おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「大衆の反逆」(オルテガ・寺田和夫訳)中公クラシックス

2015-06-30 23:31:20 | 読書無限

 著者のホセ・オルテガ・イ・ガセーは、スペインの哲学者。1883~1955。
 1930年(昭和5年)に発表された「大衆の反逆」は、文明批評家としての彼の名を広く世界に印象づけました。大衆化社会という20世紀の病理をえぐり出し、その指摘が今なお、80年以上経った現在においても多くの先見性があることに驚きます。
 このかん、日本のみならずアメリカなど世界が「第二次世界大戦」を筆頭にさまざまな壊滅的状況を経験しながらも、未だその人類的教訓を生かしていない、むしろ、1945年以前に回帰しつつある状況(回帰させようとする動き、混乱)を目の当たりにする時に、あらためてこの書の持つ現代的な意義(予見性)をつかむことが必要であるかと思います。
 この文庫版は2002年に初版が発刊され、13年に8版となった書です。今回は、各所にちりばめられたオルテガの洞察的文言を拾い出しておこうと思います。
 
 われわれが解剖しようとする事実は、次の二つの問題にまとめることができる。第一、以前にはもっぱら少数派のためにとっておかれた人生の目録と、大綱において一致する目録を、今日の大衆はわがものとしている。第二、同時に大衆は、少数派に対して従順でなくなった。かれらに服従せず、そのあとについていかず、また尊敬せずに、かれらを押しのけ、かれらにとって変わった。(P18)
 
 「大衆の反逆」は、貴族(自らを選ばれた貴族だと考えている者達、大衆化社会に眉をひそめる人々)にとってはまさに溜飲を下げる書という一面がありました。日本でも三島由紀夫などは大いにこの書に触発され、日本の国家像の欺瞞性、大衆によって牛耳られている日本の現状(とりわけ自衛隊・軍隊のあり方)を直接行動によって変革しようとしたあげく、自刃します。
 今日、アベ自身も強烈なエリート意識の持ち主。祖父への尊敬とそれを批判する人間への許しがたい思い、これによって今の自らの政治生命を保っていると考えているようです。ですから、大衆組織である「組合」、特に「日教組」への反感は、並ではありません。
 大衆に迎合せず、君らと違って国家100年の計を立てている私を尊敬しろ! 服従しろ! 従順になれ! このような意識の持ち主でしかないような気がします。底の浅いエリート観に酔っている、そしてお追従する連中の存在。  
 オルテガの語る真の貴族とはまった異質なもので、浅い世界観・人生観でしかないことを自ら暴露しているようなものです。オルテガがいう「人生の目録」とはけっして「自己満足」というのではありません。「生の充実」ということであって、「本当の生の充実は満足や成就や到達にあるのではない。」(P31)
 のらりくらりと論点をぼかし、最後は数によって「決めるときには決める」。かつての「決められない政治」への強烈な皮肉ですが、そこから生まれるかれの選良意識はとてつもなく恐ろしい。

 自由主義とは、公権が万能であるにもかかわらず、公権自体を制限する政治的権力の原則であり、また、公権と同様に、つまり、最強者、多数者と同様には考えず、また感じもしない人々も生きていくことができるように、公権の支配する国家のなかに、たとえ犠牲を払ってでも、余地を残しておくことに努める政治的権利の原則である。
・・・
 敵とともに生きる! 反対者とともに統治する! こんな気持ちのやさしさは、もう理解しがたくなりはじめていないだろうか。反対者の存在する国がしだいに減りつつあるという事実ほど、今日の横顔をはっきりと示しているものはない。ほとんどすべての国で、一つの同質の大衆が公権を牛耳り、反対党を押しつぶし、絶滅させている。大衆は―団結した多数のこの人間たちを見たとき、とてもそんなふうに見えないが―大衆でないものとの共存を望まない。大衆でないもすべてのものを死ぬほど嫌っている。(P91)

 アベ自身、「貴族」でも「エリート」でもありません。「選挙」という「大衆」の洗礼によって登場した「大衆」の一人にすぎません。だからこそ、公権力を握ったとたん、自分に反対するすべての者を「死ぬほど嫌っている」のです。

 《慢心した坊ちゃん》の時代
 以上のことを要約してみよう。私がここで分析しているのは、ヨーロッパの歴史は、いまやはじめて、じっさいに凡庸な人間の決定にゆだねられているように見えるという新しい社会的事実である。
・・・
 今日、あらゆるところを歩きまわり、どこででもその精神の野蛮性を押しつけているこの人物は、まさに人類の歴史に現れた甘やかされた子供である。甘やかされた子供は、遺産を相続する以外に能のない相続人である。
・・・
 生まれたときに突然、なぜだかわからないが、自分が富と特権のなかに据えられているのを見いだす。それらは、かれに由来したものでないから、本来のかれとはなんの関係もない。それは、他の人間、他の生物、つまりかれの祖先の残した巨大な甲冑である。しかも、かれは相続者として生きなければならない、つまり、他の生に属する甲冑を鎧わなくてはならない。そこで、どういうことになるだろうか。世襲《貴族》は、かれの生を生きるのか、それとも、初代の傑物の生を生きるのか。そのどちらでもない。かれは、他人を演ずる運命、したがって他人でもなく、かれ自身でもない運命をしょわされている。かれの生は否応なく、真実性を失い、他の生を演ずる生、あるいは他の生に似せた生となる。
・・・
 世襲《貴族》は、生を使用し努力することがないために、その人格がぼやけたものになっていく。その結果生まれるのは、古い貴族の家柄に特有の、類のない愚鈍である。この悲劇的な内的機構―あらゆる世襲貴族をどうしようもない退化に導く悲劇的な内的機構―を記述した人は、厳密な意味ではひとりもいない。(P121)   

 ところで、《慢心した坊ちゃん》の特徴は、ある種のことをしてはならないことを《知り》ながら、しかも、知っているがゆえに、その行動とことばで、反対の確信をもっているようなふりをすることにある。・・・ふまじめと冗談、これが大衆的人間の生の主調音である。かれらがなにかをするときには、ちょうど《箱入り息子》がいたずらをするのと同じように、自分の行ないは取り消しがきかないのだというまじめさが欠けている。(P127)

 アベをはじめ、坊っちゃん世襲議員によって牛耳られている国会に付ける薬はないのだろうか。
 
 
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大黒坂。七面坂。一本松坂。さくら坂。・・・(麻布十番駅周辺。その2。)

2015-06-27 13:22:56 | 都内の坂めぐり

 「暗闇坂」の上で「大黒坂」と「一本松坂」と出会います。左に下りる坂が「大黒坂」。その坂を下りる途中、「七面坂」。



     1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 中央付近の十字路が「暗闇坂」(北から上ってくる坂)、「大黒坂」(東から上ってくる坂)、「一本松坂」(南に上っていく坂)、「狸坂」(西へ下りる坂)とが交わる地点。今もほぼ当時のままの道筋です。
 「暗闇坂」から左に折れ、「大黒坂」を下ります。

    
     坂下から上を望む。正面奥が十字路。

大黒坂(だいこくざか)
大国坂とも書く。坂の中腹北側に大黒天(港区七福神のひとつ)をまつる大法寺があったために呼んだ坂名である。

 「大黒坂」を少し下って行くと、左手の下り坂が「七面坂」。

    

七面坂(しちめんざか)
坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。

 坂を上って元のところへ。今度は、南に向かいます。角に標識と「一本松」があります。

    

一本松坂(いっぽんまつざか)
源経基(みなもとのつねもと)などの伝説をもち、古来植えつがれている一本松が坂の南側にあるための名である。

    

一本松の由来
 江戸砂子によれば天慶2年西暦939ごろ六孫源経基 平将門を征伐して皈(「帰」の異体字途此所に来り民家に宿す 宿の主粟飯を柏の葉に盛りささぐ 翌日出立の時に京家の冠装束を松の木にかけて行ったので冠の松と云い又一本松とも云う
 注 古樹は明治9年辰年焼失に付き植継ぎ 昭和20年4月又焼失に付き植継ぐ。

    
                                          一本松。
その坂を上ると左手にあるマンション。「元麻布フォレストタワー」。 

この付近の案内図。

 再び十字路に戻って、今度は西に向かいます。「狸坂」。

    

狸坂(たぬきざか)
 人をばかすたぬきが出没したといわれる。旭坂ともいうのは東へのぼるためか。

坂沿いのお屋敷。

    
                          坂下から上を望む。

 この付近には、「宮村坂」、「狐坂」があるようですが、道に迷ってうろうろしていると、「中国大使館」の警備にあたる機動隊員があちこちに。「麻布高校」と「中国大使館」との路地を行ったり来たりしましたが、・・・。そのまま「狸坂」に戻って坂道を下ってしまいました。その坂が「狐坂」?
 そして、右に折れて「北条坂」の方向へ進みました。
 
「愛育病院前交差点」を右に折れると、「北条坂」。

北条坂(ほうじょうざか)
 坂下近く南側に大名北条家の下屋敷があったためにこの名がついた。

    

 坂下は「外苑西通り」になります。下の方の坂には「鉄砲坂」という標示がありました。

         

鉄砲坂(てっぽうざか)
 江戸時代、坂のがけ下に幕府の鉄砲練習場があったことからこの名がついた
 
 「中国大使館」前の通りの西側には「中坂」、「芥坂」、また「大横丁坂」とかあるらしいので、再び戻って「中国大使館」前をうろちょろしましたが、機動隊が交通規制を始め、警察車両も出てくるようなものものしさに諦めました。

 「麻布税務署」の先の信号を左折、「富士見坂」(「大横丁坂」? )。

    

「内田坂」から「妙経寺」の脇の階段を下りて「さくら坂」に出ました。

さくら坂(旧玄蹟坂)

    

「六本木ヒルズ」建設に伴い新たに作られた道です。もとの玄碩坂です。その名の通り、桜並木の美しい道です。


 <番外>

 玄碩坂(げんせきざか)
  近くに玄碩という僧が住んでいたので、坂名にしたと言い伝えている。藪下という所へおりる坂で藪下坂とも呼んだ。
  六本木ヒルズの建設に伴い、この坂道の風景は写真にあるかつてのものから現在大きく様変わりし、現在玄碩坂は「さくら坂」と 呼ばれる坂になっています。写真に見える標識も撤去されています(2003年5月)。

(この項、HPより拝借しました。)

坂の途中の公園。子ども達の元気な声が。

    

 駐車場の案内を兼ねて案内図があちこちに。

    

 ただ、「さくら坂」か「けやき坂」かがはっきりしないような表記になっています。特に左の案内図。

これには「さくら坂」(→)と。

これが「けやき坂」。

 「さくら坂」同様に六本木ヒルズ完成に伴いできた坂道です。六本木ヒルズの目抜き通り。

            



    1880年代のようす(「同」より)。

 中央付近が現在の「テレビ朝日」、「六本木ヒルズ」などの地域。毛利庭園の池は規模は縮小されていますが、残っています。
 「玄碩坂」は、「さくら坂」になりました。現「けやき坂」は新しくつくった坂。
 「六本木ヒルズ」の西側の通りは寺町通りだったことが分かります。「妙経寺」、「専称寺」、「長幸寺」などが今も残っています。

 結局、駆け足での探訪。どこにも寄らず、暑い日差しの下でした。今度はゆっくりと散策したいものです。





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「虎の威を借る狐」。「憂国」家気取りの危険性。

2015-06-26 22:08:58 | 平和
「経団連に働きかけ、マスコミ懲らしめを」 自民勉強会

 ここまで品格を下劣にさせたのは誰か? アベ親衛隊を自任する連中の集まり。たまたま敵失(民主党)のおかげとアベ効果で、議員の地位にいられる(程度の)人間が、自ら天下を取った気分で、高揚感で語る。それをもてはやす連中。
 アベはこういう動きに内心ではほくそえんでいるはず。ただ、行きすぎては困るぞ(ズバリ本音を言ってはこまるぞ)、というポーズはとる。
 おそらく、マスコミをますます萎縮させる効果は出てきそう。それが恐ろしい!

