おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「人類が永遠に続くのではないとしたら」(加藤典洋)新潮社

2015-05-31 21:05:53 | 読書無限
 人は思索することで人間としてより深く変容する。とは思うが、突き詰めれば、言語活動としてとりわけ他者に向けて発信することによって、必然的に生じるアクション、リアクションの関係でより思索が深化する、という実に当たり前のことを思う。それはまた、外界の事物・現象に向かう(対処する・思索する)自らの体内作用、そして体外への発露としての言語活動ということになるのだろう。
 人は、そういう永続的な言語活動によって、自らをより次元の高い、あるいは次元の低い立場(あくまでも過去の自らにとっての)に置くことになるのだろう。評論活動というのは、たぶんにその成長と怠惰と停滞という進行の中にあるのだろう。そういう意味では、加藤さんだけでなく、内田さんも、高橋さんも、自らの発した言語によって打ちのめされ、励まされ、降りかかってきた火の粉に敢然と立ち向かって意図的に「変容」し続けるのだろう。読者としてはまさにその面白さがかの方々の評論活動にはあることを想う。吉本だとかの人達とは一皮も二皮も剥けていく、その興味が読者を誘うのだ。
 「小説家は処女作に向かって成長する」などということを聞いたことがあった。太宰などはその典型だと、・・・。それに比べて何と自由なことよ!  西洋哲学に依拠した哲学者たちの不自由な言語活動に比べれば。 けっして皮肉ではなく。

 高橋さんにしてもその読書量は並ではない、世界へのアンテナの張り方も。加藤さんは、それ以上にすごい! 
 いずれにせよ、2011・3・11東日本大震災、とりわけ福島原発事故による衝撃を、どう自らの頭で体で評価する、大きく世界観が変わり、それまでの思索過程(評論活動への責任も含めて)を検証していく、そこ果てに新たな地平を切り開いていく、そのプロセスが赤裸々に語られていく、正直に。

 ・・・これから考えていく手がかりは、全くの「シロート」として、技術、産業、科学といった道の新しい領域に「非正規的な思考」を駆使して、抗いながら、踏み行っていくことだろう、
 ・・・私たちは、かつて革命について、戦争について考えたように、いまは技術、産業、事故について考えることで、ようやく世界で起こっていることがらとそれがさし示す未来とに、向きあうことができるという気がする。(本文あとがきP416)

 その思索の根底には、地球と世界が有限性を前にして、人類の新しい経験の核心にあるものはどのような試練か? がある。
 人間が人類であるとともに生命種でもあること、そのような人間観に立った場合、「いまある問題がどのように私たちの前に見えてくるかを見定めよ、それが私たちの最初の課題なのだ、と」(P402)
 そして、「贈与」の本質、原理を提示する。

 「日本の戦後の問題も、この有限性の生の条件のもとで、考え直さなくてはならないだろう・・・関係の修復、信頼の創造。その根源に負債の支払いと贈与の用意がある。」(P406)

 

 
 


 
 

 
 
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本宿。本宿一里塚。麦秋。・・・(名鉄「本宿」駅から「矢作橋」駅まで。その1。)

2015-05-29 21:59:52 | 旧東海道

 翌 5月20日(水)。

 早朝からすでに明るい陽ざしが。
 さて、行動開始。暑くなりそうだし、足元の具合はあまりよくない、豆ができたせいで。せっかくここまで来たのに、岡崎を制覇せずして何の目的があったのか! 
 途中でリタイアしたら身も蓋もないので、まず、岡崎宿を制覇して、その後は足の調子を見ながら歩いてみることに。

 「岡崎宿冠木門」~「岡崎二十七曲がり」~「矢作橋」~「矢作橋」駅=電車=「本宿」駅~「藤川」~「岡崎宿冠木門」、という予定。さて、その通りにいきますか、どうか?

《当日の結果》

 「岡崎セントラルホテル」(7:50発)~「冠木門」(8:15)~「矢作橋西詰」(10:00)~「矢作橋駅」(10:15)

 「矢作橋駅」(10:23発)=「本宿駅」(10:49着)

 ~「法蔵寺」(11:00)~「冠木門」(15:35)~「東岡崎駅」(16:00)

 「東岡崎駅」(16:17発)=「豊橋駅」(16:37着)  ・・・東京へ。

 
 ということで、炎天下の東海道を何とか歩きました。だましだまし歩いたので、足の豆は見るのも恐ろしいくらいに・・・。「東海道」そのものを歩いた時間は約6時間15分ほどでした(休憩時間含む)。 

 次回は、「矢作橋」西詰からということになります。

 今回の報告は、実際の行動通りではなく、「東海道」に沿って、「本宿」駅から「矢作橋」駅とします。

左手に大きなお寺が見えます。徳川家康ゆかりの「法蔵寺」。

 お寺の入口にあるのが「御草紙掛松」説明板。

 寺伝によれば徳川家康公は幼少の頃、当寺にて学問、手習いに励んだといわれる。この松は家康公手植えの松といわれ、手習いのおり草紙を掛けたことから、家康公ゆかりの「御草紙掛松」として永く人々に親しまれてきた。また「御茶屋の松」「御腰掛の松」ともよばれた。
 代々受け継がれてきたが、平成17年8月、虫害により枯れた。その後「慣れ親しんだ松を後世に伝えようと」と、地元有志「もづく会」の手により、平成18年3月、4代目の松が植樹された。
 周囲の石柵は文化12年(1815)は旗本木清左衛門俊往の寄進である。

 平成18年4月吉日     郷土史本宿研究会

「法蔵寺橋」を渡ると、間の宿・「本宿」内に入ります。

「本宿陣屋跡と代官屋敷(現富田病院)」。

 元禄11年(1698)、旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家末孫)が知行所支配のため、本宿村に陣屋を設けた。以来明治に至るまで存続した。
 陣屋代官職は冨田家が世襲し、現存の居宅は文政10年(1827)の建築である。

              郷土史本宿研究会

 少し上ったところに大きな敷地内に建物が。
    
        居宅。                             富田病院。

古い家並み。平日の昼間。ほとんど車も人も通りません。

右手にある「常夜燈」。隣の「火の見櫓」との関係が絶妙。

足元には、「本宿村道路元標」。

1919年(大正8年)の「旧道路法」で各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされ、ほとんどは市町村役場の前か市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されました。
 その後、取り壊されたり、移設されたりするものが多い中で、「東海道」を歩いていると、当時の「道路元標」がわずかながら残されていることに気づきます。
 その先の左手には「十王堂跡」の説明板。

十王堂跡

 街道に沿うこの地に十王堂(閻魔堂)があり旅行者や村人から尊信されていた。
 本尊木造地蔵菩薩坐像(鎌倉期)は昭和六十二年岡崎市文化財に指定された。(非公開)

          郷土史本宿研究会

そこから振り返る。

その右手には「本宿一里塚」。
                
                       江戸・日本橋から78里目。

 そのまま進んで行くと、左側に古い建物が見えます。「宇都野龍碩邸跡と長屋門」。

    

宇都野龍碩邸跡と長屋門

 本宿村医家宇都野氏は古部村(現岡崎市古部町)の出といわれ宝暦年間(1751-63)三代立碩が当地において開業したのが始まりといわれている。
 七代龍碩はシーボルト門人青木周弼に、医学を学んだ蘭方医として知られている。
 安政年間、当時としては画期的ともいわれる植疱瘡(種痘)を施している。

          郷土史本宿研究会          


「本宿」の西の出口にある、大きな案内板。 

是より東 本宿村 赤坂宿へ壱里九丁

 本宿は往古より、街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺門前町を中心に町並が形成された。
 鎌倉街道は東海道の南、法蔵寺裏山辺りを通り鉢地から宮路山中へと続いていた。
 近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する間の宿としての役割を果たしたといえる。
 享和2年(1802)の本宿村方明細書上帳によれば、家数百二十一軒、村内往還道十九丁余、立場茶屋二か所(法蔵寺前、長沢村境四ツ谷)があり、旅人の休息の場として繁盛をきわめた。
 東海道中膝栗毛に「ここは麻のあみ袋、早縄などあきなふれば北八、みほとけの誓いとみえて宝蔵寺、なみあみ袋はここの名物」とある。本宿は古くから麻縄(召縄)、農家の副業として麻細工が盛んであった。また、家康公が食したといわれる当地独特の法蔵寺団子があり、その他、草鞋、ひさごなどが土地の名物として売られ、街道筋の評判となった。
 往還南に大宝元年(701)僧行基開設と伝えられる古刹法蔵寺がある。歴代の松平氏をはじめ、家康公幼少の頃のゆかりの寺として近代を通して下馬の寺であり、往来する諸大名をはじめ、旅人の参詣があとを絶たなかったという。
 その他、旗本柴田氏本宿陣屋、尾張藩七里役所、高札場、一里塚、常夜灯などが設置されていた。
 慶応4年(1868)に柴田勝誠が新政府に提出した高取調帳には、村高536石余、(柴田知行所457石余、法蔵寺領79石余)と報告している。明治7年(1874)の額田郡誌には135戸、550人と記されている。
 この辺りは、山綱村との村境であり、往古の駅家はこの付近といわれている。南の山裾平五沢では荻野流、高島流の砲術家でもある代官富田牧太庸秋が砲術稽古を実施した所である。また、シーボルトの「江戸参府紀行」に、この辺りの山中から法蔵寺裏山にかけて植物採集をしたと記述されている。
 この辺りから上衣文村を経て宮崎村に至るおよそ三里程の山家在道があり、山地との交流に欠かせない道であった。

 1994年 9月  国道一号本宿地区東海道ルネッサンス事業委員会  郷土史本宿研究会

当時の街道絵図。但し、東西が反対方向(右が西)。

 ほんの少し残された松並木が終わると、「国道1号線」と合流します。
              
                               「(日本橋から)316㎞」ポスト。名古屋まで51㎞。

 途中から国道を右側に横断して行きます。名鉄の線路と国道との間に大きな敷地が広がり、警察車両が。そのそばを歩いているうちに撤収。交通量の調査でもしているのかと思ったら、積載オーバーのトラックの取締りのようでした。

右手には麦畑が広がります。手前の線路は、名鉄線。これから収穫期。まさに「麦秋」。

 「麦秋(ばくしゅう)」とは、麦の穂が実り、収穫期を迎えた初夏の頃の季節のことです。麦が熟し、収穫の「秋」であることから、名づけられました。「夏」の季語。時々、「秋」の季節と間違う人もいます。



 そのまま、線路脇の細い道に入ります。
    
 「東海道」の表示。                              振り返る。

のどかな道筋ですが、陽ざしが強い。(実は、11時45分頃。)

