おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京王線「多摩境」駅~東急線「南町田」駅。その4。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第2日目。)

2019-07-23 18:39:39 | 八王子絹の道
               少し人通りも少なくなってきます。
 

1880年代のようす。この当時も賑わっていた街並み。


2010年代のようす。
    小田急線(上)、JR横浜線(下)の両町田駅を中心に栄えている。旧街道は中央のまっすぐに南東に向かう道。

(13:11)JR横浜線を越えます。

先に進みます。

 (13:37)ここにも旧道が残っています。右の細い道に入って行きます。
 

静かな住宅街。

                  


2010年代のようす。→が旧道。


1880年代のようす。

↓の道(右が北方向)。

 (13:52)「町田街道」に合流して先に進みます。この頃から大粒の雨が落ちてきます。

大きなビルが立ち並ぶ中に普通の民家が混在。

(14:00)「小鶴橋」(東急田園都市線跨線橋)を越えて先に進むのをギブアップ。

 東急「南町田」駅に向かいます。中途半端な歩きでした。この駅付近も大きなテナントビルを建設中。「保土ヶ谷バイパス」が頭上に。しゃれた駅舎に変貌です。


1880年代のようす。田畑の中の道。


2010年代のようす。現在、駅周辺は大規模開発中。
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京王線「多摩境」駅~東急線「南町田」駅。その3。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第2日目。)

2019-07-22 19:10:56 | 八王子絹の道
                  「町田街道」に合流。
「現・町田街道」が直線化され、残された旧道? 

                                   

「町田街道」の拡幅工事のため立ち退いた建物の跡? 

(12:03)「滝の沢」交差点で右に進みます。小田急町田駅方向へ。 

                    

         「馬頭観音塚跡」碑。

だんだん賑やかに。車もけっこう多くなります。

(12:15)「森野」交差点で現代の「鎌倉街道」と交差します。

                                        

 この「鎌倉街道」は都道18号府中町田線で、東京都府中市より多摩市を経て町田市へ至る都道。通称を「鎌倉街道」と呼ぶ。ほとんどの区間で鎌倉街道上ノ道(鎌倉古道)に並行している、とのことです。ただし、「鎌倉街道」として神奈川県内にも続いています。

  

(12:30)しばらく進むと「小田急線」の踏切。すぐ町田駅前に。

                      

 駅前広場に「絹乃道」石碑(昭和58年建立)。「此の方よこはま」「此の方はちおゝじ」」とあり、裏面に「原町田誕生四百年記念」とあります。
  

解説板。
絹の道
 黒船到来により永い鎖国が開かれ 安政6年(1859)に横浜が開港されると日本から欧米諸国への輸出品の花形になった”生糸”は主産地である長野・山梨や八王子から町田を通って横浜へ運搬されました。
 新編武蔵風土記稿に”神奈川道”と記された原町田中央通りは東西文化の交流を果した中国の長安から地中海に至る古代シルク・ロードのように日本のシルク・ロードになりました。
 そして原町田は商業地形成の原点となった「二・六の市」を主軸として生糸をはじめ諸物資の集散地となり繁栄の基礎が築かれ今日に至りました。
 この碑は歴史と伝統を受け継ぐ原町田商人の証として原町田誕生四百年を記念し一番街商店会が建立しました。

                                            昭和58年12月吉日
 広場のベンチで小休止。

(12:50)再開。賑やかな商店街。けっこうな人通りです。

新しいデザインのマンホールが二つ。

                       

町田駅周辺はJR横浜線と小田急線とで、たいへん賑やかな街並み。


新しい建物が多い中で、こんな昔ながらの蔵造りのお店。富澤商店」本店。
 このお店。お菓子作り、パンなどの材料やドライフルーツを扱っているお店。都内などあちこちにお店がありますが、「東京スカイツリー」店でよく買い物をします。このあいだ、ドライトマトを買いました。その他にも品ぞろいが豊富です。

こういうお店も。乾物屋さん。河原本店」。   

 老舗然とした存在感のある店構えは乾物デパート【河原本店】。どこにも負けない豊富な品揃えと驚くべき昆布の知識。
 小田急町田駅東口から歩くこと数分、商店街の終わりに現れる昔ながらの懐かしい店構え。数ある町田の乾物屋の中でも長い歴史を誇る【河原本店】だ。乾物デパートと書かれた通り、店内にはありとあらゆる乾物が整然と並ぶ。昆布や椎茸、豆類は勿論、他の店では見られない珍しいものまで、品揃えは70アイテム、総商品数は数えられないというから驚きだ。
 4代目店長の河原氏は北海道にまで出向き仕入れを行うくらい、昆布へのこだわりが高く、その知識も驚くほど。これからもずっとこのままの姿でいてほしい、ゆっくりとした時間が流れるお店だ。
(「」HPより)

