おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

船橋。けっこう深みのある街並み。垣間見ただけですが、・・・。

2017-09-13 20:53:51 | 歴史・痕跡
 船橋は京成からJRに乗り換える時くらいしか降りたことがありません。街を歩くことは今まで、皆無。
 ちょっと用事ができて、そこまでの道すがら、「船橋発祥」の「海老川」付近を。


                  

その昔、市内を流れる「海老川」は、現在より川幅が広く、水量も多かったため、橋を渡すのが困難だったそうです。そこで、川に小さな舟を数珠つなぎに並べて上に板を渡し、橋の代わりにしたことから「船橋」という名がつきました。伝説では日本武尊が東征の折、海老川に船を並べ、その上に板を渡し橋を造ったといいます。
 現在は陸地ですが、「夏見干潟」と呼ばれる大きな入り江があり、湊として栄えていました。船橋の海は江戸時代、将軍家に新鮮な魚を献上する「御菜ケ浦(おさいがうら)」と呼ばれ、漁師町は大きな力をもって発展してきました。現・本町2~3丁目一帯の旧漁師町には、舟溜りの「舟町(ふなまち)」、寺が多い「寺町」、納屋が置かれていた「納谷(なや)」等の地名がありました。 江戸時代には、海老川を挟んで東側では5の日、西側では9の日に市が開かれたことから、それぞれ、五日市村(現宮本)、九日市村(現本町・湊町)と呼ばれていました。この二つに海神村(わたつみむら・現在はかいじんと読む)を加えたところを総称して、船橋村とか、船橋宿と言われていました。
 「海神」という地名の起こりは、日本武尊がこの地に上陸して入日(いりび)神社に神鏡を祀り、海の神として崇めたことにちなんでいます。
 「船橋大神宮」の北側の坂「宮坂」は東金街道の起点ですが、明治元年の戊辰戦争では激戦地となりました。

 江戸時代には房総往還東金御成街道佐倉街道などの主要街道沿いの地域は宿場町として栄えました。今でもそうした関連の古い商家や史跡が残っています。

房総往還
 船橋大神宮下で成田街道と分かれ、江戸湾東岸(内房総)に沿って房総半島の南端館山に至る房総半島の主要街道で、房総諸藩の参勤交代路であり、また近世では外国船に対する江戸内湾の警護のために重要な役割を果たしてきた。「上総道」とも呼ばれた。


東金御成街道
 九十九里方面での鷹狩のために徳川家康が土井利勝に命じて、慶長19年正月から数ヶ月間かけて元和元年11月に完成した道路。船橋~東金間約37キロメートルをほぼ一直線に結んでいた。


佐倉街道
 江戸時代の脇街道の一つで、佐倉城を終点とするもの。大別して2つのものが存在するが、ここでは、水戸街道・新宿の追分~佐倉を結ぶ「水戸佐倉道」をさす。この街道を経由して成田山新勝寺へ向かう成田参詣が隆盛するに従い、文化年間頃より「成田道」「成田街道」という愛称で呼ばれるようになった。


千葉県内の古街道一覧。この「佐倉(街)道」は千葉から。

 
 
               (「歴史的農業環境閲覧システム」より)
→が海老川に架かる「船橋」。船橋湊(港)方面の発展のようすが分かります。右の駅は京成線「大神宮下」駅。下は「京葉道路」



「明治天皇行在所跡」碑。
 明治天皇の最初のご来県は、明治6年(1873)4月29日から5月1日までで、近衛兵の演習をご覧になるために大和田原へお出ましのときです。
 この第1日目に昼食をとられたのが、当時船橋町九日市の旅館業桜屋、山口丈吉宅(現在の千葉銀行船橋支店の位置)です。この後も山口宅をしばしばご利用になり、通算して宿泊10回、昼食5回、小休憩2回におよび、千葉県では最も多く立ち寄られた場所でした。

 道路の左右に古い商家が二軒。
「廣瀬直船堂」。和菓子屋さん。
 大正7年に建造された木造二階建切妻造瓦葺で、軒を張り出した出桁造の建物。耐火中高層建築物化が進んでいる中で、宿場町であった船橋の面影を今もなお残している建造物。「今回指定されたことによって、お店を守って頂ける、また宣伝効果にもなりお客様の層が増えうれしい」と廣瀬太一さん。「戦争で車や食料等を軍に全て持っていかれ、原材料がない状態で再スタートしたため、お金がなく建替えができませんでした。しかし、このままのほうが廣瀬直船堂を見て懐かしいと思っていただけたり、前に船橋に住んでいた方が来店した時に昔話をしていただいたりしてうれしい」とも。
 本町通り沿いの家屋は、昭和30年代後半から耐火中高層建築物化が進んだが、廣瀬直船堂は建て替えをせずに建築当時の姿を今に伝えている。

                           

向かい側にある「森田呉服店」。
 創業140年。太宰治が暮らした街、船橋の和装専門店です。リニューアルしてモダンな雰囲気を増した店内には、着物・生地・手拭・和装小物まで豊富に取り揃えております。特に梨園染の江戸手拭は300柄以上の品揃え。
                           

《補足》太宰治と船橋
 昭和の日本を代表する小説家、太宰治。青森県北津軽郡金木村(現:五所川原市)に生まれ、『富嶽百景』『走れメロス』『津軽』『斜陽』『人間失格』など数々の名作を残すも、昭和23年に北多摩郡三鷹町(現:三鷹市)の玉川上水に入水し、39歳で早世しました。
・・・
 大地主の家に生まれながら、故郷の津軽を離れ、東京近辺で住まいを転々とし、短い一生を駆け抜けた太宰。
そんな彼が、自身の回想記『十五年間(昭和21年)』の中で、「最も愛着が深かった」と述べているまちが、船橋です。
 盲腸炎をこじらせ腹膜炎を起こし、鎮痛剤パビナールによる中毒にもなってしまった太宰が、療養のために東京杉並から船橋へ転居したのは、昭和10年7月1日、26歳のときでした。太宰はここで内縁の妻であった“初代(はつよ)”とともに、1年3カ月の時を過ごしました。
 短い滞在期間でしたが、太宰はここで濃密な時間を過ごし、ゆかりの場所が現在に伝えられています。
太宰ファン必見の場所の数々をご紹介します。

 太宰の旧居は千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿一九二八番地にあった新築の借家でした。現在の住所では「船橋市宮本1丁目」。船橋駅から歩いて10分もかからない位置です。
 現在、旧居跡には別の住宅が建っています。船橋駅前の喧騒を知る人からは意外に映るほど閑静な、細い路地の入り組んだ住宅街。車通りはほとんどありません。
近くには、海老川が今も静かに流れています。

 太宰は船橋の家に住み始めてほどなく、近所に住む人から“夾竹桃”をもらい、庭に植えたそうです。故郷の津軽では珍しかった夾竹桃。後日、自宅を引き払うときも、この夾竹桃への愛着を口にし、涙したといいます。
『めくら草紙』(昭和11年)より
《私がこの土地に移り住んだのは昭和十年の七月一日である。八月の中ごろ、私はお隣の庭の、三本の夾竹桃にふらふら心をひかれた。欲しいと思つた。私は家人に言ひつけて、どれでもいいから一本、ゆづつて下さるよう、お隣へたのみに行かせた。》
 太宰がお隣から譲り受けて自宅の庭に植えたとされる夾竹桃は、昭和58年に中央公民館前の広場に移植され、現在でもその姿を見ることができます。また、近くには文学碑が建立されています。

 太宰は船橋で、『ダス・ゲマイネ』『地球図』『めくら草紙』『虚構の春』『狂言の神』などの作品を執筆したほか、最初の短編集『晩年』を発表しています。
これらの実績だけ見ると、さぞかし充実した創作活動をしていたのでは……と受け取れますが、実際には苦難の連続でした。
 太宰が船橋に住み始めた翌月の昭和10年8月、第1回芥川賞の発表がありました。太宰は候補に残ったものの、落選(受賞作は石川達三「蒼氓」)。文壇に認められたいという思い、借金だらけの生活を好転させなければという焦り……太宰は強く受賞を望んでいただけに、その落胆は大きかったことでしょう。選考委員だった川端康成に対し、怒りを露わにした文章を発表したことは有名です。また、同じく選考委員であった佐藤春夫に対しては、第2回の受賞を懇願する書簡を送っています。
 そんな願いもむなしく、第2回芥川賞の選考結果は「受賞者なし」。今でこそ抜群の知名度を誇る人気作家の太宰ですが、最後まで、芥川賞を受賞する夢が叶うことはありませんでした。

 船橋に滞在して約1年が経過した昭和11年6月、太宰は最初の短編集『晩年』を砂子屋書房から刊行します。太宰にとって初めての単行本でありながら、『晩年』というタイトル。若くして、死を強く意識していた太宰ならではといえます。鎮痛剤中毒からの療養のため船橋に引っ越してきたはずが、症状は改善せず、健康状態は不良でした。
 鎮痛剤パビナールによる中毒が深まる太宰を救おうと、家族や知人は入院を勧めます。昭和11年10月13日、井伏鱒二の説得により、太宰は東京板橋の武蔵野病院に入院し、船橋の家を引き払いました。病に打ち克つことができず、流行作家にもなれなかった船橋時代。それでも太宰は、のちの作品でこのように述べています。

『十五年間』(昭和21年)より
《私には千葉船橋町の家が最も愛着が深かった》
《どうしてもその家から引き上げなければならなくなつた日に、私は、たのむ! もう一晩この家に寝かせて下さい、玄関の夾竹桃も僕が植ゑたのだ、庭の青桐も僕が植ゑたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れてゐない》

 太宰がなぜ、船橋のことを「最も愛着が深かった」と述べたのか、今となっては知る由もありません。太宰が船橋を去ってから、約80年もの月日が経っています。
 ただ、今も船橋には太宰ゆかりの場所や、太宰が暮らした昭和初期の雰囲気を感じられる場所が多く残っています。
 長い時間の隔たりはあるけれど、同じ場所に立って、歩いてみると……太宰が暮らした1年3カ月が、おぼろげながら見えてくるかもしれません。

 (以上HPより)


これも立派な「島村写真館」。
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小樽運河。倉庫群。「カモメ呼ぶ小女」像。運河公園。・・・(小樽。その1。)

2015-05-09 22:00:55 | 歴史・痕跡
  
 4月29日、札幌まで出かけ、翌日は小樽へ行きました。札幌での所用、日帰りでもよかったのですが、ホテル朝食付きで往復の航空券を含めて、3万1千円(ANA)、それにしようということで(最近は、こういう行き方が多くなりました)。
 泊まったホテルは、「リッチモンドホテル札幌駅前」。この前、帯広に行ったとき、朝食のサービスなど、利用したときの印象がよかったので、今回も。
 行きの飛行機は満席、帰りはがら空きでした。
 29日の夜は、地元の方何人かとと飲食をし、談論風発、気がついたらホテルのベッドというありさまでした。
 さて、翌日は午後の便をとっていたので、札幌からJRで小樽まで出かけました。特にお目当てがあるわけではなく、小樽運河あたりでも、くらいの観光客気分で。インターネットで入手した「情緒あふれる『北運河』コース」を片手に。
 ところが、駅前から運河に向かって行くと、何と「鉄道線路」が。「手宮線」。現在は廃線となっているそうです。

        

 運河見物もそこそこに「小樽市総合博物館」へ。そこから廃線をたどって「南小樽駅」方向へ歩きました。思いがけない収穫。そのレポートです。
 今回は、小樽の近代史に敬意を表して、観光客であふれる(それも外国人観光客で)運河周辺を見物したところから。そういえば、札幌からの車内は、中国人、韓国人、その他、外国人がたくさん乗っていました。

    