 名電山中駅を右に見て、進むと、現代の旅人の便宜を図って、小休止できる広場が左にあります。ここにも解説板があります。


是より西、藤川宿へ 是より東、赤坂宿へ

【東海道】
 慶長6年(1601)、徳川家康は、東海道の各宿に伝馬朱印状と伝馬定書を発給し、江戸と京都・大阪を結ぶ東西交通路の確保を図りました。
 慶長8年(1603)家康が征夷大将軍に任じられると江戸に幕府を開き、江戸を政治・軍事の中心に位置づけ、江戸日本橋を起点に一里塚を築き、幕府の直轄交通路として整備しました。古代・中世の駅馬・伝馬制度にならい、公用の人や物資は無料、公用以外は有料で次の宿駅まで継ぎ送る宿駅伝馬制度を定め、全国的な交通制度に統一しました。
 東海道には五十三の宿駅が設けられ、道巾は約三間半(6.3メートル)で一里塚や並木が整備されました。

【舞木町の由来】
 舞木の地名は、山中八幡神宮記の一部に、「文武天皇(697~707)の頃、雲の中より神樹の一片が、神霊をのせて舞い降りる」と書いてあるところから、「木が舞い降りる」をとって「舞木」とつけたといわれます。また舞木村は、昔は山中郷に属していましたが、慶安元年(1648)に幕府の三河代官が同じ山中郷で隣村である市場村の一部六十八戸を藤川宿に移転させたため、昔の市場村の一部と舞木村が合併して、現在の舞木町になったと言われています。

 平成15年3月



【山中城址】
 起伏を利用した室町時代の典型的な山城で、眼下に東海道と額田郡南部に至る吉良道、現在の蒲郡市方面に至る西郡道などの街道をおさえる交通の要衝に位置していました。山頂(標高204メートル)と山腹一帯を東西400メートル、南北200メートルの規模で主郭・二の郭を中心として帯状の曲輪が囲む三河地方最大規模の連郭式山城でした。
 岡崎松平氏の三代信貞の城でしたが、大永4年(1524)に安祥松平氏の済清の命により大久保忠茂らによって攻略され、以後家康の祖父の済清のものとなりました。
 平成15年3月



【山中八幡宮】
デンデンガッサリ
 市指定無形民族文化財。室町時代に始まる五穀豊穣を祈る古式床しい素朴な御田植神事で正月三日に行われ、歌詞のはじめに「デェンデンガッサリヤー」という詩があるので、こう呼ばれるようになりました。祭りの内容は、田をあらわす太鼓を中心に「前歌」「後歌」「せりふ」「所作」の四部に分かれています。

鳩が窟(はとがぐつ)
 永禄6年(1563)の三河一揆の戦いで、家康が敗れて逃げ隠れた洞窟といわれています。洞窟の中から白鳩が二羽飛び立ったので、追手の兵は「人のいるところに鳩などいるわけはない」といって通り過ぎ、家康は難を逃れたといいます。

オオクスノキ
 樹齢650年と推定され、根回り14メートル、主幹が二股の御神木で均整のとれた広い樹冠は屈指の樹姿です。市指定天然記念物。

 平成15年3月   

 これらの解説文を読みながら、小休止です。
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尾﨑屋。大橋屋。長沢一里塚。・・・(JR二川駅から名鉄本宿駅まで。その6。)

2015-05-27 22:19:11 | 旧東海道


 右に行くと、名鉄の「名電赤坂駅」。その交差点にちょっとした広場があります。祭などの伝統行事の解説板も。
しばらく休憩。

しゃれた地名「赤坂紅里」。

 かつて御油宿と赤坂宿の客引き合戦は熾烈だったとか。このあたりもそういう曰く・因縁のある、あだっぽいところであったのでしょうか? 小学生がサッカーに行くのか、大勢、自転車で信号を渡って行きます。

交差点の右手にある「尾﨑屋」。

 古い店構え。軒下の看板には「曲物・民芸品製造卸問屋」と書かれてあります。今では珍しい「曲げ物屋」さんです。

 「曲げ物」は、「ワッパ」ともいいます。ヒノキ、スギなどの薄い板を円形や楕円形に曲げて,合せ目をたがを使わずにヤマザクラやシラカバの皮で綴り、底を取付けた容器。製品としては、弁当を入れる輪っぱ、ひしゃく、せいろう、飯櫃、ふるいなどがあります。
 「大館の曲げわっぱ」が伝統工芸品として全国に知れ渡っています。

         


・・・
 なかなか売れない曲げわっぱを東京や大阪などへの販路拡大を目指すなかで新商品開発が盛んになり、曲げわっぱにウレタン樹脂塗装を施すようになりました。需要が伸びるにつれてあらゆる商品にウレタン塗装をするようになって秋田杉の効能が活かされなくなりました。
 秋田杉が本来持っている吸湿性、芳香、殺菌効果によってご飯の味を生かすということよりは、汚れず扱いやすくスポンジと中性洗剤で洗えるような曲げわっぱになっていきました。
 私自身もそのようなことに迷いを感じなかった頃、こどもの運動会に持参した、周りが羨むほど華やかな自慢の曲げわっぱに詰めたお弁当をいざ口に入れたらウレタン塗装の臭いで食べられませんでした。
 自分で作っておきながらこの日この時までその臭いに気付かなかったのです。
 そこで改めて本来の白木の大切さを痛感し、ご飯を入れる器は「白木」でなければならないと肝に銘じました。
 白木の曲げわっぱはご飯の水分を程よく吸収し、冷めても美味しく、天然秋田杉の香りが食欲をそそり杉の殺菌効果でご飯が傷みにくくご飯を詰めてから常温で一昼夜も痛まず持つほどです。
 まずこのことを大切にし、素材と仕上げは曲げわっぱを使用する場面によって適材適所を常に考えながら、日々制作しております。

                                                        柴田慶信

(以上、HPより。)

 続いて左手に「大橋屋」。

    

旅籠 大橋屋  豊川市指定建造物

 本陣・脇本陣以外の武士や庶民などの宿泊施設を旅籠屋(はたごや)という。
 享保18年(1733)の赤坂宿は、町裏を合わせて家数四百軒のうち、八十三軒が旅籠屋であった。
 大橋屋は、旧屋号を鯉屋といい、正徳6年(1716)の建築といわれる。赤坂宿の旅籠屋の中では、大旅籠に属し、間口九間、奥行二十三間ほどであった。入り口の見世間・階段・二階の部屋は往時の様子を留める。

     豊川市教育委員会

 この解説板に載っている広重の絵。

                「隷書東海道53次 赤坂」。

          同じく、「人物東海道53次 赤坂」。

(以上、HPより)

その先の右手には、「高札場跡」。

                          左手には御休み処「よらまいかん」。

右手には「赤阪陣屋跡(三河県役所跡)」。

赤坂陣屋跡(三河県役所跡)

 陣屋(じんや)とは代官所ともいい、年貢の徴収や訴訟などを取り扱ったところであった。 赤坂陣屋は、三河の天領支配の中心であり、当初この奥の大薮地内に設けられたが、元禄2年(1689)神木屋敷(現赤坂保育園附近)に移された。
 幕末に三河県役所と改められた。手狭になったため明治2年(1869)再び大薮地内へ新築移転された。
 廃藩置県後、明治5年に廃止となった。

      豊川市教育委員会

しばらく進むと右手に「見附跡」。ここが「赤坂宿」の西の出入口。

「十王堂跡」。

しばらく行くと、左手に「常夜燈」。

 「八王子」地区で「東名高速」から分岐した「三河湾オレンジロード」を横切ります。 

 しばらくして「長沢一里塚」に到着です。右手の草むらにぽつんと立てられていました。
                  江戸・日本橋から77里目。

 と、ここを撮ったら携帯の電池切れ。これから先はどうする? 最寄り駅は? 「本宿」駅まであと1時間ほど。しかたがないのでこのまま進みます。(このあとは、うろ覚えです)
 
 少し行くと右手に説明板「長沢城跡」。 周囲は宅地化されて、堀の一部をわずかに残すのみだそうです。

 ちょうど田植えの時期。爽やかな緑が一面に。

 右に「常夜燈」を見て・・・。

 目の前の橋を渡り、左側に。

 道なりに進んで「関屋」で国道1号線と合流します。あとは道なりに。

 いよいよ岡崎市に入り、間宿の「本宿」となります。道路脇にはモニュメント広場風。大きい説明板があります。「これより西 本宿村 藤川宿へ壱里」。

 「本宿」は、赤坂宿と藤川宿の中間に位置する間の宿としての役割を果たしていたようです。

 「冠木門」をくぐって行くという趣向。「国道1号線」の右手には名鉄線。その向こうは「東名高速」。

 しばらく進んだ交差点が「新箱根入口」。

 道は分岐点に差し掛かり、「東海道」という道標の示す左の道に進みます。

 道なりに進むとすぐに左手に大きなお寺が現れます。 ここが家康さんゆかりのお寺、「法蔵寺」です。

 ここからは天下人・徳川家康さんに敬意を表して、明日、しっかりと写真を撮ることにします。ということで、旧「東海道」の家並みを横目に、名鉄「本宿」駅まで歩きます。国道1号線を越えると、駅前。

 こうして今日の行動は終了。名鉄「本宿」駅から「東岡崎」駅まで。汗はかくし、足元は何だか豆が出来たようで痛いし、さっさとホテルに入って疲れを癒やそう、と。 膝にはほとんど疲れはないのですが・・・。

 明日は、足元の調子と相談して、どうするか? 今日。朝は雨、昼前から薄日で、午後は暑い陽ざしの下での久々の長距離でした。しかし、アップダウンがないし、すてきな松並木もあったし、なかなかの道のりでした。

 明日は快晴の予想、とても暑くなりそうです。

 JR二川駅から出発して、「吉田」、「御油」、「赤坂」と宿場をクリアしたことに。明日は、再び「本宿」から「藤川」、そして「岡崎」です。

 宿泊先の「岡崎セントラルホテル」は、南口を出てすぐの所にありました。駅前で食事をとも思いましたが、まずはチェックインを。シャワーを浴びて缶ビールを飲んで、さて、外出するか。
 
 結局、駅のコンコースで買ってきた値引きのお寿司を食べて、バタン! でした。

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御油の松並木。赤坂宿。芭蕉句碑。・・・(JR二川駅から名鉄本宿駅まで。その5。)

2015-05-26 23:59:57 | 旧東海道

 さて、いよいよ「御油の松並木」。国の天然記念物にしていされるだけあって、なかなか見事です。それにしても他のところでは「松食い虫」の被害や道路拡幅などで失われてしまったケースも多い、東海道の「松並木」。よく保護、保存、手入れがなされています。
    

