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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

内房線「富浦駅」~「館山駅」。その9。館山夕日桟橋。館山駅。(「房総往還」をゆく。第10日目。)

2020-09-07 20:55:17 | 房総往還

                      「館山夕日桟橋」。

                  

     

この先は立入禁止。

振り返る。

穏やかな海。

「海中観光船」。

      

こんな波静かな湾内もひとたび荒れ狂うと大惨事に。去年の台風では南房総一帯は甚大な被害に見舞われました。

7日。昨日、今日と超大型の「台風10号」によって大荒れの九州地方。大きな被害も出ているようです。お見舞い申し上げます。

さて、レンタサイクルの返却時間も近づいてきたので、館山駅に戻ります。

「夕映え通り」。

館山駅西口。南国風の駅舎。

東口に戻ります。途中にあったお店。「波奈館山総本店」。

 (「」HPより)

駅舎からの「夕映え通り」。

今回で、「房総往還(西)」歩きを終了。コロナ自粛がなければ、もっと早々と終了していたはずですが。

それでも、房総の海と山のすばらしさのもと、木更津、富津岬、東京湾フェリー、海水浴に来たことがある懐かしい保田、岩井、さらに館山など「内房線」沿いの、けっこう変化に富んだ歩きでした。さて、次は? 

「房総往還東街道」(「外房線」、「国道128号線」)は浜野から茂原を通り、上総一ノ宮、勝浦、鴨川など外房海岸沿いに館山まで。約130㎞。茂原までは内陸部の歩き。・・・交通手段などじっくり検討することに。

千葉にはまだ古道(街道)があるようなので、そこを歩きますか?

 

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内房線「富浦駅」~「館山駅」。その8。海上自衛隊。館山港。渚の駅たてやま。(「房総往還」をゆく。第10日目。)

2020-09-04 18:56:39 | 房総往還

                    「館山港」。

そこに行く手前、左手に大きく広がるのが「海上自衛隊館山航空基地」。 

前身は館山海軍航空隊

館山市にある自衛隊基地。正式名称は「海上自衛隊館山航空基地」といいます。そもそもここに自衛隊基地が置かれているのは、館山の地理的条件と大いに関係があります。
館山は房総半島の先端に位置していることから、西の三浦半島と並んで東京湾の、つまりは首都防衛の要となる土地です。古いところでは江戸時代末期、ロシアのラックスマンが松前に来航して以来、国防の重要性に気付いた幕府は東京湾に6つのお台場を築きます。そのうちのひとつが館山の洲崎(すのさき)であり、のちのペリー来航によっていよいよ警戒を強めた幕府は7門の砲台を設置。海上の監視が強められることになりました。

明治へと時代が移ると海防の重要性はさらに高まります。第一次世界大戦を経て、軍事力増強に力を注ぐ日本は館山に航空基地の建設を検討します。そこで白羽の矢が立てられたのが現在館山航空基地のある場所でした。
大房岬(たいぶさみさき)と洲崎に抱え込まれるような形をした館山湾は「鏡ヶ浦」と呼ばれるほど波が穏やかなことで知られます。外洋にも近く、しかも水上機の離着陸にも適したこの場所はまさに航空基地建設にうってつけだったようです。現在基地のある場所は以前は海だったのですが、1923年の関東大震災で地盤が隆起したことによって遠浅の海岸になっていました。そこで、沖合にあった高ノ島(現在の鷹ノ島)を抱き込むような形で埋め立て、基地を建設したのです。そして昭和5年(1930)、館山海軍航空隊は発足します。

航空隊はこれから第2次世界大戦終結まで、パイロットの育成や航空機の開発などを担当。多くの軍人がここから戦地へと出撃していったのです。

(この項「なぜ館山に自衛隊があるの? | 南房総 花海街道 hanaumikaidou.com › archives」HPより)

(「今昔マップ」より)

海上自衛隊最大のヘリコプター専用基地だそうです。

岸壁には釣り人がたくさん。

   館山湾は「鏡ヶ浦」と呼ばれるほど波が穏やかなことで知られる。

港に沿って北上すると、大きな施設が見えてきます。

渚の駅たてやま・渚の博物館」。

平成27年12月25日に、「館山ふるさと大使」である「さかなクン」が『“渚の駅”たてやま』の名誉駅長に就任し、これに伴いさかなクンギャラリーを渚の博物館内 1階に開設しました。

館山市内観光案内図。

焼玉エンジン」。焼玉機関(エンジン)搭載の小型動力船は、リズミカルな独特の爆音を立てて航行することから「ポンポン船」と呼ばれ、漁港や河川ののどかな風物詩として親しまれていたが、ディーゼルエンジンの普及と共に1960年代までには廃れてしまいました。

コロナ禍の下なので、ちょっと寂しい館内。

             

館山おさかな大使のさかなクンから館山市民や全国の館山ファンに向けてのメッセージビデオより。

      (「YouTube」より)
湾内が一望できるデッキ、さらに「館山夕日桟橋」が人気です。

渚の駅たてやまに隣接する、館山夕日桟橋。桟橋形式としては日本最長で海岸通りから500mの長さを誇る。桟橋には小型の船舶が係留できる物揚場の他、大型客船の接岸も年に数回あり、海中観光船が定期便で出港している。

桟橋形式として日本最長の桟橋。

 

(この項、「」HPより)

「展望デッキ」からの眺め。右手に「夕日桟橋」。

        

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内房線「富浦駅」~「館山駅」。その7。赤門。宮城。掩体壕。(「房総往還」をゆく。第10日目。)

2020-09-03 19:22:42 | 房総往還

                           「館山城模擬天守」。

1580年(天正8年)、里見義頼によって館山城が築城された。天正19年6月から11月までの間にかけて、里見義康岡本城から館山城へ移転をしてくる[2]。その後、1614年(慶長19年)に里見氏は改易され、館山藩は取り潰しとなった。この際に館山城も廃城となり、破却された。後の1781年(天明元年)に、稲葉正明が館山藩主となって館山に入ったが城を再建することはなく、2代正武が城の麓に館山陣屋を構えて、そこを新たな政庁とした。

現在建つ天守は、後に丸岡城を模して1982年昭和57年)に再建された模擬天守であり、当時の天守の概要や外観については不明である。この天守は現在、館山市立博物館分館(八犬伝博物館)として利用され、周辺は城山公園となっている。

(「丸岡城」=福井県坂井市丸岡町霞にあった日本の城

(この項、写真も含めて「Wikipedia」による。)

鈴木家住宅

                   

 館山市沼は江戸時代以降,国内沿岸の物資輸送を行う船が立ち寄る湊町として栄えました。そのため沼には、盛岡藩の船宿がありました。

 鈴木家は,江戸時代に屋号を「南部屋」といい,盛岡藩の常宿を務めた家でした。明治21(1888)年に旅籠をやめて,医院を始めますが,赤い門柱のある医院ということから,現在も「赤門」の名で,市民に親しまれています。