旧安田銀行小樽支店 建築年:昭和5年(1930)年 構造:鉄筋コンクリート造

 ・・・ギリシャの建築様式をもった昭和初期の典型的な銀行建築で重厚さあふれる円柱が特徴です。・・・

             

 この円柱様式は、都内でも関東大震災後に建てられた鉄筋コンクリートの復興校舎などにも特徴的に取り入れられています。また、半円形の窓などもよく似ています。都内にあったこうした建物も新改築でほとんど姿を消してしまいました。

  
                             「運河プラザ」。

 北海道で最も古い営業用倉庫である「小樽倉庫」を利用した物産プラザ。隣には「小樽市総合博物館 運河館」があります。入口右手前にある犬の銅像は、「消防犬ぶん公」。

    
    中庭。                                   外観。

 屋根には若狭(福井県)産の瓦とシャチホコが上げられている。シャチホコは、高さ1.5メートル、重量120キログラムの銀瓦製で、かなり目立つ逸品です。
 また中庭の日の字型に配された倉庫は左右対称で、現存する木骨石造倉庫群の代表格とされ、歴史的建造物に指定されています。

「小樽運河・中央橋」。

案内図。昭和初期の写真が載せられています。

運河沿いの倉庫。     

                                 

運河の西側・左手の遊歩道には大勢の観光客がそぞろ歩き。似顔書きや写真販売など露店がずらり。
    
  小型の観光船ものんびり就航中。

歩道に沿った道路側には小樽の歴史や文化に関するモニュメントがずらり。
           
                                  「力じまんの仲仕」。

小樽に因んだ歌謡曲も。
 
    
 「おれの小樽(唄:石原裕次郎)」。                   「小樽のひとよ(唄:鶴岡雅義と東京ロマンチカ)」。  

    
 「小樽と日本海航路」。                           「商業の町 小樽」。 
  
    
                                「開拓で伸びた鉄道」。

観光船は、港の方へ。

「旧大家倉庫」。

    
       「北海製罐(株)小樽工場」。小林多喜二の『工場細胞』のモデルとなった工場。

「北浜橋」。

               
                「カモメ呼ぶ小女」像。

運河に係累されている船。

    

 「旧渋沢倉庫」。明治28年から大正までに建築され、増築により三つの屋根が組み合った珍しい形をした倉庫。現在は、ライブハウス「GOLD STONE」や喫茶店「PRESS CAFE]が入っています。

    
                    「運河公園」。正面中央奥に見えるのが「旧日本郵船(株)小樽支店」。



 日本郵船 船入澗跡

 船入澗(ふないりま)は、大型船が接岸できるふ頭がつくられる以前、港湾荷役の中心だった艀(はしけ)による貨物の積み降ろし場所でした。
 日本郵船船入澗は、明治20年代に海岸の埋め立てと合わせてこの場所に整備されたもので、支店事務所と周囲の石造倉庫群が一体化した光景の中、貨物を満載した艀が活発に出入りする姿が見られました。
 この公園の池は、当時の船入澗を4分の1の面積で再現したものですが、実際の船入澗のあった位置には、四隅に青銅板を配置しそれらを黒御影石で結んでおります。。

 「運河公園」には、童謡「赤い靴」のモデルとなった親子の像がある、とのことですが見ませんでした。公園の西側にある「旧日本郵船(株)小樽支店」へ。

        

                        
重要文化財  旧日本郵船株式会社小樽支店

 この建物は、明治39年日本郵船株式会社が小樽支店として新築したものです。設計は工部大学校出身の佐立七次郎工学博士で、当時としては最も新しい石造洋風建築です。新築後間もなく、日露戦争の講和条約による樺太の国境画定会議が小樽で開かれることになり、この建物の2階会議室において両国代表による会議が開かれ、隣の貴賓室で祝杯が交わされました。昭和30年、市がこの建物をゆずり受け、小樽市博物館として使用していましたが、昭和59年から62年にかけて保存修理工事を実施し、営業室、会議室、貴賓室などを往時の姿に復元しました。

                                 小樽市

    

 旧日本郵船(株)小樽支店残荷倉庫

 旧日本郵船(株)小樽支店(国指定重要文化財)と同時にこの残荷倉庫も建設されました。工部大学校第一期卒業の佐立七次郎の設計による一連の建築として貴重なものです。マンサード屋根の小屋組、壁の石積みの仕様などは支店社屋と共通しています。・・・

                                小樽市
注:「マンサード屋根(マンサードやね)」とは、17世紀のフランスの建築家フランソワ・マンサールが考案したとされる屋根で、寄棟屋根の、外側の4方向に向けて2段階に勾配がきつくなる外側四面寄棟二段勾配屋根である。天井高を大きくとったり、屋根裏部屋を設置したりするのに適している。マンサード様式などとも呼称される。                     
 (「Wikipedia」より)            
 
そこから東にある「運河公園」を望む。
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桜島。ボンタンアメ。かるかん。薩摩揚げ。・・・鹿児島あれこれ。(鹿児島。その8。)

2014-06-24 22:49:52 | 歴史・痕跡
 
 鹿児島あれこれ。

①桜島
 鹿児島・一泊二日のあわただしい旅。桜島はほとんど、見えず。街を歩くとこんなコーナーが随所に。

 少し前にかなり降灰があったようで、このように積み上げられていました。

②「鹿児島県里程元標」
 道路元標は、道路の路線の起点や終点、経過地を表示するための標識のことで、大正9年に設置された。明治期に設置されたものについては、里程元標と呼ばれている。


 正面に「鹿児島縣里程元標 鹿児島縣」裏面には「明治三十五年十月」と記されている。

 

③共研公園・鹿児島女子興業学校(現鹿児島女子高等学校)跡地
 昭和20年6月17日鹿児島を襲った大空襲で、鹿児島女子興業学校は焼失、寮生10名が犠牲になった。

慰霊碑。「雪に耐えて桜花麗し」。

門柱。

石畳の一部。


 博物館や美術館、まだまだ見所たくさんの市内中心部。さらに「桜島」「垂水」「鹿屋」・・・、自然はもとより、産業遺跡、戦争遺跡や鉄道遺跡など、今度はじっくりと見て回りたいものです。

 おしまいに、お土産シリーズで。

①「ボンタンアメ」
 鹿児島県鹿児島市にあるセイカ食品株式会社が製造・販売する飴菓子。
 キャラメルよりも柔らかく、甘さの奥にほんのりと香るボンタンの風味が特徴的。ボンタン飴・文旦飴とも表記。
 餅に水飴を練り込みボンタンの果汁(鹿児島・阿久根産のボンタンを使用)を添加した飴で、包み紙のオブラートごと食べられる。ただ、歯の裏や上あごにくっついてけっこうやっかいな代物(個人的には)。
 原材料はもち米で、佐賀・熊本産の「ひよくもち」を使用している。販売以来、九州全県を中心に日本全国の駄菓子屋、小売店、食品スーパー、コンビニ、キヨスクなどで売られている。
 いろいろな味の6箱入り(サツマイモ味、抹茶風味、ミルク味・・・)のもの。その一つがこれ。
口の中にほんのりショウガの香りが漂う。

 帰京後、知人にその一箱をあげたら、母親が大好きで、子供の頃、電車で出かけると、必ず駅のホームで買ってはよく食べさせられた、と懐かしそうでした。

②「かるかん」
 これもお土産に買ってきたが、日持ちがしないようなので、写真を撮るまもなく家族で食べてしまった。写真は「Wikipedia」から拝借。

 軽羹(かるかん)は、鹿児島県をはじめとする九州特産の和菓子。餡を包んだ「かるかんまんじゅう」が一般的。
 原料は、米粉、砂糖、山芋。これらの原料に水を加えて蒸し、弾力性のある白色のスポンジ様に仕上げたもの。
 薩摩藩で軽羹が成立した要因としては、原料の山芋が藩内のシラス台地で自生し、琉球や奄美群島で生産される砂糖も入手しやすかったことなどが挙げられる。
 一方で近世の砂糖は高級品であり、天明6年(1786年)に菓子類の値下げが発令された頃には、軽羹1箱は日本酒1斗と同程度の価格だった。
 島津斉彬が江戸から招聘した明石出身の菓子職人八島六兵衛によって安政元年(1854年)に軽羹が考案されたという説が一般的だったが、それ以前、貞享3年(1686年)から正徳5年(1715年)ごろにすでに薩摩藩で誕生したとみられる。
 八島六兵衛が出身地を店名として創業したのが、現在も続く菓子舗の明石屋である。
 今では、鹿児島県内だけでなく、宮崎や大分、さらに福岡の菓子舗でも製造販売されている。(以上「同」参照)

 この他に、鹿児島名産、土産品と言えば、「薩摩焼酎」に「薩摩揚げ」ですね。

③「薩摩揚げ」

 さつま揚げは、今から約140年前の弘化3年(1864年頃)、島津藩主斉彬公の時代に琉球を統治するようになり、中国福建省文化の流れを組む琉球文化との交流が盛んになりました。
 その為、食生活も影響を受け、ことに中国料理特有の脂っこい物が多く、その中に魚肉のすり身を澱粉と混ぜて油で揚げた「チキアギ」なるものがありました。それがなまって「ツケアゲ」になったと言われています。
 この「つけあげ」が串木野を中心に鹿児島県内で多く製造されるようになり、関東では「さつまあげ」、関西では「てんぷら」と呼ばれています。
HPより)

 魚肉のすり身に塩・砂糖などで味付けし、形を整えて油で揚げたもの。丸形・角形など形は様々である。ゴボウ、イカ、ゆで卵などの素材を包み込んだものもある。
 地元で多く取れる魚を材料とする事が多く、イワシ・サメ・カツオ・サバ・ホッケなど多様だが、ほとんどの場合2種以上の魚を混ぜて使う。魚のすり身のみで作られた物のほか、キクラゲ、紅しょうが、玉ねぎ、ネギなどの野菜を入れた物、じゃこ、イカ、タコ、エビなどの魚介類を入れた物、薬味を加えたものなどもある。
 そのまま、あるいは軽く焼いてショウガ醤油やからし醤油などを付けて食べる。おでん種、うどんの具、皿うどんの具、煮物の材料にも用いられる。
 その一つ。近所で買ってくる薩摩揚げよりも、いくぶん甘みが強いか。



 ところで、前日の夕飯は「豚とろ 鹿児島中央駅前店」の鹿児島ラーメン。まさにとろとろの叉焼、スープだか具だかわからないほど。少し味は濃いようで、って当然ですよね。それでも、「豚骨系」はけっこう年寄りの割には大好きで、今回もよかった!



