おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

砂子の里。小土呂橋。関札。・・・(旧東海道・川崎宿その2。)

2014-03-31 21:52:20 | 旧東海道

1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。明治初期の川崎宿全体図。東海道に沿って町家が続く。北東(○)が「六郷の渡し」、南西(○)が「棒鼻」。このエリアが「川崎宿」。その先は、田んぼの中を突っ切る幅広い直線の並木道「八丁畷」(↓)となる。
 西側の直線は新橋~川崎~横浜間の鉄道。

「東海道かわさき宿交流館」。

ごあいさつ
東海道かわさき宿交流館  館長  青 木 茂 夫
 この「東海道かわさき宿交流館」は、地域の方々の長年の活動を踏まえ、東海道川崎宿の歴史、文化を学び、それを後世に伝え、地域活動・地域交流拠点となることをめざして整備した施設です。
 川崎宿は、江戸時代に東海道53次のひとつとして栄えた宿場で、現在の川崎の街の原点となる重要な歴史的資源ですが、戦災により、多くの資料を焼失し、江戸時代の宿場の面影は、そのほとんどが失われてしまいました。
 しかしながら、今ここに地元の方々をはじめとする関係者の皆様の多大なご協力により、川崎宿に残る記憶と記録を掘り起こし、さまざまな手法を凝らし、皆様に楽しみながら川崎宿を伝える施設として「東海道かわさき宿交流館」を設置しました。
 皆様には、この施設にとどまらず、ここで得た情報や知識をもとに、川崎の街歩きへとつなげていただければ幸いです。

・・・


川崎の歴史に深い関わりのある東海道や多摩川をイメージした松葉と水辺の江戸模様を、線(道)で繋ぎ合わせた表現です。(以上、公式HPより)

平成25年10月に開館

「川崎宿の由来」。上の絵は、「東海道五十三次 川崎」―歌川広重 天保4年(1830)制作―

 慶長6年(1601)徳川家康が東海道を新たに整備して、三十九宿を定めたが、川崎は品川宿と神奈川宿の合の宿で、元和9年(1623)家光の時に宿駅に追加制定され、いわゆる五十三次となった。
 慶長5年(1600)、江戸三大橋の一つとして六郷大橋(109間)が架けられたが度々の洪水で破損し、元禄元年(1688)から船渡しとなった。
 川崎宿は、久根崎、新宿、砂子、小土呂町よりなり、「六郷の渡しを渡れば万年屋、鶴と亀とのよね饅頭」と唄われた。
 徳川将軍四代にわたるお大師様への厄除け参詣が江戸庶民の大師詣でを盛んにし、大師前には門前町ができて大いに賑わった。
 明治5年(1872)新橋―横浜間に鉄道が開通したが、大師参詣客のため、その中間に唯一川崎駅が設置されたのは驚きに値する。
 しかしその後、東京―横浜間の通過町としてさびれたが、明治末期から六郷川を利用して川岸に産業が興り、大正・昭和には臨海部の埋立地に重化学工業が林立し、日本経済をリードする一大産業都市に発展した。
 当川崎は宝暦や文久の大火、安政の大地震、また昭和20年4月(1945)の米軍B29の大空襲のため、江戸を物語る面影は全て焼失し、今では浮世絵や沿道の古寺の石像物からわずかに往時を偲ぶのみである。
 川崎・砂子の里資料館 館長 斉藤文夫

1917~1924(大正時代)のようす(「今昔マップ」より)。上記の4つの町名が出ている。現在は、「砂子」のみ住居表示としては残っている。

「砂子の里資料館」。館長が収集した浮世絵を中心とした展示を行っている私立美術館。外壁はなまこ壁になっていて、江戸情緒を感じさせる建物。

案内図。上図には、東海道の宿場、右から「品川・川崎・神奈川」の三つの宿場町が描かれている。中央が「川崎宿」。
左下には現在の町のようすと重ね合わせて宿場のようすが掲示されている。

 旧東海道川崎宿には、大名や公家などが宿泊する本陣、宿駅の業務を司る問屋場、近村より徴発した人馬が集まる助郷会所、高札場や火之番所など公的な施設をはじめ、旅館や商家など350軒程の建物が約1,400メートルの長さにわたって軒を並べ賑わいを見せていた。古文書や絵図から宿の町並みを探ってみると、・・・活気にみちた都市的景観を認めることができる。
 もともと川崎宿のあたりは砂浜の低地で多摩川の氾濫時には冠水の弊害に見舞われる地域であった。そのため、旧東海道は砂州の微高地上を通るよう配置がなされ、さらに川崎宿の設置に当たっては、宿域に盛り土が施されたという。現在でも砂子から小土呂あたりを歩いてみると旧街道が周囲よりも幾分高いことがよく分かる。・・・

 注:「今昔マップ」によれば、川崎宿地域(そして、その西側)はほとんど標高2メートル。町はずれの東側になると1メートル、あるいは0メートル地帯となる。
 多摩川河畔から東京湾の縁にできた微高地上の縁に街が形成され、のちに東側の低湿地帯に水田、畑地が干拓されて広がっていった、と考えられる。(「品川」「神奈川」もほぼ同様。)

現在のようす。飲食店などが並ぶ繁華街。
「砂子1丁目」。「砂子」と書いて「いさご」と読む。その名の通り、砂地、砂粒を意味する。浜の「まさご」とも。
 この地域は、多摩川(六郷川)下流の氾濫原に出来た微高地。周囲は後に開拓され、田畑になった。その間を旧東海道は進んでいく。田んぼの中をあぜ道のように盛り土して街道を造成したと思われる(南西にある「八丁畷(なわて)」という地名がそれを示している)。
ここから小土呂橋交差点まで「いさご通り」。

「砂子2丁目」交差点。
「上の本陣・佐藤本陣」跡。
賑やかな通りの一角。
「佐藤本陣」の斜め向かい「川崎信用金庫本店」の南側角にある「佐藤惣之助生誕の地」碑。

 詩人佐藤惣之助は明治二十三年十二月三日に生まれ、昭和十七年五月十五日に五十二才で世を去った。生家は川崎宿の上本陣佐藤家で、現在位置の北隣の砂子二丁目四番地がその旧地である。
 惣之助は、大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名編を世に出し、不滅の地歩を築き、また「詩の家」を主宰して詩友と交わるとともに多くの後進の指導育成にあたった。さらに俳句・歌謡・小説・随筆にすぐれた業績を残し、釣・義太夫・演劇・民謡研究・郷土研究・沖縄風物の紹介など、趣味の世界における多方面の活躍も驚くべきものがある。
 歌謡作詞では「赤城の子守唄」「人生劇場」「新妻鏡」「男の純情」「青い背広で」「湖畔の宿」「人生の並木路」「すみだ川」など、人々の胸をうち、心に通う歌詞の故に今もなお愛唱されている不朽の作品が多い。
 ここにその事績を慕う郷党ら相集い佐藤惣之助生誕地記念碑建設委員会を組織し、市内在住の彫刻家の巨匠円鍔勝三郎に嘱し、惣之助の肖像と、嗣予佐藤紗羅夫氏の揮毫になる「青い背広で」の一部を銅碑に彫出して掲げ、記念とする。     昭和五十四年五月十五日

【青い背広で】
 青い背広で こころも軽く 街へあの娘と 行こうじゃないか
 紅い椿で ひとみも濡れる 若い僕らの いのちの春よ

小土呂橋交差点。


 東海道が「二ヶ領用水」の末流「新川掘」という川筋を横断するところにかかっていた橋。昭和6~8(1931~1933)年に埋め立てられたため、橋の欄干の親柱だけが交差点脇の歩道に保存されている。


 江戸時代、参勤交代はもちろん、約280年前にはベトナムからきたゾウが、この橋を渡って江戸に行った、とか。
 「二ヶ領用水」は、慶長2(1597)年、用水奉行の小泉次大夫が徳川家康の命を受け、多摩川の両岸に農業用水の開削を開始し、慶長16(1611)年に完成したもの。川崎市側の用水は、稲毛領と川崎領へ水を供給したため、二ヶ領用水と呼ばれる。
 現在では川崎区内はほとんど暗渠となって埋立てられ、かつての姿はうかがえられないが、川崎区内の隅々まで、毛細血管のように用水路がめぐらされていた。
 二ヶ領用水は、江戸時代には良質な稲毛米の穀倉地帯を生み出したほか、近代に入ってからは、臨海部工業地帯の工業用水にも使用された。

 現在の新川橋通りはかつて新川堀と呼ばれていた水路跡。この水路は、水はけの悪い当地域の生産性を上げようと、江戸時代につくられた排水路でした。新川堀には東海道と交わる小土呂橋のほか、新川橋、さつき橋などいくつもの橋が架けられていました。
 昭和6~9(1931~1934)年には、新川堀は埋立てられましたが、小土呂橋の親柱が現場近くに保存されています。
(以上、公式HPより)

