おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

西武バス「宮寺西」~JR八高線「金子駅」。その5。茶どころ通り。豊岡街道。霞川。金子駅。(「都県境を探ってみる」。第11回目)

2023-01-29 18:53:53 | 都県境を探ってみる

都県境になっている茶畑内の農道を歩きます。

入間市側の茶畑。

青梅市側の茶畑。

「茶どころ通り」を横切ります。

昭和61年、市制施行20周年記念事業の一環として市民より愛称の募集を行い、「茶どころ通り」と名づけられました。
一面の茶畑の中を続くこの道からは、冬の真っ白な富士山、奥多摩、丹沢の山並みが展望でき、空の広さを感じさせます。

(「」HPより)

茶どころ通りは、茶畑の中を通る約6キロメートルの一本道。

                           (「入間市観光協会」HPより)

今回歩いたところは、西のはずれに当たります。

集落に近づきます。

                     左手、茶畑内に都県境。

左に「東京都水道局北部中継ポンプ場」。その施設の東の小川が都県境になっています。

この先の集落が東京都と埼玉県になります。

この住宅地は、入間市木蓮寺地区。

都県境になっている道。右が青梅市、左が入間市。

この先、右が「入間市木蓮寺」、左が「青梅市今井」となります。

P入間木蓮寺-01。

   「多摩ナンバー」の車。

一部、都県境となる広い道(「豊岡街道」)に出ます。

                「埼玉県 入間市」。

            「霞川」に架かる「金子橋」。

振り返ると、「東京都 青梅市」。

霞川下流。上流。

霞川

東京都多摩地域及び埼玉県西部を流れる荒川水系入間川の支流で、一級河川である。延長15.8キロメートル、流域面積26.8平方キロメートル。

霞川は、東京都青梅市根ヶ布天寧寺裏にある霞池を水源として都内では青梅市に流域を持ち、青梅市中央部加治丘陵の南麓を東に流れ、入間市を流下して狭山市広瀬地先で入間川豊水橋下流右岸に注ぐ荒川水系の一級河川である。上流域は桂川もしくは葛川とも称する霞川は不老川柳瀬川黒目川白子川石神井川に並ぶ古多摩川の名残川の一つであると思われる。
かつて多摩川は、青梅を扇頂とする扇状地を、蛇行しながら主に北東方向に流れていた。その後、1万3千年から2万年前に逆断層である箱根ヶ崎断層の活動により隆起したため、流路を遮られた本流は断層に沿って南東方向に流路を変え、現在に近い流路となる

第二次世界大戦以前は、何度も水害を引き起こしており1945年(昭和20年)には堤防が決壊して死者も出た。戦後は堤防の整備が進められた。2016年(平成28年)8月に台風9号が首都圏に接近した際には、集中豪雨により流域内で床上浸水や護岸崩壊などの被害が出ている。 ・・・(「Wikipedia」参照)

相変わらず上空には飛行機。

この先、都県境は北に進みます。左手奥。

今回はここまで。霞川沿いに、金子駅に向かいます。

霞川。

JR八高線「金子駅」。

さて、地図で見ると、この先、都県境は、一部市街地もありますが、そのほとんどが山間部となり、東京都の最高峰・雲取山(東京都、埼玉県、山梨県との境界点)に。

そこから南に転じ、三頭山、陣馬山、小仏峠等を経るように続きます。そのかん、山梨県、神奈川県と都県境を接します。

足腰と冬場のことで、軟弱路線で、この区間は省略します(機会があれば、低いところは歩いてみようと思いますが)。

以前歩いたところも含め、江戸川(千葉県との都県境)の河口から青梅市と入間市の都県境までつなぐことが出来ました。

交通機関の関係で、けっこう日にちがかかりました(一日に歩く距離が少ないことが多かった)が、何とか、東のはずれから西のはずれの途中まで。

次回からは、南側、市街地となる神奈川県との都県境を歩こうと思います。

     

                 (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

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西武バス「宮寺西」~JR八高線「金子駅」。その4。牧場。圏央道。狭山丘陵・茶畑。(「都県境を探ってみる」。第11回目)

2023-01-28 18:45:52 | 都県境を探ってみる

「青梅市自立センター就労支援事業所」の前の道を西に向かいます。

              

青梅市自立センター就労支援事業所     

関係する法律に基づき、原則として18歳以上で雇用されることの困難な障害者の方に対して、社会生活に必要な支援および訓練を行い、就労に結びつけることを目的とします。
就労支援事業所にあっては、就労移行支援と就労継続支援(B型)の二つを兼ね備えた多機能型とし、それぞれの事業にあった内容で進めていきます。(「」HPより)

 ※昨年春、この施設ではありませんが、青梅市内の「自立支援施設(青梅市新町3丁目)」で、職員による日常的な暴力・虐待があり、入所者(当時30)が死亡したことが報道されました。

右手の道を進むと、都県境になるようですが、

この先に、牧場があります。

         

正面にある「圏央道」の方向に進みます。

「青梅スタジアム」。

そこを左折し、圏央道に。

青梅市のマンホール。

市章の輪郭の中に 市の鳥・ウグイスを描き、周りに市の花・ウメを描いている。

地下道を抜け、茶畑や畑地が広がる丘陵地帯へ出ます。

右手が「圏央道」。

      

右手に都県境となる道。

茶畑。今の時期は、くすんだ深緑色。新鮮な緑色ではないのが、残念。

     

        

それでも、一面に広がる茶畑の景観に見とれてしまいます。

         

狭山茶のはなし

全国にはいくつかのお茶の産地がありますが、その中で狭山茶を産する埼玉県は緑茶生産の経済的北限です。

《歴史》

日本で茶の木が育てられるようになったのは、今から800年ぐらい前のことです。中国へ行っていたお坊さんが、茶の木の種を持ちかえり畑に蒔いたのが、その始まりと言われています。
それからしばらく時がたって、今の川越(「河越」)に茶の木を植えたのが、もとになったと言われています。これが今の「狭山茶」の始まりです。

埼玉県で今のように盛んにお茶の栽培が行われるようになったのは江戸時代の中頃からで、地域の特産物として栽培が普及し、産地も拡大していきました。

《特徴》

“色は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめさす”

と謡われるように、狭山茶の特徴である深い味わいは、寒い冬を乗り越えることでいっそう深まり、また“狭山火入”という独特の仕上げ技術により、甘くて濃厚なお茶になるのです。

