様は当店の豆富をことのほか好まれ「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ」と賞賛され、「笹乃雪」と名づけ、それを屋号といたしました。その時賜りました看板は今も店内に掲げてございます。
 当時の製法そのままに、井戸水とにがりを使用した昔ながらの豆富の味をご賞味くださいませ。

恋人は赤穂浪士
 本日は、当店の伝説ともなっている切ない恋のお話をいたしましょう。
時は元禄15年12月14日。ご存知、赤穂浪士の討ち入りがございました。主君の仇討ちを果たした浪士たちは4カ所の大名屋敷にお預けとなったのですが、そのうち大石内蔵助以下17人が預けられた細川様のお屋敷に、当店の豆富が届けられました。上野輪王寺の宮、公弁法親王様のお心遣いです。
 当店は、初代玉屋忠兵衛が親王様について京都から江戸へ移ってきたという縁があり、こうしたお使いも珍しいことではなかったのですが、この時届けられた豆富には、別の思いも込められていました。実は、娘のお静が細川家お預けの赤穂浪士の一人、磯貝十郎左衛門に心を寄せていたのです。
 最初の出会いは、お静が雪道で足をとられ滑りそうになったのを十郎左衛門が助けた時。そして、十郎左衛門が俳人の宝井其角に連れられて来店したことで2人は再会します。その後も十郎左衛門はたびたび来店したようですが、もちろん本当の名前も身分も明かすことはありませんでした。
 赤穂浪士たちのその後は、ご承知のとおりですから、この話に楽しい続きはありません。第一、この恋が片思いだったのか、両思いだったのかも不明。いずれにしても、凛として白いお豆富のように、おぼろで淡いお話です。
HPより。




「東京都指定史跡 子規庵 台東区根岸二丁目五番一一号 指定 昭和三五年九月
 正岡子規(1867―1902)は俳人・歌人・随筆家。幼名は升(のぼる)、本名は常規(つねのり)、別号は獺祭書屋主人、竹の里人などといった。伊予国藤原新町(現・愛媛県松山市)に生まれ、俳句短歌の革新を唱え、また写生文を提唱した。
 新聞「日本」及び「ホトトギス」により活動、子規庵での句会には森鴎外、夏目漱石も訪れ、歌会には伊藤左千夫、長塚節等が参加、歌誌「アララギ」の源流となる。
 著書には俳論『俳諧大要』『俳人蕪村』歌論『歌よみに与ふる書』歌集『竹の里歌』随筆『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』など多い。
 子規はこの場所に明治27年(1894)2月から住み、同35年(1902)9月19日病のため没す。母八重妹律は子規没後もここに居住し、その後は子規の門弟寒川鼠骨が庵を守りつづけた。
 昭和20年(1945)戦災によって平屋造り家屋は焼失したが、昭和25年鼠骨らにより旧規の通り再建され現在に至っている。平成12年3月 東京都教育委員会」

 脱線。獺祭書屋主人「だっさいしょおくしゅじん」と読む。

獺=かわうそ。ニホンカワウソ(日本川獺)は、全国に広く生息し、愛媛県の県獣でもあった。しかし、乱獲や開発による生息環境の変化で激減。1979年夏の目撃例が人間に目撃された最後の例となり、2012年8月、環境省のレッドリスト改訂で正式に絶滅が宣言された。
(以上、「Wikipedia」より。写真も。)

 「獺祭」は、山口県岩国市周東町獺越にある「旭酒造」のお酒の銘柄でもある。

 弊社の所在地である獺越の地名の由来は「川上村に古い獺がいて、子供を化かして当村まで追越してきた」ので獺越と称するようになったといわれておりますが(出典;地下上申)、この地名から一字をとって銘柄を「獺祭」と命名しております。獺祭の言葉の意味は、獺が捕らえた魚を岸に並べてまるで祭りをするようにみえるところから、詩や文をつくる時多くの参考資料等を広げちらす事をさします。

酒造りは夢創り、拓こう日本酒新時代
 獺祭から思い起こされるのは、明治の日本文学に革命を起こしたといわれる正岡子規が自らを獺祭書屋主人と号した事です。「酒造りは夢創り、拓こう日本酒新時代」をキャッチフレーズに伝統とか手造りという言葉に安住することなく、変革と革新の中からより優れた酒を創り出そうとする弊社の酒名に「獺祭」と命名した由来はこんな思いからです。
(以上、「旭酒造」のHPより)
「音無川」跡の道と明治通りとの交叉するところにあった酒屋さんの店先に大きな宣伝が。そこには「山口の山奥の小さな酒蔵」とありました。

「子規庵」正面。
鶯谷の方から来ると、ラブホテルが建ち並ぶ脇を通ってくることに。ここから日暮里にかけては住宅街。
「子規庵」裏手。言ってみれば長屋。ここに日本文芸史的にはそうそうたるメンバーが集っていたことが特筆すべき事柄。


