おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「西八王子」駅~「箱根ヶ崎」駅まで。その6。(「日光千人同心街道」をゆく。第1日目。)

2018-10-29 22:18:38 | 日光千人同心街道
                           「USA JAPAN」。
 中にはこんな屋台風のお店も。
「バンコク屋台料理」。けっこう混んでいます。

(13:52)ミリタリールックのお店。

「16 FUSSA BASE SIDE STREET」のフラッグが並んでいます。

「第二ゲート」付近。基地沿いの16号線が延々。約4キロ。
 途中からは道の両サイドに基地が広がります。

(14:06)「羽村市」入り。

(14:14)「横浜から53㎞」ポスト。

「ドン・キホーテ」とその先に横浜家系ラーメン屋さん。ちょっと遅い昼食を。

再開。(14:46)この先付近から基地内の滑走路が見渡せます。

左に踏切。八高線の電車が通過中。

 基地の拡張で八高線や16号線も路線変更されたらしい。

滑走路の北端? 

 (15:09)「新青梅街道」との交差点。基地内の旧道とつながる道へは交差点を鋭角に右に折れていきます。


                           

(15:15)旧道の復活地点から基地内を望む。



そこから「箱根ヶ崎」宿に向けて進みます。

 「新青梅街道」に遮られてしまうので、先ほどの交差点に戻ります。旧道に復帰、この先、青梅街道と少しの区間が重なります。


                             

旧家の雰囲気を残す「関谷」家のところで右折してくるのが「旧青梅街道」。

(15:28)「明治5年創業 漢方の會田」。

「旧日光街道」交差点。

 今回はここまで。JR八高線「箱根ヶ崎」駅から戻ってきます。        
(15:38)南を望む。

1880年代のようす。2010年代のようす。→が「千人同心街道」。

箱根ケ崎村(大字箱根ケ崎、箱根ケ崎西松原、箱根ケ崎東松原、南平地区)

箱根ケ崎
 語源は、古語で「ハコ」は神の棲む、「ネ」は山を意味するという説があります。
 この地区にある狭山池は、中世までは今よりもずっと広大で、面積は10町(10万平方メートル)以上もあったといわれ、狭山丘陵の西端に位置することから、後世鎌倉街道と呼ばれるようになった古街道が通っていました。箱根ケ崎の名称が古文献に現れるのは、戦国時代後期の天文年に北条氏照が発したに「筥根賀崎」と書かれています。
 しかし、江戸時代前期の古地図には箱根ケ崎の地名はなく、絵図上の当該地点には村山村と記されています。
 そのため、中世まで当地は中世郷村としての多摩郡村山郷の一部だったと思われます。
 慶安5年(1652年)に八王子千人同心の日光勤番が始まると、同心達が日光へ往来するための勤番経路として日光街道が整備され、その沿線上に位置した箱根ケ崎村は、幕府より人馬の継立てを命じられ日光街道の旅人の往来が活発となり、箱根宿として発展しました。
 このため、村山村の現箱根ケ崎地区に人口が増加し、寛文8年(1668年)の検地をもって村山村から分村したようです。
(以上、「」HPより)
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JR「西八王子」駅~「箱根ヶ崎」駅まで。その5。(「日光千人同心街道」をゆく。第1日目。)

2018-10-26 19:30:50 | 日光千人同心街道
「国道16号線」。一段と広くなった国道を進みます。左手は「都立多摩工業高校」。

「松原」バス停。松並木でもあったのか?

(12:48)「武蔵野橋南」交差点を斜め右に曲がる。

旧道はまもなくJR線に突き当たるので、右折し、拝島駅構内の通路を通り、反対側に。


(13:00)旧道の復活地点まで戻って渡る橋が「日光千人同心街道」にちなむ「日光橋」。この先、「日光街道」という呼称が多く出てきます。
 

下の流れは「玉川上水」。

          
          
1880年代のようす。○が「玉川上水」に架かる「日光橋」。    2010年代のようす。「国道16号線」は拡幅工事中。

次の信号を左に曲がって「国道16号線」に合流。右側には長い壁とフェンスが続いてくる。(13:23)広大な「横田基地」が。



      (13:33)旧道は「第五ゲート」付近で基地内に消える。

 「第五ゲート」付近から北一帯の今昔
                          
                          
         
         
         
         
         
1880年代のようす。田畑の中の一本道。           2010年代のようす。旧道の一部が基地内の道として残っている?
 上で交差する道が「青梅街道」、最下方に少し見える道が「五日市街道」(「第五ゲート」付近)。三つの旧道とも基地内で消滅している。       
     
在日米軍基地 U.S.AIR FORCE Yokota Air Base
警告
 基地司令官の許可なくこの区域に立入る事は法律違反である。
 不法な立入りは日本国法律によって罰せられる。(刑事特別法第2条 昭和27年5月7日法律第138号)この区域にいる間は全ての人は身体及び所持品の捜索を受けるかも知れない。
 軍犬隊により巡回されている。
                横田基地(Yokota Air Base)」。
所在地 東京都福生市、瑞穂町、武蔵村山市、羽村市、立川市、昭島市
種類 軍用飛行場 
所有者 在日米軍 
運営者 アメリカ空軍、航空自衛隊 
運用時間 24時間 
開設 1940年
所在部隊 在日アメリカ軍司令部 在日アメリカ空軍司令部 アメリカ第5空軍司令部 アメリカ第5空軍第374空輸航空団
        航空自衛隊航空総隊司令部 航空自衛隊航空戦術教導団司令部

概要
 大日本帝国陸軍の航空部隊の基地として開設され、第二次世界大戦後より、在日アメリカ軍司令部および在日アメリカ空軍司令部と、アメリカ第5空軍司令部が置かれている、東アジアにおけるアメリカ軍の主要基地であり、極東地域全体の輸送中継ハブ空港(兵站基地)としての機能を有している。 また朝鮮戦争休戦協定における国連軍の後方司令部も置かれている。
 2012年3月からは、移転再編された航空自衛隊の航空総隊司令部なども常駐するようになり、日米両国の空軍基地となった。
 拝島駅の北側で、東福生駅や牛浜駅の東側に位置し、福生市、西多摩郡瑞穂町、武蔵村山市、羽村市、立川市、昭島市の5市1町(構成面積順)に跨がっている。沖縄県以外では日本国内最大のアメリカ空軍基地であるが、沖縄県の在日米軍基地のように民有地の借り入れがなく、その殆どが国有地で占められている。
 日米の軍用機の運用のほか、近年ではアメリカと同じく北大西洋条約機構(NATO)加盟国である、フランス空軍輸送機(エアバスA340-200型機)の、フランス本土からニューカレドニアなどのフランス海外県への移動の際に、テクニカルランディング地として使用されることもある。
 なお、日米地位協定により、アメリカ軍人・軍属・それらの家族は、出入国管理の搭乗手続きを必要としない。そのため、日本国内で犯罪を犯したアメリカ軍将兵や、軍を掌握するアメリカ高位高官が軍用機で出入国しても、それが日本側に告知されない限り、日本国政府はその事実を知ることができない。
 2017年には大統領専用機でドナルド・トランプが出入りしているが、これも法的には、アメリカからの出国や日本への入国を行っていない。
 接収後に基地の拡張工事が行われ、1960年頃にはおおむね現在の規模となった。拡張に際しては、北側で国鉄八高線や国道16号の経路が変更され、南側で五日市街道が分断された。朝鮮戦争当時はB-29爆撃機の出撃基地として機能し、ベトナム戦争時も補給拠点として積極活用されていた基地である。
 2012年3月26日に航空自衛隊の航空総隊司令部などが府中基地より移転し、航空自衛隊横田基地の運用が開始された。

名称
 多摩飛行場の敷地大部分が当時の西多摩郡福生町(現在の福生市)にあったことから、地元や陸軍航空審査部では福生飛行場(ふっさひこうじょう)と呼ばれていた。この多摩飛行場・福生飛行場を、アメリカ軍が戦中より「YOKOTA」と呼称したのは、アメリカ陸軍地図サービスが1944年に作成した地図資料『JAPANESE AIRFIELDS』では、北多摩郡村山町(現在の武蔵村山市)の大字名であった「Yokota」が、「Fussa」や「Hakonegasaki」より飛行場近くに記載されていたためと考えられており、地名としての「横田」は現在では消滅したものの、「武蔵村山市役所」の西隣のバス停名称として残っている。その後は、横田基地が存在していることにより、「横田」を冠したトンネルや店舗、教会が点在するようになっている。
 横田飛行場には、現在も戦争継続中の朝鮮戦争における国連軍の後方司令部が存在しており、常勤の要員として軍人3名・軍属1名が配置されている。また国連軍参加国のうち、8ヶ国の駐日大使館付駐在武官が参加する合同会議が、3ヶ月に1回程度の割合で開かれており、事実上の駐日武官の連絡詰所となっている。飛行場には日章旗、星条旗の他に、国連旗が常時掲揚されている。
 国連軍後方司令部は、朝鮮戦争休戦協定成立後、1954年(昭和29年)に、日本とイギリス、アメリカ、フランスなど10ヶ国(のちにタイ王国も加わる)が「国連軍地位協定」を結んだことが始まりで、現在でも朝鮮戦争が戦時国際法上「休戦」中(戦争継続中)であることが、日本に設置する根拠となっている。かつてはキャンプ座間に設置されていたが、2007年(平成19年)11月2日に横田飛行場へ移転した。
 2012年3月26日から「航空自衛隊横田基地」として運用を開始した。

横田基地の基地総面積:7.136km2
(南北約4.5km 東西約2.9km 周囲約14km)
滑走路:3,350m×幅員60m 1本
付帯設備:管制塔、誘導路、格納庫、駐機場、整備工場、通信施設、旅客ターミナル、東京税関立川出張所横田旅具検査場

その他施設:消防署、兵員宿舎、将校宿舎、家族住宅、スーパーマーケット、病院、診療所、教会、小中高等学校、大学、幼稚園、小銃射撃訓練場、ごみ処理場、図書館、郵便局、放送局(「AFN Tokyo」) 、フードコート(アンソニーズ・ピザ、チャーリーズ・ステーカリー、スターバックス、シナボン、ポパイズ、タコベル、サーティワン)、チリーズ、バーガーキング、映画館、体育施設(野球場、ボウリング場、ゴルフコース等)

基地内人口:約8,800人(内訳 軍人・軍属:約4,300人、家族:約4,500人) 日本人従業員:約2,200人。

(以上、「Wikipedia」参照。)

 JR「八高線」に沿って「わらつけ道」という道があり、先達にはそちらを歩くケースが多いようですが、あえて基地沿いの「16号線」を進みます。道路をはさんで基地の反対側の歩道沿いにいろんなお店が並んでいます。
 

 

 もっと人通りが激しいと思いましたが、けっこう閑散としています。アメリカナイズされたお店(アンティークの店が多い)や食べ物屋さんに入る人・・・ほとんどが日本人観光客?