"火入れ"とは、お茶の仕上げ段階で熱を加えることにより、乾燥を十分に行って貯蔵性を高めるとともに、加熱香気を生成させて味や香りを向上させる工程です。

《産地》

埼玉県の茶の主産地は、県西部の入間市、所沢市、狭山市を中心とする狭山丘陵地域ですが、その他、秩父地方でも産地化が進められています。また、県東部、県南部の都市地域においても茶の栽培が行われています。

令和3年産の埼玉県のお茶の栽培面積は783ヘクタールで全国第8位に位置しています。荒茶生産量は728トンで全国第10位となっています。これは、埼玉県が他の茶産地に比べて寒い場所にあるため、年2回しかお茶を摘まないことによるものです。 

(この項、「彩の国 埼玉県」HPより)

茶畑と言えば、旧東海道歩きのときの広大な茶畑には感動しました。


見渡す限り「茶畑」。

                     

     
                           「茶」の字が遠くに。

・・・静岡県には叶いませんが、狭山丘陵のお茶も存在感があります。栽培の北限と知って驚きです。

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西武バス「宮寺西」~JR八高線「金子駅」。その3。腰を屈んで通ったトンネル。八高線。瑞穂町から青梅市に。(「都県境を探ってみる」。第11回目)

2023-01-26 21:08:40 | 都県境を探ってみる

この道が都県境。来た道を振り返る。

                左が埼玉県入間市、右が東京都瑞穂町。

        「埼玉県入間市大字寺林字表山」。

都県境は、正面のゴルフ場方向へ。

    

頭上には相変わらず飛行機の騒音が。

左に折れて進みます。

ゴルフ場の縁が都県境のようです。

奥がゴルフ場。

栗原新田交差点。

              ここを右折します。

右手奥に都県境。

 

JR八高線の手前、龍泉寺脇の道を入ると、

ゴルフ場からの都県境の道に。

壁沿いの道。

都県境になっている細道。左に進むと、

八高線をくぐり抜けるトンネルが現れます。

                    屈んで歩くしかない、きわめて天井の低いトンネル。

頭上が八高線。

振り返る。都県境歩きでは貴重な体験をします。

   八高線、飯能方面に行く電車が通過中。

抜けると、畑が広がります。

雑木林や竹が続く道。            

                  農作業の道なのでしょうか? 轍の跡が。

都県境は、この先、南西に折れ、すぐ鋭角で北西に進みますが、このまま小道を歩きます。 

直線の道をしばらく進むと、都県境となります。

都県境はそのまま正面を進んでいきます。

当方は左に折れ、すぐ右に折れて「青梅フレンドシップゴルフ」の前を行くと、「青梅市社会福祉事業団」の建物。ここは、もう青梅市になります。

           

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西武バス「宮寺西」~JR八高線「金子駅」。その2。三州瓦。日光街道。二本木上宿の道標。頭上の飛行機。(「都県境を探ってみる」。第11回目)

2023-01-24 21:59:13 | 都県境を探ってみる

「国道16号線」の手前に、瓦屋さん。

鬼瓦。

小学生の頃、家の近所に大きな瓦製造業がありました。社会科見学で訪問したことがありますが、今ではどこにあったかも定かではありません。

瑞穂町大字駒形富士山88。

三州瓦(さんしゅうがわら)

愛知県(旧・三河国)で生産されている粘土瓦石州瓦淡路瓦と並ぶ「日本三大瓦」の一つ。

現在は西三河が生産の中心となっているが、20世紀半ばまでは東三河でも生産が盛んであった。三州瓦の日本国内シェアはトップであり、日本の年間瓦生産総数の約60%を占めている良質の三河粘土が産出され、東日本の需要地に近いという利点もあって、全国の瓦に占める三州瓦のシェアは1965年(昭和40年)の24.5%から1980年(昭和55年)には34.4%、1995年(平成7年)には47.9%まで上昇している三州瓦の中心産地である高浜市碧南市は、矢作川三角州の末端に位置する。矢作川の上流には花崗岩によって形成される三河高原があり、そこからカオリナイトを主体とする粘土鉱物が流下して下流に堆積している。このため、岡崎平野の南西部では高台や低地を問わず、田園の表土の下に陶磁器原料として適した粘土が豊富に存在している日本国内の他の瓦産地の粘土と比較すると、西三河の粘土はきめが細かく、高品位なものではカオリンが31%と含有比率が高い事が特徴で、これらが「三州瓦は肌がきれいである」という評価の基になっている。・・・

(この項、「Wikipedia」参照)

   

「国道16号線」。この幹線道路は街道歩きで何回も遭遇しています。

東京方向。「東京都瑞穂町」。

埼玉方向。「埼玉県入間市」。

渡った先で、右折して行きますが、途中、迷ってしまい、「日光街道(八王子千人同心街道)」に出てしまいます。

○付近をうろうろ。途中から都県境となっている道路になります。かつて日光街道歩きで歩いた道筋と一部重なります。

道端の庭に白梅が一枝。

「二本木上宿の道標」。自然石で出来た道標。

解説板。

この道標については、「日光街道(八王子千人同心街道)」歩きの時に出会いました。そのときの記録。

    
               「左 大山 八王子  右 青梅」
二本木上宿の道標」解説板。
 八王子と日光を結ぶ日光脇街道(通称日光街道)は、八王子から拝島、箱根ヶ崎を経て二本木の上宿で、青梅の新町から新河岸に至る街道(通称河岸街道)と合流する。その合流点に建てられたのがこの道標である。二本木宿は、八王子同心が日光勤番の際の宿継場として栄え、当時の記録によると、道幅4間余、戸数170余であったといわれており、現在でもそれぞれの家の屋号に当時の盛況ぶりを窺うことができる。
 道標は銘文によれば延享元年(1744)に上町の人々が交通の安全を願って建てたものであることがわかる。単独の道標としては市内最古である。

                 
1880年代のようす。○が道標のあるところ。    2010年代のようす。

※今回歩いた道は、左から右の道。正面左の道が「日光街道」道。正面に道標。

入間市二本木の森。

                 道路の左手が「瑞穂町二本木」。

「ドラッグセイムス 瑞穂二本木店」のところを右に折れた道が都県境となります。

入間市側にある畑。

突き当たりを左折します。

           左が瑞穂町、右が入間市。

頭上から飛行機の騒音が響きます。何機も行き来する飛行機。横田基地のものと思われます。

しばらく進み、右の坂を上がります。

                       この道が都県境。マンホールは、瑞穂町のもの。

振り返る。

頭上に米軍の飛行機。

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西武バス「宮寺西」~JR八高線「金子駅」。その1。入間市宮寺。めだか屋。不老川。(「都県境を探ってみる」。第11回目)