 「小土呂」という地名の由来はよく分からない。「長瀞」などの「瀞」とは字義が異なり、泥湿地帯のそばの微高地だったことから来ているのではないか。

かつての橋の写真。幅約5メートル。
「稲毛神社」にある「小土呂橋」の遺構。


石造りの橋の遺構としては貴重なものらしい。寛保3年(1743)3間×3間の橋で、昭和7年、埋め立てれるまで現役だった、とのこと。
説明板。

「かに道楽」。街道筋を意識した店構え。

「川崎宿京入口」。
 このあたりが、「川崎宿」の京(都)側入口。「川崎宿」は江戸から来ると、「六郷の渡し」から下の本陣、中の本陣、上の本陣と続きここまでが宿場町。この宿場の入口には切石を積んだ土居があり、これを出るといわゆる八丁畷の一本道となって鶴見市場に至る。
 文久2年(1862)外国人遊歩区域となった当宿には、この土居付近に外国人警護のための関門が設けられた。

「関札」

 石垣の上にはその日その宿場に泊まる大名の関札が掲げられた。これは「八月三日 加藤遠江守宿」と記されている関札。 
コメント (2)

六郷の渡し。長十郎梨。万年屋。田中本陣。大空襲。・・・。(旧東海道・川崎宿その1。)

2014-03-29 13:00:35 | 旧東海道
 品川~川崎~神奈川と続く旧東海道の宿場。今回は「川崎宿」。

 徳川幕府が、東海道に駅制を定め、諸駅を設置した慶長6年(1601)のこと。諸駅より20年ほど遅れて川崎宿は元和9年(1623)に設置されました。それまでは品川宿の次は神奈川宿。往復十里(約39km)におよび、伝馬百姓の負担が過重のため、その中間に位置する川崎に新しい宿場・駅を設置しました、とされています。
 川崎市では、川崎宿成立400年となる2023年に向けてその歴史と文化を継承する企画が進んでいるようです。

「多摩川」に架かる「新六郷橋」際にある「六郷の渡し」説明板。

 関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ東海道の交通を遮る障害でもありました。
 そこで慶長 五年(1600)徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。以来、修復や架け直しが行われましたが、元禄元年(1688)七月の大洪水で流されたあとは、架橋をやめ明治に入るまで船渡しとなりました。
 渡船は 、当初江戸の町人らが請け負いましたが、宝永六年(1709)川崎宿が請け負うことになり、これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。      川崎市
 
 200年もの間、渡し船が行き交う場所だったわけです。
対岸(大田区側)を望む。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。六郷川(多摩川)をはさんで旧東海道。「六郷渡船場」とある。
 地元の鈴木左内が明治7年(1874)に木造有料の「左内橋」を架けたが、明治11年(1878)に流されてしまったため、この図には描かれていない。左の直線は、鉄道。東京側だが「梨畑」とあるのに注目。左下に連なるのが「川崎宿」の町並み。



「明治天皇渡御記念碑」。明治元年(1868)十月十二日、天皇は東下の道中、二十三艘でつくられた舟橋を渡って江戸(東京)に入った。
そのようすを描いたレリーフ。

(「制作 web-photographer 上野 隆史  Copyright 2003- All rights reserved.(ueno@tamagawa-kisui.jp)」より)

川崎は「長十郎梨」の原産地でもあった。「長十郎梨のふるさと」。

 すでに終了したイベントですが。
より
掲載号:2014年3月14日号

市民有志実行委
「長十郎梨育てませんか」
 苗木作りの参加者募集

 「区の木」に制定されている長十郎梨を自宅で育ててもらおうと、市民有志で組織された実行委員会が苗木作りの講習会を開催する。賛同者を広げ、区内に梨畑が広がっていたかつての景色を取り戻せればと夢見る。
 大師河原発祥の長十郎梨が盛んに栽培されていたのは明治・大正時代。当時の区内は梨畑が広がり、俳人・正岡子規は『多摩川を 汽車で通るや 梨の花』と詠んだ。そんな光景に近づけたいと、長十郎まつり実行委員会(石渡孝明委員長)が企画した。
 実行委員会は前身にあたる市民有志グループが05年から行っている長十郎梨の植樹会や収穫祭、小学校の体験教室等を引継ぎ、昨年9月、若宮八幡宮で長十郎梨の奉納祭を実施。苗木作りを通じ、長十郎梨をより身近に感じてもらおうという狙いもある。
 メンバーの一人である阿部英夫さんは「接ぎ木を使って苗木を作る機会はなかなかないし、面白い。説明を聞きながら作れば、そんなに難しくないですよ」と話す。作った苗木は、うまく育てばおよそ4、5年で数個の実をつけるという。阿部さんは「ぜひ庭に植え替えて大きく育ててほしい」と話すが、ポットに入った状態で持って帰ることができるので、庭などの植え替える土壌がなくても、鉢で育てることが可能だ。
 苗木作りの講習会は3月18日 、砂子の東海道かわさき宿交流館4階で開催。神奈川県農業技術センター職員から接ぎ木の仕方を学び、接ぎ木を台木に括り付けて苗木を作る。
 当日は、俳優で同実行委員メンバーの中本賢さんも来場し、長十郎梨の歴史などを講演する。午後1時30分から3時30分まで。定員は先着20人。費用は材料代として1500円。
 申し込みは電話かFAXで、同実行委員長の石渡さん(【電話】044・288・5885、【FAX】044・288・5861)へ。

梨ならぬ大きな実をたくさんつけた柚の木が沿道にありました。

 これまで、「川崎」にはあまりなじみがありませんでした。横浜への通過地点・駅くらい。その後、何度か川崎駅東側にある「体育館」「教育文化会館」等へ出向く機会がありました(「競馬場」や「競輪場」には縁がありませんが)。それも、駅から向かい、そして帰るだけ、という感じ。今回、初めて街を東北から西南へ歩いたということになります。

 川崎は、戦争末期、米軍機の空襲でほとんどが焼け野原になってしまった地域。

そんな歴史を持つ街。

京急大師線。
「大師道」分岐。「第一京浜」(旧東海道に一部が重なっている)をくぐる手前。「万年横丁 大師道」。「万年」は有名なお店「万年屋」に由来する。
「川崎大師」への道。
国道をくぐった所にある案内板。「六郷の渡しと旅籠街」。そこに、川崎宿の概要が記されている。

 家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に二百年の間、渡し舟の時代が続きました。舟を下りて川崎宿に入ると、街道筋はに賑やかな旅籠街。幕末のはやり唄に「川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤家、小土呂じゃ小宮・・・」。なかでも万年家とその奈良茶飯は有名だった。
川崎宿の家並
 旅籠六十二軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕籠屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、 油屋、道具屋、鋳掛屋、米屋など、合計三百六十八軒。 -文久三年(1863)の宿図から-

 ※「奈良茶飯
 少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗、粟など保存の利く穀物や季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだもので、しじみの味噌汁が付くこともある。
 元来は奈良の興福寺や東大寺などの僧坊において寺領から納められる、当時としては貴重な茶を用いて食べていたのが始まりとされる。本来は再煎(二番煎じ以降)の茶で炊いた飯を濃く出した初煎(一番煎じ)に浸したものだった。
 江戸時代初期の『料理物語』には、茶を袋に入れて小豆とともに煎じ、更に大豆と米を炒った物を混ぜて山椒や塩で味付けして炊いた飯を指すと記され、更に人によってはササゲ・クワイ・焼栗なども混ぜたという。
 日本各地に番茶などで煮出した茶汁で炊いた茶飯や茶粥が伝えられている。
 日本の外食文化は、江戸時代前期(明暦の大火以降)に江戸市中に現れた浅草金竜山の奈良茶飯の店から始まったと言われ、現在の定食の原形と言えるもので、奈良茶飯に汁と菜をつけて供され、菜には豆腐のあんかけがよく出された。これにより、奈良茶飯は、関西よりもむしろ江戸の食として広まっていった。
 川崎宿においては、文化文政時代に、万年屋が奈良茶飯で有名であったと伝えられ、また亀屋という店でも茶飯の提供が行われていたとされる。
 十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』に万年屋および奈良茶飯が登場したことで一層有名となり、万年屋は江戸時代後期には大名が昼食に立ち寄るほどの人気を博したという。

振り返って「第一京浜」ガードを望む。
おひるどきの旧東海道を南に向かって進む。
上には、「川崎宿」。
道には「旧東海道」。電線もなく、街灯も宿場町らしい雰囲気のもので統一され、歩き心地のいい道筋。同好の士のような方々も、ちらほら。
田中本陣跡。 
説明板。
「田中本陣」模型。
古文書や絵図から宿場の公的施設のあった所が明確になっているようで、道筋の所々に案内板が設置されている。ここは、「助郷会所」のあったところ。

 
 陽春に誘われての散歩道。
 来年は、戦災そして敗戦から70年を迎えようとしています。賑やかな町並みの復活と未来。そこで、「川崎大空襲」のおさらいをしておいて、この先の「川崎宿探訪」を続けます。


《付》
川崎市における戦災の状況(神奈川県)