 作家の百田尚樹氏は25日、市街地に囲まれ世界一危険とされる米軍普天間飛行場の成り立ちを「もともと田んぼの中にあり、周りは何もなかった。基地の周りに行けば商売になると、みんな何十年もかかって基地の周りに住みだした」と述べ、基地の近隣住民がカネ目当てで移り住んできたとの認識を示した。安倍晋三首相に近い自民党の若手国会議員ら約40人が、党本部で開いた憲法改正を推進する勉強会「文化芸術懇話会」で発言した。
 実際には現在の普天間飛行場内に戦前、役場や小学校のほか、五つの集落が存在していた。沖縄戦で住民は土地を強制的に接収され、人口増加に伴い、基地の周辺に住まざるを得なくなった経緯がある。
 勉強会は冒頭以外、非公開。関係者によると、百田氏は「基地の地主さんは年収何千万円なんですよ、みんな」と発言。「ですからその基地の地主さんが、六本木ヒルズとかに住んでいる。大金持ちなんですよ」などと持論を展開したという。
 普天間飛行場の周辺住民約2千人が、米軍機の騒音で精神的苦痛を受けたと訴え、那覇地裁沖縄支部が約7億5400万円の支払いを命じた判決に触れ、「うるさいのは分かるが、そこを選んで住んだのは誰だと言いたい」と、自己責任だとの見解を示したという。
 「基地の地主は大金持ち。基地が出て行くとお金がなくなるから困る。沖縄は本当に被害者なのか」とも述べたという。
 議員から沖縄の地元紙が政府に批判的だとの意見が出たのに対し、百田氏は「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない。あってはいけないことだが、沖縄のどこかの島が中国に取られれば目を覚ますはずだ」と主張した。
 出席議員からは、安保法案を批判する報道に関し「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい。文化人が経団連に働きかけてほしい」との声が上がったほか、「沖縄は戦後、予算漬けだ。地元紙の牙城でゆがんだ世論をどう正すか」などの批判もあった。

より

 この「勉強会」なるもの、「産経新聞」によると

 勉強会は自民党の木原稔青年局長が代表で、首相側近の加藤勝信官房副長官や、萩生田光一・党総裁特別補佐も参加した。
自民党の若手国会議員有志は25日、芸術家を講師に招いて意見交換する勉強会を発足させた。出席者には、安倍晋三首相(自民党総裁)に近い議員も多く、9月の総裁選を前に首相の無投票再選の機運を高める狙いがある。
 新勉強会は「文化芸術懇話会」。設立趣意書によると、芸術家との意見交換を通じ「心を打つ『政策芸術』を立案し、実行する知恵と力を習得すること」を目的としている。 この日、党本部で開いた初会合には加藤勝信官房副長官や薗浦健太郎外務政務官、萩生田光一総裁特別補佐ら首相を支持する議員を中心に37人が出席、作家の百田尚樹氏の講演に耳を傾けた。
 代表に就任した木原稔党青年局長は会合後、記者団に「党所属国会議員として、党や政府が進めようとしていることを後押しするのは当然だ」と強調。裁選に向け、首相の「応援団」として活動するとみられる。今後は月1回のペースで会合を開催する予定。

 講師は、アベの親友・「芸術家」・「百田」だから大笑い! イヤ、恐い!

 そして、さりげなく以下の記事を載せた。

 一方、党内のリベラル系議員による勉強会「過去を学び『分厚い保守政治』を目指す若手議員の会」も同日、漫画家の小林よしのり氏を講師に招いて会合を開く予定だったが、「運営上の都合」(同会)により急(きゅう)遽(きょ)中止した。

 小林よしのりすら拒否し、反アベ的動きを徹底して封じ込めようとする自民党執行部の意向がありあり。何しろ自らが推薦した憲法学者が「違憲」と主張したとたん、「人選の誤りだった」と平然と言ってのけるほどだから。
 
 さらに、次のような記事が。(「朝日新聞」より)

 選挙権年齢を18歳以上に引き下げることに合わせて政治参加の意識を高める主権者教育で、高校の教員が「政治的中立」から逸脱した場合、罰則を科す案が25日、自民党で浮上した。「偏向教育を防ぐ」ことを目的とし、関連法の改正を求めるが、党内には慎重論もある。
 党文部科学部会内に設けられた勉強会(座長=池田佳隆衆院議員)がまとめた。来週にも、部会で正式に議論する。
 現行の教育公務員特例法は教員の政治的行為を制限しているが、違反しても罰則はない。勉強会では「特定のイデオロギーを子どもたちに押しつけてはならない」との意見があがり、民主党の支持組織・日本教職員組合(日教組)を名指しして批判。罰則を求めることにした。ただ、違反行為を誰が判断するかなどの詳細は詰めていない。
 主権者教育案はほかに、教職員組合に収支報告の提出を義務づけることも提案。地方公務員法を改正し、違法な活動があった場合は人事委員会の登録から除外することにも言及。登録団体から外れると、給与や勤務時間について、自治体に交渉の申し入れをすることができなくなる。
 勉強会内には「組合費が民主党などの選挙活動に使われている。透明性を高めるべきだ」との声がある一方、「特定の団体を攻撃するのは、政権与党として控えた方がいい」と慎重な対応を求める意見もある。(相原亮)

 「日教組はどうなんだ! 」とヤジを飛ばしたアベと軌を一にしている。

 政治家(屋)をここまでおごり高ぶらせたのはいったい誰か? 何だかイヤな感じがますますしてきた昨今の政治情勢。

  
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鳥居坂。於多福坂。暗闇坂。・・・(麻布十番駅周辺。その1。)

2015-06-25 22:50:41 | 都内の坂めぐり

 6月24日(水)午後。ちょっと出かけた帰りに、大江戸線「麻布十番」駅で途中下車して、さっそく坂道探索と。「永坂」から少し西へ入って、それから南に下って、と時間もないが、ぐるりと回ってみようという魂胆。
 が、「元麻布3丁目」にある「中国大使館」付近はものものしい警戒。またしても四方八方「見附」。その周囲には坂もありますが、交通規制が始まるやら、道路には機動隊が昔懐かしい(?)ジュラルミンの盾を脇に置いての警戒・誘導。手持ちの地図を見ながらうろうろしましたが、結局、その付近には行けませんでした。
 だから、きわめて中途半端な「坂」探索。

 「麻布十番」駅の長い階段を上がって地上に。「外苑東通り」(「青山一丁目」付近で分岐)を西に向かうと、「鳥居坂下」の交差点(「外苑東通り」は二本あるのか? )。この坂を上ることから開始。
坂下の標識。

鳥居坂
 江戸時代なかばまで坂の東側に大名鳥居家の屋敷があった。元禄年間(1688~1703)ごろ開かれた道である。

坂の途中から坂下を望む。

    

港区指定文化財 名勝 旧岩崎庭園
 
 現在の国際文化会館の庭園の前身は、昭和4年(1929)に三菱の四代目当主岩崎小彌太(1879‐1945)が建設した岩崎家鳥居坂本邸の庭園で、京都の造園家「植治〈うえじ〉」の小川治兵衛の作庭によるものでした。「植治」の歴代当主小川治兵衛は数多くの庭園を作庭しており、近代日本庭園作庭の先駆者として著名です。
本庭園は、崖に面した南側と鳥居坂に面した東側に植栽が施され、その内側に池を設けた池泉回遊式の日本庭園であり、入り口部の岩組なども優れています。また、昭和5年(1930)の「東京市麻布区鳥居坂町 岩崎邸実測平面図」と比較しても、作庭当初の姿を大筋において残していることがわかります。
岩崎邸は昭和20年5月の空襲で焼失し、その後、昭和30年には国際文化会館が建設されました。この建物は前川國男・吉村順三・坂倉準三の共同設計による戦後日本の優れた建築の一つですが、旧岩崎邸の庭園との調和を最大限に考慮する姿勢が認められますす。
 本庭園は、近代日本庭園として優れたものであるとともに、国際文化会館と調和した景観を創り出している点からも高く評価されます。

 平成17年10月25日 港区教育委員会

        

(写真は、HPより)



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 江戸時代のこの地には多度津藩京極家(1万石)の屋敷がありましたが、明治時代に入り、井上馨の屋敷となりました。上の『五千分ノ一東京図』に見える「井上(馨)邸」がのちの旧岩崎邸で、現「国際文化会館」の敷地。
 坂の途中の左の屋敷跡には、赤レンガの塀が現存しています。 その向かい側が現「東洋英和女学院」の敷地。南北に延びる坂道は、左が「鳥居坂」、右が「永坂」。その間にある「潮見坂」「於多福坂」なども確認できます。

遠方に「六本木ヒルズ」。

なお、「鳥居坂」については、
《鳥居坂ものがたり - 港区「www.city.minato.tokyo.jp/azabuchikusei/mirai/.../01_roppongi02.pdf」》に過去の歴史や写真と現在のようすが詳細に記されています。

坂を下り、途中から東(左)に入ります。

 この先のカギ型に下りる坂が「潮見坂」のようですが、沿道の工事中でトラックで道路が占拠されているので、その間を下って行きます(写真は撮れず)。その先が「於多福坂」。

    

於多福坂
 坂の傾斜が途中でいったんゆるやかになってまた下ったので、顔のまん中の低いお多福面のようだと名づけられた。

    
 坂下から。                             坂上から。

坂上にある標識。正面左手が「フィリピン大使館」。

 突き当たりを左に折れて、再び「鳥居坂」へ。下校中の制服姿の女子小学生達(低学年)の間を縫いながら、そのまま南に下って「外苑東通り」を越えます。「外苑東通り」の北側が「麻布台」、通りの南側は「元麻布」付近の坂道となります。

大通りを越すと、正面の上り坂が「暗闇坂」。

    

暗闇坂
 樹木が暗いほどおい茂った坂であったという。以前の宮村(町)を通るため宮村坂ともいった。

 今でも右側は高い崖で、木が覆い被さるように茂っているところがあります。南へ曲がりながら上る急な坂道で、上る車の通りもけっこうある道です。途中、左手に「オーストリア大使館」があります。坂上で、「大黒坂」、「一本松坂」と交わります。

    
 坂の途中から坂下を望む。                      坂上の標識。      


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庾嶺坂。新坂。地蔵坂。神楽坂。三年坂。・・・(市ヶ谷駅から飯田橋駅まで。その4。)

2015-06-23 21:19:41 | 都内の坂めぐり

 「外堀通り」を進み、「家の光会館」の脇からすぐ左に上る坂。

     庾嶺坂(ゆれいざか)

 江戸初期、この坂のあたりが美しい梅林であったため、二代将軍秀忠が中国江西省の梅の名所大庾嶺に因み命名したと伝えられる。別名「若宮坂」「行人坂」「祐玄坂」とも呼ばれる。

 他の異名としては、「幽霊坂」、「唯念坂」など、全部で6つの呼び名があるようです。標識には「庾嶺坂」を採用しています。この名の方が趣があると・・・。

 今は、かつて「梅林」があった雰囲気は感じられませんが、坂の左側は緑が続きます。右手の「若宮八幡神社」の先を左折して道なりに行きます。この坂が「新坂」。

    
                            新坂(しんざか)

「御府内沿革図書」によると、享保16年(1731)4月に諏訪安芸守(戸田左門)の屋敷地の中に新しく道路が造られた。新坂は新しく開通した坂として命名されたと伝えられる。

緩やかに上り、住宅地を道は西に進んで行きます。

 突き当たりを右折し、さらに少し広い道になる手前を右折して進むと、「地蔵坂」。

  
                     地蔵坂(じぞうざか)

 この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それに因んで地蔵坂と呼ばれた。また、藁を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた。

急な坂を下りきると、そのまま「神楽坂」方向へ。

    

神楽坂(かぐらざか)
 坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。

繁華街。これまでの道筋とは段違い。

 続いて、「善国寺」の先を左折して「三年坂」に向かいました。両側はお店がずらりと並んだ道筋。入口には、
     「本多横丁」の標識。

本多横丁(ほんだよこちょう)

 神楽坂には横丁が沢山ありますが、この本多横丁は神楽坂の横丁では最も大きい横丁。むかし本多家の屋敷があったことから本多横丁と呼ばれるようになったとのことです。
 本多家とは、江戸時代の大名格の武家で石高1万500石。この本多家の屋敷が江戸中期から明治の初期までこの辺りにあったとことで、当時は「本多修理屋敷脇横町通り」と呼ばれていたらしいです。
 本多修理とは、江戸時代後期(幕末)の福井藩の家老で「本多 修理(ほんだ しゅり)」。
 本多修理は「Wikipedia」によると、嘉永2年(1849年)に家督を継いで藩主・松平慶永に仕え、慶永の藩政改革のブレーンのひとりとして活動し、主に軍制改革で功績を挙げました。
 安政の大獄で慶永が隠居した後は養子の松平直廉に仕え、第1次長州征伐では幕府軍の副総督となった直廉の軍事総奉行として小倉まで従軍し、明治時代に入ると再び慶永(春嶽)に仕え、側近として活動しました。
 尚、この本多横丁は、終戦後の一時期、スズラン通りと呼ばれた事もあったそうです。

(以上、「東京 神楽坂 ガイドkagurazakaguide.web.fc2.com/1020.html」HP参照。)

 そのHPに以下のような記事も。

 「三年坂」は、本多横丁を含んでいます。 「神楽坂通り」から「軽子坂」の延長線の道と交差するまでが本多横丁で、これをさらに進み大久保通りまでのなだらかな坂道が「三年坂」です。

 なるほど、これで納得です。さらに、

三年坂

 大久保通り、筑土八幡町交差点近くから、南に登り、神楽坂通りに至る比較的長い坂道です。傾斜は緩やかです。坂下は津久戸町、坂上は神楽坂三丁目と四丁目の境界で、道の両側は飲食店が並んでいます。
 三年坂については、横関英一『江戸の坂東京の坂』において、一般に寺や墓地の近くにあり、「その坂で転んだものはすぐにその土を三度なめないと三年以内に死ぬ」という迷信があったとされていたことに名称が由来するとのこと。
 標識は、設置されていません。「この坂で転ぶと三年以内に死ぬ」とはさすがに公衆の目に触れる説明を書いたものは設置できなかったのであろうと想像されます。

HPより。

 さらにナットク! しかし、この「三年坂(三念坂)」こそ、京都水の「三年坂」にも劣らない道筋です。

         
 「本多横丁」案内図。              「神楽坂案内図」。

 人通りも激しく、一杯機嫌の集団もちらほら。小学校か中学校のクラス会が終わった人達が店を出てきたところ。年格好は60代後半くらいの男女のグループ。道の真ん中で、恩師らしい人を囲んで大声で騒いでいる内に、一人の男性が見事に転んだ! 慌てて駆け寄る仲間。すぐ元気に立ち上がったが。・・・

 「この坂で転ぶと三年以内に死ぬ」 
 
 エッ!