御油宿と御油の松並木

 御油宿は、慶長6年(1601)徳川家康によって、東海道に宿場制が定められ、東海道五十三次の第35番目の宿場として繁栄しました。
 ここから東の、かつて上五井、中上町、仲町、横町、茶屋町と呼ばれたこの通り沿いには、今でも宿場町の面影を残す旧家がみられます。
 また、この御油宿と隣の赤坂宿との間には、慶長9年(1604)に整備された御油の松並木があります。昭和19年に国の天然記念物に指定され、「日本の名松百選」にも選ばれています。 
                                                    豊川市教育委員会

古木や若木など混ざる並木道。

途中にあった「弥次喜多茶屋」。

    
 切り株の跡には大きく育った松。おそらく松食い虫被害の流行時には大変だったでしょう。地元の方々の環境維持に努める熱意と姿を強く感じる道筋です。

     松並木の終わりから振り返る。

松並木を過ぎると、右手に「赤坂宿」の「見附跡」。

見附跡
 見附(みつけ)とは、宿場の入口に石垣などを積み、出入りする者を見張ったところである。
 赤坂宿見附は、東西に設けられ、東は東海道を挟んだこの辺りの両側にあり、西は八幡社入口附近の片側にあった。
 「赤坂旧事記」によれば、寛政8年(1796)代官辻甚太郎のとき、東側の見附を関川神社の前に移築したとされている。
 明治7年(1874)に、取り壊された。

                    豊川市教育委員会

 さすが東海道の宿場では最短距離に位置していた「御油」と「赤坂」です。


 東海道五十三次之内 赤阪 旅舎招婦ノ図

 宿屋の庭の上方から中を描いた風俗画としても興味深い図である。中庭にはソテツがあり、部屋では女性が鏡台に向かっている。その奥には布団が積まれている。縁側に立つ風呂上がりの客、按摩、膳を運ぶ女性など、当時の旅籠の賑わいと風俗がわかる絵である。
(「知足美術館」HPより)

    
 大正期の赤阪(「同」HPより)                      現在のようす(「本陣」の奥)

昔ながらの道筋。

  左側に「関川神社」。芭蕉の句碑があります。

    
            「夏の月 御油より出でて 赤阪や   芭蕉」

 夏の月が出ている短さといったら、なんと御油から赤阪の間を過ぎるほどの時間に過ぎないことよ。
 御油宿と赤坂宿との距離感と夏の夜の短さがうまく表現されています。近い分だけ、両宿とも客の取り合いが盛んな遊興の町であったようで、そうしたひとときの華やかな雰囲気をも暗示するようです。

年季の入ったお酒の看板。

    

赤坂宿問屋場(伝馬所)跡

 間口六間(10.9㍍)、奥行三十間(56.4㍍)
 瓦葺きの事務所は、慶長5年、徳川幕府の命令によって設けられた。
 人馬の継立て、即ち、伝馬事務を取り扱い、問屋取締・年寄・帳付・馬差・飛脚役などの役人を置き、人足三十人程、馬数十頭をつないで、即時の用に供した。

        豊川市教育委員会 

右手に「赤坂宿」の説明板(広場)。奥には「高札場」。

「赤坂宿町並みの図」。

 どこの宿場に行っても、道筋や詳細な屋号・職業等が記載されている絵図を見かけます。また、かつての屋号を玄関先に掲げる宿場町もけっこう多い。
 百年以上も前のようすがそのまま残っている。保存に熱心、変化に乏しい、一方では、古くからの因習が根強い、プラス面・マイナス面・・・。

左手には、「本陣跡」。
    

本陣跡

 本陣は、参勤交代の大名・幕府の役人・公家などが休泊するところで一般の旅籠屋とは違い、門・玄関・式台・上段の間などを備える事が許されていた。
 赤坂宿の本陣は、宝永8年(1711)の町並図によると、4軒あった。そのうち松平彦十郎家は、江戸時代初期から本陣を務め、人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていた。
 宝永8年の間取り図によると、間口十七間半、奥行き二十八間、座敷通り四二二畳で門・玄関付きの立派なものであった。

   豊川市教育委員会


    高い塀で囲まれて中は開放されていませんでしたので、携帯を高く掲げてパチリ! 何もありませんでした。
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御油一里塚。御油宿。ベルツ花夫人。・・・(JR二川駅から名鉄本宿駅まで。その4。)

2015-05-25 21:01:06 | 旧東海道

 喧噪の国道から離れて、いよいよ次の宿場、御油に向かいます。しばらく進むと、右手に「常夜燈」。


秋葉山常夜燈

 形式は神前型、高さ二〇五糎、造立は寛政12庚申(1800)為村中安全
秋葉山
 秋葉山三尺坊大権現はその昔し、越後国蔵山(蔵王権現)より白狐に乗って遠江の秋葉山に飛来した といわれ、火防の霊験あらたかと信ぜられ、江戸時代朝廷、大名、庶民に至るまで、幅広い信仰をあつめられ、国府村民等も村内を火難より守るため秋葉山常夜燈を造りました。

 平成18年   役員一同

来た道を振り返る。

薬師堂。

店舗も混じった住宅街。

 左手に古民家が現れます。「八平次記念館 八の蔵」。


 建物の所にポスター。「クニ三上 JAZZピアノトリオ」のライブステージ。


 他にもいろいろなアーチストが生演奏を行う会場のようです。古民家でのライブは、なかなかのもののはず。


 「大社神社」を右手に見てしばらく進むと、「御油一里塚」。

    
                江戸・日本橋から76里目。

 しばらく行くと、広い通りと交差します。その右手に大きな「常夜燈」。ここは、「姫街道」との追分になっています。


「御油の追分」との表示。

    

こちらの道を進みます。

「御油橋」を渡ると、「御油宿」に。


     東海道五十三次之内 御油 旅人留女

 御油は次の宿場である赤阪と、東海道中で最も宿場間の距離が近く、およそ1.7kmしか離れていなかった。そのため宿屋の客引が非常に強引であった。旅人は次の赤阪宿が本命らしい。軒を並べた家々は個々の存在を誇示せず、連続させて眺めるとき、その町の顔が現われる。宿屋の店先の壁には東海道五十三次の出版元、絵師、彫師、摺師、題名が書かれている。他にも何枚かあるが、いわゆる宣伝である。

 (「知足美術館」HPより)

    
   大正期の御油(「同」より)。                      現在のようす。

         
宿内に入ると、新旧様々な建物が並びますが、道幅も曲がり具合もほとんど変化がない、かつてのままのようすが感じられます。

「高札場跡」。

高札場跡

 高札とは、江戸時代に幕府や領主の法令・禁令などを墨守した施設で、城下町や宿場など人目につきやすい場所に設置されました。御油宿の高札場はこの場所にありました。

       豊川市教育委員会

 この角にはもう一つ説明板があります。
                                    「ベルツ花夫人ゆかりの地」。 

 ただ、ほとんどペンキが剥げ落ちてようやく標題が読み取れるだけでした。そこで、こんな風になる前のものを。
HPより)

ベルツ花夫人ゆかりの地

 ベルツ花夫人は、東京の神田で1864年に荒井熊吉とそでとの間に生まれ、江戸・明治・昭和の時代を生きた、御油とはゆかりの深い女性です。
 明治新政府がドイツから招いた日本近代医学の祖と言われるベルツ博士と結婚し、日本とドイツで暮らしました。
 1905年に任期を終えたベルツ博士とドイツに渡りましたが、博士が亡くなったため1922年に日本に帰国し、1937年74歳で亡くなりました。父親の熊吉の生家が御油宿で、戸田屋という旅籠を営んでいたのがこの場所です。

 どうもきれいにまとまっている感じがします。そこで、「Wikipedia」より。

 父の熊吉は御油宿の宿屋「戸田屋」の子孫だが、没落して一家離散し、江戸の荒井家に養子に入り、小売商を営んだ。花子は1880年からベルツと同居を始めるが、正式な入籍は渡独の前年。教育はないが、利発で美しかったという。ベルツ没後も10年ほど滞独したが、ドイツ国籍が認められず、日本へ帰国したまま没した。
 晩年はベルツの友人だったユリウス・スクリバ家の日本人嫁が介護した。

 ついでにベルツについても。
 彼の日記や手紙を編集した『ベルツの日記』には、当時の西洋人から見た明治時代初期の日本の様子が詳細にわたって描写されている。そのうち来日当初に書かれた家族宛の手紙のなかで、明治時代初期の日本が西洋文明を取り入れる様子を次のように述べている。

 日本国民は、10年にもならぬ前まで封建制度や教会、僧院、同業組合などの組織をもつわれわれの中世騎士時代の文化状態にあったのが、一気にわれわれヨーロッパの文化発展に要した500年あまりの期間を飛び越えて、19世紀の全ての成果を即座に、自分のものにしようとしている(「横領しようとしている」の異訳あり)。

 このように明治政府の西洋文明輸入政策を高く評価しその成果を認めつつ、また、明治日本の文明史的な特異性を指摘したうえで、他のお雇い外国人に対して次のような忠告をしている。

 このような大跳躍の場合、多くの物事は逆手にとられ、西洋の思想はなおさらのこと、その生活様式を誤解して受け入れ、とんでもない間違いが起こりやすいものだ。このような当然のことに辟易してはならない。ところが、古いものから新しいものへと移りわたる道を日本人に教えるために招聘された者たちまで、このことに無理解である。一部のものは日本の全てをこき下ろし、また別のものは、日本の取り入れる全てを賞賛する。われわれ外国人教師がやるべきことは、日本人に対し助力するだけでなく、助言することなのだ。

 彼の批判は日本の知識人たちにも及ぶ。

 不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。「いや、なにもかもすべて野蛮でした」、「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです」という日本人さえいる。このような現象は急激な変化に対する反動から来ることはわかるが、大変不快なものである。日本人たちがこのように自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない。なにより、今の日本に必要なのはまず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと慎重に適応させることなのだ。

 無条件に西洋の文化を受け入れようとする日本人に対する手厳しい批判が述べられている。また、日本固有の伝統文化の再評価をおこなうべきことを主張している。西洋科学の手法を押し付けるのではなく、あまりに性急にそのすべてを取り入れようとする日本人の姿勢を批判し、助言をおこなっている。