 子規庵の建物は、旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれています。
明治27年子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。 
 子規没後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけましたが老朽化と大正12年の関東大震災の影響により 昭和元年に解体、旧材による重修工事を行いました。
 昭和2年、母八重(83歳)没。同年7月子規の遺品や遺墨等を保管するため土蔵(子規文庫)建設に着工。 昭和3年、子規門弟を中心とする子規庵維持保存会が財団法人子規庵保存会として認可され、初代理事長には正岡律が就任いたしました。  
 昭和16年妹律(71歳)没後、同20年4月14日の空襲により子規庵は焼失。幸い土蔵は残り貴重な遺品が後世に残されました。現在の子規庵は昭和25年高弟、寒川鼠骨等の努力で再建され、同27年東京都文化史蹟に指定されて現在に至っております
(「財団法人 子規庵保存会」HPより)


 出身地の愛媛県松山。道後温泉に「子規記念博物館」があります。道後温泉駅から歩いて数分のところ。
掲示板。建物正面の門扉・飾り格子(細工物)が、俳諧雑誌「ホトトギス」の表紙を飾ったデザインを模したものとの解説がありました。
正面入り口。2階窓と扉に注目。「蔵」をイメージしたそうで、立派な建物です。
正面に大きな垂れ幕。「遠足の十人ばかり花の雨 子規」。
入ってすぐのところにある子規の「ブロンズ像」。
 館内は、写真撮影禁止。
 けれども、じっくり見ていると、時間の経つのを忘れてしまいそうなほど。子規(さらに漱石などゆかりの文人、高浜虚子などの多くの門人達の)句や絵画、生涯が展示され、活字と写真でしか見ていなかった多くの資料の現物(複製もあるようですが)を目にすることができ、改めて子規とその世界を心底、味わうことができました。
 道後・松山の歴史展示や「日露戦争と秋山兄弟」などの映像作品も、豊か。
 特に、「子規とベースボール」コーナーは興味深い。「野球」のぼーるを最初に用いた人物であるとか、ベースボールに熱中して結核を発病したとか・・・。話では知っていたことでもバットやユニホーム姿など展示で再確認。

 うちはつす球キヤツチヤーの手にありてベースを人のゆきかてにする (明治31年作)

 子規が亡くなる数時間前に書いた「絶句三句(複製)」なども展示されていました。

①糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
②痰一斗糸瓜の水も間にあはず
③をととひのへちまの水も取らざりき 

 これらの句にあやかって、子規の命日は、「へちま忌」といいます。・・・
建物脇の子規の短歌。
「足なへの 病いゆとふ伊豫の湯に 飛びても行かな 鷺にあらませば 子規」
「道後公園」入り口の子規と漱石の句碑。
「冬枯や鏡にうつる雲の影 子規」「半鐘と並んで高き冬木哉 漱石」。どうも漱石の句の方が分が悪い、と思うのは私だけか。
「子規堂」。伊予鉄「松山市」駅近く。子規が17歳で上京する迄住んでいた居宅の復元。帰りの飛行機までの時間がなくて、残念ながら、見学は省略。
JR松山駅前にある子規の大きな句碑。
「春や昔 十五万石の 城下哉」

(以上、以前、松山を訪問したときのブログより)

《付1》上野公園内には、「正岡子規記念野球場」がある。
正岡子規記念野球場。公園の真ん中にある草野球場。公園内のベストポジションにあることには、深い因縁があります。
 歌人、俳人で名高い正岡子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、1889(明治22)年に喀血してやめるまでやっていました。ポジションは捕手。幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたことも。
 「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬庚という人物ですが、読み方(のぼーる)は異なりますが「野球」という表記をすでにその4年前に行い、さらに「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」と日本語に訳したのは子規だそうです。
 また、「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 」などと野球に関係のある句や歌を詠むなどしています。ちなみに、子規は2002(平成14)年に野球殿堂入りをしています。そういう因縁があるのでは、簡単に草野球場をつぶすわけにはいきませんね。
記念碑。「春風や まりを投げたき 草の原」(子規)。

《付2》上京当時の仮寓の地。長命寺の桜もち「山本や」。さすが健啖家であった子規らしい住まいです。
隅田公園内。
大学予備門在学中の頃。
・向じま 花さくころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉
・花の香を 若葉にこめて かぐはしき 桜の餅 家つとにせよ
・から山の 風すさふなり 古さとの 隅田の櫻 今か散るらん

 日暮里駅方向にしばらく進むと、「ねぎし三平堂」。昭和の爆笑王、初代林家三平師匠の資料館。かつての彼の住居を利用した館内に、ネタ帳やテレビ番組の台本など思い出の品々が展示されていて、来館者が楽しめる工夫を凝らしてある、らしい。
正面。
 落語会も開催している、らしい。次回の三平堂落語会は 9 月21日(土)。5時30分開演、木戸銭1,000円。
出演:「権助魚」林家 たこ平 。「品川心中」林家 鉄平。「鉄の男」柳家 小ゑん。


www.sanpeido.com/popup2_map/map.htmより。
 今回紹介した「笹の雪」、「子規庵」(「三平堂」の斜め右上辺り)、「三平堂」の位置関係。
おまけ。
「三平堂」前の路地。下町的な雰囲気。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)
明治10年代のようす。ほぼ中央付近が「笹の雪」、「子規庵(となる前)」などがあるところ。寛永寺、天王寺、徳川墓地などが記されている。「音無川」はもう少し上の方を流れている。
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隕石直売所。御行の松。音無川跡をたどる。(台東区と荒川区の区界。その3。)