 注:「アンティーク」(antique)は、フランス語で骨董品のこと。

 小さな公園では基地反対・オスプレイ配備反対の集会。
お店の名が入った「観光案内図」が随所に。
ベンチも随所に。
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JR「西八王子」駅~「箱根ヶ崎」駅まで。その4。(「日光千人同心街道」をゆく。第1日目。)

2018-10-25 18:50:43 | 日光千人同心街道
                             「大日堂」。
 「佐川急便」の先を左折し、中学校のグランド脇を進み、広い道を右折すると、「大日堂」の前に出てくる(12:07)。ここから西が「拝島宿」となるようです。


1880年代のようす。上方に東の枡形。


2010年代のようす。
 「多摩川」に架かる橋が「拝島橋」。旧道は「佐川急便」の西側を通っていたようです。
 今も昔も、「多摩川」は流れ本体よりも河川敷の方が広く、また深くえぐれています。そのため、ひとたび大雨になると、川幅も勢いも増す印象。上流、中流を問わず、洪水被害も大きく、長い間、自然と人間との闘いでもあったようです。

 多摩川は古くから暴れ川として知られています。
 河川の延長が138kmと短いにも関わらず、水源の標高が1953mと高く、勾配が急であるため、古くから洪水の度に流路は変わり、沿岸にあった村が川により隔てられてしまうことも珍しくありませんでした。
 現在に近い流路になったのは1590年の大洪水といわれており、その際に分断された丸子や等々力、野毛、瀬田、宇奈根、布田、押立、石田といった村々は、その後、堤防の整備が行われてそれぞれ別の市町村に取り込まれてしまいます。その名残が現在では川を挟んだ両側に同地名が残されていることで分かります。

 東京都大田区の「下丸子」に対して、川崎市中原区の「中丸子」「上丸子」。
 「等々力」は大田区と中原区に。
 「宇奈根」は、東京都世田谷区と川崎市高津区に。
 世田谷区の「野毛」「上野毛」に対して、高津区の「下野毛」。
 「瀬田」が世田谷区と高津区に。
 「中和泉」「元和泉」「東和泉」は、世田谷区、「和泉」は川崎市多摩区。
 「布田」は東京都調布市と川崎市多摩区に。
 「押立町」は東京都府中市と稲城市に。
 「石田」は国立市と日野市に。

 いずれも川を挟んだ同地名で、多摩川の暴れ川時代の名残です。

 「拝島宿」は千人同心が日光を往還する街路の宿場として成立しました。宿は東西にわたって、下宿・中宿・上宿と続いています。
 弘化3年(1846)には家数159軒。そのうち旅籠が6軒、そのほか居酒屋・質屋・荒物屋・菓子屋・鍛治屋・銭湯などが56軒も建ち並んでいたそうです。

 宿場の北側には、「大日堂」、「拝島大師」、「日吉神社」などの寺社が並んでいます。

 「拝島」は「昭島市」の一部です。

 昭島市は、昭和29年5月1日に昭和町と拝島村が合併し、東京都で7番目の市としてスタートしました。『昭島』の名前は、昭和町の「昭」と拝島村の「島」を合わせたものです。
【古代・中世】
 952年の洪水により多摩川上流の日原村日原鍾乳洞に安置されていた大日如来像が大神の中州の島に流れ着き、尊像は村人らに拝まれるようになり、お堂を建てて坐像を安置しました。
 その後、この地域が「拝島」という地名になり、滝山城築城時に、城の鬼門よけとなる現在の位置に大日堂を遷し、坐像を祀ました。
【近世】
 滝山城(1521年)が多摩川対岸築城され、城下町としての様相を呈してきました。1569年には武田信玄軍が拝島大師に陣を構え、武田勝頼らにより滝山城の北条氏照を攻撃しました。
 文禄年間に奥多摩街道と千人同心街道が交差するところに「拝島宿」が形成され、1652年より八王子千人同心が日光勤番の任務をする際に「拝島の渡し」を通り往来をしていたため、拝島宿は人馬の継ぎたて役となり、次第に宿場町として栄えてきました。1685年には、多摩川右岸にあった作目村が洪水で流出し、村民が対岸の田中村(現在の田中町)付近に避難し、定着しました。
 1866年(慶応2年)6月、武州一揆の支隊が多摩川の河原に集結し、「築地の渡し」で日野農兵隊と交戦となったが、一揆は鎮圧されました。
 江戸時代は、徳川領で「郷地・福島・築地・中神・宮沢・大神・上川原・田中・拝島」の9カ村があり、多摩川には「拝島の渡し・築地の渡し・平の渡し」の3つの渡しがありました。
・・・
(以上、「昭島市」公式HPより)

現在の「拝島宿」のようす。

 かつて、「拝島分水」という「玉川上水」の分水が拝島宿内の街道の中央を流れ、村民の生活用水や宿場用水として重要な役割を果たしてきましたが、現在は、暗渠になっています。

 (12:17)左手に臼井家の建物。拝島宿成立以前からの旧家のようです。

粋な黒塀のおうち。

宿場の面影は感じない、バス通り。

                      
                             
路地の奥には「拝島天神」。

右に曲がる辺りが宿場西の枡形。

(12:27)その曲がり角に地蔵一体と「解説板」。
御地蔵尊由緒
 このお地蔵様は、江戸時代初めの慶安年間に八王子千人同心が日光廟勤番に赴くために整備された日光往還道の宿場町として「拝島宿」が成立してまもなくの天和2年(1682)から鎮座していました。
 お地蔵様が東を向いているのは、坂下(「旧拝島町1番地」)に鎮座するお地蔵様と向き合い一対となって拝島宿の東と西の両側から宿場内を見守るために建立されたと伝えられております。
 昭和20年代初め道路整備時に破壊され台座のみが残っていましたが今般地元講中により再建されました。

                                 平成26年(2014)5月 上宿講中

その付近から枡形を振り返って望む。

右に曲がってすぐ左に入る細い道が旧道。

「拝島三叉路」交差点。「奥多摩街道」は左に曲がりますが、「千人同心街道」はまっすぐ進みます。


(12:34)「上宿」バス停。

「小荷田」の交差点からは、3車線と広くなった「国道16号線」を進みます。

              
        
1880年代のようす。西の枡形。               2010年代のようす。上方に、広い「国道16号線」。
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JR「西八王子」駅~「箱根ヶ崎」駅まで。その3。(「日光千人同心街道」をゆく。第1日目。)

2018-10-24 21:43:19 | 日光千人同心街道
                                  「谷地川」。
 「左入橋」交差点をまっすぐ進む。途中、左手、道路の正面遠くに「大岳山」の特徴的な山容が。
(↓)

                 
 奥多摩の山の東端にあたる、この山。秋、冬の澄んだ空の季節には、東京都内から(我が家の近くの土手からも)よく見える山。初心者の頃、登ったこともあります。

 片肩上がりの山体はどこからでも識別できる。『武蔵通志(山岳篇)』は「両総地方にて武蔵の鍋冠(なべかぶり)山と称し海路の標となす」と記され、江戸期には江戸湾に出入する船の目標でもあったようだ。いわゆる天文山の1つである。山名も古い文献を見ると大岳となっている。
 大岳山へは御岳(みたけ)から登山道をたどるのが一番楽だ。山頂の下に大岳神社と大岳山荘がある。この山小屋は獅子口小屋、日ノ出山東雲山荘と同時期に建てられたしゃれた建物で、今でも登山者に人気がある。山荘の横手の広場からは馬頭刈(まずかり)尾根や浅間尾根のかなたに富士山も見える。
より)

 この先も振り返ると、よく見えていました。 

切り通しの国道を進みます。かつてはけっこうな坂道だったようです。

        
                            
1880年代のようす。曲がりくねった旧道。         2010年代のようす。拡幅整備された国道16号線。     

「滝山城跡入口」の看板。

滝山城
 東京都八王子市丹木町にあった戦国時代の城。国の史跡。「続日本100名城」(123番)に選定された。
 1521年(永正18年)山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代大石定重が築城し、高月城から移ったという。1546年(天文15年)、北条氏康が河越の夜戦(河越城の戦い)で扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力を武蔵から排除すると、大石定久は北条氏康の三男・氏照を娘婿に迎え、事実上、大石氏は北条氏の軍門に下った。1558年(永禄元年)頃、北条氏照は城の大改修を実施した。
 1569年(永禄12年)、小田原攻撃に向かう武田信玄軍2万が滝山城の北側の拝島に陣を敷き、別働隊の小山田信茂隊1千が小仏峠から進入、これに対し北条方は廿里で迎撃したが一蹴され(廿里古戦場)、滝山城三の丸まで攻め込まれ落城寸前にまで追い込まれたが、2千の寡兵で凌いだ。しかしこの戦いは、滝山城の防御体制が不十分であることを痛感させ、八王子城を築城し移転するきっかけとなったといわれている。(異説あり) 
 多摩川と秋川の合流点にある加住丘陵の複雑な地形を巧みに利用した天然の要害で、関東随一の規模を誇ったという。
 現在、遺構として本丸・中の丸・千畳敷跡空堀などが残っている。大部分が東京都立公園「滝山自然公園」となり桜の名所である。
                                                 (以上、「Wikipedia」参照)

 HPより)


ゆるやかな下り坂になり、「拝島橋」を渡ります。その手前に。
(11:34)「横浜から45㎞」ポスト。

「国道16号線」。八王子~横浜間は「シルクロード」、 横浜~横須賀間は「軍事輸送ルート」だった?!