 日本人は西欧の学問の成り立ちと本質について大いに誤解しているように思える。日本人は学問を、年間に一定量の仕事をこなし、簡単によそへ運んで稼動させることのできる機械の様に考えている。しかし、それはまちがいである。ヨーロッパの学問世界は機械ではなく、ひとつの有機体でありあらゆる有機体と同じく、花を咲かせるためには一定の気候、一定の風土を必要とするのだ。
 日本人は彼ら(お雇い外国人)を学問の果実の切り売り人として扱ったが、彼らは学問の樹を育てる庭師としての使命感に燃えていたのだ。・・・つまり、根本にある精神を究めるかわりに最新の成果さえ受け取れば十分と考えたわけである。

 このような批判は日本を嫌ってなされたものではない。当時の日本の医学生たちの勤勉さや優秀さを伝える発言もなされている。また、教員生活は大変満足できるものであった、とも述べている。しかし、彼はあえて日本人の学問に対する姿勢に対する批判をおこなった。すなわち、本来、自然を究めて世界の謎を解く、というひとつの目標に向かって営まれるはずの科学が、日本では科学のもたらす成果や実質的利益にその主眼が置かれているのではないか、と。そしてそのことを理解することが、日本の学問の将来には必ず必要なことである、と彼は述べている。

 また、このような言葉も残している。

 もし日本人が現在アメリカの新聞を読んでいて、しかもあちらの全てを真似ようというのであれば、その時は、日本よさようならである。

 彼は西洋文明輸入に際しての日本人の姿勢を批判し続けていた。これは当時の廃仏毀釈の嵐吹き荒れる日本への危機感でもあり、同様の考えを持ち親友でもあるハインリッヒ・フォン・シーボルトと同様に多くの美術品・工芸品を購入し保存に努めている。主治医も務めたほど関係があったシーボルトからは晩年そのコレクションの管理を託されるほどの信頼関係があり(シーボルトの急死によりその願いは果たされずコレクションは散逸)、公私に渡っての親友であった。また、文化の面にしても同様で前述のシーボルトの誘いで歌舞伎の鑑賞に出掛け、またフェンシングの達人でも合った同氏と共に当時随一の剣豪であった直心影流剣術の榊原鍵吉に弟子入りもしている。

 なるほど、さすがベルツさん、現在の日本の状況までも達観しているかのような、実に「先見の明」のあった人物です。

そこから宿内を振り返る。

そこを右に折れます。右手に広重の絵。

 そこには、

 御油宿は 戸数316 本陣4 脇本陣0 旅籠62 人口1298 町並みは9町32間

 とあります。

そのそばには、「問屋場跡」。

問屋場跡

 問屋場には、馬や人足が常備され、旅行者や荷物などを、次の宿場に継ぎ送る業務が行われていました。御油宿の問屋場はこの場所にありました。

       豊川市教育委員会

 その先の角を左に曲がります。鈎の手です。ここからが宿場の中心部。
    

道の左手に「御油宿」「本陣跡」の説明板。

御油宿

 御油宿は、江戸時代に徳川家康によって整備された江戸から京都さ三条大橋を結ぶ東海道の35番目の宿場です。次の赤坂宿とは御油のマツ並木(国指定天然記念物)を挟んで、わずか16町(1.7㎞)と東海道の宿駅間では最も短い距離です。当初、一宿分の役割を旗果たしていた時期もあったようです。
 天保14(1843)年頃の御油宿の家数は316軒で、本陣が2軒(元は4軒あったが、うち2軒は天保4年の火事で焼失)、脇本陣はなく、旅籠屋は62軒でした。
 この場所は、本陣鈴木半左衛門家跡地です。
 本陣とは参勤交代の諸大名をはじめ、宮家・公家・幕府役人などが宿泊する施設であり、、原則として門・玄関及び上段の間を備えるなど、庶民が利用する旅籠屋とは異なっていました。

       豊川市教育委員会  

宿内の詳細図。 

    
 なまこ壁のある大きな蔵造り。                    格子のある家々。 

 これから「御油の松並木」にさしかかりますが、その手前の右手に、「御関札立掛場」説明板。
「寛文元年十一月二十一日 松平丹波守宿」。

御関札立掛場

 御関札とは、諸藩の大名が参勤交代や何らかの用事で出向く際、宿泊先(御休息)となる宿場の本陣や問屋(町役人)に事前に申し伝え、宿泊当日の三日前迄に本陣、町役人は宿場の出入口に縦三尺半(約1㍍)横一尺半(約45㌢)の板に宿泊年月日・藩主名・出向く先を記入し、長さ三間半(約6㍍)の太い竹竿に取り付け立掛けられた看板を言いますう。
 御関札は、大名の権威を誇示するばかりではなく、本陣前を往来する人々に無礼のないよう通行するように注意を促す目的を持って立掛けられた看板と云われています。

 同じような看板(レプリカ)を「川崎宿」などでも見かけたことがあります。       
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下地一里塚。伊奈村立場跡。伊奈一里塚。・・・(JR二川駅から名鉄本宿駅まで。その3。)

2015-05-23 21:17:12 | 旧東海道

 豊橋を渡ったら、川沿いの道を左に進みます。右手に道標。
「右 御油道」。

 今度は、左手の土手沿いにあった記念碑。
           
              「豊川」の洪水を防ぐための先人の労苦の跡。

 しばらく進むと、右手に「下地一里塚跡」。江戸・日本橋から74里目に当たります。
 
    

 右にカーブすると、道幅が狭くなります。昔のままの道幅のようです。古い家並みが続きます。

    

 古い町並みを抜けて「横須賀町」も過ぎ、遅くなりましたが、そろそろ昼飯をと思っても、何もない。

          ???

目の前にぽつんと一本松。久々の松。

「東海道名残の一本松」。古くはないが、手書きが気に入りました。

 その脇に「晩酌屋」と「中華料理」と「うどん屋」が三軒並んで。。そこで、うどん屋さんに入りました。


 こうして後半の歩きに。
 しばらく進むと左手に「豊橋市魚市場」。右手には関連した店が並んでいます。中でも「代々の板前の丼屋 中はら」さん。インパクトのある看板。
ここにすればよかったかなと思っても、後の祭り。

「おさかなセンター」。

 ここを過ぎて「豊川市」に入ると、とたんに道も狭くなり、歩道もなくなります。
                        大型の貨物トラックや軽トラなどが激しく行き交う道を進むことに。

「高橋」を渡って行きます。
 道の両側には田園風景が広がりますが、・・・    
  スピードを上げた車が双方から来るので、のんびりと立ち止まって写真を撮れません。何しろ対向車線を大きくオーバーして避けてもらうのですから。

 坂を下った右手にある古い石碑と説明板。
    

子だが橋
 子断が橋ともいわれ、明治時代には「小田橋」と書いてあった。
 およそ一千年前菟足(うたり)神社には、人身御供があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする慣習があったと伝えられている。
 ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を、若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た。見ればわが子である。
 「ああ、いかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。
 それからこの橋を、子だが橋と呼ぶようになったということである。
 現在、菟足神社では、十二羽の雀を贄に替えて行われている。

                 豊川市教育委員会

 広い「国道247号線」を渡ると、芦のそよぐ沼地に出ます。    

「そらちゃん たかくん」。トンボを育てるプロジェクトのようです。

「才ノ木」交差点を過ぎ、旧道らしい道筋を行きます。

JR飯田線の踏切を渡ります。奥に見えるのが「小坂井」駅。

    

しばらく先の右手にある「秋葉神社の常夜燈」。

古民家カフェ「もくせいの花」。

 80年前の古民家を再生した、らしい。「こだわりの」シフォンケーキと「こだわりの」豆腐を素材にしたメニュー、だそうです。
 お店から出てきたおばあさん、ほら、シフォンケーキを売っているのよ、おししいわよ、と大きなケーキを見せてくれました。

 しばらく進むと、「伊奈村立場茶屋 加藤家跡(俗称 茶屋本陣跡)」。
                 

一、茶屋の由来
  東海道吉田宿と御油宿の中間にあたり、立場茶屋が設けられたので、茶屋の地名ができた。
二、加藤家と良香散
  茶屋のうちで格式の高い加藤家(初代は大林平右衛門)では「良香散」という腹薬が売られ、この薬は茶屋の地名よりも有名であった。交通の変遷によって今はこの古井戸(南西30M)一つを残すのみとなった。
三、明治天皇御旧跡
  東京遷都の時、明治天皇は、この加藤家で御休憩になられた。その時天皇が使用された箸が、牧野真一宅に保存されている。
四、俳人烏巣(うそう)
  烏巣は、加藤家の生まれで、謙斎といい芭蕉と親交があり、京都で医者をつとめていた。
五、芭蕉句碑
  「かくさぬぞ 宿は菜汁に 唐が羅し」
六、烏巣句碑
  「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」 

    

 注:芭蕉の句= 日頃の菜汁に唐辛子だけの粗末な食膳を、客の前でも隠そうともしない。この家の主は、けっして気取らぬ人物だ。」
 季語は、唐辛子で「秋」。「菜汁」は干菜のみそ汁。ここに登場する「宿(の主)」とは「烏巣」らしい。
「猫の耳」所収。この句集は、吉田宿でも同道していた「越人」が監修したものらしい。

 しばらく行った先の右手には「伊奈一里塚跡」。
    
                        江戸・日本橋から75里目。お隣の建物は太鼓屋さん。

 「国道1号線」から一本南に入った道ですが、車もほとんど通らず、落ち着いた町並みが続きます。
    

「佐奈橋」。向こうに見える通りが「国道1号線」。 

こんな演出も。松が一本もない単調な道筋にしゃれた配慮。 

 小さな橋を越えて行くと周囲は倉庫や工場の地域に。埃っぽい道になります。
           

 しばらく進むと、迂回の表示が出てきます。左に折れて、次を右に。跨線橋の下をくぐって右に。


振り返る。右の線路は名鉄線。

右へ。

「国道1号線」に合流します。「名古屋62㎞ 安城32㎞ 岡崎22㎞」。

いつしか「(日本橋から)305㎞」ポストまで来ました。

左手遠くに「豊川用水」の表示が。

 愛知県東三河地方は、昔から幾度となく旱魃に悩まされてきた。特に東三河地方の南、渥美半島では、半島の為、大きな川が無く、日照りが続くとすぐに旱害が発生した。
 何とかこの地域に東三河を流れる豊川の水を引こうと考えたのが、現在の田原市出身の近藤寿市郎だった。近藤寿市郎は、視察に訪れたインドネシアでの農業水利事業をヒントに、豊川上流の鳳来町(現・新城市)にダムを建設し、貯めた水を東三河地方に導水するという発想を抱き、実現させようと、地元の人々に構想を説き、自らも国らに精力的に働きかけた。
 第二次世界大戦などで、紆余曲折があったが、終戦から4年目の昭和24年、宇連ダムを皮切りに国営事業として豊川用水の建設工事が始まった。昭和33年、農業用水だけでなく、水道用水や工業用水の開発が追加され、昭和36年に愛知用水公団に引き継がれることとなり、昭和43年、ついに全通した。

