おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

ちょっぴり毒のあるだじゃれ、もしくは暇にまかせて。

2020-12-30 18:00:00 | じじばばがゆく

その1。

何だかますます髪の毛が薄くなって・・・。頭が涼しいよ。

「一葉落ちて天下のハゲを知る」か。

 

その2。

どうしたんだい、足を引きずって。

いや、おニューの靴を履いたら足を痛めてね。

そりゃ、「クツは災いのもと」だ。

 

その3。

どうです、爺さんの具合は?

どうもよくないですね、腹水がたまってきちゃって。

それじゃあ、悪いけど、もうダメだめかもね。「フクスイ盆に返らず」って昔から言うじゃない。

 

その4。

おめでとう、赤ちゃんが生まれたって。

そう、二人目も男の子だよ。

そりゃ、「イチナンあってまたイチナン」か。 

 

その5。

どうもあいつとは話すのは苦手だよ。

まさに「ケイエンの仲」ってことか。

 

その6。

コロナ、コロナで一年が終わってしまったね。

「ワクチンは急げ」だけど、なかなか思うようにいかないし、その前に「ゼニは急げ」だよ。

がーすーは何を考えているんだか、「GoTOトラベル、世は無情」だね。

「亭主の好きな赤提灯」もすっかり寂れてしまって。

 

その7。

井上さんは苦手だよ、上司だからがまんしてるけどさ。

「イノウエのたんこぶ」ってやつか。 

 

その8

彼女とのよりは戻ったのか?

まあな、「元の鞘に納まる」。

それってそのものズバリじゃないのか。

 

その9。

このあいだ、自転車でおばあさんとちょっとぶつかって、さんざん毒づかれたよ。

それはとんだ災難だったね。「触らぬババアに祟りなし」ですな。

 

その10。

どうも最近、年取った感じよ、いろいろ試してるんだけど、お肌が・・・。

そりゃ無理、無理、「すべての道はロウバに通ず」だよ。「ロウバは一日して成らず」とも言うしね。

 

その11。

これを出してそれをもらうか。「オッ、『拾うカードに福来たる』、ラッキー。」(これはかなり無理筋! )

 

その12。

最近、囲碁を始めたんだって。

「老いてはゴに従え」さ。

 

   ・・・暮れの忙しい中、家人は買い物だ、掃除だとばたばた動いているのに、

      ご隠居、お暇ですな・・・

これにて今年のブログは、打ち止め。   

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう一年経つのか、早いものね、年取るのも。

2020-12-29 19:55:49 | じじばばがゆく

どうしているの? お元気ですか?

お互い、こんな状態じゃ、お会いするわけにもいかないし。

すっかり家にいたっきりで、せいぜい近所に買い物程度よ。

いろいろ制約があるしね、からだも言うこと聞かないし。

太ってしまったわよ、このところ。

あなただってそうでしょ、血圧にコレステロールに、後なんだっけ?

コロナには一番危険な因子らしいじゃない。

国会議員も亡くなったし、怖いわね。

居座って、辞職しない国会議員は何人もいるけど。

気の毒だわね、まだ若い方でしょ。

亡くなると、とたんに既往症があったからだ、なんていう人も出てくるしね。

そりゃ、そういう基礎疾患はあったけど、コロナに感染しなければ、今、亡くならなかったかもしれない。

もっと早く検査を受ければ良かったのに、遠慮したことが美談になるはずはないわよね。

そうそう、発熱があってもまずは家で安静にして様子を見て、なんて政府が言ってたこともあったわよね。

それじゃ、間に合わない人もで出てくるわよ、きっと、若い人でも。

まったく何考えているのかしらね、いまの緊急事態でね。

自助、共助、控除? 孝女? 公序?高女、って「公助」なんて、「一太郎」でも変換できないわよ。

「公助」なんて口だけでやる気ないんじゃないの。

「公助」なんてさらさら考えてないんじゃない、お得意の「公序」が大切なのかな。

まず「自助」、せいぜい「共助」どまりで、民はそこでおしまい。ってわけね。

そうそう、こっちもそうだけど、例の病気? 小康状態よ、何とかね。

お互い、年取るとイヤですね。あちこち不具合が出てきて。

それにこの騒ぎでしょ、まったくいつまで続くのかなぁ。

孫達とも会えないのは、半年以上よ、これで。

じじ、ばばにうつしたら大変だって、来やしないわよ。

見ない間にきっと大きくなっているわね、どうしているのかしら(涙)。

緑のタヌキっていうの、百合子も、スローガンばかり立て続けに発表するばかりで。

カルタ作ったり、「ウイズコロナ」じゃなくて、「ウイズアウトコロナ」でしょ。

そんな言葉遊びはいいから、何とかして下さいよ。

来年のオリンピック、その前の都議選を意識してるんじゃない。

今度は、「都民ファースト」にかこつけて、「(命を守るために)自分ファースト」でなんて言うんじゃないの。

「オリンピック」なんてもう無理よね、「人類がコロナに勝った証しとして」って、何言ってのよ、って感じ。

そうそう、もともと「福島復興」がスローガンだったはずなのにね。

マスク、うがい、三密を避けるって、みんな努力はしているのにね。

若い方はどういうつもりか、けっこう出歩いているし、それでもマスクはしているわね。

会食はどこが悪い、今の課題をいろいろ話し合う貴重な機会だって居直る2Fさん。

ただの忘年会じゃなかったの? 王さんたちと何を話すのよ、かえって迷惑だわね。

ガースも2Fには恩義がありすぎて、のこのこ出かけていったしね。

反省しています、これからは会食はしません、って。

私たちじゃ近づけない、高級料理店をはしごしてばかり。

あの方、家で食事をしないのかしらね、朝から晩まで外食って、どういうご家庭かしらね。 

まあ、どうでもいいけど、みんな、お給料は、税金なんだから。

そうそう、家庭内感染に注意! 家の中でもマスクをしていましょうって、「区報」が回ってきたのよ、ここにも。

えっ、そのうち灯火管制でもして、午後8時以降は灯りを消して静かに、ってなりそうですって。

まさかそんなことになるわけないじゃない、バカなこといわないでよ。

でも、ご近所のお医者さんでも、インフルのワクチンも在庫がなくなってしまったようだし。

このまま嵐の過ぎるのを堪え忍ぶ、負けられません、勝つまでは、って感じ。何か戦時中みたいね。

もちろんそんなことを体験ないわよ、戦後生まれですから。

電話では感染しないから安心よ、これだけしゃべっても。

えっ、電話線を通じても感染するって、冗談はよしてよ。

でも、ちゃんとマスクしているから大丈夫よ。「アベのマスク」じゃ分からないけど。

・・・

まだまだ話は尽きませんが。午後8時を過ぎたので、ここにて消灯。良いお年を

懐かしの「アベノマスク」

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三密であんみつを、ってしゃれにならないですよ

2020-12-28 20:12:34 | じじばばがゆく

おやじさんお元気ですか?

緊急事態宣言でしょ、仕事も外出も控えていますよ。

いや、おやじさん、どうしているかと思って。

こういうご時世の中、お元気ですか?