 国道16号の八王子~横浜間は、「日本のシルクロード」と呼ばれる八王子街道が前身となっています。生糸貿易が盛んに行なわれた、幕末から明治にかけて、八王子は桑都と呼ばれ、信州、上州、秩父、甲斐などから生糸が集まる場所として栄えていました。この生糸を横浜港に運ぶ要路として利用されていたのが八王子街道です。
 一方、横浜~横須賀間は、横須賀港が、1877年に海軍港に指定されたために増加した、鎮守府などの海軍施設へつながる道路が前身となっています。横須賀港は、その後1948年に貿易港に指定され、自動車の輸出などに利用されています。

■横浜を起点に町から町へ。関東圏をリング状に結ぶ幹線道路。
 現在の国道16号は、全長約331km。横浜市を起点に、八王子市、大宮市、千葉市、木更津市、横須賀市を経て、再び横浜市に至る環状道路になっています。この経路は1962年に、路線指定されました。
 都心より半径30km圏を走るこの幹線道路沿いには、国際貿易港やコンビナート、流通センターなどが多く、コンテナ等を積んだ大型車が頻繁に行き交います。その光景からも、国道16号は、わが国の産業の発展を支える象徴的な道路のひとつと言えます。
HPより)

 木更津、相模原、横田、横須賀と米軍基地(あるいは自衛隊基地)を結ぶ「軍用道路」というイメージが強いのですが。幹線道路だけあって、交通量は半端じゃありません。

 なお、東京湾口に海上区間があり、観音崎(神奈川県横須賀市) - 富津岬(千葉県富津市)間は、海上を代替のフェリーで結ばれることにより、環状道路を形成しています。

 起点と終点が同じ国道は、全国で二本しかないようです(この場合、横浜)。
 もう一本は、「国道302号」=名古屋環状2号線と呼ばれる外環道路で、起点と終点が名古屋市中区。  

「多摩川」を「拝島橋」で渡ります。舟のモニュメント。


青空の下、上空を白い鳥が群れをなして下流へ。

          (↓)

「多摩川」の流れ。樹木もたくさん繁っています。

            ↓が「大岳山」。

                    

 (11:49)橋を渡った先にある児童公園内に「拝島の渡し」解説板。舟と帆柱のモニュメント。
 
拝島の渡し
 拝島橋の上流100㍍ほどのところに、その昔、「拝島の渡し」と呼ばれる日光街道の渡し場がありました。日光街道は、江戸時代初期の慶安年間(1648~52)に、八王子千人同心が日光勤番に赴く際の往還路として開かれた公道で、江戸時代を通じて上州(群馬県)方面と八王子を結ぶ重要な街道として機能していました。
 この渡しの管理は拝島村によって行われ、数人の船頭さんが常駐して随時船を往復させていました。
 もっとも、船を運航したのは春から秋にかけてで、冬の渇水期には数艘の船を浮かべ、その上に板を渡した浮き橋に仕立てることもありました。文久元年(1861)の記録によると、渡し賃は一人24文、大水の時は割り増し料金を徴収する、といった定めがありました。
 明治時代に入っても、なおさかんに利用され、昭和10年代には八王子―川越(埼玉県)間を走る定期バスが、この渡し船を利用して多摩川を渡ったこともありました。しかし、明治後期から昭和初期にかけ、鉄道網・道路網の整備が進み、拝島の渡しは次第にすたれ、昭和20年ごろにはほとんど利用されなくなり、仮設の木橋が架けられて、細々と機能しておりました。
 その後、昭和30年、拝島橋が開通し、この地は再び重要な渡河地点となって今日に至っています。

注:明治後期から大正にかけて「渡し場」は「拝島橋」の下流に移動しているようです。 

いよいよ街道1番目の「拝島宿」へ。
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JR「西八王子」駅~「箱根ヶ崎」駅まで。その2。(「日光千人同心街道」をゆく。第1日目。)

2018-10-23 20:06:11 | 日光千人同心街道
                           (10:14)「浅川」を「浅川橋」で渡ります。
 道路沿いのスーパーに寄って、飲み物と食料を調達。「八王子宿」から「拝島宿」へ進みます。

橋の途中で振り向くと、真っ白な富士山がちょっと顔を覗かせています。(↓)

               


雲一つ無い快晴。遠くの山々もはっきりと。

さらに「川口川橋」を越えます。旧道はこの付近では「国道16号線」や宅地開発で見失われているようです。橋を渡ってすぐ左に折れて、
住宅地の中を進むと、二体の地蔵が道ばたに。

 左のゆるい坂を上ると、左手に教会。その脇を上り、国道16号線に合流します。
 

「稲荷坂」と呼ばれているけっこうな上り坂。
 旧道は国道を越えて「ひよどり公園」方向へ進むようです。しかし、横断歩道はなく、中央ラインはガードされていて、渡ることはできません。坂の下にある交差点まで戻って渡るしかなさそう。

注:本来の「稲荷坂」は旧道にあり、現在の「ひよどり公園」に沿った、北側の坂道を指しているようです。

(10:41)ひよどり公園に向かう道への入口から八王子市街地を望む。
                                    かなりのロスタイムです。


1880年代のようす。くねくね曲がって上り下りする。


2010年代のようす。国道16号線は拡幅整備された。

「ひよどり公園」。緑が濃い。

右手にある「八王子うかい亭」。かなり高級そうなお店。
ABOUT US八王子うかい亭について

重厚な和の建築美と優美な内装が創りだす非日常
ここはうかい亭の物語 はじまりの地 武蔵野を望む小高い丘に佇む、八王子うかい亭。
豪商の邸宅を思わせるそこには、ジャパネスクとアールヌーボーの装飾品の数々。
和と洋が混じり合う大正モダンの香気漂う空間で、めくるめく味の饗宴をご堪能ください。
 (公式HPより)

ゆるやかに上り下りする道。

「市立ひよどり山中学校」脇を進む。

                 

右手にある「都立小宮公園」も散策にはもってこい。←を左に。

(11:00)下り坂になると、「中央道」に架かる「ひよどり第一橋」に。
振り返って望む。

「中央道」大月方面。

 橋を渡り、右へ曲がりながら坂道を下っていきます。左手に「鶯啼庵」。ここも立派な料亭。


 
心癒されるやすらぎの庵

「鶯啼」の二文字は、唐の詩人、杜牧の叙情詩「江南春」より「千里啼鶯緑映紅」の一節から頂きました。
遠くから鶯の声が聞こえ、美しく可憐な花々が咲いている情景に心癒されるような、やすらぎの庵にしたいとの願いを込めました。
四季折々の旬の恵みに触れながら、当庵でしか感じることの出来ない贅沢な時間を心ゆくまでお楽しみください。
HPより)

「中央道」のIC付近。

石材店の前に「庚申塔」や石仏が並んでいます。
                               金剛像は、享保16年(1731)のもの。

(11:09)その先で「国道16号線」に合流します。(歩道橋から)

1880年代のようす。現在もほぼこの道をたどっていく。

2010年代のようす。下が「中央道」、上が「16号線」。
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JR「西八王子」駅~「箱根ヶ崎」駅まで。その1。(「日光千人同心街道」をゆく。第1日目。)

2018-10-22 20:27:20 | 日光千人同心街道
                        (HPより引用)

 今回から「日光千人同心街道」歩きを始めます。

日光千人同心街道
 八王子千人同心が日光東照宮火番勤務のために往来した街道で、 八王子市の千人町から日光東照宮までの街道。
佐野(天明宿)で例幣使道と合流し、楡木で壬生道、今市で「日光道中・街道」と合流、その後、東照宮へ向かいました。
 「日光千人同心街道」は、八王子から佐野までの約90㎞の道のり。
 宿場は天明まで以下の15宿。
1 拝島 2 箱根ヶ崎 3 二本木 4 扇町屋 5 根岸 6 高萩 7 坂戸 8 高坂  9 松山  10 吹上 
11 忍  12 新郷  13 川俣 14 館林  15 天明(佐野)


10月21日(日)。快晴。初日は、JR中央線「西八王子」駅から八高線「箱根ヶ崎」駅まで。約3万歩です。

(9:25)駅前の歩道には「千人同心」の標示。

八王子千人同心の歴史
 八王子市の甲州街道沿いに「千人町」という町があります。珍しい町名ですね。なぜ「千人町」という町名なのでしょうか。それは江戸時代、この辺りに幕府の家臣団である八王子千人同心が住んでいたからなのです。
 また八王子市は現在、栃木県日光市・北海道苫小牧市と姉妹都市の関係を結んでいますが、それは八王子千人同心の活動が縁になっています。
では一体、八王子千人同心とはどのような人々なのでしょうか。

成り立ち
 八王子千人同心の始まりは、甲斐国(かいのくに・現在の山梨県)に求められます。9人の小人頭(こびとがしら)とその配下の人々で、武田信玄で有名な武田氏の家臣でした。千人同心は武田氏と大変ゆかりが深いのです。
 しかし武田氏は織田信長の攻撃により天正10年(1582年)に滅亡してしまいます。新たに甲斐国を治めたのが、後に江戸幕府を開いた徳川家康でした。小人頭と配下の同心も家康に召し抱えられ、新たな道を歩み始めます。
 各地で大名による争いが続いた戦国時代も、豊臣秀吉による天下統一へと進んでいました。この頃関東に強大な勢力を持っていたのが北条氏です。八王子も北条氏の領地でした。秀吉は関東に侵攻し、天正18年(1590年)に北条氏を降伏させました。北条氏に替わり関東を治めることになったのが徳川家康で、八王子も家康の支配となりました。
 やがて八王子地域の治安維持を主な目的として、9人の頭(かしら)とおよそ250人の同心が八王子に移されたのです。彼らが最初に住んでいたのは、落城まもない八王子城下でした。以降、千人同心の組織が整えられていきます。翌天正19年(1591年)、小人頭を一人増やして10名、同心は500人に増員され、文禄2年(1593年)には八王子城下から、現在の千人町を中心とした地域に屋敷地を拝領して移転してきます。さらに関ヶ原の戦いが行われた慶長5年(1600年)頃、同心が新たに召し抱えられて1,000人となり、文字通り「千人同心」となりました。
 八王子千人同心は、小人頭を起源とする千人頭(せんにんがしら)10名に率いられた同心1,000名からなります。頭1名に100名の同心がつく構成です。
 ところで千人頭と同心の間には明確な差がありました。千人頭は将軍にお目見えが許される旗本格で、知行地(ちぎょうち)を与えられていました。一方、同心はお目見えの許されない立場にあたり、幕府から手当は支給されましたが、武士としての役目を勤める時以外は、八王子周辺の村に居住し、年貢も納めていました。江戸時代は武士と農民のすみわけがはっきりとしており、いわゆる兵農分離の社会でしたので、こうした千人同心のありかたは珍しい形態でした。

公務と事業
 前に、八王子市と日光市・苫小牧市が姉妹都市であるのは千人同心の活動が縁になっていると述べましたが、それはどのような事情だったのでしょうか。
 千人同心の役割は、八王子の治安維持や国境警備、大きな合戦があれば従軍し、関ヶ原の戦いや大坂の陣にも出陣しました。千人同心は軍事集団の役割を担っていたのです。しかし幕府の体制が整い、世の中が安定して平和の時代が到来すると、千人同心の役割も変わっていきます。

日光火の番
 千人同心に命じられた重要な役目が、慶安5年(1652年)から勤めた日光火の番でした。日光は、東照大権現として家康がまつられた東照宮があり、幕府の精神的なよりどころでした。
 千人同心は、その東照宮の防火と警備にあたり、境内や町内を見回り、いざ出火となれば消火活動にあたったのです。八王子から日光までは、当初は江戸に出て千住から向かうルートを通っていましたが、多くは八王子から拝島方面へ向かい、松山(埼玉県東松山市)・佐野(栃木県佐野市)を経るルートを利用しました。三泊四日の旅程でした。
 当初は千人頭2名と100名の同心が担当し、50日期間で交代する体制でした。その後何度か変更され、最終的には寛政3年(1791年)に千人頭1名と同心50名で半年交代で務める体制になりました。この役目は江戸時代を通じて勤められ、慶応4年(1868年)に千人同心が解体するまで続きました。
 この年、既に幕府は瓦解し、新政府軍と旧幕府勢との間で戦いが始まっていました。やがて新政府軍は日光にもやって来ました。この時、日光火の番を勤めていた千人頭が、石坂弥次右衛門義礼(いしざかやじえもんよしかた)でした。義礼は、刀を交えることなく新政府軍に明け渡し、東照宮を戦火から救いました(その後、義礼は八王子に戻りますが、責任を追及する声もあり、帰郷した夜に切腹してしまいます)。
 こうした関わりから、昭和49年(1974年)に八王子市と日光市は姉妹都市となりました。命を賭して東照宮を守った石坂弥次右衛門義礼の墓は、菩提寺の興岳寺(八王子市千人町)にありますが、墓前の香台は日光市から贈られたものです。