(以上、「Wikipedia」参照)

 しばらく「国道1号線」に沿って進み、「国府町藪下」交差点で左に入ります。
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吉田宿本陣跡。えびくずし。西惣門。芭蕉句碑。豊橋。・・・(JR二川駅から名鉄本宿駅まで。その2。)

2015-05-22 23:23:47 | 旧東海道

 路面電車が行き交う大通り。「札木」。その角にあったのが「吉田宿問屋場跡」碑。

    

吉田宿問屋場跡

 宿駅には、必ず道中奉行所支配の問屋場が設けられ、ここで人馬継立ての業務が行われた。
 吉田宿の問屋場は、札木町のこの地に置かれ、人足百人、馬百疋が貨客のために用意され、問屋を筆頭に、年寄、帳付などの問屋場役人によって支配された。


通りを渡った先にある鰻屋「丸よ」。その店先に本陣跡の碑。

    

説明板。

 ここは江戸時代、清須屋東隣に江戸屋の二軒の本陣がありました。本陣とは各宿駅に置かれ、街道を往来する大名・幕府役人・宮家・公卿など身分の高かった人達が宿泊したところです。享和2年(1802年)の書上によると、東海道吉田宿には、本陣二軒・脇本陣一軒・旅篭六十五軒があり、ここ札木町あたりは宿の中心部として最もにぎわったところでした。

 店先にはもう一つの興味深い説明書き。

「べっぴん語源発祥の店 丸よ」。

 明治初期に田原藩家老渡辺崋山の息子、渡辺小華の発案により「すこぶる別品」の看板を売り出した所、大好評を得、その言葉が全国に広がってゆき極上品はすべて「べっぴん」と呼ぶようになって、そのあとの明治中期には美しい女性(美人)にも使われるようになりました。
 丸よはその伝統の「べっぴん」の鰻を今も焼き続けております。 

 へえ~! 初めて知りました。
 「べっぴん」は現在は漢字で書くと「別嬪」で、美人や美女を意味していますが、かつては「別品」と書き、「特別によい品」を指していました。ただし、上のようないきさつがあったかどうかは定かではありません。

 通りの向かい側には石碑が。近づくと「吉田宿脇本陣跡」碑でした。
     

「えびくずし みそ煮込みうどん」の看板。さて「えびくずし」とは?

 以下は、「株式会社 テンソーのブログ」さんのblogより引用(無断で、すいません)。
 この会社は、愛知県を中心に東海地方を業務エリアとし、『店舗 設計・施工』、『一般住宅・デザイナーズハウス』、『アパートマンションなどの賃貸住宅再生事業』を主に、業務を行っている会社のようです。

2012年05月24日(木)



えびくずし…って知ってますか?
プロレスの技ではありません。
今日は朝から豊川の花ごよみさんで改装の打ち合わせ。
そのあと、アフターで3年前に竣工しました、豊橋市小池町のしのじま屋さんへ向かいました。
作業が終了すると、もうお昼でしたので、しのじま屋さんで食事をとることに。
で、注文したのがこの「海老くずしきしめん」
しのじま屋名物!です。自家製のきしめんはつるつるで喉越しがよく、そして上に乗っている海老天、のり天、玉子焼きやほうれん草、かまぼこ、ネギ、甘く煮たしいたけなど、とてもカラフル。ちらし寿司をイメージして作られているそうです。甘めのつゆとの相性もいいんです。さっぱり清涼感のあるエビくずしは、しのじま屋、夏の代表メニューです。
なかなかお寄りできる機会がなく、1年ぶりに大将と女将さんにお会い出来ました。
美味しかったです。ごちそうさまでした。(いろんな意味で…)
                 

 これも初めて知りました。「篠嶋屋さん」の名物だとか。昼飯には早かったので、残念! さっきの「丸よ」さんの「鰻」ほどは高くないでしょうから・・・。今度、我が家で試してみよう!

 その先にあるお店が「きく宗」。「菜飯田楽」で名高いお店です。  HPより



 創業文政年間、江戸時代より約200年に渡りここ吉田宿(現 愛知県豊橋市)にて"菜めし田楽"ひと筋、昔と変らぬ味を守りつづけてまいりました。
 こんがりと焼いた自家製豆腐に秘伝の味噌をぬった田楽と、細かくきざんだ大根の葉を混ぜ合わせた"菜めし"とともに存分にご賞味ください。
 吉田の宿は東海道の34番目の宿場です。
 吉田は街道筋でもなかなかのにぎわいを見せていた宿場で東海道きっての遊郭や旅籠が軒を連ね「吉田通れば 2階から招く しかも鹿子の振袖で」と歌われた程で夜ともなれば紅灯の下に旅の無聊をもてあました客たちの群れが絶えることがなかったといわれています。

 旧東海道に面し街道を上り下りする旅人たちに支えられ今日に至ってまいりました。

田楽の由来

 その昔、豊作を祈って田の神に奉納した田楽舞のその姿が豆腐を串に刺し、味噌をつけた料理によく似ているため、いつか田楽と名づけられるようになったと云われます。
アツアツの身上からお客様の注文を受けてから丹精をこめて焼き上げます。
 また、素材選びからこだわり、昔ながらの素朴で自然味溢れる味をご満足いただける様、つとめてまいりました。
 豆腐は自家製で国産大豆のみ(100%)使用(遺伝子組み替えの大豆は一切使用しておりません。ご安心してお召し上がり下さい)。

宿内を振り返る。

 交差点の向かい側にある公園が「松葉公園」。その角には、「吉田宿」の石碑。ここで、小休止したいところですが、ベンチはまだ濡れたまま。先に進みます。

         
       「東海道 吉田宿 江戸まで73里 京まで52里」。

交差点を右に曲がります。

 広い通りを渡ると、右手に「西惣門」の復元模型。

    

    

西惣門

 吉田宿西惣門は、江戸時代東海道筋の坂下町と上伝馬の間にありました。
 惣門の左側に番所があり、十二畳の上番所、八畳の下番所、四坪の勝手があり、さらに駒寄の空き地十七坪がありました。

 この門は、湖西市の本興寺の惣門を参考にしてつくられたもので、その惣門は吉田城大手門を移築1674年に移築した、とのこと。

「東海道」の標識に従って左折します。

 右手の「湊町公園」のところに芭蕉の句碑があります。

「松尾芭蕉吉田宿の宿の旅籠の記」。

 貞享4年(1687年)11月11日、芭蕉と越人が渥美郡保美にの杜国を訪れ途次この地の旅籠屋で一夜を明かしました。

            
  寒けれど二人旅寝のたのもしき              ごを焼いて手拭あふ(ぶ)る寒さかな 

 左の句。「笈の小文」の中の一句です。

 「神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、
   旅人と我名よばれん初しぐれ
   又山茶花を宿ゝにして・・・」という書き出しの旅日記。但し、芭蕉の死後、弟子がまとめたもの。

 右の句。「吉田の内、下地(しもじ)にて」と前書きがあります(この句碑には、「下地町 聖眼寺」)。但し、「笈の小文」中にはありません。

 「ご」は松の枯れ落葉のこと。かき集めて焚物にする。三河地方の方言とも。
 「下地」は、豊橋市内の下地町。
 季語は「寒さ」で冬。

 注:「ごを焼いて」とあります。この部分、「ごをたいて」と読ませ、多くの鑑賞文が「ごを焚いて」と表記しています。「たき火」の「たき」と同じです。但し、もともとの芭蕉の表記は「焼(い)て」のようです。「焼」の現在での一般的な読みは「やく」「やける」「くべる」で、「たく」という読みはなさそうです。現在では「ごをやい(き)て」と読んでもあながち間違いとはいえませんが、「落ち葉」は「焼く」ものでなくて、あくまでも「たく」ものです。 

 上記の「聖眼寺」に芭蕉の句碑があるそうです。

「湊町公園」。

 その先を右折すると、ようやく「豊橋」のたもとに。右手には「吉田宿船会所」の看板。

                       

「船町と高札場」。

船町

 その昔、このあたりは四ツ屋(四ッ屋)と称され、数軒の家屋がまばらにある河原同然の土地であったようです。この地に最初に村を築いたのは、浅井与次右衛門(浅井長政の重臣)とその一門80名ほどの人々と言われています。その後、天正18年(1590)に吉田城主池田照(輝)政より定住を許され、庄屋役を命じられ、以後船町と改めて町の開発を行ったようです。
 近世初頭に開かれた吉田湊は、豊川船運の終点として、また伊勢や江戸への航路の起点として栄え、当時、三河における最大の湊でした。船町はこの湊での船役を命じられ、地子(賦課した地代)免除の特典が与えられるなど吉田24町の中で独自の立場であったようです。

高札場

 寛永13年(1636)幕府の命により、橋のたもと( 当時の吉田大橋はここより70㍍程下流に高札場が設けられました。この高札場には、河川の取締り、橋の保護など極めて重要な取り決めが、板に書かれて掲げられていました。

                豊橋市教育委員会

    
     「とよはし」。                           川の名称は「とよがわ」。


   東海道五十三次之内 吉田 豊川橋 / 歌川 広重
 今の豊橋である吉田は城下町で、手前に修理のために足場を組んでいる城がある。左官の職人が泥鏝で壁を塗り直している様子が描かれている。川は豊川といい、長さ120間ある豊川橋がかかっている。二艘の船が浮かぶ。対岸の甍が整然とした町の様子を表わしている。上半分を空にして、水面をさらに広く表現して、爽やかな絵である。
 (「知足美術館」HPより)
「豊川」。川の中ではシジミ採りが盛んに行われています。

「シジミは体にいいよ」通りがかりのおじいさん。

    
  「大正期のようす」                               現在のようす
 (「知足美術館」HPより)。                     (但し、撮影場所は橋の反対側)。


豊橋(とよばし)

 徳川氏の武将の酒井忠次が、1570年(元亀元年)、関屋口から下地にかけて吉田川(豊川)に吉田大橋(土橋)を架ける土木工事を実施した。
 その後、池田輝政が、船町を整備し、前城主・酒井忠次が吉田川に架けた土橋の吉田大橋を木橋に架け替え、その位置も整備した下流の船町に移動させた。
 江戸時代には、江戸幕府が整備、管理する長さ120間の大橋であった。
 この船町の吉田大橋(吉田橋)は、明治時代に架け替えた時、とよばし(豊橋:濁音)と名称を変更した。さらに、昭和に入ってから国道1号を整備した際、その上流(関屋口から下地)に新たに掛けられた橋を、以前の船町で呼称していた吉田大橋(よしだおおはし)と、再び名付けた。
 この国道整備により、かつての東海道は愛知県道496号白鳥豊橋線として県道になり、正式にはもともと架かっていた県道の大橋(西側の橋)の名を豊橋(とよばし)とするようになった