 鈴木家住宅は,横浜の建築家が設計し,関東大震災直後の大正13(1924)年に完成しました。この時,蔵と表門も同時に完成しています。

 昭和5(1930)年,近くに館山海軍航空隊が設置されましたが,昭和20年の終戦間際には,海軍将校の社交の場などとしても使用されたことがあるといいます。

 門は,目地にモルタルが使われ,石が積み上げられた構造です。建築当初は,鉄の扉が付いていましたが,第二次大戦中に供出されてしまい,現在,取り付け金具が残るのみです。

 主屋は和洋折衷様式の木造2階一部平屋建てで,屋根は,2階部分がスレート(石盤)葺,平屋部分が鉄板葺です。正面には,ポーチが設けられています。1階中央に中廊下式のホールがあり,和風の客間・居間・仏間,台所,洋風の食堂・居間・寝室などが配置されています。2階はすべて洋風の仕上げで,応接間・寝室があります。洋風部分の,床のコルクタイルや壁紙などには,建築当時の内装がよく残されています。

 蔵は,梁など米松材が用いられ,外部はモルタル洗い出しの仕上げになっています。

※一般公開はしていませんので,御了承ください。

赤門。

宮城。ここが「房総往還」の終点とされる。

「館山湾」方向を望む。

さて、一区切りがついたところで、次はどこに? 少し先の道を左折、「ブロワ珈琲焙煎所」の前の住宅地に、

掩体壕(えんたいごう)」。

■ 館山海軍航空隊掩体壕(えんたいごう)ってなあに?
 館山海軍航空隊は、海軍5番目の航空隊(昭和20(1945)年の終戦の時には、54の海軍航空隊があった)として、昭和5(1930)年にできました。
 そのあと、現在の館山市沼から香にかけての地区には、さきほど見学した射撃場跡や、飛行機の部品や弾薬、食料、燃料などを保管するための倉庫や、この「掩体壕」などさまざまな建物がつくられました。
 昭和14(1939)年の記録によると、館山海軍航空隊には、97式艦上攻撃機を中心に124機の飛行機がありました。この時の、館山海軍航空隊の役割は、中国で行われていた戦争に飛行機を送ることでした。
しかし昭和16(1941)年に、日本とアメリカが戦争をはじめると、館山海軍航空隊は、東京、東京湾、太平洋岸を守るための基地として使われました。戦争が終ったあとに、日本軍からアメリカ軍に渡された記録によると、終戦の時には、零戦、紫電など41機の飛行機しか残っていませんでした。
この「掩体壕」は、アメリカ軍の飛行機に爆弾を落とされても飛行機を守ることができるよう、全体が分厚いコンクリートで固められています。館山海軍航空隊と洲ノ埼海軍航空隊の周辺には40以上の掩体壕がつくられましたが、現在残っているのは、この宮城のものと、香(こうやつ)に残っている大型の掩体壕の2つだけです。

(この項、「」HPより)

「97式艦上攻撃機」(「」より)

誘導路跡。

この付近には、「赤山地下壕跡」があります。見学時間がなくて、省略。戻る途中に、地下壕の一部が?

           

元の道に戻り、海岸を目指します。

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内房線「富浦駅」~「館山駅」。その6。「べにや」。館山市。館山城。(「房総往還」をゆく。第10日目。)

2020-09-02 19:40:45 | 房総往還

                        「べにや」。

館山市の長須賀交差点前の金物店「紅屋商店」の店舗と主屋は平成19年7月31日に国登録有形文化財(建造物)に指定されました。
【国登録】原簿記載:平成19年7月31日 官報告示:平成19年8月13日
【登録番号】店舗:12-0071号 主屋:12-0072号
【年代】店舗:大正13年(1924年) 主屋:昭和元年(1926年) 
  
 館山市長須賀は、境川と汐入川に挟まれ、この二つの川と館山湾が形成した砂州に町場が形成されています。江戸時代から、館山に向かう房総往還に沿って、北側の新宿から続く町並みがありました。
 明治11年(1878年)、新井に館山桟橋が整備され、東京と館山が汽船で結ばれるようになると、千倉や白浜方面からの荷が集まるようになり、桟橋に近い館山下町と長須賀の古い町場との間の通り沿いに、商店が立ち並ぶようになりました。
金物を扱う紅屋商店は、現在の南房総市和田町にありましたが、明治26年(1893年)に現在の地である館山市長須賀に移転、当時使用していた建物を和田から移築し、長須賀で開業しました。しかし、大正12年(1923年)の関東大震災で店舗、住宅ともに倒壊しました。
 いち早く復興し、商売再開のために店舗として活用されたのが、地震に耐えて残った蔵です。現在の紅屋商店店舗は、近くにあった店蔵を移築したものです。店舗2階に残る墨書から、大正13年3月に作業が完了したことがわかります。
震災後、長須賀一帯には、蔵を活用した店舗が数件あったといいますが、現存するのは紅屋商店店舗のみです。1・2階とも漆喰塗りの防火扉が設置され、震災復興期の店舗建築の特徴をあらわしています。
 主屋は店舗側面(東側)に接続し、1階は8畳間の仏間、2階は床・棚・付書院の8畳の座敷と8畳の次の間からなります。
震災に耐え、倒壊をまぬがれた店蔵を活用した建造物として、大変貴重なものです。また、ほぼ同時に建てられた主屋は、店舗との繋がりをもち、当時の住まいの形態を今に伝えています。
※主屋の一般公開はしていませんので、ご了承ください。
<平成24年3月 館山市教育委員会>

(この項、「」HPより)

「潮留橋」から斜め後方の道を行くと、「べにや」があります。この通りには、他にも古い建物があります。

                  

1880年代のようす。←が旧道。東側に街並み。

2010年代のようす。○のところに「べにや」。

かつての館山の街並みは「潮留橋」から西側に「館山城」下町として広がっていたようです。新宿町から長須賀は商業(海運)の町として賑わっていました。

館山市とは?

里見氏と館山

戦国時代には安房統一を果たして安房国から勃興した里見氏は上総国に勢力を広げ、後北条氏と関東の覇権をめぐって争った。その後、上総から下総の一部に至るまで勢力を張った。館山城の築城年代については諸説あるが、岡本城(南房総市)を居城としていた里見義頼1580年天正8年)頃に築城して城番を置き、義頼の後を継いだ里見義康1588年(天正16年)から1590年(天正18年)にかけて改修したとされ、9万2000石の所領を治め、現在の館山地区に城下町が形成された(館山町も参照)。商人の船は新井浦(館山湾)へ入船することを義務づける。このころもっとも繁栄していたのは館山地区であり、市の名前も中心部の「館山」を採用している。なお、名前の由来は「城の山」=「館の山」からきている。1590年の小田原征伐小田原城攻め)以後は、上総国は没収されて安房一国が里見氏の領地となった

関ヶ原の戦いでは、里見氏は徳川家康を支援して加封を受けたものの、江戸幕府成立後の1614年慶長19年)に里見忠義大久保忠隣改易に連座して伯耆国倉吉に転封。その後の江戸時代には市域に館山藩北条藩船形藩が設置されていた(ただし、設置されていた時期にはずれがあり、廃藩置県時に存在していたのは館山藩のみである)。

大坂の陣で活躍した木更津の水夫への報奨として、江戸木更津間での渡船営業権などの特権が与えられたことにより、1615年(元和1年)新井・楠見(現在の館山市)においても船乗り30人が、大坂の陣にて活躍される。その後、木更津が上総国・安房国の海上輸送の玄関口として繁栄し、海上輸送が発達した江戸時代に主に東京湾内の輸送に五大力船(長さ31尺(約9.4メートル)から65尺(約19.7メートル)ほどの小型廻船)が活躍し、上総国・下総国同様、安房国においても海辺で穀類や薪炭などの運送に用いられる他、人を乗せて旅客輸送も行っていた。鋸南町の保田海岸を描いた歌川広重の浮世絵である『富士三十六景』の「房州保田ノ海岸」において、鋸山の下に位置する磯伝い道は館山港まで続いていたとされる[9]。当時、安房国の中心であった館山方面に至る磯伝い道は絶景の道ではあったが、交通の難所としても知られていた。海岸の崖沿いを避けたトンネルの多い道路は、明治中期になって整備されている。館山藩の廃藩後、館山城の受け取りの任にあたった佐貫藩内藤政長がそのまま安房一国の管理に当たった。1618年(元和4年)に幕府代官の手によって再検地が行われた安房国は、以後天領旗本領、小藩、他国の藩の飛び地領に細分化され、安房一国を治めていた旧館山藩の規模を継承する藩は現れなかった。

・・・

1868年明治元年)の戊辰戦争では、稲葉正巳は幕府の役職を全て辞して隠退し、家督を稲葉正善に譲った上で新政府に恭順しようとしたが、江戸城開城の当日、榎本武揚率いる旧幕府海軍(榎本艦隊)が新政府への軍艦の引渡しに応じず、悪天候を理由に艦隊を館山沖へ移動。当時の館山湾は日本有数の大艦隊が碇泊する港であったため、館山の地にて兵力を整え、軍艦8隻で函館に向かう準備を整える(後の箱館戦争)。この榎本艦隊には、若年寄永井尚志陸軍奉行並・松平太郎などの重役の他、大塚霍之丞丸毛利恒など彰義隊の生き残りと人見勝太郎伊庭八郎などの遊撃隊、そして、旧幕府軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など、総勢2000余名が乗船していた。陸からは上総請西藩などの旧幕府方がそれぞれ侵攻してくるなど、館山藩は苦難を極めたがこれを乗り切り、新政府に恭順した。

廃藩置県後の交通整備

稲葉正善は翌年の版籍奉還で藩知事となり、1871年(明治4年)の廃藩置県で館山藩は廃されて館山県となり県知事となった。同年11月14日、館山県は廃藩置県によって木更津県に編入され、1874年(明治6年)木更津県と印旛県の合併により千葉県に編入された。1878年(明治11年)、北条村に安房郡役所が設置されてからは、北条地区が安房地域の政治・経済・文化の中心地となった。館山の辰野安五郎が安全社をおこし、東京(霊巖島)と館山間に汽船を就航させる計画を立てる。それに伴い、後に船形那古北条・館山に汽船の発着の桟橋が設置の整備が行われる。1881年(明治14年)、第一回安房共立汽船会社が設立され、安全社との競争をはじめ、その後、大倉喜八郎渋沢栄一など財界人が株主になり、豊津村に日本水産会社を設立。1889年(明治22年)、11月より東京湾汽船会社(現在の東海汽船株式会社)が東京 - 館山航路を開設した。館山港は魚荷が多く、創業当初のドル箱航路だった。これらの館山航路整備により、館山港は房総半島への航路の拠点としての役割を担う。1919年(大正8年)に安房北条駅(現在の館山駅)が開設されると、交通の要所として、ますます北条地区に中心機能が移って行った。

軍都から港湾都市へ

1930年昭和5年)ごろ、館山航空基地が完成し、軍専用港を施設する(東防波堤)。館山海軍航空隊、州埼航空隊、海軍砲術学校などの設置により、第2次世界大戦中は軍都として発展した。館山湾には様々な軍艦潜水艦などが見られるようになる。大房岬と西岬地区に東京湾要塞の砲台が構築され、さらに洲ノ崎海軍航空隊が笠名・大賀に開隊するなど、軍事整備が次々と行われた。

館山は実戦の態勢となり、陸上機隊・水上機隊の両方を備える中枢基地となる。また、一時中攻隊をおいて外戦部隊の一翼を担うが、木更津基地の完成と共に、中攻隊はそちらへ移ったことにより、以後館山航空基地は内戦部隊となる。1945年(昭和20年)、那古地区川崎に空襲があり、館山港からアメリカ軍が上陸し、終戦を迎える。

戦後、カツオ漁などの餌イワシを供給する水産基地、北条海岸などの海水浴を中心とする観光都市へと移行した。1948年(昭和23年)、館山港を地方港湾に指定し、1949年(昭和24年)、東海汽船が戦争で中断していた館山航路を復活した。1953年(昭和28年)、海上自衛隊第21航空群が設立され、同年の3月に港湾区域の認可を受け、千葉県が港湾管理者となり館山港として開港する。その後、岸壁などが整備され主に資材を扱う工業港へと変貌していく。1958年(昭和33年)、南房総国定公園に一部指定され、館山港から船形魚港間の海岸道路が完成した。

2000年(平成5年)5月には、観光・レクリエーション分野での地域振興が期待されるとして、館山港が特定地域振興重要港湾に選定されており、港湾の北側に大型客船が寄港可能な館山港多目的観光桟橋(館山夕日桟橋)が整備され、2010年(平成22年)に供用開始となった。国土交通省千葉県・館山市共同で策定した「館山港港湾振興ビジョン」に基づき、「賑わいのある海辺づくり」を基本的な計画として「みなとまちづくり」を推進している。

(以上、「Wikipedia」参照)

なるほど! そこで、館山駅東口にあるレンタサイクルを借りて、ぐるっと館山市内を回ります。

     

「宮城」交差点を目指して進む。左手の高台に「館山城」。

      

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内房線「富浦駅」~「館山駅」。その5。デカンショ節。ひふみ養蜂園。館山駅。潮留橋。(「房総往還」をゆく。第10日目。)

2020-08-31 19:58:11 | 房総往還

県道に出てしばらく進むと、左手に「学生歌 デカンショ節発祥の地 江戸屋旅館跡」碑。

大正から昭和にかけて学生の間でデカンショ節という歌が大流行しました。この歌は明治31年から八幡の江戸屋旅館を本拠に合宿を始めた一高水泳部がつくりだしたものです。もともとは丹波篠山の民謡デコンショで、偶然江戸屋に投宿した篠山の青年たちから水泳部員に教えられて、デカンショ節が生み出されました。これを記念して江戸屋跡地にデカンショ節発祥の地の記念碑が建てられています。古式泳法を伝える安房泳法会は、一高水泳部の水府流・神伝流の伝統を受け継いでいるものです。

(この項「館山市立博物館」HPより)

一方、

デカンショ節の起こりは、廃藩置県後、東京に出た旧藩主青山忠誠(ただしげ)の子忠允(ただこと)や上京した篠山出身者が、篠山の盆踊り歌「みつ節」(デコンショ)にふるさとを想う歌詞をつけて唄ったことにあります。

♪デコンショデコンショと皆さんと共に コラコラ
 歌いましょかい ふるさとを ヨホイヨホイ


♪空を凌げる旧城の松に
 思い起こせよふるさとを
当時の青山家の寄宿舎の写真
当時の青山家の寄宿舎


など郷愁の念が強く現れています。
 さらに

♪丹波篠山鳳鳴の塾に
文武鍛える美少年

1998年の寮歌祭の風景の写真
1998年の寮歌祭の風景


といった今も歌われる名文句から

青山忠充の学友の写真
青山忠允と学友
♪山の深山の山家のせがれ
 質素武勇が本色じゃ

♪丹波荒熊 男の肝に
 爺これ見よ 毛が生えた


など豪快な歌詞が多かったのでした。

旧制一高生との出会い

 1898年館山・江戸屋旅館での旧制一高生との偶然の出会いを生んだのもこの豪快な歌詞のためであったでしょう。
 一高生は寮生活に持ち帰り、ストームとデカンショ節が寮生活になくてはならないものとしました。そしてわずか1,2年のうちに全国に大流行となりました。
 このころ、夏目漱石が「我が輩は猫である」に「いずれも一騎当千の猛将と見えて、丹波の国は篠山から昨日到着し立てでござるといわれぬばかりに黒く逞しく筋肉が発達している」と書いているのもこの歌詞のためではないでしょうか。

一高で歌われていた歌詞としては

♪デカンショデカンショで半年暮らす
 あとの半年寝て暮らす

♪丹波篠山鳳鳴の塾で
文武鍛えし 美少年

♪丹波篠山山家の猿が
花のお江戸で芝居する

といった今もポピュラーなものから

♪デカンショデカンショが赤門の前で
 おでん 燗酒 いなりずし

♪ほんに一高は不思議なところ
 星のある夜に雨が降る

♪ほんに独逸語は夫婦の喧嘩
 「ダス」の「デル」のと大騒ぎ

♪一部あたまを叩いてみれば
権利権利の音がする

など当時の寮歌としての雰囲気を十分に伝わっています。

地元篠山に逆輸入されたデカンショ節は公募され

デカンショ風景の写真
デカンショ風景
♪北と南に分かれて落ちる
 鼓峠のさかれ水

♪さかさ釣して あの光秀の
 母を殺したやぐら松


など篠山地方の地域性を色濃く出した歌が作られています。
 大正末期の頃までに現在のデカンショ節のほとんどがつくられています。
 1930年~終戦のころまでに作られた歌は記録として残っていません。

また、

丹波篠山は、伝統が生きるデカンショのまちである。デカンショ節の元唄は、この地方の古い盆踊り唄「みつ節」である。これが明治の中頃、旧篠山藩主、青山忠允の教育係をしていた亘理章三郎が作った「デッコンショ」が明治31(1898)年夏、房州館山の江戸屋旅館で旧制第一高等学校の生徒らに伝えられ、「デカンショ」と変じた。最初は学生歌、バンカラな書生節で、明治、大正にかけて日本全国に広がっていった。
 デカンショ節は今では歌詞も情緒纏綿としたものも増え、幅広く日本の代表的な民謡となり、丹波篠山に住む人たちの連綿として流れる生活の営み、文化そのものを表現している。
 戦後、それまで各地区別に行われていた盆踊りを統一し、昭和28(1953)年8月に第1回デカンショ祭が開催され、幾多の変遷を経て、現在のように篠山城三の丸広場での盛大な祭りに発展している。
 丹波篠山の人たちの尽きることのない、あふれるばかりのエネルギーがデカンショ節を歌い、デカンショ節を踊って熱狂する。感動のるつぼと化して完全に燃え尽くしてしまい、また新しいエネルギーを生み出していく。デカンショは丹波篠山の人たちの生き甲斐である。
 人影無き市民グランドの中央の、デカンショ祭の囃櫓の跡に一人静かにたたずめば、地の底からデカンショ、デカンショと響いてくる。天守台の石垣からデカンショ、デカンショとこだましてくる。

と「」HPで詳しく解説されています。

注:「篠山(ささやま)」市は、2019年に「丹波篠山(たんばささやま)」市と市名を変更している。「丹波篠山黒豆(黒枝豆)」、「丹波栗」などが特産品。

この歌詞と旋律は覚えています。

「デカンショ」は「デカルト」「カント」「ショーペンハウエル」の略だと思っていましたが、どうも単なる囃子ことばのようです。

その先には、養蜂園が。

販売とカフェも併設。「ひふみ養蜂園」。

    

     左から「菜の花はちみつ」、「桜はちみつ」、「枇杷はちみつ」。

               

(この項、「ひふみ養蜂園」HPより)

「鶴谷八幡宮」前。

左に折れて進むケースが多いですが、このまま直進します。

マキの生け垣の見事なつらなり。

        

近所の団地の南側にもマキの生け垣があります。見事とはいえませんが、けっこうな連なり。

実がなりかかっています。

熟すとこんなかたちに。下の部分は食べられるそうです。(「」より)

 

商店街に入ります。

「館山駅東口」交差点。

寂しい商店街。シャッターの閉まった店も多い。

「内房線」の踏切を越えます。

「館山駅」方向を望む。

踏切を越えてすぐに右斜めの道に。「汐入川」沿いの道。

               

「潮留橋」へ到着。「房総往還」(船橋~館山)がここで一区切りとなります。

「汐入川」。

上流方向。

来た道を振り返る。

案内図。

「下町」から「宮城」にかけて旧市街が広がります。

「下町」方向。

                                       

1880年代のようす。○が潮留橋。                        2010年代のようす。上方に館山駅。

                                                                                                                                                           

 

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内房線「富浦駅」~「館山駅」。その4。那古寺。平久里川。(「房総往還」をゆく。第10日目。)

2020-08-28 20:04:21 | 房総往還

                     右手にも古風なおそば屋さん。「明月庵」。

                                                            古民家そのもの。

その先に「那古寺」通称「那古観音」。古刹。伝によると710年、行基の開基、とか。

今年の祭礼は山車5台、屋台1台の引き回しは行わず、祭典のみとなったようです。 

潮音展望台」が左手の高台に。(「Googleマップ」より)

ここも古い酒屋さん「喜寿屋」。この付近は、けっこう昔からの門前町だったようです。

先に進みます。かつては倉庫?

左手の住宅には「マキの生け垣」が続きます。

路地の両側にずっと先まで。

これはマキではありませんが、見事な生け垣。

「平久里川」手前、右手の旧道に入ります。

途中の小川、けっこうきれいな流れ。

左手には農地が広がる。

そのまま進むと、「平久里川」に突き当たります。

下流を望む。

行き止まりになってしまうので、戻ります。

この道が旧道だったような気が。

県道に出て、「湊橋」で「平久里川」を渡ります。

内房線鉄橋、河口付近を望む。

「セブンイレブン館山湊店」の東側に旧道が続きます。

先ほど行き止まりになった対岸を望む。

上流を望む。

再び、旧道を進む。

県道(「内房なぎさライン」)に復帰。

振り返る。右が旧道、左が県道。

この付近の今昔。

                                  

1880年代のようす。橋が架かっていたようです。         2010年代のようす。○が分岐点。鈎型の旧道は不明。

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内房線「富浦駅」~「館山駅」。その3。那古船形。内房線。(「房総往還」をゆく。第10日目。)

2020-08-27 20:06:13 | 房総往還

                    館山湾方向。

左手は房総の丘陵。緑が濃い。

海岸沿いのおうち。眼下に海が広がる。

南国情緒漂う別荘。

左手中腹に「崖の観音」として有名な「大福寺」。

海側を望む。

「船形漁港」方向に進みます。

古いおうち。奥の方にも廃屋が。

真っ直ぐ進むと漁港。旧道はここを左折。

閑散とした街並み。右手の旧道に。

 県道に復帰。

1880年代のようす。○が左折点。↓が旧道。

2010年代のようす。漁港が下方に。

新盆の飾り付け? この地域の風習なのか。

左手奥に内房線「那古船形」駅があります。駅名の由来は、「那古寺」と「船形漁港」からきているとか。

 ところで、内房線。君津を過ぎると単線。この房総往還の歩きで何回も利用しましたが、乗降客は、ほとんどいませんでした。いつもの夏場のシーズンは賑やかなのか、今年は千葉県内の海水浴場が全て閉鎖されているせいもあるのか? それとも・・・。

 そこで、乗降客一覧。

内房線 - 駅別乗降客数データまとめ(「station.kkty.jp」による)(上位順)

蘇我駅 63220人/日 (2015年)
五井駅 37304人/日 (2015年)
木更津駅 27602人/日 (2015年)
八幡宿駅 23702人/日 (2015年)
姉ヶ崎駅 20852人/日 (2015年)
君津駅 16792人/日 (2015年)
浜野駅 14106人/日 (2015年)
長浦駅 12334人/日 (2015年)
袖ヶ浦駅 9176人/日 (2015年)
館山駅 3764人/日 (2015年)
巖根駅 3600人/日 (2015年)
青堀駅 2960人/日 (2015年)
安房鴨川駅 2828人/日 (2015年)
大貫駅 2264人/日 (2015年)
上総湊駅 1612人/日 (2015年)
南三原駅 1024人/日 (2015年)
千倉駅 834人/日 (2015年)
安房勝山駅 672人/日 (2015年)
浜金谷駅 612人/日 (2015年)
岩井駅 594人/日 (2015年)
佐貫町駅 562人/日 (2015年)
保田駅 560人/日 (2015年)
富浦駅 466人/日 (2015年)
那古船形駅 368人/日 (2015年)

                         

5年前の資料なので、現在はもっと減少? 特に「佐貫町」以降南の駅の減少が目立ちます。「那古船形」と同じ無人駅の「竹岡」は100人台のようです。「那古船形」は、「竹岡」に次ぐ少なさ。また、「安房勝山」駅に次いで2駅目の棒線化となっています。

(棒線化=鉄道においてポイントも側線も持たない停車場。列車の行き違い・待避設備のない停車場

 内房線全体が、モータリゼイションの変化、特に東京湾アクアラインや館山道などの自動車専用道路の拡充・整備の影響が大きいのでしょう。君津以降は単線となり、1時間に1本程度。かつて平日日中にも運転していた特急が廃止され、土日のみ「新宿さざなみ」として運行されるのみに。

 町の衰退も気になるところです。土日に歩いてもお店は閉まっているし、人通りもほとんどなし。車はけっこう通りますが。対岸の三浦半島の現状と比べて、その差は格段です。

内房線のガードをくぐり、道なりに右折します。

                         勤王屋酒店。ネーミングの由来が知りたいところです。

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内房線「富浦駅」~「館山駅」。その2。槇(マキ)の生け垣。房州うちわ。(「房総往還」をゆく。第10日目。)

2020-08-25 19:48:10 | 房総往還

         「多田良」で国道から離れ、県道302号線(「内房なぎさライン」)へ。さらにその先を右折します。

           

                                

1880年代のようす。                      2010年代のようす。

静かな道を進む。両側はマキの生け垣。見事な景観。

枇杷の畑。

この先よく見かける「マキ(槇)」の生け垣。

館山市内には、マキ(イヌマキ)の生垣が多く見られます。マキは、千葉県の木にも選定されており良く知られた樹種ですが、館山市をはじめ県南部では、防風、防潮、防火などの効果を目的に家の周囲を生垣で囲う際、この木を用いることが多いようです。マキがよく生垣に用いられるのは、塩分に強い性質であること、砂地に適した木であることに加え、刈り込むほど枝が密になるので、冬の西風が強い房州では風避けにも適しているだからだと言われています。

(この項、「」HPより)

館山市内だけでなく、ここ南房総市など房総半島ではよく見られるマキの生け垣です。

斜め左に折れて、県道に合流。

沿道には、マキの生け垣が続きます。

「うちわの太田屋」という看板が。

うちわの太田屋

房州うちわは、温暖な南房総は「うちわ」の材料となる良質な篠竹に恵まれています。漁師の婦人や老人の手内職として大正時代末期~昭和初期にかけて「うちわ」の生産地として発展してきました。全国でも最高と言われる安房地方の女竹を使用した丸柄の「房州うちは」は、竹の皮むきから始まる24の工程すべて1本1本が手作りです。太田美津江さんも代々続くうちわ職人の家系で生まれました。昭和59年度(1984年)に千葉県の伝統的工芸品の指定を受けた父の太田一男さんからその技術を受け継ぎました。

施設名

うちわの太田屋

所在地

〒299-2404 千葉県 南房総市 富浦町多田良1193

営業時間

お越しの際は事前にご連絡ください。

千葉県伝統的工芸品(平成9年度(1997年)選定)です。ちりめん地・ゆかた地を貼った、昔ながらの紙を貼ったものもあります。「うちわ」の形は変えられません、色や柄や材質に工夫をこらしています。1本の丸竹で柄から面まで作ります。普段でも気軽に使いやすく、贈答用にも大変喜ばれています。房州うちわは、国の伝統的工芸品(平成15年3月16日指定)です。

(この項、「千葉県公式観光情報サイト-まるごとe!%20ちば-」HPより)

         (写真は、「房州うちわ振興協議会」HPより)

この先で「館山市」に入ります。

右手に海が見えてきます。

               

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内房線「富浦駅」~「館山駅」。その1。枇杷倶楽部。万祝。(「房総往還」をゆく。第10日目。)

2020-08-24 20:26:05 | 房総往還

                    ステンレス製のオブジェ「幸福のびわの木」

                       

「国道127号線(内房なぎさライン)」に復帰。

 前回の到達地点・岩井からの旧道として、

①木の根峠越えの道。但し、現在の、木の根峠越えの県道とは異なる。

                                     1880年代のようす。道はしっかりしていたようです。館山に行く最短距離の道。

                                     2010年代のようす。旧道が破線で記されているが、はたして現状は?

②内陸に入り富山南麓から平久里川に沿う道。

③海岸沿いの道。途中、山間部に入る。現在の道は、海岸沿いで、トンネル多し。

                                     1880年代のようす。山間部の道。

                                     2010年代のようす。旧道は破線(右)か? 途中、不明。

とあるようです。

①はほとんど廃道同然になっているようです(昨年の台風の影響もまだ残っているか? )。②のルートは、『南総里見八犬伝』と里見氏ゆかりの地を訪ねる道筋で、先達の記録では、①の冒険談もありますが、②を歩く方が多いようです。

「房総往還 | 旧街道地図・高低図 - GPSCycling」 

「歴史的農業環境閲覧システム」

では③の海岸沿いの道(一部廃道)が表示されています。

真夏の歩き。ここは体調も考え、今回、「岩井―富浦」間はで移動(「浜金谷―保田」と同様に)することに。9日目、10日目と後半は、街道「歩き」ではなくなってしまいました

富浦駅に到着。国道との丁字路のところに、ビワのオブジェ。この地域一帯は、枇杷の産地として有名なようです。「国道127号(館山バイパス)」沿いにある道の駅の名称も、

「道の駅とみうら枇杷倶楽部」

 1993年に千葉県初の道の駅としてオープン。富浦町は枇杷の産地としても有名で、5月上旬~6月下旬にかけては、びわ狩りの体験もできます。また、びわを使ったオリジナル商品の販売なども行われています。

 2000年(平成12年)3月には全国道の駅グランプリで最優秀賞を受賞し、2004年(平成16年)11月にはびわワインを復活、2006年(平成18年)1月にはびわ葉茶工場を新設して新装開業。2015年(平成27年)度には全国モデル道の駅に選定されたそうです。

(この項、「」HP参照)

というわけで、お土産に。

沿道は新築のおうちが目立ちますが、裏手には昔らしいおうち。

旧道は、南に向かいます。

「岡本川」河口方向。右手は海です。  

左手のおうち。↓に注目。「紺屋歴史資料室」。万祝・武具・民具。

私設の資料館のようです。「海軍用地第三六五號」も収集品の一つ?

ここを訪れた方の記事がありますが、室内は万祝や神輿、軍関係など豊富な資料が所狭しと展示されているようです。

万祝(まいわい、正字体:萬祝)とは、漁師の晴れ着として作られてきた和服の一種。江戸時代から漁師の間で広まった民俗的衣装で、江戸時代の房総半島の漁村が発祥といわれる。その後、広く太平洋岸の漁村にも広まった。

起源は、大漁祝いの引き出物として船主や網元が漁師に配った祝い着であるとされ、長半纏を染め上げたものだったという。柄は、黒潮を表す藍色で文字を染め抜いた地味なものもあるが、多くは鶴亀・宝船・鯛など、縁起の良いものを多色染色で鮮やかに描いている。その鮮やかさは「漁民民芸の結晶」と呼ぶ者もいるほど。生地は、通常は木綿が使われるが、稀に絹が使われた事例も見られる。房総で万祝の技術を継承する染物屋は鴨川市などの2軒に減ったが、その染色技法は、大漁旗づくりや現代ファッションにも転用されているほか、各地に伝わって民芸品などに活かされている。

正月の参詣などで漁師仲間が打ち揃う時には、全員がこの衣装をまとって道を練り歩き、沿道の人々の目を引いたという。太平洋戦争前は、万祝を羽織った漁師が神前で宴会を開いていた。万祝の風習は太平洋岸の静岡県から三陸海岸北部の青森県内まで広く伝播した。最盛期は、江戸期を過ぎて明治から大正にはいってからであったとされる。これが廃れるのは、昭和30年代以降である。漁師への祝儀が実用的なジャンパーや家電製品に変わっていったなどが背景にある

(この項、「Wikipedia」より)

第18回 萬祝まいわい紺屋亦右エ門こうやまたえもん


網の中の鰹がすそ模様のめずらしい萬祝

 内房・富浦町の小林栄一さん(75歳)は、父親の代まで萬祝紺屋まいわいこうやを職としてきた。小林家は家業を継ぐと亦右エ門と改名する。8代前までの亦右エ門は分かっているそうだが、それ以前は、もらい火で寺の過去帳が消失し、さだかではない。紺屋は主に藍を使って反物などを染める仕事で、他に紅屋、茶屋とそれぞれ得意の色で分かれている。紺屋は、日本人のほとんどが着物を着ていた時代に繁盛し、着物がすたれるにつれて、止めたり、同じ布や水を扱うということでクリーニング業に転じた家も多い。小林さんの父親・亦右エ門は、明治の生まれで、西行さいぎょうと呼ばれる染色職人を10人ほどかかえていたが、終戦後は大型洗濯機(当時ワッシャと呼んだ)を2台入れて、クリーニング屋を始め、小林さんの代に至っている。

 萬祝は、大漁祝いなどで船主から乗子に贈った正月の引き出ものである。江戸中期から流行はやりだした漁師の丹前(綿わた入りの防寒着で、関東のどてらと似ている)で、藍染めに朱色などを使って、あざやかな絵柄が染め上げられている。鶴亀、恵比寿・大黒、波に魚や千鳥、三人囃(ばやし)など、船主は紺屋の型紙から図柄をえらんぶ。紺屋亦右エ門の萬祝は、人物をテーマにした図柄が多い。複雑で手間が多く、染でごまかしがきかないという。

 小林さんは以前、テレビの「なんでも鑑定団」に亦右エ門の萬祝を出したことがある。本人は5万、10万と評価額を付けていたら、“オープン・ザ・プライス60万円!”と出た。萬祝で網にかかったかつおの図柄は見たことがない、という理由から値付けが上がった。
 古いもの、珍しいものを、こよなく愛する小林さんは、50歳のころから骨董を集めだした。現在、家の近くに、私設博物館「紺屋歴史資料館」を開いてる。壁を飾る見事な萬祝をはじめ、兵隊人形、江戸の虫売りがかついだ駕籠かご、南総里見八犬伝本と八犬伝版画、日本一大きいくじらのペニス、代々の亦右エ門が使った藍瓶あいがめなどなど。

・・・

(この項、「 」HPより)

 

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内房線「浜金谷駅」~「岩井駅」~京急「久里浜駅」。その8。東京湾フェリーかなや丸。(「房総往還」をゆく。番外編。)

2020-08-14 20:48:56 | 房総往還

                     遠ざかる船。すれ違う船はほとんどありません。

のんびりと景色を眺める。

                

  三浦半島が次第に近づいてきます。

          

カモメが近づいてきます。

カップルが投げるお菓子に。

        

    

そうしているうちに「久里浜港」に。

 

接岸。ささやかな、でも久々の船旅も終了。そこからバスに乗って、京急久里浜駅まで。

久里浜は横須賀に近いだけあって、都会的な雰囲気。房総ののどかな田園風景とはまったく違う!

久里浜港の遠く向こうに房総半島が。

「房総往還」の旅も、次回で最終回となりそうです。館山まで歩くことに。しかし、コロナウィルス感染症の第二波蔓延で、はたしていつ行けるか?

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内房線「浜金谷駅」~「岩井駅」~京急「久里浜駅」。その7。東京湾フェリーかなや丸。(「房総往還」をゆく。番外編。)

2020-08-13 21:12:45 | 房総往還

                   東京湾フェリー「かなや丸」から。

出港直前に駆け込み乗船。何とか間に合ってホッと一息。「久里浜港」まで約40分の船旅です。初めての体験。

 

遠ざかる「浜金谷港」、房総の山々。

        

      

 

あまり乗客はいません。車なしで乗船する方もいるようです。

デッキは閑散としています。

 上空にカモメ。

北方向を望む。遠くに工場の煙突群。

        大型船と行き交う場面はなし。

    

カモメがついてきます。

上総湊方向。

もう一つのフェリーとすれ違う。「くりはま丸」。

進路が少し北寄りに。

東京湾も大海原という感じ。

南側を望む。この先は太平洋。

 

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内房線「浜金谷駅」~「岩井駅」~京急「久里浜駅」。その6。「大五郎」踏切。岩井民宿のまち。(「房総往還」をゆく。第9日目。)

2020-08-11 19:39:43 | 房総往還

                   左手に山里らしい風景が開けてきます。

「県道89号線」の高架下をくぐり、民家の脇を抜け、県道脇の細い道(旧道? )を進むと、内房線「大五郎」踏切。

               いわれは不明。人名? 付近の地名?

ここにも溜池。この付近、けっこうこうした池が点在。

「かついわトンネル」の脇に出ます。

その先、国道127号の斜め向こうに旧道が続いています。    

           来た道を振り返る。国道の向こう側。

岩井海岸方向を望む。 

すぐに国道に復帰。あとは岩井駅まで国道歩き。       

「館山から(まで)15㎞」ポスト(→)。     

「久枝海岸入口」表示。国道から海岸までは少し離れています。            

大きなマンションが左手に。「エスカール岩井」。

「岩井川」。

「岩井駅入口」。

正面が岩井駅。                  

岩井は民宿の街。大きな案内板にはたくさんの民宿名。

ホームからの風景。

            

                         2010年代のようす。海側に広がる街並み。

民宿の他にも、各区の臨海施設や学校の施設が点在しています。そういえば、小学校の時の臨海学校は、この岩井でした。

東京都北区立岩井学園

「ろくや」。(写真は「Googleマップ」より。)

弓なりに広がる白砂の岩井海岸。
夏の海水浴はもちろん磯釣りや、夕日ウォッチングなども楽しめるとても美しい海として
知られており、房総の漁師町特有の素朴な雰囲気が今なお息づいています。
海岸から200mほど街なかに歩いたところに、「網元の宿ろくや」がございます。

ろくやでは自前の船で地元の小浦港から毎朝定置網漁にでています。
自分たちの船で、自分たちの網でその日使う食材を厳選してお出ししているので
どこにも負けない新鮮な地魚がご提供できます。
季節によって獲れる魚は違いますが、房総はアワビ・伊勢海老・キンメダイやタカアシガニなど高級な食材から、ちょっとかわったものも獲れる、まさに魚介の宝庫です。

 

(この項、「」HPより)

 

それにしても、今日11日は、猛烈に暑い一日でした。

昼前から東京都心はもう猛暑日 ハイペースで気温上昇、熱中症に厳重警戒」とのアナウンス。

(歩いた日の「房総往還」は緑も多く、海風もあって、少しはしのぎやすかったのですが)。

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内房線「浜金谷駅」~「岩井駅」~京急「久里浜駅」。その5。旧道? 東京都勝山学園。(「房総往還」をゆく。第9日目。)

2020-08-10 19:42:53 | 房総往還

                      「第一房総街道踏切」。

短い旧道は国道127号に合流し、左折します。その先、先達によって旧道の道筋が異なっています。常に参考にさせて戴いている『歴史的農業環境閲覧システム』に掲載された旧道(房総往還)を歩くことにします。「下佐久間」交差点から国道を離れ、左に進みます(「県道184号線」)。

内房線の踏切名が「房総街道踏切」となっています。

           

国道127号をそのまま進むと、「館山まで17㎞」ポスト。

そこから少し戻って踏切を渡ります。

この付近の今昔。

1880年代のようす。直線道路のあと、山を避けて進みます。

2010年代のようす。赤い線が国道127号線、黄色い線が県道184号線。白銀で右折します。←が歩いた道。

まっすぐな道。

田園風景が広がります。

この先を右折。「下佐久間白銀」交差点。

「白銀」バス停。

左手の一画に「東京都勝山学園」。

海と山 豊かな自然環境に囲まれて

東京都勝山学園は、さまざまな事情から家庭での生活が困難な子どもを家庭に代わって養育し、健全な成長と自立を支援する、児童福祉法に基づく児童養護施設です。

園長あいさつ

勝山学園は、児童福祉法に定められた社会的養育機関です。当学園は、学園の養育理念に基づき、子供達と「共に生きる」施設を目指して、仕事の専門性を自覚し、最善の援助を実践します。

1976年4月に鋸南町に移転後、町内の皆様をはじめ、関係各位のご理解並びにご支援を得て施設を運営してまいりました。また、今年(令和元年)の台風被害に際しても、地元をはじめ多く方々にご心配、ご支援を頂きありがとうございました。

今後とも、鋸南町の素晴らしい環境の中で、子供達の成長を支援してまいりますので、引き続きご理解、ご支援をお願いいたします。

東京都勝山学園長 長島 建一

(この項、「」HPより)

学園を回り込むように進みます。園内からは子供達の声が聞こえてきます。

 

さまざまな事情を抱えた子供達に幸あれ! さらに職員の方々のご健闘を!

道は森の中に入っていきます。

林の中に祠。

左手には溜池が。

  

山道を抜けると小さな集落に。もとは藁葺き屋根?

来た道を振り返る。

 

                     1880年代のようす。溜池の脇を通り、森の中に。

 

                     2010年代のようす。飯之坂付近では、旧道は不明?