    
                   「三年坂」から「本多横丁」を望む。    

        坂下から。

 「三年坂」の途中を右折すると、「軽子坂」。

    

軽子坂

 この坂名は新編江戸志や新撰東京名所図会などにもみられる。
 軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた。

 「飯田橋」駅方向へ下る広い坂。いったんこの坂を下って、再び「神楽坂」方向に戻りました。

 土曜の午後というせいか、けっこうな人通り。

    

神楽坂には横丁(小路)が縦横に。「神楽小路」。まだまだ探索のし甲斐がありそうです。

    




1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 上方、斜めの道が「神楽坂」。「合(逢)坂」、「祐源坂(庾嶺坂)」、「軽子坂」などが確認できる。

 なお、神楽坂は通りの名称で言うと「早稲田通り」です。 
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歌坂。逢坂。「さねかずら」。「掘兼の井」。・・・(「市ヶ谷駅から飯田橋駅まで。その3。)

2015-06-22 23:22:37 | 都内の坂めぐり

上がって右に折れ、突き当たりを右折すると、「歌坂」。    

歌坂(うたさか)
  雅楽(うた)坂ともいう。一説には「善告鳥(うとう)(海鳥の一種)」の口ばしに似た地形であることからともいう。「うとう」が「うた」になり、歌坂に転じたものであろう。

 この付近、坂下の外濠沿いを船河原といった・・・。その岸に望む坂であった。王子のウトウ坂(大坂)が、坂下を岸町と呼ぶのと同じ地形的状況からこの歌坂も古くはアイヌ語のウタ(ウトウと同義で、突端とか出崎という意味)から着ているという説が信憑性をもってくる。・・・古い坂名と思われる。(石川悌二「江戸東京坂道事典」より) 

西南に下る坂道。法政大学の校舎が左手に。

 「歌坂」を上って、道なりに左折、突き当たりを右に進みます。左手に瀟洒な和風の建物。
 
    
                     「朝霞荘」。建築家・故黒川紀章さんの作品。

 閑静な住宅街の一画にあり、周囲の環境に調和するように設計され、「損保ジャパン」の厚生施設となっています。

右手に下る坂が、「逢坂」。    

逢坂(おうさか)
 昔、小野美作吾という人が武蔵守となり、この地に来た時、美しい娘と恋仲になり、のち都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で再び逢ったという伝説に因み、逢坂とよばれるようになった。

 これも石川悌二さんの前掲書によって詳述します。

 『紫の一本』はこの坂にまつわる次のような古い伝説をのせている。むかし、奈良朝のころに小野美佐吾という人が武蔵守となって都からこの地に赴任し、「さねかづら」という美女に逢って相愛の仲となったが、やがて都から帰還の命令がきたために心を残して戻っていった。けれども男の「さねかづら」への思慕はつのるばかりで、やがて病没した。
 そして男の魂は女の夢枕に立って、彼女をこの坂上によび寄せて再開したのだという。植物のサネカズラは、モクレン科の常緑蔓性灌木で、一名ビナンカズラともよばれるので、「美男坂」という坂名はこのサネカズラから転じたものであろう。


 ここでは、奈良時代となっていますので、万葉集の時代。こうした逸話はもちろん、小野美佐吾の歌はありませんが。


 玉くしげみむろの山のさな葛
       さ寝ずはつひにありかつましじ
                        藤原 卿
                    《万葉集巻二―94》

 万葉集にはサネカズラを詠んだ歌が10首ある。この鎌足の歌もその1つである。「玉くしげ」はみむろの山(今の三輪山)の枕詞。「さな葛」はサネカズラのことで、「さ寝ずは」のさ寝をおこす序となっている。「ありかつましじ」のありは今の状態でいること、ましじは「ないであろう」の意である。
 歌は「三輪山のサネカズラのように、あなたと一緒に寝ないでは今のように生き続けることはできないであろう」という意味である。鏡王女が鎌足に贈った歌にたいする鎌足の返歌である。
 サネカズラは図鑑などでは関東以南に多い常緑蔓性の木本植物とされているが、実際には福島県浜通りの海岸沿いを点々と北上し、仙台市まで分布する。枝はいくつにも分かれてもつれあう。その様を男女がむつみあっているようにみて「サネカズラのように」と詠んだのである。ストレートでしかも露骨な表現で好きになれないが、万葉研究者たちは「開放的で率直な表現である」などとほめている。また、サネカズラの枝は2つに分かれた後、先の方でまた2本が絡み合うことから、「後でまた逢う」の意にも用いられている。次の人麻呂の歌はその例である。

 さね葛のちも逢はむと夢のみに
         うけひわたりて年は経につつ
                          柿本人麻呂
                   《万葉集巻十一―2479》

 「あなたに後でまた出合おうと夢みつつ、年だけがたっていく」という意である。鎌足の歌に比べずっと品の良い歌と思う。
 本種の分布からいえば福島県は北限に近いが、松川浦の砂洲のクロマツ林床には多産する。夏に葉腋に一個の淡黄白色花をつけ、秋に赤熱する。
 別名ビナンカズラは枝皮の粘液を水に溶かし頭髪を整えたことからきている。美男になったかどうかは定かでない。

(「ふくしまの植物たち 福島県文化振興財団」「www.culture.fks.ed.jp/b_fk/shokubutsu/syokubutu.../setumei_p011.htm」HPより)

 よく知られている「さねかずら」は、百人一首の歌でしょう。

名にし負はば逢坂山のさねかずら 人に知られで来るよしもがな  三条右大臣

歌意

 逢坂山のさねかづらではないが、そのさねかづらをたぐり寄せるように、人に知られずにこっそりとあなたと逢う方法があればいいのだが・・・。

 「逢(坂山)」と「逢う」、「さねかづら」と「小寝(さね)」、「来る」と「繰る」(たぐり寄せる)という掛詞や縁語が巧みに用いられています。
                 (「Wikipedia」より)

 そのまま下って行くと「外堀通り」に出ます。その途中にあるのが、「築土神社」。「掘兼(ほりかね)の井」の説明板。

        

史跡 掘兼の井(ほりかねのい)
 新宿区市谷船河原町9番地
 掘兼の井とは「掘りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。堀兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の堀兼の井には次のような伝説がある。
 昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないように言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精魂つきて死んでしまったという。
 
 平成3年11月 新宿区教育委員会

 なかなかすさまじい「いじめ」の話を載せてあります。「掘兼の井」は、全国にあるようですが、一般的には「まいまいず井戸」と称されているらしい。

 「まいまいず井戸」とはかつて武蔵野台地で数多く掘られた井戸の一種で、地表面をすり鉢状に掘り下げ、すり鉢の底の部分から更に垂直の井戸を掘った構造である。すり鉢の内壁に当たる部分には螺旋状の小径が設けられており、利用者はここを通って地表面から底部の垂直の井戸に向かう。

 「まいまい」はカタツムリの事で、井戸の形がその殻に似ている事から「まいまいず井戸」と呼ばれる。「まいまいず井戸」は既に古代から存在し、武蔵野の歌枕として知られる「ほりかねの井」(堀兼之井、堀難井之井)がこれを指すものと見られる。

 いかでかと思ふ心は堀かねの井よりも猶ぞ深さまされる(伊勢)

 はるばると思ひこそやれ武蔵野の ほりかねの井に野草あるてふ(紀貫之)

 武蔵野の堀兼の井もあるものを うれしや水の近づきにけり(藤原俊成)

 汲みてしる人もありけんおのずから 堀兼の井のそこのこころを(西行)

 井はほりかねの井。玉ノ井。走井は逢坂なるがをかしきなり。(『枕草子』 清少納言)

など、和歌や文学作品に多数登場する。埼玉県狭山市堀兼に「堀兼之井」の旧跡が現存するが、「ほりかねの井」という言葉が、特定の井戸を指すものかどうかについては不詳である。「まいまいず井戸」全般を指す一般名詞とも考えられ、「まいまいず井戸」は武蔵野を象徴するものとして平安時代の都人にまで知られていたようである。江戸時代には「まいまいず井戸」に関する考証が盛んに行われたが、江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』には「『ほりかねの井』と称する井戸跡は各地にあり、特定の井戸のことと定めるのは難しい」との記述がある。
 こうした独特の構造の井戸が掘られた背景には、武蔵野台地特有の地質学的背景がある。武蔵野台地は多摩川によって形成された扇状地であり、武蔵野台地には脆い砂礫層の上に更に火山灰の層があるため、特に国分寺崖線から上は地表面から地下水脈までの距離が長い。従って武蔵野台地では他の地域よりも深い井戸を掘らなければ地下水脈に達しないにも拘らず、地層が脆いために地下水脈まで垂直な井戸を掘ることが出来ない時代が長かったのである。そこで、一旦地表面からすり鉢状に地面を掘り下げて砂礫層の下の粘土層を露出させ、そこから改めて垂直の井戸を掘って地下水脈に至るという手段が採用された。一般の井戸に比べてこのような「掘り難い」方法によって掘られた井戸が「まいまいず井戸」である。

 (以上、「Wikipedia」参照)

 かつて行ったことがある「まいまいず井戸」=「掘兼の井」。JR羽村駅北口にありました。
二回りして井戸に着く、そのくるくる回る道をかたつむりになぞらえたという説明文がありました。

 かなり困難な井戸掘り作業であったことが分かります。 

 町名に注目! 「船河原町(町会)」とあります。

 地形的に(外堀があるので)こういう町名になったと思いましたが、実は、

 船河原町はもともと江戸城内の平河村付近(現 ・千代田区大手町周辺)にあったが、1589年江戸城拡張の際、氏神の築土神社と共に牛込見附(現JR飯田橋駅)付近へ移転。さらに1616年築土神社が筑土八幡町に移転後、同町も筑土八幡町近くの現在地へ移転した(平凡社 『郷土歴史大事典』参照)。ところが戦後、築土神社は千代田区九段に移転。他方で船河原町は現在地に留まったことから、地理的に神社から最も遠い氏子となってしまった。そこでここに飛地社を建て、築土神社の氏子であることを冠したものと思われる。

(この項「」HPより)

 いずれにしてもこの辺りの地名や史跡、坂名には一筋縄ではいかない、いわく・因縁があるようです。

坂の途中から見上げる。

坂下にある標識。
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鼠坂。「浄瑠璃坂の仇討ち」。払方町。鰻坂。・・・(市ヶ谷駅から飯田橋駅まで。その2。)

2015-06-20 21:25:50 | 都内の坂めぐり
 「芥坂」を戻って、今度は左に曲がります。
「芥坂」上から下を望む。

西に向かって急角度で曲がりながら一気に下りていく坂。「鼠坂」。

鼠坂(ねずみざか)
 細くて狭い坂だったから、まるで鼠がとおるほど狭かったからそう名づけたのであろう。

坂の途中から見上げる。
 坂下は「中根坂」につながります。工事中のフェンス。石垣がかつてを偲ばせます。この坂も周囲が大きく変化すると、雰囲気がずいぶん変わるはずです。