そうすね、去年も流れたし、って。おやじさんの都合が悪いっていうんで。

そうですよ、だんだん疎遠になって、そして今、この騒ぎでしょ。ますます・・・。

こっちは変わりませんよ、仕事も、生活も。

でも、大変な世の中になってしまいましたね。

今年の初め頃は、けっこう高をくくっていたんですがね。

ここまで蔓延するとは思ってもいませんでしたね。

武漢から来たから「新型コロナウィルス」じゃなくて、「武漢ウィルス」って。

日本じゃ、中国の方いらっしゃい、歓迎します、って首相が先頭になってメッセージ動画を配信ですもんね。

そうそう、その中国由来のコロナは収束して、どうも、今のはヨーロッパ由来のウィルスじゃないかって。

ウィルスも変異、変異で。

コロナ軍、あいつらも、子孫を残すために必死なんでしょうかね。

変異してだんだんと弱毒化していけば、人類と共存できる、って。

そうなれば、普通の風邪ウィルスとなっていって・・・。

しかし、なかなか敵は手強いですよ。

そうですね、なかなかワクチンができないし、治療薬もなさそうだし。

いえ、まだ自分の周りには誰もいませんよ、誰も。

あんまりピンときませんね、この騒ぎ。

タレントか有名人が亡くなって報道されるんで、何となく不安にはなりますが。

おやじさん、まだまだ元気でいて下さいよ。

会いたいですね、久々に。

何ですって、浅草であんみつを三密で食べよう、って。

たしかに浅草には有名な甘み屋さんがありますが。

そうそう、「梅園」って言ったかな。

なんですって。そこで、3人であんみつを一つ頼んで、一つのスプーンで食べよう、って。

そんなこと言ってちゃいけませんよ。いい年して、しゃれにもならないですよ。

だいたい糖分取り過ぎですよ、それじゃ。

コロナで危険なのは、糖尿病らしいですから。

でも、まだまだ元気そうなので少し安心しました。

体に気をつけて下さいよ、もう若くないんだから。

では、12月頃に連絡しますよ、おやじさん囲んで、飲みましょう。

そうそう、そのころまでにコロナ騒ぎがおさまっているといいですよね。

・・・

それから半年が経ちました。コロナの勢いは止まらず、当時の第一波から、今は、第三波のさなか。

連中からの連絡も途絶えたままです。どうしていることやら・・・。

 

安政元年、浅草寺の別院(梅園院)で創業したことがその名の由来です。160年間守りとおした、元祖あわぜんざいの味は絶品。他にあんみつや豆かんも大人気。人気の秘訣はやや抑え目の甘さとか。永井荷風の小説の中に登場したほど、有名なお店です。

あわぜんざい
★田舎しるこ
★梅園ぞうに
★あんみつ
★豆かん

  

(この項、「」HPより)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年も、年賀状新旧交代。コロナと共に。

2020-12-25 18:49:39 | 世間世界

もう1年ですね、あっという間の。って、ま、毎年思うけど。

特に、今年はコロナ騒ぎで、それだけでほとんどお終い。

そうそう、去年は、クリスマスに、香港からいつもの好青年が泊まりがけでやってきて、歓迎で大騒ぎだった。

何年も前に、ここにホームステイに来た青年ですよね。日本語も上手だし、地理も詳しいし。

かなりの日本びいきで、毎年、夏や冬にやってくるんだけれど。

今年は、さすがに来なかったわけだ。

香港でもあの騒ぎで、色々心配したけれど。

コロナでは勤め先がロックアウトで、仕事の方も。

その代わり、今年はたくさんのマスクを送ってくれたみたいだ。

クリスマスバージョンで、子供達には受けたようで。マスクにいっぱい絵柄が描かれてある。

あのマスク、けっこうすてきだけど、なかなか爺さん婆さんが街中を歩くのにはちょっと、ね。

そうそう、年明け早々にお家の方が、突然、嗅覚障害、味覚障害が出て、ちょっと風邪気味になって。

いつもの医者に行って、風邪薬を処方して貰って・・・。

あの時、好きな珈琲の匂いも味もまったくしなかった、って初めての経験だった、とか。

風邪でもそういう症状が出ることもあるしね。

しかし、今までまったくそういう経験はなかった、って。あれは何だったんだろうか。しばらく嗅覚障害は残ったみたいだし。

その後だよね、新型コロナが日本にも入ってきたって大騒ぎになったのは。

東京でも、タクシーの運転手さん達の屋形船での感染が、入院先の病院まで広がって。

発端は、中国人観光客を乗せて感染したらしい、というニュースを聞いてもピンとこなかったけど。

コロナ騒ぎが始まって、夏頃だったかな、あれは、実は、コロナのはしりじゃなかったのかって。

そうそう、その頃だよね。香港から青年と一緒に入ってきたんじゃないかって。

日本で最初の感染者になった! って密かに思ったけど。

でも、他の人は特に変化はなかったし、そんなことはないよ、で落ち着いた。

ま、ここの爺さんも街道歩きも出来ず、せっせこ仕事に通っていましたね。

電車通勤はイヤだといって、毎日、片道40分かけて。炎天下も自転車で通って、けっこう日に焼けたようね。

今もそうしてるみたいだがね。暑さの夏も冬の寒さにも負けずっ、てことですかね。

そう、そう。結局、今年は「房総往還」、「鮮魚街道」、「木下街道」くらいしか歩けなかった。

あとは京成電車沿線歩きくらいが、やったことか。

世の中は、アベからガースーに代わったけど、コロナはますます拡大中。策もなくオロオロするばかり。

日照りの夏も冬枯れの季節もオロオロ歩き、じゃあしょうがないよね。

ところで、爺さん、なかなか年賀状に取りかからないけど。どうするつもりかな。

何でも今年は大幅に減らすそうだよ。もう親戚関係とか仕事仲間とか、限定的に出すとか。

いっとき元気な頃は、100枚くらい出していたときもあったはず。

懐かしいね、先輩達も。手書きから干支のはんこでセッセと書いては、出していたんだから。

そういえば、何ていったけ? 昔、一枚一枚、俺たちの先輩たちを挟んでシュッパって光線を浴びさせて、やっていたよね。

たしか「プリントゴッコ」とかいったんじゃなかったっけ。

理想科学工業がかつて販売していた家庭用簡易孔版印刷機である。1977年(昭和52年)から2008年(平成20年)まで販売された。

透明フィルムカバーを跳ね上げ、専用インクを乗せた上で製版時と同様にプリンターの枠側内部に取り付け、印刷台に印刷用紙を乗せて圧着することでインクがマスターの樹脂溶解部分から紙に転写される、って「Wikipedia」では解説されているけど。

一瞬目がくらんだよね、いきなり先輩達の身体が焼き付けられるんだから。

懐かしいよね、その後はPCでやるようになって、いつしか無くなった。

今度は背中から押し込められて、すぐに完成品さ。住所も手書きでなくなるし。

でも、ここの爺さんは、住所だけは手書きで書いているよね、変なポリシー、こだわりがあるよね。

さてと、こうして元旦から一年間、この家にやっかいになっていたけど、そろそろお役御免かな。

そうそう、俺たちを参考にしながら、年賀状を書く風習だからね。

ちょっと待てよ、今回はちょっと趣がおかしいぞ、ちょっと。

いつもは、そのまま、まとめてお払い箱になるんだが。

ちょっと、ちょっと。えっ、この中に突っ込まれてどうなるの?

えっ、先輩達、うどんみたいに細長くなって消えていっちゃった。

次は、俺の番か。では、おさらば。

・・・

こうして今年元旦に届いた年賀状は、我が家のシュレッダーにかけられて、立派にお役目を果たしたのでした。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隅田公園。向島百花園。冬の。その3。

2020-12-23 18:40:55 | 向島百花園

                          暮れなずむ百花園(去年の12/12)。

 スカイツリー(今年の12/16)。

             

サザンカ。

マユミ。

      

    

   小鳥(↓)が一羽。

上空には飛行機(↓)

そろそろ帰るとしますか。

             けっこう冷えてきます。

ロウバイ。

        ナンテン。ツワブキ。

               

別の日。東武線の隅田川に架かる「隅田川橋梁」脇に浅草から渡れる歩道橋ができました。そこを少し歩きます。

金色のビルは、アサヒビール本社。

源森川水門」。隅田川との水門。

江東0㍍地帯を守る防潮水門。通常は開放されているが、高潮や津波の恐れがある場合は直ちに閉鎖される。

「源森川」は、「北十間川」を指します。

北十間川(きたじっけんがわ)江戸初期に開削された運河。西に隅田川、東に旧中川と接続する。横十間川との合流点より西は墨田区内を通り、東は墨田区と江東区の区界となっている。名称は、本所の「北」を流れる、川幅が「10間」の川であることに由来する。以前は大横川の分流点より西を源森川(別名源兵衛堀)、東を北十間川といった。(「Wikipedia」より)