 翌日の昼。午後発の鹿児島空港へのリムジンバスを待つ間、ビル地下の食堂街へ。


 蕎麦と揚げたての天ぷら。値段も手頃でおいしかった! 威勢のいい店員の包丁さばきを見ながらの食事。


 群馬の「富岡製糸場」が世界遺産(文化)に登録されました。来年は、官営八幡製鉄所(北九州市)などを含む「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」が世界文化遺産登録を目指すそうです。
 残念ながらまだ行きそびれている遺産ばかりですが。

 以上、鹿児島シリーズはおしまいです、
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山形屋。いづろ通り。天文館通り。(鹿児島。その7。)

2014-06-23 21:51:48 | 歴史・痕跡

 南日本銀行から少し行くと、「山形屋」。ひときわ目立つ装いのデパート。読みは、「やまがたや」ではなくて「やまかたや」。

 「山形屋」の始祖・初代源衛門は江戸中期元文3年(1738年)に出羽国山形に生まれる。宝暦元年(1751年)当時山形の経済を支えていた紅花仲買と呉服太物行商を興し、大阪・京都へ立ち回り、八面六臂の大活躍をしていた。源衛門が薩摩入りを決断したのは、薩摩藩主・島津重豪の商人誘致政策を機として薩摩入りをし、木屋町通り(のちの金生町)に店を構えた。呉服太物店を構え、山形屋と称する。

《沿革》
1916年(大正5年)ルネッサンス式鉄骨鉄筋コンクリート(地下1階~地上4階)の新店舗落成。
大正期:

1932年(昭和7年)新館(地下1階~地上7階、売場面積延べ10,403㎡)落成。
1945年(昭和20年)本社、空襲により被災。
1957年(昭和32年) 1階~4階 エスカレーター運転開始。
1963年(昭和38年) 新旧両本館4,971㎡の増築と内部、外装とも一新、新装工事完成。売場面積16,229㎡となる。
昭和期:

1972年(昭和47年) 全館増築完成・新装オープン。(売場面積22,292㎡となる)
1998年(平成10年) 山形屋1号館外壁工事竣工。ルネッサンス調のデザインに一新。
平成期:

(以上、「山形屋」HPより)

 山形屋の創業は1751年(宝暦元年)、デパートメントストア化は明治時代中頃、近代的なデパート建築(清水組による施工)となったのは大正時代初期と古く、地方百貨店の先駆け的存在であり、神戸以西におけるデパート第1号である。
 商業面積は約33,000㎡、年間売上高は約500億円にも上り、地方百貨店としてはトップクラスの収益力を誇っている。
 1号館1階には山形屋バスセンター(鹿児島交通・三州自動車のバスターミナル)を併設し、鹿児島市内及び薩摩半島中南部を中心とした広域エリアから集客している。
 かつては、島津氏の勢力圏そのままに、熊本県人吉市や沖縄県那覇市(沖縄山形屋)にもグループ百貨店が存在した。
 現在、山形屋グループは、南九州地域(鹿児島・宮崎両県)において、上記のグループ百貨店をはじめ、スーパー部門子会社の山形屋ストア、山形屋ショッピングプラザなどの企業を展開している。
 電車通りに面した1号館は1999年に昭和初期のルネサンス調の外観に復元され、夜間には美しくライトアップされる。建物内部も曲線をもつ柱や梁などが復元されており、1号館1階は高い天井とシャンデリア、柱には大理石の化粧貼りが施されている。
 今では珍しくなった大食堂が健在である。山形屋子会社のベルグ(旧山形屋食堂)が1943年(昭和18年)7月に運営を開始し、1972年(昭和47年)から現在の7階で営業している。他の百貨店では複数の専門店から構成されるレストラン街に移行したところが多いが、山形屋では大食堂が盛況を維持し、視察に来た他店の関係者が驚くという。
 名物は1958年(昭和33年)から出している「焼きそば」で、揚げ麺に野菜たっぷりのあんかけをかけたものである。安価に設定されているものの、年間13万食が提供され、このメニューだけで大食堂の売り上げの半分を占める。屋上には遊園地もある。また、無料給茶機や個別空調を完備した休憩室も設けられている。
 店内放送のチャイム(山形屋グループ百貨店共通)として「アルプスの牧場」が使用されているが、これは国鉄の20系客車で使用されていたものと同じである。
 地域における商品力、ブランド力は昔から格段に強く、鹿児島市の中心繁華街である天文館地区においてガリバー的存在として君臨している。そのため、鹿児島市の商圏規模を考えれば共存できるはずの丸屋デパート(後の鹿児島三越・三越鹿児島店、現在のマルヤガーデンズ)や高島屋デパート(現在のTAKAPLA(当初は高島屋プラザ)で大阪に本社を置く同名の百貨店とは無関係)といった競合店は苦戦を強いられてきた。
 地元には山形屋を脅かす競合店が存在せず、また北部九州地域との交流も限定的であったため、文字通り「一人勝ち」の状況が続いてきた。
 しかし、新幹線や高速道路などの高速交通網の整備や、大規模小売店舗立地法の施行に伴う郊外大型商業施設の増加などの影響もあり、近年売上高は減少傾向にある。
 鹿児島中央駅ビルアミュプラザ鹿児島のオープンや、イオン鹿児島ショッピングセンター(現・イオンモール鹿児島)など郊外大型商業施設の相次ぐオープンに対抗するため、「We Love 天文館協議会」への参画や各種イベントの開催などにより、天文館地区における協力調和と地域活性化を図る姿勢を明確にしている。
(以上、「Wikipedia」より)

 まさに、「地元の雄」というような存在です。

尖塔が特徴的。大正期の建物にはあったが、戦災、復興期などを経て取り除かれた。それを平成になって復活させた。建物全体の印象として復古調の味のある建物。存在感がある。建物の内部もすばらしい、とのこと。





 いづろ通りから天文館通りに向かいました。

いづろの歴史~石灯籠(いづろ)通りの由来(「いづろ @ 天文館商店街ホームページ」より)

 石灯籠通りは天文館の松山通りから石灯籠交差点を通り、海岸まで突き抜ける通りである。藩政時代には、突きあたりの港の岸壁に石灯籠が一基立っており、錦江湾を航行する船の灯台の役目を果たしていた。これが石灯籠通りの由来といわれる。
石灯籠通りは現在はその面影はほとんど残っていないが幕末から明治、大正にかけて鹿児島城下で最も繁栄した通りでした。
 明治中期、石灯籠通りは新道松山通り共に、鹿児島市の有力店舗が集まり、鹿児島市の二大商店街を形成していた。
石灯籠通りは、大通りの繁華街で、明治屋呉服店など大店舗が多かった。このころ明治屋呉服店は座売りで山形屋より明治屋という気分であったようだ。
 また大正時代はじいさん、ばあさんたちの若いころは、人前で恥をかくことを、『こともあろうに、石灯籠通りで滑って転んだようだ』と言っていたらしい。石灯籠通りの海岸側は現在と比較にならない程、にぎやかな通りであった。
石灯籠通りが鹿児島で第一の殷賑を極めているのは呉服屋が多いからであると言われていた。

海岸に向かう通り「いづろ通り」昔賑わっていた頃の面影はない。

「電車通り」から「天文館通り」が繁華街の中心。

鹿児島名物の「ボンタンアメ」と軽羹などを製造販売している「薩摩蒸気屋」のお店と広告。市電もけっこう行き来している。


芝生を敷き詰めた軌道。

かつての市電のレリーフ。

アーケードの商店街が通りをはさんで続く。

  

 その商店街のはずれ近くに「天文館跡」のモニュメントがあります。
 

「天文館跡」碑。

説明文
 島津家25代重豪が、天文観測や研究のため、1779年にここに明時館を建て、藩内の暦はすべてこの明時館から配布し、薩摩暦とか鹿児島暦といわれました。
 明時館は別名天文館とも呼ばれ、現在の繁華街天文館の名は、ここから由来しています。この付近は当時、石垣をめぐらした武家屋敷や迎賓館にあたる御着屋、花岡屋敷などがありました。

碑文「天文館通りの由来」
 ここは安永8年(1779年)島津重豪のころ天文観測や研究をし、又薩摩暦などを造った明時館の跡であります。それでこの通りは天文館通りとよばれるようになりました。
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新波止石造護岸。遮断防波堤。砲台跡。イルカの遊泳。かごしま水族館。(鹿児島。その6。)

2014-06-22 20:10:57 | 歴史・痕跡

 市役所前の芝生公園を港の方へ向かっていくと、「かごしま水族館」。ここには興味深い遺構があります。
水族館案内。今回は、水族館見学ではなくて、・・・。

 
 かつてのようすとその後の港湾設備の整備の説明板。

新波止石造護岸。
 「かごしま水族館」敷地内にあり、かつては鹿児島港の防波堤として機能していた港湾土木遺構。元々は湾内にあった突堤。現在は、海側が埋め立てられ、水族館の敷地となっているが、遺構として保存されている。ここは、薩英戦争の時、薩摩藩の砲台が置かれたところ。

弘化3年(1846年)頃に築造された石造の防波堤。文久3年(1863年)の薩英戦争においては砲台11門を備え、主力砲台として英国艦隊と砲撃戦を行った。

薩英戦争

 文久3年7月2日(1863年8月15日) - 7月4日(8月17日)
 前年の文久2年に発生した、横浜港付近の武蔵国橘樹郡生麦村で薩摩藩の行列を乱したとされ、イギリス人4名のうち3名を薩摩藩士殺傷するという「生麦事件」の解決を迫るイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)と薩摩藩の間で戦われた鹿児島湾における戦闘。
 鹿児島では「まえんはまいっさ」(前の浜戦)と呼ばれる(城下町付近の海浜が前の浜と呼ばれていた)。薩英戦争後の交渉が、英国が薩摩藩に接近する契機となった。

 
砲台跡。

案内板。

「砲台跡」碑。対岸から望む。この運河ではイルカが遊泳している。正面に水族館との出入り水路。時折、イルカの姿が見える。

薩英戦争の絵図。

防波堤の船着き場。

明治天皇行幸記念碑。
 明治5年(1872年)、明治天皇が全国で初めて行幸したのが鹿児島。上陸に利用した新波止場にある記念碑。

向かい側は、桜島とを行き来する船の桟橋。

遮断防波堤。一丁台場と新波止護岸とを結ぶ防波堤。

正面奥が「一丁台場」。遠くには桜島。

 ところで、イルカの遊泳はなかなかうまく撮れません。
海面に飛び上がった瞬間、でも写ったのは、波紋だけ。
うーん!
遠すぎて!

 
足下には桜島からの火山灰が一面に。

鹿児島観光全図。


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南日本銀行。日本瓦斯。鹿児島中央高校。(鹿児島。その5。)

2014-06-21 23:56:27 | 歴史・痕跡

南日本銀行本店(旧鹿児島無尽鹿児島支店)。昭和12年(1937)建造。鉄筋コンクリート造/4階建(一部6階建)。国登録有形文化財。朝日通り交差点。

 下層部と上層部とが違和感のあるような造り。上の部分と下の部分とのバランスによって微妙な遠近感を生んでいるような印象。


日本瓦斯本社(日本水雷本社)昭和6年(1931)建造。鉄筋コンクリート造/3階建。日本ガス株式会社(日本瓦斯株式会社)は、鹿児島市をエリアとする都市ガス事業者。鹿児島中央駅に近く「ナポリ通り」沿い。

注「ナポリ通り」=鹿児島市とイタリアのナポリ市が姉妹都市になったことを記念して命名された通り。「鹿児島中央駅」から東方向に延びる大きな通り。なお、ナポリ市には「鹿児島通り」と命名された通りがあるらしい。

それほど大きな建物ではないが、縦柱線(ゴチック建築、尖塔のようなイメージ)を強調し、インパクトのある建物。

  


県立鹿児島中央高等学校(旧県立第一高等女学校)。昭和10年(1935)建造。鉄筋コンクリート造/3階建。設計:岩下松雄。
 玄関部分の円形がユニーク。玄関上部分の連続したアーチ窓、4階部分の真円状の造形などに特徴がある。
市内にある「鹿児島甲南高校」、「県立博物館」などにも同じような特徴があるそうだ。

上層階に特色を持つ。

正面玄関脇のライン。 

 少し前の時期に建てられた、東京都内の関東大震災復興校舎にも同じような意匠が感じられる。当時のモダン建築が鹿児島にも登場していた。
《参考》

① 旧東京都中央区立十思小学校
 ◎設計:東京市 ◎施工:鴻池組 ◎竣工:昭和3(1928)年12月30日 ◎構造:鉄筋コンクリート造り3階建。
❖東京都選定歴史的建造物



②旧台東区立小島小学校


 他にもまだまだ貴重な建造物があります。残念ながら見に行けませんでしたが。

・鹿児島県立博物館考古資料館(興業館)
鹿児島市城山町1-1 明治16年(1882)
石造/2階建
国登録有形文化財

・旧鹿児島刑務所正門
鹿児島市永吉町13-9 明治41年(1908)
石造門柱
国登録有形文化財
 
・鹿児島銀行別館(第百四十七銀行本店)
鹿児島市金生町6-6 大正7年(1918)
鉄筋コンクリート造/2階建
国登録有形文化財

・鹿児島工業高等学校大煙突
鹿児島市草牟田二丁目57-1 大正9年(1920)
煉瓦造煙突
国登録有形文化財

・岩崎邸
鹿児島市春日町 大正期
鉄筋コンクリート造/4階建
国登録有形文化財

・鹿児島県立博物館(鹿児島県立図書館)
鹿児島市城山町1-1 昭和2年(1927)
鉄筋コンクリート造/3階建

・県立鹿児島甲南高等学校(第二鹿児島中学校)
鹿児島市上之園町23-1 昭和5年(1930)
鉄筋コンクリート造/3階建

・鹿児島県教育会館
鹿児島市山下町4-18 昭和6年(1931)
鉄筋コンクリート造/3階建 

などなど。
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鹿児島市中央公民館。鹿児島市役所。(鹿児島。その4。)

2014-06-20 23:37:08 | 歴史・痕跡

 「西郷銅像」の撮影ポイントとしてある敷地の一角には「中央公民館」の建物があります。隣の「宝山ホール」のモダンなつくりと比べて、どっきとするほどレトロな雰囲気の建物です。見逃せない建物の一つ。

正面。

 1927年(昭和2年)10月に開館。片岡安の建築で市中心部に位置する交通の便の良さもあり、修築を経て現在もイベント、講演会等に利用されている。国登録有形文化財。

1924年8月 - 昭和天皇の成婚記念事業として起工。
1927年10月 - 鹿児島市公会堂として開館。
1945年6月17日 - 鹿児島大空襲により一部が損壊。
1949年 - 鹿児島市中央公民館に改称。
1973年4月 - 鹿児島市公民館条例施行、市全域の社会教育施設及び中央地域の地域公民館と位置づけられる。

 鹿児島市立美術館・西郷隆盛像から国道10号をはさんで東南側、国道58号沿いに位置し、すぐ隣に「鹿児島県文化センター(宝山ホール)」があり、国道58号をはさんで中央公園がある。

 片岡安は、辰野金吾と共同で設計事務所を営み、数々の近代建築を建てた人物。辰野金吾が手がけた有名な建築物には、日本銀行本店や東京駅があります。
 片岡は、大阪中之島公会堂も設計しています。この事務所による設計の建物で、九州地区でほぼ当時のまま現存しているものを二つ訪問しています。

北九州市・旧「百三十銀行」八幡支店。

福岡市・旧「日本生命保険株式会社九州支店。


 鹿児島市にもこうして残っているわけです。

 同じ事務所の設計による「東京駅丸の内口駅舎」などもそうですが、赤煉瓦造り(風)にその特徴がありますが。この建物は鉄筋コンクリート造り3階建て。


 多くの他の都市中心部では、戦前のものが取り壊されて建て直される中、また、鹿児島市内には戦災で多くの建物が焼失、被害を受けた割には、まだまだ随所に趣深い戦前の建物が残り、現役で活躍中です。その、ほんの一部を訪ねました。

鹿児島市役所
昭和12年(1937)建造。鉄筋コンクリート造/3階建。設計監理:大蔵省営繕管財局工務部。 国登録有形文化財。

圧倒的な存在感。



正面玄関。

二階への階段。

市役所から海側に延びる緑地帯から。

はるかかなたに市役所を望む。

 この緑地帯は、かつての運河跡? 
その脇にあった古い街並み。

華やかな「天文館通り商店街」とはかなり趣の異なる商店が並んでいそうな路地。黒田金物店と「名山町商店街」。

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薩摩義士碑。鶴丸城趾。篤姫像。アコウ。(鹿児島。その3。)

2014-06-19 23:31:55 | 歴史・痕跡
 
「西郷隆盛終焉の地」から鹿児島本線の踏切を渡り、しばらく歩いて城山の山裾を下ると、鶴丸城趾に出ます。

「城山」の麓にある「薩摩義士の碑」。

「神になった薩摩藩士」説明板。

 江戸幕府は,1753(宝暦3)年に薩摩藩に木曽川治水工事の御手伝普請を命じました。薩摩藩は,平田靱負を総奉行に任じ,藩士・足軽以下約千人を派遣しました。工事は約1年3か月で完成しましたが,大榑川洗堰工事などの難工事などのため,約40万両の経費がかかり藩財政は大きな打撃を受けました。また工事中の自害・病死等の犠牲者も薩摩藩関係者だけで80余名にのぼりました。工事検分終了直後,平田靱負は大牧村役館において自刃したと伝えられています。・・・

 と鹿児島市のHPではこのように記されていますが、なかなかの難工事で犠牲者も大勢だったようで、いまだに語り継がれている、とのこと。

 宝暦治水事件

 江戸時代中期に幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業(宝暦治水)に絡み、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老平田靱負が自害した事件。
 宝暦治水とは、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事。濃尾平野の治水対策で、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事。三川分流治水ともいう。
 木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流・分流を繰り返す地形であることや、小領の分立する美濃国では各領主の利害が対立し、統一的な治水対策を採ることが難しかったことから、しばしば洪水が多発していた。また、美濃国側では尾張藩の御囲堤より3尺(91cm)以上低い堤しか作ってはいけなかったとする伝承もある。
 1735年(享保20年)、美濃郡の代官である井沢惣兵衛が三川の調査の上で分流工事を立案したが、その時は幕府の許可が下りなかった。しかし、1753年(宝暦3年)12月28日、第九代将軍徳川家重は薩摩藩主島津重年に御手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた。
 この普請は幕府の指揮監督の下、薩摩藩が資金を準備し、人足の動員や資材の手配をする形態であった。また地元の村方を救済するため、町人請負を基本的に禁止して、村請により地元に金が落ちる方針を取った。
翌1754年(宝暦4年)1月16日薩摩藩は家老の平田靱負に総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。
 幕府が工事を命じた目的は、薩摩藩の財政弱体化であった。
 ただ、宝暦治水自体はあくまでも幕府による工事のお手伝い普請という名目で、幕府側の総責任者は勘定奉行・一色政、監督者として水行奉行・高木新兵衛が命じられている。高木は自家の家臣のみでは手に余ると判断し、急遽治水に長けた内藤十左衛門を雇っている。
 当時、既に66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送る。
 同年1月29日には総奉行平田靱負、1月30日には副奉行伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。
 同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行う。砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入る。工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い着工した。
 1754年(宝暦4年)4月14日。薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。以後合わせて61名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。
 また、この工事中には幕府側からも、現場の責任者が地元の庄屋とのもめ事や、幕府側上部の思惑に翻弄されるなどして、内藤十左衛門ら2名が自害している。さらに、人柱として1名が殺害された。
 これらの犠牲者数は、寺の過去帳、位牌・墓碑などに記録されたものだが、幕府は寺に薩摩藩の死者を葬ることを禁じたため、実際にはさらに多数にのぼっていた可能性があるという。
 幕府側は工事への嫌がらせだけでなく、食事も重労働にも拘らず一汁一菜と規制し、さらに蓑、草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示した。 ただし経費節減の観点から普請役人への応接を行う村方に一汁一菜のお触れを出すことは当時は普通のことであった。
 1754年(宝暦4年)8月には薩摩工事方に赤痢が流行し、粗末な食事と過酷な労働で体力が弱っていた者が多く、157名が病に倒れ32名が病死した。
 1755年(宝暦5年)5月22日工事が完了して幕府の見方を終え、同年5月24日に総奉行平田靱負はその旨を書面にして国許に報告した。その翌日5月25日早朝美濃大牧の本小屋で平田は割腹自殺した。辞世の句は
「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」
であった。
 薩摩藩が最終的に要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)。大坂の商人からは22万298両を借入。返済は領内の税から充てられることとなり、特に奄美群島のサトウキビは収入源として重視され、住民へのサトウキビ栽培の強要と収奪を行った。現地では薩摩藩への怨嗟から「黒糖地獄」と呼ばれた。
 この工事は一定の成果を上げ、治水効果は木曽三川の下流地域300か村に及んだ。ただし長良川上流域においては逆に洪水が増加するという問題を残した。これは完成した堤が長良川河床への土砂の堆積を促したためと指摘されている。薩摩藩では治水事業が終了したあとも現地に代官を派遣したが後に彼らは尾張藩に組み込まれている。その後、近代土木技術を用いた本格的な治水工事は、明治初期に「お雇い外国人」ヨハニス・デ・レーケの指導による木曽三川分流工事によって初めて行われた。
 1900年(明治33年)の分流工事完成時に、「宝暦治水碑」が千本松原南端に建てられている。1938年(昭和13年)には、平田靱負ら85名の薩摩藩士殉職者を、「祭神」として顕彰するために『治水神社』(所在地:岐阜県海津市海津町油島(旧海津郡海津町))が建立された。
 岐阜県海津市と鹿児島県霧島市は、これが縁で友好提携を結んでいる。なお鹿児島県と岐阜県は、これが縁で県教育委員会同士の交流研修として、お互いの県に小中高校教員を転任させている。2007年(平成19年)より岐阜県では他県への教職員派遣を止める事にしたが、鹿児島県のみ継続している。鹿児島県で発生した平成5年8月豪雨の際は岐阜県より復旧支援の土木専門職員が派遣され支援に当たった。
(以上、「Wikipedia」より)

 なるほど、なるほど。

本丸跡に建つ鹿児島県歴史資料センター「黎明館」。月曜のため、休館日でした。

遠くに「篤姫」像。



 当時のニュース記事

 篤姫銅像が鹿児島に完成 誕生日に除幕式

 薩摩藩の出身で、幕末の徳川将軍家を支えた天璋院篤姫の銅像が、10代の一時期を送った鹿児島市の鶴丸城跡にある歴史資料センター「黎明館」に完成。篤姫誕生日の19日、市などの実行委員会が除幕式を開いた。
 像は台座を含め高さ約3・1メートルで、鹿児島市の彫刻家中村晋也さん(84)が、篤姫40歳前後の写真を参考に制作。
 除幕式で徳川宗家第18代当主の徳川恒孝さん(70)は「篤姫は早くに江戸に嫁ぎ鹿児島に戻ることはなかった。鹿児島に素晴らしい像ができてうれしい」と感慨深げに話した。
(2010/12/19 17:21 【共同通信】)


 天璋院篤姫は、2008年のNHK大河ドラマで一躍有名になった(主演の篤姫役は、宮あおい)江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、江戸幕府第13代将軍徳川家定の御台所となった人物。

 篤姫は天保6年(1835)12月19日、今和泉家第5代当主忠剛の第4子として現在の鹿児島市に生まれました。
 幼少の頃の篤姫は一子(かつこ)と名付けられ、大変利発で活発な子だったと言われています。約19年間を鹿児島で過ごし、指宿の別邸にも度々訪れたと言われている一子は、家のすぐ前に広がる海岸でよく兄(忠冬)と遊んでいました。
 ある日のこと、海岸で漁師とのすれ違いから危険と判断した一子はその漁師に向かって石を投げました。そのことを知った父(忠剛)は、兄(忠冬)にその勇気が持てなかったことを責め、『一子が男の子だったら』と悔しがっていたというエピソードが小説には語られています。(「天璋院篤姫」宮尾登美子:著)このように一子は幼少の頃から人並み外れた感性と器量の持ち主だったと言えます。
 そんな一子が18歳のときに転機が訪れます。当時、第13代将軍徳川家定は二人の妻を公家から迎えましたが、二人とも長生きせず家定自身も病気がちだったことから、家定の母である本寿院は、広大院(十一代将軍家斉の妻として徳川家に仕えた島津家出身の茂姫)にあやかりたいと、将軍を支えられるしっかりとした夫人を求め、嘉永3年(1850)、島津家に将軍夫人の候補を求めました。島津家には適齢期の娘がおらず、今和泉家の忠剛の子である一子に白羽の矢がたったのです。
 嘉永6年(1853)、名を篤姫と改め島津家第28代当主斉彬の実子として、鹿児島を立ち、近衛家の養女を経たのち、安政3年(1856)12月18日に家定と結婚しました。しかし、一年半後の安政5年(1858)7月に家定が35歳で亡くなったため、天璋院と号し、その後、前将軍の妻として大奥を仕切りました。
 幕末の動乱期には実家の島津家は将軍の敵となりましたが、新政府に徳川本家の存続を働きかけるなど、徳川家のために尽くしました。明治16年(1883)11月20日に49歳で亡くなりましたが、徳川家第16代当主家達(いえさと)を育てあげたのも天璋院といわれ、現在でも徳川家に大切にされています 。



HPより)

逸話として

 篤姫は嘉永7年(1854年)11月、島津重豪の十男で八戸藩主となっていた南部信順の強い勧めにより、斉彬とともに大石寺(現在の日蓮正宗総本山、静岡県富士宮市)に帰依し、同塔中遠信坊の再々興に貢献した。家定の死後の万延元年(1860年)には51日間にわたって、大石寺第51代法主・日英上人に1日3回4時間の唱題祈念を行わせている。ただし、墓所となっている寛永寺は天台宗の寺院である。(この項、「Wikipedia」より)

石垣。隆盛がつくった「私学校」石垣には西南戦争当時の弾痕の跡があるらしいが、この石垣の不揃いに破壊された穴もそれなのであろうか?

 城址は明治維新後、第七高等学校造士館の校地として使用され、さらに戦後は、鹿児島県立大学医学部、国立鹿児島大学医学部基礎教室を経て、現在は本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡に鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っている。


蓮の花が咲いていた。




アコウ(榕、赤榕、赤秀、雀榕)

 クワ科の半常緑高木。
 樹高は約10 - 20m。樹皮はきめ細かい。幹は分岐が多く、枝や幹から多数の気根を垂らし、岩や露頭などに張り付く。新芽は成長につれ色が赤などに変化し美しい。葉は互生し、やや細長い楕円形でなめらかでつやはあまりなく、やや大ぶりで約10 - 15cm程である。年に数回、新芽を出す前に短期間落葉する。ただし、その時期は一定ではなく、同じ個体でも枝ごとに時期が異なる場合もある。
 5月頃、イチジクに似た形状の小型の隠頭花序を、幹や枝から直接出た短い柄に付ける(幹生花)。果実は熟すと食用になる。
 アコウの種子は鳥類によって散布されるが、その種子がアカギやヤシなどの樹木の上に運ばれ発芽して着生し、成長すると気根で親樹を覆い尽くし、枯らしてしまうこともある。そのため絞め殺しの木とも呼ばれる。これは樹高の高い熱帯雨林などで素早く光の当たる環境(樹冠)を獲得するための特性である。琉球諸島では、他の植物が生育しにくい石灰岩地の岩場や露頭に、気根を利用して着生し生育している。
 日本では、紀伊半島及び山口県、四国南部、九州、南西諸島などの温暖な地方に自生する。日本国外では台湾や中国南部、東南アジアなどに分布している。
 主な低地に生育し、琉球諸島では石灰岩地にも生育する。
 防風樹、防潮樹、街路樹として利用される。沖縄県や鹿児島県奄美群島では、屋敷林にも利用される。日本では国の天然記念物に指定されている巨樹、古木も多い。
 また、ガジュマルに比べると耐寒性が高いという特性を活かし、観葉植物としても用いられる。(以上「Wikipedia」参照)

 たぶん初めて見た木でした。それにしても「絞め殺しの木」とは何とも恐ろしや。
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甲突川。歴史ロード。○に十。石橋。(鹿児島。その2。)

2014-06-18 23:59:26 | 歴史・痕跡

 市内中心部を流れる「甲突川」。その左岸には鹿児島の「歴史」をしのぶ遊歩道があります。
「歴史ロード”維新ふるさとの道”」。

「英国留学生」の説明板。遊歩道を歩きながら、「歴史」を学ぶという趣向。

 鹿児島市は、第二次大戦で壊滅的な被害を受けたところでもあります。

本市における戦災の状況~1.空襲等の概況~
※「鹿児島市戦災復興誌」より抜粋

 昭和20(1945)年3月から本土への空襲は本格化したが、沖縄への米軍上陸以降、次の上陸地点として鹿児島県は終戦まで単なる補給地、背後地、内地ではなくなり「戦場」と化した。
 鹿児島市が直接の攻撃目標となったのは、昭和20(1945)年3月18日から8月6日の計8回の空襲であるが、北部九州ほか、九州全域への攻撃のため、鹿児島市は米軍機の通過地点に当たり、機影を見ない日はほとんどないという状況であった。
 また、特攻機が鹿児島から飛び立っており、特攻基地は鹿児島にしかなかったので、米軍の鹿児島に対する攻撃は他の地方都市と比較にならない激しさであった。
 これら前後8回にわたる空襲によって、市内は焼け野原と化し、鹿児島市が受けた被害は、実に死者3,329人、負傷者4,633人、行方不明35人、その他10万7,388人、合計11万5,385人に達した。
 その総数は昭和20(1945)年初期の疎開後の人口17万5,000人に対し66%であった。
 建物の罹災戸数は、全焼2万497戸、半焼169戸、全壊655戸、半壊640戸、計2万1,961戸で、全戸数3万8,760戸に対し57%であった。
 全市は文字どおり灰燼に帰し、市街地の約93%、327万坪(1,079万平方メートル)を焼失した。・・・

HPより)

戦災復興記念碑。モニュメント。

<大型建造物だけが残る焼け跡の市街地中心部>(平岡正三郎氏撮影)より 

 そうしたかつての面影は表面上は消え(通りすがりの観光客には)、近代都市にすっかり生まれ変わった鹿児島市街となっていました。市内に残る文化的遺産の多くは「明治維新」あるいは「藩主・島津公一族」に関するものが目に付きます。
 戦争遺跡となると、特攻基地のあった鹿屋あるいは知覧となります。日にちに余裕があればぜひとも行かなければならない場所ですので、次回に期することにしました。
甲突川。

鹿児島城下町絵図。

  
かつての「小路名」などの由来碑。

「薩摩暦と明時館(天文館)」。天文観測による藩独自の暦の制作の由来が記されています。
 鹿児島市内一の繁華街「天文館」通り。変わった名前ですが、どうしてそう呼ばれるのか、この解説を見るまでまったく知りませんでした。お恥ずかしい!
時を刻む語らい広場。
二つ家と呼ばれる住居形態。

  

こういう腰掛けにも歴史もの「郷中教育」のようすが描かれている(我が家の近所の公園のものには、子供の遊び歌などが描かれている)。

維新ふるさと館脇の橋。薩摩藩(島津家)の紋。島津氏の家紋は「丸に十の字」。
 この「十字」は、いったい何を意味するのだろう? いろいろな説があるようですが、「十字を切る」という形の呪符からきたとする説が正しい、らしいです。ちなみに鹿児島市のマークも島津様の紋所が取り入れてあります。


旧五大石橋の一つ「高麗橋」説明板。1993(平成5)年の集中豪雨で流された他の橋と共に、「鹿児島駅」近くの祇園之洲地区にある「石橋公園」に移設保存されているそうです。

 甲突川五石橋

 甲突川にかつて架かっていた石橋群。上流から玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋の順。1993年8月6日の鹿児島大水害により5石橋のうち新上橋と武之橋の2橋が流失し、玉江橋、西田橋、高麗橋の3橋がその後石橋記念公園に移設保存されている。

甲突川五石橋の現存時の位置図。×印は8.6水害で崩落・流出した石橋。また×印がない橋は石橋記念公園に移設保存されている。

石橋記念公園に保存されている高麗橋
(以上、「Wikipedia」参照)

現在の「高麗橋」。

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西郷隆盛。その誕生から終焉まで。(鹿児島。その1。)

2014-06-17 23:26:23 | 歴史・痕跡
 5年ぶりの鹿児島。新幹線が開通し、鹿児島中央駅も様変わり。といっても、鹿児島空港だったので、駅前を通ってみただけですが。改めてホテルから見た「鹿児島中央駅」。正面が新幹線ホーム。在来線とちょうどT字になっています。駅ビルの屋上には、観覧車。
 この鹿児島中央駅。かつては「武駅」、その後、「西鹿児島駅」と駅名が変わった。市電はかつてのまま。ずっと前に来たときは、たしか「西鹿児島駅」だったような・・・。

 来る機会もそれほどないので、一日泊まって半日「西郷」どんの世界を探索。
 
 鹿児島中央駅 ≫ 維新ふるさと館前 ≫ ザビエル公園前 ≫ 西郷銅像前 ≫ 薩摩義士碑前 ≫ 西郷洞窟前 ≫ 城山 ≫ 西郷洞窟前 ≫ 薩摩義士碑前 ≫ 南洲公園入口 ≫ 仙巌園(磯庭園)前 ≫ 石橋記念公園前 ≫ かごしま水族館前(桜島桟橋) ≫ ドルフィンポート前 ≫ 天文館 ≫ 鹿児島中央駅

 上が、「シティービュー」バスのコース。約1時間でぐるりと観光名所を一周。大人190円でバスの中から名所を眺める、という趣向。もちろん、そういう観光客はいないようで、一日乗り降り自由の乗車券(¥600)を買って乗る人がほとんど。

 そこで、小生もそれに乗ってぐるりと、というのもつまらないので、途中まで乗って行って、後は歩いて回ろうという算段。朝方の雨雲もなくなって、薄日が差すちょうどいい。中央駅前のバス停を9:30発。「西郷洞窟前」で下りてさっそく歩き出しました。
 いつものように駆け足の感じ。そして、帰宅してインターネットで後追いして、あそこもあったか、近くまで行ったのに残念! そんな思いがまたしてきました。
 同じ事を何回繰り返したら改まるんでしょう。
 
 西郷隆盛南州洞窟→隆盛終焉の地→鶴丸城址→黎明館→市役所→かごしま水族館→中央公民館→山形屋→天文館通り→鹿児島中央高校→高麗橋→共研公園→甲突川→中央駅

 約3時間くらいの行程でした。見落としもたくさん、脈絡があまりなそうな歩きぶり。はてさて・・・。意外な発見もありましたが。
 まずは、鹿児島中央駅前から。

「若き薩摩の群像」。どえらく大きいモニュメント。
 
 薩英戦争において西欧文明の偉大さを痛感させられた薩摩藩は鎖国の禁を犯し絵1865年藩士17名の留学生を英国に派遣しました。一行は・・・帰朝後には黎明日本の原動力となり各分野で不滅の業績を残しました。・・・

 ちなみに何となく知っていた名前は、森有礼。寺島宗則。五代友厚くらい。もちろん小生が知らないだけで他の人たちも立派な業績を成し遂げた人も多い。
 「尊皇攘夷」の旗頭であった薩摩藩は、この戦争をきっかけに「富国強兵」策に転じ、倒幕運動をいよいよ鮮明にしていった、らしい。我々郷土の先輩が「薩長土肥」による倒幕、さらに明治維新後の近代日本を担った、という強烈な郷土愛あふれるモニュメントではある。


 そこで、今回は隆盛さんをメインで。
「誕生地」。甲突川左岸。

 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。
 隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。
 西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。
 薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。
 その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。
 明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。(以上、「Wikipedia」参照)

「西郷隆盛君誕生之地」碑。脇には、明治22年に建立された由来碑が置かれている。裏に銘記された使命は「大山巌」をはじめ、明治元勲の名がずらり。


 これらの記念碑は石造りのかなり大きなもので、下を岩を積み重ねて盛り上げてある。少し上流には、「宿敵」大久保利通の誕生地の碑がある。

「無二の友を敵としても」との説明板。

 明治6年の政変で西郷らを失脚させた大久保利通は、内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施した。そして「富国強兵」「殖産興業」政策を推進した。
 大久保はプロイセン(ドイツ)を目標とした国家を目指していたといわれ、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている。
 明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発すると、直ちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させている。
 明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。その後、自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。
 明治11年(1878年)5月14日、紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)。享年49。

西郷洞窟。

「おはんらにやった命」との説明板。
 
 ―西南戦争 最後の司令部―
 1877年(明治10年)9月24日、西郷軍が立てこもる城山に「政府軍の総攻撃が始まり、死を決した西郷は夜明けを待って5日間過ごしたこの洞窟を出ました。・・・2月15日挙兵、熊本で政府軍と激しい攻防をくりかえすも近代兵器の前に敗退、7ヶ月にわたる大乱の最後を、西郷は故山城山で迎えたのです。・・・

 「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがままに 果てし君かな  勝 海舟」
 との歌が載せられている。

洞窟の裏山。

南国特有の深い緑に覆われた森が続く。

城山の展望台方向。

「敬天愛人」。「西郷洞窟」から少し下ったところ、鹿児島本線トンネル入口に掲げられたもの。隆盛の座右の銘。

右手側(「鹿児島駅」に向かう線路)のトンネル上部にある。

隆盛終焉の地。鹿児島本線沿線にある。
「南洲翁終焉之地」碑。

 「晋どん、もうここらでよか」

 城山洞窟を出てわずか300㍍、650歩でついに途は閉ざされた。
 ・・・西郷の死体が発見された時、政府軍の総司令 山県有朋中将は「翁はまことの天下あの豪傑だった。残念なのは翁をここまで追い込んだときの流れだ」と語った、という。

西郷銅像。中央公民館広場から。
スケールの大きさに驚くが、どこかの個人崇拝に徹する国のものに比べればおとなしいものだ。
 「身長 5.257㍍、5.7頭身」。平成19年、県立鹿児島工高の女子生徒4名が実測した結果だそうだ。

 しかし、さすが明治維新の立役者を生んだ土地柄。「おらが街」にはこんなたくさんの偉人が生まれ育った、とう誇りがあちこちに「記念碑」として存在します。通りすがりの小生には見落としばかり。

大山巌。

牛島満。

 「元帥」「大将」・・・、軍人さんの多いところです。島津家関係の石碑もたくさん。・・・
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永青文庫。和敬塾。蕉雨園。(有楽町線・江戸川橋駅下車。その4。)

2014-06-13 22:23:15 | 歴史・痕跡

永青文庫
 1950年(昭和25年)、第16代当主細川護立(1883年 - 1970年)によって設立された。護立は旧侯爵、貴族院議員で、国宝保存会会長などを務め、戦前・戦後の日本の文化財保護行政に多大な貢献をしている。「美術の殿様」と言われ、美術品収集家としても著名であった。
 文庫の所在地は細川家の屋敷跡(現在は敷地が分割されているが、新江戸川公園、永青文庫、和敬塾の敷地まで細川邸であった)であり、建物は昭和時代初期に細川家の事務所として建てられたものである。文庫名の「永青」は細川家の菩提寺である正伝永源院(建仁寺塔頭)の「永」と、細川藤孝の居城・青龍寺城の「青」から採られている。
 日本・東洋の古美術を中心とした美術館で、旧熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料や、16代当主細川護立の収集品などを収蔵し、展示、研究を行っている。理事長は18代当主の細川護煕(元首相)。
 なお、熊本県立美術館が「永青文庫展示室」を設け、永青文庫所蔵品の一部を年に数回入れ替えながら展示しているほか、 東京国際空港第2旅客ターミナル内にある「ディスカバリーミュージアム」でも所蔵品の一部が企画を替えながら展示されている。

黒き猫 菱田春草筆 1910年(熊本県立美術館に寄託)

収蔵品
 [国宝]
太刀 銘豊後国行平作(古今伝授の太刀)
短刀 無銘正宗(名物庖丁正宗)
短刀 銘則重(日本一則重)
刀 金象嵌銘光忠 光徳(花押)生駒讃岐守所持(生駒光忠)
柏木兎螺鈿鞍(かしわみみずく らでん くら)
時雨螺鈿鞍
金銀錯狩猟文鏡(中国・戦国時代)
金彩鳥獣雲文銅盤(中国・前漢~後漢時代)

 [重要文化財]
絵画絹本著色細川澄元像 狩野元信筆
紙本著色長谷雄草紙
紙本著色洋人奏楽図 六曲屏風(熊本県立美術館寄託)
紙本墨画芦雁図(伝宮本武蔵筆) 六曲屏風(熊本県立美術館寄託)
紙本墨画鵜図 宮本武蔵筆(熊本県立美術館寄託)
紙本墨画紅梅鳩図 宮本武蔵筆(熊本県立美術館寄託)
紙本著色落葉図 菱田春草筆 六曲屏風 1909年(熊本県立美術館寄託)
絹本著色黒き猫図 菱田春草筆 1910年(熊本県立美術館寄託)
髪 小林古径筆 絹本著色 1931年(熊本県立美術館寄託)
彫刻石造如来坐像(中国・唐)
石造菩薩半跏像(中国・北魏)
銅造如来坐像 台座に元嘉十四年五月一日韓謙造像の銘がある(中国・劉宋)
陶磁宋白地黒掻落牡丹文瓶(そう しろじくろかきおとし ぼたんもん へい)
唐三彩花文大盤
唐三彩花文盤
刀剣武具太刀 銘守家造
破扇散鐔 無銘林又七
春日野図鐔 銘城州伏見住金家
毘沙門天図鐔 銘城州伏見住金家
牟礼高松図鐔 銘利寿(花押)
白糸威褄取鎧 兜付(しろいとおどしつまどり よろい かぶとつき)

(以上「Wikipedia」参照)

奥に見えるのが、「永青文庫」の建物。


正面。


案内板。

 北側にある建物が、「和敬塾」。男子学生寮。

和敬塾本館(旧細川侯爵邸)

 細川家第16代細川護立侯により昭和11年(1936年)に建てられた、昭和初期の代表的華族邸宅です。
昭和30年(1955年)、旧細川侯爵邸の敷地約7000坪および邸宅を同家より購入し、敷地内に学生寮を建設しました。
和敬塾では、本館を塾生(寮生)の教養講座の活動の場として活用する一方、外部の有識者を招いてのシンポジウム・講演会を開催し、塾生の知育、徳育の場として積極的に活用をすすめながら、文化財として保存してまいります。なお、和敬塾本館では、不定期に一般公開を実施しております。
(以上「」HPより)



1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)中央部分が「旧細川邸」。南から「新江戸川公園」、「永青文庫」、「和敬塾」。「胸突坂」をはさんで南から「関口芭蕉庵」、「蕉雨園」。その東一帯が「椿山荘」。

ほぼ同じ場所の1880年代のようす(「同」より)。西側の○が「細川邸」、東側の○が「山縣邸」、↑が「芭蕉庵」。「胸突坂」がその西側。


蕉雨園
正面。

  椿山荘、野間記念館に隣接する6000坪の敷地に建つ元田中光顕邸(1897年築)。1919年、田中光顕はこの邸宅を渡辺治右衛門(渡辺銀行総裁)に譲り、その後、1932年に講談社創業者の野間清治が購入。現在は講談社の所有。
 非公開だが、茶会やドラマ(華麗なる一族、鹿男あをによし、どんど晴れ、富豪刑事など多数)の撮影などに使用されている。命名は、邸宅を訪れた諸橋轍次が詠んだ「芭蕉葉上孤村の雨 蟋蟀聲中驛路の塵」から「蕉」と「雨」の二文字をとり芭蕉庵と五月雨庵にちなみ、蕉雨園と名づけられた。

田中光顕
 天保14年(1843年)、土佐藩の家老深尾家々臣である浜田金治の長男として、土佐国高岡郡佐川村(現・高知県高岡郡佐川町)に生まれた。
 土佐藩士武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒して、土佐勤王党に参加した。しかし文久3年(1863年)、同党が八月十八日の政変を契機として弾圧されるや謹慎処分となり、翌元治元年(1864年)には同志を集めて脱藩。のち高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。
 薩長同盟の成立に貢献して、薩摩藩の黒田清隆が長州を訪ねた際に同行した。第二次長州征伐時では長州藩の軍艦丙寅丸に乗船して幕府軍と戦った。後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。
 慶応3年(1867年)、中岡が坂本龍馬と共に暗殺(近江屋事件)されると、その現場に駆けつけて重傷の中岡から経緯を聞く。中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の戦い時では高野山を占領して紀州藩を威嚇、戊辰戦争で活躍した。
 維新後は新政府に出仕。岩倉使節団で欧州を巡察。西南戦争では征討軍会計部長となり、1879年(明治12年)に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1898年(明治31年)、宮内大臣。約11年間にわたり、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。1907年(明治40年)、伯爵。1909年(明治42年)、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。
 政界引退後は、高杉晋作の漢詩集『東行遺稿』の出版、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。
 晩年は静岡県富士市富士川「古渓荘」(現野間農園)、同県静岡市清水区蒲原に「宝珠荘」(後に青山荘と改称)、神奈川県小田原市に南欧風の別荘(現在の小田原文学館)等を建てて隠棲した。昭和天皇に男子がなかなか出生しないことから、側室をもうけるべきだと主張。その選定を勝手に進めるなどして、天皇側近と対立した。また、昭和11年(1936年)の二・二六事件の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに浅野長勲と動いたが、叶わなかった。
1939年(昭和14年)3月28日、静岡県蒲原町の別荘にて97歳で没した。(以上「Wikipedia」より)

 明治から昭和初期にかけての政界の黒幕といった感じですか。

「胸突坂」を登り切った辺りから。左手が「蕉雨園」。

塀越しに見える母屋の豪壮な屋根の一角。

「胸突坂」脇に見える屋敷の一角。

 折があったら、見学してみたいところではあります。でも、お茶会などには全く無縁ですからそんな機会には・・・。しかし、この辺りは立派なお屋敷と文教地区。
 帰りは、「目白通り」を西に向かって歩き、「田中邸」「日本女子大」「学習院」と横目で見ながらJR山手線「目白駅」まで(約2㎞)。
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新江戸川公園。旧細川家下屋敷庭園。(有楽町線・江戸川橋駅下車。その3。)

2014-06-12 22:53:37 | 歴史・痕跡

「新江戸川公園」入口。

左手にある建物が、「松聲(声)閣」
 大正時代の建物。元細川家の学問所だったところ。以前は集会所として貸し出しをしていましたが、現在、老朽化のため、安全管理の面から利用休止中。

 「歴史性を活かしつつ、区民に親しまれる利用しやすい公園施設として整備することとしました」と区の広報にもあるように、全面改築がなされるようです。

「松声閣」正面。

新江戸川公園


 細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした回遊式泉水庭園です。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、変化に富んだ景観をつくり出しています。湧水を利用した流れは「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれて、岩場から芝生への細い流れとなり、その周辺に野草をあしらっています。
 池はこの庭園の中心に位置し、広がりのある景観をつくりだし、池をはさんで背後の台地を山に見立てています。その斜面地は深い木立となっていて、池に覆いかぶさるようにヤマモミジやハゼノキの一群が、秋には真っ赤に紅葉した姿を水面に映し出します。山に続く園路は深山の中の自然の尾根道のようです。所々に開けた空き地があり、ベンチが置かれています。
 もともとそこからは、木々の梢の間から池や低地の町並みを見渡せるようになっていましたが、木の生長とともに森の中にいるような雰囲気となりました
 大きな池を中心として、その周囲の園路を歩きながら、広がりのある池や背後の山並みなど様々な風景の移り変わりを観賞出来るように計画された庭園の様式の一つです。新江戸川公園では、門から入り大泉水への視界が展開されます。そして園路を進むにしたがって、池や背後の山並みの眺めの移り変わりを、また振り返った時、池を借景とした「松声閣」の眺めを楽しむことが出来ます。
 また樹林の中の山道をしばらく登った時、樹間から眺められる大泉水の眺めが印象的です。そして園路にそって池を一周し、最初に見た風景を振り返るように設計されています。
 毎年11月下旬になると、池畔にある5本の松の枝を都会の水分を多く含んだ重い雪から守るため、わら縄で枝を吊る作業を行っています。張られた縄が、きれいな傘形になっていく様子は見応えがあります。
HPより