 そこに向かう途中、「大日本印刷市谷松柏寮」のところに、
「浄瑠璃坂の仇討跡」。

新宿区指定史跡
 浄瑠璃坂の仇討跡   指定 昭和60年11月1日

 浄瑠璃坂と鼠坂の坂上付近は、寛文12年(1672)2月3日江戸時代の三大仇討の一つ、浄瑠璃坂の仇討が行われた所である。
 事件の発端は、寛文8年(1668)3月、前月死去した宇都宮城主奥平忠昌の法要で、家老奥平内蔵允が同じ家老の奥平隼人に、以前より口論となっていた主君の戒名の呼び方をめぐり、刃傷に及び、内蔵允は切腹、その子源八は改易となったことによる。
 源八は、近縁の奥平伝蔵・夏目外記らと仇討の機会をうかがい、寛文12年(1672)2月3日未明、牛込鷹匠町の戸田七之助の組屋敷付近に潜伏していた隼人らに、総勢42名で討入り、牛込御門前で隼人を討取った。
 源八らは、井伊掃部頭へ自首したが、助命され伊豆大島に配流となり6年後許されて全員井伊家ほかに召抱えられた。

     平成3年1月 東京都新宿区教育委員会

 興味深いお話です。
 
浄瑠璃坂の仇討

 寛文8年3月2日(1668年4月13日)、下野興禅寺(宇都宮市)で宇都宮藩の前藩主・奥平忠昌の法要において、奥平内蔵允)と奥平隼人の2人がささいなことから口論となり、憤慨する内蔵允が隼人に抜刀した。
 居合わせた大身衆の同輩・兵藤玄蕃などの仲裁により、双方はそれぞれの親戚宅へ預かりの身となった。だが、その夜、内蔵允は切腹する。
 藩の処分は事件から半年を経た9月2日(10月7日)に下された。隼人へは改易、内蔵允の嫡子・源八(当時12歳)、ならびに内蔵允の従弟・伝蔵正長へは家禄没収の上、追放が申し渡された。両成敗ならば隼人は切腹となるはずである。隼人の親子らは、江戸の旗本・大久保助右衛門の屋敷に身を寄せた。
 そのためこの処分は不公平である、と追放された源八とその一族に同情に同情して自ら浪人の身となって源八の助太刀をかってでた主な奥平家の藩士は、40数名におよんだ。
 源八一党からの襲撃を不安視した隼人は、江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠頭・戸田七之助の屋敷へ身を移した。
 寛文12年2月3日(1672年3月2日)未明、源八とその一党42名が隼人の潜む戸田屋敷へ討ち入った。屋敷から引き上げて牛込御門前まで来たところで、源八は隼人と対決し、討ち取った。
 源八ら一党は、幕府に出頭して裁きを委ねた。源八の殊勝な態度に感銘を受けた大老・井伊直澄による幕閣への影響力が大きかった為、結果としては、死一等を減じて伊豆大島への流罪という処分に落ち着いた。
 流罪から6年後、天樹院(千姫)13回忌追善法要にともなう恩赦によって赦免された源八は、のちには彦根藩井伊家に召抱えられた。
 源八の一族40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後に起こる元禄赤穂事件において赤穂浪士たちが参考にしたとされている。
 この仇討ちは、伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)と並ぶ仇討ちとして、当時は大変な評判となり、江戸の瓦版をにぎわせて「武士道の範」として世間に感銘をあたえ、歌舞伎や講談の題材としても取り上げられた。のちに起こった赤穂浪士の討ち入りと合わせて江戸三大仇討ちと称されることも多い・・・

(以上、「Wikipedia」参照)

 ここに登場する「伊賀越の仇討ち」。
 
伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)

 寛永7年(1630年)7月11日、岡山藩主池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫に藩士・河合又五郎が横恋慕して関係を迫るが、拒絶されたため又五郎は逆上して源太夫を殺害してしまった。又五郎は脱藩して江戸へ逐電、旗本の安藤次右衛門正珍にかくまわれた。
激怒した忠雄は幕府に又五郎の引渡しを要求するが、安藤次右衛門は旗本仲間と結集してこれを拒否し、外様大名と旗本の面子をかけた争いに発展してしまう。
 寛永9年(1632年)、忠雄が疱瘡のため死に臨んで又五郎を討つよう遺言する。子の光仲が家督を継ぎ、池田家は因幡国鳥取へ国替えとなる。幕府は、喧嘩両成敗として事件の幕引きをねらったが、源太夫の兄・渡辺数馬は、主君忠雄の遺言による上意討ちの内意を含んでいたので、脱藩する。
 剣術が未熟な数馬は姉婿の郡山藩剣術指南役荒木又右衛門に助太刀を依頼する。数馬と又右衛門は又五郎の行方を捜し回り、寛永11年(1634年)11月に又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることを突き止める。又五郎は危険を察し、再び江戸へ逃れようとする。
 数馬と又右衛門は又五郎が伊賀路を通り、江戸へ向かうことを知り、道中の鍵屋の辻で待ち伏せすることにした。又五郎一行は又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門、妹婿で槍の名人の桜井半兵衛などが護衛に付き、総勢11人に達した。待ち伏せ側は数馬と又右衛門それに門弟の岩本孫右衛門、川合武右衛門の4人。
 11月7日早朝、待ち伏せを知らず、鍵屋の辻を通行する又五郎一行に数馬、又右衛門らが切り込み、決闘が始まる。逃げ遅れた又五郎は数馬、又右衛門らに取り囲まれた。又五郎を倒すのは数馬の役目で、延々5時間も斬り合い、やっと数馬が又五郎に傷を負わせたところで、又右衛門がとどめを刺した。
(以上、「Wikipedia」参照)

 この「伊賀越の仇討ち」は、「東海道」を歩き、沼津宿にさしかかり、「狩野川」沿いの道に進んで、「黒瀬橋」の下を通り抜けるたところにある「平作地蔵の祠」で関わりがありました。(以下、再掲)

  
                        「平作地蔵の祠」と解説板。

日本三大仇討の一 平作地蔵尊の由来

 この地蔵尊はいつの頃創建されたか明らかでないが、有名な浄瑠璃 『伊賀越え道中双六』 に出てくる沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。
 地蔵尊の建てられている場所に昔一軒の茶屋があり主を平作と云い娘のお米(後の渡辺数馬の妻)に茶店をやらせ、自分は旅人の荷担ぎを事として居りました。そして仇河合又五郎の行方を知っている旅人十兵衛(二十数年前に別れた平作の子)に娘お米の夫、渡辺数馬の為、平作は自害して、その居場所を聞き出す。

 沼津千本浜の場面

 平作は決心して自害し 『死に行く仏の供養として聞かせてくれ』 と申します。十兵衛はその情に引かされ遂に明かします。 『仇河合又五郎の落ちゆく先は九州相良吉田でおうたと人の噂』 と。浄瑠璃の名台詞で余りにも有名です。平作のおかげで数馬の義兄荒木又右ヱ衛門の助太刀で首尾よく仇討の本懐を遂げることが出来、平作の義侠心は後の人々の心を打ち、茶店のあったと云う場所に一つの碑を建て地蔵尊を建立しました。現在この地蔵尊は延命子育地蔵(通称もろこし地蔵)として長い間土地の人々の信仰を集め例祭は毎年七月三十一日に新しい精霊を迎えて地元民の手で賑やかに行われております。

                                      山王前自治会

 ここでは「日本三大仇討の一」となっています(この場合は、「曽我兄弟の仇討ち」と「忠臣蔵」と合わせて、そのように称するようです)。また、芝居では、「沼津(千本松)」の場がけっこう上演されるようです。

 「泉岳寺」付近や「本所松坂公園」も散策しましたので、これで「江戸三大仇討ち」に関わる史跡を訪れたことになります。

 「鼠坂」を戻り、そのまま直進し、突き当たりを右折し、その先を左折すると「鰻坂」。この辺りは、「牛込払方町」

緑濃きおうち。「払方」という地名。

 払方町は、隣接する市谷砂土原町、市谷船河原町と並び江戸期に大名屋敷を持ち、明治時代より都心部有数の高級住宅街であり、元祖山の手の一つである。(「Wikipedia」より) 

 江戸時代には、この区域のほとんどは、武家地によって占められており、町名にも武家地であったことに由来するものがみうけられます。
 納戸町、払方町、細工町、これらは、居住していた武士(同心)の役職名に由来して命名されたものです。
 納戸役は、将軍のてもとにある金銀・衣服・調度の出納や大名旗下の献上品・将軍の下賜品を取り扱っていたもので、その内の下賜品を取り扱ったのが、払方です。御細工は江戸城内建物・道具の修理・製作にあたっていました。
 また、二十騎町は、先手与力の屋敷地であったことに由来しています。1組10人で構成される先手与力が、2組20人居住していたことから、二十騎町と俗称され、現在の二十騎町となりました。

HPより)

    
 
鰻坂(うなぎざか)
坂が曲がりくねっているから鰻のような坂だという意味で鰻坂とよばれた。「御府内備考」の払方西文政丁亥書上に「里俗鰻坂と唱候、坂道入曲り登り云々」と記されている。 

広い通りを横切った先がその名の通りの「鰻坂」という雰囲気。

    
 坂下から。                             坂上から。
        
       「鰻の寝床」のように長く細く曲がっている。

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左内坂。中根坂。浄瑠璃坂。芥坂。・・・(市ヶ谷駅から飯田橋駅まで。その1。)

2015-06-19 22:06:59 | 都内の坂めぐり

 6月6日(土)。午後2時頃から4時頃。JR「市ヶ谷」駅で下車して、「左内坂」から。・・・上がったり、下ったりで「神楽坂」まで。新宿区のエリアですが、町の名称も由緒あるものが入り組んで存在している町並み。前回の六本木付近に比べて、昔ながらの坂道が続きます。
 「市ヶ谷橋 」を渡って、まずは案内図で確認。ここは、一部を除いて標識が建っています。

「左内坂」。「外堀通り」を渡ったところにある。

    

左内坂(さないざか)
 この坂は江戸時代初期に周辺の土地とともに開発されたもので、開発名主島田左内の名に因み左内坂と呼ばれるようになった。島田家はその後明治時代まで名主をつとめ、代々島田左内を名乗ったという。

けっこう長くて急坂。

市ヶ谷駅方向に向かう道として人通りもあり、両側には商店も並んでいますが、段違いに斜めに。激しい雨とか雪の時には、下るのに足もとが心配なほどの急坂。下っていく車の姿もすぐに見えなくなるほど。

その坂をあえぎあえぎ上ると、左手が自衛隊の広大な敷地。
                                                 正面を右折します。

    

 左手が「日本学生支援機構」。もとは、「日本育英会」。学生時代、大変お世話になりました。ここの坂が、「安藤坂」?