「源森川」の水面には、たくさんの水鳥。

            

東武線ガード。かつての石積みが残っています。

その昔は、この先には駅がありました。駅が廃止された後、「墨堤通り」に面したガード下に「ラーメン屋」さんがありました。こってりとした味でけっこう好きでした。

すっかりこの辺も様変わりです。

・・・

2009・5の投稿記事。「源森川」対岸から。

「隅田公園」駅。東武鉄道伊勢崎線が、都内のターミナル駅としていた浅草駅(現:業平橋駅 注:その後、「東京スカイツリー」駅に。)から浅草雷門駅(現在の浅草駅)までの延伸を果たした、1931(昭和6)年、中間駅(隅田公園への最寄り駅でもあった)として開設された。
 戦時体制が濃くなった1943(昭和18)年)に、不要不急駅整理の対象となって休止となり、そのまま営業を再開する事もなく、1958(昭和33)年に廃止された。なお、1945(昭和20)年3月10日の「東京大空襲」によりホームが焼失したこともあった。
 今も存続していれば、「墨田区役所」への、墨田区内で最短の最寄り駅になっていたはず(墨田区役所が出来たとき、この駅を復活させるという話も出ていたと思うが)。
 浅草駅を発車した列車が、隅田川橋梁を渡ってすぐの所に設けられていて、ホーム上屋を持つ高架駅で、ホームの長さも長く取られていた。急行列車は停車せず、普通列車のみが停車していた。
 廃止されてからしばらくは、プラットホームは撤去されず、そのまま放置されていた。昭和38年の航空写真には、まだそのホームがはっきりと写っている。
 東武電車で「浅草」に行くとき、このあたりでいつも電車のスピードが落ちるので、なおさら、どうしてここにホームがあるの? と鮮明に記憶している。
 かつては、高架線下には駅舎(を転用した)建物側面に、階段の跡がくっきりと残っていたが、数年前に高架下の建物がすっかり撤去されたため、駅舎の痕跡はまったくなくなってしまった。
 ただ、この写真でもわかるように、その駅舎に続いてあったと思われる、業平橋寄りの高架下の建物の一部は現存していて、窓枠にかつての駅舎の面影が残っている?(写真の左手。なお、写真は、北十間川をはさんで対岸から撮ったもの。)
 また、高架の真下にアーチ状の建物跡が残ってもいる。高架線の向こう側が、隅田公園。新緑の木々を川面に映して時を刻んでいる。

・・・

1970年代のようす。「隅田公園」も大改修。

2010年代のようす。

ところで、最近、ブログの閲覧数が以前の3分の2くらいに急減。PCにアクセスしてブログを開いてもらう面倒さなのか、小生のブログへの興味関心が低下したのか。最大の原因は、当ブログの掲載記事のマンネリ化に・・・。常連だった方々も少なくなったようで。

一方で、他には、相変わらずたくさんの読者が閲覧するブログもまだまだたくさんあるようです。

さて、今後どうするか。紙面の刷新が必要? 「おやじのつぶやき」から「おやじのぼやき」あるいは、「おやじのつぼやき」に変えるかな。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隅田公園。向島百花園。冬の。その2。

2020-12-22 18:10:27 | 向島百花園

                  「向島百花園」

「向島百花園」は周囲を住宅・高層ビルに囲まれていて、冬の日差しがあまり差し込まないせいか、冬枯れの風情が一段と。

人の訪れも少なく。

枯れ薄が園内一面に。

 

遠くには「スカイツリー」が。

茶筅塚と柘植黙翁句碑

おりたらん 草の錦や 花やしき

小ぶりですが、柚の木。

赤い実。マンリョウ。

柚の木も赤い実のなるナンテンなど、取り壊す前の我が家には、けっこう大きなものがあり、人に分けたり、飾ったり、お風呂に入れたりと楽しめました。大きな柿の木やクヌギ、棕櫚もすっかりなくなり、今は、小さな花壇が細々とあるのみ。、二世帯住宅というのは、駐車場にしたりして、敷地一杯に建てるしかないのですが・・・。

ヤナギ。

        

                    

  「手向山」。 ヤマモミジ系の枝垂性品種。

此(こ)の度(たび=旅)は ぬさ’(幣)も取(とり)あへず 手向山(たむけやま)
紅葉(もみぢ)のにしき 神のまにまに

「古今集」・「小倉百人一首」中、菅家(菅原道真)の歌。

もちろん、この「手向山」という紅葉をさしているわけではありません。奈良市東部に位置する手向山は紅葉の名所として知られ、その麓には手向山八幡宮が東大寺二月堂の並びにあります。

「幣」は、神に祈る時に捧げ、またお祓(はら)いに用いる紙・麻などを切って垂らしたもの。幣帛(へいはく)。ごへい。

《歌意》こんどの旅は(宇多上皇の御幸のお供で急いで来たために)神様に捧げる幣を用意するひまもなく来ました。この手向山のみごとな紅葉の錦を(幣として)神様の御心のままにお受け取り下さい。

この歌にあやかって名づけられた品種のようです。

    

初代河竹新七追善 しのぶ塚
隅田川よ二面よと歌舞伎にも浄瑠璃にも世にもてはやさるる荵売は、安永四とせ中村座の春狂言に初代中村仲蔵が勤め、前の河竹新七の作なり。そが正本を、ある人より贈られて久しゅう秘蔵せしは、名を嗣ぐ者の幸せと悦びしが、この度ここに埋みて、昔忍ぶの墳と名づけその故よし記しつくるは、隅田川の流れ絶えず伝えて、二面の二つなき功績を、後の世に遺さんとてのわざになんありける。
 明治13年(1880)3月

    

きやうげん塚二世河竹新七追善狂言塚)

二世河竹新七、俳名は其水、晩に古河黙阿弥と改む。壮年より演劇作者となり、古稀の齢を跨えて明治25年(1892)の春、喜の字の祝さえなしけるに、明くる年料らずも病のために身まかりぬ。その一生の間に書き綴りたる新作の狂言およそ三百余ほどありて、古来の作者に珍しきことなれば、その名を続ける門人等師のむすめと計り、これを後の世に伝えてんと、石を建てて狂言塚と名づけ、初代の名残りの荵塚になずらえて、しのぶの文字を書きつくることしかり。
 明治27年(1894)11月

                                      

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隅田公園。向島百花園。冬の。その1。

2020-12-21 20:28:52 | 隅田川

東武線とスカイツリー。ガード下には新しくお店がいくつか誕生。TOKYO MIZUMACHI」。「三つ目通り」をはさんで、スカイツリー側にも。

                

          

  隅田公園。日だまりを求めて。

      

              

水鳥の姿もチラホラ。

池の水量も少なめ。清掃中? 