2023-01-23 20:23:04 | 都県境を探ってみる

1月21日(土)。晴れ。

今回は、西武線「小手指駅」から西武バスに乗り、終点の「宮寺西」から歩き始めます。

○が「宮寺西」バス停付近。左の大きい道路は「国道16号線」。西に向かって進みます。

狭山丘陵から西、平地をジグザクに進んだ都県境と、この付近で合流します。

入間市宮寺。

           この右手奥が都県境。

「めだか屋」(入間市宮寺)。

 

          (「」HPより)

大岳山が正面遠くに(↓)。

茶畑の向こうに富士山(↓)。

左手は、東京都瑞穂町。右は、入間市。

不老川。上流方向。

下流方向。

不老川(としとらずがわ、ふろうがわ)

東京都及び埼玉県の主に武蔵野台地上を流れる一級河川荒川水系新河岸川の支流である。

東京都西多摩郡瑞穂町狭山池伏流水が水源とされる。瑞穂町二本木の国道16号付近に水路が見られる。そこから北東へ向かって流れ、埼玉県入間市宮寺と藤沢、所沢市林、狭山市入曽(不老川が北入曽と南入曽の境界になっている)と堀兼、川越市今福などを流れ、林川、今福川、久保川などを合わせ、川越市岸町と川越市砂の境界で新河岸川に合流する。流域には河岸段丘が形成されている。高低差があるため、ところどころに落差工がある。

霞川柳瀬川黒目川白子川石神井川などと並び、かつての古多摩川の名残の一つとされている 。周囲は武蔵野台地に位置し、地下水も低く、水に恵まれないため畑作(狭山茶など)が行われていた。貴重な河川であったことから親しみを込めて「大川」(おおかわ)と呼ばれることもあった。大雨の際には水がすべて不老川に集まるため、しばしば氾濫を起こし、2000年代以降にも河道の拡張工事が行われている。 1983年から3年間連続で「日本一汚い川」になるという不名誉な記録を作った時期もあったが、現在ではその汚名を返上している。市民団体や行政により浄化の取り組みが続いており、小魚や水生昆虫カルガモなどが生息する程度まで回復している。狭山市の流域においてはしばしば鯉が泳ぐ姿も確認されている。週末になると釣り人も多い。

元々の読みは「としとらずがわ」であり、江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』では「年不取川」の表記を用いている。近代以降「不老川」の表記となったことから音読みの「ふろうがわ」という読みが広まり、現在、一般化している。

「としとらず」の由来
 雨が少ない冬になると干上がってしまい、太陰暦における年のはじめ(旧正月・春節)には水が流れなくなる。このため旧暦正月に全員が1歳ずつ年齢を重ねる数え年の習慣における加齢の際にその姿を現さないため「年とらず川」あるいは「年とらずの川」と呼び習わされている。また、干上がった川の橋の下で一晩を過ごすと、歳をとらないといわれる伝承があり、そのことから、「としとらず」川といわれるようになったともされる。
 生活雑排水が流れ込むようになると水量が増え干上がることはなくなっていたが、生活雑排水が流れ込まなくなってからは水量が減り、現在一部流域では水が干上がることがある。

年不取(としとらず)川を詠んだ歌

武蔵野や 年とらず川に 若水を 汲程もなく 春は来にけり
昔し誰 わたり初けん 武蔵野の 若むらさきの 年とらず川


                            江戸期の随筆より。(詠み人は不詳である。)

                                (以上、「Wikipedia」より)

「不老川」の下流には、「川越街道」歩きの時に出会いましたが、

              

 ほとんど水の流れがありませんでした。

・・・                       

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「向島百花園」。冬牡丹・「長恨歌」。冬至梅・唐梅。八重・一重寒紅。まゆみ(檀)。さるすべり(百日紅)。・・・、そしてユリカモメ。

2023-01-22 20:14:10 | 向島百花園

「向島百花園」。

入口に紅白の冬牡丹。

牡丹: 別名は「富貴草」「富貴花」「百花王」「花王」「花神」「花中の王」「百花の王」「天香国色」 「名取草」「深見草」「二十日草(廿日草)」「忘れ草」「鎧草」「ぼうたん」「ぼうたんぐさ」など多数。

原産地は中国西北部を観賞するために栽培されている。・・・。元は薬用として利用されていたが、盛期以降、牡丹の花が「花の王」として他のどの花よりも愛好されるようになった。たとえば、『松窓雑録』によれば、玄宗の頃に初めて牡丹が愛でられるようになったものの、当時は「木芍薬」と呼ばれていたと記載される。また、煬帝や初唐の則天武后が牡丹を愛でたという故事がある。ただし郭紹林はこれらの故事を慎重に検討し、虚構であると結論づけている。 代以降、1929年までは中国の国花であったとされることもあるが、清政府が公的に制定した記録はみられない。

(この項、「Wikipedia」より)

冬牡丹。 

唐の詩人・白居易(白楽天)「長恨歌」の一節。

唐の皇帝玄宗が楊貴妃の色香に迷い、政務を疎かにしたため、安禄山の乱が起こり、都落ちするはめに。楊貴妃を死に追いやった後、乱が治まり、再び都に戻ってくる・・・。

楊貴妃の美貌を「牡丹」に喩えている。

漢皇色を重んじて傾国けいこくを思ふ ぎょ多年求むれども得ず

楊家ようかむすめ有り初めて長成し 養はれて深閨しんけいに在り人未だらず

天生の麗質自ら棄て難く 一朝選ばれて君王のかたわらに在り

ひとみめぐらして一笑すれば百媚ひゃくび生じ 六宮りくきゅう粉黛ふんたい顔色がんしょく無し

春寒うしてよくを賜ふ華清かせい 温泉水滑らかにして凝脂ぎょうしを洗ふ

侍児しじたすけ起こせばきょうとして力無し 始めて是れ新たに恩沢おんたくくる時

雲鬢花顔金歩揺うんびんかがんきんぽよう 芙蓉のとばり暖かにして春宵しゅんしょうわた

・・・

馬嵬坡下ばかいはか泥土でいどうち 玉顔を見ずむなしく死せるところ

君臣あいかえりみてことごところもうるほす 東のかた都門を望み馬にまかせて帰る

帰り来たれば池苑ちえん皆旧にる 太液たいえきの芙蓉未央びおうの柳

芙蓉は面のごとく柳は眉のごとし 此に対して如何いかんぞ涙の垂れざらん

・・・

昔から美しい女性のことを「立てば芍薬 座れば牡丹  歩く姿は百合の花」と表現しますが、芍薬も牡丹も同じボタン科。牡丹が花の王、「花王」と呼ばれるのに対し、芍薬は花の宰相、「花相」と呼ばれるそうです。