 その先は「大日本印刷」の大がかりな建設工事が盛んに行われていて、道の様子も広くなるなど、まだ建物が立ち上がっていないせいなのか、明るく広々とした雰囲気に。

           「中根坂」にさしかかる。

上り詰めたところにある標識。    

中根坂(なかねざか)
 昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。

 「安藤坂」から緩やかに下って、また上りになる坂道です。周囲は、「大日本印刷」関連の施設が並びます。再び下って十字路を左に曲がって、広い道を「外堀通り」方向に緩やかに下って行きます。途中、右斜めに上る坂があります。「長延寺坂」。

    

長延寺坂(ちょうえんじざか)
 昔、この坂の上に長延寺という寺があった。そこに参詣する人々がこの坂を通ったことから自然にそうよばれるようになったという。

    坂上から望む。

 いったん「外堀通り」出て、その先、左手の坂道を上ります。「浄瑠璃坂」。

浄瑠璃坂(じょうるりざか)
 坂名の由来については、昔、この坂で「あやつり浄瑠璃」の小屋興行を行ったから。近くに光円寺があり、その本尊の薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主であるからなどの諸説がある。

 この坂もけっこう長い坂。

    
 坂の途中から坂下方向を望む。                  坂上から望む。

 突き当たりをすぐ左折すると、西南に向かう坂道があります。「芥坂(ごみざか)」

「芥坂」の歩道橋付近から振り返る。

「歩道橋」に「ごみ坂」とある。

 今でこそ歩道橋によって南側の通りと結んでいますが、もともとは、そうとうな急坂だったような。崖の上から下へまさにゴミ捨て場のようになっていたのでは。その名のように、歩道橋下はかなり低くなっています。

    

                  





                  1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 現在の自衛隊の敷地は「陸軍士官学校」でした。坂の名前も「左内坂」「安藤坂」「中根坂」「芥坂」等が記されています。また、「長延寺」の名も。坂道に関してはほとんど現状と変化がないのも驚くほどです。

 
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島崎藤村旧居跡。鼬坂。永坂。更科。・・・(虎ノ門~麻布台の坂。その4。 )

2015-06-17 22:10:36 | 都内の坂めぐり

 「外苑東通り」に向かう坂道「鼬坂」の途中には、
「島崎藤村旧居跡」。
 「メゾン飯倉」の下には、(株)東京楽天地が昭和48年4月3日に建てた石柱と説明文を彫った石板があります。

 藤村は71才の生涯のうち文学者として最も充実した47才から65才(大正7年~昭和11年)までの18年間 当地麻布飯倉片町三十三番地に居住した。
 大作「夜明け前」 地名を冠した「飯倉だより」 童話集「ふるさと おさなものがたり」などは当地での執筆である

付近のようす。

「鼬坂」。「外苑東通り」から望む。
鼬坂(いたちざか)

外苑東通りの「外務省外交史料館(飯倉公館)」前から南方に下る坂道です。港区麻布台3丁目4番と5番の境界にある坂道です。坂上は外苑東通り。

 「鼬坂」のほか、「植木坂」、「鼠坂」については、どこの坂道がそれぞれの名称に該当するのか諸説あるようで、文献によってその示す場所が異なっているとのこと。石川悌三「江戸東京坂道事典」はこの坂を「植木坂」としています。
「鼠坂」、「植木坂」は、どちらも別の坂道に港区設置の標識がありますが、「鼠坂」の説明では一名「鼬坂」と書かれているし、「植木坂」の説明でも「外苑通り」から下りるところ、とも書かれています。はたして真相はいかに?

 「飯倉片町」の交差点を西に進み、最初の角を左折すると、緩い下り坂。その途中遠くに「標示」が。


     
永坂(ながさか)
 麻布台から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が住んでいたともいうが、その確証はえられていない。


 しばらく下ると、頭上に首都高が通る「麻布通り」に合流します。合流するまでが「永坂」なのか? もっと下っていた先までなのか? 

合流点の三角地帯に「永坂上児童公園」があります。ということは、もっとしたまで「長く」続く坂だったようです。

    
      広い通りを道なりにどんどん「新一の橋」方向に下って行きます。

坂の途中から望む。右が首都高。

ありました! かなり下った右側に「永坂」という標識が。

坂下から坂上を望む。

右の角にある「麻布永坂 更級本店」。

 更科(さらしな)は、蕎麦屋の老舗のひとつ。江戸の蕎麦屋の老舗としては、砂場、藪とあわせて3系列が並べられることが多い。

 創業は江戸時代寛政元年(1789年)と伝えられている。信州の織物の行商人をしていた清右衛門なる者が、江戸での逗留先としていた麻布・保科(ほしな)家に勧められ、麻布永坂町で蕎麦屋をはじめた、とされている。開店に際し清右衛門は太兵衛に名を改め、開店時に「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の看板を掲げたという[1]。「更科(さらしな)」は、蕎麦の産地である信州更級(さらしな。現長野市、千曲市、埴科郡坂城町の一部)に保科家の「科」の文字を組み合わせたもの。なお、信州更級は当時よりソバの産地であったため、他にも「さらしな」を名乗る蕎麦屋は存在していたようである。
 更科の特徴は、蕎麦殻を外し、精製度を高め、胚乳内層中心の蕎麦粉(更科粉、一番粉)を使った、白く高級感のある蕎麦(更科蕎麦)である。これがいつ頃からのものかは明らかになっていないが、1750年頃にはすでに存在していた模様。更科の特徴として打ち出されたのは江戸時代末期から明治時代のことと考えられている。
 更科は、明治10年代までのれん分けなどを一切しておらず、(旧)布屋太兵衛の一軒のみでの営業だった。のれん分けがはじまり、更科を冠した蕎麦屋が増え始めるのはそれ以降のことである。現在では東京都港区麻布十番にある3軒の更科のほかにも、都内の芝大門、神田錦町、有楽町などにのれん分けをした更科の店がある。

麻布十番にある3つの更科
 昭和恐慌による出資先麻布銀行の倒産、戦時体制による統制などに加え、七代目松之助の放蕩が駄目押しになり(旧)布屋太兵衛は昭和16年(1941年)にいったん廃業する。戦後、七代目松之助から屋号使用の許諾を受けたとする馬場繁太郎が「永坂更科本店」を開業する。屋号の使用につき裁判となるが、七代目が馬場に渡した承諾書がでてきたため和解。馬場側が「永坂更科本店」の永坂と更科の間をあけ「麻布永坂 更科本店」とし、「永坂更科」を強調しないことで合意する。
 かつての更科とは無関係の人間が出店したことを受け、七代目松之助と当時の麻布十番商店街会長である小林勇などが中心となり、昭和24年(1949年)に「永坂更科 布屋太兵衛」を再興する。このとき法人として店名の「永坂更科」を商標登録し、また「(旧)布屋太兵衛」の屋号も「永坂更科 布屋太兵衛」側に引き継がれることになる。
 その後、昭和59年(1984年)に八代目松之助が独立して麻布十番に開店するが、屋号に「布屋」を用いていたため永坂更科布屋太兵衛側と裁判となる。商標権をもたない八代目松之助は布屋を名乗れず、自身の姓である「堀井」をつけ店名を「総本家 更科堀井」に改称した。
 このため、現在は「麻布永坂 更科本店」(七代目から屋号使用の許諾を受け開業)、「永坂更科 布屋太兵衛」(店舗・会社組織として株式会社永坂更科布屋太兵衛が(旧)布屋太兵衛を継承)、「総本家 更科堀井」(店主が(旧)布屋太兵衛の創業者の直系)の3店が存在することとなる。いずれも近隣にあり、3店が並ぶ麻布十番は更科系老舗の密集地帯となっている。
(以上、「Wikipedia」参照)


 知りませんでした! 更科は蕎麦系としては、かなり好んで食する方ですが、近所にはないので、なかなか・・・。
 坂下の「新一の橋」交差点を渡って、通りの反対側を少し上がると、「永坂更科発祥之地」。

碑文

永坂更科発祥之地
    昭和五十四年十一月吉日
      永坂更科布屋太兵衛 建之

 その下に細かい字でいきさつが彫られていますが、判読不能につき、省略。

そこから坂下「麻布十番」駅方向)を望む。右が首都高。

 今回、なかなか変化に富んだ町並みを探索しました。高層ビルの間に昔ながらの平屋建てや木造建築があったり、路地があったり、表通りの賑やかな都心らしい雰囲気とはひと味違った街の姿を垣間見ました。都内の坂はまだまだ見所が満載です。



 1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 中央左下が「麻布十番」駅付近。「永坂」が南北に延びています。右上の道が現「外苑東通り」。中央、「嶋津邸」付近は「狸穴公園」など現在も緑が多く残っています。
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行合坂。落合坂。三年坂。雁木坂。狸穴坂。・・・(虎ノ門~麻布台の坂。その3。)

2015-06-16 18:39:31 | 都内の坂めぐり
 小休止して、再開です。再び「六本木一丁目」駅地下街の坂(「エスカレータ」を利用してですが)を上がって地上に。「麻布通り」を少し「飯倉」方向(南)に進むと、行く手の先で上りと下りになる坂が「行合坂」。

    
                              「行合坂」。

 双方から行き合う道の坂であるため行合坂と呼んだと推定されるが、市兵衛町と飯倉町の間であるためか、さだかでない。

 「行合坂」と直角に交わる坂が「落合坂」。東西に延びる坂道。

     
                              「落合坂」。

「我善坊谷」へ下る坂で、赤坂方面から往来する人が、行きあう位置にあるので、落合坂と呼んだ。位置に別の説もある。



 この道の両側には江戸時代には「御先手組」の屋敷が並んでいました。

「先手組(さきてぐみ)」

 江戸幕府の軍制の一つ。職制上は若年寄に属し、治安維持の役割を担った。先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した。
 しかし、江戸時代に入ってからは戦乱があまり起こらなかったので、平時は江戸城に配置されている各門の警備、将軍外出時の警護、江戸城下の治安維持等を務めた。先手頭は、六位相当の布衣役で、役高1500石のほかに役扶持として60人扶持が支給された。また、先手頭は「各大名家の『御頼みの旗本衆』とされ、幕府との事前打合や報告同行などを勤めるため、由緒ある旧家の人が任命されていた。
 時代により組数に変動があり、一例として弓組約10組と筒組(鉄砲組)約20組の計30組で、各組には組頭1騎、与力が10騎、同心が30から50人程配置されていた。
 同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられたという。(以上、「Wikipedia」参照)

 明治になってからは、小さな住宅が建ち並ぶ街になったようです。西側が大きく変貌する中でまだかつての面影を残しているところです。

                     坂下から西を望む。


下りきって「稲荷坂[我善坊谷坂]」との交差点にある標識。

西北に上がる坂。稲荷坂(我善坊坂)? 

 この坂の途中は、趣のある住宅街。坂上から望む。

稲荷坂〈我善坊谷坂〉(いなりざか〈がぜんぼうだにざか〉)
 麻布台1丁目1番と2番の間を西北に上る坂道です。

    
                            三年坂(さんねんざか)
                
 いつの頃よりこの坂がそう呼ばれたのか、誰に名づけられたのか、定かではありません。しかし、東京が江戸と呼ばれていた時代には無名ではあります。すでにこの坂がありのち石段になったようです。また、三年坂は別名三念坂などとも呼ばれ同じ名前の坂がほかに数箇所あります。
 京都清水のそばに同名の坂があります。昔の人が遠くふるさと京都をしのぶ気持ちを坂の名前にこめたとしたらロマンでしょうか。

 坂らしい坂。南にある坂と同様の「雁木坂」とも呼ばれたらしい。振り返ると、眺望もすばらしい。京都・清水の三年坂(三寧坂)と比べるのはどうかと思いますが・・・。

     

坂道を上がると、左側は「霊友会」の施設。

しばらく進と、左手に急な石段。雁木坂。

雁木坂(がんぎざか)
階段になった坂を一般に雁木坂というが、敷石が直角に組まれていたからともいい、当て字で岩岐坂とも書く。

    
                                    木漏れ陽の下の急坂。

東京タワーに通じる坂道「永井坂」。     

永井坂(ながいざか)
江戸時代から明治初期にかけて、この付近の地を芝永井町といったことからこの名が付いた。

「榎坂(えのきざか)」。

 飯倉交差点から西へ上がる坂。正面のお店の名に「榎」という文字が。
 その坂を上がっていくと、左手が「ロシア大使館」。ここも厳重な警戒網。バリケードがあって、ここも現代の「見附」。大使館の先を左折すると、「狸穴坂」。

    

狸穴坂(まみあなざか)
まみとは雌タヌキ・ムササビまたはアナグマの類で昔その穴が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。

 坂上部の東側(左側)は「ロシア大使館」になります。

     
                               坂下から。
     
    
 「狸穴公園」を右折して行くと、

 「鼠坂」

 細長く狭い道を江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあった。一名鼬(いたち)坂で上は植木坂につながる。

    
 坂下から。                              坂上から。

 この付近には、「狸」がいたり「鼠」がいたり「鼬(いたち)」がいたり、さらには「溜池」があったりと、高台と谷と湿地が入り組んだ土地柄だったようです。今やその面影もありません。

坂上で西南(左)に向かう急坂が植木坂。

     
    坂下から。                           坂上から。
植木坂(うえきざか)
 この付近に植木屋があり菊人形を始めたという。外苑東通りからおりる所という説もある。

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桜坂。スペイン坂。道源寺坂。御組坂。偏奇館跡。・・・(虎ノ門~麻布台の坂。その2。)

2015-06-15 22:20:18 | 都内の坂めぐり

 霊南坂から西南付近は、けっこう坂道が入り組んでいて、「桜坂」、「榎坂」、「鼓坂」、「三谷坂」、「新榎坂」などと名づけられているようです。「桜坂」の標識のみ確認できましたが、他は・・・。そこで、不明なところは、『江戸東京坂道事典』コンパクト版 石川悌二著(新人物往来社)を参考にさせていただきました。