向こうに墨田区役所。

左手にはスカイツリー。

桜の葉もすっかり落ちて。

冬空に。

穏やかな冬の日差しに。

                     

              

「十月ザクラ」。

「冬ザクラ」。

小鳥(↓)が柿の実をついばむ。

        

別の日。東武線の隅田川に架かる鉄橋脇に浅草から渡れる歩道橋ができました。そこを少し歩きます。

金色のビルは、アサヒビール本社。

「源森川水門」。隅田川との水門。

江東0㍍地帯を守る防潮水門。通常は開放されているが、高潮や津波の恐れがある場合は直ちに閉鎖される。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川船番所跡。清洲橋。大川端芭蕉句選。芭蕉記念館。江東区「小名木川」。その6。(「鮮魚街道」番外編。)

2020-12-18 19:33:45 | 鮮魚街道

           橋のたもとにある「川船番所跡」解説板。

川船番所は幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査しました。
 設置の年代は明らかではありませんが、正保4年(1647)に深川番の任命が行われていることから、この頃のことと考えられています。江戸から小名木川を通り利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間(1624~1644)にはすでに整いつつあり、関東各所から江戸へ運ばれる荷物は、この場所を通り、神田・日本橋(現中央区)など江戸の中心部へ運ばれました。こうしたことから、江戸への出入口としてこの地に置かれたことと思われます。建物の規模などは不詳ですが、弓・槍がそれぞれ5本ずつ装備されていました。
 明暦3年(1657)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の堀割の完成などに伴い、寛文元年(1661)中川口に移転しました。以後中川番所として機能することとなり、当地は元番所と通称されました。

もう一つの解説板。

万年橋は、区内の橋のなかでも古く架けられた橋のひとつです。架橋された年代は明らかではありませんが、延宝8年(1680)の江戸図には「元番所のはし」として記されているので、この頃にはすでに架けられていたことがわかります。江戸時代には、この橋の北岸に小名木川を航行する船を取り締まる、通船改めの番所が置かれていました。この番所は、寛文年間(1661~73)の頃に中川口へ移され、このため「元番所のはし」とも呼ばれました。小名木川に架けられた橋は、船の通航を妨げないように高く架けられていました。万年橋も虹型をした優美な橋で、安藤広重は「名所江戸百景」のなかで、「深川万年橋」としてとりあげています。また、葛飾北斎は「富嶽三十六景」の一つに「深川万年橋下」として美しい曲線を描く万年橋を大きく扱い、その下から富士山を望む、洋画の影響を受けた錦絵を残しています。

(注:隣に描かれた絵は、「芭蕉庵」で、「古池や蛙飛び込む水の音」の句が記されている。)

隅田川のテラスに降りてみます。

清洲橋

清洲橋の名は、深川区清住町と日本橋中洲町を結ぶことから付けられました。関東大震災後の復興事業で、ドイツのケルン市にあった大吊橋をモデルとして昭和3年(1928)に完成したもので、女性的な曲線で優雅なシルエットが印象的です。平成19年(2007)6月18日に、永代橋とともに国の重要文化財に指定されました。

ライトアップされた清洲橋。(「GO TO TOKYO」公式HPより)

・・・以前訪れたときの記事。


「清洲橋」。
「清洲橋」からのスカイツリー。
「清洲橋」。この上流あたりに「中洲の渡し」がありました。

・・・

上流の「新大橋」を望む。

大川端芭蕉句選しばの戸にちゃをこの葉かくあらし哉

九年の春秋、市中に住み侘びて、居を深川のほとりに移す。「長安は古来名利の地、空手にして金なきものは行路難し」と言ひけむ人の賢く覚えはべるは、この身の乏しきゆゑにや。「柴の戸に茶を木の葉搔く嵐かな」

同「芭蕉野分して盥に雨を聞(く)夜哉

(老壮、茅舎破風の歌あり。坡翁ふたたびこの句を侘びて、屋漏の句作る。その夜の雨を芭蕉葉に聞きて、独寝の草の戸。)

二句とも「芭蕉発句全集」HPの解説による。どちらも芭蕉庵にての作句。

「隅田川テラス案内板」。

さて戻ることにします。「萬年橋」。

「万年橋」の北岸は松尾芭蕉が居を構えた場所で、隅田川と小名木川の合流地点付近の住居跡は芭蕉歴史庭園として整備されています。また北には「江東区芭蕉記念館」があります。 

 「バショウ」。

            


芭蕉のブロンズ像。遠くに見えるのは「清洲橋」。(以前の訪問時の写真)

東京・下町の隅田川沿いにある松尾芭蕉のブロンズ座像が、日暮れになると動きだす。場所は芭蕉が「奥の細道」に出立したゆかりの地、江東区の芭蕉庵史跡展望庭園。「座り直してるんですか」「夜、立って動いてるんですか」といった問い合わせも舞い込む、ユニークな仕掛けだ。

 像は高さ約120センチ。閉園後の午後5時ごろ、座布団に正座姿の芭蕉がライトアップされ、川方向に電動で約90度回転する。タイマー設定で、特に前触れもない。方向転換は30秒ほどの早業だが、狙いをつけて近くの遊歩道で見守る人も。

 1995年の建立以来続く謎の行動。実は、夜になったら川側から見てもらいたい、というサービス精神のなせる技なのだ。遊覧船の往来が少なくなる午後10時ごろ、像は元の位置に戻り朝を迎える。

(この項、「」HPより)

今回行ったところ、閉館しているようでした。

これで、「小名木川」編は終了。この際、日本橋の旧市場跡まで、「日本橋川」を散策してみます。

                     1880年代のようす。上の→が「小名木川」。下の←が「日本橋川」。当時の「永代橋」と現在の位置は異なっている。

                     2010年代のようす。永代橋が下流に移っている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

のらくろ。萬年橋。北斎「富嶽百景」。広重「名所江戸百景」。江東区「小名木川」。その5。(「鮮魚街道」番外編。)

2020-12-17 21:17:43 | 鮮魚街道

                   森下・「高橋夜店通り」。

この先で、「小名木川」から離れて西へ進みます。なかなか川の近くに行けません。かつて来たことのある商店街にさしかかります。

・・・


 通りの東には、「江東区森下文化センター・田河水泡・のらくろ館」があります。(地名の「高橋」というのは、「小名木川」に架かる橋の名前から。「たかはし」ではなく「たかばし」)。

