おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

ますます「オー、ザワザワ」

2012-04-27 08:07:16 | つぶやき
小沢氏に無罪判決 陸山会の土地取引事件 東京地裁(朝日新聞) - goo ニュース
 無罪でも有罪でも政界は大騒動の気配。小沢さんは、いつでもどこでも、時の人です。
 こうして10年以上も、小沢に振り回されるのは、NO! という思いも、空しい感じ。
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ケイソツだった、くらいにしか思っていないようだ

2012-04-26 11:05:35 | つぶやき
失態の京都府警、会見10分…ほとんど答えず(読売新聞) - goo ニュース
「配慮が足りません」「申し訳ない」「不手際があった」「交通課長が事情を説明すれば、ご理解いただけると思った。」・・・。何をか言わんや。
 このところ、千葉にしても京都にしても警察が軽率な判断をして、人間の命に関わる重大な事件・事故を軽んじてはいないか。
 頭を下げてマスコミから逃れ、トカゲのしっぽ切りをして事を済ます、警察機構に大きな問題があり。
 人命、人権を軽率にとらえる警察は、言語道断。


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またまた、ひとこと「行き当たりバッタリ」

2012-04-24 09:17:37 | つぶやき
公明批判受け全面審議拒否から転換 自民はや腰砕け(産経新聞) - goo ニュース
 行き当たりバッタリ(倒れた自民)。
 産経の論調、地団駄踏んだ内容となっています。「今後も民主、自民両党の行き当たりばったりの国会運営は続きそうだ」って、どっちかと言えば、自民党でしょう、行き当たりばったりなのは、と世間は思っている。
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懲りずに、ひとこと

2012-04-22 15:40:11 | つぶやき
「再稼働せんなら大阪湾に原発を」 おおい町で会合(朝日新聞) - goo ニュース
 「おおいにけっこう」「おおいでけっこう」(大阪市長)。はたしてどちら?
 
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すっきりしない今日この頃のお天気です。

2012-04-21 17:35:40 | つぶやき
 4月21日(土)。春たけなわの季節、のはずなのに、朝晩はけっこう肌寒く、朝方はストーブのお世話に。この季節、不順な天気が多いですが、それにしても・・・。
 先日の朝日新聞の報道では、太陽が冬眠期に入りつつある、とか。まもなく地球全体が低温化に。かつて同様な時期には、テムズ川が凍り付いた、日本でも桜の開花が遅れた。今よりも2,3度低かったらしい。それが短期間ではなくて、何十年も続くという。何だかもうその時期にさしかっているのではないか、と思うような陽気です。
 「地球温暖化」、特に二酸化炭素の増加などによる人為的なものだと、世界中でその進行をくい止めるための方策があれこれ・・・。一方では、むしろ、地球は氷河期を迎えつつつつあるという学説も、根強くあります。
 以前、アメリカがくしゃみをすると日本は風邪を引く、と日本の政治や経済の米国への依存体制を喩えられました。太陽が少しご機嫌斜めになると、地球上の多くの生物は、くしゃみどころではなくなってしまう。なにしろ、恐竜が死滅したのは、隕石の衝突による地球の寒冷化劣化だったということらしいから。
 それでも、野辺の草花たちは、一斉に花開き、短い命を輝かせています。
 「輝く太陽があってこそ穀物は実る」今日のトイレに提げた日めくりのひとことです。比喩どころではなく、まさに実感です。東京地方、明日も明後日も、ぐずついた空模様のようです。
公団の桜並木もすっかり葉桜になりました。
それでも、樹下には草花が咲きそろってきました。
名のない草はありませんが、名の知らない草は多くて・・・。
タンポポも、綿毛になっています。
駐車場の片隅。
群がって咲く小さな白い花。花の名前は、これから図鑑で調べます。これは、名の知られた花のようですが。
最近は、日本固有の植物よりも外来種が増えて、こうした道ばたにも多いような気がします。この間、立ち寄った「生花」展。古流も池坊も草月も、そこで用いられている草・木・花など、カタカナ書きが多く、明らかに西洋種を見かけました。今も昔も、外来種を改良しつつ、日本の風土に順応させてきたわけですが、葉も花も茎も艶やかで人目を引くものが多いせいでしょうか。そうした素材を適材適所で生かすのが、まさに「生け花」の本質?
 