その先、「町田市商工会館」のところに、「二・六の市」碑。

                                   
原町田商店街発祥の地 「二・六の市」の碑
 原町田商店街の発祥は、もとは一村であった町田郷から原町田村が独立したのち、天正15年(1578)に、それまでの市をわけて、「二の市」が原町田、「七の市」が本町田に開設されたのが始まりといわれています。本町田の「七の市」は次第に衰えていきましたが、原町田の“市”は炭・薪・蚕糸・畑作物のほか、衣料や農具など多くの物産を取り扱い、文政・天保年間頃(1818~1843)には「二・六の市」となって、月に六回も開かれるようになりました。この「二・六の市」こそ、今日の原町田商店街発展の礎を築いたといえるのです。
 幕末に横浜が開港すると、原町田は繭や生糸を運ぶ“絹の道”の中継地として、各地から生糸商人が集まり、“市”の規模も大きくなっています。
 “市”が開かれた場所は、川田横丁や塩屋横丁あたりから勝楽寺門前までで、道の両側の家の軒先に“マゲ”と呼ばれる長い屋根が張られ、それを区切って市店が並びました。
 明治41年(1908)に横浜線が開通し、交通の便がよくなると、“市”の日以外にも人びとが集まるようになり、次第に商業の街としての形が整うようになりました。
 大正14年(1925)には、古着や古道具類を扱う市店が今の仲見世商店街付近に“ボロ市”として独立し、有名になりましたが、昭和に入ると不況や戦争の影響を受けて、物資不足から出店数も減り、昭和19年(1944)6月、360年程続いた“市” も、ついに幕を閉しています。しかし、原町田は戦後再び商業地としてよみがえり、飛躍的な成長を遂げて今日に至っているのです。

                                1985年10月 町田市史編さん室編修
「二・六市 発祥の商店街」。
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京王線「多摩境」駅~東急線「南町田」駅。その2。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第2日目。)

2019-07-18 18:29:06 | 八王子絹の道
                            旧道らしい脇道へ。
                             

沿道にはこうした農地も所々に。

 「中常磐」で「町田街道」に合流します。そのまま道なりに進んでしまいましたが、右手に旧道がありました。
(10:42)写真では右手奥の細い道。



1880年代のようす。屈折した道が続きます。



2010年代のようす。↑が旧道? その先も旧道は「桜美林学園」敷地内や住宅街に入り、失われているようです。

 そのまま「町田街道」を右手へ曲がって行くと(左を進む広い道は「八王子町田線」)、両側に「桜美林大学(学園)」キャンパスが広がります。


                      

(11:08)街道筋にある「ダイマル水産」。

賑やかな街並みに入っていきます。

 「上宿」バス停から右折していきます。木曽町を通る道筋で、かつての街道を彷彿させる雰囲気の静かな住宅地を進みます。
 

(11:20)右手に小公園。

                 「上宿公園」。

 

右手に「秋葉神社」。隣には「福昌寺」。

大きなおうち。

    
                  道幅も昔のままのようで、約600㍍続く。

木曽町の今昔。
        

       
1880年代のようす。集落を形成している。下の丁字路が矢倉沢往還(奥州古道)との交差点。家康の遺骸を日光へ移送したときの道筋。




2010年代のようす。かつての道筋をよく残している。上の丁字路は変則的な四つ角になっている。そこにあるお寺が「覚円坊」。

変則的な四つ角へ出ます。

                      来た道を振り返る。

(11:34)右の道をしばらく進むと、「木曽一里塚」跡があります。

              

解説板。
 徳川家康は秀忠に命じて慶長9年(1604)に江戸日本橋を基点に東海道、東山道、北陸道に一里塚を築かせ全国に普及させた。その後、付属の街道である脇往還なども整備された。一里塚は旅行者の目印として一里(約4kキロメートル)の間隔で道の両側に築かれた塚で、木陰で休憩をとれるように、榎や松が植えられた。
 町田市内には木曽町、小野路町に一里塚が残っている。元和3年(1617年)に徳川家康の遺櫃が駿河久能山から日光東照宮へ移されたとき、東海道の平塚から厚木、座間、木曽、小野路、府中と通過した。この道は、後に御尊櫃御成道(ごそんぴつおなりみち)と呼ばれた。18世紀になると、関東各地から相模国大山阿夫利神社への参詣する大山講が盛んになり、この道も大山道として利用され、木曽と小野路は宿場町として栄えた。
木曽の一里塚も小野路と同じく道の両側にあったが、現在は西側のものだけが残り、塚の上には武蔵御嶽山の大口真神の小祠がある。

《参考》「小野路一里塚」。(「」HPより)

「木曽一里塚」跡から先ほどの四つ角に戻ります。右手に「覚円坊」。

                  

 
 旧道を振り返る。                    先に進みます。
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京王線「多摩境」駅~東急線「南町田」駅。その1。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第2日目。)