2013-09-15 22:54:00 | 河川痕跡
 明治通りを越えて南に。常識的には東京下町の地形から考えると、南に向かうのは少し違和感があります。王子から南に下ってきた流れが今度は北東の方向に流れ、さらに東に向かうのですから。
 そこで、「今昔マップ」さんの標高を追っていくと、西側(JR線側)は上野台地(忍ヶ丘)からの低丘陵地帯があり、高低差から北に向かう(もちろん、「石神井用水」として田畑を潤すという灌漑用水の役目をしているので、低湿地にある田んぼ・農業地帯へ水を流すことは当然でもありますが)ようになります。

《標高のデータ》「今昔マップ」さんより。
・台東区根岸二丁目付近(上野の山からの続き)4~6㍍。
・東日暮里四丁目付近(東北側)2~3㍍。
・根岸五丁目付近2~3㍍。
・東日暮里一丁目付近1㍍。
・浄閑寺付近1㍍。
・明治通り0㍍。

 という具合でした。なお、「日本堤」は2㍍で盛り土をしたことが分かります。いずれも、現在は、道路整備・舗装工事あるいは大きなビル建設、整地などの関係で、上記のような標高差はまったく実感できません。
 しかし、たしかに水は、当然、高きから低きに流れていくわけです。

「明治通り」を越えたところにあった家屋。昔ながらの切妻造りでした。川沿い(暗渠沿い)に古くから商店街をなしていたことが分かります。周囲が近代的な建築になっている中で、さりげない存在感がありました。

「切妻造り」

街道沿いの商家等の町屋建築によく見られます。出入口によって、「平入り」(平入、ひらいり)や「妻入り」(妻入、つまいり)とは、建物のいずれの面に正面出入口があるかによって分類した様式。(以上、「Wikipedia」参照。)

広い道ですが、少し左右にカーブしていて、かつての河川跡らしい道のようす。右が荒川区、左が台東区。
通りに面したところにあった冠木門。古い感じだが、特に説明などはなかった。「ラホール根岸」というマンション。
その先を少し行くと、区界は左に折れて狭く曲がりくねった道へ。ここからしばらく細く曲がる道が続く。右が荒川区、左が台東区。
「粋な」黒塀。かつての水路跡沿い。
事務所、民家などの建ち並ぶ広い路地を右に左に進みます。
振り返って下流跡を望む。
けっこう曲がっていますが、かつての流れの曲がり具合よりも整然としている感じ。
角にあったお店。このお店は、台東区根岸。右が荒川区。

隕石☆隕石ジュエリーショップ Big'Bang' Meteorshower
HPより。
 
隕石☆隕石ジュエリー☆願いが叶う不思議なパワーを込めてオーダーメイドのジュエリーを企画、製作、販売
 ☆大宇宙の流れ星パワー☆http://meteorshower-shop.com/

「kakaku.com › テレビ紹介情報」によると、「テレビ朝日」の「若大将のゆうゆう散歩」でも紹介された、とか。‎

 2012/05/11放送。
- 台東区鶯谷を散歩する東幹久は「隕石直売所」と書かれた看板が気になり、隕石を使用したジュエリー「鉄質隕石ギベオン ペンダントトップ」などを販売する「Big Bang」に立ち寄る。東幹久は店内に置いてある数千年前の隕石を見せてもらい、...

 こちらは立ち寄らずに、先に進みました。興味のある方はHPにアクセスして下さい。

下町らしい路地裏。
お寺の脇から振り返ったところ。道(水路跡)は左に曲がっていきます。
左奥から来て少し広い道路を横切って進みます。正面が「御行の松」で有名な西蔵院。右が台東区、左が荒川区。

「御行(おぎょう)の松」(「www.taito-culture.jp/city/landscape/si_216/085/s1.html」より)

 台東区根岸四丁目九番五号 西蔵院境外仏堂不動堂内。
 江戸期から、根岸の大松と人々に親しまれ、『江戸名所図会』や広重の錦絵にも描かれた名松。現在の松はその三代目である。初代の松は、大正十五年に天然記念物の指定を受けた当時高さ十三・六三メートル、幹の周囲四・〇九メートル、樹齢三五〇年と推定された。枝は大きな傘を広げたようで、遠くからもその姿が確認できたという。しかし、天災や環境悪化のため昭和三年に枯死。同五年に伐採した。
 二代目の松は、昭和三十一年に上野中学校敷地内から移植したが、これも枯死してしまい、昭和五十一年八月、三代目の松を植えた。戦後、初代の松の根を土中より堀り出して保存し、不動堂の中にこの根の一部で彫った不動明王像をまつり、西蔵院と地元の不動講の人々によって護持されている。
 御行の松の名の由来に定説はないが、一説には松の下で寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したからともいわれる。また、この地を時雨が岡()といったところから、別名時雨の松とも呼ばれた。

「御行の松」。
(「TAITOおでかけナビ | 上野・浅草・谷中・浅草橋・徒蔵など台東区の公式観光情報サイト」より。)

:「今昔マップ」によると、この辺りは標高3~4㍍。川の流域一帯は2㍍ほどなので、上野、谷中台地から派生した、川沿いの微高地だったという風に読み取れる。

直角に曲がる。奥が台東区、手前が荒川区。
少し広く車も行き来する通りに出てきました。通り沿いの古い建物。切り妻造りの家の格好がそのまま。裏の方にも古いお家が残されています。
振り返ったところ。ゆるく曲がった道がかつての「音無川」の流路を想像させます。奥が下流。左が荒川区、右が台東区。
「尾久橋通り」にぶつかります。「竹台高校前」という信号機。「音無川」は通りを越えた右の奥の方から流れてきました。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より)曲がりながら東北へ向かう流れが「音無川」。その北側が「北豊島郡」(荒川区)側。町家も川を境に広がっていきません。市中と市外との関係?