「霊南坂」を右折したところにある坂道。「榎坂」? 下方に見える坂が「桜坂」。坂の途中に「霊南坂教会」、坂下の左手角に「榎坂ビル」があります。

榎坂
 赤坂一丁目十番、アメリカ大使館正門前を霊南坂から西北に下る坂道で『紫の一本』には「榎坂 溜池堤より赤坂の方へ行く坂なり、大木の榎一本あり。・・・」・・・(「上掲書」 P185)
 江戸時代初期、「溜池」の水を苦労して築き留めた、その功のしるしとして榎を植えたことに由来する、と説明されています。

「サントリーホール」へ通じる歩道橋から下を望む。「桜坂」or「鼓坂」 
                  

鼓坂
 この坂は霊南坂教会(赤坂一丁目一三番)の北わき、同一二番との間を西へ下る坂で、桜坂の南に並んでいる。(「同」P186)
ということから、この坂は、「鼓坂」と思われます。

 素人考えですが、「鼓」坂は、上にもあるように溜池「堤」に下る坂だったとすれば、「堤」坂ということに? 「桜坂」は明治中期に新設された坂ですので、江戸期にはこの「鼓(堤)坂」が西北に下る坂だったっような・・・。

 この付近を上ったり下ったりしながら歩き回りました。

  「三谷坂」? (左)六本木一丁目と(右)赤坂一丁目の境にある。「ホテルオークラ東京別館」から西北へ下る道。

山谷坂(さんやざか)
 坂下はもとの麻布谷町であるが、同町はそれよりむかし今井三谷町とよばれていた。したがって、この坂も今井三谷町にかかるので三谷坂とよんだのであろう。(「同」P194)
 
 再び「桜坂」を下って行きます。

    
                                   右手には「SAISON さくら坂」。

桜坂
 明治中期に新しく作られた道筋で坂下に戦災まで大きな桜の木があったことからその名がついた。

    
桜の季節はさぞかしすばらしい道に。                     坂下から見上げる。

 「ANAコンチネンタルホテル東京」の脇に下りて、「六本木通り」に出ます。左に曲がり、しばらく進むと、右手の坂が「スペイン坂」。

    
                          付近の案内図。右図で右にカーブする坂が「スペイン坂」。


スペイン坂の由来

 1986年(昭和61年)、20年近い歳月を経て、赤坂(Akasaka)と六本木(Roppongi)の結び目(Knot)にアークヒルズ(ARK HILLS)は誕生しました。当時の民間における都市再開発事業としては最大級の規模(総敷地面積56,000㎡)を誇り、共同住宅、オフィス、ホテル、テレビスタジオ、コンサートホールなどを組み合わせた複合型街づくりは、その後の都心部における再開発事業のさきがけとなりました。
 そのアークヒルズの南方に位置するこの坂道は、六本木通りからスペイン大使館につながることから「スペイン坂」と名付けられ、多くの人々に親しまれています。
 春には、両側の歩道に植えられた桜が坂道を被うように咲き乱れ、都心における桜の名所としても知られています。

 2001年1月1日     アークヒルズ自治会 森ビル株式会社

左手が「森ビル」。

坂の途中から「六本木通り」方向を望む。

  すぐ南隣の坂が「道源寺坂」。

道源寺坂

江戸時代のはじめから坂の上に道源寺があった。その寺名にちなんで道源寺坂または道源坂と呼んでいた。

    
 左手に「道源寺」。                           坂下を望む。

江戸時代からの坂らしい坂が残っていることにビックリ!

 「スペイン大使館」を左奥に見て、坂上を右に曲がります。

    
御組坂

 幕府御先手組(おさきてぐみ・戦時の先頭部隊で、常時は放火・盗賊を取り締まる)の屋敷が南側にあったので坂名となった。

 タイル舗装のしゃれた坂道。この付近も大きく変貌していて、この坂も江戸期の道とは少し異なるようです。
 
 現在、「泉ガーデンタワー」となっている付近には、かつて永井荷風が住んだ偏奇館(戦災で焼失)がありました。
    
        記念碑。                            「泉ガーデンタワー」の一角。

偏奇館跡

 小説家永井荷風が、大正九年に木造洋風二階建の偏奇館を新築し、二十五年ほど悠悠自適の生活を送りましたが、昭和二十年三月十日の空襲で焼失しました。
 荷風はここで「雨蕭々」「墨東綺譚」などの名作を書いています。
 偏奇館というのは、ペンキ塗りの洋館をもじったまでですが、軽佻浮薄な日本近代を憎み、市井に隠れて、滅びゆく江戸情趣に郷愁をみいだすといった、当時の荷風の心境・作風とよく合致したものといえます。

    冀くば来りてわが門を敲(たた)くことなかれ
    われ一人住むといへど
    幾年月の過ぎ来しかた
    思い出の夢のかずかず限り知られず
                     「偏奇館吟草」より

  平成十四年十二月     港区教育委員会

 この付近も1990年以降の大規模な都市開発により、曲がりくねった坂道・石段があり、崖にへばりつくようにあった木造の家屋群などもすっかりなくなって、高層ビル街に変貌。
 「偏奇館」があった付近の家屋や地形を含めてまったく跡形もなくなってしまいました。「偏奇館跡」碑の位置も実際にあった場所よりも北にずれているようです。

そのまま道なりに進んでいくと、右手の角には、「山形ホテル跡」。

 此処は、大正9年から昭和元年まであった山形ホテルの跡地である。
 永井荷風は、此処から北百米程の処に木造2階建ての洋館を建て、『偏奇館』と称した。
 25年ほど独居自適の生活を送ったが、昭和20年3月10日の空襲で焼失した。
 荷風は其処で『雨瀟瀟・雪解』『墨東綺譚』などの名作を書いている。
 荷風の日記『断腸亭日乗』には山形ホテルが登場する。彼は此処を食事、接待のために頻繁に利用した。
 当時、山形ホテルの北側は崖になって、間に小さな谷間を挟んでその対岸に偏奇館が建っていた。
 山形ホテルの主人、山形巌の子息が俳優山形勲(大正4年ロンドン生まれ、平成8年没)である。衣笠貞之助監督『地獄門』(昭和28年)今井正監督『米』(昭和32年)など、代表作は数多い。
 永井荷風の研究家である、評論家川本三郎は著書『荷風と東京』(平成8年、都市出版)で、荷風と山形ホテルに一章を割いている。
 昭和47年に麻布パインクレストが統治に竣工した。爾来30年が経過、都心部での住民書道によるマンション建替えの嚆矢として今般麻布市兵衛ホームズが完成した。

 平成16年10月 麻布市兵衛ホームズ ・・・

          「碑」から北側を望む。

 右折して六本木通りに出ます。ここで、小休止。南北線「六本木一丁目」駅の地下街で、と。はるか地下深くまで下りるために連続するエスカレータ・階段が今どきの急坂になります。

           

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汐見坂。江戸見坂。霊南坂。菊池寛実記念 智美術館。・・・(虎ノ門~麻布台の坂。その1。)

2015-06-14 17:54:43 | 都内の坂めぐり

 5月18日(月)午後。約2時間の探索。最寄り駅では「溜池山王」~「六本木一丁目」~「麻布十番」。地域では、首都高都心環状線が頭上を覆う「国道1号線」の東側、「桜田通り」との間。
 この地域は「アメリカ大使館」、「ロシア大使館」、「スペイン大使館」などの大使館や「ホテルオークラ東京」、「アークヒルズ」、「サントリーホール」など文化施設の立ち並ぶ区域。その建物群の間を縫いながらの坂道探訪です。

 ちょっと遅くなりましたが、その報告。

 なお、坂道探訪には、

 

 」HPを参考にしています。

 この辺り、よくよく考えてみたら、頭上は「首都高」で、いつも通る道筋。「谷町Jct」、「一の橋Jct」・・・、下の街を見る余裕もないが、たしかに見覚えのあるビルが建ち並ぶ景色。そのところを歩いたわけです。

 「溜池山王」駅から「六本木通り」に出て、「榎坂」を上がり、「汐見坂」に向かいましたが、その付近から物々しい雰囲気。防護柵(バリケード)が道の半分近くをふさぎ、歩道も通行不可。機動隊員ががっちりガード。右手に「アメリカ大使館」。そのため、周囲は厳重な警戒態勢。まさに現代の「見附」。

反対側の歩道を上って行くと、「汐見坂」。

汐見坂
 江戸時代中期以前には海が眺望できた坂である。南側に松平大和守(幕末に川越藩)邸があって、大和坂ともいった。

 右手が「ホテルオークラ」左手が「国立印刷局」。

東側から坂を見る。

「ホテルオークラ」を過ぎて、右に折れると「江戸見坂」。



江戸見坂
 江戸の中心部に市街が開けて以来、その大半を眺望することできたために名づけられた坂である。

    
             「ホテルオークラ」の敷地をぐるりと取り囲むように進む、けっこう急な坂道。

     
              坂を上り詰めた左手にあるのが、「菊池寛実記念 智見術館」。



 菊池寛実記念 智美術館(きくちかんじつきねん ともびじゅつかん)は、現代陶芸のコレクターである菊池智(とも)が長年にわたり蒐集してきた現代陶芸のコレクションの一般公開、関連事業による現代陶芸の普及、および陶芸作家や研究者の育成を目的とし、2003年4月に東京・虎ノ門に開館いたしました。
 美術館はホテル・オークラのすぐ近くの虎ノ門の高台に立つライム・ストーンの外壁をもつ西久保ビルの地下1階にあります。西久保ビルという名称は中世の時代に西久保城があったことに由来しています。敷地内には、西久保ビル(2003年竣工)と大正時代に建てられた西洋館(国の登録文化財)、智の父でありこの地を拠点として活動した実業家・菊池寛実(かんじつ)のための持仏堂と和風の蔵が、百年ほどの歴史のある庭を囲んで都心の中に独特な空間を構成し、隠れ家的な雰囲気を醸しだしています。
 当館は設立者である菊池智の美意識を一貫して反映させた個性的な空間としてもお楽しみいただけます。1階の受付から螺旋階段をくだりながら空間はいつしか日常から非日常へとうつり変わり、地下1階の展示室では暗がりのなかから作品が1点ずつスポットライトを浴びて姿をあらわします。それはまるで、作品を見ながら自分と作品とが対話を交わすようであり、それこそが彼女がこれまで考えてきた、美しい作品と出会い、作家の思いを受けとめるための理想の場と言えるのかもしれません。
 智美術館は、開館以来、「藤本能道(ふじもとよしみち)展」「十五代樂吉左衞門展」「小池頌子展」をはじめ、さまざまな企画展を開催してまいりました。隔年ごとに開催予定の「菊池ビエンナーレ」や「智美術館大賞 現代の茶陶―造形の自由・見立ての美」も、展覧会事業の一環を担う企画として育ちつつあります。陶芸の枠にとどまらず、現代工芸の発信地となるべく活動を続けていきますが、どうぞ皆様におかれましては当館をご愛顧いただきますようお願い申し上げます。

        螺旋階段
 1階の玄関ホールと地下の展示室を結ぶ螺旋階段室は菊池智のアイデアがもっとも生きている空間です。壁面には銀の和紙がはられ、その上に書家の篠田桃紅氏の「いろは歌」の料紙が「真・行・草」の漢字をかたどったコラージュ作品としてほどこされています。ガラスの手摺りはガラス作家の横山尚人氏によるものです。天井からの光を受けて宝石のように輝き、美しい曲線を描いています。

(「菊池寛実記念 智見術館」HPより)

 ぜひ入ってみたいところですが、あいにく休館日(月曜日)でした。

右手角に「大蔵集古館」。

 明治から大正期にかけて大きな財をなした実業家大倉喜八郎が、長年に亘って収集した古美術・典籍類を収蔵・展示するため、1917年(大正6年)に財団法人大倉集古館として大倉邸の敷地の一角に開館したもので、日本最初の私立美術館である。開館からまもない1923年(大正12年)、関東大震災によって当時の展示館と一部の展示品を失い、一時休館を余儀なくされた。
 1928年(昭和2年)、建築家伊東忠太の設計による耐震耐火の中国風の展示館が完成し、翌年再開館した。その後昭和30年代にホテルオークラ東京の建設のため一部の建物が解体された。解体前の建築は現存する展示館から長い回廊が伸び六角堂を経て表門に至る壮大な建築であった。喜八郎の子大倉喜七郎も近代日本画などの収集品を館に寄贈している。
 日本・東洋の絵画、書跡、彫刻、陶磁器、漆工、金工、刀剣、能面、能装束、考古遺物など約2,500点と中国の古典籍(漢籍)約1,000部を所蔵し、年間5回ほどの企画展を開催している。
 2015年(平成27年)9月より開始されるホテルオークラ東京本館の建て替えに伴う施設改修工事のため、2014年(平成26年)4月より長期休館している。再開は2018年(平成30年)の予定。(以上「Wikipedia」参照)