2019-07-16 21:25:30 | 八王子絹の道
                            「町田街道」。
 7月13日(土)。曇りのち雨。
 東京地方はこのところずっと梅雨空。25度以下の涼しい日が続き、日が差しません。このあともそんな日々が。街道歩きもままならず。身体もなまってしまうので、出かけました。
 案の定、途中から雨が降り出して、早々に切り上げることに。中途半端な歩きです。

 京王線「多摩境」駅下車。前回のところまで戻って歩きます。街道は、県境を流れる「境川」の北側を進んでいます。現在の「町田街道」がほぼその道のようですが、「町田街道」の右や左に旧道が残っています。そこでは街道を外れて進みます。見逃さずに進めるか、どうか?
(9:38)京王線高架下から「旧道」を望む。



1880年代のようす。地図が一部つながっていないので、旧道は不詳。↑が旧道。「境川」北側、丘陵沿いに進んでいる。



2010年代のようす。北西から来た旧道は「片所」バス停付近で現在の「町田街道」に合流。その先、「小山駐在所」の先を左に入っていく(↑)。

「町田街道」は拡幅工事が進行中。

「小山駐在所」先で左に進む手前、左奥に大きな屋敷。

                              広大な敷地。

左に入り、広い道路(南多摩尾根幹線道路)を渡る。

 (9:58)二つ目の四つ角の右角に大きな石灯籠(慶応元年)。
           

すぐ脇を走る「町田街道」の喧噪とは違った静かな住宅街。  

その先、左手奥に「長泉寺」。

旧道はしばらくして「町田街道」に合流。

「浜焼市場」。

旧道らしき脇道へ? 

(10:25)「下馬場町内会館」。
 町田市小山町は、田端遺跡の他に、小山ヶ丘の開発に伴い、旧石器時代、縄文時代及び弥生時代の土器、石器が出土され、以降、古墳時代、奈良、平安時代からこの小山町近辺に人々が暮らしていました。  
 安土桃山時代には小田原の北条氏の支配となり、江戸時代は徳川氏の天領地となりました。江戸時代、下馬場地区は小山村下郷となり、明治時代、相原村と小山村は合併され堺村となり、下郷は集落名が馬場となりました。堺村は明治26年神奈川から東京に移管され、昭和33年に町田町、鶴川村、忠生村と堺村が合併され、町田市となりました。  
 地名の由来は、昔、馬場(ばば)(馬の競走場)があったこと、鎌倉時代、馬場地区は鎌倉街道の中で重要な位置でありその番人が居た番場(ばんば)があったことから、馬場(ばんば)の地名となったと言われています。 (この項、「下馬場町内会」HPより)

この道も旧道らしい脇道。

「常磐」バス停のところで斜め右に入る道が旧道。↑の道。

(10:35)「町田街道」側を振り返る。

1880年代のようす。↑の道。

2010年代のようす。

 かつては、「境川」がそうとうに曲がりくねった川であったことが分かります。

境川
 東京都および神奈川県を流れ相模湾に注ぐ河川。二級水系の本流である。川の名称はかつて武蔵国と相模国の国境とされたことに由来し、現在でも上流部(町田市最南部まで)は概ね東京都と神奈川県の都県境となっている。なお、かつては相模国高座郡に由来する高座川(たかくらがわ)とも呼ばれていた。また、最下流部から河口にかけては片瀬川(かたせがわ)とも呼ばれる。
 東京都町田市相原町大戸の同市最高峰・草戸山(365 m)北東面(町田市大地沢青少年センター付近)に源を発し、東京都と神奈川県の境界に沿って南東に流れる。神奈川県大和市付近から南へ流れを変え、藤沢市の江の島付近で相模湾に注ぐ。 上流部は、現在の河川規模に比較して大きな河谷を形成しているが、これはかつての相模川の流路の痕跡であると考えられている。
・・・
 かつては激しく蛇行しており、たびたび洪水を引き起こしたために河川改修が行われ、神奈川県相模原市緑区橋本付近よりも下流では拡幅とともに流路の直線化が行われた。ところが、左岸の東京都町田市と右岸の相模原市の間では旧流路に合わせて設定された市境(都県境)の調整作業が殆ど進まず、互いに「川向こうの飛地」を多く抱えている。2000年代に入ってからこれらの飛地解消のための調整作業が行われているが、管轄自治体の変更は居住者の同意が必要であることから進んでおらず、飛地解消の目処は立っていない。2016年までに6回境界変更が行われている。

(以上、「Wikipedia」参照)

町田市が、本当に神奈川県だった時代...明治に繰り広げられた「多摩領土戦争」とは?
2016年5月 3日 11:00
 よくネットで話題になる「町田は神奈川」ネタ。神奈川県に食い込むような形の東京都町田市は、しばしば「領有権ジョーク」の題材になっている。
 しかし、かつて実際に町田が神奈川県だったことは、あまり知られていない。それどころか、「住みたい街」常連の吉祥寺でさえ、神奈川だった時期があるという――神奈川と東京の「領土」変遷を追った。