(「同」)上の地図の続き。日暮里付近のようす。道に沿って西北から流れてきています。左が谷中・上野台地。まだ鉄道は通っていません。
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「三ノ輪橋」。「日本堤」。音無川跡をたどる。(台東区と荒川区の区界。その2。)

2013-09-14 12:54:54 | 河川痕跡
 「明治通り」は台東区と荒川区の区界。「泪橋」交差点を過ぎてしばらく進むと、明治通りを北に越えて「台東区」が。右に折れて広い路地に入ると、東が荒川区、西が台東区というぐあい。日光街道までジグザクに道(「音無川」跡)は続いていきます。

右が荒川区、左が台東区。この道幅がかつての流れ「思川」だとすると、ちょっと川幅が広すぎる感じですが、「音無川」本体は川幅十㍍近くあったようです。
振り返って明治通り方向を望む。右が台東区、左が荒川区。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。北に直角に曲がり、さらに西に曲がっているのが「思川」。人工的な流れ(用水)という印象。ちょうど上の写真の部分か? 明治通りはもちろん、鉄道も通っていない頃。

 日本の鉄道は明治5年(1872年)9月12日(旧暦、新暦だと10月14日)に、新橋駅 - 横浜駅間で正式開業したばかりです。「歴史的農業環境閲覧システム」はそのしばらく後の地図(明治10年代初め頃)で、東海道線・横浜駅付近など興味深いようすになっています。それは、また別の機会に。

 山谷堀へ向かう流れとの分岐は、左上方付近。

(「同」)。「泪橋」から「三ノ輪」、「南千住」にかけて。
西に向かう。右奥が浄閑寺。吉原遊廓の近くにあり、遊女の投げ込み寺としても知られる。
浄閑寺門前の説明板。

 「音無川と日本堤」
 音無川は王子で石神井川からわかれている。その清流は田端、日暮里、金杉を流れ、三ノ輪橋をくぐり、浄閑寺の西側にそってここから山谷堀をへて隅田川にそそいでいる。今は暗渠になっているが、明治のおわりまで灌漑用水に使われていた。
 音無川にそって、三ノ輪から聖天町(現浅草七丁目)まで続く土手を日本堤(吉原土手)といった。安藤広重の『名所江戸百景』に描かれ、新吉原への遊客でにぎわった堤も今はない。浄閑寺前の三叉路の最も南寄り道路がその名残である。
                                               荒川区教育委員会

公衆トイレの後ろ。中央に家が建ち並び、その先の一部は公園。それをはさんで両側には道。その道と比べて一段低く家が建っていて、いかにも河川跡という印象。
少し道もカーブしている。このあたりは、一部を除き台東区の地域。 
道路とけっこうな段差がある。音無川をはさんでの「日本堤」。吉原「土手」とも言われるようにまさに土手の道。明治通りを越えるとまったく遺構はなさそうなので、ここが唯一の遺構?
明治通りに出たところから「山谷堀」方向を望む。
浄閑寺方向を望む。中央が音無川跡と日本堤跡。

斜め南東に向かう直線が「日本堤」。音無川は「土手」の北側を流れている。中央の区画された地域が新吉原。左上が「日光街道」。右の斜めの線が「奥州街道」。南千住で日光街道と合流する。
「山谷堀」と隅田川。吉原を過ぎた辺りからは音無川は暗渠になり、再び今戸付近で開渠となっている。
吉原「土手」、日本「堤」というように「日本堤」は土手のように土盛りされていることが分かります。

浄閑寺の西側の道。音無川は正面方向に流れ、その先で「思川」と分岐していた。
「音無川」は、日光街道・「三ノ輪橋」をくぐって浄閑寺の脇に流れていく。右は台東区、左が荒川区。
台東区側にある「三ノ輪橋跡」碑。

 かつて石神井用水(音無川)と日光街道が交叉する地点に架かっていた。江戸時代には市中と市外の境界に位置して、現在の台東区域と荒川区域を結んでいた。昭和初期に石神井用水は暗渠となっっため三ノ輪橋も撤去されて、現在は都電荒川線の停留所にその名が残る。

 台東区は市中、荒川区は江戸時代は(もとより、明治に入っても北豊島郡という)市外。実にはっきりした台東区の説明ではある。
 ちなみに、「goo」の地図(明治中期)でも、「市内」は詳細に記されているが、「音無川」の北側などの「北豊島郡」地域は掲載されていない。「音無川」が、明治に入ってからも、東京市内と市外との境界線であったことのようだ。「三ノ輪橋」は表記されている。
 