 その角を右に曲がると、「霊南坂」。左手が「アメリカ大使館」のため、坂道の両側は機動隊員が警戒中。キョロキョロ歩き、写真でも撮っていると、すぐ尋問を受けそうな雰囲気。
 ところが、「霊南坂」の標示は「アメリカ大使館」側の歩道に。そこはバリケードがあって立ち入り禁止。
 道路越しに「大使館」側で警備に当たる若い機動隊員に大声でわけを話す。
 バリケードをずらし、通してもらって撮った写真がこれ。

「そういう目的ならばいいですよ」
「ただし、大使館側は撮さないで下さい」
「他のお固い人だとダメだったかもしれませんよ」・・・。

    

霊南坂
 江戸時代のはじめ高輪の東禅寺が嶺南庵としてここにあり、開山嶺南和尚の名をとったが、いつしか「嶺」が「霊」となった。 

    
 坂の途中から坂上を望む。                    坂上から坂下。

 坂の途中、左手に「ホテルオークラ」正面玄関に通じる広い出入口。現在の純日本調の建物は、今年8月いっぱいで営業を終え、19年春に地上38階建てとして生まれ変わることになるらしい。
 坂を上りきって右に折れると、左手には「霊南坂教会」。1980年に山口百恵と三浦友和が結婚式を挙げたことで知られる。

その向かい側は「陽泉寺」などいくつかお寺が昔のままに。



     1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 ←が「江戸見坂」。南側一帯に江戸の街が広がっている。→が「霊南坂」。○が「ホテルオークラ」の現敷地。中央・北付近が現「アメリカ大使館」にあたる。
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「旧額田郡公会堂」。殿橋。名鉄市内線。JAZZ。・・・(名鉄「本宿」駅から「矢作橋」駅まで。番外編。)

2015-06-12 21:08:00 | 旧東海道

 「岡崎」は、さすが東海道第3番目の宿場町で、家康さんのお膝元。ただ、太平洋戦争末期の米軍の空襲によって壊滅的な被害を受け、戦前の(それ以前の)建物など、ほとんど失われ、また、復興計画により、中心部の区画整理や道路の拡幅・整備などで旧東海道に因んだ施設、史跡などもほとんど残っていません。
 しかし、かつての宿場町、沼津、浜松、豊橋など他の東海道沿い(海岸沿い)が米軍の空襲によって壊滅的な打撃を受けながら、それぞれ戦後の復興を見事に果たして今日があることを思うと、戦後70年という「平和」な歴史の重みを強く感じます。
 そんな感想を持ちながら、いくつか岡崎にちなんだレポート。

 朝、「ホテル」から国道1号線を東に、「冠木門」まで向かっている途中、左手にあった建物。


    

 国指定重要文化財 旧額田郡公会堂及び物産陳列所 二棟

 この洋風の木造建築物は、大正2年(1913)に額田郡公会堂として建設された。また旧額田郡物産陳列所は同年に公会堂北側の対面した位置に建てられ、昭和36年に現在地の公会堂南東側に移されたものである。旧公会堂は吉田栄蔵の設計で、会堂棟、通用玄関棟からなり、中央に櫛形ペディメントを設けたルネサンス様式的建築構成になる。旧物産陳列所は妻面にハンマービームを用いたスティックスタイルを基調とした建築で、旧公会堂と対照的な意匠とする。
 旧額田郡公会堂及び物産陳列所は、わが国における最初期の公立の公会堂・物産陳列所であり、両者が一組で現存する数少ない例として貴重である。
 また、地方都市にぽける公共建築の近代化を示すとともに、地方における西洋建築の様式的・技術的修得過程の達成度を示す建築遺構としても意義が認められる。
 現在、旧公会堂は岡崎市郷土館本館、旧物産陳列所は同館収蔵庫として活用されている。
 平成11年12月1日指定    岡崎市教育委員会

 上の説明にもあるように、「岡崎市郷土館」として活用されていましたが、2010年(平成22年)4月1日には老朽化していた建物の耐震補強工事を行うためとして閉館し、規模を縮小して重要文化財建造物についての展示が行われていましたが、2014年(平成26年)4月1日をもって、完全閉館となりました。
  岡崎市教育委員会は保存活用に手を尽くしていますが、巨額の費用が必要であることから、現在は保存活用計画の策定も含め、保存修理事業の精査を実施中。この建造物の保存管理は後手に回っているのが実情であり、苦慮しているようです。

(以上「Wikipedia」参照)

 外観をぐるりと見回るだけでも、興味深い。今回では、「旧岡崎銀行本店」「八丁味噌カクキュー」と並んで価値の高い建築物という印象を持ちました。何とか保存してほしいものです。

    

                  正面玄関のデザインが凝っている。


「乙川」と「殿橋」。

 かつて、この橋の通りには名鉄市内線(路面電車)が通っていたそうです。


     1960年当時のようす(「今昔マップ」より)。

名鉄資料館 岡崎市内線写真展(平成24年 春季特別展)開催期間 : 2012.3.20~2012.5.31」HPより。

 2012(平成24)年3月20日~5月31日に名鉄資料館で開催した「岡崎市内線写真展」の中から展示写真の一部を御紹介いたします。

名鉄岡崎市内線
 挙母線:大樹寺 - 岡崎井田 岡崎市内線:岡崎井田 - 岡崎駅前 福岡線:岡崎駅前 - 福岡町 

開業:1898年12月28日 市内線全通:1924年12月27日 福岡町線開業:1951年12月1日 廃止:1962年6月17日

 岡崎市内線は、町から遠く離れた岡崎停車場と町の中心部を結ぶため1898(明治31)年に岡崎馬車鉄道としてスタートしました。開業当初は文字通り馬が客車を牽引する馬車鉄道で、軌間762mmの幅の狭い線路でした。
 電車が走り始めたのが、100年前の1912年(大正元年)9月で、50年前の1962(昭和37)年6月に岡崎市内電車は廃止になり、バス化されました。
 岡崎市内の繁華街を50年間走った市内電車も、廃止から既に50年経過しました。乙川に架かる殿橋からJR岡崎駅に至る道路に「電車通り」の愛称が今でも残っていますが、岡崎市内の風景は大きく変わり、市内電車の走っていた面影はなくなってしまいました。
岡崎市内電車が活躍していた時代の、懐かしい写真の数々をご覧ください。


「岡崎市内線の廃止案内ポスター(藤井 建 氏所蔵)」。

殿橋専用橋(大正時代)
 岡崎停車場~殿橋に電車が走り始めたのは、1912年(大正元年)9月1日で、当初、殿橋は道路橋と分離された電車専用橋であった。

ついでに、「中岡崎」駅付近で高架線をくぐった「愛知環状鉄道」についても。

 岡崎市・豊田市・瀬戸市・春日井市を結んでいる路線。沿線には高校、大学も多く点在し、愛知工業大学や中京大学豊田キャンパスなどがあり、さらに、トヨタ自動車本社及び工場群も点在している。
 2011年(平成23年)度の輸送密度は約9,816人/日で、旧国鉄路線から転換された第三セクター鉄道では最高であり、輸送密度が8,000人/日以上であるのもこの路線のみ、だそうです(「Wikipedia」参照)。


    
                              「Jazzの街 岡崎」。

 初日夕方、名鉄「中岡崎」駅から改札を出て「ホテル」に向かう地下歩道、さらにバス広場を歩いていると、JAZZの音色が響いてきます。なかなか小気味のよいタッチの曲。つい、しばらく足を止めてしまいました。
 翌日、「中岡崎」駅の地下道を通って「殿橋」に向かう、その通路にも静かなJAZZが・・・。、これだけでこの街が好きになりました。

 以下、「Jazzの街 岡崎」オフィシャルサイト(http://www.jazzokazaki.jp/)より。



なぜ「岡崎の街 岡崎」なの?

                      読むでござるよ

 岡崎には、世界的に類を見ない貴重なジャズレコード12,000枚、雑誌、オーディオ機器などがあります。これは、岡崎市に生まれ、岡崎で外科病院を開業した内田修氏が寄贈したものです。内田氏は、多くのジャズミュージシャンと交流し、時には支援をし、現在の日本のジャズに多大なる影響を与えた人物です。
 また、岡崎には、いくつものジャズボランティアが存在し、多くのジャズイベントを支えています。
 このほかにも、街中にジャズが流れていたり、ジャズの出前講座を小中学校で行っていたり…。
 このことが「ジャズの街岡崎」と言われる所以です。
 ただ、残念なことにこのことがあまり知られていないのも現状です。
 より多くの方が、岡崎に来て、ジャズに親しんでいただけるよう様々なイベントを今回ご用意しました。ジャズって身近なものなんだと感じていただけましたらとても嬉しいです。

 今度の東海道の旅は、この街で寄り道をしていこうかな、とも。
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八帖歩道橋。八丁味噌。矢作橋。・・・(名鉄「本宿」駅から「矢作橋」駅まで。その7。)

2015-06-10 22:29:12 | 旧東海道


「案内図」通り、橋を渡り、

 側道を下りると、案内の矢印が三つ。①「↑」。②「←」と「¬」が組み合わさったもの。③「←」。
 ①と②は、道の左脇にあり、③は右上の電柱に。
 左折の道はすぐの道と、少し先にある二つの道。もちろん、①、②に素直に従えば、二つ目の道を行くのが、正解。
 でも、ご丁寧に先の方まで同じ赤いコーンが道案内のように並んでいる。う~ん?  
 結局、右手上の③()を見て、指示通りの道を進みました(③が「冠木門」からの「四十七曲がり」共通の案内板)。

                        

住宅街を進みます。途中に工場のような建物。 

そのまま進むと、国道1号線にぶつかります。左手に「道標」。「田町角」。

 この付近、これまであったように、旧東海道の道でないような、・・・。

参照。

「籠田公園」を出て左折した通りの途中にあった「案内図」と現行では、←A地点と→B地点に大きな違いがあります。

 そこを右折して、「国道1号線」と「国道248号線」交差点「八帖」に架かる「歩道橋」を渡って南側に出ます。

「歩道橋」から東を望む。右手奥が「岡崎城」の方向。

 歩道橋を渡ったら、少し国道1号線を東に戻り、最初の角を右に行きます。

       「東海道」の表示。

 広い道が急に狭くなります。今後、拡幅工事がありそうな印象。その先が旧来の「東海道」という感じです。
    
                                         古い家並み。

これまで見てきたように、街道筋の家は間口が狭く、奥行きが長い敷地。当時の税金は間口の広さが基準だったから、とか。京都などでもそうです。
           

「CUT HOUSE KITOU」を右折。左に「板屋町角」碑。振り返る。

 大通り「国道248号線」に出ると、斜め向かい側に「ローソン」があります。交差点を渡って、そこで小休止。9時半過ぎですが、けっこう暑くなってきました。

 交差点のところには「松葉総門跡」の石碑があります。 

「た」。(「わ・か・よ」は未確認。) 


東海道岡崎城下西出入口 松葉総門跡

 天正18年(1590)徳川家康が江戸に移り田中吉政が岡崎城主となり総堀を築き城下町を形成し東海道の城内西出入口としてこの地に松葉総門を建てた。 

 平成6年2月吉日 岡崎中央ライオンズクラブ 建立

 ここで、岡崎城から出たことになりますが、はて「岡崎城」はどこにあったのか? 結局、見ずじまいでした。

西に向かいます。

高架線をくぐります。振り返る。右手が、愛知環状鉄道「中岡崎」駅。

ここは、「八丁味噌」の町。高架線の右手には「カクキュー」。



合資会社 八丁味噌 登録文化財
 ・昭和2年(1927)に完成した南北二棟の本社事務所
 ・明治40年(1907)に味噌蔵として建てられた本社蔵(現資料館)

 この二つの建物が文化財保護法により登録されています。
 
     

 ここの一角は趣のある建物が続いています。
     



岡崎の地場産業 八丁味噌
 大豆そのものを麹化して塩と水だけを加えて熟成する豆味噌は、三河・尾張地方特有のもので、独特の風味を持ち、現在に至るまで岡崎を代表する名産です。
 矢作川沿いであるという立地条件から、原料の大豆・塩などの仕入れが便利で製品の出荷にも舟運が利用でき、矢作川の伏流水が醸造に良くて、また気候及び風土にも適しているといわれています。
 江戸時代以来、早川家と大田家の二軒が製造販売する「八丁味噌」は特に有名となり、地元周辺のみでなく江戸にも多く積み出され、その名を高らしめました。
 現在も両家は「カクキュー」、「まるや」の商号で製造を続けています。