のらくろがいたるところで、お出迎え。
アーケードが続き、道路は、一年中、花吹雪(模様)。

 そこで「田河水泡」について。(以下、「Wikipedia」参照。)かなり長いですが・・・。
 田河 水泡(たがわ すいほう、1899年(明治32年)2月10日 - 1989年(平成元年)12月12日)は、日本の漫画家、落語作家。本名、高見澤 仲太郎(たかみざわ なかたろう)。
 昭和初期の子供漫画を代表する漫画家であり、代表作『のらくろ』ではキャラクター人気が大人社会にも波及し、さまざまなキャラクターグッズが作られるなど社会現象となるほどの人気を獲得した。
 東京府東京市本所区本所林町(現在の東京都墨田区立川)出身。出生直後に母親が亡くなり、父親が再婚するために、水泡は子供のいなかった伯父夫婦の元で育てられる。中国画や庭いじりを愛好していた伯父の影響で、水泡も絵筆を取るようになる。
 しかし、再婚した父親が数年後に亡くなり、育ての親である伯父も水泡が小学5年生の時に時に亡くなると、一転、生活に困窮するようになり、深川市立臨海尋常小学校(現・江東区立臨海小学校)を卒業後は働きに出ざるを得なくなり、薬屋の店員やメリヤス工場の少年工員として働くという「家庭にめぐまれぬ、苦労の多い、孤独な少年期」を過ごした。
 その後、徴兵され、朝鮮や満州で軍隊生活を送り、1922年(大正11年)に除隊し帰国。帰国後は画家を志し、日本美術学校(現・日本美術専門学校)に入学。村山知義らが主宰する前衛芸術集団『マヴォ』に参加し高見沢 路直と名乗っていたものの深入りはせず、1926年(大正15年)に卒業。
 卒業後、展示装飾の手伝いや広告デザインの仕事でどうにか食いつなぐ売れない絵描き時代を過ごしていたが、もうひとつの夢であった文筆業への進出を試みる。当初は小説を売り込もうと考えていたが、ライバルが多すぎる上に出版社自体も無名の新人は使わないだろうと考え、当時の大衆誌に必ずといっていいほど掲載されていた落語や講談に目を付け、書き下ろし新作の落語の執筆に取り掛かる。
 書き上げた新作落語を大日本雄辯會講談社の「面白倶楽部」に持ち込み掲載されて以降、講談社の別の雑誌からも依頼が来るようになり、売れない絵描きは一転、落語作家として売れっ子になる。当時のペンネームは「高沢路亭」という年寄りみたいなものであり、最初の持込みのときに、対応した編集者から使いの者と勘違いされたというエピソードがある。なお、水泡の新作落語は今日にも残っており、初代柳家権太楼や桂文治 (10代目)が得意としていた『猫と金魚』が有名。
 落語作家として売れっ子となる中で、美術学校卒業という経歴が面白がられ、新作落語に挿絵も描いてほしいという依頼を受けるようになる。1年後には、編集者から依頼を受け、新作落語執筆の合間に漫画の執筆に取り掛かる。初連載は1929年(昭和4年)の『人造人間』。ロボットを主人公としたSF作品であり、日本のロボット漫画のパイオニアとも言える。
 漫画家としてのペンネームは、当初は本名の高見澤をもじった田川水泡(たかみざわ)だったが、その翌1930年(昭和5年)には田河水泡(たかみざわ)に変更。しかし、変則的な読みのせいか、いわゆる誤植に悩まされることになり、当の漫画自体の作者名の部分でさえ「たがわ・すいほう」「たがわ・みずあわ」とルビを振られる事が多かった。当初田河は自筆サイン(おたまじゃくしマーク)にわざわざMIZAWAと言葉を添えるなど対応していたが、少なくとも1932年(昭和7年)頃には自らもタガワスイホウと書くようになり、徐々に「たがわ・すいほう」として定着していった。
 なお、漫画を描くようになってからまもなく、漫画発表の舞台を一般雑誌から子供が読む雑誌(婦人向け雑誌も含む)に移し、初の子供向け連載が1929年の『目玉のチビちゃん』になる。
 1929年(昭和4年)、『目玉のチビちゃん』連載開始と前後して結婚。同作の連載終了後、『のらくろ』の執筆に取り掛かる。同作の執筆のきっかけは、結婚後犬を飼い始めた事により、昔写生中に見た陽気な真っ黒な犬を思い出し、あの犬が今どうなっているか気になったので描いてみたというものである。設定を軍隊にすることにより、自らの徴兵時代を反映させる事が可能になり、独特の世界観を作り上げていった。同作は主人公の階級が上がるたびにタイトルが変わっていくという実験的な作品でもあったが、爆発的な人気を獲得。戦前としては異例の長期連載となった。また、いわゆるのらくろグッズが市場に溢れることになり、日本で初めて漫画のキャラクターが商業的に確立した作品とも言える。1941年に打ち切られるものの、その影響力は凄まじく、幼い頃の手塚治虫はのらくろを模写し、技術を磨いていたという。
 戦後はのらくろの執筆を再開する一方、落語の執筆も再開。さらには日本人の笑いの研究に取り掛かる。漫画以外の書籍が増え、文化人的な存在へと変わっていく。1969年に紫綬褒章を受章。同年、山野を買い取り、それを宅地分譲しながら教育を始めたことで知られる玉川学園八丁目に移住。小田急線を挟んで、南北反対側の高丘の上に居を構えた遠藤周作と並んで、玉川学園という住宅地の代表的な文化人のひとりだった。
 後半生はクリスチャンであった。『サザエさんうちあけ話』によると、長谷川が弟子になったときにクリスチャンである長谷川に夫妻で付き添って自宅の隣にあった教会に通ったところ、後に夫妻で洗礼を受けることになったという。死後に夫人が出した『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝(1991年)』では、入信の理由は何度も失敗してきた禁酒を今度こそ成功させるために信仰の力を借りようというものだったとされる。
 代表作「のらくろ」が戦前の作品であるせいで、昭和の終わりごろにはすでに物故者と勘違いされることが多く、新聞記事等で「故・田河水泡」と誤って表記される事件が何度も起こった。
 1989年12月12日、肝臓癌のため死去。90歳没。
 1998年に遺族は、遺品を生地の隣区である江東区に寄贈した。公益財団法人江東区文化コミュニティ財団が運営する「森下文化センター」1階を、田河の常設展示館「田河水泡・のらくろ館」として、ここで常設展示されている。当地は生地の至近である。田河に関する唯一の展示館である。
 弟子に『サザエさん』の長谷川町子や『あんみつ姫』の倉金章介、『猿飛佐助』『ドロンちび丸』の杉浦茂、滝田ゆう、山根青鬼・山根赤鬼、森安なおや、伊東隆夫、野呂新平、ツヅキ敏、永田竹丸などがいる。
 叔父に浮世絵複製の『高見沢版』で有名な高見沢遠冶。夫人の高見沢潤子は、文芸評論家小林秀雄の妹にあたる。
 
(「」より)
 
次第にシャッター通り化しつつあるようですが。
 
やっと「小名木川」へ。「西深川橋」。東を望む。
 
西を望む。遠くに「新小名木川水門」が。
 
上(西)が隅田川。
 
「新小名木川水門」。
 
その先に「萬年橋」。 
 

葛飾北斎 富嶽三十六景「深川萬年橋下」

歌川広重 名所江戸百景「深川萬年橋」

                                (注:二作とも「Wikipedia」より)

萬年橋は、小名木川の隅田川口に架けられており、江戸時代には、富士山がきれいに見える名所として知られ、北斎の「富嶽三十六景」や広重の「名所江戸百景」などに描かれました。現在の橋は昭和5年(1930)に架けられました。平成21年(2009)からはライトアップが開始され、新たなランドマークとして深川の夜を彩っています。

(この項、「江東おでかけ情報局」HPより)
 
 河口から見る「萬年橋」。
 
 
 
「隅田川」との合流地点。
 
 それにしても、全土に新型コロナ感染症拡大の渦中、「宰相」の器でない(まったく不向きな)御仁がトップに立つと、民は苦しむばかりですな。「緑のタヌキ」「イソジンあんちゃん」「きしめん親父」も同様、他にも・・・。
 
「君 君足らずといえども、臣 臣足らざるべからず」ですか。「主君が不徳で主君としての道を尽くさなくても、臣下は臣下としての道を守って忠節を尽くさなければならない。」てなわけで、大臣以下、官僚まで唯々諾々と従っている(ふり)?
 一方で、この文言の載った『古文孝経』は、偽書である、とか。たしかに暗愚なお上にとっては実に都合のいい論ですね。
 むしろ『論語』の「君 君たり、臣 臣たり、父 父たり、子 子たり」で世が治まる、という方がちょっとまともだと思いますが。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クローバー橋。五本松跡。扇橋閘門。江東区「小名木川」。その4。(「鮮魚街道」番外編。)

2020-12-16 22:19:48 | 鮮魚街道

「小名木川 クローバー橋」。

小名木川クローバー橋は、猿江・大島・北砂・扇橋の4地区を小名木川と横十間川の合流点で結び、地域社会に快適な生活と、人と文化の交流を提供できるランドマークとしての意義が深い橋として計画されました。完成は平成6年(1994)12月で歩行者と自転車専用橋です。橋の真ん中に四つ葉のクローバーが描かれていて、ロケ地としてもしばしば利用されています。

(この項、「」HPより)

この橋がなかった頃は、お互いの行き来する橋が限られていて、さぞ不便だったでしょう。まだその時分、この辺り一帯は川をはさんで工場街だったためにさほど不便は感じなかったでしょうが、次第に工場が撤退し、住宅が増えて来たり、スポーツ会館が出来た頃には、さぞかし不便だったと思います。


1970年代のようす。まだ橋が架かっていない。

2010年代のようす。

夜景

HPより)

 

横十間川水門橋」。

若洲風力発電施設に続く新たな再生可能エネルギーのシンボルとして、横十間川親水公園・水門橋にマイクロ水力発電施設が完成しました。(平成27年3月18日)

発電の様子を実際に目で見て実感してもらうことによる環境学習、及び「水彩都市・江東」を象徴する新たな観光資源として活用していきます。
発電した電気は電力安定化装置で整えた後に、表示モニター、ライトアップ用LED照明、カメラに利用しております。
発電出力は最大で1KW程度、1ヶ月の発電電力量は600KWh程度になります。

所在地:江東区扇橋3-22先

(注)発電出力が小さい場合(300W程度)、表示モニターは表示されません。
横十間川親水公園の水位は潮位の影響を受けています。潮位が低い時は、水門橋の下を流れる水の落差が小さいため、発電出力が小さくなります。