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享年百歳

2012-04-19 19:56:59 | つぶやき
 義母が亡くなりました。生前、本人は、百歳まで生きたいと言っておりましたが、満で98歳、もうじき99歳になるところでした。残念でしたが、その前に。戒名を頼んだところ、数えで百歳です、ということで、「享年百(歳)」。こうしてご本人の念願が叶ったわけです。家族親族も長寿を祝う感じで、お葬式も何だか温かい雰囲気、ひ孫を含めて家族を中心に、生前のお婆さんを偲ぶ会的な・・・。晩年は施設に入っていましたが、それほど多くの方に迷惑をかけなかった。何しろ香典のお返しの中には紅白のタオルがあったくらいですから。
 季節の変わり目、最近なくなられる方も多いですが、聞くと93歳、92歳と90歳を超える方々。それぞれ晩年は老々介護の状態で、傍目にみても身内の方々は大変な苦労もしたでしょうが・・・。
 ところで、亡くなった年齢を数え年で数えるのか、満で数えるのか、それぞれ宗派によっても、地域によっても違うようです。現在は、満年齢にすることが多い? どちらが正しいとかではないと思いますが。また、「享年」「行年」という表記(言い方)の違いもあるようです。さらに、「歳」を付すのか付さないのか・・・。
 Wikipediaによると、
 
 享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すことが一般的になりつつある。
 本来は数え年の年齢で表すものであり満年齢を使用することは厳密には誤りであったが、実生活の中で数え年を使う機会が減少した現代の日本において享年に満年齢を用いることが一般的になりつつある。ただし、国立国語研究所のFAQでは、「享年」は「この世に生をうけた年数」なので、かぞえではなく、満で数えた年齢をいうのが適当としている。数え年は元日を基準とするので新暦の導入以前は暦法により元日が新暦とは異なるため、数え年の数え方には注意が必要。
また享年に年齢を数える単位である「歳」を付けることも本来は誤用であったが、満年齢を用いることと同様に享年に「歳」を付ける表記も一般的になりつつあり『広辞苑』の凡例にも「-九十歳」と記載されている。「数え年でなければ誤り」「歳を付けるのは誤り」とは、言い切れなくなりつつある。国立国語研究所のFAQでは、使ってとがめられるほど大きな間違いとはいえないとしている。仏教の宗旨によっては、享年の数え方を数え年に限定している場合もある。
 
 とのことです。
 一方で、数え年と享年・行年○○(歳)とは異なるということらしい。
 「MCプロデュース」という会社のHPでは、
 
 数え年と、享年・行年を比較しますと、数え年は、生まれた時に1歳、以後正月ごとに1歳加齢。享年・行年は、誕生日の十月十日前から、死を迎えるまでの年を数えたもの。ですから、必ずしも数え年と享年・行年が一致するわけでもないのです。そして地域や各寺院の考え方により、享年・行年の考え方も違ってきます。(中略)
 参考までに、仏教辞典によれば享年・行年とは、天・大自然から享(う)けた年数という意味で、この世に存在した年数のこととあるようです。「この世に存在した」という意味の解釈を誤らないことですね。
 いずれにしても、享年や行年というのは、大宇宙・大自然、そんな命の源から誕生した尊い生命が、またそこへ還っていく…その意味が、享年や行年という言葉に込められているのであって、仏教的な素晴らしい考え方を反映しているものでしょう。