芍薬。(「Wikipedia」より)

梅二枝。

             

古木にはやっと蕾らしきものが。

冬至梅。

唐梅。 

八重寒紅(やえかんこう)。

他にも。まゆみ。

・昔、この木で弓を作ったので 、「真弓」の名になった。真弓の樹質は硬いが、柔軟性がある。

・ピンク色の実が割れてオレンジ色の種子が出てくる。この様子がとても美しい。

・「檀」とも書く。

・材で、こけしや将棋の駒をつくる。

・春、この若葉を 菜飯(なめし)として食べるとおいしいらしい。

・「白檀弓(しらまゆみ) いま春山に 行く雲の 逝きや別れむ 恋しきものを」(万葉集)

・「天の原 ふりさけ見れば 白真弓 張りてかけたり 夜道はよけむ」(同)

・「南淵(みなぶち)の 細川山に 立つ壇(まゆみ) 弓束(ゆづか)纏(ま)くまで 人に知らえじ」 (同)

・「み薦(すず)刈る 信濃の真弓 わが引かば 貴人(うまひと)さびて いなと言はむかも」(同)

・「しらまゆみ 磯辺の山の 松の葉の 常磐にものを 思ふころかな」(金槐和歌集 源実朝)

(この項「」HPより)

足もとには、

「春の七草」。

スカイツリー。 

門前に紅白の梅の木。

しろかが。 ひとえかんこう。

児童公園の百日紅。

今年は、久々(3年ぶり? )に「梅まつり」が開催されるようです。職人さん達の丹誠込めた梅の花が見ものです。

ところで、隅田公園のユリカモメはどうしているか? 

ところが、隅田公園の池が工事中。隅田川にも、

ほとんどいません。

                餌場を求めて移動したのでしょうか?

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やんちゃなソウタ。落ち着いたアンズ。いつも取っ組み合いをし、逃げ足の速さに負けるソウタ。(DAYS with CATS)

2023-01-21 18:57:26 | わがやの猫たち

朝のひととき。

        

そっぽを向くアンズ。遊ぼうよ、というソウタ。

アンズに無理矢理近づくと、

                        サッと逃げるアンズ。

ある日の夕方。

箪笥の上に。

下のテレビ台に。

それでも、コタツの中では仲良く寝ている時も。一安心。

ソウタ。目線が合うと、猫じゃらし持参の上で、遊んで、と。

                       ソウタの七つ道具の一つ。

一人遊びも得意。

今度は、ジジ。

                

          

              

結局、飽きて、

            

本人は、ベッドの上で毛繕い。

                 

そして、スヤスヤ。

アンズは、コタツの中で、ゆっくりと(寝ています)。

起き出してくると、かみさんにはえらくなついていて、気付くと、肩まで飛び乗ったり、足もとにじゃれついています。悔しいくらい。

二人は、家族とのバランスをうまくとっているようです。

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西武線「西武園駅」~JR八高線「箱根ヶ崎駅」。番外編。青梅街道・日光街道。箱根ヶ崎。(「都県境を探ってみる」。第10回目)

2023-01-17 18:21:58 | 都県境を探ってみる

青梅街道に出ました。

       

                 

             昔のままの青梅街道

着色したこの街道は、昭和の初めまで青梅街道として人々の行き交う生活道路でありました。道路の幅は4.5㍍(2間半)で、今では青梅街道の、昔の姿を止める唯一の道の道です。村の頃、青梅から村に入った街道は、南北に走る日光街道に突き当たって右折し、50㍍ばかり進んだところで左折して東に向かっています。この方向には石畑や殿ヶ谷の村落が控えているので、下街道と名付けていたのです。・・・昭和初期から始まった道路整備の大工事で、青梅街道は日光街道と交差し、真っ直ぐこの時計台の所まで抜け、新道を完成させているのです。

そこで、

青梅街道歩きの時の記録。箱根ヶ崎に入る手前から再掲。

「箱根ヶ崎」に向かって進みます。

 

この付近の今昔。


1880年代のようす。「至函根崎村道」が旧道か。流れは「残堀川」。



2010年代のようす。↑が「瑞穂石畑」交差点。交差点手前の旧道(江戸街道)は細く曲がりくねっています。

「瑞穂第一小学校」沿いに「江戸街道」という標識。

※旧青梅街道は「江戸街道」とも呼ばれていたようです。

旧家の雰囲気を残す「関谷」家の先で、右折。



日光街道」。「箱根ヶ崎」宿はこの通り沿いに置かれた。 

 しばらく進むと、現在の青梅街道に合流します。左折する右の角に明治5年創業の「漢方の會田」というお店があります。

                                          

「圓福寺」。

現青梅街道を西に進みます。沿道には土蔵造りの建物。



JR八高線の踏切に近づきます。                    

 この付近の今昔。

1880年代のようす。「箱根ヶ崎宿」は、「日光街道」沿いに発展しました。→が「日光街道」。○が合流地点。


2010年代のようす。左手の駅がJR八高線「箱根ヶ崎駅」。

・・・

その時の「漢方の會田」が今も健在でした。

             

「旧日光街道」と標示された信号機。

「箱根ヶ崎」は、「旧日光街道=(八王子)千人同心日光道」と「青梅街道(旧)」とが交わるところです。

この「日光街道」は、「千人同心日光道」のことで、八王子千人同心が日光東照宮の「火の番」の任に往来した道。「千人同心街道」、「日光脇街道」、「日光脇往還」などとも呼ばれました。街道沿いの表示板、説明板などには「日光街道」と記されたものが多いようです。
 八王子宿から甲州街道と分かれ、拝島→箱根ケ崎→二本木→扇町屋→根岸→高萩→坂戸→高坂→松山→行田→館林と進み、佐野(天明宿)で「日光例幣使街道」に合流しました。日光までは約40里、3泊4日の行程。