こちらは、荒川区側の説明板。川は日光街道を渡った正面の道路方向から流れてきていた。

 三ノ輪橋は、石神井川の支流として王子から分流した音無川が現在の日光街道と交叉するところに架けた橋である。橋の長さは五間四尺(約十㍍)幅三間(約六㍍)であったという
 音無川は日暮里駅前を経て、台東区(根岸)との区境を通り常磐線ガード手前を右折、その右角は私立池谷小学校(明治二六年廃校)跡。そして現日光街道を横切り日本堤の北側を流れて山谷堀にいたるものであった。
 明治四一年、三ノ輪が属する一六番分水組合が廃止され音無川は農業用水としての役目を終えた。現在は暗渠となり、橋の名前は都電荒川線の停留所名として残されている。荒川区教育委員会・台東区教育委員会
 
 二つの区の教育委員会が連名で説明している。市中、市外などいう表現もなく、客観的に記されていることに。けっこうな川幅であったことが分かる。

 さらに、気になった上の記述内容。「私立小学校の存在」。荒木茂さんという方の個人ホームページ
(www16.ocn.ne.jp/~ondoku/esseisyougakouhuukei.html)に興味深いことが記されていましたので、引用させてもらいます。

 「明治期の小学校の風景」より。
 明治時代は、学制によって設立された公立小学校と、従来の寺子屋から受け継いだ私立小学校との二つの種類の学校がありました。公立小学校は欧 米の教育制度や教 育内容や方法をまねた学校で教科書には翻訳物が多くありました。一般民衆はむしろ従来からの「読み書きそろばん」の寺子屋式な教育を歓迎しました。明治学制の新教育体制は、従来の寺子屋から内在的連続的に発展した学 校ではなく、まったく非連続的に発生した学校制度でありました。・・・
 唐沢富太郎『日本教育史』には次のように書いている。

 「私立小学校の方では組合を作り、組合長副組合長などの役員を置いて一致団結して公立と対立するようになった。かくて東京府においては、明治11年学校全数829のうち684校におよび、教員の全数が1914のうち1197名の多きに達し、小学生徒全数66539のうち46553名は私学生徒である。すなわち児童の66%はみな私学において教育を受けている割合である」
      唐沢富太郎『日本教育史』(誠文堂新光社、昭和28)より。

 恥ずかしいことですが、初めて知ったようなわけ。他にもこの方のHPは元々のテーマに沿った有意義な内容が多いのでまたの機会に訪問させてもらうつもり。

「日光街道」を西に渡ったところ。奥が常磐線のガード。その手前で左に曲がる。右が荒川区、左が台東区。
川の跡を追って、上流方向(南)に進みます。先に見えるのが「明治通り」。右が荒川区、左が台東区。
「明治通り」との交差点にあるお酒屋さん。
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「泪橋」。「思川」。音無川跡をたどる。(「台東区」と「荒川区」の区界。その1。)

2013-09-13 20:41:57 | 河川痕跡
 音無川。石神井用水とも。「石神井川」の水を王子神社と南の飛鳥山の間で堰をつくり、農業用水として東南方向へ流した。北区王子から田端、西日暮里、日暮里とJR線の東に沿って流れ、日暮里駅前から、荒川区と台東区の区界となっている。「三ノ輪」付近で二本に分かれ、東方向の流れは「思川」として明治通りに沿い、「泪橋」を経由して白鬚橋付近で隅田川に注いだ。南東の流れ・「音無川」本流は「日本堤」沿いに進み、「山谷堀」から今戸付近で隅田川に注いだ。現在は、JR敷地内はもちろん、すべて暗渠、道路の一部となっている。

 今回、荒川区と台東区の区界をなしている「音無川」跡を、久々に折りたたみ自転車でたどりました。東から西へ、約5㎞の道のり、探し探しで、約2時間。これまでの区界探索と同じように、けっこうくねくね曲がって、少し細い路地もありました。標高は0㍍地点から4㍍地点、その差は、約4㍍。低湿地帯の田んぼの中を流れていたようです。
「今昔マップ」より。明治末頃。赤い線が「音無川」、「思川」。途中、三ノ輪付近で分岐する水色の線が「山谷堀」から隅田川のルート。赤い○に注目!「北豊島郡」。明治になっても、ここから北は「北豊島郡」となる。「(本・元)豊島(十島?)」は、浅草寺、待乳山付近の隆起した島で、のちに海岸の縁となった低台地を指す。ここ一帯は「豊島」氏の支配下。
「同」より。現在。地図上でd、c、b、aの順でたどっていきました。eが旧山谷堀。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より。明治10年代。)
「橋場の渡し」付近。現在の白鬚橋のたもと。中央上に見える川が「思川」か? 現在の「明治通り」? 田んぼが広がっています。
「橋場の渡し」説明板。

 対岸の墨田区寺島とを結ぶ約160㍍の渡しで「白鬚の渡し」ともいわれていた。「江戸名所図会」によると、古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ、『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし、渡しの位置は幾度か移動したらしく、はっきりしない。大正3年(1914年)に白鬚木橋が架けられるまで、多くの人々に利用された。荒川区教育委員会