 とのこと。たしかに蘊蓄の在る表現ですね。
 


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読書「賢治オノマトペの謎を解く」(田守育啓)大修館書店

2012-04-18 19:30:08 | 読書無限
 どっどどどどうど どどうど どどう
 青いくるみも吹きとばせ
 すっぱいかりんもふきとばせ
 どっどどどどうど どどうど どどう 
「風の又三郎」の冒頭、人口に膾炙されたオノマトペです。熟さず、まだ枝にしっかりついている果実を吹き飛ばすほどの激しい風を、即座に連想させる、又三郎の登場の場面。リズミカルで口ずさみたくなります。このように宮沢賢治の作品には、いたるところでオノマトペが絶妙に用いられているのは周知のこと。擬声語、擬態語、擬情語。見事に作品の中に取り込まれています。
 筆者は、言語学専攻。主にオノマトペに関する研究をしている方。その立場から宮沢賢治ワールドに挑戦した書です。
 日本語は、英語などのヨーロッパ言語に比べると、オノマトペに富んだ言語だと言われます。感覚的、情緒的ですが、もっとも主観的でありながら、それを聞く人に読む人に表現をより豊かに伝える(ある種の共感を呼ぶ)働きを持っています。
 表現上の言葉の「あや」というものを超えた訴えかけを人に与える(時には、人間の言語を操れない動物たちにも)ものがあるようです。文書作法上の「修辞法・レトリック」というような括りを超える不思議な魅力。「公」の文書にはほとんど用いられない表現で、まさに「個」的な表現だからでしょうか。
 宮沢賢治は、そうした日本語特有のオノマトペを自在に創作し表現できた人であることを、筆者はそのオノマトペに一つ一つ当たりながら分析し法則を探っています。「言語論」はすぐれて「構造論」でもあるという実践的な立場が、明確です。
 ・別の子音に変えるとーツェ鼠はプイッと中に入って、むちゃむちゃと半ぺんをたべて・・・
 ・「い」を「え」に変えるとージョバンニは、しばらく蛍のように、ぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました。
 わずか二つの例をあげましたが、他にも、宮沢作品について微々入り細に入り分析し、さらに、森羅万象、宮沢賢治の五感(官)によって表現される、不思議な独自のオノマトペの世界に迫っています。心の動きの一例としてある「もう誰だって胸中からもくもく湧いてくるうれしさに笑い出さないではいられない・・・」などには、なるほどと宮沢賢治の表現に同化してしまいそうです。
 もう20年以上前、高校演劇、「銀河鉄道の夜」を元とした構成劇で、背景音・効果音をすべて役者みんなの声(オノマトペ)で行うという試みを観たことがあります。軽便鉄道の汽車の響き「ホー、フツフツ、ホー、フツフツ」たしかこんなオノマトペがあったと思います。 
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読書「ぐずぐずの理由」(鷲田清一)角川新書

2012-04-17 18:50:49 | 読書無限
 オノマトペの話です。日本では、擬態語、擬声語、擬音語というように分類されていますが、ドイツ語では「音の絵」と訳される(言い得て妙な訳です)「オノマトペ」。多くの場合、表題のように「ぐずぐず」とか「ねちねち」とかのように畳語で表現される、そういう言葉が数多く取り上げられ、分類され、言語学的、身体論的、文化論的に探求されていきます。
 まさに心身の表現・表意そのものが、言語文化であることを思い知らされます。特に、この書では「擬情語」(感情表現を擬することば)が主として扱われている印象。それは、これがオノマトペなのと読者に疑問を起こさせ、読み進むうちになるほどと納得させられる仕組み・構成になっています。「鷲田」哲学・現象学の真骨頂という感じです。
 擬声語は何となく分かりやすく、「ゆらゆら」とか「なよなよ」「にやにや」とかは、擬態語あるいは擬情語と捉えられますが、「ぎりぎり」「ちぐはぐ」になると、擬態語、擬声語の範疇ともいえず・・・。
 そこに、音声としてのことばと身体、感情表現との微妙な絡み合い、「意味の内と外」という表現で、音声とことばとの差異、ことばは対象を指示するたんなる記号・信号ではないこと、ことばの持つ根源的な身体性、さらには可変性へと・・・、このあたりはソシュール言語学、記号論にもなりますが、実は鷲田さん、ソシュールの「ソ」の字も登場させずに、ひもといていきます。
 これでもかこれでもかと「ことば」を登場させ論証しながら、言語として音声化される以前の(ひらがな、カタカナあるいは漢字として表記される以前の)人間の「魂」にさわるところでオノマトペが声を上げる。そのように言って見たい気がする、と。存在感覚の「叫び」として
「今、ここに、こうして、こういう想いで在る」、また他者に想いを共有(分かってほしい)、あるいは非共有させるれるものが、オノマトペだ。・・・他者同士、人間理解のための「腑に落ちる」解を、人はオノマトペによって探っているのかもしれない、一方で深い「納得」と一方で軽い「遊び」つまりは意味の彼方への気ままな飛翔。そういうまじめさと遊びが共在しているのが、オノマトペという、言葉の作法(この「作法」という表現はなかなか蘊蓄のある表現ですが)なのだろう。と。
 ついでに、筆者が取り上げた、車谷長吉の作品の一部を紹介します。

 「むっつり」
  かの人は、げっそり、ぱったり、あっさり、うっかり、かっきり、かっせり、でっぷり、めっきり、がっかり、さっぱり、(中略・・・次々とオノマトペが登場します。)
 しんみり、たっぷり、むっつり、人のふところで、めし喰うた。(車谷長吉『業柱抱き』より)
 