 川崎市は、昭和17(1942)年4月18日の米軍による初めての本土空襲でも、攻撃目標になった。その後、昭和19(1944)年以降空襲が本格化するとともに、川崎市に何度も米軍機が飛来し、その度に被害を受けた。昭和20(1945)年4月15日に200機余のB29 による大規模な爆撃を受け、市中心部と南武線沿いの工場が集中している地域は、壊滅的な被害を受けた。

 戦前から川崎市では重化学工業を主とする産業が発展しており、軍需生産でも重要な役割を果たしていた。臨海部に大規模工場が多くあり、また多摩川沿いを走る南武線沿線に戦時経済の拡大に伴い、その当時の最新の設備を持つ工場が次々に造られていった。そのため、米軍から最重点の攻撃目標の一つとされていたのである。

 昭和17(1942)年の空襲でも死者34名という被害を受けた。昭和19(1944)年から本格的な空襲が行われ、川崎市でも、昭和20(1945)年4月4日に約50機のB29が飛来し、死者194名、負傷者243名、罹災者1,770名、全半壊焼失家屋470戸、全半壊焼失工場119という被害を受けた。4月15日に最大規模の空襲が行われ、200機余の米軍機が飛来し、焼夷弾と爆弾合わせて1,110トンが投下され、市街地全体と南武線沿いの工場が壊滅的な打撃を受け、多大な死傷者を出した。全半壊家屋33,361戸、全半壊工場287、罹災者は10万人を超えた。川崎市が空襲で出した死傷者の大半はこの大空襲によるものである。


<空襲後の市中心部:六郷橋から川崎駅西口方向を見る>


<空襲後の市中心部:川崎市役所から砂子‐土呂久橋方向>


<昭和通りから川崎市役所方向>(空襲直後)


<貝塚通りから川崎警察署方向>(空襲後)

 戦争が終わった時、川崎市の中心部は焼け野原になっていた。半数近い市民が焼けだされていたため、川崎市は昭和20(1945)年12月に住宅緊急措置令を出し、軍需工場などの工員寮で空いていたものを借りて共同住宅にするなど、住宅難への対応を行った。また、昭和20(1945)年9月に戦災孤児等保護対策要綱などを定め、戦災孤児についての調査や合宿所の設置などを行った。工業都市として再興していくための復興計画を作り、財政難を克服しながら市営埠頭、幹線道路の整備や区画整理等を進めていった。その後、京浜工業地帯の中核都市として、やがて高度成長を牽引する地位を占めることになった。

「川崎市における戦災の状況(神奈川県) : 一般戦災ホームページ」より)

《補足》「goo」の昭和22年(1947)の航空写真でも「市役所」が残っているのみで、ほとんどまだ手つかずの焼け野原であったことが分かる。

川崎市平和館・公文書館 「川崎大空襲記録展」『川崎大空襲記録展』私たちのまちに「空襲」があった』を開催します

 川崎大空襲の日(4月15日)を中心として、川崎大空襲の記録及び「空襲」に関する展示を行います。今回は、子どもたちの平和に関する発表も展示します。
 また、展示初日にはオープニングイベントを開催します。戦争の悲惨さを知り、改めて平和の尊さについて考えてみませんか?
【期間】 平成26年3月8日(土)~5月6日(火・祝) 午前9時~午後5時
       月曜日(祝日の場合は翌日)と第3火曜日は休館
【場所】 川崎市平和館1階 屋内広場(川崎市中原区木月住吉町33-1 電話:044-433-017)
【内容】
 1 パネル展示
 2 オープニングイベント
  「戦争体験を語る・聞く」 ~空襲などのお話を体験者の方からお聞きします~


(「nakahara.jimotomo.info/2014/03/2014---6c55.html」より)
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北九州市立百三十銀行ギャラリー(旧百三十銀行八幡支店)。八幡図書館。北九州市産業遺跡の旅。その3。

2014-03-26 22:57:49 | 歴史・痕跡



 「百三十銀行」は国立銀行条例(明治5年11月制定)に基づき、明治12年まで全国に創立された153銀行の一つで、大阪に本店があり、明治37年、若松支店八幡出張所として、今の八幡東区春の町五丁目に開設。同39年、西本町に移転と同時に八幡支店に昇格、さらに建物は大正4年、現在地の80メートル北東に新築、移転。大正12年には銀行合併で、安田銀行八幡支店となり、昭和14年まで使われた。
 その後、旧八幡市が戦災復興事業で建物を現在地に移転、市水道局の資材倉庫に使われていたが、昭和61年、市の有形文化財に指定され、平成5年10月から「北九州市立百三十銀行ギャラリー」として利用されている。(以上、「Wikipedia」参照)。

 辰野・片岡建築事務所(辰野金吾・片岡安)の設計といえば、このほどかつての面影を取り戻した東京駅舎(丸の内口)が有名。
 また、福岡市にある旧「日本生命保険株式会社九州支店」《明治42年(1909)2月に竣工した》も歴史的近代建築物として価値が高い。

 
 それらと比べると小規模ですが、「赤れんが」風の外壁、白と赤とのコントラストも見事です。北九州にも残っているとは驚きでした。
説明板。

 日本の近代建築の先駆者・辰野金吾(1854~1919)が主宰する辰野・片岡建築事務所が設計し、大正4年(1915)に建てられた鉄筋コンクリート造りの銀行です。外観は赤れんが風の壁体に、玄関、柱頭、窓周りを幾何学的模様で施し、「洗出し」で石造り風に仕上げ、大正期のモダンデザインを表現しています。・・・ 

 説明書きの下の写真は、1951(昭和26)年頃、震災復興事業としてもとの位置から南西約80メートルに曳き家したときの写真。

落ち着いた外観。赤煉瓦タイル貼り。
正面玄関付近。
当時の大正モダンの雰囲気。

 たまたま係の方がいたので、建物内に入らせてもらいました。明日から展示会があるということで、何もないフロアでした。
太い柱。もともとはこの柱のみで全体を支えていたとか。
大理石風の柱の仕上がりになっている。
天井。細い柱は後に照明用に設置されたもの、とのこと。
 
 もう一つ。「八幡図書館」の建物。

 八幡図書館は旧八幡市が1955(昭和30)年に建設し、合併後も八幡東区の図書館として現在に至る。八幡図書館の設計者は建築家の村野藤吾氏で、八幡駅前の国際通りという大通りや南端のロータリー周辺には、同じく村野氏が手掛けた八幡市民会館と福岡ひびき信用金庫本店が建っている。
 村野氏の建築が集中しているのは偶然ではなく、実は彼は青少年時代を旧八幡市で過ごしていたことを機縁に、旧八幡市が戦災復興事業で駅前を区画整理し、沿道に公共建築を整備する際、地縁と実績を併せ持つ建築家として、主要な文化施設の設計を市が彼に依頼した。
 「八幡図書館」の特徴は、レンガ貼の壁面と塗装仕上げの柱・梁によってグリッド(格子)状にまとめられた立面。これは、広島平和記念聖堂(広島市、1954・S29)や横浜市庁舎(横浜市、1959・S34)など村野氏の他の建築でも見られるが、2種類のレンガを用いて幾何学模様を描いている点は広島・横浜にない特徴。
横浜市庁舎(「Wikipedia」より)。

三角形・幾何学模様。
窓。



 正面入口付近に二つの国境石が置かれたありました。
  
左:「筑前國」。         右:「豊前國」。
説明板。

 古くから北九州市域は中央から東西に豊前国と筑前国の二つに分かれていました。
 その国境線には、小倉藩と福岡藩によってたたえられた国境石が多数ありましたが、現在では13基が残っています。
 ここにある国境石は二基とも上下が欠けていますが、「(従是)東豊前國小(倉領)「(従是)西筑前國」と解読することができます。(従是)は「これより」の意味です。
 豊前国の国境石は、以前、八幡東区三条にあったとされていますが、筑前国のものは置かれた場所がはっきりしていません。いずれも旧八幡市役所の内庭に保存されていたのを、昭和39年(1964)にここに移設したものです。・・・

 地元の方に車で案内してもらい、大きな収穫がありました。またの機会にはもっとじっくりと見て回りたいと思います。以上、「北九州市八幡」編でした。
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九州鉄道大蔵線遺構。北九州市産業遺跡の旅。その2。

2014-03-25 23:55:37 | 鉄道遺跡

 九州鉄道大蔵線は、かつて福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)の小倉駅と遠賀郡黒崎町(現・北九州市八幡西区)の黒崎駅の間を結んでいた鉄道院の鉄道路線ですでに100年以上前に廃線となっています。

《歴史》
 九州鉄道本線(現・鹿児島本線)の一部として開業した。九州鉄道側では小倉 - 黒崎間は戸畑経由とする予定であったが、海岸部に鉄道路線を敷設することについては、陸軍が艦砲射撃による線路破壊を危惧して反対した。そのため、内陸部にある大蔵地区を通る経路に変更し、敷設した。
 その後、戸畑経由の路線(戸畑線)も開通した。鉄道国有法施行に基づく国有化後の1908年、戸畑線を複線化した上で本線(当時の名称は人吉線)に編入し、大蔵経由の区間は大蔵線として、本線とは別の路線になった。
 大蔵線となった後は蒸気動車を導入し合理化を図ったが、大蔵線に並行して九州電気軌道(のちの西鉄北九州線)が開業したため廃線となった。