蝦夷地の開拓
 もうひとつ、千人同心の活動としてあげられるのが、蝦夷地(えぞち、現在の北海道)の開拓事業です。18世紀も後半になると、江戸幕府はロシアの進出による防衛強化の必要から蝦夷地の一部を直接支配しました。こうした動向に呼応して、千人頭の原半左衛門胤敦(はらはんざえもんたねあつ)は蝦夷地の開拓と警備を幕府に願い出ます。
 寛政12年(1800年)幕府の許可を得て、胤敦は弟の新介とともに、千人同心の子弟100名を率いて北海道に渡りました。胤敦は白糠(しらぬか、現在の白糠町)、新介は勇払(ゆうふつ、現在の苫小牧市)にそれぞれ向かいますが、現地の気候の厳しさは彼らの想像を超えるものでした。開拓による収穫は乏しく、病人や死者が続出し、開拓事業は終了せざるを得ませんでしたが、こうした胤敦らの事業がゆかりとなり、昭和48年(1973年)八王子市と苫小牧市は姉妹都市となりました。
 この開拓事業を主導した原半左衛門胤敦の墓は、弟の新介の墓とともに、菩提寺の本立寺(八王子市上野町)にありますが、墓前に建つ石灯籠は、苫小牧市から贈られたものです。また白糠町とは隔年ごとにお互いの小学生が行き来して、交流を重ねています。

文化事業
 胤敦は蝦夷地から戻ると千人頭に復帰しましたが、しばらくした後、幕府から多摩郡の地誌調査を命じられました。胤敦は植田孟縉(うえだもうしん)や塩野適斎(しおのてきさい)ら他の千人同心とともに多摩の村々の調査を開始します。
こうして文政5年(1822年)「新編武蔵国風土記稿」多摩郡の部が完成し、幕府に納められました。ほかにも植田孟縉は「武蔵名勝図絵」、塩野適斎は 「桑都日記」を著すなど、千人同心は文化事業にも貢献したのです。また、彼らの一世代あとの松本斗機蔵(まつもとときぞう)は、海外事情に精通した千人同心で、頻繁に外国船が姿を現すようになった時代を受けて、「献芹微衷」(けんきんびちゅう)と題する海防政策の提言書を著すなど、世界に目を向けていました。

千人隊の解体
 幕末になると、国内外の政情不安を背景に、幕府は軍制改革を行い、千人同心も西洋式軍隊への近代化が図られました。慶応2年(1866年)には名称も「千人隊」と改称され、長州出兵、横浜の警備、将軍が京都へ行く際の御供などに動員されました。
慶応3年(1867年)、徳川慶喜の大政奉還により、幕府は政権を返上、明治維新を迎えると、新政府軍は旧幕府勢力の討伐のために、関東へと軍を進めます。
 慶応4年(1868年)3月、板垣退助の率いる軍隊が八王子にやってきました。千人隊は礼装で官軍を迎え、徳川家への寛大な処置をしたためた嘆願書を提出するとともに、武器を差し出して恭順します。慶応4年(1868年)6月、新政府から去就を迫られ、徳川家に従い静岡に移住するもの、新政府に仕えるもの、そして多くの隊士が武士身分を捨てて農民となります。こうして千人隊は解体され、八王子千人同心は終わりを迎えました。

(以上「」HPより)

   「馬場横丁」。
 江戸時代、千人隊拝領の馬場が宗格院の北側現在の五小前の通りにあったので、当時からこの所より宗格院迄の道を馬場横丁と呼んでいた・・・

しばらく「甲州街道」を北東に進みます。

(9:36)「陣馬街道」との追分に大きな「道標」。

                「右 あんげ道 左 甲州街道高尾山道」。


追分の道標について
 この道標は文化8年(1811)、江戸の清八という職人(足袋屋)が、高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三ヶ所に立てた道標の一つです。
 その後、昭和20年(1945)8月2日の八王子空襲によって4つに折れ、一部は行方不明となってしまいました。基部は地元に置かれ、一部は郷土資料館に展示されていました。
 このたび、地元の要望を受け、この道標が復元され、当地に建立されました。2段目と4段目は当時のままのもので、それ以外は新しく石を補充して復元したものです。  

 「あんげ道(陣馬街道)」にちょっと入った左手に「千人同心屋敷跡記念碑」。


 甲州街道と陣馬街道の分岐点に広大な敷地が与えられ、千人頭の屋敷と千人同心の組屋敷があったといわれています。
詳しい解説板。

追分から「甲州街道」を望む。

「陣馬街道」を望む。

 八王子宿に入ります。右手に古い商家。こんにゃく屋の「中野屋商店」。


                       

「秋川街道」という標示。

 かつての八王子のようすが写真パネルで紹介されています。
 

左手には見世蔵つくりの堂々たる建物。

(9:55)その先、「八幡町」交差点を左折し、いよいよ「千人同心街道」に入ります。けっこう寄り道しているうちに時間がかかってしまいます。


↓が「甲州街道」。→が「千人同心日光街道(現「国道16号線」)」。



 この付近の今昔


1880年代のようす。左端に「追分」。



2010年代のようす。←が「八幡町」交差点。そこから北に延びる道が現在の「日光千人同心街道」。
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「天平の丘公園」。その8。「琵琶塚古墳」、「摩利支天塚古墳」・・・(「日光例幣使街道」番外編。)

2018-10-18 21:32:43 | 日光例幣使街道
                             西側(壬生通・例幣使街道側)を望む。
東側を望む。

 「琵琶塚古墳」は栃木県内最大級の前方後円墳です。
                        「前方後円墳」の基本形。(「Wikipedia」より)

南側を望む。いくつか杉の大木が折れたままに。

けっこうな大きさと高さ。

              そういえば、古墳の上を歩くのは初めて。

北側を望む。後円部墳頂には小さな祠。

「摩利支天塚古墳」の方へ向かいます。ここにも倒木。

「解説板」。
史跡 琵琶塚古墳
 琵琶塚古墳は県内最大の前方後円墳です。古墳の形状や出土した円筒埴などから、隣接する摩利支天塚古墳に次いで、6世紀の前半に築造されたものと考えられています。
 墳丘は、自然地形の地ぶくれを利用して基壇を設け、さらに2段の土盛をすることによって構築されています。
 また、墳丘のまわりには幅およそ20mの広大な周濠が存在しており、調査の結果、東側と西側では二重にめぐらされていることがわかりました。
 琵琶塚古墳をはじめとし、思川、姿川の流域には、強大な首長が葬られていると思われる大型古墳が散在しています。この地域は、遠く大和朝廷の時代に、下毛野国を代表する首長達の活躍の舞台となったことがうかがわれます。
 
こちらが「摩利支天塚古墳」。杉林の中にあります。
       
            後円部墳頂には、摩利支天社。

二つの古墳の案内板。上が「琵琶塚古墳」、下が「摩利支天塚古墳」。

市道を進み、自転車を置いたところへ。南東側からの「琵琶塚古墳」。


2010年代のようす。
             中央が「琵琶塚古墳」。下方が「摩利支天塚古墳」。鬱蒼とした森に包まれています。


右側に新しい建物があります。資料館のようです。立ち寄ってみます。
国史跡 摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館 について
設置趣旨
 栃木県では、古墳時代の中頃から大型の前方後円墳が相次いで築造されました。これらの前方後円墳は世代を継承するように築かれていることから、下毛野(現在の栃木県の大半)の首長墓と考えられています。下毛野の首長墓ははじめ県中央部の宇都宮市周辺に築かれていましたが、摩利支天塚古墳(5世紀末から6世紀初頭)の築造を契機に、小山市北部から下野市・壬生町へ続く思川・黒川流域が首長墓の造営地となりました。
 古墳時代後の奈良時代にも当地は下野の中心地であり続け、下野国庁・下野国分寺・下野国分尼寺が置かれるなど、古代下野国の中心地となりました。
 本施設は、当地が下野国の中心地となるきっかけとなった「国史跡 摩利支天塚古墳・琵琶塚古墳」と、周辺に広がる旧河川跡を中心に、歴史的な価値を守り伝えるための拠点施設であり、古墳の実態や土地の歴史・背全を解説展示するとともに、自然との関わりをテーマとした活用の場・市民の地域づくり活動の拠点施設として計画・設置されました。
(「」HPより)

 2018年4月21日にオープンしたばかりのようです。

館内。大型の円筒埴輪などが展示されています。見事な造形品。

さて、再び「小金井駅」に戻ることにします。

 途中の農家の庭先に薄紫色の花が咲き誇っています。はて? 何という名の花?