 ぜひ、車谷さんの作品に当たってみて下さい。
 この書に触発されて読んだのが、『賢治オノマトペの謎を解く』(田守育啓)。今度取り上げてみます。

我が家の裏庭に咲いたスミレの花。一時期、すっかり枯れてしまったようでしたが、久々の復活です。
こちらは、軽井沢に出かけた方からもらったもの。色合いが我が家のものとは違います。
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久々の帯広。まだまだ残雪。

2012-04-16 18:43:08 | つかのまの旅人
 15日(日曜)。8年ぶりの帯広。14日は霧が深くて帯広空港には着陸できなかった、とか。15日。アナウンス、「引き返すか、新千歳に向かいます。」新千歳なら何とか列車で行けるだろうが・・・。前日、羽田で泊まり込んだ旅行客もいたようす。東京上空は晴れて仙台上空も晴れ、北海道に近づくと、次第に雲一面。アナウンス「視界500㍍以上なので、着陸態勢に入ります。」窓の外は深い霧。視界が開けたのは滑走路に着地してからのことでした。やれやれ、なんとか降りられた。
 気温は、3度。確かに寒い。滑走路以外はまだまだ雪の塊が残っています。迎えの方によれば、春先にはよくある、とのこと。雪解けの暖かさで、除雪し茶色い畑地のあちこちからは、もうもうと湯気が上がっています。春霞といえば、風情があるが、交通機関に影響となるとそうも言ってられない。でも、さすが北海道十勝平野。日高連峰を東に広大な大地が広がっています。そういえば、ここは、「新党大地・真民主」の地盤。石川さんのポスターも、ここかしこに貼られています。
 17万都市といっても、駅前などは、なんだか閑散とした雰囲気でしたが。碁盤の目のように区画された町並み。道路。100年以上、昔の開拓時代のままでしょうか。道の端には、「開拓百周年記念」などと記された碑が車窓越しに見えました。
 陽が落ちると、寒さも急に襲ってきて、手先が痛くなるほど。このあたりの「銭湯」はどこも温泉だということで、ホテルから歩いて15分ほどのところへ。茶色いお湯の、お肌がすべすべになるような感じ。でも、帰りは、寒くて凍えるようでした。そこで、おいしいと評判のラーメン屋さんに立ち寄って。客は、一人。若い店長さんと四方山話で盛り上がりました。
空港正面。午前10時。気温3度。
どこまでもまっすぐな道路。ほぼ東西南北。
交差点には、信号機がやたら目につく。吹雪く日などは、危険がいっぱい。晴れても、交差点内、お互いが飛ばし過ぎて危ない、危ない。
道ばたには、雪がまだまだ。
駐車場の一角。
アサヒ湯。銭湯の一つ。
白樺林。
飛行場。
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読書「魔法のチョーク」(安部公房)ー百年文庫『壁』所収ー

2012-04-14 16:19:29 | 読書無限
 百年文庫「壁」の中に安部公房の短編が収録されています。題して「魔法のチョーク」。飢えの中で、壁に描いた絵が実体となる不思議な赤いチョークをふと手にした貧乏な青年画家。三メートル四方の小さな借り部屋を現実世界から封鎖し、それまでの己に全く満たされかった食欲・所有欲・性欲・・・、欲望のままに、食べ物、ベッド、お金、そして美しい女性(イブ)など次々と描き、我が物とするが、イブによって最後に壁に描かれたピストルで撃たれ、ついには壁に同化してしていく。壁の中で「世界をつくりかえるのは、チョークではない」と涙とともに呟きます。
 安部公房。生前、ノーベル文学賞に一番近いと世界から評価され、前衛的な手法で、小説から戯曲まで幅広い創作活動を行っています。「砂の女」「他人の顔」「燃え尽きた地図」などは、映画化されて(監督は、いずれも勅使河原宏)、中でも、「砂の女」の女主人公役はたしか岸田今日子。壮烈な印象を受けた記憶があります。
 この作品は、ずばり「壁」という作品集に収められていて、「S・カルマ氏の犯罪」「バベルの塔の狸」「赤い繭」の三部構成のうちの「赤い繭」中での連作の一つとなっています。この場合、「赤い」色のチョークが、キーワード。「赤い」「繭」では、「赤」は、夕焼け色として、安らかな眠りも訪れなければ、活動すべき朝もやってこない、復活なき人生を暗示していました。ここでも、壁と一体化した主人公には現実世界には戻れないことを意味しているようです。最期の一言は、発表当時の1950(昭和25)年、敗戦後5年まだ飢え凍える人々が多くいる世相、一方で、朝鮮戦争勃発という当時の国際・政治情勢を言い表したものでしょう。
 ところで、「安部公房全作品」全14巻が、新潮社から昭和40年代後半に出版されました(価は700円)。当時、配本されるたびに、興味深く読み進めたものでした。まだ書棚に置かれています。
 