 八王子市の甲州街道沿いに「千人町」という町があります。珍しい町名ですね。なぜ「千人町」という町名なのでしょうか。それは江戸時代、この辺りに幕府の家臣団である八王子千人同心が住んでいたからなのです。
・・・
 八王子千人同心の始まりは、甲斐国(かいのくに・現在の山梨県)に求められます。9人の小人頭(こびとがしら)とその配下の人々で、武田氏の家臣でした。しかし武田氏は織田信長の攻撃により天正10年(1582年)に滅亡してしまいます。新たに甲斐国を治めたのが、後に江戸幕府を開いた徳川家康でした。小人頭と配下の同心も家康に召し抱えられ、新たな道を歩み始めます。
 戦国時代、関東に強大な勢力を持っていたのが北条氏です。八王子も北条氏の領地でした。秀吉は関東に侵攻し、天正18年(1590年)に北条氏を降伏させました。北条氏に替わり関東を治めることになったのが徳川家康で、八王子も家康の支配となりました。
 やがて八王子地域の治安維持を主な目的として、9人の頭(かしら)とおよそ250人の同心が八王子に移されたのです。彼らが最初に住んでいたのは、落城まもない八王子城下でした。以降、千人同心の組織が整えられていきます。翌天正19年(1591年)、小人頭を一人増やして10名、同心は500人に増員され、文禄2年(1593年)には八王子城下から、現在の千人町を中心とした地域に屋敷地を拝領して移転してきます。さらに関ヶ原の戦いが行われた慶長5年(1600年)頃、同心が新たに召し抱えられて1,000人となり、文字通り「千人同心」となりました。
八王子千人同心は、小人頭を起源とする千人頭(せんにんがしら)10名に率いられた同心1,000名からなります。頭1名に100名の同心がつく構成です。
 千人同心の役割は、八王子の治安維持や国境警備、大きな合戦があれば従軍し、関ヶ原の戦いや大坂の陣にも出陣しました。千人同心は軍事集団の役割を担っていたのです。しかし幕府の体制が整い、世の中が安定して平和の時代が到来すると、千人同心の役割も変わっていきます。
 千人同心に命じられた重要な役目が、慶安5年(1652年)から勤めた日光火の番でした。日光は、東照大権現として家康がまつられた東照宮があり、幕府の精神的なよりどころでした。
 千人同心は、その東照宮の防火と警備にあたり、境内や町内を見回り、いざ出火となれば消火活動にあたったのです。八王子から日光までは、当初は江戸に出て千住から向かうルートを通っていましたが、多くは八王子から拝島方面へ向かい、松山(埼玉県東松山市)・佐野(栃木県佐野市)を経るルートを利用しました。三泊四日の旅程でした。
 当初は千人頭2名と100名の同心が担当し、50日期間で交代する体制でした。その後何度か変更され、最終的には寛政3年(1791年)に千人頭1名と同心50名で半年交代で務める体制になりました。この役目は江戸時代を通じて勤められ、慶応4年(1868年)に千人同心が解体するまで続きました。
・・・

(以上、HPより)

この日光街道歩きでは、2日目に箱根ヶ崎駅を下車し、北に向かって歩き始めました。その記録を再掲。


「残堀川」に架かる「大橋」。橋柱に「常夜燈」のモニュメント。

                           

「解説板」。
常夜燈
 日光街道大橋場脇に常夜燈が建てられたのは、慶応元年(1865)でありました。近村でも珍しい大燈籠でで、通行人への道標となっていました。大正12年(1923)関東大震災のときに倒壊し、現在は狭山池公園に再建されています。
 地域の歴史を思い浮かべ、郷土の誇りを呼び起こすことを願い、常夜燈のレリーフを設置しました。

ゆるやかな登り坂。右手に「日光街道」という標識。


 

右手への分かれ道のところに「祠」。

切り通しを下ります。右手、崖上はこんもりとした森。



(10:59)「都道166号線」を越えていきます。

「馬頭観音」、「征夷大将軍・・」。

・・・

二つの街道とも歩いたので、久々の「箱根ヶ崎」でした。

JR八高線「箱根ヶ崎駅」。

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西武線「西武園駅」~JR八高線「箱根ヶ崎駅」。その8。六道の辻。遺跡広場。瑞穂町マンホール。残堀川。(「都県境を探ってみる」。第10回目)

2023-01-16 19:45:51 | 都県境を探ってみる

瑞穂町の住宅地に向かいます。

「狭山湖堰堤から7.0㎞」。

富士山が意外に近くに。

「出会いの辻」へ。

案内板。

庚申塔。

「六道庚申塚」と「六道の辻」解説板。

この庚申塚は、江戸時代後期の文化10年癸酉(1813年)に武州多摩郡石畑村下組(瑞穂町石畑地区)の人々によって建立されたものです。・・・当時この場所は、旧石畑村と隣村との境界にあたり、村境の「サエの神」(守り神)を祀るのにふさわしいところでした。また、この場所は古くからの交通の要衝で、幾筋もの道が開かれ交差しています。・・・ここは昔から「六道の辻」と呼ばれていました。「六道山」の名称も、これに由来します。・・・当初、庚申塔の脇には榎が植えられ茂っていましたが枯死し、現在はその後植えられた二代目の榎が大きく茂っています。

                 

坂下に「瑞穂農芸高」が。

「遺跡広場」解説板。

主に縄文時代早期から中期(今から約9000~3500年前)にかけて営まれた遺跡で、縄文時代の土器・石斧・磨石・石皿・石鏃・掻器など、当時の調理や狩猟に関する生活道具が多数発見されました。穽穴(おとしあな:狩猟のための罠)が多数発見されています。こうしたことから当時この一帯は、狩猟・採集を生業とした縄文人の狩猟場であり居住地であった可能性が高いと思われます。このほか、ごくわずかですが旧石器時代の尖頭器(槍先)や古代(奈良・平安時代)の須恵器なども発見されており、大昔から人々がこの地を行き交っていたことがうかがわれます。

さて、この先どうしようかと、・・・。

「都県境」には、もう少し北西に進めば、出会いますが、ここで今回は、終了。

「都立瑞穂農芸高校」のところから、JR八高線「箱根ヶ崎駅」に向かうことにしました。

広い道路を下っていきます。平らになると、富士山が近く大きく見えます。

               

瑞穂町マンホール。

町の木「松」にとまる「オオタカ」を中央に大きく描き、力強さを表現しました。上部には、みずほの「み」を図案化し、平和・団結と瑞穂町の飛躍発展を象徴した「町章」を配置。周囲には、町の花であり特産品である東京狭山茶の「茶の花」をあしらいました。オオタカは狭山丘陵に生息する鷹の一種。絶滅が危ぶまれた時期もありましたが、ボランティアの密猟監視活動等によって保護され、今は町内の平地林でも営巣・繁殖する姿が見られます。六道山公園の展望台は、大空を舞うオオタカが一年中観察できる人気スポットです。(「東京都下水道局」HPより)

上の無彩色盤。

「残堀川」。

     