                  



イヌサフラン」のようです。
 平成26年9月4日夜、静岡県の70代男性が、ギョウジャニンニクと間違って栽培していたイヌサフランを他の野菜と混ぜ自宅で煮物にして食べたところ、5日未明から吐き気や胃痛などの症状を訴え入院し、9日に死亡した、との記事がネットにのっていました。

イヌサフランとは
 イヌサフランは、ユリ科イヌサフラン属の球根植物で、園芸植物として広く植えられています。
球根は径3から5センチメートルの卵形で、9月から10月に花茎を15センチメートルほど伸ばし、翌春に20から30センチメートルほどの葉を根生します。
 イヌサフランの有毒物質は、球根や種子に含まれるコルヒチン(colchicine)です。鎮痛薬として使用されますが、嘔吐・下痢などの副作用を示し、重症の場合は死亡することもあります。

間違えやすい植物
ニンニクやタマネギ、ジャガイモとの誤食は、球根が出回る秋に起こります。
 葉は開花後に出るため、春にギョウジャニンニクやギボウシ、山菜などとの誤食が起こります。


 のどかな農家の庭先を眺めながら、1時半過ぎ、「小金井駅」前の観光案内所(レンタサイクル)まで戻りました。
 資料館なども充実していて、半日でも足りないほど。

 今度は桜の季節に訪問したいと思います。
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「天平の丘公園」。その7。歌碑、琵琶塚古墳・・・(「日光例幣使街道」番外編。)

2018-10-17 18:33:11 | 日光例幣使街道
                      山の神塚「額田王歌碑」。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る            


 「レストハウスしもつけ」で昼食休憩後(「手打ちそば」が美味です)、少し東に向かい、歌碑を見つけにいきます。 
       
 
 紫草塚「柿本人麿歌碑」。
         東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

大海人皇子歌碑」。
                  紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我れ恋ひめやも

 この他にも、「桜広場(桜樹)」には額田王の「熟田津に 舟乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」があるようです。

 熟田津で船に乗ろうと月の出を待っていると、潮の流れも船出にふさわしくなった、さあ、今こそ漕ぎ出そう。

この歌は少し解説を。
 左注には憶良の『類聚歌林』からの引用があり、斉明天皇七年(661)正月、伊予国熟田津の石湯行宮(いはゆのかりみや)に泊った時の斉明天皇御製としています。
 この歌が詠まれたのは、白村江の戦いと呼ばれる戦いの時期。朝鮮半島へ出兵する途次、四国から九州へ向かって船出する際の作。

白村江の戦(はくすきのえのたたかい)→白村江(はくそんこう)の戦

《百科事典マイペディアの解説》
 663年,日本が唐に敗れた海戦。白村江(〈はくすきのえ〉とも)は朝鮮南西部の錦江(きんこう)河口付近の古名。かねてから百済(くだら)と争っていた新羅(しらぎ)は,高句麗(こうくり)と戦っていた唐と結び660年,ついに百済の都を占領,王らを捕虜としたので,百済の遺臣は日本に救援を求めた。大和朝廷は朝鮮南部の日本の権益を守るため,これに応じて大軍を派遣,斉明天皇・中大兄皇子らも北九州に本営を置いて指揮したが,天皇は病死。水軍は663年8月27・28両日の海戦で唐の水軍に挟撃されて大打撃を受けたので,朝鮮からすべての兵を引き揚げ,内政に専心することになった。
(出典 株式会社平凡社百科事典)

 朝鮮南西部の錦江河口付近で663年,日本軍と百済復興軍とが唐・新羅の連合軍と交じえた戦い。白村江(〈はくすきのえ〉ともよむ)は錦江の古名。戦争は2日にわたって行われたが,河口の岸上に陣を張った百済軍は文武王のひきいる新羅軍に打ち破られ,日本軍は海上で蘇定方のひきいる唐軍に敗北した。このため,周留城にたてこもっていた豊璋のひきいる百済復興軍も崩壊した。・・・
(出典 世界大百科事典)

 再び公園に戻ってきます。途中には、
「加良久利(カラクリ)水車小屋」。中は見られません。

「防人街道」を南に向かいます。

防人街道について
 防人とは、古代、唐・新羅などの備えとして、九州北辺に配備された兵士のことで、下野国など東国から多くの兵士が、その任についていました。防人街道は「下野国分尼寺跡」から「紫式部の墓」までの細道で、万葉集の中に下野の防人が詠んだ「松の木の並みたるを見れば家人のわれを見送ると立たりしもころ」の情景にところから、名付けられました。

 但し、この道の両側は杉林になっています。もともと、派遣地の九州での松並木を見ての望郷の歌です。
 

 「防人桜」との命名板。

 「周辺散策マップ」を見ると、南に「琵琶塚古墳」とあります。前回の街道歩きで西側から遠目で眺めただけ。そこで、間近に見ようと、向かいます。これも、レンタサイクルならではのこと。
東側から見た「琵琶塚古墳」。

塚上に上がれそうなので上ってみます。


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「天平の丘公園」。その6。古民家カフェ「夜明け前」、「国分尼寺」・・・(「日光例幣使街道」番外編。)

2018-10-16 21:44:07 | 日光例幣使街道
                         古民家カフェ「夜明け前」。


 北西に向かって下って行くと、広場が。この建物は、そこにあります。駐車場もあって、けっこう人が立ち寄っています。


               奥の座敷や縁側で休憩ができます。

暖簾には「天平」と。

                     
 「夜明け前」がリノベーションし、古民家カフェとしてH30年4月7日にオープン! とのこと。

その左隣にあるのが「10 picnic tables」。

              

「10 picnic tables(テンピクニックテーブルス)」は和を感じる創作イタリアンのお惣菜をはじめ、コーヒーやスイーツが揃う新感覚デリカカフェ。
​ ​公園でピクニック気分が楽しめ、選べる四季折々の美味しいお料理&お弁当。
​ ご家族と。お友達と。お1人でも。
気軽に美味しく、楽しい、下野市のNEWスポット ​天平の丘公園の10 picnic tables。
(「」HPより)

そこで飲み物を購入、ジャズが流れる庭先で小休止。

「盛岡石割桜」。
平成8年、盛岡裁判所庭に咲く天然記念物シロひかんで石割桜と呼ばれている桜の子孫をここに移植した、とのこと。

 この公園は、一帯にさまざまな桜が植えられ、春になると大勢の見物客で賑わうそうです。
 さて、レンタサイクルで移動。次は、「下野国分尼寺」跡です。


                             
~下野国分寺・国分尼寺~ 
 国分寺は奈良時代の天平13(741)年、聖武天皇が国の平和と繁栄を願い、国ごとに造営を命じた寺院です。
 下野国分寺跡は大正10年3月3日に国の史跡に指定され、現在は伽藍の基壇(建物の基礎)跡が地膨れとなって平地林の中にひっそり眠っています。・・・
 下野国分尼寺は昭和39~43年度にかけて栃木県教育委員会と町教育委員会により4次にわたる発掘調査が実施され、伽藍配置が明らかになりました。昭和40年に僧寺同様国指定史跡となり、昭和45年度までに国・県の補助を受けて史跡整備が実施されました。・・・

 「国分尼寺」は別名「法華滅罪之寺」と呼ばれています。

下野国分尼寺跡(国指定史跡)
下野国分尼寺跡は、下野国分寺跡の東方約600mのところにあり、国分寺と同じく聖武天皇の詔によって建てられた国立の寺院です。
伽藍(寺の建物)配置も、国分寺と同様に東大寺式ですが、塔はつくられませんでした。
昭和39年度から43年度にかけての発掘調査の結果、建物の規模は、金堂が間口7間(21m)×奥行き4間(12.1m)で、凝灰岩の礎石をもつ瓦葺きの建物であることがわかりました。
また、講堂の北側には尼たちが日常生活を営む尼房という建物も見つかっています。さらに、平成5年度から10年度にかけて、寺院の範囲を確認するための発掘調査が実施され、その結果、全体の規模は南北約270m、東西約145mで、その東側に南北約211m、東西約52mの張り出し部分があることがわかりました。
現在、下野国分尼寺跡は、主要伽藍の基壇と礎石が復元表示され、史跡公園として人々の憩いの場として活用されています。

(この項、「」HPより)

        

「中門跡」。

                「金堂跡」。

西(「国分寺」跡方向)を望む。

 ところで、
       
          JR東日本「大人の休日倶楽部」のポスター。吉永小百合さんの後ろのすばらしい桜は、「国分尼寺跡」の桜とのことです(地元の情報)。

 敷地内には、この他にも大きな桜の古木が見られます。薄墨桜、シダレザクラ・・・。 
「鐘楼跡」。
           吉永小百合さんの背後に咲く満開の桜は、この桜のようですが・・・。

      広々とした空間。
         ここにどれほどの素晴らしい堂塔がそびえていたか。天平の古を空想させます。
「僧坊跡」。

「鐘楼跡」。

                   「経蔵跡」。 
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「天平の丘公園」。その5。「万葉歌碑」、「平成の丘」・・・(「日光例幣使街道」番外編。)

2018-10-15 21:30:51 | 日光例幣使街道
    「明日香川」に架かる「子宝橋」を渡って広場に出ます。ヒカンザクラが咲き始めています。
                

咲き満ちて なほ咲く桜 押し合へる 剛一

今瀬 剛一(いませ ごういち、1936年9月15日 - )
 茨城県出身の俳人。少年時代の1944年、父の生地である茨城県小松村(現・城里町)に疎開し、以後同地に住む。1959年より高校教諭として勤める。1961年、「夏草」入会。1971年、「沖」創刊とともに参加し能村登四郎に師事。1975年、沖賞、1979年、茨城文学賞受賞。1986年、「対岸」を創刊・主宰。2008年、句集『水戸』により第47回俳人協会賞を受賞。他の句集に『対岸』『約束』『高音』『仲間』『新船』『地力』など、俳書に『芭蕉体験・三冊子をよむ』『能村登四郎ノート』などがある。俳人協会副会長、日本現代詩歌文学館評議委員、大子町観光大使などを務める。日本文藝家協会会員 日本ペンクラブ会員。NHK俳壇講師なども務めていた。俳人の今瀬一博は息子。


「明日香川」。山上憶良の「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」にあやかって、順に「銀橋」、「金橋」、「宝橋」、「子宝橋」があります。


川のほとりには「犬養孝先生 万葉歌碑」。



                            

下野火長 物部真嶋
麻都能氣乃  奈美多流美礼波  伊波妣等乃  和例乎美於久流等  多々理之母己呂

松の木の 並みたる見れば 家人の 吾れを見送ると 立たりしもころ


(訳)松の木の並んでいるのを見ると、家の人達が私を見送って立っているようだ。

 防人として九州・太宰府に赴く途次、松並木を見る度に、見送ってくれた家人との別れの情景を思い浮かべ、故郷・下野にいる家族への思いをいっそう深くする。 

防人(さきもり)
 646年(大化2年)の大化の改新において、即位した孝徳天皇が施政方針となる改新の詔で示した制度のひとつである。
 663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された。「さきもり」の読みは、古来に岬や島などを守備した「岬守」や「島守」の存在があり、これに唐の制度であった「防人」の漢字をあてたのではないかとされている。
 大宝律令の軍防令(701年)、それを概ね引き継いだとされる養老律令(757年)において、京の警護にあたる兵を衛士とし、辺境防備を防人とするなど、律令により規定され運用された。中国同様、任期は3年で諸国の軍団から派遣され、任期は延長される事がよくあり、食料・武器は自弁であった。大宰府がその指揮に当たり、壱岐・対馬および筑紫、肥前の諸国に配備された。
 当初は遠江以東の東国から徴兵され、その間も税は免除される事はないため、農民にとっては重い負担であり、兵士の士気は低かったと考えられている。徴集された防人は、九州まで係の者が同行して連れて行かれたが、任務が終わって帰郷する際は付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかった。
 ・・・
 院政期になり北面武士・追捕使・押領使・各地の地方武士団が成立すると、質を重視する院は次第に防人の規模を縮小し、10世紀には実質的に消滅した。
 防人が東国から徴兵された時期、その規模は2000人程度を数えた。

『万葉集』には、こんな歌も残されています。

韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして
(訳)すそにすがりついて泣く子どもを置いてきてしまったなぁ。母親も(死んでしまって)いないのに。
 