(この項、「江東区」公式HPより)

「四つ目通り」五本松跡。

               

江戸時代、小名木川北岸の九鬼家の屋敷に、枝を張った形の良い老松があり、徳川吉宗が感嘆したことから有名になり、広重が描いたり、芭蕉もこの場所に舟を止め、「川上と この川しもや 月の友」の句を残しています。この松は、明治の末に枯死しましたが、昭和63年(1988)9月に現在の地に復活しました。

(この項、「」HPより)

今宵は名月。私はこうして小名木川の五本松で川面に揺れる月を眺めているが、この同じ川上には私の心の友もこれと同じ月を眺めているであろう。
 川上で眺めている「月の友」が誰であるかはもちろん分からないが、古来山口素堂であろうといわれているようです。

歌川広重「名所江戸百景 小奈木川五本まつ」。(「Wikipedia」より)

その脇に「五百羅漢道標」。

五百羅漢道標
 五百羅漢道標は、五百羅漢寺への道筋を案内する道しるべです。かつては、現在地より50mほど東にあった庚申堂の前に、川に面して建てられていました。正面には「是より五百らかん江右川[ ](通) 八町ほど先へ参り[ ](申)」、右側面には「此横道四ツ目橋通り亀戸天神□」とあり、亀戸天神への道も示しています。
 造立年代は不明ですが、左側面の銘文により享保16年(1731)、寛政9年(1797)、文化2年(1805)の計3回再建されたことがわかります。現在の道標は文化2年(1805)に再建されたものです。
 五百羅漢寺とは、明治20年(1887)まで現在の大島4-5付近にあった、天恩山五百阿羅漢寺(現在は目黒区に移転)のことです。堂内に安置された536体の羅漢像やらせん状の廊下をもつ三匝堂(通称さざえ堂)が有名で、亀戸天神と並び多くの参詣客を集めました。
 この道標は、川沿いの道を歩く人はもちろんのこと小名木川を船で訪れる人の目にも留まるように建てられていました。陸上と水上の両方の道を対象とした、水路の恵まれた江東区ならではの文化財です。(「解説板」より)

この道標は大島の羅漢寺あるいは亀戸天神社へ参詣に訪れる人々の案内板の役割を果たしていました。また、小名木川を通行する船や、川沿いの道を往来する人々にとって江戸の境界を示すランドマークとしても機能していました。この道標が小名木川に向って建てられていたことは、川岸を歩く人々だけでなく、船から見えることも意図していたと考えられ、陸路と水路の両交通路を対象とした特徴を持っています。

(この項、「江東区」公式HPより)

「小名木川」を望む。

この先、自転車で通れる川沿いの道はなく、ぐるっと回り道。振り返ると、大横川との交差地点。その向こうに「扇橋閘門」が見えます。ここも紹介したことがあります。

・・・

隅田川側(前扉)。
水路。残念ながら柵ごしで水面は見えず。
小名木川側(後扉)。この間が調整水路。
北側にある小さな流水口からは、勢いよく大量の水が噴き出しています。水面の差を実感します。
後扉。

「閘門」とは、水面の高さが違う2つの川のあいだを船が通行出来るようにするための施設。川と川のあいだに前後二箇所に水門をつくって、水位を調節し、水面の高さを同じにして船を通す方法で、まさにパナマ運河と同じ。
 江東区の内部水域は、地盤沈下の影響から水位を隅田川の平均潮位に比べ、マイナス1M下げて常に一定にしています。そのため、満潮時の水位差は、3メートル以上。この水位差を調整しながら船を航行させる施設が、扇橋閘門。

・・・

江東区は、今も昔も、東西、南北を貫く運河の多い街です。

                     2010年代のようす。上部に「小名木川」。

木場があったため、1970年代の写真では、南にある「仙台堀川」などには丸太が川面にたくさん浮かんでいます。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芭蕉句碑。石田波郷句碑。釜屋の渡し跡。江東区「小名木川」。その3。(「鮮魚街道」番外編。)

2020-12-15 21:38:20 | 鮮魚街道

                      西へ向かいます。所々、川沿いの遊歩道に。

振り返る。

石積みや燈籠などもあり、江戸情緒あふれる川辺づくり。

「小名木川」と交差する「仙台堀川(公園)」と「横十間川(親水公園)」案内図。どちらも、探索したことがあります。変化に富んだ「水辺・親水公園」になっています。

「大島稲荷神社」にある「松尾芭蕉」像。

     「松尾芭蕉翁石造像建立之詞書」

「松尾芭蕉ゆかりの大島稲荷神社」解説板。

由緒

女木(注:小名木)塚の裏に其日菴社中造立とありますが、年代不詳。この句は大坂へ旅立つ2年前の元禄5年(1692)芭蕉50才の時奥の細道に旅立する前の句でありまして、芭蕉は深川から船で川下りをして神社の前を流れる小名木川に船を浮かべて洞奚宅に訪ね行く途中、船を留めて当神社に立ち寄り参拝を致しまして境内の此の森の中で川の流れを眺めながらその際、詠んだのがこの句であります。

秋に添(う)て行かは(ば)や末は小松川

の句を残しております。その後年、其日庵の俳人たちが芭蕉をしのんでゆかりの深い大島稲荷神社に句碑を建立、その面影が偲ばれます。建立は江戸時代といわれ拓本を取る人も多い。松尾芭蕉が奥の細道に旅立って今年元年(注:平成元年)が300年目の年に当たります。

「女木塚」の下に句が刻まれている。

この句碑は、もとは愛宕神社(大島5丁目)にありましたが、後に第二大島中学校に移され、さらに現在地に移されたそうです。のち、「愛宕神社」は、「大島稲荷神社」に合祀されました。また、大島2丁目にある「愛宕神社」は別の神社で、そこに一茶が仮寓していたといわれ、境内に一茶の句碑「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」があります。

雀の子そこのけそこのけ御馬が通る

碑文の「秋に添うて行かばや末は小松川」は、元禄5年(1692)、芭蕉が50歳の時に詠んだ句。『芭蕉句選年考』には、「九月尽の日、女木三野に舟さし下して」の前書で、桐奚(とうけい)・珍碩(ちんせき)の句とともに所収しています。また、『陸奥鵆』(むつちどり)には、「女木沢桐奚興行」の前書で、「秋に添て行ばや末は小松川」とみえます。(注:「女木沢<おなぎさわ>」は東京都江東区北砂町近くの小名木川、「小松川」は小松川村、砂村(江東区砂町)のこと。)

松尾芭蕉奥の細道旅立ち三百年記念句碑

五月雨をあつめて早し最上川 大島稲荷神社 平成元年(1989)9月19日 第6代宮司 佐竹良子建之

先に進みます。

橋の上から川面を眺めていると、向こうから。

             「サーフボード」を器用に操って青年が。

「進開橋」のたもとに「石田波郷句碑」。

雪敷ける町より高し小名木川(「砂町を愛した俳人 石田波郷生誕百年記念碑」」

 ちなみに、江東区の地盤は、海抜ゼロ㍍(-)地帯が多く、地面より川の水位の方が高い。かつては、大雨のたびに浸水していました。亀戸駅前にある水位計では海抜ゼロ㍍のラインが頭上に記されているほど。「小名木川」もそのため、そそり立つようなコンクリート堤防で囲まれていました。現在もこのへんの家々には、土嚢が配布されているとか。