 渡し場は、上の地図では「思川」より少し南に位置しているようだ。ということは、「思川」は現在の明治通りよりも少し北側に流れていたのではないか(東京ガスの敷地内)。

「思川」と「山谷堀」との位置関係。隅田川上流が「橋場の渡し」、下流が「今戸の渡し」。

 白鬚橋の西詰から明治通りを西に。さっそく右手に見えるのが旧東京ガス千住工場。
広大な敷地に巨大なガスタンク群。昔から変わらぬ風景。ここの歴史はかなり古く、明治期の赤煉瓦造りの建物は、小平市にある「GAS MUSEUM ガスミュージアム」に移設されているそうです。また、最先端の研究技術開発などの建物があるようです。

《東京ガスの歴史》(「ガスミュージアム」HPより)
1872年(明治05年) 横浜で日本初のガス事業が始まる 新橋~横浜間鉄道開業
1874年(明治07年) 東京でガス製造工場が稼働し、銀座通りにガス灯が点灯
1876年(明治09年) 東京府瓦斯局が開設
1885年(明治18年) 東京瓦斯会社創立(芝区浜崎町)
1886年(明治19年) 東京電力の前身である東京電燈会社創立
1893年(明治26年) 社名を東京瓦斯株式会社に改称
・・・

「泪橋」。明治通りと旧奥州街道(コツ通り)との交差点。
荒川区方向。この先、JR常磐線を越えたところに小塚原刑場跡がある。
「歴史的農業環境閲覧システム」より。中央下の交差部分が「泪橋」。東西に流れる細い川が「思川」。

 泪橋(なみだばし)は 東京には荒川区と品川区に一ヶ所ずつの計二ヶ所あった。いずれも近隣の刑場に深い関連があるとされている。

1.荒川区南千住にある小塚原刑場跡の近くの思川(おもいがわ)にかかっていた橋。 現在では思川は全て暗渠化されているため橋の面影はなく、その名前は交差点やバスの停留所に付けられる事で残っている。

2.品川区南大井にある鈴ヶ森刑場跡の近くの立会川にかかっていた旧東海道の橋。 現在では名称が「浜川橋」に変わっている。

「泪」という名の由来

 江戸時代、小塚原と鈴ヶ森はともに犯罪者の刑場であり、磔火焙り獄門が行われ牢内で斬首された首はここに運ばれて晒された。
 小塚原は山谷地区の北端にあり、地区のはずれに泪橋がかかっていた。刑場にいくにはこの橋をわたった。ここが、江戸市中と市外との境界でもあった。「泪橋」は、現在は、台東区と荒川区の区界となっている。
 一方、鈴ヶ森は江戸の北の刑場である小塚原に対しての南の刑場として設置された。鈴ヶ森刑場の周辺は、かつて海岸沿いのさびれた地であった。鈴ヶ森の刑場に向かうには、近くの立会川にかかる泪橋をわたった。
 二つの泪橋は、罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、家族や身内の者には、処刑される者との今生の悲しい別れの場。お互いがこの橋の上で泪を流したことから、この名が付けられた。(以上、「Wikipedia」参照。)

 ここは、なんといってもあしたのジョー」 。高森朝雄(梶原一騎)原作、ちばてつや画。

 泪橋の下に丹下段平がジムを構えていたという設定でした。作品では史実と異なり、実際に川が流れその上に橋が架かっています(ただし、川が思川と明言はされていない)。また、名前の由来は人生に敗れドヤ街へ流れ着く者が涙を流しながらこの橋を渡るからとされており、作中に登場する「泪橋を逆に渡る」というフレーズは拳一つでどん底から這い上がり明日の栄光を目指すというこの作品のテーマを示している、と。
 講談社の『週刊少年マガジン』に、1968年(昭和43年)1月1日号(発売日は1967年(昭和42年)12月15日)から1973年(昭和48年)5月13日号にかけて連載されました。
 累計発行部数は2000万部。連載中の社会的反響は大きく、ジョーのライバルである力石徹が死んだ時には東由多加によって実際に葬儀が行われ、よど号ハイジャック事件では、ハイジャック犯が「われわれは明日のジョーである」(原文ママ)と声明を残しているほど。また辰吉丈一郎をはじめ現実のボクシング界にも大きな影響を与えました。これら社会的反響の大きさから、「戦後最大のヒット漫画」の1つに数えられています。

《ストーリー》
 東京・山谷のドヤ街に、ふらりと1人の少年が現われた。矢吹丈(ジョー)と名乗るその少年に一方的にたたきのめされたアル中の元ボクサー・丹下段平は、その動きから天性のボクシングセンスを見いだし、一流のボクサーに仕立て上げんと奮闘する。しかしジョーは、ドヤ街の子供たちを引き連れて乱行を繰り広げた揚げ句、自分に向けられる段平の情熱を利用して犯罪に手を染め、警察に逮捕されて鑑別所・少年院へと送られてしまった。
 ある日、少年鑑別所のジョーあてに、「あしたのために」の書き出しで始まる段平からのはがきが届く。その内容は、左ジャブの打ち方から始まるボクシング技術の講義であった。時間と体力を持て余していたジョーは、そのアドバイスに従ってボクシングの練習に身を入れるようになり、やがて自分のパンチの切れが、今までと比べ物にならないほど向上してゆくのを実感する。野菊島の東光特等少年院での、ライバル・力石徹との宿命の出会いを経て、ジョーは本格的にボクシングの道へと足を踏み入れることとなった。
 その後、ジョーは強敵カーロス、金竜飛らとの対戦を乗り越え、世界チャンピオンの座を賭け最強のボクサー・ホセとの闘いに挑む。パンチドランカーに冒されていたジョーは、善戦むなしく判定負けを喫し敗れ去る。灰のように真っ白に燃え尽きたジョー。しかし、その顔には満足げな微笑みがあった。

