「白井宿」には井戸が多くあり、今も現役です。
羅漢水
「嫁に行くなら白井はおよし、田なし水なし井戸深し」とまでいわれたように、薬師井・延命水だけでは、寛政頃(1789~)、白井宿内200戸の家並みの飲用水には到底間に合わなかったのである。この窮状を見かねた下之町の叶屋金井氏は、住民のため井戸開せいのことに意を決し、私財を投じ寛政7年(1795)年正月4日、地鎮祭にこぎつけた。位置は家の前庭3・4間程の堰の傍らで、2月1日当主故弥次右衛門妻貞光尼が第一の鍬を下ろした。12日、4丈程のところで、横に2寸許りの穴が開き、赤蛙が這い出してきた。7尺掘りうまい清泉が出てきた。竣工は3月6日。日数36日、人夫延べ475人がかり、井戸の深さ4丈7尺、水深9尺であった。これより先、2月14日、先霊と井戸の成功を祈るため、十六羅漢の供養を行った。更に、赤蛙の這い出したことは誠に珍事であり、瑞祥であると、「羅漢水」と命名された。翌寛政8年春1月、雙林寺第37世玉州大泉和尚が「羅漢井記」を後世にと記す。寛政11年3月、「羅漢井記」を刻んだ法華経供養塔を下之町が施主となって建立し、盛大に法要が営まれた。塔の高さ345センチ、幅90センチである。
※「1丈」約3メートル。「1尺」約30センチ。
叶屋。
「叶屋蔵」。
「下之町」。宿内は、南から北へ、下・中・上町と連なっています。
解説板。
特色のある町並み ―武者返し―
白井町は沼田街道西通りに位置する在郷町である。農業の仕事の合間に開く50の六斎市を最高の収入源としていたが、経済界の発達から、商家などが旅客や市への来訪者、定住民の需要に応じて、大通りのある特色ある市場町の景観が作り上げられていた。
通りに面している家は、間口が狭く、奥行きが長い短冊型である。間口(地割)は3間幅から始まって、5間幅~7間幅が最も多い。間口の広いのは植木(植田)の豊嶋屋・金井の叶屋・宮下の和泉屋などであった。奥行きは東側が長く東遠構(ひがしとうがまえ)まで、西側は城郭の防御の構えを持った小丘に制限されてやや短い。
真ん中に堰があったが、これは雨水などの排水溝の役目をしたもので、これも白井町の特色である。
現在の群馬用水が流れる白井堰・町並み整備がなされた当初は、代官の命により、その支配統治の必要から、通りから家屋を斜めにずらして建て、小溝の縁に立て石で細長い三角形の空き地、いわゆる武者返しが全町に亘って整備されていた。長い年月の間に次第に消滅し、現在、下之町から宮本町にかけて、カーブのある位置にこの区画の残影を見ることができる。
※「武者返し」=武家屋敷で、表長屋の外溝の縁に一歩置きに立てた石。
※「群馬用水」
(「群馬用水管理事務所」HPより)
(「今昔マップ」より)
1970年代のようす。田畑に囲まれた集落。解説板のような家並みが残っている。
左に折れて高台の方へ。
石段の上に祠が。
「神明宮」。
白井西方のこの地域が、白井の伊勢神領で明蔵院裏で白井城外堀の土居に当たる所に鎮座している。元禄の頃の除地は下畑4畝4歩で、別当は明蔵院住職が兼ねていた。・・・この下の町を宮本町ともいう。
そこから宿内を望む。