「多摩」ほぼ全域が神奈川県に!
 神奈川と東京の領土変遷は、それすなわち多摩の歴史となる。「万葉集」にも詠まれている多麻(多摩)。平安時代から幕末まで、1000年以上にわたって「武蔵国多摩郡」だったが、明治維新にあわせて分割される。
 幕末の混乱と廃藩置県にともなって、それまで「多摩郡」とされていた地域は、「韮山県」「品川県」「入間県」などの管轄へ。そして明治5年(1872年)春までに、ほぼ「神奈川県」へ移管される。
 移管に先立って、明治4年11月(1871年12月)に神奈川県は、多摩郡が外国人遊歩区域にあたるとし、管轄させるよう求める申立書を出している。遊歩区域とは、外国人が自由に出かけられる場所のことで、港(この場合は横浜)から最大10里(40キロ)の範囲とされていた。
 それからしばらく、北多摩郡と南多摩郡、そして西多摩郡の「三多摩」は、神奈川県として扱われることになる。いまの市域で言うと、町田だけでなく、八王子や立川、武蔵野、三鷹など広範囲にわたる。

東京都に戻った理由は...
 それから約20年。1892年12月16日に、三多摩を神奈川県から東京府に移管する「法律案」が出された。最大の理由は、山梨県に源流を持つ玉川上水が、「神奈川県」の西多摩郡と北多摩郡を通過して、東京府へと流れていること。1886年にコレラが流行したとき、西多摩郡内で患者の排泄物が投下されたと伝えられ、府は「非常ノ警戒」をしたという。
 東京府知事による上申書によると、三多摩と東京府は水道問題以外にも、甲州街道や甲武鉄道(現在の中央線)などで利害が一致しているとも書かれていた。これを受けて、翌年4月1日、3つの郡が東京府へ移り、ほぼ現在の「東京都」と同じ形ができあがる。
・・・
 なお、水道に直接関係ない南多摩郡も、このタイミングで東京府へ移った。
 福生市郷土資料室が作成した「もっと知りたい 福生の歴史」によると、
「この問題に、自由民権運動の盛んだった多摩地域の勢力を削減するという政治的な問題も絡み、水源に直接関係のない南多摩地域も含めて多摩地域は東京府に移管となりました」とある。

(この項、「Jタウン東京」https://j-town.net/tokyo/column/gotochicolumn/225397.html?p=allHPより)

HPより)
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葛飾区銭湯めぐり。その7。そのぬくもり。「第一日立湯」。

2019-07-12 22:45:03 | 葛飾銭湯
                              ⑲「第一日立湯」 葛飾区亀有5-48-12
 「環七通り」からJR線のガードをくぐって右折。商店街の先を曲がった路地にあります。正面は青いタイルのグラデーション。おしゃれな印象。
 昭和20年創業で、現在は3代目が切り盛りしている、とのこと。浴室の高い天井は開放的、脱衣場の天井はシャンデリアと、古風な銭湯とはちょっと趣が異なります。全体的に明るくて、気持ちがいい。

 フロント形式で、下足の札と交換にロッカーキーを貸し出すというスタイル。この方式は、初めての経験です。
 ロッカーは上の扉と下の扉が繋げてあり、2つ使ってよいらしく、大きな荷物の持ち主には親切ですが、これも初めてでビックリ。
 近所の工事現場から来た方でしょうか、さっそく二つとも使用しています。内庭は築山と陶器製の蛙、下の池には2匹、大きな錦鯉が泳いでいます。2匹とも70,80㌢はあるような大きさ。悠々と泳いでいます。目の前でこれだけ大きい錦鯉を見たのはあまり経験がありません。池が狭いくらい。
                  
 さてお風呂は、ここも桶は、定番のケロリンですが、他では見かけない、幅が広く、けっこうな高さの腰掛で膝の悪い人には座りやすい。シャワーは、一部にしか付いていませんが、スティックを真下に向けるとお湯が出てくる仕組み。これも初めて。
 浴槽は中央に大きめの円形浴槽(ジェットバス)、左に座風呂(超音波バス)、右に「薬湯」。今日は(今日だけではなさそうですが)、「京都宇治抹茶」仕立て。濃い緑色をしていて、他の二つよりは温めで、ほのかにお茶の香りが漂う(感じ)。シャワー室も、一つあり。
 男女の仕切り側に「本日より利用禁止」と貼り紙のある部屋は、元はサウナだったでしょうか。えっ、「今日から」とは思えないですが。
 背景はタイル画で、遠方に真っ白な山脈、眼前にはとうとうと流れ来る渓流。渓流沿いにある露天風呂をイメージしたものか、これも、なかなかユニーク。湯船ごと流れに押し流されそうな感じですが。