その先に「越中島貨物線小名木川橋梁」。趣のある鉄橋です。

「釜屋の渡し跡」解説板。

釜屋の渡しは, 上大島村(大島1)と八右衛門新田(北砂1)を結び, 小名木川を往復していました。名称は, この対岸に 江戸時代から続く鋳物師, 釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳 造所があったことにちなみます。写真は明治末ごろの釜屋のようすです。川沿いに建ち並ぶ鋳物工場と, そこで働く人びと や製品の大釜が写っています。
 明治の初めごろにはすでに, 対岸の農耕地などへ往来する 「作場渡し」に類する「弥兵衛の渡」がありました。「大島町誌」 (昭和7年刊行)によれば, 大正7(1518)年7月5日に「営業渡船」として許可されています。利用状況は, 平均して 1日大人200人, 自転車5台, 荷車1台で, 料金は1人1銭, 小 車1銭, 自転車1銭, 荷車2銭, 牛馬1頭2銭とあります。
 「城東区史稿」(昭和17年刊行) には営業の記載があるので, それ 以後に廃止されたものと思われます。

  「椿園について」

昭和61年11月21日、伊豆大島三原山の大噴火によって全島民約1万人が島外避難する有史未曾有の出来事がありました。その際、本区では区立スポーツ会館を避難場所として1,074名の避難者の救援に努めました。この椿の木は、避難者の皆様からお世話になったお礼にと50本の寄贈がものです。ここに、大島島民の厚意を記念するとともに、伊豆大島の繁栄を祈念して椿を植樹したものであります。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「中川船番所」跡。旧小松川閘門。江東区「小名木川」。その2。(「鮮魚街道」番外編。)

2020-12-14 21:01:41 | 鮮魚街道

              「小名木川」べりにある「中川船番所跡」解説板。

 中川船番所は中川番所・中川関所とも呼ばれ、江戸と関東各地を結ぶ河川交通路上に設けられた関所です。寛文元年(1661)に、それまで小名木川の隅田川口にあった幕府の川船番所が移転したものです。建物は小名木川に面し、水際には番小屋が建てられていました。主に、夜間の出船・入船、女性の通行、鉄砲などの武器・武具の通関を取り締まるなど、小名木川を通る川船の積荷と人を改めることを目的としました。

 また、中川対岸の船堀川(注:新川)から、江戸川・利根川水系へと延びる流通網の要として、江戸中期以降には、江戸に送られる荷物の品目と数量を把握する機能も担うようになり、海上交通路上における浦賀番所(現横須賀市)と並び、えどの東側窓口として重要な役割を果たしてきました。

 明治2年(1869)、全国の関所が廃止されたのに伴い中川番所も廃止されました。平成7年に行われた発掘調査では、陶器片などの資料とともに建物の遺構が確認されました。

旧中川河川敷が小公園になっています。

 ボートの練習?若くはなさそうですが。 

旧中川の東は、「大島小松川公園 風の広場」。

高台に「旧小松川閘門」(↓)が。

「旧小松川閘門」は訪れたことがあります(2012年9月)。再掲します。

・・・

小名木川・旧中川合流点付近と荒川を結んでいた「小松川閘門」。すでに役目を終えて、元あった場所に埋もれたまま保存されています。「大島小松川公園」南のブロック「風の広場」の丘の上。
説明板。
 
 この建物は、その昔、小松川閘門と呼ばれていました。
 閘門とは水位の異なる二つの水面を調節して船を通行させる特殊な水門のことです。
 川は、現在のように車などの交通機関が普及するまでは、大量の物資(米、塩、醤油など)を効率よく運べる船の通り道として頻繁に利用されました。
 ここは、その船の通り道である荒川と旧中川との合流地点でしたが、たび重なる水害を防ぐために明治44年、荒川の改修工事が進められ、その結果、水位差が生じて舟の通行に大きな障害となりました。
 この水位差を解消させるために昭和5年、小松川閘門が完成し、その後、車などの交通機関が発達して、舟の需要が減少し閉鎖に至るまでの間、需要な役割を果たしました。
 本来、この閘門は、二つの扉の開閉によって機能を果たしていましたが、この建物はそのうちの一つで、もう一つの扉は現在ありません。
 また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっていて昔の面影が少ないのですが、今後、この残された部分を大切に保存して周辺地域の移り変わりを伝えるのに役立てる予定です。

 この遺構は、旧中川側のもの。かつては、今の「荒川ロックゲート」付近にも「小名木川水門」があり、また、対岸の船堀側には荒川(放水路)と中川(放水路)を結ぶ「船堀閘門」がありました。これらによって、隅田川~小名木川~荒川~中川~新川という水運が開かれていました。
 もともと荒川放水路が開削される以前(明治44年以前)は、江戸・隅田川(大川)から江戸川以東まで水運が盛んで、小名木川・中川・新川・江戸川・利根川と結ばれていました。
 地図の左の水路が「小名木川」、中央の流れが「中川」、右下が新川、上から合流するのは小松川境川。
右の赤い線が「新川」、左の赤い線が「小名木川」。
左のは、旧中川と荒川の間にあった「小名木川水門」の位置、右のは、荒川と中川の間にあった「船堀閘門」の位置。
荒川と中川との間にあった「船堀閘門」が撤去されています(×のところ)。
 現在は、「荒川ロックゲート」によって、旧中川(小名木川・隅田川 注:隅田川と小名木川とは「扇橋閘門」で結ばれている。)と荒川とは船で行き来できるのみです。なお「船堀閘門」の上部遺構は北区赤羽にある「荒川知水資料館」前に保存されている、とのこと。
頑丈な造りになっている。
上部。
全体像。かなり大型な建築物。
閘門遺構から西側を見る。正面は、旧中川と小名木川との合流点。小名木川は「塩の道」とも呼ばれていた。遠くに見えるのはスカイツリー。
旧中川の流れ。ずいぶんと浄化されています。
「荒川ロックゲート」旧中川と荒川の水位の差をなくして船を航行させる仕組み。2005(平成17)年完成。荒川側のゲート。
旧中川側。
ゲート間の水路。
ゲートから荒川を望む。対岸が船堀地区。かつて「船堀閘門」が荒川と中川との間にあったが、撤去された。首都高・橋脚下あたり。
説明板。開いている時間帯には施設内を見学できる。
「大島小松川公園」。広大な敷地。多目的広場や遊具アスレチック、ジョギング・サイクリングロードなどあり。
旧中川と荒川にはさまれた地域。かつては工場があり、船の接岸施設などもあった。この地域の北西側一帯(写真上では左側地域)は、昭和20(1945)年3月10日・東京大空襲で壊滅的な被害を受けた。
遠くに見えるのはスカイツリー。

・・・

 

振り返って東側を望む。

一直線で西に向かう人工の運河。

1880年代のようす。川の周囲は町屋の他は、水田。

2010年代のようす。すっかり住宅街になっています。

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中川船番所資料館。江東区「小名木川」。その1。(「鮮魚街道」番外編。)

2020-12-11 22:40:06 | 鮮魚街道

                  「中川船番所資料館」

 今回。江東区内を東西に貫く「小名木川」探索。ところが大失敗! 「新川」は、遊歩道を自転車でも通れましたが、ここは、自転車を押して歩いてもダメ! それを知らずに自転車で出かけてしまいました。

 自転車を置いて歩くのはけっこう大変そう。いいや、自転車で川沿いに行ってみよう! ところが、川に沿って進めないところが何カ所も。高い堤防で行き止まりのところも多い。何度も川から離れてぐるっと遠回りしていくハメに。

歴史クルーズ『お江戸日本橋舟めぐり(「小名木川コース)』の運航がありますが、新型コロナウィルス感染症の感染拡大防止のため、現在はやっていないようです。

(「」HPより)

 

「明治通り」から「丸八通り」へ。さらに「新大橋通り」から都営新宿線「東大島」駅脇を抜け、「中川船番所資料館」に向かいます。

付近の地図。左が「旧中川」、斜めの川が「小名木川」。上方に「荒川」。

資料館入口にあった「田船」。

 深田に浮かべて、肥料や刈り取った稲を押し運ぶのに用いる小舟。弥生時代から用いられている。

水郷や沼などで、乗用や農作物の運搬などに使用される平底の簡単な作りの舟。(「デジタル大辞泉」より)

中川船番所の再現

                