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またしても今日のひとこと

2012-04-13 08:23:19 | つぶやき
石原新党「白紙に戻す」 早期結党は見送り(朝日新聞) - goo ニュース
立ちくらみ。
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読書「壁」「青」(百年文庫)ポプラ社

2012-04-12 23:19:57 | 読書無限
久々に「百年文庫」のうちから二冊。どちらも日本人作家が1名ずつでそれぞれ2名は外国人作家。「壁」に所収のカミュは親しみがあたっが、あとの三人は馴染みがない作家(4人は、ギリシャ、デンマーク、イタリア、フランスとそれぞれの国で一時代を築いた。ノベル文学賞を貰うほどの作家なのだが、読んだこともなかった)たち。こういう短編アンソロジーだとたやすく読めるのでありがたい。それが狙いの「百年文庫」ではあるのだが。「壁」「青」という括りは、見事に当てはまっている。
 特に、「麦藁帽子」。堀辰雄の小説技法には、今も新鮮な感動を与えてくれる。「青」の中の一編。「青」い性という趣。ホモセクシャルな味わいもあって(堀には、そういう類の作品も・・・)面白い。「幼年時代」から「青年前期」の異性への微妙な距離感がうまく描かれている。ひ弱だったと自負する(ある意味女性的な)少年が青年へと心身(むしろ肉体的に)の変化をうまく描いている。麦藁帽子の独特の色と匂いに醸し出される「性」「異性」。
 ところで、堀辰雄は、東京府立第三中学校(現在の都立両国高校)卒。先輩に芥川龍之介がいて、文学の師とも仰いだ。その堀に師事したのが、詩人の立原道造。この人も府立三中の出身(堀の後輩に当たる)。隅田川左岸にある隅田公園の東側に住んでいた。
 ということで、今回は旧居付近の写真を掲載します。小説の読みとはまったく関係ないのが、邪道ですが。
隅田公園の東側の通り。関東大震災、東京大空襲でこのあたりは壊滅的な状況に陥った。堀辰雄もこの小説の中で、関東大震災の時の避難の際、幼馴染の少女(すでに大人なびた)との邂逅を描いている(ちょっとした性的体験を交えて)。
公園を隔てた通りの向こうのマンションが旧居跡。
その辺からの隅田公園。もちろん堀の少年時代の様子とは全く違います。
 隅田公園は、関東大震災の後、震災復興として、近世以来の名所であった隅田川河畔の桜堤と旧水戸藩邸の日本庭園を取り込み、和洋折衷の大規模な公園となった。水戸藩邸にあった池などを再現し、庭園風の趣ある近代的な公園だったが、戦後の改修で開園当時の面影はほとんど失われ、門柱などにかろうじて当時の遺構を残すのみとなっています。
門柱と門柱との間から遠くに見えるスカイツリー。

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誰でも思いつく、今日のひとこと

2012-04-11 12:03:14 | つぶやき
「イランに行って良かった」鳩山氏に国会招致も(読売新聞) - goo ニュース
 イランことをして。
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読書「国民の天皇ー戦後日本の民主主義と天皇制ー」(ケネス・ルホフ)岩波現代文庫