               「源流から約640mです」。

残堀川

西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎の狭山池を源とし、武蔵村山市、昭島市、立川市を貫流して、日野橋上流で多摩川に合流する東京都知事が管理する流域面積34.7km2、法定延長14.5kmの多摩川水系の1級河川である。
本川は、かつて古多摩川の扇状地勾配に沿って府中方面へ流下していたが、江戸時代には玉川上水の助水に利用するため、またその後もたびたび人為的な流路変更が行われてきた河川(水路)である。
流域は、狭山丘陵を除いて、ほとんどが関東ローム層で覆われた平坦な台地となっており、中央線や青梅街道、五日市街道等の交通網の整備と相まって、都市化の著しい地域である。 
本川の改修は河川事業として、30㎜/hr規模の改修を昭和 34年度から47年度まで、多摩川合流点より瑞穂町境まで実施し、次に、50㎜/hrの本格改修が昭和49年度に着手され、平成20年に全川の改修が概成し現在に至っている。

(この項、「東京都建設局」HPより)

※ところで、「残堀川」が「残堀」の名の如く、水流のほとんど見られない「瀬切れ」をおこすようになったのは?

以下、「Wikipedia」では厳しい指摘がなされています。

1963年昭和38年)には氾濫対策とあわせて逆に玉川上水が残堀川をくぐる形に変更し、1982年(昭和57年)「残堀川流域整備計画」が策定され、その計画に沿って河川改修工事が施工された。しかしそれ以降は年間を通じて、降雨時およびその直後を除くと水流の殆ど見られない「瀬切れ」を頻繁におこすようになり、場所によってはその名の如く「堀だけが残る川」となってしまった。

理由としては、水源である狭山池自体の流出量減少に加えて、都市化による雨水の浸透の減少、下水道の普及による河川への排水の減少なども原因の一因ではないかと考えられたが、一定時期(短期的)を境に河川の瀬切れが起こった事(瀬切れが起こった時期に残堀川流域の地域に大きな都市化=舗装インフラの激増や下水インフラの激増などは特に顕著に無かった為)を考慮すると、表層(ローム層)を流れていた河道を、河川改修工事により層まで掘り下げたため、伏流(地下を流れる)しやすくなった工事のずさんさが、一番の原因だと考えられる。・・・その後の2007年6月東京都は不透水層の設置等の瀬切れ対策を含んだ河川整備計画を発表した。

「残堀川」は、「旧青梅街道」歩きの時に出会っています。箱根ヶ崎駅に向かうまでにも歩いたことがある「青梅街道」、「日光千人同心街道(日光街道)」と再び遭遇。次回は、番外編でそのことに。

     

上の○が「瑞穂農芸」、下の○が「箱根ヶ崎駅」、南に広がるのが「横田基地」。都県境は、右上に。

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西武線「西武園駅」~JR八高線「箱根ヶ崎駅」。その7。三方入(御判立)ゲート・御判立。瑞穂町。六道山公園展望台。(「都県境を探ってみる」。第10回目)

2023-01-15 22:42:21 | 都県境を探ってみる

しばらく進むと、「三方入(御判立)ゲート」。

解説板。

御判立(ごはんだて)

この場所は、諸説ありますが、昔、村と村とを往来する幹線道路の要所で、江戸時代三ツ木村と勝楽寺村の境目の目印が立てられていたそうです。また、武蔵村山市史によると役所からの連絡などを掲示する場所として定められ、それを守る番小屋があったとも伝えられています。

ここから都県境は、北に向かうため、探索出来ず。

散策路の

この先、歩く道は、都県境の道ではなく、右は、東京都瑞穂町、左は、武蔵村山市になります。

来た道を振り返る。

         右が瑞穂町、左が武蔵村山市。

右が「瑞穂町大字畑・・」。

左に行くと、「赤坂」。

           右は水源用地(立入禁止)。

左は、奥深い森。

猿久保にある案内板。

                                →が「都県境」。

けっこう急で深い谷。

うち捨てられ、朽ち果てた車。

                 ここまで持ってくる(乗ってくる? )だけでも、大変なはず。

「六道山公園展望台」(瑞穂町石畑)へ。

        

         

                  中央、遠方に白雪の富士山。

これで狭山丘陵の尾根道も終了。

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西武線「西武園駅」~JR八高線「箱根ヶ崎駅」。その6。野山北・六道山公園。冒険の森。谷戸への道。(「都県境を探ってみる」。第10回目)

2023-01-14 20:18:01 | 都県境を探ってみる

「村山温泉かたくりの湯」バス停から再開。

狭山丘陵一帯には、5つの都立公園があります。都県境にもなっている「狭山公園」「八国山公園」とたどってきました。

ここからは、「野山北・六道山公園 」。

野山北・六道山公園は、首都圏に残された「緑の島」都立狭山自然公園の西端にあり、雑木林と谷戸(丘陵に切れ込んだ谷間)の組合せによって、豊かな自然が残された都立で最大の都市公園です。
カタクリの群生地やホタルの生息地、里山民家や岸たんぼといった、貴重な里山の風景が広がっており、里山の生活や文化を体験できるほか、ハイキングや野鳥観察、森遊びなど様々な楽しみ方ができる公園となっています。

(この項、「」HPより)

「冒険の森」脇の山道を進み、尾根道へ。※尾根道の途中「御判立」までが都県境。

右手の道を進む。

尾根道の途中までが、都県境になっています。

藤棚の休憩広場付近で丘陵地帯に入った都県境と合流。 

アップダウンがほとんどなく、快適な散策路。行き交う人も多い。

「標石標示 東京都」。

                     

左手に「あそびの森」。

   眼下に広がる。

右手は、「狭山湖」水源用地。

「狭山湖堰堤から4.4㎞」。

広場に出てきます。

                   「六地蔵」が中央に。

「野山北・六道山公園 インフォメーションセンター」。

公園案内板。

穏やかな日差しを浴びて。

谷戸への道。

※「谷戸」とは?