 (以上「Wikipedia」参照)

 なお、かつての「豊橋」の親柱が橋の左岸に保存されているようです。

 (HPより)
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飯村一里塚。吉田宿東惣門。曲尺手。・・・(JR二川駅から名鉄本宿駅まで。その1。)

2015-05-21 23:10:35 | 旧東海道

 いよいよ日帰りでは時間的に無理になってきました。今回から「1泊2日」コースにしました。この場合、事前に宿の予約が必要です。今までは天気を見ながら予定を立てていましたが、そうもできない。台風も近づいているし、さてどうしたものか? また、前日の予約だと空きがあるかどうか? あれこれ心配していても仕方がありませんので、とりあえずホテルの予約を。

 日程的には、5月19日(火)~20日(水)。「吉田宿」から「岡崎宿」まで。
 そこで、前日になってあれこれインターネットで予約を。できたら「豊橋」付近がベストですが、なかなか空きがない(高いホテルは敬遠)。ちょっと場所はそれますが、「豊川稲荷」付近も寸前で予約が入り、ダメ。諦めてしまいそうになりました  が、何とか、ということで、悪戦苦闘、あれこれ検索した結果、「東岡崎」駅付近のビジネスホテルにたまたま空きあり。何だか先に行き過ぎるような気もしましたが、そこに決定。

 予定としては「JR二川~名電赤坂」が初日。そこから名電で「東岡崎」まで出て宿泊。翌日は「名電赤坂」まで戻って、そこから再び岡崎を目指す、という何だか時間も運賃もけっこうロスの多い計画となりました。
 さて、実際はどうなったか? そんな報告です。


 朝から雨模様。初めての雨の中。今も昔もいい天気ばかりの旅ではないのは、当たり前。ということで、JR二川駅前を出発です。

道標。右東海道 伊良胡阿志両神社道。
 
 渥美半島の田原市にある阿志神社、先端の伊良湖岬の近くにある伊良湖(胡)神社への道。直線距離にして約40㎞。二川は、「渥美半島」の付け根にあることが分かります。

 けっこう雨脚が強い。「火打坂」の信号で県道3号線を渡ります。左手にあるのが「豊橋市視聴覚教育センター 地下資源館」。プラネタリウムがあるようです。

     
                                       入口までのアプローチにある石像群。   

 緩やかな坂道を上っていきます。振り返る。

けっこう長い上りの坂道です。 

 左手に園芸専門店「ガーデンガーデン」を見ながら進み、最初の信号を左に曲がります。「岩屋緑地」と書かれた木の柱を左手に見て進みます。



 その先で左側に松の若木が植えられています。松並木の復元事業のようです。

    

    
                       「旧東海道クロマツ跡」。

    

 江戸時代、東海道の両側には松が植えられ、夏の強い陽ざし、冬の行きや寒風から旅人を守ってきました。
 この地区には、昭和40(1965)年代に100本を越える松が残っていましたが、松食い虫や道路拡幅などにより、減少し、ここにあった最後の松も松食い虫の被害に遭い、平成19年2月28日に伐採されました。
 年輪から。江戸末期の安政年間(1854~60)頃植えられたことがわかります。



 郵便局の所で、左手から来る、国道1号線から分岐した少し広い道と合流します。そこだけ、道路が拡幅されているので、その先の所の拡幅計画があるのでしょう。区画整理計画が持ち上がっているようで、反対運動のポスターなどがあります。

「飯村町(いむれちょう)二軒茶屋ちびっこひろば」。

 この付近の地名は「茶屋」、国道1号線をはさんで西側には「元茶屋」という地名も。
 
    
                              沿道の家並み(新旧様々)。

 しばらく道なりに進み、「殿田橋」を渡って国道1号線と合流します。そこにあるのが、「飯村(いむれ)一里塚」。

    
                                   「江戸日本橋から73里」。

来た道を振り返る。(正面の道)

 ここからはしばらく「国道1号線」を進みます。ほぼ北西に向かっています。思ったよりも少なめの交通量。沿道には昔ながらの家並みが見られます。雨もやっと上がり、そんなに降られずに助かりました。

     

          「(日本橋から)295㎞」ポスト。「瓦町通1丁目」。

 30分ほど歩くと、ようやく豊橋の繁華街に近づいてきます。「東八町交差点」。

歩道橋上から。路面電車の走る町です。 

右側の角には大きな「常夜燈」。

南西に通じる道路。

歩道橋を下りると「東惣門」の復元模型と説明板があります。

交差点の筋向かいにある「常夜燈」。 

     

東惣門

 東惣門は鍛冶町の東側に位置する下モ町の吉田城惣堀西で東海道にまたがって南向きに建てられていました。
 門の傍らには十二畳の上番所、八畳の下番所、勝手があり門外の西側の駒寄せ場十一間がありました。
 惣門は朝六つ(午前六時)から夜四つ(午後10時)まで開けられており、これ以外の時間は一般の通行は禁止されていました。   

    豊橋市 2002年3月 

 「東惣門」を右手にして少し進み、次の道を右に入ります。

中央分離帯にある「東海道」の標識が目印。

振り返って広い通りを望む。

次の交差点を左に。行く方向を望む。

突き当たりを右に。そこから振り返る。

しばらくまっすぐな道をそのまま進みます。来た道を振り返る。

「曲尺手(かねんて)町」。

 広い通りにぶつかると、左手の中央の緑道のところに「吉田宿」と刻まれた石碑があります。

    
                       「吉田宿」「江戸 74里」。

右手の生け垣には「曲尺手門跡」の石碑。

 宿内に入っても再びジグザクの道になります。通りを渡って最初の交差点を左に。角が「うどん 嶋田屋」さん。


 広い通りにぶつかるので、そこを右に曲がります。通りの向こうにある「東海道」の標識が目印。中心部へ。


吉田宿

 慶長6年(1601年)東海道が設定された当初からの宿場であった。江戸の日本橋より西方73里(約287km)に位置し、東の二川宿とは1里20町(約6.1km)、西の御油宿とは2里20町(約10.5km)離れており、町並は23町30間(約2.6km)の長さがあった。
 徳川将軍家の老中・大坂城代・京都所司代格の大名の吉田藩の所領であり、吉田城城下町と湊町(吉田湊、船町)を合わせた宿場町であった。
 表町12町と裏町12町の計24町で宿を構成されており、本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅籠は65軒あった(1802年)。戸数は約1,000軒で人口は5,000から7,000人ほどであった。
 本陣のあった札木町(豊橋市札木町)は吉田城大手門のそばにあり、また人馬継立の問屋場もあった(現在のNTT西日本三河支店のあたり)ため、中心として賑わった(最寄りの交通機関は豊橋鉄道東田本線札木停留場)。
 街道は東から吉田城東惣門の南を通過、吉田城の総堀に沿って続き、吉田城西惣門西側を北上し、征夷大将軍の直轄の天下橋である吉田大橋(現在の豊橋(とよばし))で豊川を渡り、下地(しもじ、当時は宝飯郡)とつながっていた。軍事上の観点から曲がり角が多く作られ、曲尺手町(豊橋市曲尺手町)として名前にも残っている。
 吉田城内にあった牛頭天王祠(吉田神社)で開かれる天王祭(6/15)の前夜(6/14)において放花炮(はなび)と呼ばれた立物花火が行われた、立物花火は、現在は行われていない。幸田町、新城市、小坂井町で立物花火が行われているだけである。また飯盛女が非常に多かったことでも知られ、「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖が」などのうたが広く知られている。

(以上、「Wikipedia」参照)
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党利党略。それならばとことん。

2015-05-18 22:45:12 | 世間世界
維新混迷、官邸誤算=野党再編が加速―「大阪都構想」反対多数(時事通信) - goo ニュース

 橋下手法の限界でもあった今回の結果。策におぼれた結果でもあるか。 不利だと直感が働くや、連休中に信濃町に泣き言を言いに言ったとか、真偽は定かではないが、そのあげく、公明党支持層は反対に回った。彼らが賛成に回れば、大幅に賛成多数だったはず。ことによると、学会内部での権力抗争が背景にあるのでは? 
 今回は、橋下・維新を追い落とすことによって、自公連立を維持し、今後も創価学会・公明党が政局のイニシアティブをとる立場を譲らない、という「固い」決意なのだろう。「衆議院選」で彼らを巧みに利用できたので(出馬を翻させ、公明党全員当選)、あとは、ポイ! 仏敵・橋下の鼻を明かした(常勝・関西創価学会への誹謗中傷は絶対に許さない、との固い決意で)。またしても結果、オーライ!
 次の記事がそれを象徴。   

 公明党の中堅議員は「グッバイ橋下氏だ。官邸は利用価値がなくなったと判断するのではないか」と冷ややかだ。

  公明党の山口那津男代表は同日の参院議員総会のあいさつで、「(住民投票の)結果は厳粛に冷静に受け止めないといけない。66.83%という高い投票率での市民の判断だから、尊重しないといけない」と述べた。

 結局、今後も学会本部(あるいは関西の)指示に従う(尊重する)ことを言ったに他ならない。「厳粛に」「冷静に」という表現にかなりの含みがありそうだ(対 自民党・アベ、あるいは内部向け? )。
 
・・・

 「維新の会」が野党再編の草刈り場になる、とか。またまた捕らぬ狸の皮算用をしている「民主党」・・・。

 何となく橋下さんが気の毒になってきた。もちろん、彼自身の、身から出た錆ではあるけれども。

 政治は、党利党略の世界でしかない。それにしても、組織の思惑に翻弄される大阪市民はもっと気の毒です。

 どうせそういう世界ならば、橋下さん、来夏の参議院選挙に出馬して、「維新」がそれなりの議席を確保して、改憲派(目の上のたんこぶ・現「憲法9条」を葬り去りたい)と、憲法9条を堅持するという護憲派との相違が明確になることで、公明党がどう出るか(所詮、アベの言いなりになるのはミエミエだろうが)を見たい、という気持ちも出てきた。

 それにしても、「記者会見」での橋下さんの弁。現在の政治状況に関してきわめて的を射た発言だ。
 政界に登場したときから一貫している姿勢で、とことん民意(市民)&現状の民主主義社会を愚弄しているのかもしれない。そして、ワンフレーズ・イエスかノーでしか選挙民に迫まらない日本の政治状況&選挙を痛烈に皮肉った。
 それを唯一の政治手法とした、その張本人が足元をすくわれたことへの自己批判はありうるはずもないが。