 ここも常連が多いようで、挨拶を交わしています。

 かつて、ここの銭湯の名称が示すように、この先、北東、現在の「環七」の東側には「亀有日立」の大きな工場がありました。
 1938(昭和13)年、「日立製作所亀有工場」が足立区大谷田町、現在の大谷田団地および中川下水処理場一帯(JR常磐瀬・亀有駅の北東、西新井に向かう「環七」が、大きく西にカーブするあたり。)にできました。最盛期には2万人以上の従業員が働き、戦時中には、戦車など兵器が作られていました(ちなみに、飯塚橋の通りは「戦車街道」とも呼ばれていた)。この工場を「亀有日立」と地元の人は呼んでいました。
 現在も周辺には日立関連企業があり、また引き込み線の痕跡などが残っています。
 戦後、大型重機などを製造していましたが、都内にあった大規模工場の地方移転策により、1974(昭和49)年に土浦工場に統合され、操業を終えました。


2010年代のようす。上が「亀有日立」跡(一部)。「中川下水処理場」一帯。

 亀有地域は、この工場の他にも、「日本紙業(現:日本大昭和板紙)」、「三共(現:第一三共)」などの工場があった地域でした。現在、これらの工場はすべて撤退し、その後、再開発が進み、JR常磐線「」亀有駅」を中心に「アリオ亀有」など大型商業ビルや商店街、閑静な住宅街となっています。
 この銭湯もかつてはそうした工場労働者などでかなり賑わっていたと思います。

 ところで、この地域はかつて亀・亀梨(かめなし)と呼ばれていました。この名は、低湿地帯の中に「亀」の甲羅の形を「成す」土地だからということで付けられたといわれています。この地名は「無し」に通じて縁起が悪いとされ、江戸時代初期(1644年頃)に『正保国絵図』を作成する為の報告書提出の際、現在の名「亀」に改められた、ということです。

                                         
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なるべくご都合主義にはならないように。でも、相変わらず、ますます・・・お互いに。

2019-07-08 21:36:22 | じじばばがゆく
                       《面倒くさい話はいいから、来るのか、来ないのかだけ、はっきりしてくれればいいから。》

 《皆さん、お久しぶりです。お元気そうで何よりです。私を含め10名の参加、久々の盛会でありがとうございます。初めに常連の方が亡くなった、と いう報告からお願いします。》

 A 去年来なかったんで、どうしたんだろうって話をしていたんですよね。あの方、来ないにしても必ず連絡してくる方だったんで。

 《手紙が戻って来たわけじゃないしね。》

 A 同じ町会なんで、亡くなった、っていう噂が去年の暮れにどこからともなく伝わってきてね。

 《たまたま兄さんとお会いする機会があった、とか。》

 A そう、実は一昨年の暮れから具合を悪くして去年の3月頃、亡くなったよ、弟にもかわいそうなことを、って。
  何がかわいそうな、って分かりませんがね。だから、俺たち元気なかぎり、こういう会を開いてほしい、って幹事さんにお願いしたわけですよ。

 《あの方は二次会でカラオケなんか行くと、必ずお金出してくれていたしね。しっかりと宴会の領収書は持って帰ったし・・・。
 驚いた方も多いと思いますが、追悼の心を含めて、献杯! では、長老に御挨拶を。》

 B いやあ、去年は脚を怪我してさ、失礼しました。今年は何とか。そう、もう82歳になるよ。身体のあちこちが痛んできてさ。

 《またどういう具合に。》 

 B 足の甲のところをちょっと。

 《ひねったんですか? 》

 B そういうわけじゃなくて(足首をいじりつつ)。

 《では、と聞いてもはっきりしないままですなあ。》

 C 私なんか、二回、足の骨を折っているわよ。糖尿だし。

 《それはお気の毒に。ところで、お宅の業界も24時間営業とか何とかペイとかあれこれ話題になって、大変そうですね。》

 C 店の方は息子にすっかり任せっきりよ、看板娘の出番はもうなくていいの。

 《いったいどこが看板娘なのかわかりませんが。》

 A 死んだあの男も重い糖尿で、けっこう食べ物には気を遣っていたようだったよね。

 C 私? 何にも気なんか遣ってないわよ、何でも食べちゃう、寝る前まで御菓子なんか食べて主人に怒られているけど。
  そう、両親とも糖尿だったけど、80過ぎまで元気だったし。

 D それでもあんまり良くないんじゃないの。食事には気をつけた方が、・・・。

 C そうね、こんなに太っちゃうしね。でもいいのよ、気にしないの。

 E いや、こっちはさ、緊急事態が起こったので、幹事に相談しようとしたら、けんもほろろで。

 F そう、私にも連絡があったんだけれど、何だかはっきり言ってくれないんで、とか。

 《こっちだって、他からの連絡はあるわ、パソコンで送らなきゃならないデータはあるしで、ばたばたしてたんだからね。》

 E ま、解決したからいいけれども。

 《(無言)》

 D こっちには2回ぐらい留守電が入っていたけど、無視したわよ、面倒だから。家のことなんかなのかしらね。

 《息子のことかも知れないけど。去年からまだ続いているんのかね、家を建てる件が。》

 G 昼間は飲まないようにしているの。酔うと帰るのが面倒になってくるしね。
  そうそう、今度さ、一泊で温泉に行きましょうよ、前やったみたいに。熱海辺りでいいじゃない、近いし。

