おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR本庄駅~高崎駅。その1。坂東大橋。上毛電気鉄道。(「利根川」を歩く。第5回目。)

2021-11-01 20:45:26 | 利根川を歩く

本庄駅から伊勢崎駅行きのバスに乗って、「坂東大橋(利根川)」北詰で下車。左岸を歩きます。

「182.0㎞」ポスト。

坂東大橋

旧橋が架設される前は1883年(明治16年)に架設された木橋が存在した。 旧橋は木橋に代わるものとして埼玉県と群馬県の両県および周辺自治体が資金を出し合い、建設に約2年の歳月をかけ、1931年6月15日に開通した鉄橋であった。この橋は建設当時に計画されていた上毛電気鉄道の支線(上毛電気鉄道本庄線)と設備を共有し鉄道道路併用橋として利用される計画であった為、橋脚や橋桁が2段構造になっていた。ただし、この鉄道線の計画は橋完成直後に世界恐慌等の資金難により中止され実現しなかった。戦後、軌道用に確保されていた部分は交通量の増加により、1965年に道路として拡張された。旧橋の架設当時は群馬県内で最長の橋梁であった。

斜張橋である新橋は、旧橋の老朽化への対応と国道462号の道幅拡張の一環として約9年の歳月をかけて建設され、2004年3月6日に開通した。デザインは飛び立つ白鳥をイメージしている。

旧橋モニュメント(鉄橋)

斜張のすてきな印象。 

ところで、「上毛電鉄」とは?

群馬県の県庁所在地である前橋市と、県東部の主要都市・桐生市(1921年市制)は明治時代から生糸織物産地として発展してきたが、明治時代中期に両毛鉄道の手で建設された国鉄両毛線は、やはり織物産業の要地である伊勢崎をもカバーするため、前橋 - 桐生間で南方平野部へ迂回して敷設された。より北方にあたる赤城山南麓の農村地域は絹糸産業を支える養蚕地帯であったが交通は不便で、主要都市への交通の近代化が求められ、大正時代中期以降、電気鉄道建設の計画が複数の方面から立案された。鉄道交通の希薄な群馬県南部・埼玉県北部を合計100km以上にも及ぶ電気鉄道網で結ぶことを計画した。

前橋-桐生間は国鉄と接続せず、ターミナルは両市の繁華街に近い立地で設置された。電力会社や沿線からの資金調達により、1928年(昭和3年)に全線開通した。当初から1500Vの高圧直流を用いるなど、地方私鉄としては意欲的な投資が為されている。

「中央前橋」駅。

「西桐生」駅。(「Googleマップ」より)

開業当初は片道45銭の運賃こそ並行する両毛線と互角であったが、距離の短さと電車運転の威力で所要時間は若干短く、運行頻度は2倍以上で、両毛線から前橋 - 桐生直通客を奪取した。電気機関車は保有しなかったが、電車による貨車牽引や電車への貨物搭載で貨物輸送もおこない、沿線からの産品輸送に利用された。電車車内を半分に仕切って絹糸輸送に充てたこともあったという。当初孤立路線であったが1932年に東武鉄道が桐生線を新大間々駅(現・赤城駅)へ延長して接続した。

戦後に至るまで地域の主要な交通機関として利用されてきたが、1960年代に入り急速に進展した農村部のモータリゼーションにより通学客以外の利用が減少、利用者数は1965年をピークとして減少の一途を辿り、1968年の両毛線全線電化で、前橋-桐生間での直通優位性も低下した。以後は慢性的な赤字経営が続いており、沿線自治体の支援なども進められているが、情勢は依然として厳しい。

(この項、「Wikipedia」参照)

(「上毛電鉄」HPより)

本庄線とは?

上毛線の大胡から分岐し、伊勢崎を経由して埼玉県の本庄に至る路線の計画があったが、昭和の大恐慌のあおりを受けて実現しなかった

上流の「五料橋」まで左岸を歩きます。

     赤城山。

 

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