 敵を作る政治家はワンポイントリリーフで、要らなくなれば交代。求められた時に求められ、要らなくなったら使い捨てにされる。これは、一番健全な民主主義だと思います。

 早くに「回顧録」でも執筆し、とことん「醜い」政治の世界を暴き出してほしいものです。その前に消されてしまうかもしれないが。それとも、アベが手放さないことになるか。暴露されたらたまらないだろうから。 
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小石川後楽園。(「じじばばがゆく」シリーズ。そして、お茶でも。その4。)

2015-05-17 16:56:59 | じじばばがゆく

 トイレに行こうよ、トイレ。

 秋頃がいいよね、あのあたりは。 

 実に奥が深い庭園ではある。「寝覚めの滝」。

 内庭池水が滝となって木曽川に落ちるところで、木曽路の名所「寝覚の床」にちなんで呼ばれている。園内は、遊び心(風流心)が満載だ。

「延段(のべだん)」。

 大小の自然石と切石を巧みに組み合わせた中国風の素朴な石畳、とのこと。

「木曽山」。

 もとは古木が空をおおって昼なお暗く、渓流に沿った様子が木曽路を偲ばせる。またシュロが多くあったことから棕櫚山ともいう。

    
                             「白雲台跡」。
 昼なお暗き木曽の山麓を過ぎて渓流を渡りここに登ると、僅かに白雲の行き交うのが見えたという高台。遠くは妙義・榛名の山々、近くは赤城・築土の社を望むことができた。



    
                                      「文京区シビックホール」。

「龍田川」。

「駐歩泉」の碑。

 九代斉昭が、西行堂側の流れを西行の和歌「道のべに しみづながるる 柳かげ しばしとてこそ たちどまりつれ」にちなみ「駐歩泉」と命名し、自ら筆をとり碑を建てたものである。

「西行堂跡」。

 藩祖頼房の時代に、御鞍打師「小野荘兵衛」作の木像を安置したことから西行堂と名づけられた。ここにある西行の歌碑は、九代斉昭の「駐歩泉」の碑にちなみ同夫人が建てたものである。なおこの堂は戦災により焼失した。

 かくして、約1時間半の周遊は終わり。




 お茶でもしますか、飯田橋の方まで行けばあるんじゃないか。

・・・

 またお会いする日を楽しみに、連絡下さい。

 そうそう、今度は品川あたりでいかが。
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小石川後楽園。(「じじばばがゆく」シリーズ。泊まりがけか。その3。)

2015-05-16 12:59:41 | じじばばがゆく

 大泉水の東側を回るようにして進む。

 「稲田」。

 光圀が農民の苦労を彼の嗣子・綱條の夫人に教えようと作った田圃。現在は文京区内の小学生が5月に田植え、9月に稲刈りを行い、伝統行事を継いでいる。

                          「松原」。

 往時は松うっそうとして空もみえざりしと伝えられる。光圀殿も珍重せる所にて将軍来園の際にも「これ天下の威光をもっても能はず」と観賞せられたる由なり。

                              「異形灯篭」。

   「蓬莱島」。

船着場跡。

    
 「瘞鷂(えいよう)碑」。

 七代治紀は将軍家から賜った鷹を大切にしていた。鷹は治紀が没した4年後に亡くなったため、八代斉脩がこれを哀しみ碑を建てたものである。

注:「瘞」=「埋める」の意。「鷂」=猛禽類・ハイタカのこと。

 「たか」がたかとあなどってはいけないよね。

 日帰りは無理でしょ、あそこまでは。泊まりがけでないと。
 
 夜行バスという手はあるけれど、疲れるし。

 「甘樫の丘」、とか「石舞台」とか一般的だけど。

    
                        奥の右手が「竹生島」。

「陸軍造兵廠・東京工廠跡 記念碑」。

 1870年(明治3年)3月(旧暦)、造兵司は東京の旧幕府営の関口製造所と滝野川反射炉を管轄とし、それらの設備を元に東京工場を小石川の旧水戸藩邸跡に建設し、1871年(明治4年)に火工所(小銃実包の製造)が操業、翌年には銃工所(小銃改造・修理)、大砲修理所の作業が開始された。このとき藩邸内の日本庭園施設を一部残し、1874年(明治7年)以降、明治天皇の行幸および皇族の行啓を栄を受けた。
 1879年(明治12年)、「東京砲兵工廠」となり、1923年(大正12年)、「陸軍造兵廠火工廠東京工廠」と改称した。また庭園部分は同年、小石川後楽園として国の史跡および名勝の指定を受けた。
 同年9月1日の関東大震災によって甚大な被害を受けたあと、小石川工場の本格的な復旧には多大な経費が必要なことから、造兵廠長官の直轄であった小倉兵器製造所への集約移転が図られ、1931年(昭和6年)から逐次、小倉へ移転が実施された。
 1935年(昭和10年)10月、東京工廠は小倉工廠へ移転を完了し、約66年間の歴史の幕を閉じた。
 工廠跡地は翌年設立した「株式会社後楽園スタヂアム」に売却され、翌1937年(昭和37年)9月、職業野球専用の新球場、通称「後楽園球場」や遊園地、競輪場など一大レジャー施設としてオープンした。
 小石川後楽園は都立公園として整備され、世界的にも名園として知られている。園内には現在も砲兵工廠の遺構がいくつか保存され、また工廠敷地の形状をかたどった記念碑がある。

(以上、「Wikipedia」参照)

 石の外郭は敷地13萬坪の形を表している(右下が「水道橋」駅方向になる)。


 「陸軍造兵廠・東京工廠」の頃。(「今昔マップ」より)


 現在のようす(「同」より)

南側の丘には祠のようなものが。


    
                                 「内庭」。

 本園は大別すると内庭と後園(後楽園)とに分けられる。内庭は水戸藩邸の書院の庭であって、江戸時代には「うちの御庭」などと呼ばれていた。江戸の大名屋敷がほとんど消滅した現在、書院の庭の旧態をよく残しているものとして貴重である。

「唐門跡」。

 内庭から後園に入る門で、唐様の極彩色の彫刻をもった壮麗な建築物で朱舜水の書いた「後楽園」の扁額がかけられていたが、戦災で焼失した。

 酒船石、麓の方で亀形の石像物が発掘された、ちょうどその最中に見学したことがあった。ずいぶん経つよね。
 
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小石川後楽園(「じじばばがゆく」シリーズ。もう少し若ければ。その2。)

2015-05-15 21:01:23 | じじばばがゆく
 
 「愛宕坂」にさしかかる。といっても、石段。京都愛宕坂にならって造られたもので47段からなっている。今は通行禁止。

    
                        けっこうな高台。
 
藤棚と花菖蒲田。

八卦堂跡。

 二代光圀7歳のとき、将軍家光に謁見したおり「文昌星」像を頂戴した。後に光圀は文学を好むようになり、文昌星を思い起こし、八卦堂を造りその像を安置したという。なおこの堂破は大正12年の関東大震災で焼失した。

 注:「文昌星」とは?

 道教の神々の一つ。道教では星を神と見なして信仰の対象としている。北斗の魁星の近くにある文昌六星を神格化した神で、学問・文章の神とされている。

今度は「小町塚」。

 塚石が常陸の小野の産地であることから光圀が戯れて小町塚と呼んだという。

 注:「小町伝説」は各地にあり、特に東北地方に多い。この「小野」は現在の常陸大宮市小野だと思われる。この近辺には「小町の墓」だという伝承の地なども散在し、「小町」とあながち無縁ではなさそうだが。 

下ると、梅林が広がる。

    

    

 その奥まったところにあるのが、「藤田東湖」記念碑。「藤田東湖先生護母致命之處」

 幕末の水戸藩士で勤王家として知られた藤田東湖(1806~1855)は、水戸藩江戸上屋敷で安政の大地震に遭った。
 その際母を助けて外に出たが、火鉢の火を心配した母が屋内に引き返したため救い出そうとしたところ鴨居が落ちてきた。東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭へ出したが、東湖は力尽きて下敷きになり圧死した。
 圧死した場所は、白山通りの拡幅により道路となったため、記念碑は小石川後楽園(文京区後楽1-6)の中に移された。

HPより)

        

 園内には関口で神田川(江戸川)から取水された上水道「神田上水」の流れが残っている。

    

かつてはこの流れは水道橋から神田方面に続いていた。

こんな都会のど真ん中に残され、よく手入れされた自然空間。

ただびっくりしながら歩く(のみ)。

「不老水」。
 この井戸がいかなる旱魃にも水が枯れず、またいかなる洪水にもあふれ出すことがなかったことから不老水と呼ばれる。

 もう少し若ければねえ、・・・。せめて10年、・・・。
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小石川後楽園。(「じじばばがゆく」シリーズ。思いがけず池にはまった。その1。)

2015-05-14 21:44:24 | じじばばがゆく



1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。中頃にある細い流れは、「神田上水」。
 13万坪という広大な水戸藩上屋敷跡を中心に一帯が「陸軍造兵廠・東京工廠」になった。庭園部分は残されている。



1970年頃のようす(「同」より)。まだ「後楽園競輪場」があった頃。「白山通り」からの道路が屋敷跡を東西に貫いている。

 あれ! こんなところでお目にかかるとは。どうしてまた? 

 そうですか御食事ですか? お連れは? お一人で。 たまにはあるって。 それにしてもこんなところで、・・・奇遇ですね。

 いや、そこの庭園には来たことがないものですから。天気もいいし、散歩がてらですが。

 お時間ありますか? じゃ、いかがですか? ご一緒してくれますか?