 TV放映中にちばてつやが病気で連載を休載したこと、また遅筆であったこともあり、ストーリーが原作に追いついてしまった。そのため矢吹丈VSカーロス・リベラ戦で終了している。原作の魅力に加え、初めて監督格となった出統の先鋭的な演出によりその名を高めた。また、矢吹丈と丹下段平の声を(元来アニメ声優ではない)あおい輝彦と藤岡重慶が担当し、そのハマリ具合の絶妙さから、続編や劇場版において他の人物の声の配役が大幅に変更される中でも、この両名だけは常に不動とされた。
《声の出演》
矢吹 丈 - あおい輝彦
丹下 段平 - 藤岡重慶
力石 徹 - 仲村秀生
(以上、「Wikipedia」参照。)

 
あしたのジョー名言集
「YouTube」より。
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「CAPRICCIO」(Tinto Brass)(古きよき映画シリーズ。その38。)

2013-09-12 22:53:48 | Tinto Brass
 またまたイタリア・ポルノ映画界の巨匠、TintoBrassの監督作品(1987年公開)。「カリギュラ」に続いて。

 「カプリッチョ」。「奇想曲」「綺想曲」「狂想曲」とも訳される。イタリア語では、「気まぐれ」を意味する、らしい。音楽でも、カプリッチョは、形式に縛られない、気まぐれな曲想・性格を示す作品がある。

 小さな島の港町カプリ。1947年。

 3年ぶりにバカンスでイタリアを訪れたフレッド(アンディ・J・フォレスト)とジェニファー(ニコラ・ウォーレン)のアメリカ人夫婦。倦怠期を迎えた二人にはそれぞれかつての愛人と再会するという思惑を秘めていた。フレッドは、さっそくユネスコの調査旅行にかつての恋人ローザ(フランチェスカ・ドゥレーラ)を同伴し、調査そっちのけで楽しむ。



 一方、ジェニファーは、野戦病院で強引に自分の処女を奪ったチーロ(ルイジ・ラェッツァ)の思い出を回想し、島の男との逢瀬を楽しみながら連絡をまっていたが、偶然、祭りの場で再会する。
 だが、子どもの発熱をきっかけに、フレッドもジェニファーも過去の愛が幻想だったことに気付く。

 ストーリー(たわいない内容)よりも、イタリア中部・地中海のさんさんと降り注ぐ太陽の光と海のきらめきと静かに眠る古跡、ステレオタイプ化された(押しも押されぬ巨匠?が意識的にそうしているのだが)、人のよさそうで(ちょっといかがわしい)好色なイタリア人の笑顔、獲物をさがす目、・・・。随所に流れるジャズ(というか、「MONELLA」のときと同じくブラスの音色)のテンポが小気味よい。
 野戦病院の描写など軽いのりすぎますが、けっして侮れない、と。男優がいかにもアメリカ人っぽいところがご愛敬。


 カプリ島は、ティレニア海に浮かぶ島の1つ。ナポリの南約30kmに位置する。また、ベスビオ火山やポンペイなどともここから数十km程度しか離れていない。小さな島だが、風光明媚な土地として知られ、イタリア有名観光地の1つ。また、ローマ皇帝ティベリウスが統治期間の後半を過ごしたことでも知られる。
赤い○がカプリ島。北方にナポリ。
 マリーナ・グランデには、ナポリやソレントなどからの観光船が発着する島で唯一の港がある。また、島の周囲にはファラリョーニと言う奇岩が存在する。島の周囲の大部分は断崖絶壁となっているので、海岸近くに存在する奇岩に陸から近づくのは難しいものの、島を周遊する観光船が運行されている。マリーナ・グランデと高台にある島の中心地カプリは、ケーブルカーで結んでいる。
 なお、島の高台を中心として、島内随所には各界著名人などの別荘が点在している。また、島の特産品としてレモンが有名だが、このためリモンチェッロなどのレモン酒やレモンチョコレートなどの土産品が販売されている。
 カプリ島の周囲はかなりの部分が断崖絶壁に囲まれており、波打ち際には半ば水中に埋もれている海蝕洞の「青の洞窟」(Grotta Azzurra)がある。
 この洞窟には、洞窟のある入り江から手漕ぎの小船に乗って入って行くことができる。内側に入ると外からは予想もできない数十メートルの広大な空間が広がり、水中に伸びている穴を通して水面から洞窟全体が紺碧の光を帯びて、神秘的な雰囲気を持つため、人気ある観光スポットとなっている。
 アンデルセンの出世作となった恋愛小説『即興詩人』では、この洞窟が重要な舞台となっている。森鴎外の翻訳では、「琅玕洞」(ろうかんどう、琅玕=翡翠のこと)と訳された。
(以上、「WIkipedia」を参照)