 《今、熱海は外国人観光客でけっこう賑わっているみたいだよ、それなら湯河原辺りが。》

 D もうこんな年だし、身体のこともあるし、出かけるのもおっくうになって来たわよ。夫はどこか行こうよ、行こうよって言うんだけれど。

 《ご主人と行くなら、僕と行こうよ。》

 H 何、馬鹿なこと言ってるのよ。

 F そういうハサミがあるんだ、へえ、食べ物を細かく切るためのハサミなのか。

 E 歯が悪くてさ。持ち歩き用に。

 《これは魚だし柔らかいよ。はさみを使わなくても大丈夫。これは固いから止めた方が・・・。お酒は適当に頼んで下さいね。》

 E えっ、日本酒を置いてないの、ビールとワインと焼酎かあ、外国人がたくさん来るんだから置けばいいのにね。

 H ほら、景色も見てよ。31階って何㍍なのかなあ。150㍍くらい。

 F 腹がかなり出てきたみたいだな。吹き矢をやるといいよ、腹式呼吸なんで、健康にいいよ。ほら、動画見せるよ。

 C あなたたち相変わらず仲いいわね。高校の頃だったか、あなたたちのデートに付き合わされたことがあったわ。覚えてる?

 D 日比谷公園なんて、今どきのデートコースではないわよね。

 H パートで、今、介護施設で働いているけど、現実は大変よ、大変。面倒を見る方も見られる方も。

 I 年を取るというのは大変なことですね。なかなかころりと簡単に死ねないし、・・・。

 《遠くに赤く見えるのは東京タワーですね。あそこが新宿。ほら、こっちには、筑波山が見える。》

 B 俺の住んでいるのはあのふもとかな。

 H そんな遠くじゃないでしょう、我孫子は。

 B あれが荒川か。そのずーと向こうに見える緑の高台が国府台かな。

 C えっ、反対側にもスカイツリーがあるの?

 A それは鏡でしょ、鏡。自分の顔が見えるじゃない。

 《夜の方がもっといいんだけれどね、デートには。ま、皆さんにはもう無縁でしょうが。》

         

・・・

 《宴たけなわですが、そろそろお開きに。お勘定は男性は、・・・。女性は、・・・。みんな年金生活者だから、ワリカンで。》

 F 幹事さん、ご苦労様。これから私が仕切ることにしますから。カラオケ? 

 G この人、最近、おへそが少し曲がってきているから。

 I いや、前行ったファミレスでいいんじゃない。たしか橋渡った向こうにあったはずだよ。

・・・

 《では、せっかくですから、ここで記念じゃなくて祈念撮影。はい、パチリ! 》

 A そういえば、明日が七夕だよね。「かんごしになれますように」か。いいねえ、夢があって。

 C もう暑いのは嫌だから、もっと涼しい頃にしましょうよ。ここまで来るの、大変なんだから。

 H 今日は涼しいよ、けっこう。それに、あなた、太っているせいよ。

 C でも、暑いのはイヤなの、どうしても。来年は、オリンピックもあるし、7月、8月は大変よ、人の行き来が。

 H そんなことはないでしょ、ここ辺りは。

 C でも、外国人がたくさん押し寄せてきそうだわ。

 H もう、わがままなんだから。

 《ご主人の三回忌が来年の9月末の予定ですか。》

 C えっ、知らなかったわ、ご主人、亡くなったの?

 G 長老と同じ年だったわ。

 《じゃ、わかりました! 来年は、10月3日(土)にしましょう。》

 B スカイツリーも、今日は曇り空だから、人も少ないね。

 《12月の例会は、常連も来なくなったし、なしにするから。》

 G でも、秋に温泉に行かない?

 《計画しても何人も集まらないよ。》

 G そうか。残念ね。

・・・

 《では、みなさん、お元気で。向こうが東武の駅、北千住でJRに乗り変えればいいから。》

 D 私? タクシーで錦糸町に行っちゃうから。じゃあ、バイバイ。 

 《『そして誰もいなくなった』(原題: And Then There Were None)(アガサ・クリスティ作)っていう感じ。飯でも食って帰ろう! 》


 ところで、話の内容と人物が一致する方はどなたでしょうか? って、分かるわけありませんよね。

                   

注:店内の写真は、「天空LOUNGE TOP of TREE」(東京スカイツリータウン イーストタワー31F)HPより。
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葛飾区銭湯めぐり。その6。そのぬくもり。「栄湯」、「興和浴場」、「金町湯」。

2019-07-03 22:11:56 | 葛飾銭湯
                                 ⑯「栄湯」。葛飾区高砂8-15-12

 今回は、高砂、柴又、金町にある銭湯を。

 京成高砂駅を北へ徒歩7分。「住吉小学校」の先にあります。行ったときは、すでに自転車がたくさん。今までの中では一番混んでいるようす。
 脱衣場と浴室を区切る裸婦の板ガラスは創業当時からのものだそう。浴槽は四角と丸型と二つあって、バブル湯と超音波マッサージ湯の2種類。
 ここの特徴は、男女の境にカーテン付きのシャワーボックスがあること。カーテン付きは他にはなくて、ユニーク。
 背景は、大きな竹林。写真なのか、バック一面に。
 脱衣場の天井を見上げると洋館のような雰囲気。
 アットホームな印象で、お客さんも10人以上。それぞれ顔なじみのようで、お互いに挨拶を交わし、背中を流し合っています。こういう光景は、はじめて見ました。
 TVを見ながら、湯上り後もゆっくりくつろげます。見かけない当方にもきさくに声をかけてきます。「いやあ、体重が増えちゃってさ、・・・」。

 ただ、自転車だと距離の割には、高砂駅付近は、行きも帰りも大変。狭い道ばかりの上、自動車が頻繁に通り抜け、歩行者もたくさん。
 「高砂駅」構内東にある踏切が、朝夕はどうしようもないまったくの「開かずの踏切」。車は、それを迂回するため、近くの京成線のガードをくぐることに。そこで、狭い路地に押し寄せる。右に左に直進にとけっこう車が通る。歩行者や自転車に乗った人は、恐いくらいの感じ。
 「早く高砂駅周辺を高架化にしてもらいたい」という地元の方の思いをひしひしと感じます。

                   

⑰「興和浴場」。葛飾区鎌倉4-17-14
 高砂から「佐倉街道」を京成ドライビングスクール、「桜道中学校」前と進み、北総線「新柴又駅」を過ぎたあたりを右折してすぐ。
 昭和42年頃創業、とのこと。平成13年から現在の店主が切り盛りする、という。ここも常連さんが多いのか、けっこうな入り。先客は15人ほど。
 「いらっしゃいませ」との音声に驚きつつ、のれんをくぐります。
 下足箱のカギがロッカーのカギを兼ねているとのこと。こういうやり方は初めてです。

 風呂は深い風呂と浅い風呂。浅風呂には寝湯とジェット、それぞれ2つずつ。譲り合いの精神が大事です。サウナがあり、無料。
 背景は富士山。頂が男湯女湯を隔てるしきいの位置にあります。かの有名な中島さんの作画、とか。なかなかここの富士山も見事です。

 座る台が濃い緑色で年季が入っていて、小さく、低い。これまでで、一番低く、小さい。そのまま直接あぐらで座った方がいいかな、と一瞬思ったほど。そういうわけにもいかず、何とか座って身体を洗います。
 帰りも「ありがとうございました」の声に送られて出ます。
 その後、近所の床屋さんでそんな話をしたら、この銭湯近くに住んでいる方らしく、「そうなんですよ、昔、20年くらい前、よく子供を連れて行きました、懐かしいですね、今も変わらないんですね、濃い緑で低くて、・・・」。話が盛り上がりました。

                  

⑱「金町湯」。葛飾区金町5-14-9
 「水戸街道(国道6号線)」・「金町消防署」の先を左折し、商店街の先、JRのガードが見えると、その手前にあります。正面は、立派な「千鳥破風」。昭和18年創業、とのことで、76年の歴史を刻んでいます。今の建物は32年に建替え、現在は3代目が切り盛りしている、と。番台式なので、女湯には5年ほど前に仕切りがつけられました。男湯にはここも中島さんによって今年5月に新しく描かれたばかりの富士山が見事。
麦飯石」を使用したお風呂。四角と丸い浴槽二つとシャワー二基、スチームサウナの設備が並んでいます。それぞれ小ぶりなので、3,4人入ればいっぱい。ここも先客が12,3人ほどで、子供連れも。今回紹介の銭湯は三箇所ともお客さんが多く感じます。地元に密着した銭湯です。
 浴室の天井も高く、天井を見上げながら、そして素晴らしい富士山を愛でながら、のびのびとお湯に入ることができます。
 昔ながらのマッサージチェアに、庭木がほどよく植わった気持ち良い縁側があります。
                  