 そんな風にして久々に、偶然に、「東京ドーム」の脇で、昔なじみに出会って(まるで計算したかのような出会いだが・・・)、結局、連れだって「小石川後楽園」に行くことに。四方山話がてらの散策、とあいなるはず。



 「小石川後楽園」は、江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房がその中屋敷(のちに上屋敷)として造ったもので、二代目藩主光圀の代に完成した回遊式築山泉水庭園。光圀は、造成に当たり明の遺臣朱舜水の意見を用い、円月橋、西湖堤など中国の風物を取り入れた。
 「後楽園」の名は、中国の范仲淹『岳陽楼記』の「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から名付けられた。
 思ったよりも広く、緑も多くて起伏に富んだ庭園。

 入園料:65歳以上150円(団体なら120円)。帽子を取ったら、「分かりました」って150円。連れは日傘で顔を隠しても、・・・。

「大泉水」。遠くに見えるのは、「東京ドームホテル」。

「一つ松」。

     近江の琵琶湖を模した大泉水に対して、琵琶湖の唐崎の一つ松にちなんでいます。

     
「丸屋」。昔の田舎のわびた茶屋のたたずまいを現している。戦争で焼失したが昭和41年再建。

     
 水戸光圀ゆかりの得仁堂と木像「伯夷・叔斉」

・・・光圀は、6歳の時に兄をさしおいて世継ぎと定められ、苦しみ続けた自らの身の上と重ね、18歳で「伯夷・叔斉」の物語を読み非常に感銘を受けました。光圀は「仁を行い得た人たち」を祀る得仁堂を建立し、伯夷・叔斉の木像を納め参詣したと言われています。 

「通天橋」。紅葉の頃は格別だそうだ。

       

「清水観音堂跡」。

京都清水寺を写した観音堂があったが、大正12年の関東大震災で焼失した。
 この付近、深山幽谷のような雰囲気を醸し出している。

 しかし、ここまで特にこれといった会話もなく、周囲を眺めては上がったり下がったりの道筋。坂を下って「沢渡り」。石伝いに向こう岸へ。

突然。

 恒例のクラス会ももうじきですね。今年はどうするつもりですかね、幹事さん。

 そういえば去年の暮れに会ったときに、今度は鬼怒川温泉に行こうとか言ってたような。

 なかなか泊まりがけとなると大変ではないですかね。「言うは易く、行うは難し」じゃないの。

 奥多摩の方で安く泊まれるところがあるとか、ご主人の会社の保養施設だそうだけど。

 でも、参加者が少ないとね、女性陣の方はどうなのかな?

 来年か再来年にとっておいたら、区切りがいいよ、「古稀」だし。 

 と、振り向いたとたんに、いない! 丸石を踏み外して池に両足を突っ込んでいた。靴の中までぐちょぐちょ、だろう、これでは。 
   
    

 あれまァ! 

ちょっとした丘の上のベンチで小休止。

突然。

 今度、飛鳥に行きましょう! 飛鳥に。20年以上行ってないし、山辺の道とか・・・・。

 足元はまだ濡れていますか? ばたって倒れなくてよかったですね。

 もう少し歩きませんか? 

話しは唐突に終わる。

「円月橋」。

 水に映る形が満月のように見えることから付けられた名称。朱舜水による設計といわれており、得仁堂とともに庭園草創期の姿を留める貴重な建造物。

                           
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旧手宮線をたどる。その2。色内驛。小樽駅舎。・・・(小樽。その5。)

2015-05-12 22:01:03 | 鉄道遺跡

 次第に小樽運河へ向かう広い道路との交差点へ向かいます。途中ところどころにかつての小さな踏切が残っていて、今も生活路として利用されているようです。
               

複線だった線路は単線で残されています。

    

旧国鉄手宮線

 明治13(1880)年、北海道で初めての鉄道として開通した「官設幌内鉄道」が、運営は安定せず、その後「北有社」に運営を委託します。
 明治22(1889)年、石炭生産と輸送を(の)一体化をめざし北海道炭礦鉄道(北炭)が設立され、幌内鉄道を引き継ぎます。北炭は空知地区の炭鉱と小樽・室蘭を結ぶ路線を増強し、石炭輸送は飛躍的に増加しました。
 明治39(1906)年、鉄道国有法が施行され、北炭の鉄道部門と北海道鉄道(後の函館線)は国有化され、明治42(1909)年、手宮―小樽(現南小樽)間は「手宮線」となり、輸送量増強のための複線化もこの頃実施されます。
 しかし、太平洋戦争の影響で、旅客扱いを廃止し、複数部分の線路も供出されてしまいました。戦後一時期旅客運転は再開されますが、複線部分は復元されず昭和62(1987)年の廃線まで単線での営業が続きました。
               小樽市

 沿線には古いレンガづくりの建物が残されて今も活躍中です。
    
 「踊場 ミレー」。賑やかなかけ声が。                 「COFFEE JAZZ」。  
 
 沿線には、ところどころに小樽市が設置した旧手宮線についての来歴などの解説板が設置されていて楽しめます。

    

旧手宮線

 旧手宮線は北海道の最初の鉄道です。明治政府は日本の近代化を図るため、石炭などの北海道の貴重な地下資源に注目し、その開発と輸送を目的に鉄道建設に着手しました。そして明治13(1880)年、北海道最初、日本で3番目の手宮線(手宮~札幌、後に三笠まで延長)が開通しました。
 北海道の鉄道工事は、アメリカの技術によって進められ、蒸気機関車もアメリカから輸入されました。

 小樽運河に向かう人の通りも車の通りも賑やかな広い道路にもレールが残されています。
    
                                 「一時停止の必要ありません 旧手宮線(歴史的遺産)」。                                  
                                     右の写真で、中央正面奥が「小樽駅」。

信号機などもそのまま保存。

旧「色内駅」方向へ向かいます。
                自転車などは乗り入れ禁止です。親子連れなどが線路上を歩いています。
                   

「色内驛」。

「色内駅」周辺は日本銀行をはじめ、多くの金融機関が軒を連ね、「北海道のウオール街」と称されるほど賑わいがあったそうです。昭和36年(1961)10月に駅が廃止されました。

そこから振り返る。

 その手前の線路沿いには、朽ち果てたような家屋が並んでいます。

    

線路は、道路を越えてまだ続きます。  

               
                        右手は「小樽美術館」。

今にも遮断機が下りてきそうな雰囲気。

しばらく進んで、振り返る。 

 その先のところで線路跡は終わって、南小樽駅へとJR敷地内を進んで行きます。レールのようなものが置かれてあり、まだまだ探索できるようですが、ここまで。

                            

小広場風になっています。振り返る。

旧手宮線

 明治13年(1880)10月24日。アメリカから輸入された蒸気機関車「弁慶号」が試運転を行い、人々に初めて公開された日です。
 無事、試運転を終えて1ヶ月後の11月28日、北海道で最初鉄道が手宮と札幌の間に開通しました。開通当時は1日1往復で、停車場は手宮・開運町(今の南小樽)・銭函 札幌の4カ所、料金は(手宮~札幌)は上等1円 所用(要)時間は3時間でした。
 当時の多くの資料は「小樽市総合博物館」に展示されています。
 
 こうしてまた元の道を戻り、再び小樽駅に着きました。

 現小樽駅舎(三代目)は上野駅をモデルに、昭和9年(1934年)に竣工。国の登録有形文化財になっています。なかなかの風格を感じさせる建物です。

                        
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北海道鉄道起点(ゼロ・マイル)。旧手宮線跡。手宮駅。桜吹雪。・・・(小樽。その4。)

2015-05-11 21:18:56 | 鉄道遺跡

 信号機などもそのまま保存されています。

        
                 「機関車庫」付近の全景。右手奥に「蒸気機関車資料館」があります。

 場内の中央広場付近にあるのが、「北海道鉄道開通起点標」。



北海道鉄道開通起点標 準鉄道記念物 指定第3号

 1880年(明治13)1月8日、手宮から着工した鉄道工事は、同年11月28日(注:軽川という駅名が欠落か? )まで開通。北海道で最初の鉄道がここから始まりました。
 北海道の鉄道がこの地から生まれたことを記念して1942年(昭和17)、手宮駅の構内に起点標が建てられ、1966年(昭和41)、後世に伝えるべき鉄道文化財として、旧国鉄により準鉄道記念物に指定されJR北海道に引き継がれました。
 この起点の中心点が北海道における鉄道起点(ゼロマイル・ポイント)となります。

                                 

                         「鐵道開通起點 鐵道大臣 八田嘉明書」。


                         

 本道鐵鉄道ノ創業ハ明治ノ草創開拓使ノ企画ニ成リ石炭輸送ノ目的ニ併セテ将来全道ニ敷設セラルヘキ鐵道ニ連絡セシムル計畫ノ下ニ起工セラレ明治十三年十一月十八日此ノ地ヲ起点トシテ手宮經川間ノ開通ヲ見ルニ至ル是レ実ニ本道鐵道ノ創始ニシテ開拓ノ業亦之ニ據リテ大イニ興ル所トナレリ
茲ニ近藤仙太郎氏之カ記念碑ヲ建立シテ寄贈ス乃チ本日除幕ノ式ヲ行ヒ偉業ノ跡ヲ永ク伝ヘンコトヲ庶フ
  昭和十七年十二月十二日
    札幌鐵道局長       濱野信一郎撰
    札幌鐵道局総務部文書課長 赤木  渉書

注:新橋~横浜、大阪~神戸に次ぐ日本で3番目の鉄道線路。

マンホールにも蒸気機関車の絵柄。

 さて、ここからいよいよ「手宮線」をたどっていきます。

 その前に「手宮線」とは?

    
 「幌内鉄道」路線図                              「手宮線」の現状図。              
(http://www.tetsuhai.com/temiya.htmlより)               (「小樽市」HPより)

「転車台」。その向こうが市街地になります。

道路上にそのまま残されたレール。

「南小樽駅」方向に向かってほぼ直線の線路が続きます。

次の道路上から「博物館」方向を振り返る。
                               雑草の中に埋もれつつある線路。

運河沿いにあるレンガ造りの倉庫の裏手を走っていました。
                                         左手の建物は「旧日本郵船小樽支店」。

        線路と交差する道路脇にある「喫茶 北運河」。       

その先は、線路伝いに遊歩道になっています。
                                 モニュメント(レールエンド)。 

    
                                      振り返って望む。 

     

旧手宮駅(旅客専用)

 明治13(1880)年、石炭輸送のために開通した幌内鉄道は、明治22(1889)北海道炭礦鉄道となります。開通当初は出炭量も少なく、工場、操車場と同じ敷地でも貯炭設備は十分な広さがありました。しかし、明治20年代からは、空知地区の炭鉱開発が進み、次々と石炭を満載した貨車が到着するようになると、手宮駅構内は手狭になっていきます。
 明治39(1906)年に国有化されると、石炭輸送優先のため手宮線の旅客扱いを停止してしまいました。しかし、住民の反対も多く、複線化を行った後、大正元(1912)年8月、この場所に旅客専用の手宮駅が作られました。もとの手宮駅は貨物専用駅として、現在の小樽市総合博物館の場所に併置されました。当時鉄道職員は二つの手宮駅を区別するため、旅客専用の駅を「石山」と呼んでいたといわれます。
 第二次世界大戦がはげしくなった昭和18(1943)年、旅客取扱いが中止、単線にもどり旅客専用の手宮駅は廃止されます。
              小樽市 

案内図(↑が「旧手宮線」)。 

    
                  左手の崖がかつての線路らしい雰囲気を残す。  

線路際のサクラがちょうど満開。
    

                              
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