林の中にある小高い丘は、
 
                             オトカ塚古墳 古墳時代後期6世紀後半に築造された帆立貝形前方後円墳。

 前方に芝生の小高い丘が見えてきます。
「平成の丘・国見山」。

 空撮では「前方後円墳」の形をしています。
 
 「解説文」によれば、この土地の西側は谷筋のため、耕作地としては適せず、植林もしにくい所だったようです。そのため、誇れる町の子孫に残さんとして古墳の形を擬した。さらに、小金井区画整理事業の残土を運んで谷を埋め、頂上を国見山と呼んだ、とのこと。
 また、筑波山より双石を移し、その石の下にはこの地より発掘した五百年前の古銭を埋めて「銭成石」と名付けたようです。

銭成石の鳴き竜
 平成2年7月20日、この塚の造成中に地下に眠っていた渡来銭、開元通宝など59種12,441枚が出土した。
 この塚の銭成石の下に古銭百枚が埋めてある。階段下の石畳にある白線の上で拍手をすると鳴き竜がする。

 確かに辺りに響くようないい音がします。頂上にある解説文では、「銭成石」とは「銭鳴石」とのことです。

「サルスベリ」。右下に「銭石」。

渡来銭及び常滑壺
 この渡来銭は、天平の丘公園整備工事中に発見されたものです。出土した渡来銭は合計12,441枚で、唐の開元通宝(初鋳621年)から明の宣徳通宝(初鋳1426年)までの59種類で、中国の北宋・南宋時代のものが約77%を占めています。埋められた年代は、宣徳通宝の初鋳年から考えて、遅くとも15世紀前半の室町時代中期と考えられます。この渡来銭が入っていた壺は、器高41cmの常滑焼(愛知県知多半島)で、中世の六古窯のひとつとして有名です。この壺の生産年代は15世紀前半から半ばと推定されます。
(「」HPより)

南を望む。

西を望む。急な谷になっています。

2010年代のようす。公園として整備されています。

1970年代のようす。公園が造成される前。

 関連する万葉歌。
君待つと 我が恋ひ居れば 我が宿の 簾動かし 秋の風吹く 額田王

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉(あきつ)島 大和の国は 舒明天皇 
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「天平の丘公園」。その4。「万葉植物園」・・・(「日光例幣使街道」番外編。)

2018-10-12 23:40:10 | 日光例幣使街道
                        「さわひよどり沢鵯(沢蘭・さわあららぎ)」。
この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に 我が見し草は 黄葉たりけり 孝謙天皇
この里は、いつも霜(しも)が降りるのでしょうか。夏の野で私が見た草《澤蘭(さはあららぎ)》は、色づいていました。

 この歌の題詞には
 「孝謙天皇と光明皇后が揃って藤原仲麻呂の家にいらっしゃった時に、色づいた澤蘭(さはあららぎ)を一株抜き取って、・・・藤原仲麻呂にお贈りになった歌」
 とあります。

(「」HPより)

「すみれ」。
春の野に すみれ採(つ)みにと 来しわれそ 野をなつかしみ 一夜(ひとよ)寝にける 山部赤人

「ささ」。
小竹(ささ)の葉は み山もさやに 乱るとも われは妹思ふ 別れ来ぬれば 柿本人麿
 柿本さんの熱い思いにはささやかすぎる笹の群れ(それもなさそう)。

「すもも」。
吾が園の 李(すもも)の花か 庭に散る はだれのいまだ 残りたるかも 大伴家持

「しきみ」。
奥山の 樒(しきみ)が花の 名の如とや、しくしく君に 恋ひわたりなむ 大原真人今城(おおはらのまひといまき)

「たで(蓼)」。
童(わらは)ども 草はな刈りそ 八穂蓼(やほだて)を 穂積(ほずみ)の朝臣(あそん)が 腋草を刈れ 平群朝臣(へぐりのあそん)

意味: 子供たちよ、草を刈るな 穂積の朝臣の(におう)脇毛を刈りなさい。

平群朝臣(へぐりのあそん)が、穂積の朝臣をからかって詠んだ歌。
(「Wikipedia」より)
 「タデ」といえば、「蓼(たで)食う虫も好き好き」ということばがあります。辛い蓼(たで)を好んで食う虫があるように、人の好みはさまざまだ、というたとえとして用いられます。
 タデは湿地に生え、草丈30㎝~80㎝程の高さになり、葉の形は披針形をしていています。茎や葉に辛味があり、古くから薬味として親しまれ、特に、タデの香りと辛味が塩焼きにした鮎独特の内臓の苦みや香りと相性がいいようです。
 刺身のつまとして用いられる赤紫のタデは、「ベニタデ(紅蓼)」という種類になります。

という具合に、興味深い歌も多くあって、楽しませてくれます。

「ていかかずら(つた)」。
岩綱(いはつな)の また変若(をち)ちかへり あをによし 奈良の都を またも見(み)むかも
 岩綱のように、また若返って、奈良の都をまた見ることができるでしょうか。

岩綱は蔦のこと。

 奈良から恭仁京(くにのみやこ)に遷都され、奈良の都が荒廃していくのを悲しんで詠んだ歌、三首のひとつ。

ツタ
 キョウチクトウ科テイカカズラ属のつる性常緑低木で、和名は「定家葛(ていかかずら)」。平安末期、式子内親王を愛した藤原定家が、死後に葛に生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説から、この名がついたとされています。(能『定家』)

「ところ(ところづら)」。
皇祖神(すめろき)の 神の宮人 冬薯蕷葛(ところづら) いや常(とこ)しくに われかへり見む
代々の天皇に仕えている宮人は野老(ところ)の蔓(つる)のように末長く見守りたいものです。

「トコロ」。
 ヤマノイモ科の蔓性 (つるせい) の多年草。原野に自生。葉は心臓形で先がとがり、互生する。雌雄異株。夏、淡緑色の小花を穂状につける。根茎にひげ根が多く、これを老人のひげにたとえて野老 (やろう) とよび、正月の飾りに用い長寿を祝う。根茎をあく抜きして食用にすることもある。

(注:写真では「ところ」がどれか定かではありません。足下の小さな草? )

「なでしこ」。
野辺見れば 撫子の花 咲きにけり わが待つ秋は 近づくらしも

「にわとこ(やまたづ)」。
君が行き 日(け)長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ 衣通王(そとほしのおほきみ)

あなたがいらっしゃってから、ずいぶんと日が過ぎてしまった。山たづのように、あなたを迎えに行きましょう、待ってなんかいられない。

 軽太子(かるのひつぎのみこ)が軽太郎女(かるのおおいらつめ)と関係を結んだので、太子は伊豫(いよ)の湯に流された。この時に、衣通王(そとほしのおほきみ:軽太郎女のこと)は恋しさに堪えかねてあとを追っていった時に詠んだ歌、とあります。

「つげ」。
君なくは、なぞ身(み)装(よそ)はむ、櫛笥(くしげ)なる、黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)も、取らむとも思はず 播磨娘子(はりまのおとめ)

あなた様がいらっしゃらないなら、どうして身を装ったりするでしょうか。櫛箱(くしはこ)の黄楊(つげ)の小櫛も手に取ろうとは思いません。

「櫛笥」は、櫛や化粧具を入れる箱のこと。

「なつめ」。
玉掃(たまばはき) 刈り来(こ)鎌麻呂(かままろ) むろの樹と 棗(なつめ)が本を かき掃(は)かむため 長意吉麻呂(ながのおきまろ)

玉掃(たまばはき)を刈(か)って来なさいよ、鎌麻呂(かままろ)よ。むろの木と、棗(なつめ)の木の下を掃除(そうじ)するために。

「玉掃」は、キク科の高野箒(こうやぼうき)のこと。
(「Wikipedia」より)

 「万葉集」に登場する草花、樹木は主に一年草や落葉樹が多く、秋から冬にかけては、開花の時期に合わせての鑑賞に適さないものもあり、また「植物園」の趣を保つための手入れも大変そう。

「ふじ」。
藤波の 咲き行く見れば 霍公鳥(ほととぎす) 鳴くべき時に 近づきにけり 田辺福麿

「ひめゆり」。
夏の野の 茂みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものぞ 坂上郎女(さかのうえのいらつめ)

(「」より)

手前が「ふたりしずか(つぎね)」、奥が「ほおのき」。
つぎねふ 山背道(やましろぢ)を 他夫(ひとづま)の 馬より行くに 己夫(おのづま)し徒歩(かち)より行けば ・・・

「つぎねふ」は「山城」にかかる枕詞。

和名は、2本の花序を、能楽「二人静」の静御前とその亡霊の舞姿にたとえたもの。

「ほおのき」
我が背子(せこ)が 捧げて持てる 厚朴(ほほがし)は あたかも似るか 青き蓋(きぬがさ) 僧(ほうし)恵行(えぎょう)

あなたさまが持っていらっしゃる厚朴は、まるで青い蓋(きぬがさ)のようですね。

注:ここでの「あなた」とは、大伴家持のこと。

「ひがんばな(いちし)」。
道の辺の 壱師(いちし)の花の いちしろく 人皆知りぬ わが恋妻は 柿本人麻呂歌集

道のほとりに咲く彼岸花が目立つように、世間に知られてしまった、我が恋妻のことを(心のうちにしまっておいたのに)。

 ということで、ゆっくりと鑑賞する時間もなく一巡しました。園内には他にも、

我がやどの い笹群竹 吹く風の 音のかそけき この夕べかも 大伴家持

家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る 有間皇子

白露と 秋萩とには 恋ひ乱れ 別くことかたき 我が心かも よみ人知らず

などがあるようです。

 なお、万葉歌の鑑賞にあたっては、「たのしい万葉集: 草花を詠んだ歌」HPを参照させていただきました。
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「天平の丘公園」。その3。「万葉植物園」・・・(「日光例幣使街道」番外編。)

2018-10-11 20:21:09 | 日光例幣使街道
                            園内にある歌碑などの解説図。半日でも回りきれないほど。

 まだまだ遊歩道に沿って草木とそれにちなむ万葉集の歌が掲げられています。
手前が「からむし」。
むしぶすま 柔(なご)やが下に 臥せれども 妹とし寝ねば 肌し寒しも 藤原麿

注:「むしぶすま(蒸し衾)」カラムシの繊維で織った夜具。
  「柔(なご)や」〈や〉は、接尾語。柔らかなこと。
京職・藤原麿(麻呂)が大伴郎女(おおとものいらつめ)に贈った歌三首のうちの一首。
 
 ふかふかとした柔らかい布団をかけて寝ているけれど、あなたがそばにいないので肌はすっかり冷たいままだ


 からむしは、イラクサ科の多年草で、苧麻(ちょま)とも言われます。繊維を青苧(あおそ)と呼んでいます。
  

 からむしを原料とする上布の生産地では、越後(越後上布・小千谷縮布)や宮古(宮古上布)、石垣(八重山上布)などがあり、昭和村は本州における唯一、上布原料の産地となっています。
からむし織
 作った糸は、昔ながらの機織り作業(地機による手織り)により、立派な反物に仕上げられます。 糸がデリケートなため高度な技術を必要とします。