 この映画は、1947年、第二次世界大戦直後に設定されているので、上のような華やかな観光地ではまだなかったと思います、が。
 ここなども含めて、監督としては観光案内映画ではないので、まったくカット。しかし、音楽へのこだわりはかなりあって、バックに流れる軽いタッチのものにとどまらず、イタリアの街中で、普段、奏でられる音楽などを聞かせている。

 のびのびとした自然という明るい雰囲気がある一方、稲妻など陰陽を織り交ぜたメリハリのある作り。衣装にもこだわりがありそう。また、この監督は、巧みに鏡(大きな、小さな、円形、くすんだ、入り組んだ・・・)を小道具として必ず登場させる。それによって奥行きが深くなる印象。

※「映像」は、すべて「YouTube」より。
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読書「非常時の言葉 震災の後で」(高橋源一郎)朝日新聞出版

2013-09-10 19:49:21 | 読書無限
 以前紹介した「ぼくらの文章教室」の姉妹編。

 連載中に起こった東日本大震災「3・11」以降、世界に向かって、あるいは世界を受け止めることばはどう変わったのか?(どう変わらざるを得ないのか?) 自問自答しつつ、(それでいて先生だから)読者へ訴えかける「非常時のことば」。高橋センセイの軽妙な文体に込められた自身のことばへのこだわりと、今の軽薄な言葉世界への告発は、すごい。
 そこに、今回の東京オリンピック招致。今や、フクシマは忘れ去られ、大震災を奇貨として「復興」の「冠」で突き進む。


 今の日本。一部の金持ち階層を自作自演の経済成果に浮かれさせ、オリンピック招致をなんとしても実現し、国民の期待感をあおり、さらに、「カジノ」解禁・特区作り、さらに、国民投票の年齢を18歳に引き下げる・・・。福島原発事故でまだ15万人も故郷を離れて生活していることは忘れ去られ、原発再稼働」「原発輸出」・・・。
 これらの政策こそが閉塞感を打破させる特効薬だとばかりマスコミはアベ政権賛美の言動を我先に行っている。
 「パン」。生活保護給付を減額した上に、まるで受給者に物乞い的対応をとることを強いる。まさにお上の恩寵的行為として、社会福祉政策が転換されようとしている。消費税アップ時に、またしても現物支給、現金支給ばらまき策が公明党の発案で行われるかもしれない。一方で、「働かざる者食うべからず」との世論を為政者自らが作り上げていく。
 国民の関心を広く、深く政治や経済、教育に向けさせることを巧みに阻止し(「狂騒」はダメ、「静かに」「静かに」と言論を封じ)自らの野心を満足させていく「手口」。・・・
 実は、「パンとサーカス」の恩恵に預かることができたのは、一部の、市民権を持つローマ市民のみであって、結果的には多く労働者(奴隷)や地方は疲弊し尽くしてしまった。・・・、こうした古代ローマの教訓をどう受け止めるか?
(「パンとサーカス」8/17投稿)

 
 以前投稿した文章の一部。今度は、オリンピック開催決定で、マスコミ挙げての「狂騒」。そして、憲法改「正」などは深く「静か」に進めていく。

 オリンピック招致成否という「非常時」に、商業主義にずっぽりはまった連中を相手にして、「フクシマ原発事故汚染」心配なし! を言葉巧みに語り、それが「見事」うまくいって、悦に入っているアベさん。その言葉の軽さを改めて思う。
 と同時に、言葉への責任と重みが自らにも(支える連中にも)降りかかってくることを十分自覚してもらいたい、との遠吠えすら歯牙にもかけず、それほどは考えていない、まさに「政治的」言葉であったことを改めて認識する。

 高橋センセイなどの言葉へのこだわりに比べて、なんと軽いことよ!

 高橋センセイは、加藤典洋、ジャン・ジュネ、石牟礼道子、川上弘美、内田裕也、堀江敏幸(登場する人々は、常になじんでいる文章家たちですが)他にも・・・、さらには、当時の菅首相が辞めた後の民主党党首選の野田達3人の政治家の言葉、一つ一つを吟味しながら「震災を、原発を語りかけること」の意味と覚悟を模索していく(それは自らの物書きとしての覚え書きでもあるのだが)。

 この国の未来に、生まれてくる子ども達に絶望すら感じる中で、最後に「他人事」という「もの言い」に関わって、

 切り離され、孤立しているのは、「私」や「僕」だけではない。だからこそ、可能性は残されている。ここにいて、あなたたちのことを考えている、と伝えることは可能なのだ。たとえ、それが「こだま」のように、儚いものであったとしても。ことばは、ことばによって打ち立てられた「文章」は、そんな力を持つのだ、とぼくは信じたいのである。

 とつづる。

 朝日新聞の今日の夕刊に二人の詩人(現代詩作家)藤井貞和さんと荒川洋治さんが対論している。「大震災」「原発事故」という現実・未来に対して、詩人、小説家、歌人、劇作家・・・多くの文筆家達が言葉の無力さに襲われる中にあって、どう再び言葉に依拠して投げかける言葉を持ち得るか? そこへの気概をひしひしと感じる。また、感じ取らなければならないと、切に思う。
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