谷戸(やと)とは、丘陵地浸食されて形成された状の地形である。また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。(や、やと)・谷津やつ)・谷地(やち)・谷那(やな)などとも呼ばれ、主に東日本関東地方東北地方)の丘陵地で多く見られる。なお、同じ地形について、中国九州などの西日本では迫・佐古(さこ)、岐阜県では(ほら)と呼ぶ

多摩丘陵三浦丘陵狭山丘陵房総丘陵武蔵野台地下総台地といった関東丘陵地・台地の縁辺部が、長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形は、谷戸・谷津・谷地などと呼ばれている。

これらの表記および読みは地域により分布に差が見られ、同様の地形を表す際にも、千葉県などでは「谷津」(やつ)を、神奈川県および東京都多摩地域では「谷戸」(やと)または「谷」(や)を、東北地方では「谷地」(やち)を使う場合が多い

これらの経緯については史料が少なく詳細は分かっていないが、いずれの場合も意味は同じで、浅い浸食谷の周囲に斜面樹林が接する集水域であり、丘陵地の中で一段低くなった谷あいの土地であることを表している

多摩丘陵・三浦丘陵における谷戸地形の成因は、主に約2万年前の最終氷期頃にかけて進んだ水・湧水による浸食で、その後の縄文海進期にかけて崩落土などによる谷部への沖積が進み、谷あいの平坦面が形成されたと考えられている

大量のを使う水稲耕作において水利の確保は重要な課題のひとつとなるが、日本列島において稲作が始まってからしばらくの間は利水治水技術が発達していなかった。当初の製品は朝鮮半島からもたらされる希少なものであり、農具製が多く、用水路開削などには多大な労力を要した。その頃には、集水域で湧水が容易に得られ、しかも洪水による被害を受けにくい谷戸は、排水さえ確保できれば稲作をしやすい土地であった。そのため丘陵地内で谷戸では古くから稲作が営まれており、中世までには開発が進んでいたものと考えられている

こうした土地は森林が近接する谷あいの農地であることから、田に近接する斜面では日照を確保するため「あなかり」などと呼ばれる下草刈りが定期的に行われており、また近接する森林ではなどを取ることができ、そうした行為には慣例として入会権が認められていた。労力さえかければ生活に必要な食糧・燃料・道具などの材料を調達するに適した土地であったと考えられている。

反面、こうした場所は尾根筋に挟まれた狭隘な地形であるために日照時間が短く、水はけが悪い場合には湿地状態となることが多い。また湧水地に近接する谷戸田へ農業用水を直接引き入れると、水温が上がらないうちに田に入ってしまうこととなり(多摩地域では谷戸に流れる冷たく分解前の腐植質が混じる水を「黒水」と呼んだ)、水を引き回すなどして温める工夫が求められる上、収穫されるの食味が悪くなるとの指摘がある

戦国時代以降になると治水・利水技術が進展し、諸大名石高向上のための稲作振興策を推進したため、関東においても新田開墾が進み、沖積平野での稲作が盛んになった。

明治以降になると中央集権化が進められ、それまで地域毎に主導で行われていた農業振興策が縮小・廃止されるようになり、戦後高度経済成長」期になると農機化学肥料の導入をはじめとする集約農業化が進められ、エネルギー源も薪から化石燃料へと転換した。その影響を受けて、前述のような谷戸地形の優位性が失われるとともに欠点が目立つようになり、谷戸田は衰退することとなった。また湿度が高く宅地とするにも不向きであることから、耕作放棄後には荒れ地になっていたり、建設残土などにより埋め立てられている場合すらある

しかしながら、都市化が進む地域においては緑地水源地としての希少性・貴重性が認められ、谷戸の自然を保全する動きが出てくるとともに、生態系上の価値も認められるようになっている。

生物多様性の重要性が認識されるようになるとともに、独特の条件がある谷戸の生態系に注目が集まるようになった

たとえば、トウキョウサンショウウオヤマアカガエルなどの絶滅危惧種や地域固有種が、開発を逃れた谷戸に生息していることが多い。また、急激な都市化が進められた関東地方において従来の生態系が残っている場合があることから、里山雑木林などとともに価値が見直されはじめている。

(この項、「Wkipedia」参照)

尾根道。

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ある日のソウタ。現在、体重5.2㎏。好奇心旺盛。アンズは、マイペース。(DAYS with CATS)

2023-01-13 20:12:21 | わがやの猫たち

人なつこいソウタ。かまって欲しい。

パソコンをやっていると、ドッサリと座り込む。

           と、

テレビの向こうが気になるのか。

何にもないや。

重たいので、しなっている。

 

何やっているの?

                

TVをチラッと見て、

                

つまらないや。

アンズに近寄ってきて、

何かあるの、この下に、と。

2人の関係は、微妙です。そして、ソウタは別の興味に。アンズは、コタツの中に入りこむ。

宅配便が届くと、空箱にスッポリ。

        箱の中から。

箱から出て。

再び箱の中に。縦になっても、姿を隠したまま。

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西武線「西武園駅」~JR八高線「箱根ヶ崎駅」。その5。藤棚の休憩広場。かぶと橋。武蔵村山市役所。「かたくりの湯」へ。(「都県境を探ってみる」。第10回目)

2023-01-11 18:43:09 | 都県境を探ってみる

多摩湖通り」に沿った道を進むと、右手に「藤棚の休憩広場」。

           来た道を振り返る。

この付近で、都県境は西へ進み、狭山丘陵の中に入り、野山北・六道山公園の尾根づたいになります。

そこまでの道は歩けないので、「多摩湖通り」から分かれ、右の道を進みます。

「かぶと橋」「武蔵野の森」。

           頭上にカブトムシのモニュメント。

振り返る。

          

「境界点標示 東京都」。

                 

尾根道(都県境)直下にある「村山温泉かたくりの湯」方面に進まず、そのまま坂を下ってしまいます。

すぐ、住宅地へ。

来た道を振り返る。

     

住宅地の坂道を下る。

武蔵村山市のマンホール。

          中央に市章、下に「ひがしむらやま」。亀甲模様?

武蔵村山市全図。

「石橋供養塔」。

                  近くを流れる「空堀川」に関係するものか?

青梅街道へ。

武蔵村山市役所。

ここまで順調に着きました。まだお昼前。さてどうしたものか? 

運良く「村山温泉かたくりの湯」へ向かうバスが来たので、それに乗って「かたくりの湯」へ。

もう少し都県境を探索することにします。

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西武線「西武園駅」~JR八高線「箱根ヶ崎駅」。その4。狭山湖(山口貯水池)。こなら橋。・・・くぬぎ橋。(「都県境を探ってみる」。第10回目)

2023-01-10 20:12:14 | 都県境を探ってみる

狭山湖(山口貯水池)に向かう道路。

狭山湖(山口貯水池)は、ここからは望むことは出来ません。

狭山湖(山口貯水池)

埼玉県の南中部に位置する所沢市と入間市の境界にまたがり、東京都の水がめとして昭和9年に完成した人造湖で、正式名称は「山口貯水池」です。
周辺は県立狭山自然公園になっており、春はソメイヨシノやヤマザクラなどの2万本もの桜、秋は紅葉、湖面に映る木々や富士山、さらにバードウォッチングなども楽しめます。四季の美しい情景は、埼玉の「自然百選」や「ダム湖百選」に選ばれています。