歌にみる八丁味噌
 「摺ってよし、摺らずなおよし、生でよし、煮れば極よし、焼いて又よし」といわれる八丁味噌は、三河武士・農民・町人たちの常食・兵食として親しまれ、一日も欠くことのできない食品でありました。また、天正18年(1590)、徳川家康の関東移封により、三河譜代の大名、旗本によって全国的にその名が知られ需要が高まり、矢作川の舟運や江戸廻船の発達に伴い、三河木綿の運搬と相乗関係によって、伊勢・江戸を中心に販路が進展拡充しました。
 それが「ふるさとへ まめを知らせの 旅づとは 岡崎(八丁)味噌の なれて送る荷」という吉田松陰の詠歌となり、「今日も亦 雨かとひとりごちながら 三河味噌あぶりて喰うも」という斎藤茂吉の短歌などに記され、江戸時代以来、岡崎城下の名産として称賛されてきました。

連続テレビ小説「純情きらり」ロケ地。  「純情きらり手形の道」(宮崎あおいの手形)。

『純情きらり』(じゅんじょうきらり)は、2006年(平成18年)度上半期NHK連続テレビ小説の作品。シリーズ通算第74作目。

 原案は津島佑子の『火の山―山猿記』。脚本は浅野妙子。主要な舞台は愛知県岡崎市。

 昭和初期、7歳になる有森桜子は、4歳のときに母親・マサを病気で亡くしてからというもの、父親・源一郎に男手ひとつで育てられていた。
 10年後、16歳になった桜子は、周囲の反対を押し切り東京音楽学校(現在の東京藝術大学)への進学を希望する。そんな矢先、父・源一郎が事故により命を落としてしまう。姉・笛子は進学に反対するが、父が遺してくれたピアノを極めようと没頭する。
 翌年、桜子は幼なじみの松井達彦とともに、東京音楽学校を受験するが不合格に終わってしまう。その後、桜子は岡崎に帰ろうとするが、東京音楽学校の教授・西園寺公麿に励まされ、来年もう一度受験することを決意する。
 さまざまな紆余曲折を経て、戦地から帰還した達彦と結婚する。その後結核を煩いながらも輝一を出産する。輝一に感染しないようにと決して会おうとはしない桜子に、山長や有森家の人々は輝一の姿を動画に収め、桜子の意識が朦朧とする中、病室の白壁に映して見せたのだった。
 ジャズピアニストを夢見ながら、戦争に揺れる昭和の激動時代を駆け抜けるヒロイン・桜子の波乱万丈の人生を描いていく。
(以上「Wikipedia」より)

             (「Amazon.co.jp」より)

 当時は、まったく見るヒマがありませんでした。

 しばらく行った左手に、もう一つの製造販売元の「まるや」さん。突き当たりを右折して「矢作橋」へ向かいます。

    
                               「矢作橋」。川下の鉄橋は「名鉄線」。

 「矢作橋(やはぎばし)」は、矢作川にかかる橋で、橋上を通るのは東海道(国道1号)。
 矢作橋は慶長6年(1601年)に土橋として架けられ、その後何度も大水に流され改修を繰り返してきた。架橋がみだりにできなかった江戸時代には日本最長の大橋でした。現在の矢作橋は東海道に架かっていた橋よりも少し南側に位置しています。
 矢作橋は昭和26年(1951年)に15代目が架け替えられ、老朽化や耐震化などの観点から新橋への掛け替え工事を平成18年(2006年)10月に着手、平成23年(2011年)3月13日に16代目の橋が完成した。
 新しい橋の車道の幅員は、従来の3.25mから3.5mに広がり、歩道の幅員もそれまでの1.75mから3mに広がった。車線数は現行通りの片側二車線である。なお、現代の矢作橋の橋長は300mである。

「出合之像」

 日吉丸(幼い頃の豊臣秀吉)は、8歳の時に奉公に出され、12歳の時に奉公先の陶器屋から逃げ出した。矢作橋の上で寝ていたところ、付近を荒らしていた野武士の一団が通りかかり、その頭が日吉丸の頭を蹴ったところ日吉丸はこれを咎め、侘びていけと頭を睨みつけた。この頭は海東郡蜂須賀村に住んでいた小六正勝であり、日吉丸の度胸の大きさを買って手下にしたという。
 実際には、矢作橋が架けられた年には豊臣秀吉は既に亡くなっているため、この話は作り話であるとされていますが、この逸話を伝えるために、平成元年に矢作橋の西側に「出合之像」という像が建てられました。

振り返る。右の奥の方に「岡崎城」。


  東海道五十三次之内 岡崎 矢矧之橋 / 安藤 広重

 藤川より1里半。この宿の出入口にあたるところに東海道随一の長橋がある。矢矧橋がこれで,長さ208間(378m)であった。現在の橋より右手に岡崎城があるが、広重画では左手に見えるから、もと橋はかなり左によって架せられていたのであろう。この矢矧橋が画面の中心である。粛々と隊伍をととのえてすすむ大名行列、そのむこうに岡崎城と山々が見える。この遠山は実景ではなく、広重の作図であろう。

(「鹿児島県立図書館・『東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画~』」HPより)

 上記の浮世絵や明治初期の地図から類推すると、かつて東海道の橋は現在の橋よりも下流にあったと思われます。
 従って、「Wikipedia」にある「(現在の橋が)南側に位置している」というのは間違いではないか。ただし、対岸の「知立」側の東海道(国道1号線)の整備と合わせ、大正以降、若干、橋が南側に移動したことは見て取れます。

    
大正期の岡崎(「知足美術館」HPより)。               現在のようす。

「竪絵 東海道五十三次 岡崎(安藤広重)」。
HPより)

 「出合之像」は橋の向こう側にあります。しかし、がっしり中央ラインはガードされて、まったく渡れません(それを見るには、「矢作橋」を渡る前に、向こう側の歩道に移っていなければなりません)。しかたなく遠く横目で見ながら、そのまま橋を下ってしまいました。
結局、次の信号を左折して名鉄「矢作橋」駅へ向かいました。ここまでの所要時間は、1時間45分。

 「冠木門」(8:15)~「矢作橋西詰」(10:00)。

 次回は「出合之像」からということになります。

 しばらく電車が来るのを待って名鉄「矢作橋」駅から「本宿」駅に向かいました。鉄橋を過ぎた左手に「岡崎城」が見えました。

 なお、今回の「岡崎二十七曲り」は、『平成の旧東海道(日本橋~京)を歩く 平成19年4月~平成21年4月の旧東海道を記録する』(http://www5c.biglobe.ne.jp/~naka-boo/Toukaidou/toukaidoutop.htm)さん作成の懇切丁寧な地図を参考にしました。感謝します。

 いずれにしても、「岡崎二十七曲り」は、当時から大きく様変わりした現状の中では、その道筋がたどれる個所とあいまいな個所があるようです(すでに宅地化されてしまったところも? )。
 現段階では、「道標」、「案内板」によって導かれ、何とかクリアできたことで、「よし」とします。
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旧岡崎銀行。籠田総門跡。唐弓弦。・・・(名鉄「本宿」駅から「矢作橋」駅まで。その6。)

2015-06-09 20:40:12 | 旧東海道

 「伝馬町1丁目」交差点を左折します。
「西本陣前角」。

             その先の交差点で、今度は右折します。「へ」。

 角の左手に道標。

    
             「東 京みち 西 京いせ道 きらみち 明治二年己巳(つちのとみ)年十二月建立」。

右手に赤レンガ造りの建物。

旧商工会議所

 大正6年(1917)、岡崎銀行本店として建てられた赤レンガと花崗岩の組み合わせによるルネッサンス風の建物です。戦後、商工会議所として使われていましたが、現在は、岡崎信用金庫資料館として一般に開放されています。
 郷土館とともに、市内に残る大正時代の貴重な建築物です。

     

 設計したのは、鈴木 禎次(すずき ていじ)明治3年7月6日(1870年8月2日)― 昭和16年(1941年)8月12日。

 1870年(明治3年)静岡市に生まれる。1896年(明治29年)東京帝国大学工科大学造家学科を卒業し、翌年、三井銀行建築係に就任する。1898年(明治31年)夏目漱石の妻である夏目鏡子の妹と結婚し、1903年(明治36年)には文部省の命を受けイギリスとフランスに留学。1906年(明治39年)名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の建築科教授となり、1922年(大正11年)には退官、のちに名古屋に鈴木建築事務所を開設する。1941年(昭和16年)71歳で逝去した。
 禎次が生涯で設計した建築物は80棟に及び、うち44棟が名古屋市内に集中している。このことから「名古屋をつくった建築家」とも呼ばれる。(「Wikipedia」より)

 「東京駅丸の内駅舎」などを設計した、日本の建築家の第一人者・辰野金吾の教えを受け継いだ作風が見られます。赤レンガと白い花崗岩を組み合わせた様式は、しばしば「辰野式」とまで呼ばれるほどでした。

〈参考〉

 辰野金吾設計事務所の設計による建物の一つ。「日本生命保険株式会社九州支店」として明治42年(1909)2月に竣工。

福岡市。

 なお、「上野・松坂屋」の建物もこの方の設計によるもののようです。

その先の交差点を右折します。突き当たりは「籠田公園」。植え込みに「籠田総門」の碑があります。


岡崎の城下をしのぶ籠田総門跡

 天正18年(1592)徳川家康が江戸に移ると田中吉政が岡崎城主となり、総堀を築き城下町を形成し、東海道の城門出入口として籠田・松葉の総門を建てた。

案内板。

公園を斜めに突っ切るように白砂の道が敷かれています。

公園を出たら、左折です。

碑文
  岡崎城下二十七曲
  篭田町より連尺町角
 天正十八年岡崎城主田中吉政は城下の東海道を二十七曲にし防備賢固を図った。ここに標識を建て郷土再見の一翼とする。

 連尺二十七曲り
 家康公四百年祭

 「連尺通り」を西進、県道39号線を横断します。左手に「岡崎シビコ」が見えたら、その前の路地を右に入ります。
         
           「と」。 

 この先は、

①路地(途中に古いおうちがある)を抜けて
②突き当たりを左に折れ、
③またすぐ右に折れます。
④しばらく進み、右手の駐車場を左折します。
⑤次の四つ角を右に曲がり、
⑥右手に「ファミリーマート」が出てきたら、突き当たりの広い道を左折します。

 道の向かい側・正面には道標。ここでの一連の右・左折が一番迷う個所です。ただし、江戸時代の道そのものが区画整理等で変更、もしくはなくなっている可能性も強い。途中にあった説明板でもこの付近は簡略化されています。
 今回の行程は先達の地図を借用させていただきましたが(次回、引用文献は明示しますが)、これ以外にもありそうです。いずれにしても、「連尺通り」からジグザグしながら、「材木町口木戸前」の道標まで行くことになります。(この道標自体も、もう少し西側にあったのではないかと思いますが。)

「材木町口木戸前」。     

通りの向こう側に古い建物が。 

 この建物に「唐弓弦」という古びた看板がかかっていました。

     

 「岡崎宿」は、本陣や脇本陣、旅籠の数から東海道五十三次の中でも屈指の規模を誇る宿場町でした。
 また、岡崎宿は、「岡崎の二十七曲がり」と呼ばれ、曲がり角の町並みとして有名でした。この二十七曲りは欠町から伝馬通、材木町から八帖町、矢作橋とつながっており、二十七曲がりを示す標柱が町並みにいくつか残っています。 

唐弓弦の看板(とうゆみづるのかんばん)

 かつて岡崎は、三河木綿の特産地として知られ、この辺りには三河木綿に関連する職人や商店が多く存在したそうです。
 「唐弓弦」とは、江戸時代使用されていた、綿を打つ道具のことで、これを扱っていた店の看板が当家に現存しており、当時の面影が残る看板です。

「伊賀川」に架かる「柿田橋」のたもとを左折します。案内柱「る」。

 (結局、「ち」「り」「ぬ」は気づかず。ということは先ほどの右左折が違っていたともいえそうだ・・・)

川沿いの道ばたにある道標。「材木町より下肴町」。

「三清橋」を右折。「下肴町より田町角」。橋を渡ったところに「を」。
 この付近、「伊賀川」の流路変更によってあいまいになり、ここで橋を渡るのではなくて、「柿田橋」を渡って川の西側を進む道筋だったとも。土手沿いの上に、左手にある神社が比較的新しいので、どうも昔の道ではなかったような、・・・。
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