2012-04-10 20:16:12 | 読書無限
 手術後の天皇の健康状態、さらには、皇太子一家、弟宮一家の動向など、皇室をめぐる話題は尽きない。マスコミから流れる情報(時には宮内庁から、あるいは別のルートから)は、週刊誌にとどまらず、一段とかまびすしい。
 現天皇の即位後、すでに24年。昭和天皇時代が遠く去る中(戦前・戦後という区分け、戦前の天皇制、戦争責任などが話題に乗らなくなった)で、今や世間でよくありがちな「嫁姑」関係にまつわる問題、親子関係、個人の尊厳に係わること、公・私の立て分け、「皇室典範」問題等々。これらに対して、一般国民はどのように思っているか、どう行く末を見つめているか・・・。
 一部の保守的な政治家や識者たちの思惑を超えて、国民の意識の中にある現在の天皇一家の姿。「日本国憲法」に定められた戦後の「象徴」天皇制のあり方にまで、議論が及ぶことになりかねない現状だと思うが、誰も触れようとはしない(と見える)。いっときほどの話題性・現実性に乏しいというのが本当のところ。あえて触れないのか。
 この書は、2001年にアメリカで刊行された「The People'Emperor」の日本語版として2003年に出版され、2009年に「岩波現代文庫」に収められたもの。初版からすでに10年近く経っているが、内容的には大変興味深い分析となっている。
 ともすれば、天皇(制)に係わる論考は、時には左右の対立(歴史観の相違)によるイデオロギー的なものか、反対に脱イデオロギーの皇室礼賛的な感情移入の甚だしいものになりがち。その点で、1966年生まれ、新進気鋭の外国人(英語圏)学者によって書かれたことが、かえって読者に先入観なしの「天皇像」を導き出してくれている。
 政治家や宮中側近の日記、週刊誌、さまざまな刊行物などによく目を通して、それらの言動を詳しく分析し、一切の先入観を排して天皇像(戦後、日本国民がどのように象徴天皇制度の中の天皇及び皇太子達の姿を受容していったか)を明らかにしていく。特に興味深いのは、60年代から70年代にかけての戦後の転換期(安保闘争、高度経済成長、革新知事などの進出・・・)に、右派政治家・評論家たちが国家的な危機感を持ちつつ、戦前の天皇制文化を復活させていこうとする(その中での挫折も含めて)動きが詳細に描かれていることだ。中でも、現憲法の象徴天皇の姿こそ、本来の(古来からの)天皇像のあり方だ、と主張していく流れの中で、生粋の保守派は、今の天皇(当時の皇太子)の姿を苦々しく思っていたことなど詳らかにしていく。
 現天皇と皇后の婚約から結婚、出産、育児とその過程のたびに、多くの国民に好意的に受け入れれてきた天皇一家。一方で、国家との関係において、戦前と戦後との断絶はなかった父君・昭和天皇の実像。
 戦前と変わらぬ政治家の「内奏」問題、外国の君主制(特にイギリス王室)との比較、など丹念な資料分析は読み応えがある。今だからこそ改めて考えさせられる「天皇」像であった。
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4月9日。入学式。

2012-04-09 18:50:33 | つぶやき
 4月9日。都内の多くの公立中学校、高校では、入学式。
 入学式・卒業式のみでなく、創立周年記念式典などの際には、「国歌の起立斉唱」の職務命令が出され、壇上の日の丸に向かって起立斉唱せよ、そして、着席するイスまで指定された(背もたれには、番号の書かれた紙が付されている)。いなければもちろん、違反。こうして、東京では、多くの不起立、不列席者に処分が出された。
 今年の卒業式。橋下イズム信奉者が校長の府立高校では、職務命令に従って斉唱したかどうか口元の動きまで監視した。その管理職は壇上の国旗に正対せず、歌わず、職員の方をじっと見ていた、とか。
 東京都教育委員会では、教職員に対しての指導が行き届いた結果、処分者(違反者)が激減した、と自画自賛。
 もちろん徹底した指導の成果でもあるだろうが、学校によっては、担任ではそうもいかないが、不起立しそうな人には、受付、警備、記録、音響等、式場内に入らない、入っても動ける仕事を任せる、そういう要員数を多くしている。さすがに有給休暇は公には認めないだろうが。
 橋下さんじゃ、由々しきなれ合いだと激怒するはずだが、ことが穏便に済めば、それでけっこう。・・・。
 春本番。そうした大人たちの思惑絡みの「から騒ぎ」(一面ではしごく重たい雰囲気の)を尻目に、初々しい入学生の新しい門出。久々に今年は満開の桜が暖かく見守っている。「花に嵐」のたとえのように、すぐまた前途多難な世界が待っているには、違いないが、せめて、晴れの日くらいはお互いに大目に見てあげたいものです。そして、明日は、「仏滅」。 
中学校と高校と並んで入学式。そのお隣の小学校。6日に入学式を終えたばかりの1年生が、先生に引率されて集団で下校する姿も。
公団住宅の桜も満開。樹の下で、ご老人たちの語らいが。
サトザクラの一種の「スルガダイニオイ(駿河台匂)」。
薄緑色の葉の間に白い花が咲く。ソメイヨシノよりも、好感が持てる。
ミツマタ。葉よりも先に花が咲く。枝先が三つに分かれる。
何という名の木か、びっしりと小さな紫色の花を一面に。
カラスノエンドウ。赤紫色がいい。
これは、タチイヌノフグリ。あまり目立たない花。
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