《年表》
1891年(明治24年)4月1日 : 九州鉄道門司(現・門司港) - 黒崎間の一部として開業。
1898年(明治31年)9月5日 : 大蔵駅が開業。
1907年(明治40年)7月1日 : 九州鉄道の国有化に伴い、国鉄八代線(→のち人吉線)となる。
1908年(明治41年)7月1日 : 小倉 - 戸畑 - 黒崎間が人吉線に編入されたことにより、小倉 - 大蔵 - 黒崎間を大蔵線と改称。
1909年(明治42年)10月12日 : 国有鉄道線路名称制定により、大蔵線とする。
1911年(明治44年)10月1日 : 廃止。(以上、「Wikipedia」参照。)

 わずか20年間。それも明治の終わりには廃線となってしまった路線。その痕跡が二箇所ほど今でも残っている、らしい。そこで、その一つへ案内してもらいました(実は出かける前に調べて置いたので、むりやり頼んで連れて行ってもらった)。
 それが「尾倉橋梁」。市立皿倉小学校の裏手に当たる。
この橋は、「茶屋橋」と同様、「煉瓦アーチ」橋。橋の下の細い通りは、かつて、小さな河川だったようです。

 もう一カ所、もう少し山側の方に、「茶屋町橋梁」が遺構としてあるようですが、そこへ行くのはお願いしすぎ。いずれも、北九州市の市指定史跡で、100年以上の昔の「九州鉄道大蔵線」の貴重な遺構。

 橋の上(北側)には民家が建っています。珍しい光景。

橋梁(南側)の上から階段下を望む。
西側(黒崎駅方向)を望む。かつての線路跡らしい趣だが。
東側(門司港方向)を望む。けっこう幅広い線路道だったようだ。
左手が橋梁上の建物の一部。線路沿いに建てられたものらしい。

↓が大蔵線跡の道路。○が橋梁。
石垣。けっこう高いところに橋梁を架けていた。

橋梁脇にある説明板。

 この橋梁は明治24年(1891)4月に開通した九州鉄道大蔵線の施設です。壁体は煉瓦の長手と小口を交互に積んだイギリス積み。煉瓦の小口を5段積みにした弧型アーチで、アーチの迫台は煉瓦積みの上に花崗岩をのせた構造。北側は一段ごとに煉瓦を迫り出した意匠としています。これは同区内にある市指定史跡である茶屋町橋梁と同じ手法です。・・・(九州鉄道大蔵線の歴史が刻まれてあり、上記のものとほぼ同じため、割愛)・・・市内には鉄道敷設当時の施設で残されているものは数少なく、この橋梁は本市の交通史上貴重なものとなっています
 平成7年3月 北九州市立平原小学校80周年記念事業委員会
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「東田第一高炉史跡広場」(八幡製鉄所発祥の地)。・・・。北九州市産業遺跡の旅。その1

2014-03-24 20:31:45 | 歴史・痕跡

 先週・3月16日(日)、縁あって「北九州市八幡」に出かけました。会議の前後に少し周囲を探索(地元の方の車で案内してもらったわけですが)しました。
 明治に入って「殖産興業」「富国強兵」のスローガンのもと、大いに発展を遂げた町並み。「第二次大戦」末期の空襲で大きな被害を受け、戦後は、公害で苦しみ、そして、それを官民一体で克服した歴史をもつ街でもあります。
 これまでも何度か来ていますが、こうして辺りを案内してもらったのは、初めてでした。ありがとうございました。
 そこで、何回かに分けて探訪記を。といっても、駆け足の旅でしたので少し物足りない気分も。

 まず「八幡製鉄所」発祥の地へ。場所は


国家挙げての事業だけに、1900年には建設中の東田第1高炉を、伊藤博文総理も視察した。足場のかかる高炉を背景に撮った記念写真。(日本経済新聞 夕刊 2009年4月2日(木) 掲載)
www.adnet.jp/nikkei/kindai/47/‎ より。

 日清戦争を契機として近代洋式製鉄所設立の機運が高まり、明治30年(1897)6月、八幡村に「官営製鐵所」が開庁しました。明治34年(1901)2月5日には東田第一高炉への火入れが、同年11月18日作業開始式が行われました。現存の東田第一高炉は第10次改修高炉であり、公称能力900トンを誇る日本最初の高圧高炉として建設され、昭和37年(1962)8月の火入れから昭和47年1月まで操業していました。しかし、長年の使用による老朽化が進み解体の危機が訪れました。
 保存を望む市民の声に、北九州市は東田第一高炉一帯を1996(平成8年(1996)に市指定文化財(史跡)に指定されるとともに保存整備されることになりました。
 付近一帯は「スペースワールド」を始め、自然史・歴史博物館や環境ミュージアムがあります。



  東田第一高炉の歩み
 東田第一高炉は、20世紀の幕が開いた明治34年(1901)、わが国初の本格的な製鉄所として建設された「官営製鐵所」で、最初に火入れされた溶鉱炉です。
 当時、本格的な製鐵技術を持たなかった日本は、ドイツから技術者を招き、言葉の壁等による幾多の困難を乗り越えながら、4年間に渡る難工事の末、ようやく製鉄所を完成させました。
 その後、10回にわたり改修工事が行われ、昭和37年(1962)東田第一高炉は現在の姿になり昭和47年(1972)、その役割を終えました。・・・

偉容を誇る施設。歴史を背景にした迫力は満点。

上部に「1901」という表示が掲げられている。ちなみに母校の高校(旧制中学)の創立年と同じ。
「原点」。
説明板。

 昭和4年(1929)八幡製鐵所内の一を決めるために6基ならんでいた東田高炉群を中心に東西を貫いた直線と旧本事務所からこれを直角に交わる点を八幡製鐵所の測量原点をきめました。この点をもとに、八幡製鐵所内につくられる施設の一や高さがきめられました。


「高炉」と「傾斜塔」。鉄鉱石やコークスは「傾斜塔」を通して、高炉に投入された。
「熱風炉」
「煙導弁作動モーター」
 
「熱風炉基盤」


「煙道」
耐火レンガが張り詰められている。

説明板。

遠くに見えるのが、「転炉」。


 転炉では、高炉から運ばれて来た銑鉄にくず鉄や生石灰などを入れて酸素を吹き込み、レールや自動車部品などいろいろな使用目的に適した粘りのある強い鋼鉄をつくります。
「転炉」の名前の由来
 転炉という名前は2つの意味があります。ひとつは炉をくるっと回転させることで更迭を流し出すしくみであること、もう一つは、転炉の英語名CONVERTER(転換する者)から付けられました。
 転炉での作業
転炉の炉体を傾け、とっくり型の口の部分から銑鉄やくず鉄、石灰などを炉内に入れます。そして、「ランス」という管から酸素を吹き付け、銑鉄に含まれる不要な炭素分などを燃やして取り除きます。こうした作業が終わると、銑鉄は粘りのある強い鋼に生まれ変わります。

「東田第一高炉史跡広場」。
「トーピードカー」。高炉から出た銑鉄を運ぶ。上部に見える人形は、その貨車に銑鉄を流す場面の再現。

 一方、「八幡」がこうして一大工業地帯と発展した陰に、長い年月、深刻な公害問題を抱えてきました。

 北九州地域は、1901年の官営八幡製鐵所の創業以来、重化学工業地帯として発展しました。中国大陸の鉄鉱石や筑豊炭田の豊富な石炭を利用した重化学工業は、当時の日本政府の経済政策を背景に大いに発展し、北九州市は日本の四大工業地帯の一つとして発展しました

《公害の発生》
 1960年代、産業の隆興に伴い、日本は急激な経済成長を遂げました。特に鉄鋼、機械、化学などの重化学工業は、その牽引的役割を担いました。
 しかし、「経済の成長」と「産業の興隆」は、同時にそれまで経験したことのない公害問題をもたらしました。土地が狭く、工業地帯と住宅地帯が隣接する我が国では、深刻な被害が発生しました。それは、北九州市もその例外ではありませんでした。
(1)大気汚染
 大規模な工場が林立する洞海湾周辺地域の「城山地区」では、1965年に年平均80t/km2/月(最大108t/km2/月)という日本一の降下ばいじん量を記録しました。そして、1969年には、日本で初めてのスモッグ警報が発令されるなど、著しい大気汚染に苦しみました。「公害の吹き溜まり」と呼ばれた城山地区では、激しい大気汚染により多くの市民がぜん息に悩まされました。
1960年代の城山地区のようす。
(2)水質汚濁
 洞海湾は、閉鎖性水域であることに加え、工場からの未処理排水や市民の生活排水が流入することから汚濁が進行しました。1969年の調査では、洞海湾の溶存酸素量0.6mg/l、化学的酸素要求量(COD)48.4mg/lを記録し、大腸菌でさえすめない「死の海」と言われました。
1960年代の洞海湾のようす。