 当地一帯は江戸時代中頃まで幕臣の邸宅があったところであった。その後、幾度かの所有者の変遷を経て、幕末に細川家の下屋敷になり、明治時代には細川家の本邸となった。
 1960年に東京都が当地を購入し、翌年には公園として開園。1975年、文京区に移管されて現在にいたる。当地付近は目白台からの湧水が豊富な地点で、その湧水を生かした回遊式泉水庭園を主体とした公園となっており、江戸時代の大名屋敷の回遊式泉水庭園の雰囲気を現在でも楽しむことが出来る。(以上、「Wikipedia」より)

門から入ると、目の前に大泉水への視界が開ける。広がりのある池と背後の高台の森を山並みに見立てている。

池の端。鯉や亀がたくさん。


背後には「松声閣」。

 
湧水。

湧水の流れに沿うように野草。


「松声閣」。 


  
手入れの行き届いた庭園。

池沿いの小道の歩みを進めるうちに、次第に変化する景観を楽しむ趣向。
池も背後の「山並み」も池を前に広がる木々のバランスも見事。高低を生かしたつくりになっている。


振り返ると、池の向こうに「松声閣」。
山道からの大泉水(池)。

北東の斜面を登ると、「永青文庫」に着きます。

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関口芭蕉庵。(有楽町線・江戸川橋駅下車。その2。)

2014-06-11 20:40:56 | 歴史・痕跡

関口芭蕉庵正門。ただし、入口は裏手にある木戸口。

説明板。

ここから入る。ただし、月曜、火曜は「休庵日」。

 松尾芭蕉は、天保元年(1644年)、伊賀上野の城下(現在の三重県伊賀市)で生まれ、後に(1672年)、江戸に移り住み、様々な俳諧活動を展開しました。
 芭蕉は、土木技師として、上水道工事にも携わりました。
 芭蕉が郷里の伊賀から江戸に出て、深川の、いわゆる今日の深川芭蕉庵に住みつくまでの間(1677年から1680年まで)、現在の文京区関口で、神田上水(江戸川)の改修工事に携わり、この工事を監督しました。
 神田上水は、天正年間(1573~92年)、徳川家康の命で大久保忠行が開設したのに始まる上水です。井頭の池を水源として、関口、水道橋を経て、神田・日本橋・京橋に給水し、総延長約66Kmもあり、芭蕉は、宝暦期の改修工事に携わりました。(後に、神田上水は、新多摩上水施設により明治33年に廃止されています。)
 この間、芭蕉は、工事現場か水番屋に住んだといわれますが、後に、芭蕉を慕う人達により「龍隠庵」(りゅうげあん)という建物が建てられ、芭蕉の風を慕う俳人達が集い、いつしか「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになったとのことです。
 元の建物は火事や戦火で焼失し、昔の面影を残そうと第2次大戦後に再建されたものですが、周囲の風情ある庭や池・木立は往時の“わび、さび”を偲ばせてくれます。
 池のほとりに建てられた芭蕉句碑には、「古池や 蛙飛こむ 水のをと」と刻まれており、芭蕉の直筆からとられたものだそうです。
 なお、関口芭蕉庵は、江戸時代には、安藤広重が「江戸名所百景」の中で「関口上水芭蕉庵椿山」を描いており、現在も、椿山荘、フォーシーズンズホテルのすぐ西側に位置した、椿山荘の日本庭園から一体の緑に囲まれた静かで趣きある場所です。

HPより

 松尾芭蕉が二度目に江戸に入った後に請け負った神田上水の改修工事の際に1677年(延宝5年)から1680年(延宝8年)までの4年間、当地付近にあった「竜隠庵」と呼ばれた水番屋に住んだといわれているのが関口芭蕉庵の始まりである。
 後の1726年(享保11年)の芭蕉の33回忌にあたる年に、「芭蕉堂」と呼ばれた松尾芭蕉やその弟子らの像などを祀った建物が敷地に作られた。その後、1750年(寛延3年)に芭蕉の供養のために、芭蕉の真筆の短冊を埋めて作られた「さみだれ塚」が建立された。また「竜隠庵」はいつしか人々から「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになった。
 1926年(大正15年)には東京府(現:東京都)の史跡に指定された。また芭蕉二百八十回忌の際に園内に芭蕉の句碑が建立された。芭蕉庵にある建物は第二次世界大戦による戦災などで幾度となく焼失し現在のは戦後に復元されたものである。現在では講談社・光文社・キングレコードらが中心となって設立された「関口芭蕉庵保存会」によって維持管理されており、池や庭園などもかつての風情を留めた造りとなっている。
 (以上、「Wikipedia」より)
「胸突坂」。神田川の駒塚橋(ただし、1880年代には「駒塚橋」はもう少し下流にあり、「胸突坂」とは結んでいなかった)から「目白通り」に向かう坂。けっこう急な坂道。その途中に「芭蕉庵」の入口がある。坂を上り詰めると、「蕉雨園」の正門。坂の西側には「水神」。その先に「永青文庫」(新江戸川公園の上)がある。


普通の住宅みたいなので、つい「お邪魔します」と声を掛けたくなる雰囲気。

中に入ると緑が濃く、池を囲んで、アップダウンの小道が続く。

池のほとりに建てられた芭蕉句碑。「ふる池や かはつ飛こむ みつのをと」と刻まれてあり、芭蕉の直筆からとられたもの。
注:「ふ」は「婦」、「か」は「可」、「は」は者、「つ」は「川」のそれぞれ変体仮名。

池。少し茶色がかっているが、奥から湧水が引かれている。


こじんまりとしていて、風情のある池。

湧水。

自然石を並べた散策路。

芭蕉。
「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」。このように因んだ句が記されたり、俳人の句碑などが点在している。
 

池の上から庭を望む。静寂な空間。水の音や木々のふれあう風の音しかない。


1750年(寛延3年)に芭蕉の供養のために、芭蕉の真筆の短冊を埋めて建立された「さみだれ塚」。


 少し坂道をたどると、「芭蕉堂」がある。

1726年(享保11年)の芭蕉の33回忌にあたる年に、松尾芭蕉やその弟子らの像などを祀った建物「芭蕉堂」。
こんもりとした木々の中。

竹林。

「つた植えて竹四五本のあらしかな」。

 
 初めて来ました。「深川芭蕉庵」が跡地にできた近代的な「記念館」(芭蕉に関する資料展示も豊富)に比べ、ここは江戸時代のかつての庭の雰囲気を残した所。
 芭蕉を知るための資料展示などは全くないが、見学者も多くなく、ゆっくりと風情を味わえます。
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椿山荘。カメの散歩。(有楽町線・江戸川橋駅下車。その1。)

2014-06-10 00:25:41 | 歴史・痕跡
 先日、暑い日。久々に「有楽町線・江戸川橋」駅近くのビルでの会議。例によって、帰り道はちょっと寄り道。さすが夕方からでは限られた範囲。残りは後日(またまた暑い日)、再び出かけてみました。

 
左図が明治後期、右図が現代(「今昔マップ」より)。
A:山縣邸(現椿山荘)、B:芭蕉庵、C:細川邸(現新江戸川公園)、蕉雨園は、Bの上辺り。神田川をはさんだは、田んぼ(現早大北側付近)。
 標高は、「神田川」周辺(薄緑色)で約8㍍、武蔵野台地の東縁部・目白台地、関口台地(薄いピンク色)を通る「目白通り」付近で約27㍍。「椿山荘」など、それぞれの施設は、湧水もあり、自然の高低差を生かした庭つくりになっています。

椿山荘

 武蔵野台地の東縁部にあたる関口台地に位置し神田川に面したこの地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったため「つばきやま」と呼ばれていた。江戸時代は久留里藩黒田氏の下屋敷だった。
 明治の元勲・山縣有朋は西南戦争の功により年金740円を与えられ、1878年(明治11年)に購入、自分の屋敷として「椿山荘」と命名した。
 1918年(大正7年)には大阪を本拠とする藤田組の二代目当主藤田平太郎がこれを譲り受け、庭園を維持し、東京での別邸とした。戦災でほぼ焼失したが、1948年(昭和23年)に藤田興業の所有地となり、その後1万余の樹木が移植され、1952年(昭和27年)より結婚式場として営業を開始した。2013年1月1日より「ホテル椿山荘東京」に変わった。
 現在、庭園は一般公開されており、椿や桜など植物、史跡等を鑑賞できる。そこで、ぐるりと見学。

長松亭。茶室。

無茶庵。

「つばきやま」にふさわしく、各地からの椿が植えられている。

樹齢約500年、椿山荘最古の椎の木。


古泉水。湧水が自噴する井戸。

戦国の武将で茶人でもあった織田有楽(信長の弟)ゆかりの十三重石塔。




 庭園の頂上に建つ三重塔は、平安期の歌人として名高い小野篁ゆかりの寺院、広島県加茂郡の篁山・竹林寺にあったものを藤田平太郎が1925年(大正14年)に譲り受け、椿山荘に移築したもの。室町時代末期のものと推定され、国の登録有形文化財。
眼下を望む。
 まだまだ見所はありそうですが、ここまで。

神田川沿い。右が神田川。

五慶庵。京都二条城前にあった三井邸を譲り受け、昭和29年(1954)に移築。五島慶太にあやかって命名された。


道標。みなもと→18.1キロ 隅田川←6.5キロ

神田川 
 三鷹市井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発し東へ流れ、台東区、中央区と墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流する。流路延長24.6km、流域面積105.0km²と、東京都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず全区間にわたり開渠であることは極めて稀である。かつては「神田上水」を取水し、江戸の水道として利用されていた。(以上、「Wikipedia」より)

 外に出たら、こんな光景にでくわしました。びっくり! カメの散歩です。
???大きい。

もと来た道を戻るようす。今回の一番の驚きでした。

 早速調べると、もしかしたら、「ケヅメリクガメ」かな?
 野焼きや開発による生息地の破壊、乾燥化、食用やペット用の乱獲などにより生息数は激減していると考えられている。2000年にフランスの提案により野生個体の輸出割当が0頭と厳しく制限され、養殖個体(飼育下繁殖個体)のみ国際取引が可能とされた。2000年における生息数は18,000-20,000頭と推定されている。
 ペットとして飼育されることもあり、日本にも輸入されている。大型化するため数畳分の乾燥したスペースおよびその保温設備を用意できない限りは飼育は勧められない。
 三谷幸喜による舞台劇『グッドナイト スリイプタイト』には登場人物のペットという設定で本種(の模型)が登場した。(以上、「Wikipedia」より)
 
 インターネット上では、けっこう飼育している方もいるようです。しかし、これだけ大型になると並の家では飼えませんね。それに長生きもするようですから・・・。
コメント

北区立中央公園文化センター。中央公園。王子野戦病院。・・・(JR東十条下車。その3。)

2014-06-08 00:05:11 | 歴史・痕跡
 図書館脇の遊歩道を南に進むと、北区立中央公園に。ここにも、戦前、戦後の大きな歴史が残っています。 

 敗戦後、米軍に接収されたこの地域。1958年に北側の一部を返還した後、1961年よりキャンプ王子と呼称。1966年に部隊ハワイ移転のため閉鎖されたが返還されず、1968年にベトナム戦争開戦のため米陸軍王子病院(王子野戦病院)が開設される。1969年12月病院閉鎖。
 返還後は北区中央公園・十条駐屯地・東京成徳短期大学・公務員宿舎(大蔵省・防衛庁)他となった。
(以上、「Wikipedia」より)


1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 1971年に返還され、その後、公園として整備されるが、この時点ではまだ建物がなくなっただけで、未整備のまま。
 ↓ 現・中央公園文化センターは、旧東京第一陸軍造兵廠本部で後に米陸軍司令部として使用された建造物。

 「Wikipedia」ではさらっとまとめているが、「王子野戦病院」開設反対運動は、全国的に注目された運動でした。

大原クロニカ
『社会・労働運動大年表』解説編より


王子野戦病院設置反対運動[社]1968.3.3

 東京・北区の米陸軍王子キャンプ内への野戦病院設置に反対する運動は,地元住民を中心に1966年以来続けられてきたが、’68年2月20日の北区労連主催の集会を契機に4月15日まで、反日共系全学連が9度にわたり激しいデモや基地突入を繰り返して警官隊と衝突、死者1人、延べ613人の逮捕者を出すなどして全国的関心を集めるものとなった。
 一方、地元では町会・商店会や主婦・高校生なども参加する地域ぐるみの反対運動が展開され、美濃部都知事が米軍に移転を陳情したことから、政府も東京・多摩町への移転を検討することを約束せざるをえなくなった。在日米軍は、3月18日、開院を強行したが、’69年末には閉鎖された。〔参〕《日本労働年鑑》38集


 この出来事は多くの方が回想的に書かれています。その一つ。

もの書きを目指す人びとへ――わが体験的マスコミ論――岩垂 弘(ジャーナリスト)
第2部 社会部記者の現場から 第67回 ベトナム戦争の余波は王子にも


 ベトナム戦争の激化は、日本にさまざまな余波をもたらした。1967年(昭和42年)10月から、わが国で連続的に起きた第一次羽田事件、老エスペランチストの焼身自殺、横 須賀港に停泊中の米空母イントレピッドからの米兵脱走、米原子力空母エンタープライズの佐世保入港とそれへの抗議行動……といった事件や出来事は、いずれもベトナム戦争と深 くかかわっていた。
 余波はこれらの事件や出来事にとどまらなかった。1968年早々、王子野戦病院問題 が持ち上がる。佐世保でのエンタープライズ寄港騒ぎのほとぼりがまだ冷めやらない1月24日、東京都北区の小林正千代区長は区議会で「米軍側から、北区内の米軍王子キャン プに、近くベトナム傷病兵用の野戦病院を開設するとの連絡を受けた」と発表したからである。
 当時、米軍王子キャンプは北区十条台にあり、広さは約12万2千平方メートル。米陸軍極東地図局があったが、これが1966年にハワイに移ってからは、空き家となっていた。 米軍側の説明では、そこを改装し、そこに埼玉県入間市のジョンソン基地にある米陸軍第七野戦病院の一部が移転してくるのだという。ベッド数は350から400。2月半ばごろまでに移転を終え、3月初めに開院の予定との説明だったという。
 東京23区内に米軍の野戦病院を設置されるのは初めてだった。当時、日本各地に米軍の野戦病院があり、ベトナム戦線からそこへ運ばれてくる傷病米兵は月に4、000人以上にのぼる、といわれていた。戦争の激化でその数が増え、これに対処するため米軍としては野 戦病院の増設を図ったものと思われる。
 北区としては、もともと極東地図局が移転した後の王子キャンプを区に返還してほしいと望んでいた。67年12月には、区議会が返還要求を決議した。そこへ、野戦病院が来る。なにしろ、王子は住宅の密集地帯であるうえ、キャンプの近くには中学校、女子高校、大学などの学園地区があった。それだけに、社会党、共産党、区労連などの革新団体からはもちろん、保守系区議、町内会、PTA、商店連合会などからも反対の声が上がった。「野戦病院が設置されると、汚水、汚物の処理、伝染病などの問題が起きないだろうか。入院米兵の外出で風紀上の問題も派生しかねない」というわけである。
 米軍野戦病院設置が北区民ならびに都民からいかに歓迎されなかったかは、3月21日に都議会が超党派で病院廃止運動を行うと決めたことからもうかがえる。
 この問題は、「ベトナム反戦」を掲げて佐藤首相の南ベトナム訪問阻止(第一次羽田事件)、同首相の米国訪問阻止(第二次羽田事件)、米原子力空母エンタープライズの佐世保入港阻止といった過激な実力闘争を繰り返してきた反代々木系学生にとって、格好の標的となった。北区長の開設発表直後から、王子キャンプ周辺で反代々木系学生による開設反対デモが続発する。
 2月20日夜には、北区労連が主催した反対集会に反代々木系学生約900人が合流し、うちヘルメットをかぶった約400人が警備の機動隊に角材をふるってぶつかったり、投石を行い、36人が公務執行妨害の現行犯で逮捕された。

・・・(中略。この間激しい反対運動が波状的に行われる)

 地元住民、革新団体、反代々木系学生らの反対にもかかわらず、米軍側は4月15日までに王子キャンプへの野戦病院の移転を完了した。
 長崎県佐世保市で展開された米原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争を取材中にけがをして佐世保労災病院に入院中だった私が、退院して埼玉の自宅に帰ったのは1月27日。5日間自宅で療養し、会社に出勤したのは2月2日。その私を待っていたのは王子野戦病院問題だった。
 反代々木系学生が王子キャンプに向けてデモを繰り返すたびに、私は王子へ向かった。このころの私は、まだ頭部の裂傷が完治せず、頭部に包帯を巻いたままで、東京労災病院に通院中だった。が、反戦運動は私の取材分野であったし、それに、野戦病院開設をめぐって 何が起きるかをこの目できちんと見届けねば、との思いが強かったためだ。
 もちろん、警視庁クラブ詰めの記者やサツまわり(警察まわり)など多数の記者が反代々 木系学生デモの取材にあたり、私もその一員にすぎなかったが。
 王子キャンプ周辺は住宅の密集地帯だったが、それも軒の低い平屋建てや二階建てが多かった。路地は狭く、加えて、それらが入り組んでいた。まるで迷路のようだった。夜になると、王子キャンプの正面ゲート前でこうこうとライトが照らされている以外は、一帯には街灯も少なく、暗かった。そこで、角材と石をもった学生集団と、投石よけのジュラルミン製楯と催涙ガス銃を携えた機動隊との衝突、攻防が繰り返された。それは、まるで闇夜での“市街戦”だった。催涙ガスのにおいが路地にただよい、目がちかちかして痛んだ。
 学生集団が突進する。すると、機動隊がそれを阻もうと前進する。すると、学生集団が狭い路地を一目散に逃げ回る。逃げ場を失った学生の一部は民家の敷地内に飛び込み、その家の屋根によじ登って機動隊の追跡から逃れようとする。中には、屋根から屋根へと飛び移 る学生もいた。
 佐世保で機動隊による警棒の乱打をあびて負傷したばかりの私は、機動隊の動きにすっかり過敏になっていた。「二度とけがをしたくない」。だから、機動隊が学生集団の排除にかかかる気配をみせると、私はいちはやくその場から離れ、安全な場所に移ろうと心がけた。 が、路地が行き止まりだったりして、逃げるところを失ったこともあった。そんな時は、申し訳ないなと思いながらも、やむなく、民家の屋根に逃れた。頭部の包帯を手で押さえつつ屋根から屋根に飛び移りながら、「これじゃあ、まるでネズミ小僧次郎吉だな」と苦笑したものだ。  
 それにしても、米兵がたたずむ米軍施設の前で、日本人同士が激しく争い、互いに傷つけ合うのを見るのはつらかった。なにか、とても悲しかった。
 米軍は、1969年11月、王子野戦病院を閉鎖した。ベトナム戦争の縮小にともない、日本に運ばれてくる傷病兵が減ったためだろう、との見方が日本側には強かった。
 これにより、米軍王子野戦病院問題は解決し、王子の街は平穏を取り戻した。が、私は、問題はほんとうに解決したんだろうか、との思いをいまなお禁じ得ない。というのも、ベトナム戦争終結後も、いや、東西冷戦が終わっても、日本には引き続き米軍基地が存続し、周辺住民との間で摩擦を起こし続けているからだ。2005年からは、米国政府の世界戦略か ら在日米軍の再編問題が浮上し、沖縄、岩國、神奈川などの基地周辺住民や関係自治体に「米軍基地の機能が強化され、基地公害がいっそう増すのではないか」との懸念を生じさ せている。
 王子野戦病院問題は、決して遠い過去のものではないのだ。(2006年2月9日記)

 当時はノンポリの学生だったが、大学紛争が盛んになり、さらにベトナム戦争反対運動など、その周辺にいて少しはかかわっていた。そういう時代を振り返って、8年前にこうした文章を記録した「岩垂弘」さんではないが、「王子野戦病院問題」は、いよいよその日本が当事者として戦争に積極的に荷担することに踏み込もうとする2014年現在にあって、過去のものでもなければ、他人事でもないという思いをますます強くします。

注:「岩垂弘」=ジャーナリスト。元朝日新聞記者。日本の平和運動や協同組合運動を中心に取材活動をしている。今も現役の方。

北区立中央公園文化センター。

 中央公園文化センターの建物は、戦前の陸軍東京第一造兵廠(兵器工場)の本部として昭和5年(1930年)に建てられました。戦後、造兵廠の一部は米軍に接収されこの建物も米軍施設として使用されてきましたが、昭和46年に区をあげての返還運動と多くの人々の努力が実り日本に返還されました。そして昭和56年文化センターとして生まれ変わりました。
HPより)
 ここにはあっさりと記されています。現地にも、この建物のいわれなどの説明板などは、設置されていないようです。

 ・・・米軍の王子キャンプ(またはキャンプ王子)として利用され、ベトナム戦争時にはキャンプ内に野戦病院も置かれていた。その一方で野戦病院の閉鎖運動や日本への敷地返還などを求めたデモなども付近ではしばしば行われていた。 そうしたこともあり1971年に当地は返還され公園として整備され、1976年に北区立中央公園として開園して現在に至っている。公園内には戦前置かれていた東京第一陸軍造兵廠の本部の建物が現在でもそのまま残されており、現在では中央公園文化センターとして生涯学習の場として各種ホールや会議室・研修室などが入った施設となっている。
 この建物は1930年の建設で、米軍接収後はもとの茶色から白色に塗装され、その特徴ある外観から、ドラマや映画のロケなどにもしばしば利用されている。(「Wikipedia」より)

建物全体の案内図。コの字型をしている。

正面玄関。

車寄せ。

二階への階段。

一階フロア。

外壁上部の飾り模様、窓のかたちなどに特徴あり。


  裏手。

 どこかで見たことがあるようなデザイン、雰囲気。
 台東区立東浅草小学校(旧待乳山小学校)の鉄筋コンクリート校舎。ここはほぼ同じ時期の昭和3年に建てられた。用途は違うので構造も異なるが、全体の雰囲気が風雪に耐えてきた重みを感じます。
復興校舎様式の一つ、インターナショナルスタイル(国際建築様式)。
しっかりした鉄筋造りで、築85年とは思えないほど。


「昭和皇后行啓記念」碑。昭和18年5月19日。

中央公園。何組かの親子連れがのんびり。

  建物脇にある「赤羽台第3号古墳石室」。

建替えが進む団地。
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