 肌に付着しない夏衣として気持ちよく、一度着用すれば他の織物を着ることができなくなると言われています。
現在では、着尺、帯、小物等がからむし織で生産されています。


(この項、「」HPより)


その奥には「あかめがしわ(ひさぎ)」。
ぬばたまの夜(よ)の更(ふ)けぬれば久木生(ひさきお)ふる清き河原に千鳥しば鳴く 山部宿禰赤人

山部赤人が天皇の吉野行幸時に詠んだ歌。
「久木(ひさき)」は「楸(ひさぎ)」で、アカメガシワの古名。

「いちいがし」。
・・・あしひきのこの片山に二つ立つ櫟(いちひ)が本(もと)に梓弓(あづさゆみ)八つ手挟(たばさ)み・・・乞食者

 乞食者(ほかひひと=ほかいびと)とは、文字通りの乞食という意味ではなく、門口や路上で芸を売って食を得ていた、芸能民だったといわれています。
 万葉集にある乞食者の歌二首は、それぞれ鹿と蟹の立場に立って、それぞれ人間たちに食われることの苦しみを歌ったもの。詠うのに合わせて身振り手振りを加えて面白おかしく演じられたのではないかと想像されています。
 上の歌(長歌)は鹿のためにその嘆きを述べた歌の一部。

   愛子(いとこ) 汝兄(なせ)の君 居り居りて 物にい行くと
   韓国(からくに)の 虎といふ神を 生け捕りに 八つ捕り持ち来
   その皮を 畳に刺し 八重畳 平群(へぐり)の山に
   四月(うつき)と 五月(さつき)の間(ほと)に 薬猟 仕ふる時に
   あしひきの この片山に 二つ立つ 櫟(いちひ)が本に
   梓弓 八つ手挟(たばさ)み ひめ鏑(かぶら) 八つ手挟み
   獣(しし)待つと 吾が居る時に さ牡鹿の 来立ち嘆かく
   たちまちに 吾は死ぬべし おほきみに 吾は仕へむ
   吾が角は 御笠の栄(は)やし 吾が耳は 御墨の坩(つぼ)
   吾が目らは 真澄の鏡 吾が爪は 御弓の弓弭
   吾が毛らは 御筆の栄(は)やし 吾が皮は 御箱の皮に
   吾が肉(しし)は 御膾(みなます)栄やし 吾が肝も 御膾栄やし
   吾が屎は 御塩の栄やし 老いはてぬ 我が身一つに
   七重花咲く 八重花咲くと 申し賞(は)やさね 申し賞やさね(3885)

 右の歌一首は、鹿の為に痛を述べてよめり。

・・・
 平群の片山の二本の櫟の木の下で、弓と鏑矢を携えて鹿の来るのを待っていると、牡鹿がやってきて、嘆いていうには、私はすぐにも死んで帝にお使えしましょう、私の角は笠のかざりに、耳は墨の壺に、目は鏡に、爪は弓弭に、毛は筆に、皮は箱に、肉は膾に、肝も膾に、腸は塩辛になりましょう。老い果てた私が一つの身であっても、七重八重に花が咲くと、褒めてください、褒めてください。

 「愛子」から「八重畳」までは「平群山」を導き出す序詞(じょことば)のようなもの。内容は、捕らえられた鹿の嘆きを身振り手振りで即興劇にしたようなものでしょうか。お上によって身ぐるみ剥がれる民衆の嘆きをも譬えているようです。

イチイガシ(一位樫)
ブナ科コナラ属の常緑高木。
 本州(関東以西の太平洋側)・四国・九州・済州島・台湾・中国に分布する。神社に植栽されることが多く、特に奈良公園で多く見られる。
 大きいものは高さ30mに達する。樹皮は黒っぽい灰色、非揃いに剥がれ落ちる。葉は倒非針形から広倒非針形、先端が急に尖り、縁は半ばから先端にかけて鋭い鋸歯が並ぶ。葉はやや硬く、若いうちはその表面に細かい毛を密生、後に無毛となり深緑になる。また、裏面は一面に黄褐色の星状毛を密布する。雌雄同株で4・5月頃に開花する。
 カシ類では例外的に果実をあく抜きせずに食べることができる。また木材は、建築材、器具材として使われる。
奈良公園の「いちいがし」。(HPより)

 「うめ」。
我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも 大伴旅人

春の野に 鳴くや鴬 懐(なつ)けむと 我が家の園に 梅が花咲く 志氏大道

「万葉亭」(四阿)で小休止。

そぞろ歩きに最適な小道。

「こなら」。
下毛野 美可母の山の 小楢のす ま麗(ぐは)し児ろは 誰が笥か持たむ

下つ毛野のみかもの山の、こ楢(なら)のように美しいあの娘は、だれの笥(け)をもつのだろう。

「下毛野」=今の栃木県。「美可母(みかも)の山」=栃木県下都賀郡藤岡町の三毳山。
「笥(け)」=食器のこと。「笥(け)を持つ」というのは、妻になるということ。
    (「Wikipedia」より) 

手前が「さといも(うも)」、奥が「このてかしわ」。
蓮葉は かくこそあるもの 意吉麻呂(おきまろ)が家なるものは 芋(うも)の葉にあらし 長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)


サトイモ。(「同」より)

ハス。(「同」より)

奈良山の 児手柏(このてかしは)の 両面(ふたおも)に かにもかくにも 侫人(こびひと)の伴(とも) 消奈行文(せなのぎょうもん)

 奈良山(ならやま)の児手柏(このてかしは)の裏表のように、どっちにしてもひねくれた奴らだな。

 この歌の題詞には「侫人(こびひと)を謗(そし)る歌」とあります。侫人(こびひと)とは、心のひねくれた人のこと。
(「同」より)
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「天平の丘公園」。その2。「万葉植物園」・・・(「日光例幣使街道」番外編。)

2018-10-10 21:54:00 | 日光例幣使街道
                   「天平の風薫る 下野国分寺周辺散策イラストマップ」(下野市観光協会)



            「修学の門」。「万葉植物園」の標識。


 落ち葉が敷き詰められた道を進む。あまり訪れる人もいないのか、ちょっと手入れが行き届かぬようすですが。
 しかし、万葉集中の歌が関連のある草花や樹木に添えられていて、飽きません。
 

            あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 額田王

 「あおぎり(梧桐)」。
 梧桐(ごとう)の日本琴(やまとこと)一面 対馬(つしま)の結石山(ゆひしやま)の孫枝(ひこえ)なり 此の琴夢に娘子に化りて曰く・・・ 大伴旅人

729年のことです。
大宰府長官大伴旅人は朝廷の要職にあった藤原房前(ふささき:不比等の第二子 参議)に梧桐(ごどう)で作られた琴を贈るにあたり歌二首を添えた書状をしたためました。
 梧桐とは一般的には青桐(アオギリ科)とされていますが、文学作品では普通の桐(ゴマノハグサ科)をいうことが多いようです。
 書状は旅人が夢に見た琴の精である乙女との会話から始まります。
 『この悟桐製の日本琴(やまとこと)は対馬の結石山(ゆひしやま)の孫枝(ひこえ:根もとの脇から生えた枝) から作られたものです。
  この琴が夢で乙女になって現れ、こう言いました。
 「私は遥か遠い対島の高い峰に生え、大空の美しい光に幹をさらして育ちました。
  いつもまわりを雲や霞に取り囲まれ、山や川のもとで遊び暮らし、遠く海の風波を眺めながら、伐られるか伐られないか分からないまま立っていました。
 ただ一つ心配なことは、このまま長い歳月を経たのち寿命を終え、空しく谷底に朽ち果てることでございました。
 ところが幸いにも立派な工匠(たくみ)にめぐり合い、伐られて小さな琴になることができたのです。
 音は粗末で響きも悪うございますが、いつまでも徳の高いお方のお側に置いて戴けることを願っております。 」
 このように語った乙女は次のように詠いかけました。
「 いかにあらむ 日の時にかも 声知らむ
    人の膝の上(へ) 我が枕かも 」    巻5-810 大伴旅人
 そこで私も歌で答えました。

「言問わぬ 木にはありとも うるはしき
    君が手(た)馴れの 琴にしあるべし 」   巻5-811 同上
 すると乙女は「つつしんでご親切なお言葉をうけたまわりました。ありがたいきわみでございます。」と答えたのです。
 私はふと目が覚めて、しみじみと夢を思い、乙女の言葉に感じ入ってじっとしていることができません。
 そこで公用の使いにことづけて、その琴を御進呈申し上げる次第です。 』

(以上、「万葉集遊楽manyuraku.exblog.jp」HPより)

「あせび(馬酔木)」。
わが背子に わが恋ふらくは 奥山に 馬酔木の花の 今盛りなり

「あおつづらふじ」。
上毛野(かみつけの) 安蘇山葛(つづら) 野を広み 延ひにしものを 何か絶えせむ

どれなのか分からなかったので、「Wikipedia」から。

  「えのき」。
わが門の 榎の実もり食む 百千鳥 千鳥は来れど 君ぞ来まさぬ


けっこうたくさんの草木と関連する歌が添えられています。「かつら」。
黄葉する 時になるらし 月人の 桂の枝の 色づく見れば

 この歌にもあるように、中国の伝説では、「桂」は「月の中にある理想の木」ですが、中国で言う「桂」はモクセイ(木犀)のことであって、日本と韓国では古くからカツラと混同されているようです。

 万葉集にはこんな歌も。
目には見て 手には取らえぬ 月の内の 楓(かつら)のごとき妹を いかにせむ 湯原王

「おきなぐさ(ねっこ草)」。
芝付(しばつき)の 御宇良崎(みうらさき)なる ねつこ草 相見ずあれば 我れ恋ひめやも  

 注:「芝付の御宇良崎」=神奈川県の三浦半島とされている。

オキナグサ
 白く長い綿毛がある果実の集まった姿を老人の頭にたとえ、翁草(オキナグサ)という。 ネコ(ネッコ)グサという異称もある。
 日本では、本州、四国、九州に分布し、山地の日当たりのよい草原や河川の堤防などに生育する。アジアでは、朝鮮、中国の暖帯から温帯に分布する。
 かつて多く自生していた草地は、農業に関わる手入れにより維持されていた面があり、草刈などの維持管理がなされくなり荒廃したこと、開発が進んだこと、それに山野草としての栽培を目的とした採取により、各地で激減している。
 全草にプロトアネモニン・ラナンクリンなどを含む有毒植物。植物体から分泌される汁液に触れれば皮膚炎を引き起こすこともあり、誤食して中毒すれば腹痛・嘔吐・血便のほか痙攣・心停止(プロトアネモニンは心臓毒)に至る可能性もある。
(以上、「Wikipedia」参照)