 「北九州地域」は、日本の四大工業地帯の一つとして、重化学工業を中心に発展し、日本の近代化・高度経済成長の牽引役を果たしてきました。しかし、一方で激しい公害をもたらしました。大気汚染は国内最悪を記録、洞海湾は工場廃水により「死の海」と化しました。
 この公害に対し、対策を求めて最初に立ち上がったのは、子どもの健康を心配した母親たちでした。住民運動やマスメディアの報道が公害に対する社会の問題意識を高め、企業や行政の公害対策強化を促したのです。
 市民、企業、行政の一体となった取り組みにより、環境は急速に改善され、1980年代には、環境再生を果たした奇跡のまちとして国内外に紹介されるようになりました。
現在の「城山地区」のようす。
現在の洞海湾のようす。



(以上、 「」  HPを参照)

澄み切った青空の下に映える高炉。
白色の熱風炉。
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象の鼻パーク。たねまる(くん)。転車台・・・。横浜その24。

2014-03-23 09:18:55 | 歴史・痕跡
 赤れんが倉庫から「山下公園」方向へ。

「新港橋梁」。
赤れんが倉庫側を望む。軌道が敷かれている。
銘板には「大正元年八月 浦賀船渠株式會社製造 」とある。

 もともとは横浜臨港線(貨物線)の橋梁で、新港埠頭が出来た明治44年(1911)に開通した臨港線に続き、大正元年(1912)に横浜税関まで開通させた際に架設したもの。

橋を越えると「象の鼻パーク」。案内図。
実際は、「新港橋梁」から来るとこのように見える。↑が象の鼻「防波堤」。



1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「象の鼻」のような形をした「波止場」になっていたことがよく分かる。
日本海軍水路寮作成海図「武藏國横濱灣」の一部(明治7年(1874年)刊行)。図の中心からやや右下に2つの波止場が確認できる。(「Wikipedia」より)
(注:Aが「神奈川砲台(台場)」、Bが「象の鼻(東波止場)」と「西波止場」)。


1970年頃のようす(「同」より)。「象の鼻」の形がまっすぐになっている(↓)。その東隣が「大桟橋」。

象の鼻パーク

 横浜港発祥の地。「象の鼻波止場」を明治中期の形状に復元し、横浜港開港150周年となる2009年(平成21年)6月2日に開園。

《歴史》
1859年(安政6年) 東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の2本の突堤が幕府によって建設され、横浜港が開港。
1867年(慶応3年) 東波止場が弓なりに湾曲した形に築造され、その形状から象の鼻と呼ばれるようになる。
1896年(明治29年) イギリス人技師・パーマーの設計により東波止場の先端に大さん橋が築造され、西波止場の背面が埋め立てられる。
1923年(大正12年) 関東大震災により被災。その後、象の鼻波止場(東波止場)は直線に近い形状で復旧する。
2009年(平成21年) 横浜開港150周年を記念して、象の鼻波止場が明治中期頃の形状に復元され、開園。
(以上、「Wikipedia」参照。)

正面が「象の鼻」突堤。左に見えるのが「飛鳥Ⅱ」号。
芝生のところから「大桟橋」を望む。正面が「象の鼻」。
横浜開港150周年を記念したモニュメント「たねまる」くん。「開国博Y150」のマスコットキャラクター(今でいう「ゆるキャラ」)。当世のゆるキャラブームの中で、今はどうしているのか?

開国博Y150

横浜港開港150周年を記念して2009年4月28日から9月27日までの153日間、横浜市で開催された地方博覧会。

マスコットキャラクター「たねまる」

 横浜開港資料館の中庭に植えられるタマクスの木の精。上半身は芽を出した種子、下半身は船をモチーフにしており、横浜のタネが世界に向け出航するイメージを表している。博覧会のみならず、横浜開港150周年記念事業全てのマスコット。

ペリー・テイトくん

「たねまる」の友達でありライバルというサブキャラクター。開国博Y150を盛り上げるために応援に駆けつけたという設定を持つ。名前のモチーフは、横浜開港の立役者となったマシュー・ペリー。黒船をモチーフにした黒い船体につりあがった眼つきと、いわゆる「ゆるキャラ」の「たねまる」とは対照的な容姿を持つ。
 開国を求めて背中の大砲をぶっ放す、錨を振り回す、さらに頭の煙突からは大量の二酸化炭素をまき散らすなど行動も極めてワイルドかつ破天荒な存在。
 (注:どうして「くん」付けしたのか、当時の「尊皇攘夷」から「開国」「開港」へと迫られた日本の為政者の屈折感が現れているのか? してみると、現在と変わらないなあ!

 ところがこの博覧会、最終的には大赤字!
 最終的に有料入場者数123万9,325人と、計画していた有料入場者数であった500万人には及ばず、最終的には約28億円の赤字となった。閉幕後、横浜開港150周年協会とイベントの企画運営を委託した企業や入場券販売の契約を結んだ企業とのあいだで相互に提訴になった。
 2010年11月には協会と博報堂JVが調停に入り、博報堂JVに対する協会の債務残高約34億8000万円のうち、協会の資金となる約11億4100万円と市の補助金約12億6000万円を博報堂JVに支払い、残額10億3100万円は債権放棄することが発表、その後の市議会で補助金相当額の市税を投入する補正予算が可決された。・・・
 (注:とんだイベントだったわけですね。そして、「たねまる」くんも借金のかたにとられたまま、姿を隠し、今は、ここにだけ残っているということか!)

遠くに「大桟橋」に停泊中の「飛鳥Ⅱ」。上空から見ていないので、「象の鼻」とはなかなか・・・。
赤れんが倉庫を望む。

「山下公園」へのプロムナード。この道もかつての貨物線跡。
1970年頃のようす(「同」より)。「山下公園」西側、赤い直線が「山下埠頭線」。→が「氷川丸」。


 昭和30年代、山下公園の東側に山下埠頭が造成されることから既に新港埠頭(当時)の横浜港駅まで敷かれていた国鉄高島線(通称)の線路を山下埠頭まで伸ばして貨物駅を設置し貨物輸送を行う計画が持ちあがり、公園の道路側に高架を建設することになって、1961年から工事が着手され1965年に完成した。
 名称については「山下臨港線」の他にも「山下埠頭線」「臨港貨物線」「公共臨港線」などの様々な通称がつけられた。
 開通後に本牧埠頭および大黒埠頭が造成され山下埠頭の重要度が低下していき、またモータリゼーションにより鉄道輸送から自動車輸送へシフトしたことから貨物列車の運行頻度が低下していったため、山下臨港線は1986年に廃止となった。
 1989年の横浜博覧会の開催に合わせて会場近辺から山下公園までの線路を旅客輸送に再活用するために、追って廃止された桜木町側の線路と共にそのまま残されることとなった。そして博覧会開催時にはこれらの線路を利用して、桜木町駅近辺(会場ゲートの一つ)に設置された日本丸駅から氷川丸付近に設置された山下公園駅まで気動車を往復運行していた。
 この列車については当時の鉄道ファンなどから恒常的運行を希望する声もあったが、営業収支が芳しくなかったことから運行は博覧会の会期中にとどめられた。
 またこの時運行された2編成4両の気動車は、博覧会終了後に岩手県の三陸鉄道へ譲渡されて36-300形・400形となり、それぞれ2006年、2004年まで運行された後、ミャンマーへ売却された。
 その後しばらくの間、山下臨港線部分の線路と高架脚は放置されていたが、地元から山下公園内の景観復活を求める声が強くなったため、公園敷地内の高架については撤去する工事が開始され2000年までに撤去を完了した。
 山下公園より西側に残されていた山下臨港線跡の高架について、「汽車道」同様に遊歩道とされることになり、2002年、新港橋梁から山下公園まで「山下臨港線プロムナード」として一般開放された。(以上、「wikipedia」参照)

高架線跡をそのまま生かしている。
高架下。

転車台。小型のもの。特に説明板はなかったので、詳細不明。

 「山下公園」内は省略して、「桜木町」駅にたどり着き、駅そばの老舗・「川村屋」でおそばを食べて電車に乗りました。
 これで、横浜編は一段落。またの機会に探索を続けます。
 
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旧横浜港駅プラットホーム。旧税関事務所遺構。・・・。横浜その23。

2014-03-21 22:58:38 | 鉄道遺跡
 通りを越えると、再びレール道が復活。複線になっています。その先には、「プラットホーム」がありました。「赤れんがパーク」の一角。


1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。当時の「横浜港駅」付近。上に駅。線路脇の広場が「荷さばき場」(旧税関事務所があったところ)。下に赤れんが倉庫群。下方が大桟橋、さらに山下公園方向となる。

たくさんお店のある「赤れんが倉庫」の裏手にあたるせいか、バスの乗降客以外は人通りは少ない。


かつてここにあった「横浜港」駅を再現したもの。
「説明板」。
当時のようす。

 旧横浜港プラットホーム(旅客乗降場)
 「横浜港駅」は明示44年(1911)、横浜税関構内の荷扱所としてつくられ、大正9年(1920)7月23日「横浜港駅」となり、東京駅から初の汽船連絡列車が乗り入れました。列車はその後「岸壁列車」などと呼ばれて親しまれました。
 関東大震災の復興期、昭和3年(1928)当時の花形外航ターミナルにそって旧「横浜港駅」のプラットホームが設けられ華やかな海外航路時代の最盛期をむかえました。
 「赤れんがパーク」の休憩所として保存再利用にあたり、悼んでいた上屋は新材料で復元しています。

「汽車道」方向を望む。

海岸寄りには「海上保安庁」の建物。

「プラットホームから「赤れんが倉庫」を望む。

赤れんがの土台が広がる「旧税関事務所遺構」(事務所正面)。


足を止める人がほとんどいなかったのは、残念。独特の興趣があった。
説明板。
 
旧税関事務所遺構(右突堤中央事務所)

 これは、大正3年(1914)5月に建設された税関の事務所遺構です。レンガ造りスレートぶき、3階建てのゴシック様式の建物でしたが、大正12年(1923)9月1日関東大震災により床や屋根が焼失したため、復旧されないまま埋めもどされ、荷さばき用地となっていました。「赤れんがパーク整備」のための工事の際に発見され、現在、花壇として利用しています。・・・



現在の「横浜税関」の建物。
この建物もなかなか立派。
屋上部分の緑色の「尖塔」が特徴的。「クイーンの塔」として親しまれ、神奈川県庁本庁舎(キングの塔)、横浜開港記念会館(ジャックの塔)とともに「横浜三塔」の一つ。横浜市認定歴史的建造物(2001年度認定)。

大桟橋には、「飛鳥Ⅱ」が停泊中。左奥の橋は、「横浜ベイ・ブリッジ」。「赤れんがパーク」から。
 「飛鳥Ⅱ」は、外航クルーズ客船。2014年3月時点で、日本籍では最大の客船だ、そうだ。(ところで、17日の夜には、「クイーンエリザベス二世号」が着岸した、とか。)



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「汽車道」。・・・横浜その22。

2014-03-20 21:12:51 | 鉄道遺跡

 みなとみらい地区は、横浜都心部の一体化と強化をめざしたウォーターフロント都市再開発として建設されている街区 。再開発が行なわれる以前は、当地に三菱重工業横浜造船所、国鉄高島線の東横浜駅(貨物駅)・高島ヤード(操車場)、高島埠頭などがあった。
 2004年にはみなとみらい線が開通し、「新高島駅」、「みなとみらい駅」が開業した。

 「21世紀にふさわしい未来型都市」を目指して開発が進められ、電線・電話線(光ファイバー)は共同溝により、上下水道などと一緒に埋設され、さらに共同溝によるごみ集積、地域冷暖房を導入しており、省エネにも配慮している。

 企業誘致にも積極的で、2000年代半ばには日産自動車グローバル本社等、多くの企業法人の立地が進んでいる。
 2012年12月時点の就業人口は89,000人(前年比約11,000人増)と増加傾向、さらに首都圏における観光地、行楽地としての人気が高く、同年の来街者数は約6,700万人(前年比約800万人増)と増加を続けている。
(以上、「Wikipedia」参照)

 というわけで、平日にもかかわらず人出でにぎわうこの地区へも足を向けました。

「案内図」。↓が「汽車道」、Aが赤れんが倉庫群、Bが象の鼻テラス。

「日本丸」側から「汽車道」を望む。

 「汽車道」は、1911年(明治44年)開通の旧横浜駅(現桜木町駅)と新港埠頭を結ぶ臨港線(通称税関線とも)の廃線跡を利用し、その一部にあたる約500mの区間を緑地として整備したもの。
 この臨港線は新港埠頭内の横浜港荷扱所(横浜港駅)を経由して岸壁や倉庫の前、さらに横浜税関構内の荷扱所まで結んでいた。
 1920年(大正9年)からはサンフランシスコ航路の出航日に限り、旅客列車(ポートトレイン)の運行が行われるようになった。戦後は米軍により一時接収されたが、1952年(昭和27年)に返還され、以降1961年(昭和35年)の氷川丸の最終航海時まで旅客運送が行われていた。
 その後、貨物支線としては1986年(昭和61年)に廃止となり、1997年(平成9年)に汽車道として整備されるに至った。(以上、「Wikipedia」参照)

 汽車道は「日本丸」側と「新港地区」を2つの人工島並びに3本の橋梁で結んでいる。
「汽車道」。
単線でレールが敷かれている。
「港1号橋梁」プレート。「AMERICAN BRIDGE COMPANY OF NEW YORK USA 1907」とある。1907年は、明治40年。この年に製作され、1909(明治42)年に架設された。


説明板。
道の両側は海(運河)になっていて、開放感のある道。
運河の対岸、遠くに赤煉瓦の建物を望む。

「港2号橋梁」。「1号橋梁と同じく「アメリカン・ブリッジ・カンパニー」、製作1907年・架設1909年のトラスト橋。



緩やかに右にカーブしていく。
穏やかな日差しの下の散歩道。

 この日は、未曾有の大災害、「東日本大震災」からちょうど3年目の日。福島原発事故の収拾もままならず、いまだに避難者が20万人近く。この日、その発生時刻を機に避難訓練もあったようだが、それとも分からぬままに。・・・。横浜も「関東大震災」で大きな被害を受けた地域だった。

「港3号橋梁」(旧大岡川橋梁)。
説明板によると、イギリス系トラス橋の遺構で、もともとは北海道の夕張川に架かっていた橋梁だった、という。。
左に見える建物は、「横浜ワールドポーターズ」。 

汽車道は、そのまま「ナビオス横浜」の建物に吸い込まれていきます。


※「ナビオス横浜(横浜国際船員センター)」
データ/概要

竣工年:1999年
高さ:10階
延床面積:11,667㎡
建築主:日本船員厚生協会
設計:アール・アイ・エー
施工:安藤建設など
所在地:神奈川県横浜市中区新港2-1-1
日本船員厚生協会による船員とその家族のための福利厚生施設。一般人も利用可能。 客室数は135室でこれは全国各地にある同協会運営の宿泊施設の中で最大規模。
第1回「横浜・人・まち・デザイン賞」 受賞、第45回神奈川県建築コンクール優秀賞受賞
bb-building.net/tokyo/deta-y/118.html‎HPより)
大きな「碇」のモニュメント。
「汽車道」を振り返る。


1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。活況を示している当時のようすが分かる。右手が「横浜港」駅方向。左手上のドックが現在の「日本丸メモリアルパーク」。
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「高島線・みつびしどっく踏切」。「日本丸メモリアルパーク」。・・・。横浜その21。

2014-03-19 22:07:01 | 歴史・痕跡


1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。横浜~桜木町。「みなとみらい21地区」などまだ影も形もない頃。高島線・高島駅が埠頭の中心地に大きな敷地を占めている。高島操車場は機関庫も有した京浜工業地帯有数の大規模な駅だった。
 右(海側)に「三菱重工ドック」の一部が見える。左上方が「横浜駅」、右下方が「桜木町駅」。

 「高島(貨物)線」

 現存する区間は、鶴見~東高島~桜木町。鶴見で東海道本線や貨物線の東海道貨物線、武蔵野線に接続し、新鶴見信号場や東京貨物ターミナル駅方面へと連絡している。また、桜木町では根岸線に接続している。
 日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物列車が運転されているが、線内完結の列車はなく、鶴見以東と根岸線を結ぶ中継ルートの役割を果たしている。
 路線網が縮小される前は、横浜港一帯に臨港線と貨物駅を張り巡らせており、横浜市内に発着する貨物および船舶と連絡する貨物の取り扱いを行っていた。

「高島駅」跡地。しばらく地下を通過し、途中から地上に出て桜木町駅方向へ進む。
このあたりもかつての高島駅構内。
高層ビルの向こう、運河を隔てた先にある「東高島駅」方向を望む。「日産自動車」ビルと「富士ゼロックス」ビルの間で地下化されている。
旧「高島駅」一帯は広大な敷地が残されている。
東高島駅方向を望む。線路は地下から地上に出てしばらくJR線の脇を進む。標識には、「ここはたかしま線 10番 みつびしどっく踏切です」とある。
 このあたりから東側・海岸一帯は、広大な「三菱重工横浜造船所」敷地だった。
桜木町駅方向を望む。
「自動車通行禁止」の細く小さな踏切。それでも、けっこう地元住民らしき人達が渡っていく。この辺では西に出る唯一の通り道。
踏切を通過する貨物列車。
 みなとみらい4丁目の交差点を西へ。小さな子どもを連れた家族で賑わう「横浜アンパンマンこどもミュージアム&モール」の脇の道を行くと、この踏切にぶつかる。踏切を渡ってJRの高架線をくぐると、花咲町へ。地元の人たちの大事な通路となっているようす。

 思いがけない発見でした。

 もともと、「みなとみらい21」の敷地は、「三菱重工業横浜造船所」の移転跡地を埋め立てにより拡張したもので、「横浜ランドマークタワー」は、造船所のドック跡地に建設されました。
 「ドックヤードガーデン」は、日本に現存する最古の石造りドックヤードであった旧・横浜船渠(のちの三菱重工業横浜造船所)第2号ドックを復元・保存したもの。このドックは1896年に竣工し、1973年に使用を中止するまで70数年間、港湾施設として重要な役割を果たしてきました。
 「みなとみらい」の土地造成に伴い、ドックは海岸線から離れたが、1993年の横浜ランドマークタワーの開業とともに、「ドックヤードガーデン」としてオープンしました。

 1997年12月には国から重要文化財の指定を受けました。全長約107m、全幅(上端)約29m、深さ約10m。

 横浜船渠の第1号ドックは1985年以来、「日本丸メモリアルパーク」として保存活用され、2000年12月に国の重要文化財に指定されています。(以上「Wikipedia」参照)


1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓Aが現「ドックヤードガーデン」、→が「日本丸メモリアルパーク」、↓が「汽車道」。中央下が「桜木町」駅。

「日本丸メモリアルパーク」。
「日本丸」。


 この次は、「汽車道」へ。
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二代目「横浜」駅遺構。そして初代。・・・。横浜その20。

2014-03-18 22:26:59 | 鉄道遺跡

旧「高島町駅」近く、国道1号高島町交差点脇のマンション「ロワール横濱レムナンツ=「遺構」の意とのこと」の一角に「二代目横浜駅」の遺構が展示保存されている。
 写真をよく見ると、駅舎正面を遮るように貨物の高架線が横切っている。何とも無粋な印象だが。

二代目横浜駅の煉瓦造りの二代目横浜駅舎になぞらえた煉瓦張りのマンション外形。

 横浜駅の初代は1872(明治5)年に開業した現在の桜木町駅。順次西に延びた東海道本線の列車は、行き止まりだった初代横浜駅でスイッチバックをして進んだ。1915(大正4)年に「高島町」に二代目横浜駅として移転し、初代横浜駅は「桜木町駅」となった。

大正10年 5万分1地形図。(「」より拝借)○が二代目横浜駅。

※ ここで、「百年の鉄道旅行」様の紹介を。
 産業革命後、蒸気機関を主力として、鉄道・船舶の技術が大きく発展し、20世紀初頭までの約百年間に莫大な路線延長の鉄道・航路網が形成された。帝国主義の領土拡大と経済発展を支えたインフラとして旅客・物資輸送網は、2つの世界大戦の間の短い平和なときにその最盛期を迎えた。そして今日、ガソリン自動車とジェット旅客機の発展、国家間の境界の変更や人や物の流れの変化よって、鉄道や航路はもはや長距離旅客輸送の主役ではなくなってしまった。
 当時の絵葉書や旅行案内はそんな黄金時代を思い浮かべさせてくれます。そんな資料を携えて、現代に残る駅舎や廃線の跡、車両や施設などを見つける旅にでました。その記録を紹介していきたいと思っています。
www5f.biglobe.ne.jp/~travel-100years/travelguide_145.htm  <須藤康夫>

 示唆されるところの大変多いHPです。

 東京駅のような煉瓦造りの堂々とした駅舎で、1915(大正4)年に建設されたが、8年後の1923(大正12)年の関東大震災後の火災により取り壊されてしまい、三代目として現横浜駅がつくられた。わずか8年だったため、「幻の駅舎」と呼ばれている。
 また駅舎遺構の下層に1907(明治40)年頃建設された「横浜共同電燈会社裏高島発電所」の遺構(取水口と導水管)も発見され、二つの近代産業遺構が公開保存されている。
基礎部分の遺構。
見取り図。これによると、このマンションはほぼ「二代目横浜駅」遺構の上に建てられている、らしい。展示・保存されているのは、駅舎の一部で、「小荷物取扱所」の位置に当たる。

がっしりした基礎部分。

「横浜共同電燈会社裏高島発電所」の遺構(取水口と導水管)
上面をガラスで覆っているため写しにくい。けっこうな深さがあるようす。

ついでに「初代横浜駅」。「JR桜木町駅」前に掲示されたあったもの。
1887(明治20)年頃のようす。正面には「噴水塔」。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。○の部分が初代横浜駅・駅舎と思われる。

「高島町」から「みなとみらい地区」へ。歩道橋の外灯の上には「碇」。さすが「横浜」。
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東急東横線高架線・旧「高島町」駅。廃線跡。・・・。横浜その19。

2014-03-17 19:09:35 | 鉄道遺跡
 今回は、JR「横浜」駅から「桜木町」駅まで。
 みなとみらい、山下公園付近までも足を伸ばしたので、2時間30分ほどの周遊。
 「東横線高架」跡、「国鉄二代目横浜駅」遺構、汽車道、赤れんが倉庫、高島線踏切、・・・。高校生やカップル、家族連れで賑わう界隈をぐるりと足早に。3月11日。

「みなとみらい線」の開通に伴い地下化したために、役割を終えた高架線(横浜~高島町~桜木町間)(もう一箇所は、横浜~反町~東白楽間)。

 2004(平成16)年に廃止されてからすでに10年が経過している。高架線は、線路、駅舎、ホームなど撤去されています。2004年当時、大変な話題になったようですが、東京都民としてはほとんど関心もないままに、今日まで。
 この廃線となった区間を今後どのように再活用していくか? 様々な提言もあるようですが。

廃線区間(横浜駅~桜木町駅間)
 横浜都心部の慢性的な放置自転車問題の解決や自転車及び歩行者等の安全性と利便性を確保するため、「自転車も通れる遊歩道や駐輪場」として再生することを基本に、検討及び整備を進めています。
 周辺地区とのアクセス強化を図るため、既設の道路と交差する箇所については、階段等の昇降施設を設けるなど、利便性の向上を図っていきます。
 また、市民に歓迎される魅力ある施設となるよう、上部の整備内容や旧駅舎、高架下空間等の利活用について幅広く検討を行っていきます。
•面積 約13,000m²
•延長 約1.8km
•幅員 約7~10m
HPより。

注:「横浜~東白楽」間は、「東横フラワー緑道」として再活用(この「blog」でも紹介済み)


 さて、現状はどうなっているか? 
奥の橋脚が東横線。手前がJR線。

石崎川に架かる「浅山橋」から旧「高島町」駅付近を望む。橋は、関東大震災後の昭和3年に竣工。
高架線の西側も広大な空き地になり、次の開発を待つ。線路上に屋根が取り払われたホームが見える(横浜寄り)。
旧高島町駅方向を望む。
右手がかつての「高島町」駅ホーム。
ホームへの階段跡か?
工作物はすっかり残っていない。
桜木町方向を望む。左手が「高島町駅」跡。
「国道一号」をまたぐ高架橋。
その先は、旧桜木町駅まで高架線の下は歩道になっている。壁は消しては描かれ、描かれては消されていた「落書きアート」として有名だった、という。すっかり何もなくなってきれいに。


どこまでも一直線。並行する通りは意外に閑散としていた。通りの向こうは高台につながる住宅街。線路を隔ててずいぶんと趣が異なる風景。
高島町方向を振り返る。
右が東急、左がJR。


1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓が「高島町駅」。○がJR(国鉄)「高島駅」構内の機関庫。



2010年代のようす。運河の流れは変わりませんが、他は様変わりです。「高島町」駅、機関庫、・・・。現在はもっと大変化。
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「新興駅」。貨物専用線廃線跡をたどる。その4。横浜その18。

2014-03-15 23:12:20 | 鉄道遺跡
  宝運河に架かる「布袋橋」を越えると、横浜市が「貨物線の森緑道」として公園整備を進めている地区になります。廃線跡の「緑道」が一直線に伸びています。樹木などの緑はまだまだ少ないようですが。ちらほらつぼみも。

 産業道路の両側は「日産自動車横浜工場」関連施設が並んでいます。
日産の工場脇。
メモリアルとして線路がそのまま残っている。「日産工場」正門前。
産業道路の西側を廃線跡の緑道が進んでいく。

大黒運河に架かる「寿老橋」。
並行して存在していた貨物線(恵比須~新興区間)廃線跡の橋梁。
立ち入り禁止の柵には、つる性の草が絡まったまま。
線路も撤去されて橋脚のみ残っている。
反対側から橋梁を望む。
「大黒運河」の表示。来た道を振り返る。右が橋梁部分。
しばらく「緑道」未整備の区間が続く廃線跡。


この先から整備工事区間になる。振り返って見たところ。
どういう緑道になるのか? 日産の工場前のような歩道・通路ではなくて、貨物線跡らしいモニュメント、工夫があって欲しいが。
この広い敷地はかつての新興駅構内。今は、工事用の資材置き場になっている。奥の方にJR貨物のコンテナが置かれてあった。
「JRF」のロゴが見える。(「JRF」HPより)

新興駅跡。公園として整備されたが、高速道路工事のための資材置き場等で、広い範囲で閉鎖されている。正面が高速道路。終着駅(行き止まり)という雰囲気(もう少し先、「食肉市場」などへの専用線はあったが)。

未整備の一角。かつては何本の線路が敷かれ、大きなヤード(操車場)になっていた。

1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「新興駅」が貨物・物資流通の一大集積駅であったことが分かる。

現在は、交差点とバス停に「新興駅」「新興駅前」とあるのみ。
大型トラックがひっきりなしに行き来する。
「首都高・横羽線大黒バイパス」の橋脚。


 「京急・新子安」駅に戻る途中、見かけた記念碑。子安一帯は「西洋野菜栽培、トマトケチャップのふるさとの地」、時代を先取りした農村地帯だった、そうだ。

 横浜は、日本の近代化にとってさまざまな面で、懐の深い土地だ、と改めて感じました。

 ここまで来たら、「みなとみらい」まで足を伸ばすか! さもなければ、「川崎宿」に戻るか! 思案のしどころです。

 「新興駅」「新興線」廃線痕跡探索は、3月4日でした。
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「新興駅」。貨物専用線廃線跡をたどる。その3。横浜その17。

2014-03-14 21:23:49 | 鉄道遺跡
 恵比須町交差点を「新興駅前」方向に進みます。
旧新興駅方向を望む。左手には、すっかり朽ちた商店(廃屋)がいくつか並んでいる。
この裏手を貨物線が走っていた。飲み屋やラーメン屋の看板が店先に残っている。

かつては廃線後の線路が残っていたが、今は雑草のみ。
コンテナボックス施設。狭い敷地にコンテナがいくつか。そこに「恵比寿ヤード」という表示が。「ヤード」は、「操車場」のこと。かつてのこの付近の、華やかな貨物線時代の名残りのよう。
ほぼ直線で進んでいた。左側が廃線跡。
コンクリート製でつくられた土手。線路はすでになくなっている。
この土手を貨物列車が走っていた。
整地されたところと立ち入り禁止の柵の向こう、雑草の生い茂ったところ。
しばらく進むと、橋梁が残っていました。「布袋橋」脇。「大黒ふ頭」に関連してか、この地域には、「恵比須(寿)」「大黒」「布袋」「寿老」など七福神にちなんだおめでたい地名、橋名などがある(「宝町」というのも)。
 ちなみに「毘沙門」天、「弁財」天(七福神の中の紅一点)、「福禄寿」の3人(?)はない、と思う。

線路こそないものの、しっかりと残っている。


この直線区間は「緑道」として整備される予定になっている。この橋梁はどのように残すのだろうか?

この先は、つる性の雑草の生い茂ったままの箇所。運河の向こうに見えるのは、「日産横浜工場」の広大な敷地。


来た道を振り返る(「恵比須交差点」方向)。
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「新興駅」。貨物専用線廃線跡をたどる。その2。横浜その16。

2014-03-13 20:28:09 | 鉄道遺跡
 「安田運輸」の前の道路を横切り、カーブしながら「TVP」ビルの脇を抜けていく貨物線は、「恵比須運河」を越えて「昭和電工横浜事業所」の方へ進んでいきます。
「恵比須橋」北詰より南側を望む。右端に運河へ架かる橋梁が見える。
すでに廃線になったが橋梁はしっかり残っている。
 のところ。中央が一段高くなっているのは、船舶の航行のためだろう。
「恵比須橋」南詰より望む。
貨物線は「昭和電工」を経由し、「神奈川産業道路」恵比須交差点付近を横切って中央正面を「新興駅」方向に向かった。路上にはまったく痕跡はないが、正面が廃線跡。
「昭和電工」側。
細長い空き地に「なっていた。
歩道橋から望む。かつての線路跡。
「昭和電工体育館」という表示の敷地内に続いていた。


 産業道路・恵比須交差点を渡り、ひっきりなしにダンプカーが行き来し、路端には自家用車が駐車する広い通りを西に向かう。
道路に面した「昭和電工横浜事業所」内の少し奥まったところに、大きな自然石に彫られた「アルミニウム発祥の地」の碑があった。工場外の道路から。


しばらく進むと、道路上に線路が残っていました。
ひっきりなしに通過するダンプカーなどの重さで路肩が削れている。
道の真ん中を渡ってここまで続いている。
振り返って廃線跡(駐車場)を望む。道路の両側とも「昭和電工」事業所・工場。
このままの状態でいつまで残っているのか?

1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓の線路が、現役の頃の線路と思われる。
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「新興駅」。貨物専用線廃線跡をたどる。その1。横浜その15。

2014-03-12 22:12:55 | 鉄道遺跡
 「京浜工業地帯」。次々と造成された広大な埋立地。そこにある大企業・大工場のための専用貨物線がたくさん存在していましたが、すでにすべて廃止され、線路跡もなくなってきています。
 日本の高度経済成長期を支え、発展し、今もなお活発に操業を行っている工場街の中に、埋もれた線路跡を探すことにしました。「京急新子安」下車の旅。

旧入江駅・新興駅付近。注:上方がJR・京急「新子安」駅方向。
恵比須町交差点付近。

1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「新興駅」付近。

 「旧入江駅(新興駅)」→「恵比須町交差点」→「新興駅」。というように歩きました。意外にも何カ所かまだ線路や橋梁などが残っていました。またかつての線路を彷彿させるような地点も・・・。

概念図(「Wikipedia」より)に赤い線と○を入れてある。赤い線が「新興線」。

 最盛期の1970年代には25社30本の専用線が接続していたが、鉄道貨物輸送の衰退に伴い貨物取扱量が減少、2000年に昭和電工横浜事業所の専用線が廃止、最後まで残っていた内外輸送横浜支店の専用線も2002年に廃止され、貨物列車の発着が無くなった。
《接続していた専用線》
主なもの、旧入江駅(のち「新興駅」に吸収)方面から順。

・昭和電工横浜事業所 専用線 2000年(平成15年)3月17日まで塩尻駅へのアルミナ輸送があったが、トラック輸送に転換され廃止された。

・日新運輸倉庫(現・日新)神奈川埠頭倉庫 専用線 昭和電工線から分岐していた。

・日本石油精製(現・JX日鉱日石エネルギー)横浜製油所第三工場 専用線

・日本石油精製(現・JX日鉱日石エネルギー)横浜製油所第四工場 専用線 上記2路線は、1985年ごろまでベンゼン等の石油製品の発送があった。

・日本アスベスト(現・ニチアス)鶴見工場 専用線

・昭和産業鶴見工場 専用線

・横浜市中央卸売市場食肉市場 専用線

・内外輸送横浜支店 専用線 2002年までメタノールなどのアルコールの取り扱いがあった。

新興駅の基部の操車場から産業道路沿いに南下する構内側線もあり、そこから分岐する専用線。

・味の素製油(現・J-オイルミルズ)横浜工場 専用線

・日産自動車横浜工場 専用線

・日東化学工業(現・三菱レイヨン)横浜事業所 専用線

・保土谷化学工業横浜工場 専用線

・大阪セメント横浜工場(現・住友大阪セメント鶴見サービスステーション)専用線

・三菱セメント(現・宇部三菱セメント鶴見サービスステーション)専用線 上記2路線は、保土谷化学工業線から分岐していた。

・アジア石油(現・コスモ石油)横浜製油所専用線

・大東タンクターミナル 専用線 アジア石油線から分岐し、埠頭の最南端へ伸びていた。

新興駅構内となった後も旧入江駅から分岐する専用線

・日本石油精製(現・JX日鉱日石エネルギー)横浜製油所第一工場 専用線 1999年(平成11年)10月までパラフィンを発送していた。

 新興駅前交差点と恵比須町交差点の間1.7キロメートルの廃線跡の約2ヘクタールは、横浜市が「貨物線の森緑道」として公園整備を進めている。(以上、「Wikipedia」参照)

旧入江駅・新興駅跡。右の線路は、「高島(貨物)線」(鶴見~東高島~桜木町)。すっかり整地され、駐車場、さらにその奥は「京急バス新子安営業所」の大きな敷地になっている。
2007年当時の写真(「Wipedia」より)。

↓が「京急バス営業所」の建物。その手前に駅舎があった?
駐車スペースから手前の空地部分は、かつての線路跡。

駅舎のあった付近を振り返る。芝生の部分はかつては線路だった。
目の前を貨物列車が通過する。
線路が残っていました。「安田運輸」の正面。
大型の車が頻繁に通る広い道路を横切っている。
その先は専用線としてそのまま残っている。
建物と建物の間をカーブしながら進んでいる。立ち入り禁止の柵も簡易なので、そのまま進んで行けそうだったが。

現役の線路のような雰囲気。
そこから振り返って旧入江駅(新興駅)跡方向を望む。左手が「安田運輸」。
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