◎麦飯石(ばくはんせき)の歴史
 麦飯石は、古来から漢方薬として用いられ、明代の李時珍(1518〜93)が編さんした「本草網目」(1596)には上位の薬石として、その薬性が甘く毒なく各種皮膚病が治癒出来ると書かれています。
 麦飯石は火成岩の中の半深成岩に属す石英斑岩の一種で、特殊な風化作用を受けていることが特徴です。淡い黄褐色の石基の中に、白い長石と、灰色の石英の結晶がちりばめられています。 その見かけが麦飯(むぎめし)むすびに似ていることから「麦飯石」(ばくはんせき)と呼ばれるようになりました。
 炭酸化作用(炭酸が鉱物を溶解する化学反応)を受けており、鉱物の溶出により多孔質を形成しています。この「多孔質構造」がミネラルの溶出、吸着作用などと深く関係しています。
 国内では岐阜県加茂郡白川町黒川が唯一の産地です。
◎麦飯石(ばくはんせき)の特徴・効能・効果
・吸着力
 麦飯石の主成分が、無水化ケイ酸と酸化アルミである事と、多孔性(粒径0.5〜1.5mmで約83,000個/平方センチメートル)で表面積が大変広くなっているために、吸着作用やイオン交換作用が強く働きます。水に作用させるとその働きは素晴らしく、水中のカルキ(遊離塩素)や有害物質のシアン、水銀、カドミウムや、大腸菌等の雑菌などの汚染物質を吸着分解する結果、水を浄化します。

・ミネラルの放出
 ミネラルは、人体に不可欠な五大栄養素のひとつです。麦飯石を飲料水に投入することにより、カルシウム、鉄、ナトリウム、カリウムなどの40種類以上のミネラルを水中に溶出するので、水が美味しくなり、体内のミネラル補給も容易です。

・水質調整
 麦飯石ph実験結果によりますと、アルカリ水も酸性水も中性に近づける働きがあります。

・水中に酸素を供給する
 麦飯石は、水中の酸素を吸収しやすい形にするため、酸素の豊富な水を作り出します。飲めば人体にも良く、鳥や魚の飼育用としても大変良い結果が出ています。

・分解作用
 麦飯石は、水中のカルキ(塩素)を吸着分解し、カルキの少ない水を作り出します。

◎美濃白川の麦飯石(ばくはんせき)
・・・麦飯石は100m掘る場所が変われば石質が変わるため、美濃白川麦飯石株式会社では、その都度専門機関による石質分析を行っています。

岐阜県の3分の1を占める飛騨流紋岩
 麦飯石の誕生は5〜7千万年前だと云われています。日本列島は2千3百万年まではアジア大陸の一部だったと云われています。その後大きな割れ目が生じ、 それが日本海となり、大陸と離された列島となりました。従って古い時代の花崗岩はプレートに乗ってどこからかやってきたものです。日本列島には多くの花崗 岩類の分布が見られますが、麦飯石のように自然の炭酸化作用を受けている場合はほとんどありません。
茶色の部分に濃飛流紋岩が分布し、赤色の部分に火成岩・石英斑岩・花崗岩が分布しています。また麦飯石層はこの流紋岩を貫き形成されているということが大きな特徴です。

美濃白川の麦飯石が同定された経緯
 石薬の研究家であった益富壽之助博士によって,岐阜県加茂郡白川町黒川産の炭酸化作用を受けた花崗斑岩が「麦飯石」と同定されました。
石薬研究家であった益富壽之助博士は、岐阜県加茂郡白川町黒川産の炭酸化作用を受けた花崗斑岩を麦飯石と同定し、おいしい水をつくる石として推奨されていました、益富博士が同定された白川町黒川の花崗斑岩という岩石は、花崗岩や花崗閃緑岩と同じような成分を持つ半深成岩の一種です。長石(カリ長石及び斜長石)・石英・雲母などからなる斑状の岩石で、大きな長石・石英の斑晶と、その間を埋める細粒の長石・石英・雲母などの石基から出来ています。白川町黒川の 花崗斑岩は、岐阜県中部に広く分布する飛騨流紋岩(中生代白亜後期に噴出した火山岩類)を貫く岩脈・小岩体で産出しています。花崗岩は岐阜県のみならず日本各地によく見られ、特に珍しい岩石ではありません。しかし白川町黒川の花崗斑岩には、他所の花崗斑岩とは異なった大きな特徴があります。それは岩石全体 が炭酸化作用を受け、斑晶の長石や石基の一部が方解石(炭酸カルシュウム)に置き換わっているということです。
 このような炭酸化作用のを受けた花崗斑岩には、新鮮な部分で炭酸カルシュウム溶出の効果、それに加え、風化した部分では炭酸カルシウムの溶出によってできた多孔質の空隙による吸着効果があり、全体としてたいへんバランスのとれたおいしい水が作られます。
 

(この項、「」HPより)


 今回の銭湯は、いずれも昔ながらの趣を感じる銭湯で、お客さんも多く、アットホームな雰囲気がすばらしい、まさに下町のお風呂屋さんでした。

 ところで、実は「金町湯」以北には銭湯が一軒もありません。常磐線以北、水元地域にはないのです。家風呂のない方はどうしているのでしょうか?
他人事ながら気になることです。
 
コメント (2)
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