 気のせいか、紹介されている歌は、どうも恋の歌(相聞歌)が多いようです。 

「うづき(うのはな)」。
鶯の 通ふ垣根の 卯の花の 憂きことあれや 君が来まさぬ

 ウツギの名は「空木」の意味で、茎が中空であることからの命名。花は「うつぎ」の頭文字をとって「卯(う)の花」とも呼ばれ、童謡『夏は来ぬ』で歌われるように初夏の風物詩とされてきました。また、旧暦4月を卯月と呼ぶのは「卯の花の咲く季節」の意であるとされています。


「夏は来ぬ」(作詞:佐佐木信綱、作曲:小山作之助)

1卯の花の 匂う垣根に
 時鳥 早も来鳴きて
 忍音もらす 夏は来ぬ
2さみだれの そそぐ山田に
 早乙女が 裳裾ぬらして
 玉苗植うる 夏は来ぬ
3橘の 薫るのきばの
 窓近く 蛍飛びかい
 おこたり諌むる 夏は来ぬ
4楝(おうち)ちる 川べの宿の
 門遠く 水鶏声して
 夕月すずしき 夏は来ぬ
5五月やみ 蛍飛びかい
 水鶏鳴き 卯の花咲きて
 早苗植えわたす 夏は来ぬ

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「天平の丘公園」。その1。(「日光例幣使街道」番外編。)

2018-10-09 20:04:08 | 日光例幣使街道
 「壬生通(小山~楡木)」を歩いたとき、「下野国分寺」跡以外は、通り過ごした「天平の丘公園」に行ってきました。
(9:40)JR宇都宮線「小金井」駅に到着。ここから「天平の丘公園」までは歩くとけっこうありそう。


 そこで、駅前にある「下野市観光案内所 オアシスポッポ館」でレンタサイクルをお借りします。(1日300円)
 「観光案内図」ももらって、出発です。半袖では少し肌寒い感じ。でも、かえって快適。ほぼ真西に進みます。

「国道4号線(現日光街道)」を越えると、田園が広がります。

 (10:06)「姿川」に架かる「紫橋」を越えて行くと、向こうの森が「天平の丘公園」。「伝紫式部の墓」はここの地名「紫」と関連がある、とのこと。


姿川
 栃木県の南部を流れる利根川水系思川支流の一級河川である。
 栃木県宇都宮市新里町の鞍掛山から流れ出る栗谷沢に源を発する。宇都宮市西部の宝木台地西縁を南に流れ、下都賀郡壬生町・下野市を経て小山市黒本で思川に合流する。宇都宮市新里町の源流部の標高は約200m、思川との合流地点の標高は約40mであり、この標高差約160mを約40kmかけて流れる。
 流域には大谷石の採掘で著名な大谷地区がある。
 流域に石室を持つ古墳が多く存在していることから、採掘された大谷石の運搬水路として古代より利用していたと想像されている。下流域にあったとされる下野国府の礎石も大谷で切り出されて姿川を経て運ばれたとされる。
 江戸時代に江戸の経済圏に組み込まれた北関東は一円の運搬水路が整備され、姿川でも舟運が行われた。(以上、「Wikipedia」参照) 



2010年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」)
→が「壬生通」。○が「下野国分寺跡」、右上に「国分尼寺」跡」。右下の橋が「紫橋」。中央の森一帯が「天平の丘公園」。

駐車場に自転車をとめて園内を散策。「研修・公園管理棟 秋山亭」。

 冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂み入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ぶ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし秋山我れは 額田王

 こういうぐあいに、要所、要所、20箇所ほど「万葉集の歌碑」があるようです。それを探しながら歩くのも楽しいものです(実際にはなかなかそうもいかず、そのうちのいくつか)。

 
 「防人街道」をたどり、「伝紫式部の墓」へ。



                  
紫式部の墓
 この塔は五輪の塔で鎌倉時代の様式であり、この地方の豪族が供養塔として建立したものと言われています。同じ様式の塔が数多く建立されたものと思われ、ここより約1㎞北にある国分寺(下野国分寺跡とは別)薬師堂のそばにもあります。はじめ姿川沿いにありましたが、明治初期にここに移されました。この付近は「紫」という地名であることから、源氏物語の作者である紫式部の墓と言われるようになったと思われます。 

では、本物の墓はどこにあるのでしょうか?

66 紫式部の墓はどこにあるか (『源氏物語の謎』増淵勝一 著 - 国研ウェブ文庫)よりお借ります。(HP)

 紫式部の墓は、四辻善成の『河海抄』(1362~68年ごろ初稿本成立)に、
 式部墓所ハ在雲林院。白毫院の南、小野篁ノ西也。
と書いてあります。現在地は下鴨神社の方から来ている北大路と、南北に通ずる堀川通りとが交差したところ、堀川の西、そこが紫式部の墓地とされています。ここはノーベル賞を受けた田中耕一博士が勤めておられる島津製作所の敷地の一角で、ここだけが京都市に寄贈され、公共の場所となっている所です。
 ここには、紫式部墓と、その右側手前に小野相公(篁、802~52)墓との二つが並んでいます。
 実はこの篁はあの世に行ってからは閻魔庁の第二の冥官として、閻魔大王の側近になったとされているのです。善良な行ないをした人などが早死にすると、篁は閻魔さんに申し上げて、その人を生き返らせてくれていたと言われています。
 篁がかかわったとされる寺の一つに、船岡山の西麓近くに引接寺(いんじょうじ)があって、当寺のご本尊も閻魔さんであります。しかも境内には紫式部の供養塔があります。紫式部が小野篁に関わっていることがよくわかりますね。
 紫式部は人々をたぶらかす狂言綺 語の『源氏物語』を書いたために地獄に堕ちたという“堕獄説”があります。一方に石山寺伝説のように、式部は観音菩薩だという説もあります。前者の堕獄説は『源氏物語』の熱烈なファンにとっては大変心配なタネとなり、遂には地獄に堕ちた式部を、冥官である小野篁に救ってもらおうということになったのです。
 したがって堀川通りの側にあった紫式部の墓は、中世以降、紫式部堕獄説が盛んになってから作られたものであろうと推定されます。
 それでは、紫式部のほんとうの墓はどこにあったのか? おそらく当時の風習で、式部は母方の実家の宮道(みやじ)氏の墓に入ったことでしょう。それは現在の京都市山科(やましな)の勧修寺の近隣の、宮道神社のある周辺にあっただろうと考えられます。

作成日:2015年2月6日

 園内に戻ると、木々に歌が取り付けられてあります。「やまざくら」には「匂宮」という名称、そして万葉集の歌。

 去年の春 逢へりし君に 恋ひにてし 桜の花は 迎へけらしも 若宮年魚麿(あゆまろ)

 公園内に原生していた山桜には近在の愛好家によりニックネームが付けられているようです。

この山桜にも「空蝉」と。そして、歌が。

 山峡に 咲ける桜を ただひと目 君に見せてば 何をか思はむ 大伴池主

 それぞれ、紫式部の『源氏物語』にあやかって、このほかにも

 「光源氏」、「大弐三位」、「夕霧」・・・

 それぞれの桜を探しながら、愛でるという趣向。けっこうな古木・山桜が目に付きます。

 誘われるように「万葉植物園」へ。 
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喜沢追分(JR「小山」駅)~楡木追分(東武「楡木」駅)。その6。(「例幣使街道・壬生道」をゆく。)

2018-10-02 19:48:55 | 日光例幣使街道
                            先に進みます。
小さな祠の前に大きな鉄釜? 

その先、左手奥には酒造会社の煙突らしきもの。廃業に? 

これまでの街道筋で見かけた「馬力神」が。

これもよく見かけるカエルの置物。

こちらは「馬頭観音」。

御殿のようなおうちも見かけます。


遠く正面に「「男体山」(↓)。すっかり晴れてきます。

(13:52)「七ツ石伝承館」案内。
どういう内容の「伝承」なのでしょうか? ところで、
地名の由来
 七ツ石地内にある伊邪那岐命を祀る熊野神社の伝説にちなんでおり、神社の傍らにある丸い石が7度鳴動して現出したという。また、鎌倉時代に日蓮一行7人が布教のためこの地を訪れた際に道端の7つの石に腰を掛け休憩したことから名づけられたという説も伝えられる。(「Wikipedia」より)

先に進みます。

正面に見えていた「男体山」が左手の田んぼ越しに。

(14:03)「鹿沼市」に入ります。

かなり大きな自然石の「馬力神」。

田んぼの向こうに「男体山」。

これは親子のカエル。

しばらく進むと、田んぼの中に「前方後円墳」。

                        
判官(はんがん)塚古墳」。
 判官塚古墳は、南流する黒川と思川に挟まれた台地上に位置している前方後円墳です。市内には数多くの古墳がありありますが、大正年間の耕地整理の際に、付近にあった十数基の小円墳が壊されましたが、この古墳は、それらの群集墳(判官塚古墳群)の中心墳でもあります。
 ・・・古墳時代後期のもので、7世紀前半につくられたものと思われます。
 石室は、後円部にあって南に面して開口しています。両袖型の横穴式石室は全長5.9㍍ですが、現状は羨道(入口)が土砂で埋まっていて、中へ入ることはできません。
 この古墳は、源九郎判官義経の冠を埋めたので冠塚(かぶりづか)と呼ばれ、また、判官の名前をとって判官塚古墳というなど、いくつかの伝説を秘めています。

(14:23)さらにその先に今回最後の「北赤塚一里塚」。

                                

 
「江戸から25里目(約100㎞)」。

塚の西側には「馬頭観音」などの石仏群。 


その先で、本日最後の杉並木に。
   



振り返って望む。 

(14:45)「東北自動車道」をくぐると、「楡木の追分」もいよいよ間近に。
  

左手にこの前歩いた「例幣使街道」の家並みが見えてきます。 

新しく整備された並木道に。

前方に「追分」の道路標識が。  

合流して日光へ向かう道が見えてきます。いよいよ今回のゴール。

(14:56)追分の道標。「右中山道 左江戸道」。

「例幣使街道」を望む。

 ここまでで、「壬生通(道)」歩きは完了。「倉賀野~楡木」(例幣使街道)と「小山~楡木」(壬生通・道)が合流。さらに、下今市で「江戸~日光」(日光道中)と合流して日光・神橋へ。

 これで、「日光道中」(「日本橋」~「日光」)、「日光御成街道」(「本郷」~「幸手」)、「例幣使街道」(「倉賀野」~「楡木」)「壬生通・道」(「小山」~「下今市」)と日光社参にかかわる街道歩きは完結。

 が、実は、まだ日光にまつわる街道があります。「千人同心街道」(「西八王子」~「佐野」)。次回はこの道を歩いてみようかな、と。

 15時10分発の上り電車に乗るため、「楡木駅」へ急ぎます。
(15:06)東武日光線「楡木」駅到着。ぎりぎり間に合いました! 

鹿沼・日光方向。 
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