           (「埼玉県公式観光サイト」より)

狭山湖の歴史

狭山湖(山口貯水池)は、はじめから湖だったのではないことを知っていましたか?市内を流れる柳瀬川の上流をせき止めて作られた人造湖(じんぞうこ)なのです。そもそも、狭山湖の底には勝楽寺村(しょうらくじむら)と山口村の一部があったのです。

 昭和2年に東京市民(当時)の水がめとして多摩湖(村山貯水池)が完成しましが、東京市の人口が急激に増えたため、その水だけでは水量が足りなくなり、狭山湖も作られることになり、狭山湖は昭和9年に完成しました。

 狭山湖を作るためには、勝楽寺村と山口村の一部が湖の底に沈むことになり、282戸、1720人が住みなれた土地を手放して村を離れることになりました。村を離れた人々は、ほかの山口村、小手指村、村山村(武蔵村山市)などへ移転していきました。
 当時のこの村では、農業での生活が苦しかったので、織物製造業(おりものせいぞうぎょう)を営んでいましたが、不況で大変貧しい時代であったため、ある人々は土地を手放したお金で、少しでも豊かな場所で生活できることを夢見て、またある人は狭山湖を造ることになればその工事現場で働けることを聞いて土地を手放しました。しかし、皆それぞれ口では言い表せない苦労を味わったそうで、そのことが「湖底(こてい)のふるさと」(昭和58年調査同好会発行)という本に書かれています。

 現在は、狭山湖の湖底を見ることはできませんが、取水塔(しゅすいとう)の修理のときなどには湖底が現れたことがありました。湖底が現れると、当時の道の跡や、道の分かれ目を示す石柱、柳瀬川の本流の跡など、勝楽寺村の地形をみることができました。

                     太い破線が都県境。

「狭山湖堰堤から1㎞」。

道路の向こうも遊歩道になっています。

この先、「東京都」の標示。

「こなら橋」。

       振り向くと、「埼玉県 所沢市」の標示。

都県境を歩いています。

        「ねむのき橋」。

「ほおの木橋」。

「多摩湖自転車歩行者道」。

「えごの木橋」。

      「くぬ木橋」。

「くぬぎ橋」の先で、道は二手に分かれます。

右の広い道路脇に、「500m先 かたくりの湯」と標示があります。

地図上で都県境は、左の道に沿っているようなので、左の坂を上がっていきます。

              

             「自転車歩行者道」が続きます。

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西武線「西武園駅」~JR八高線「箱根ヶ崎駅」。その3。こぶし橋、・・・。多摩湖橋。慶性門・ダイダラボッチ像。(「都県境を探ってみる」。第10回目)

2023-01-09 19:26:52 | 都県境を探ってみる

多摩湖(村山貯水池)の岸辺は入り江のように入り組んでいるので、この先、けっこうたくさんの橋が出てきます。

多摩湖(村山貯水池)

 完成当初は多摩川の水を羽村取水堰で取り入れ、導水管にて村山貯水池に導いて貯水し、ここから境浄水場へ導水して浄水処理を行い、和田堀浄水池淀橋浄水場を経て東京市内へ給水された。淀橋浄水場が東村山浄水場に統合されて以後は、村山貯水池-東村山浄水場-境浄水場-和田堀浄水池を経由する。また、第一村山線と第二村山線で東村山浄水場及び境浄水場に原水を送水するが、バックアップ用として東村山浄水場経由で朝霞浄水場及び三園浄水場も送水することがある。

「こぶし橋」。

ただ水面は見えません。周辺の木々になぞらえて付された橋の名のようですが。それにふさわしい絵柄。

   伐採した木がたくさん。

右手に長屋門が見えてきます。

左手遠くに湖面。

「多摩湖橋」を渡ります。

「慶性門」。

慶性門
明治45年(1912年)、ここに貯水池が建設されることになりました。
村山貯水池(多摩湖)になったところに住んでいた人々は、移転しなければなえりませんでした。
上貯水池は大正13年(1924年)に、下貯水池は昭和2年(1927年)に完成しましたが、その間に湖底にあった160戸余りの家々が移転してきました。
慶性門は、石川の谷(現在の上貯水池の西部)にあった慶性院山門で、寺院の門としてはあまり一般的ではなく「長屋門」の形式をとっています。最近では、ほとんど見られない門構えの形です。
大正11年(1922年)、慶性院が現在の芋窪に移転したとき、山門はそのまま取り残されてしまいました。
昭和29年(1954年)、貯水池愛護会の有志は荒れ果てた山門の姿に心を痛め、ここに移転し修復しました。
このときに、この山門が文久元年(1861年)に建てられたことがわかりました。
この移転から40年近くが経過した平成3年(1991年)、再び修理をし建設当時の姿を現しました。
東大和市は、まちの歴史の象徴として、この建造物を永く保存することにしました。(「東大和市」HPより)

      

この付近は、「湖底の村広場」として、埼玉県所沢市に入りこんだ、東京都東大和市になっています。また、「ダイダラボッチ像」がある、とのこと。マニアの間では、心霊スポットとして存在しているようです。

※「ダイダラボッチ」は、日本の各地で伝承される巨人。 類似の名称が数多く存在するが、以下では便宜的にダイダラボッチと呼称する。 山や湖沼を作ったという伝承が多く、元々は国づくりの神に対する巨人信仰がダイダラボッチ伝承を生んだと考えられている(鬼や大男などの妖怪伝承が巨人伝承になったという説もある。)。(「Wikipedia」より)

(「Googleマップ」より)

実は、この建物が見え始めた頃から、どこからともなく笛の音が聞こえてきました。哀愁を帯びた調べ。激しく行き交う車の列ですが、それとは異空間のような雰囲気で、しばらく聞き惚れてしまいました。

           信号機の脇にいる方が吹いています。

多摩湖の湖面。

案内板。

         「保谷狭山自然公園自転車道全体図」。多摩湖を一周し、東に向かいます。


●区間
   関前5丁目交差点-(0:15)3.08km→花小金井駅-(0:08)1.45km→小平ふるさと村-(0:08)1.68km→小平駅-(0:17)4.68km→武蔵大和駅西交差点-(0:14)3.79km→鹿島休憩所-(0:12)3.79km→都県境-(0:17)4.86km→自転車道終点

所沢市側に家並みが。

               「restaurant teicintei(堤新亭)」。

「奥之院五重塔」。

「三二六別館・竹亭」。 

                 京懐石料理のお店。

「さくら橋」。  

コメント
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