 

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内房線「浜金谷駅」~「岩井駅」~京急「久里浜駅」。その4。源頼朝上陸地の碑。「傾城島」。(「房総往還」をゆく。第9日目。)

2020-08-07 19:45:05 | 房総往還

                          「真珠島」。

国道から離れ、旧道ではありませんが、右の道に進みます。右手に小島。橋が架かっていますが、立入禁止の表示。個人所有の土地のようです。かっては橋を渡って島に行けたそうです。「真珠」という名のいわれは? 「Googleマップ」だと頂上に祠があるようですが。

磯釣りができそうな岩場。

「大六海水浴場」を右手に進むと、岬の突端に「源頼朝上陸地の碑」。

             

治承4年(1180)8月、伊豆で挙兵した源頼朝は、23日、平家方の大庭影親勢との石橋山の戦いに敗れ、真鶴より海路小舟で脱出し、安房国へ向かいました。『吾妻鏡』によれば「二十九日、武衛(頼朝)、(土肥)実平を相具し、扁舟( 小さな舟)に棹さし、安房国平北郡猟島に着かしめ給う。北条殿以下人々これを拝迎す」とあり、上陸地点の猟島が現在の鋸南町竜島とされています。ここで先着の北条時政、三浦義澄らと合流し、再起を図りました。当時房総には、下総の千葉常胤、上総を上総広常、安房の安西景益、丸信俊ら源氏恩顧の豪族が多く、また内房沿岸は対岸三浦半島の三浦氏の勢力範囲でもあり、頼朝が房総での再起を選んだ理由と考えられています。房総一の兵力を誇っていた上総広常のもとへ向かうべく、外房の長狭(鴨川市)へ進んだ頼朝一行は、9月3日、平家に味方する地元の豪族長狭常伴の襲撃を一戦場で撃破。ひとまず安西景益の館(南房総市池ノ内)へ入り、各地の豪族へ使者や書状を送り味方を募り、情勢を見極めます。その間、洲崎神社(館山市)、丸御厨(南房総市丸山)などへ足を運び、13日、安房を進発して兵力を加えつつ房総を北上、鎌倉へと入りました。東国の豪族たちを糾合し、平家を滅ぼし、鎌倉幕府という武家政権を樹立した源頼朝の再起の一歩はここから始まったのです。

1880年代のようす。旧道は内陸部を進む。

2010年代のようす。→に「頼朝上陸地の碑」。

四阿からの眺め。「浮島」(右)「傾城(けいじょう)島」(左)方向。

「鋸山」方向。釣り人がたくさん。「鋸山」山頂付近は、雲の中。

堤防から。対岸は霞んで見えず。

ひとり、たたずむ人。

「国道(房総往還)」に戻らずに、そのまま「勝山」海岸沿いに歩きます。

「佐久間川」河口。「傾城島」が間近に。

鳶が二羽、上空に。

 

「佐久間川」の橋を渡り、左折し、国道127号線に復帰。                

「武内医院」。倉庫を改造?

その先、左手に短い旧道。 

 

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内房線「浜金谷駅」~「岩井駅」~京急「久里浜駅」。その3。菱川師宣。見返り美人像。(「房総往還」をゆく。第9日目。)

2020-08-06 21:20:04 | 房総往還

             「保田駅」から再開。鈎型の道筋になっています。振り返る。

 

保田は、浮世絵師「菱川師宣」の誕生地。記念館はこの先に。

浮世絵の祖、「見返り美人」の作者として有名な菱川師宣は、寛永7年(1630)頃、縫箔刺繍(ぬいはくししゅう)を業(なりわい)とする吉左衛門の4番目の子、長男(7人兄弟)として、保田で生まれた。俗称は吉兵衛。晩年は剃髪して友竹と号した。生年は不詳だが、寛永中頃(1630年頃)と推定されている。幼い頃から絵を描くのが好きだった師宣は、刺繍の下絵を描くかたわら、漢画や狩野・土佐派の絵を独学で学び、絵師を志すようになった。

江戸に出た師宣は、当時広く出回っていた御伽草子や絵草紙の版本の挿絵師として名を高め、延宝~元禄初期(1673~1694)にかけて活躍。当時一部の人々の間でしか鑑賞できず、また高価だった絵画を、木版画により広く庶民に普及させた功績は高く評価される。また、庶民風俗を題材とした新しい絵画形式「浮世絵」を確立。師宣の江戸庶民を題材とした独自の美人画は、「菱川やうの吾妻俤(あづまおもかげ)」と詠まれるほど流行し、特に木版画に彩色を施し大量に複製する方式を用いたことから「浮世絵の祖」とよばれている。師宣の没後、浮世絵は技法的にも発達し、約1世紀後には多色摺りの錦絵へと発展した。

江戸で大成した師宣であるが、終生故郷房州を愛し、「房陽」「房国」の文字を落款(らっかん)に入れたり、息子の名に房を用い「師房(もろふさ)」と名付けるなど、故郷を常に愛していたようである。晩年には保田の別願院に梵鐘を寄進している。元禄7年(1694)6月4日江戸で亡くなり、遺骨は遺言により故郷保田の別願院へ葬られたと伝えられているが、その墓石は元禄16年(1703)の大津波で流され現在は残っていない。(「千葉県教育委員会」HPより)

左折し、右折します。  

 保田漁港の方へ進みます。「保田川」。

日差しが強い。

保田漁港。

漁協直営の「ばんや」。この先にお店があります。

お客様の「おいしかった。」その心のこもった一言を聞けるように、鮮度抜群の魚介類をふんだんに盛り込んだお料理を、漁協直営だから実現できるお得な価格でご提供しています。
天候・水揚げの状況および仕込状況により、当日のメニュー内容が変わりますので、ご来店時のメニューボードでご確認ください。

この項「」HPより)

    「館山から(まで)20㎞」ポスト。

「ラムネ温泉」!? 「ばんや」併設の温泉施設。

炭酸温泉とは・・・
お湯の中に炭酸ガスがとけ込んでいる温泉のこと。ヨーロッパでは「心臓の湯」とも呼ばれ、古くからその医学的効果が浸透しています。
炭酸を水に溶かしこむ特許技術で、天然温泉より炭酸が高濃度になって、更に効用・効果が高くなっています。

温泉の効能・効果
●皮膚から吸収された炭酸ガスが毛細血管を広げ、血行を促進します。
●身体がよく温まり保温効果も高く、冷え性でお悩みの方に最適。
●冷え症、リューマチ、動脈硬化等の改善にもつながります。
●肩こり・腰痛・筋肉痛などの緩和や疲労回復にも効果があります。
●美肌効果!入浴後「ツルツル」「サラサラ」滑らかな肌触り

その先に道の駅「きょなん」。

「南房エリア観光ガイド」。

見返り美人像。

「菱川師宣記念館」。

菱川師宣の信頼できる肉筆画の中で世にもっとも知られた作品であるが,一人立ち美人図である点では珍しい作例でもある。歩みの途中でふと足を止めて振り返った印象的な姿は,まさに「菱川様の吾妻俤」(ひしかわようのあずまおもかげ)(『虚栗』)と謳われたそのものであろう。

(この項、「」HPより)

道の駅で、小休止。けっこう暑くなってきます。再開。

  遠くに見える島は、「真珠島」。

「亀ヶ崎」バス停。

今年はどこも海水浴場は閉鎖。遠くに「鋸山」。

大型犬を海に入れて戯れる家族連れ。

他は人っ子一人いない海辺。大六海水浴場。

 

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