寛文元(1661)年に、江戸を出入りする船を取り締まるために小名木川の隅田川口に置かれていた「深川口人改之御番所」が、中川・小名木川・船堀川の交差する中川口に移転し「中川番所」となりました。
中川番所があった場所については現在の江東区大島9丁目1番地と推定されていましたが、平成7(1995)年の発掘調査において柱材や礎石などが出土したことにより、中川番所跡であることがほぼ確定しました。中川船番所資料館は、この番所跡地より北に50メートルほど離れた場所に建てられています。

(この項、「江東区」HPより)

江戸名所図会『中河口』「中川番所」。

高札現代語訳のもの。

一.夜間の江戸からの出船は禁止、入船は許可する。
一.中川番所前を通過する時には、乗船している人々は笠や頭巾を脱ぎ、船は戸を開けて内部を見せる。
一.女性は身分の上下によらず、たとえ証文があっても一切通行は許可しない。
一.鉄砲は二、三挺までは改の上通行を許可するが、それ以上の場合は指図を請ける。その他の武具についても同様である。
一.人が入ることのできる大きさの器は確かめた上、異常が無ければ通す。小さい器に関しては改には及ばない。万一不審な点があれば船を留置き報告をする。

附 囚人や怪我人、死人についても、証文がなければ通行は許可しない。

1880年代のようす。小名木川と中川の交差するところに番所跡。

2010年代のようす。番所跡の少し北側に資料館。

当時の風景を模した絵。

当時の水運、海運の概念図。

「中川屋清蔵」の役割。

「塩の道・小名木川」の全容。

広重「名所江戸百景 中川口」。手前が「小名木川」で、左下に「中川番所」の建物や石段が描かれている。中央を左から右に「中川」が流れ、その奥が「新川」。

「資料館」には、当時の番所の役割・ようすが詳しく展示されています。別の階には釣り道具や魚拓など釣り関係の展示が豊富に。

眼下を見下ろす。「旧中川」の流れ。

南を望む。右手奥に「小名木川」。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新川西水門遺構。火の見櫓。中川・荒川。江戸川区「新川」。その3。(「鮮魚街道」。番外編)

2020-12-07 18:52:35 | 鮮魚街道

桜の他にも。ピラカンサの赤い実が鈴なり。

解説板。

新川

新川はかつて船堀川と呼ばれ、その川筋は旧江戸川から現在の古川親水公園を経て中川(旧中川)に通じていました。寛永6年(1629)に三角から新川口までが新たに開削されて、全長約3kmにわたる今の新川が生まれました。

この新川は、銚子や行徳から年貢米、味噌、醤油等を江戸に運ぶ重要な水運路として利用され、江戸中期には人の往来も増え、成田詣の人々を乗せた行徳船が行き交うようになりました。

明治時代を迎え、通運丸などの長距離の定期蒸気船が就航し、さらに大正時代には小型の定期船である通船が地元の人々の足となりました。また、この頃の新川は白魚が群れをなし、子ども達は川を泳ぎ廻るなど生活と密着したものでした。しかし、江戸川や中川に橋が架けられ陸上交通が盛んになると輸送の主力は陸に移り、昭和19年(1944)に通船が廃止され、輸送路としての役割を終えています。

その後は、周辺の地盤沈下により堤防を高くしたため水面を眺めることができなくなるとともに、工業排水や生活排水が流れる川になってしまいました。そこで、昭和47年(1972)に新川が再び私たちの生活に身近かで安全な川となるよう整備計画をたてました。

まず、昭和51年(1976)には東西の水門を閉鎖し、川の水位を周辺の土地より低く調整して安全性を向上させました。そして、旧江戸川から浄化用水を取り入れ中川に排水しています。

一方、下水道計画では新川の中流域にポンプ所を建設する予定であったため、大雨のたびに汚水の混じった雨水が新川に流れ込みきれいな水質を保つことができない状況にありました。そこでこの計画を変更し、これらの雑排水を直接中川に放流できるよう第一製薬(株)用地を一部買収して現在の位置に新川ポンプ所を建設しました。その後、周辺地域の下水道施設完備により、新川はきれいな水が豊かに流れる一級河川にふさわしい親水空間として甦ることができました。

平成5年(1993)からは念願であった堤防の撤去をはじめとする環境整備工事が始まりました。

かつて舟運路として栄えた河川の姿から様々な歴史を経て今日ここに再びゆとりある親水河川として生まれ変わりました。

平成9年6月

「新川」の西端。「新川排水機場」。

火の見櫓」。奥に見えるのがかつての「新川西水門」遺構。

東方向を望む。

 

「新川」と「中川」を仕切る水門。

橋の一覧。木橋風のものが多い。

名所江戸百景 中川口」歌川広重

手前が小名木川で、左下に中川番所の建物や石段が描かれています。中央を左から右に中川が流れ、その奥が新川です。江戸時代から昭和中期まで、水運の動脈でした。この絵にも材木筏や船の運航が盛んであった様子が描かれています。

「新川西水門」跡。

解説板。

新川西水門跡

高度経済成長時において、工業化による地盤沈下が進み高潮に耐えられなくなったため、昭和37年から40年にかけて東西の水門を、昭和41年から43年にかけては、新川排水機場を設置しました。台風等の高潮や異常潮位に際しては、排水機場から中川に排水していました。昭和51年以降は東西の水門を常時閉鎖して新川の水位をAP+0.5㍍まで低下させて安全性を確保しました。そして、水門の役目を終わった新川西水門がここにあったことを記憶に留めておくために、その柱の一部を残しました。

櫓の上に上がってみます。

四方が見渡せます。

中川の向こうの流れは「荒川」。

遠くに「スカイツリー」。

船堀駅方向。

    

十月桜」。 

中川沿いにあるテラスへ。

   荒川と旧中川との間に設置された「荒川ロックゲート」(↓)。その少し上流(右手)に「小名木川」があります。

首都高中央環状線

            

次回は、「小名木川」を探索します。

(「今昔マップ」より)

「荒川放水路」開削前。          赤い線が「新川」の旧流路。青い線が「小名木川」。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新川さくら館。船堀タワー。川下駐車場。江戸川区「新川」。その2。(「鮮魚街道」。番外編)

2020-12-04 20:57:26 | 鮮魚街道

                      浮島風。

水鳥がけっこういます。

魚を口にくわえたが、落とした! 

護岸も石積みに

船着場も設置。

以前よりも多く人道橋など南北に通じる橋が架けられています。

「宝橋」。

              「花見橋」。広場風。

東方向を振り返る。

   

                           新川を行き交う船

 新川は、江戸時代から昭和の初期に至るまで、舟運の重要な川でした。明治になると、利根丸、通運丸、銚子丸等の旅客船や貨物船が就航しています。上の写真は、明治10年に就航した「通運丸」です。下の写真は、高橋(江東区)と浦安の間の定期船である葛飾丸などの小型船でエンジン音から「ポンポン蒸気」と呼ばれ親しまれました。 

紅葉した両岸の桜並木。 

 

遠くにスカイツリー(↓)。芦がそよぐ。

           船堀タワー」(↓)。

自由に展望台に入場できるタワーとしては都内3位の高さを持つため、1位の東京スカイツリー、2位の東京タワーと並べて「都内三大タワー」の一つに数えられることもあるらしい。 

「新川さくら館」。

新川さくら館は、新川の歴史を後世に伝えるとともに、お休み処や広場などを活用したイベントの開催により、新川を訪れる人々との交流を図る地域の拠点となる施設です。また、集会室や多目的ホールを備え、文化活動や軽運動などにもご利用いただけます。(「江戸川区」HPより)

蔵造りをイメージした建物。

けっこう粋な印象。

「お休み処」では、江戸川区の伝統工芸品やお飲み物などを販売しています。

ここで小休止。

この先、「新川」の地下には大きな「新川地下駐車場」があります。

                                延長:約484㍍、幅員17㍍。

空きが多いようです。が、高級車がけっこう置いてあるそうです。「核シェルター」にもなるとか?

この川の下に「駐車場」とは! 「宇喜田橋」付近まで。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする