おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR高崎駅~前橋駅。その5。萩原朔太郎望景の碑。広瀬川。太陽の鐘。前橋文学館。・・・(「利根川を歩く。第6回目。)

2021-11-11 20:50:20 | 利根川を歩く

「国道17号線」とは「表町1丁目」で分かれて直進し、JR前橋駅前から続く、広い「ケヤキ通り」を渡る。

色づいているケヤキ。

その先、商店街(銀座通り・榎町通り)の入口にモニュメント「萩原朔太郎 前橋望景の碑」(1981年5月建立)。

朔太郎自身が撮った写真のレリーフがある。

萩原朔太郎が郷里前橋にあった頃、この辺一帯は榎町と称し、繁華街の中心地であった。碑面の写真は詩人自らが撮影した昔日の風景である。ここから西へ約二百米。そこには萩原家の菩提寺「政淳寺」があった。詩人はしばしば墓参のため訪れ、晩年には父の墓に詣でて、「物みなは歳月と共に亡び行く」の散文詩を書き残した。いまはその寺院も他へ移転し、跡かたもない。詩人の胸中を去来した、ありし日を偲び、時の市民ゆかりの地に記念碑を建立する。

               (萩原朔太郎研究会)

現在の商店街のようす。

               休日(11/3)のお昼時なのに、閑散としている印象。

上毛電鉄「中央前橋」駅。

ここから「広瀬川」沿いに歩きます。

広瀬川

渋川市(旧北橘村)で利根川から分かれ前橋市街を南へ流れる。概ねJR両毛線に沿った形で流れ、伊勢崎市(旧境町)で利根川に合流する。江戸時代には比刀根川と呼ばれ、利根川を利用した灌漑用水として整備された。広瀬用水とも呼ばれ、現在は疎水百選に選ばれている。

実際に歩いてみると、かなり急な流れとなっています。

現在、全面的な改修工事のため歩道などが掘り返され、所々、通行止めや整備中でした。

   流れは青く澄んでいて素晴らしい。

東宮七男「花なればこそ」詩碑。

夕焼け熟れ
わくらば花のごとく燃え
渦まく風に
追われつ追いつ
きびしきあらがい夢と化す
うつせみの花を求めつ
今日もまた
暮れゆく川辺をさまよう
流れゆく
名もなき空の花なれば
ひたひた思いわずろうのみ

 
   

途中、林の中に大きく長い鐘撞き棒(撞木)が見えます。さらに、梵鐘が。

岡本太郎作「太陽の鐘」。

             

                   太陽の鐘

世界的芸術家である岡本太郎氏による幻の作品「太陽の鐘」が、日本通運株式会社から前橋市に寄贈され、前橋ビジョン「めぶく。」の発表とともに発足した「太陽の会」により修復、同会と前橋市の官民連携によって設置されました。平成30年(2018年)3月31日(土曜日)、「太陽の鐘」は、広瀬川河畔緑地に市民の新たな活動(芽吹き)のシンボルとして再生しました。

 太陽の鐘とは

1966年(昭和41年)に日本通運株式会社が静岡県内に開設したレジャー施設「日通伊豆富士見ランド」で制作され、1999年(平成11年)まで設置されていた。鐘の直径約1.2m、高さ約2.4m。鐘を吊るす台(高さ・幅約7m)と一体の作品。岡本太郎作品のうち、「梵鐘」としては、本作品と「歓喜の鐘」(久国寺・名古屋市)がある。2018年に日本通運株式会社から寄贈を受けた前橋市が民間団体「太陽の会」との連携事業として中心市街地を流れる広瀬川河畔に設置。建築家の藤本壮介氏によるデザインに基づき、設置場所は約1.5m隆起した丘の上。鐘を撞く撞木(しゅもく)は約24m。周辺は樹木や地被植物に覆われている 。

<なぜ24mの突き棒が必要なのか>

太陽の鐘は、岡本太郎の精神に触れ、岡本太郎と対峙する場所です。単なる鐘を超えた、より大きな存在として岡本太郎の鐘を捉えております。その大きな存在としての鐘に対峙し、つくためには、通常のものをはるかに超えた撞木の存在が必要でした。
撞木をつくと、鐘の姿は見えないけれど、鐘の音が鳴り響きます。鐘の音に耳を澄ませていると、広瀬川の音や森の音、街の音も同時に感じることができます。撞木をつき、様々な音を感じる体験が、ここにしかない特別な体験になると考えています。

(この項、「」HPより)

その付近からの広瀬川の流れ。

対岸に「萩原朔太郎記念前橋文学館」。

館長のあいさつ

館長写真 前橋文学館館長に就任して
―文字と出逢う場所を作る―
萩原 朔美

 初めて前橋を訪れたのは、敷島公園にある朔太郎の詩碑の除幕式です。小学生の私が白い布の端を引っ張る役を仰せつかり、とても緊張したのを覚えています。

 その小学生が今年で七十歳になり、しかも、前橋文学館の館長になるのですから、人生何が起こるか分かりません。布を引っ張っぱった時と同じように、緊張しています。

 文学館は文字との出逢いの場所です。心を揺り動かされる言葉といかに多く出逢ってもらうのか。

 文学館は建物のことではありません。文学館は出来事です。その意味では、前橋のあらゆる場所が文学館になりうるのです。

 文字離れと言われる今、文学館の役割はとても重要です。

 「言葉は人間が作ったものだけれど、それ以上に言葉によって人間は作られている」からです。言葉を粗末に扱うということは、人生を粗末に扱うことです。

 前橋文学館で出逢った言葉や出来事によって、人生がより深い味わいあるものに変貌する。そんな文学館にしていきたいと、今強く思っています。

※萩原 朔美さんは、朔太郎の孫。

「朔太郎橋」。

  鵞ぺん 北原白秋
  信州の沓掛ではまだ冬だったが、碓氷峠を越えると、妙義へかけて燃ゆるやうな新緑であった。そのところどころに また深山つつじが咲き盛ってゐた。晩冬から初夏へ一二時間で飛び越して了った。それから前橋まで下るといよいよ夏らしくなって、楓の花などが、そこらの寺の庭にちりしいてゐた。桑の畑も緑が深かった。
   萩原朔太郎君をたづねると、日の丸の旗が門先にひらひらしてゐた。ほう今日は何の祭日かなときくと、いや、あんたが来るから出したのだと云った。さう云へば日の丸の國旗を出してゐるのは萩原君の家ばかりであった。目睚があつくなるほどうれしかった。私は妻子と一泊さして貰って翌日上京した。

「詩と音楽」(大正十二年六月号)より

※左の写真のレリーフはは、「北原白秋来橋(前橋)記念写真」。

      

「萩原朔太郎像」。

広瀬川

広瀬川白く流れたり
時さればみな幻想は消えゆかん。
われの生涯を釣らんとして
過去の日川辺に糸をたれしが
ああかの幸福は遠きにすぎさり
ちひさき魚は眼にもとまらず。

(『純情小曲集』1925)

月夜

重たいおほきな羽をばたばたして
ああなんといふ弱々しい心臓の所有者だ。
花瓦斯のやうな明るい月夜に
白くながれてゆく生物の群をみよ
そのしづかな方角をみよ
この生物のもつひとつのせつなる情緒をみよ
あかるい花瓦斯のやうな月夜に
ああなんといふ悲しげないぢらしい蝶類の騒擾だ。

「青猫」(1923年刊)

才川町

(十二月下旬)

空に光つた山脈(やまなみ)
それに白く雪風
このごろは道も悪く
道も雪解けにぬかつてゐる。
わたしの暗い故郷の都会
ならべる町家の家並のうへに
かの火見櫓をのぞめるごとく
はや松飾りせる軒をこえて
才川町こえて赤城をみる。
この北に向へる場末の窓々
そは黒く煤にとざせよ
日はや霜にくれて
荷車巷路に多く通る。

「純情小曲集」(1925年刊)「郷土望景詩」より

わが故郷に帰れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔[ほのほ]は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。

「帰郷」(『氷島』1934)より

利根の砂山 室生犀星

風吹きいでてうちけむる
利根の砂山、利根の砂山
赤城おろしはひゆうひゆうたり
ひゆうたる風のなかなれば
土筆は土の中に伸ぶ
なにに哀しみ立てる利根の砂山
よしや、すてツきをもて
君が名をつづるとも
赤城おろしはひゆうとして
たちまちにして消しゆきぬ

草野心平の詩碑もあるはずですが、見落としました。周囲が工事中だった、という言い訳は通用しませんが。

 

川沿いの遊歩道は「広瀬川詩の道」と名付けられ、前橋市が主催する現代詩を対象とした文学賞「萩原朔太郎賞」の受賞作品の詩碑が建てられています。

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